哲学の道と桜– 吾は行く

 

まだ五分咲き・・三分咲きかな?うちの近所の桜並木。

桜を見ていたら思い出しました。京都の哲学の道。

歩いたのはもうずっと昔ですが・・・短大を卒業した春なので、25〜6年前になりますか。。短大の卒業記念に母と出かけた京都旅行でのことでした。近くに泊まったのでガイドブックに導かれて出掛けて行って、何となく花曇り、寒々とした空だったような記憶が蘇ります。

当時は、留学や四年制大学への編入を資金的に諦めて、向いてないと知りながらイヤイヤ企業への就職が決まり、新入社員研修を目前にして逃亡したいような気分で過ごしていた時でした。更に、学友の多くがヨーロッパなどに卒業旅行に向かう中、これまた資金的に諦めて(苦学生だったので)、母と京都へ。ただ、この旅で琵琶湖を望む比叡山からの風景との衝撃的な出会い(過去生の記憶)や、仏像の魅力に開眼したり、続く20歳からの奈良大和路への一人旅、日本古代への探求が生まれて行くきっかけとなった、ターニングポイントの旅となりました。

そんな、モヤモヤした若い娘としての心情を抱えた中で不意に歩いた哲学の道で、あの有名な言葉に出会いました。

「人は人 吾はわれなり とにかくに われ行く道を われ行くなり」 西田幾太郎

高校時代で既に、自分の感性や思考回路が人と違うと気づく事が多く、世の中の、あるいは同じ世代の人々との価値観や見えている世界の違い、というものは十分に自覚していて・・それを自分の場合は学問や思想から、乗り越えて行こうと考えていた短大時代。それでも、アカデミズムの世界に進むことが叶わず、現実の壁に四方から囲まれているような苦しい時期。

自分に言い聞かせてはいたものの、人に・・それも(当時の私はどなたであるかも分からなかったけれど)偉い哲学者の先生の言葉として、刻まれた碑文と出会って、ありがたや、苦悶しながらの巡礼の先で神仏の姿を観照したかのように、感動と興奮でテンションが上がりました。それを見た母は、つくづく不思議な娘だなと思ったそうです。

その後・・本当に本当に、「われ行く道を われ行くなり」で、生きて来ました。

いつしか、他者からのリアクションが気にならないというよりも、気にしなくて良い現実の層の中で生きていて。いろいろ段階がありましたが、若い自分にとっては巨大な壁であったことが、いつしか壁は壁でなくなり、問題でさえなくなり。

人と違うように考えることは自分のむしろ財産であり、自分が決めた、自分で見つけた道を歩んでいられることは普通に呼吸をして生きていられるための不可欠な要素となり。その結果、人が得られるものを得られない要素があったとしても、そこには何の未練もない。から、人を羨むこともない。

これは私にとって空気のような要素だけれど、・・まだ、そこを突破できていない人々は多いのだろうな、と、サロンをして来て思います。考え方のコツをお話しし、結構一生懸命に説明をし続けるのですが(セッションで通っている方々など)、変容の良いところまで来たとしても、「自分」よりも「そこにあるもの」=世間の価値観 にヒュっと戻って行く方も多い。

人と違う、奇抜なことをしようという意味ではなくて。何を言われても、自分の魂が決めて来た道を行くのだ・・というところに、乗れない、乗り切れない人が非常に多い。そんな時、「私は私なりに、周りの人たちに少しでも光を配れたらと・・」というようなセリフもとてもよく聞きます。それはそうなのです。それはもちろんなのです。でもその先に、何かあったのでは?それを見つけかけて、掴もうとしていたところだったのでは? と、いつも思う。

けれど・・・時代はどうやら、変わり始めました。ワンネスとか、ホリスティックとか、全体へ、調和へ、という流れは必ずやって来ますが、そこに至るには、ある程度、個々のパーソナリティが目覚めなくてはならないのです。ある程度の質への高まり、魂つまり高次我に火が灯るからこその調和の時代へ、進んでいかないことであらう。。そうなると、日本人が苦手な「自分の頭でちゃんと考える」「それを行動に移す」という要素が、求められる時代であるとも、言えると思います。

日本は湿度が高くて、インド思想でいう「タマス」(怠性)のエネルギーが強いのだろうな。また、レムリア的グラマーが低い波動で作用してきた。

西田幾太郎は世界的にも引用されるような哲学の大家で、京都の琵琶湖疏水のほとりを散歩していたことから、当地が「哲学の道」と呼ばれています。

西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。

郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。

最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。

Wikipedia:   https://ja.wikipedia.org/wiki/西田幾多郎

『我々の人格が失われ行く過去をかき集めて現在の一点を突破するところに、

真の直観というものがあるのである』(「哲学の根本問題・形而上学序論」)

宗教的すぎて哲学ではない・・なんていう批判もあった西田哲学。けれど、個人的にはとても好きです– 『〜らしくない』

そういうタイプの学者の先生や、門外漢だったり、在野の人々が新しい目、斬新な意識で固まった世界に新たな風を吹き込んで、抵抗されながらもそのうちに、時代の潮流に押されて、いつしか本流に少なからぬ影響を与える、またはそれ自体が本流となっていく・・・というのは、珍しいことではないですよネ。

いつの世も、どの世界でも、新しいものは抵抗を受ける。けれど、封殺され得ない強い力を持っていれば、必ず流れは拡大して行く。そんなことの繰り返しが、人類をここまで持ち上げて来たのだろうな・・と、桜を見上げた散歩道、私も哲学を気取って歩いていた今日でした。それに、西田哲学の強いところは、ご本人が禅の実践者であった、つまり思考活動だけではなく、実践から導き出された言葉であり発想であったというところ。やはりどんな分野でも、それはとても大事なところです。

Love and Grace

常に軽んじない人

思想や歴史はかれこれ、15歳くらいからずっと好きで、もう30年になって・・しまいます・・・その中で、常にぐるぐると移転する興味のフォーカスが、ここ最近は哲学に当たっています。どちらかというと東洋哲学。インド思想、仏教も含め。そう、仏教は元々は哲学なのですよネ。シャカが亡くなったのち、数百年をかけて宗教になっていく。古代のインドは、ギリシャの哲学者たちも敬意を抱くほどの哲学の国でした。

『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(白い蓮のようにもっとも優れた真実の教え)という経典(スートラ)(日本では『法華経』)の中に出てくるサダーパリブータ、と呼ばれた人のお話について。。。19〜29歳の頃、訳あって仏教徒をしていた私ですが、当時毎日のように読み上げていた経典の中で、特に好きで、印象的だったのがこの逸話。日本語訳の法華経では「常不軽(じょうふきょう)菩薩」と訳されているこの人は、ブッダの前世の一つだそうです。

出家者ではあったけれど、特にこれといった学びはせず、聖典も読まず、人に教理を教えることもせず、ただいつも、誰も彼もに近づいていって、「私はあなたを軽んじません。あなたは菩薩行を修行しなさい。いつか仏として成仏するでしょう」と、ひたすら言い続けていたそうです。聞かれてもいないのに急に近づいてきてそんなことを言われると、どうなるでしょう?・・・殆どの人が腹を立てたり、嫌悪感を生じて、罵り、時には石を投げつけたりと。特に、自らが仏道を学び、ある程度のレベルに達しているとプライドを持っている僧たちほど、「なんだよ、お前は」ということになる。

打たれたり、罵られたりしても、その人は同じことを続け、やがて「常不軽」という渾名を付けられちゃったそうです。そして人生が終わろうとする時、空から神々しい音がやってきて、白い蓮華の教えが自分に入ってきたと同時に、六根清浄、つまり五感と体の浄化が一気に起きて、完全に清らかな能力を身につけた。。それを生かして自ら神力を使うことが出来るようになり、寿命を伸ばして、天から授かったスートラを説く、ということをその後の長い長い年月、成し遂げた。

ざざっと略説するとそんなストーリー。若い頃の私、読経していて意味の分からないものが多い中で、この常不軽さんの、どこか愚鈍な一途さ、どこまで真面目なのか、もしかしたらユーモアなのか?というなんとも言えない妙なるキャラクターに、面白さを感じていました。最近「意識の学校」や個人的な読書のなかで改めて『法華経』を紐解いたらば、やはりこの話に惹かれました。植木雅俊氏による現代語訳『法華経』(岩波書店)では、法華経の20番目に配置されているこの話のタイトルが、次のようになっていました。

常に軽んじない(のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には軽んじられないものとなる)菩薩

常に誰のことも軽んじること・偏見を持つことなく、全ての人に「あなたは仏です」と言い続けることで、「なんだお前、俺をバカにしているのか」と思われ、本人は罵倒され軽んじられることになる・・けれど、人生を通じてそれを自身の修行としてやり続けたことで、結局は直接、宇宙から教えが降りて来て、そのチャネルとなり、超人的に長生きをし、教えを説いて・・かつて自身を罵っていた人々は一度、仏に会えないような世界に堕ちてしまっていたものの、再び巡り会い(それもある種の前世からのご縁なのでしょうね)常不軽の教えを聞いて、救われたという話。

思うのは、何をやったか(修行や学問的な学びなど)ではなく、心、それだけなんだなと。逆に言えば、本来は修行や学びは、心を作っていくためのもの。それを、履き違えてしまうような僧たち、バラモンたちも多いのでしょう。そこへの戒めのような性質の逸話かもしれないけれど、なんとも爽やかで、私は好きなのです。

どうしても硬く偏狭になってしまいがちな人間の頭や心。そんな常識の中で、囚われずにひとり淡々と、自分が決めたコンセプトと行動を守り通す。そのような人が報われて、菩薩になるのだという伸びやかな教えは、ホっとさせられます。

それと、死が近づいた時に常不軽に起きたことが、天から降りてきたロータスの教えのチャネルになることと同時に、六根清浄という、人間としてのあらゆる感覚と肉体のクリアリングであったという点も、良いなと思います。特別な能力、神通力を身につけるというのは、古代インドの修行者の間でも流行っていた?らしいのですが、「そんなもの身につけてどうする?大事なのは煩悩にとらわれない心だよ」と気づくことが大事、これはシャカの哲学の根幹だったようです。

心を作っていく。それは何かを身につけて装飾していくことではなく、いらないものを削ぎ落としていくこと。その道程で、苦しみが消えていき、本来の自己意識、煩悩にとらわれない高い自己へと合一していく。。。

今を生きる、出家者ではない私たちにとっては、日々の生活こそが、心を作っていくための修行の場、ですね。自分は勉強好きですが、なぜかというと人間のことが色々とまた見えて来たり、人間たちが生きているこの世界が何なのか、人間とは何なのかが、また少しずつ分かるようになる、その感動が好きなのです。学ぶことは、私にとっては、体験です。それも伝えていきたいと思う今日この頃。

と、まるでお寺の説法のような内容になってしまいました。ついつい・・「仏教はフィロソフィー(哲学)」というカテゴリーを今回から作ってしまいましたが、西洋哲学や、さまざまな思想、歴史、芸術、なども語っていきたいと思います。

Love and Gratitude,

Amari

始まりもなく、終わりもない

最近、娘と話していて、「宇宙には終わりがあるんだよね、終わりがない・・ってことは有り得ないもんね」と言われて・・・「いや、終わりが無いってことだって、あるんだよね、きっと」と、遠い目をして呟いた私。

人間の思考できるレベルまで宇宙のあり方を下ろしてくると、終わりが無いはずない・・と、思ってしまいがちだけれど、きっと始まりとか終わりとか、それ自体が私たちが囚われている制限なのだろうと、思います。

始まりも終わりもなく、右も左も、上も下も、過去も未来もない。全てがそのように見えるように設定されているだけ。けれど、体験する必要があるから、今、ここに居る。

表層で物事を考えていると、世界や、自分自身や、生きることの本質は見えてこない。密度と、奥行きが大事なのでしょう。ヒーリングやエナジーワーク、メタフィジカルというのは、感情の暴走を抑えるだけではなく、思考が表層を抜け出していく勇気が出せるかどうかが、決め手のように思っています。

エネルギーの密度を調整し、それによって自分を健康に保てるか。そして、三次元よりももっと深く、縦にも横にも深層にも、空の領域にも、少しずつ自分の意識の回路が鋭敏になっていくと、この固まった世界、物質世界や二元法則を超えたところから響いている、実はずっと響き続けている、届き続けているサウンド、波長に、自分の脳波やセンサリーを、ひらいていくコツのようなものが、自然と掴める。

始まりもなく、終わりもない円環する宇宙。その中で無限大が無数に絡み合ったような構造、それゆえに終わることなく、延々とそれを巡っているような在り方を、本来はしているのではないか。けれど、直線で一方向の時間軸や、様々なお約束ごとを設定し、そのプログラミングの中で今は生きることになっている、ここに居る私たち。

けれど別次元には、別のプログラムを体験している私たちが居る。

そんな別のセルフに、時折、想いを重ねる・・・というより、意識を通わせる。ピコピコピコ・・・ そんな瞬間は、宇宙には終わりが無いこと、そもそも宇宙、そして私、世界、あなた、という分かたれた細胞壁は存在しないことを、全霊で「知る」ことができる。一瞬で終わるけれど。。そうじゃ無いと、こちらで生きる感覚がマネジメントできなくなるから(笑)

エナジーワークをしてくると、とにかく進んでいくのが「軽さ」

最初はあちこち調子が悪く痛みや持病的な要素を抱えていた肉体が解放される。その次は五感、感覚、気分レベル(エーテル体や神経システム)から、アストラルつまり感情の重さから解放され、思考の囚われが外れていく。さらに体は軽くなっていき、肉体の感覚が薄くなっていくような。

そうなればなったで、今度は重たい世界とのやりとりに難しさを感じたり、不具合を生じることもあります。けれど、それでまたコツを掴んで、平気になっていく。さらに軽さを増していくと、また調整が必要な時期が来る。その繰り返し。

人間の脊髄は、ちょうど八の字、つまり無限大を描くような形の神経回路があると何かで・・ヨーガ系の本かな?・・で読んだ記憶がありますが、私たちのシステムの中心にあるエネルギー軸「スシュムナー」ともおそらく関係しあっていて、八の字の螺旋を上がったり下がったりしながら、エネルギー的にも、メンタルや感情も含め、変化し続け、違う響きを奏で続けるのではないか・・とそれを読んだ時、感じました。

球体の中に、まずは大きな螺旋があって、その無限大の一つの中に、もっと小さい無限大が仕込まれている。宇宙の進化はその小さな無限大をめぐり、大きな無限大に進むと、またその中に小さな、さっきとはヴァージョンの違う無限大世界があって、そこを体験する、次はまた・・・と、フラクタル構造をしている無限大の果てしなき円環なのでは無いかしら

と、脊髄=無限大 から、「終わりはあるの?」の会話から、考えてみたりしました。確か神智学の、リードビーター系の情報だったかと思うのですが、無限大ではなく螺旋で、螺旋の中に螺旋、で延々と続くと書いてあったようにも思う。けれどなんとなく、単なる螺旋ではなく、螺旋状に動いていく「無限大」なのかな。。と。

奥行き、密度を持ちながら、軽くなり、空気のようになっていく。。。と、自我意識ではなく全体性の中に自分を感じるワンネス意識になりそうですね

随分飛躍してしまいました(笑)

Love and Gratitude,

Amari

青い石、青い光

2016年のドイツ、ミュンヘンショーから入っていたアルプス産のブルーフローライト。それも珍しいオーストリア産でした。小さな原石なのでサロンで少しずつ買って頂いたり、時にはプレゼントに差し上げたり、自分も気に入ったりして持ち帰るなどしているうちに、たくさんあったものが、残り1つになりました。リュミエールで展開し始めた「ブルーソーマ/アルクトゥルスの青いエナジー」チャージ用に、アルプスだからピッタリ!ということで、選ばれました。

ブルーソーマに、しっとりした質感のフローライト、もちろんブルーはとてもよく似合う。そして、アルプス水晶とタンザニア水晶をブルーソーマにしていくことに決めていたところでもあったので、アルプスのブルーフローライト・・・は相応しい。けれど、気付いた時には1つしか居なかった。。でも1つでも、居てくれて良かった。

軽い液体のようなブルーソーマのエナジーは、このところ私自身も本当に助けてもらうことが多い。液体のよう・・と言いつつも、地球にある水のような重さはなくて、もっと別の軽い何か。体の中心から、オーラの7層まで全て、自在に伸縮するように行き交わせることが出来ます。アルクトゥルスではないけれど、最近は夜空にシリウスが青く輝いていて、ついつい立ち止まり、ボ〜ッと見上げてしまう。それだけでも体の中に清らかな光が通るような、懐かしいような、心地よさ。

ソフィアの雫も、とても美しいみずみずしいポイント、中くらいサイズ(200g)を撮影したところです。リュミエールに近日載せますので、どうぞ覗いてください。

さて、アルガンザではレコンセクレーションの新ヴァージョン伝授セミナー、昨日は新しいスクール「エコール」第一弾の『プロテクション専科』と、大きなグループ講座が続きました。どちらも、この変容のエネルギーが脈動するスピードの速い時代の中で、大切なものを見失わないように、足元が見えなくなることのないように、地に足をつけながらもしっかりと自分軸を伸ばし、また太く頑丈にしていくことを、サポートする内容になったと思います。

大きなセミナーの前はエネルギー準備も自分に自動的に起きてくるので、無事に終えてホッとした所です。私はこのところ、講座やセミナーが前以上に、楽しいのです。そのための準備も、当日皆さんとその時間を作り上げて行くのも、楽しい。

エコール・・・は、新しく生まれ変わるアルガンザの主軸でもあります。

  • 卒業生・在学生向け講座や瞑想会:エコール・ド・アルガンザ
  • 新規の方がエナジーワークを1年で習得:インテンシブマスターコース
  • ジェネシスヒーリングTM プラクティショナー育成

これに加えて、もう1つ2つ、柱が増えると良いなと思っていて・・きっと何年かかかるのでしょう。形になってくると、見る人にはより、コンセプトが分かりやすくなって行くことと思います。まだ建設中・工事中という感じではありますが、そんな時期だからこその、同じようにこれからの事を考え、何かをクリエイトしていこうとしている人々で、「語り合う」機会も、6月のエコールに設けました。ビビッと来た方はぜひ、ご参加ください。久しぶりのイギリス式アフタヌーンティと瞑想会のセットです。

そして、このところの二つの大きなセミナーを終えて思ったことは、

大事なジェネシス伝授を、他のセミナーと同じような仕組みに編成しようかなという思いつき。今、3デイズと4デイズで構成され、イベント的に行っているのですが、私もスケジュール的に、体力?的にも厳しいながらも、3日続きでジェネシス光線の伝授をシリウス、リラ、アンドロメダ、アルクトゥルスと、ぎゅっと濃縮して提供する事で、その3デイズは別次元体験のような時間の共有となり、そこが大事と思って来ました。

が、ある意味不便なのですよネ、お子さんが小さい方の参加、遠方の方、お忙しくて3日はキープできない方にはハードルが高い。それでもご縁のある人は高次の采配があるだろうと思っては居ますが、今のところの変わり目のサロンの様子を見ていると、第一、第二世代の募集時のように「はい!」と一気に5名、6名が集まるというのは、少なくとも当面は難しいかな。。

ゆえに、他のワークの伝授と同じように「ジェネシスの伝授希望」という方がまずは声をかけて下さったら、レベル1〜7まで(今までの7デイズ)の日程を決めて、募集を出して、他に希望者がいなければマンツーマンでも行う、という形に組み替えて見るのも良いかな。。と思いました。それならば受けられる、希望する、という方がおられましたら、ご一報ください。テキストを事前に自習で全て読んで来てもらうなど工夫すれば、5〜6日くらいに短縮できるかもしれません。ならば、マンツーマンになった場合でもこちらも対応できるかな、と。けれどやっぱりもちろん、仲間が一緒の方が良いのはもちろんのことです。

ジェネシスのプラクティショナーさんたちは、毎年、年に一度かそれ以上、集まって会議?と、共同ワークをしたいと思っているので、伝授が万が一お一人でも、チームワークの心強さは体験出来るとも、思います。

一つの可能性として、まずは刻んでおきます。ご意見やご相談のある方はご遠慮なくです。

春に向かう雨が、多くなる季節ですね

ガーデニングがしたくなってウズウズしている私です^^

Love and Grace,

Amari

今のところは『メタフィジカル』

若い頃から好きな人物の一人が世阿弥。能楽も好きです。世阿弥が残した哲学とも言える思想の中に、「体用」(たいゆう)があります。元々は禅の言葉のようですが、世阿弥はそれを後に続く人々のための芸能論の中で語っています。

喩えるなら体は花で、用は匂い。花があるから良い香りがする。中身があるからその結果が生まれる。若い役者などは、名人の演技を見て「かっこいい!」と思うと、その技だけを真似ようとする。それはみっともないことである、用ではなく体を真似なさい、という戒めです。基本を積み重ね、やり尽くしたからこそ、名人たちは型を崩す、それがエネルギーを放って人を魅せる。

能の世界では、そのほかの世界もそうですが、「内弟子制度」で師匠と同じ屋根の下に住み、雑用をこなす下積み生活が数年。職人もそうですが、言葉による伝授ではなく、師匠の身近にあって、日々の佇まいや生活態度を通じて・・生き様を知ることで、多くを得て行きます。逆に言えば、言葉では伝授できないし、言葉にすることで「型」となって固まり、まだ未熟な弟子はいつでもそのメソッドの通りにやろうとする。

能楽はかつて野外で行われることが多く、その日の湿度や時間、天候や日差し、観客から伝わってくるもの、貴人の前で舞うのかそれとも市民の前で舞うのか・・などによって、名人ならばその「場」のエネルギーを読み、必要なことを感覚で即興することもできる。だからこそ、見る人に感動を与えるエネルギーがそこで生まれるのでしょう。だからこそ、言葉やメソッドではなく、その奥に流れているものを学ぶ必要がある。そのための方法として、師匠とともに暮らすというスタイルが現在でも続けられているのでしょう。

メタフィジカルに関しても、同じように感じて来ました。言いたいことは、日々の暮らしの中で、どのように生きるか。その人間力を身につける中で、レイキなどのワーク(=これが能でいう「型」にあたる)により得られる恩恵も、身について行く訳です。日々の生活すべてに、メタフィジカルで得られたものを浸透させて行く。生き様にして行く。そこで初めて、知識やメソッドが「生きた知恵」になる。「その場」のエネルギーを感じて読み取って、適切な判断が出来れば、どのような状況にも対処できるし、現実を自らクリエイトしていける。

これから、スピリチュアル=趣味 に変わる、生き様 としての何かが、いま一括りにされているところから、分岐して行くでしょう。今の所は「メタフィジカル」と呼んでおきます。

Love and Gratitude,

Amari