「前時代」としてのアトランティス

昨日の石巫女アースワーク専科クラスにて、鉱物の種類で取り上げたガーネット各種、ペリドット、ガブロ(ハンレイ岩の一種で石業界の流通名はミスティックメルリナイト)。インスタグラムにもサロン日記として綴りましたが、予想通り、肉体への癒しとチャージ効果が凄かった。それでいて、ライトボディの外側の層や、縦軸、アンタカラナにもエネルギーが通って行き、いつもながら色々なワークが各自に齎された気がする。。翌日の今日も、強めのエナジーワークを受けた後のような余波が続いている。

いつも二種類のワークをロフトで行っていて、こちらは2つ目の「土地グリッド」。地球上のどこかしらの土地にフォーカスし、当地の悠久の歴史を鉱物界を入り口にして体験しよう、というコーナー。今回は該当する石が少なく地味目な仕上がりだけれど「ギリシャとローマ」。2年前の1期目の石巫女でも取り上げたところ、その時はアトランティスの最末期と言える「ポセイディア」==いわゆるプラトンが書き残している、エーゲ界・地中海あたりにあったと思われる島、ないしは群島の「最後のアトランティス」==を体験していた。

今回、私の現在の個人的な探求がアトランティスに向かっている為、またサロンでもギリシャなどの話題が出ていたここ数日だったので、きっとまたポセイディア?それとも?・・と言いながらグリッドを組んでの瞑想に入ったところ、イタリアやギリシャの石を並べていることを瞑想の20分間、全く忘れてしまうほどに、ポセイディアでもアトランティスでもなかった。。。不思議なことに、別次元の天上界。どうやら、何となく中心点が欲しくて配置した、銀河系の創造の母なる源泉(アルガンザでいう「ディーザ」=Divine Mother)の象徴でもある、アンティークの真鍮の球体が、このグリッドの意味を表していたよう。

生徒さんたちとそれぞれが見た、体験した内容をシェアした結果、リラのディヴァインマザーのエネルギーを注入して、アンドロセラフによる光の幾何学が、アルクトゥルスのテクノロジーも導入して地球を創造している時・・創造の喜び、その世界の周波数の高さ・純粋さ、そして生まれた初期の地球の(物質体としてはドロドロの塊だったわけなので物質次元では勿論なく)「楽園」のような清々しさと優しい光に満ちた、どこまでも自由な世界。。。それを、体験していたような感じだった。

加えて、地球のロゴス意識の女性側面(これをアルガンザでは「白山姫」と呼んでいる)の、これまた現在のシリウスエネルギーではなく、前の地球(=リラのシステムで動いていた)の、ロゴス女神意識、つまりリラ系のそれ・・・が、切り替え後にもシリウスの女神意識ほどではなく圧倒的に少ないながらも、地球の各所に残り、特にレムリアや、アトランティスの途中までは、神殿や聖所のような形で守護されていた。そのエネルギーの脈の、様々な時代のあり方と、自分のソウルのご縁を、辿っているような体験もしていた。それを誘導する、シチリアのサルファー結晶たちの高い周波数がいつまでも余韻として、幸福感として、残るような体感だった。

地球儀も何気に配置して写真をとっていたのが、瞑想を終えて見ると、上記のように地球を創造しているセラフィムたちの目線の中に、リラのディヴァインマザーが、生徒さん曰く「太陽のように降りて来て地球に情報とエナジーを注いだ」ことを表していたのだろうと、後から気づいた。

地球のマントル層は、ペリドットの結晶から、ガーネットへと変わっていき、地球の中心部は白銀で虹色に輝く鉄の液体であるという。今回は(上写真)触れて体験する鉱物のコーナーではそのペリドットとガーネットを取り上げた訳だけれど、それぞれが地球の新しい層(シリウス)と、古層(リラ)を意味しているのではないか。。という仮説も、ジェネシスヒーリング伝授の場でも語っている。ガーネットがリラの時代を体現するというのはもう私の中では確信めいていて、一方で昨日の感触ではペリドットはシリウスというよりアンドロのセラフ層を感じさせた。どの地球、どの層の創造にもセラフたちの光は関わっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・

さてさて、アトランティス。

アルガンザのジェネシス概念では、アトランティスの時代設定は、神智学に言う「人種期」による分類に拠っているので、100万年という時間軸になる。そしてつい最近の、1万年ちょっと前まで存続している。アトランティスという時代を知れば知るほど、現在の1万年ほどの「有史の」時代が、それをミニチュア化してこの1万年期を駆け抜けて来ていることを感じる。今の、神智学でいう「アーリア人種期」がいつまで続くのか分からないけど、少なくとも物質界を住処とする人類の時代はこれから終わっていくと想像される。

ここからの話は、神智学を信じるならば、の前提で。時間の区切りも単位も、世界の量子的なあり方、エネルギーの存在密度によって尺度は幾らでも変わるのだろうし、数字としての予測は難しい。けれど、1万年のアーリア期を経たから、これから99万年の時間が私たちにある、と考えるのは愚かだと言える。

それに、100万年のアトランティス人種期の中で、地球全体が壊滅状態になるようなキャタストロフィー、大災害は4度起きているという。4度目が、よく言われる大洪水で、その時点ではすでにアトランティスは全盛期に比べてほんの一地域を残すのみ(上記の「ポセイディア」)だったという。100万年というのは、現在の私たちの物質的な密度から数えるとそういう時間に換算される、くらいの受け止め方が賢明だと考える。アトランティス期の始まり、つまり100万年前はまだ、人類がおそらくレムリアからの流れで半物質であり、いわゆるシェイプシフト状態であったし、それを自覚していたらしい。

物質になってみたり、また非物質に戻って見たりと・・制御が自由自在で、非物質の領域に「本体」があることを、自らちゃんと自覚していた。というかそれが「常識」であったところから、いつしか物質の世界に耽ってしまった。そして五次元領域に戻れなくなった。聖書でいう「楽園追放」。

そんな時代を経て、人類は物質体として生きる今のスタイルになった。ということを、つまり神智学レベルの知識を、普通に学校で歴史の授業で学べるようになる時代がいつか来るかな?

人類は物質界で生きること、おそらく性の刺激などに耽溺し、周波数を下げていくことで、神・つまりたった一つの宇宙の法則で調和しながら世界が存在するという領域へ、戻れなくなった。本来は出入り自由で、体験しながら学ぶ筈だったのかも知れない。

人類のディセンション(アセンションの反対)という選択ゆえに、地球に存在する本来の魂の本拠地、5次元との間に壁が生まれ、物質界で誕生するならば、5次元の記憶を全て失って物質体として生きることを甘受しなくてはならなくなった。けれど、自分が肉体的個人ではなく、魂であるという真実を思い出せる人々も居る。

アトランティスは4度の大災害に見舞われた。その全てが、知識や知恵の「誤用」によるという。そしてその誤用がどこから発生するかというと、様々な問題を掘り下げていくと、全ては「権力」「利己」「欲望」に通じていく。現在の戦争の理由と同じ。いつだって同じなのだ。ある文献では、その「誤用」の奥にある「利己」の問題が、そうではなく神の(あるいは宇宙の)自然秩序のもとで調和をしようという意識のある人々との間で、残念ながら戦いへと発展していく。利己的な意識の人々が、そうなると本来は恵みである、自然由来のパワーを(アトランティスは自然界から抽出したエネルギーで運営されていたよう)利己的な思想を守るべく、そうでない人々との戦いに向けていく。滅亡ギリギリまで追い詰められる原因は、常に、それしかない。

今を生きる私たちの間でも、全く同じことが起きつつある。「魂が人間なのだ」ということを、どれほどの人々が認識し、そのように生きようとしているだろう?スピリチュアルと言われる分野に居る人たちでさえ、自分が魂で、5次元意識で日々の全てを考え、行動し、生きていると言える人は少ないのでは?

自分たちが渦中に居ると、世界の有り様は見えにくいものだけれど、アトランティスに置き換えれば、自分が魂であると思って(そのように生きて)いる人々と、そうではなくここに居る人格が自分である と主張する人々の分離は明白で・・・数で言えば圧倒的に後者が多いのではないかと。壊滅を生み出す潮流と、同じことが既に起きていると思える。三次元や物質界に固執するという「自由意志」の行使が、どこに向かう原動力になっているかが・・視点を持ち上げれば、見えて来る筈だ。

心ある(真に高次と通じ、その目的で動いている)ライトワーカーたちは、故に少し焦っている。エゴセルフである自分の立場や仕事を守るために発言・活動している人々は、その逆のことを発信している筈だ。そして多くの人が、それに騙されている。けれどライトワーカーという自覚さえなくても、必要な仕事を推進し、時代の変換点を呼び起こそうとしている人々は沢山いる。

アルガンザのジェネシス概念では、主に6〜7億年前の地球から、魂の旅が始まっている。その時間軸に最近は頭が慣れてしまい、アトランティス文明はもう、いまの有史時代と地続きの一つの流れのように見えている。ゆえに、教訓がとても生々しい・・・個人的には、キャタストロフィーは破壊からの再生だから、創造の原理、創造の喜びの観点から言うと「悲しい」と感じる。出来れば破壊のないシフトで人類が、アトランティス(第四)人種期で学んだことを生かし、この第五人種時代を生きて行って欲しいと思っている。

Love and Grace,

Amari

人はどこまで恐れるのか–「 箱舟の7年」

最終年度としてのマスタークラス2つが始まった。土曜日、石巫女アースワーク専科でのアルプス水晶たちと、上は翌日曜日の、星巫女プロ専科コース、終了後の空。

——————————————–

普段はテレビをほとんど見ない我が家は、数年来、食事時にだけ「英語を聞いていたい」という理由で、主にイギリス英語を喋っているDVDを見るのが常。何度かブログに書いた「Game of Thrones」や「ダウントンアビー」(どちらも世界的大ヒットドラマ)が、1話の時間が食事時にちょうど良いのと、超大作なので連続して日常的に流す用途に向いているので、登場することが多く。

前者はアメリカのドラマとして知られている訳だけど、俳優陣や裏方の技術スタッフなどはイギリスが中心。伝統的に歴史物の製作技術がある故だろうし、そもそも監督や原作者にもこだわりがあるよう。架空の大陸ウェスタロスの7王国の攻防を描くドラマで、それぞれの国や地域の役柄により、俳優たちの起用、そこで話す訛りなどを、イギリス各地の訛りに置き換えて、配役しているのだとか。色々なイギリス英語を聴く、それをストーリーとともに楽しめる作品。

で、最近は「ダウントン」を見ていて・・思ったこと。百年前のイギリスの伯爵家を舞台に、使用人や伯爵一家(三人の娘とその配偶者たち)や周辺の人々の日常を描く群像劇。社会的地位や立場も様々で、世代も四世代に渡る。貴賎を問わず、保守的で伝統を重んじようとする人々と、貴族制が崩壊しつつある時代の気風を感じている人々、その両者の間でうまくバランスしている人も、様々。

連続ドラマ故に、これでもかと問題が起きていく。そして解決も起きていく。でもまた次の問題が・・と。或る意味で長編ドラマは一山超えて終わってしまう映画に比べて、人間についての学びのエッセンスがある。自分でも『ガイアナ神謡集』を有料メルマガで出していた十二年前、毎週毎週の配信なので、最後に「ええ?次はどうなるの?」という終わり方をしてみたりする、ドラマ製作者の気持ちを味わっていた(笑)。同作は本当に、連続ドラマ並みに問題、試練が次々と起こる。。。

その、問題を生み出す神?の目線になってみると、結局、トラブルを起こすものは何かというと、天災などを除くと、やはり誰かの恐れの作動による。一見恐れに見えないものも、核を探して行けば、結局は恐れの種がある。人間の本能が恐れを知ったときから、それは始まっている。

ドラマを観る側、小説を読む側(そして書く側も)としては、恐れがあるから人間界のドラマとは展開される訳で、その反動としての喜びや愛とともに綴ることで、人々が感動したり共鳴したりする。ドラマを成立させるためには、恐れとはある意味で人の本性として存在している。が、自分自身の身になって考えてみると、どうなのでしょう。アップダウンや連続して起きるトラブルなどなく、穏やかに突き抜けて存在していることも、この世界で可能。それを望んでいる人や、そこに押し出される、押し上げられる人々も居る。「ガイアナ」の主人公も、最終巻ではそこに抜けていく。もはや何が起きてどうなろうとも、動じない、内なる衝動として何も起こらないという自分が、出来上がっていく。

人はどこまで恐れるのか。。。翻弄され、喜びや感動とともに苦しみや葛藤や摩擦を味わいたいうちは、恐れ続けるのだろう。魂がまだ良しと言わないのか、パーソナリティがまだ、味わい足りないと思っているのか。「恐れは幻想である」と受け入れた瞬間から、世界は変わるものですが、恐れは幻想なんだということを、受け入れられない自分があるならば、そこは見つめてあげて、声を聞いてあげる必要がある。

先日の石巫女クラスの最中、生徒さんが持っていた石井ゆかりさんの「星ダイヤリー」に「宇宙船やノアの箱船に乗り込むような約7年のスタート」との文言があり、去年から何度か書いていた、神智学に言う2025年の第四光線(テーマは統合と調和)の到来に向けて、今年から7年間、その光線を受け入れるための準備が人類の側でも起きるのだろうということ、そしてアルガンザでは昨年3月に迎え入れた10キロのマスタークリスタルが「箱船」と名乗っていることとも通じ、皆で「わあ!」と驚いていたところ。ちなみに、今日、5月16日がその始まりのよう。。石井さんの著書やサイトを、更に見てみようかな。

そして私が思うのは、これからの7年の変容というのは、神智学の7のサイクルを考えると、一年ごとに7段階に別れているのではないかと思う。1年ずつ、振るわれていくような?箱船というのは、そういうことだろう。周波数で分けられていくような。。「高ければ良いという意味ではない」と言いたい所だけれど、宇宙は数字で動くので、やはり数値で道が別れて行く。これを言い換えると、「いかに恐れを削ぎ落とすか」ということに、なるのではないかと。

そうそう 恐れと言えば、4月半ばに面白い体験をして、そのうちに書こうと思っていたこと。用事までに時間が空いたので、ふらっと立寄った本屋さんで、何となくウロウロして立ち止まった場所で、光るように存在が目に入ったのが鏡リュウジさんの「・・座の君へ」シリーズの、なぜか水瓶座と双子座だけが、代表して2冊棚に並んでいる様子。で、前から知ってはいたものの、タイミングというか導きを感じて買おうと思いたち、横で娘が「私(双子座)はもう持ってる。ママが買ってくれた。」というので(笑!よく忘れるんです)、自分の水瓶座を買って、その後用事に出かけた。

とある場所で、呼ばれるのを待っている間、あまりにも「普通」と状況や様子が違うので、さすがの私も不安がよぎった。驚くほど恐れの反応が出て、身体が強張るほど。で、気をとり直して「さっき買った鏡さんの本でも読んでいよう」と、開いたページに出ていた言葉、

「水瓶座の人は迷ったとき、『変なもの』を選ぶとうまく行く」

と来た。一人でふっと笑いを漏らし、そうだったそうだったと、我に帰る。実はその施設を選ぶ時に、ネット検索をしていて、いかにもという感じの輝かしい風を醸し出している一見華やかに見えるところが沢山、並んでいて、「一般の人はこういうのを見てそのまま受け取るのだろうな」と達観しながら、自分はネットの仕組みや背後を色々と頭で巡らせ、本物で間違いないところを選ぼうといくつか検索の仕方を工夫し、最後にはオーナーさんの顔で決めるという、いつもやる方法で決めたのだった。

なのに、実際に行ってみると、そのオーナーさんのシステムが余りにも「前例がない」ものだったので、たじろいだ。自分で直観を働かせて選んだはずなのに、それも忘れて。鏡さんの本、ありがとう&うちのガイドたちは凄い。と笑いながら、待ち時間で一冊を読み終えると「多数決の反対を選ぶ」「組織じゃなくネットワークを作る」など、ちょうど自分が昨年から今年、改めて仕事のアイデンティティを模索していた中で、自分の個性という原点に立ち返りながら感じていたことと、気持ちよく合致。

あなたの水瓶のなかには、無限の発想が詰まっている。しかも、ただのひらめきじゃない。宇宙から地球を眺めるような客観性。ゼロから新しいものを作り上げるクリエイティビティ。最初は反対だった人をも惹きつけていくストーリー。

水瓶座が中心にいる世界は、フラットで自由だ。それぞれが自分なりの個性を大切にしながら、手を結び合うこともできる世界。変化は偶然、起きるんじゃない。あなたが、変えるんだ。

「なぜ?」「こんなのおかしい!」そのささやきを、言葉に、形にして。奇人変人? 宇宙人みたい? その通り。だけど、新しい世界の扉を開いて来たのは、奇人変人、宇宙人たちだ。

『水瓶座の君へ』(鏡リュウジ/サンクチュアリ出版)

ここ数ヶ月、まさに自分でも問い直し、確認し直したことでもあった。ウンウンと頷きながら、鏡先生に感謝。多分このシリーズは、どの星座においてもその本質を大事にしていれば大丈夫と、背中を押すようなコンセプトなのではないかな。

そしてその日の、誰もやっていないようなシステムで仕事をしているオーナーさんは、私が咄嗟に発動した恐れのフィルターを通しては「人と違っていてアヤシイ?」だったものが、そのフィルターを外して我にかえると、それなりに自分が選んだだけあって、「すごく風変わりだけど全責任を自分で背負って一人でやってのけている達人」であった。。そう、私がセレクトの指針にしたお顔といえば、やはりお坊さんのような空気。変わっている事を、変わっている事がやりにくい日本という土壌で、それもサービス業なのに、あえてリスクを引き受けて、自分が正しいと思うことを実践している。社会にはおかしな習慣や思い込みや盲点が沢山あり、恐らくそれを一切排除し、一見不器用なようで、結果としてうまく現実を示しているというケースなのだと思った。

私がそのように安心すると、さっきまで人気(ひとけ)がなく静まり返り、外の天気も悪くてどんより暗く、いかにも不安になるような空気だったのが、急に「人の紹介で」という客からの電話や、次のお客さんが次々と。そしてオーナーさんが慕われ尊敬されているのが伝わってくる空気に変わった。外の雨さえ上がってしまった。。。笑

人は恐れを見ようと思えば本当に、無いところにさも恐れの要素があるような現象化をしてしまう。もうあまり恐れることも日常的には無い自分も、この体験は象徴的で、学びの要素を感じて笑ってしまった。この直前に鏡さんの「水瓶座・・」を買っていたことも含め、よく出来ている演出だった。そのオーナーさんも水瓶座かもしれない。業界や、社会の常識がおかしいと思ったら、行動してしまう。ある意味、革命家なのだ。シュタイナー学校にも、確率として先生や親などに水瓶座が多めな気がしている。世間の常識にこだわっていたら、ああいう学校に、それもリスクもある中でわざわざ子供を入れない。。。

今日からスタートするという「箱舟の7年」が、神智学でいう2025年以後の人類の上昇孤の進化、調和的なあり方への社会の変容への準備として用意されているとすると(人類進化を影ながら管理している世界は、実はアストロロジーのプログラミングの『製作者』でもありますから・・)これまで私たちを縛り付けつつ、飼い慣らすことで安住させて来たシステムがどんどん崩れ、本質、個々の力が生きる世界へスライドしていくのでしょう。

意識やエネルギーの放つ周波数で、どの程度、その変容の波に乗れているかを、一年サイクルで分類分けして、7年後に向けて送る刺激を、セクションごとに実験的に変えていく、強めにする、どうにも目覚めなければ大地変などもありうるかも?と、進化の管理者たちは箱舟プロジェクトに着手しているのかもしれない・・・ただ、ここで乗れる乗れないと二つに振り分けられるのではなく、それぞれの箱舟に分類されるのではないか。そしてその軸になるのは「恐れの解放」による、意識指数の上昇であるのだろうと感じている。意識が低いと、第四光線は受け入れられないのだろうし、意識の進化を止めるのは、エゴの抵抗つまり恐れなのだから。

選択に迷った時、恐れからの行動を取っていると、「恐れ指数」の高い箱舟から降りることが出来ず、また違うところに居たのにそこに戻され、同じ恐れをさらに克服のために繰り返し見せられるのかも。。

「あなたの小ささからではなく、あなたの大きさから、行動しなさい」

これはヨーガ哲学の中で見た言葉だったかな。

そこが試される7年である、ということだ。毎年分類されるような感じがあるのは、やり直し、階層の選び直しも7年の猶予が与えられているということかもしれない。何れにせよ、100年に一度あるかないかの、人類進化のプロジェクトの今後の方向性に触れる、7年になりそうだ。

Love and Grace,

Amari

ロゴスとレンマ、二元と三元、からの無限。

読書していたら行き当たった「ロゴスとレンマ」。哲学概念で、簡単に言うと西洋的二元論が「ロゴス」、東洋的な三元論が「レンマ」という言葉で表される。三元論といっても、AとBとCということではなく、AとBの間の中間地点を、その真ん中に在る・・在るというよりも揺らいで漂っているAとBの関係性のようなエネルギーを重要視するのが、「レンマ的」であるということ・・なのかな?と自分なりに解釈。

これは、メタフィジカル&エソテリシズム(秘教)的な視点で言う、「レムリア」と「アトランティス」の拮抗からの受容と統合が今とこれから数年のテーマとして強調されるのではないか、と今年に入って感じていることと通じるな、と思った。

同時に、思い出したことがあって・・・まだヒーリングやメタフィジカルを始めていない、年代で言うと2001年〜2003年くらいの間のこと。娘が確か1歳の頃に初めて自分のホームページを作り、一人旅をしていた記録や、それにまつわる古代史や思想系のエッセイ、趣味で書いた論文などを載せていた。当時はブログというものさえまだ存在せず、掲示板・・に、同じ興味を持つ人々が互いに執筆物を読み合い、感想を書き込みしたり、という時代。その頃、私が発表していた古代史や思想や民俗学などで繋がっている方々は大抵が年配のおじさま・・で。

そんな、当時のネット仲間であるおじさまの一人が、「ロゴス」「レンマ」という言葉は使わないものの、西洋的な二元論に中国の思想的背景も含まれるが、何事も中国から文化が入って来ているにも関わらず、日本人の精神には三元論が土着として浸透している。そのルーツはインドである、と論を展開されていたのがとても興味深く、よく覚えているし、以来、ずっと私の中で「インドから中国を経由してやって来た文化は、中国ナイズされている筈なのに、なぜ日本人は自分たちの独自性を貫くことが出来たのか、何がそうさせたのか」というテーマは、日本という集合エネルギーを考える際に、常に頭の中に有った。

同じ構図は、新石器〜青銅器時代に対する鉄器時代、にも見られるし、分かりやすく言えば縄文(とそれと調和的に発展した出雲)に対する弥生、神話ではクニツカミとアマツカミと言ってもいいかもしれない。究極はレムリアとアトランティスであり、アルガンザのジェネシス概念では、レムリアに起きた予期せぬレムリア人種の「混迷」、アトランティスで起きた人類の自由意志による「堕落という選択」ゆえの一旦のリセット後の、大洪水後の今の文明期には、それらの要素を再び人類の中に両方とも発露させ、その拮抗を乗り越えて、自分たちが歴史的カルマを統合できるかどうかが試されている、と考える。

それは、ずっとず〜っと、テーマであり続ける訳だけれど、いよいよ社会レベル、個人レベルで魂に向けて突きつけられているのが、今とこれからなのだろうと。

少し角度を変えて更に気づいたのは、

このところ仏教やインド哲学を覗くことが多い中で、インドの当時すでに出来上がっていた伝統的バラモン哲学と、それに対する思想革命として生まれたシャカ(ブッダ)の哲学(後の仏教)は、この2元と3元のような構図で、対立していたのだということ。バラモン哲学では、究極的な絶対存在、宇宙の根源であるブラフマンがスタート地点としてあり、

創造の降下の中で、意識・アートマンが生まれる。それが肉体を持った人間を顕現させていて、いつか個我を超越し、根源の中へ回帰するという流れが大前提となる。が、シャカの思想は宇宙論を含まず、とにかく「今ここ」に在る我々、それも実体はなく、ただ互いに作用し合う関係性の中で全てが生まれては消えていく・・ゆえにカルマを滅して悟りを開くべし、ひたすら己の精神性の純度を上げていくことを重視している。

哲学の世界でいう「ロゴス(西)とレンマ(東)」のような思想的な構図は、同じインドの中でも正当バラモン哲学と、革命児であったシャカの新しい思想の関係性の中に見られる気がした。そもそも、我々とは何なのか、世界とは何なのか・・という出発点から始めるインド哲学に対し、シャカは始まりを自分・・一人の人間にした。

全ては関係性の中でたゆたう。関係し合うエネルギーとして、在るように「見えている」ものは、関係を様々に生み出して束縛し呪縛しているエネルギー(カルマ)さえ消えて行けば、いつか、在るように見えている状態、つまり存在の必要はなくなり、消えていく。・・・確かにそのようにも感じる。個人的な魂レベルの思想として、自分の中には何が刻まれているのだろう?今回改めて、考えてみた。

全体性への回帰、意識だと思っているものの消滅、これは間違いなく自分の中で「そうだ」と思っているようだ。おそらく過去生で知って来たことなのだろう、当然のようにそう思っている自分が奥にある。が、個としての個我がどこまで遡れるか・・これは神智学で言えば「モナド」ということになるが、モナドとはニューエイジでもよく聞く「ありてある我」のことである。

そんなことを考えて唸っている時、このような記述を見つけた。

中世の哲学者トマス・アクイナスについて

彼が存在を「在りて在るもの」と定義したのは、存在と本質とがそのものにおいて同一であることを表している。

存在が自己のうちに根拠をもつということは、他の何かに「因って/縁って」存在するのではなく、自らに「由って」あること、すなわち「自由」を意味する。その存在は、他の存在との因果や縁起によってではなく、「自己原因」(スピノザ)によって存在する。つまり、存在は存在するが故に存在する・・・

『あいだを開く レンマの地平』(木岡伸夫・世界思想社)

哲学って堂々巡りな気がする。。でも面白い。

そして自分なりの「存在論」について思い巡らせて見た。エナジーワーカ、ヒーラーとして、神智学でいう「神秘家」つまり感じて体験する方面を歩んで来たことが、こういう時には肌で知っていること、体感として、難しい思考を超越・中和するのに役に立つ。ジェネシスヒーリングの概念や、石巫女クラスで扱う地球史についても、常にそのような手法をとって、最後には「持論」を整理する試みをいつもしている。

インド哲学、シャカの哲学、そして神智学

モナド、アートマン、ブラフマン・・・

すると、全てが拮抗するものでもなく、同じ本質をただどう語るかにおいて、つまりフィルターが違うだけだと感じた。個我を超越し、意識は滅し、全体性の中に帰る。それが無であるか、愛や創造の源なのか、というだけのことだ。そのどちらでもいい。どちらでもあると思える。そして思想家は、その時代のニーズに答えようとする。それが魂が今世、持って来た意味でもあったりする。故にそれを精一杯、シャカもキリストも多くの哲学者も、生きようとするのだ。

いつもそういう意識が自分の中に在る。何も矛盾せず、ある意味で全てが矛盾してもいいと思っている。その奥に在るものを引き出すために、今、自分が何を出しておくか、ということ。存在の根拠は何か、という究極的な問いについては、ただそうであるとしか言えないのだろうし、宇宙の本質を「分からない」と感じる人間の意識は、それでこそ意味があるとも言える。分からないという役目を引き受けているのが、私たち、個々のアートマンなのではないか。。。

分からないという設定の中から、いろいろな在り方を思い巡らす。すると個我が生まれ、個我は世界を生み出し、現象界がフィールドされる。

・・・このところ、第六次元、第六オーラ層(アートマ体)にフォーカスしていくことになり(体験を通じて導かれ)、アトミックプリンシプル=アートマ原理とは何だ?と、考え事をしていたところだったけれど、ちょうど読書をしていた「ロゴスとレンマ」という全然別の入り口から、 何となく辿り着いたような気がしている。

そうそう、瞑想をしていたら、これまでの「5次元スペース」とは違う「6次元スペース」が急に開けて、その高性能・ハイテクノロジーに驚いたと同時に、これまでもちょいちょい、そのシステムはシリウス系やアルク系のワークで必要に応じて開けていたな。。と気づく。よほどにアピールされないと、真面目にアナログに律儀にやり続けるという変なローテク精神がある私。去年の4月に「7次元」というキーワードを受け取りながらも、心も、創造も、ライトボディも、肉体も、意識も、そこに進展させるのに、1年かかった。

今ようやく、全機能が入れ替わったような気がしている。すると・・びっくり!先週あった2件のセッション仕事で、ワークの進め方や周波数の幅がヴァージョンアップしていた。ヒーラー現役はもう辞めるというのに、どうしましょ・・・以前ならばこれでまた、新しいワークを作ったりするのだろうな。けれど。そのためにヴァージョンアップしたのではないということも、同時に悟った。(もういいのだそれは。。というか、今自分の見ているものでワーク化しても、ニーズは無いであろう、マニアック過ぎて/笑)

6次元に立つと、5次元で動いているよりも、テーマである7次元意識がかなり近く感じられる。去年やって来た「箱船」(=アーク=情報)と自ら名乗った10キロのクリスタルが言いたかったことが、全層でようやく足並みを揃えて理解できたという感じがしている。

Love and Grace,

Amari