奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 3

前々記事・前記事 からのつづき

さてさて。

どうやら、前日(2日目)までで色々な層でのお仕事は終わったようで、最終日の3日目はだいたいいつも恒例の、盧舎那仏様へご挨拶。これは、20歳でひとり旅を始めた頃からの定番でもある。

なぜこんなに奈良が、奈良公園が、春日の森が(もちろん今回は行かなかった飛鳥や三輪も)好きなのか。自分でも不思議なほど。私は昔から自分に関係ある、ない、をすぐに感じてしまうような性質があって、人に誘われたから・・とか、メディアで取り上げられていたから・・とか、日本人ならば寧ろ普通かもしれない「周囲がやっているから」という理由で、自分が行動したり、時間を割いたりすることが出来ない。ゆえに必然的に旅などは一人でという事が多く、仕事も今のように自営業が合っているのだろうと思ふ。

興味を持つ分野は10代後半くらいで自我が固まってから殆ど変わっていなくて、それでも人間的に生きて行く上でのスキルの部分では、たえず大人になることを促されるので、少しずつ学ぶ中で、新しい分野をさりげなく?好きになったりもする。時が来れば学びや興味の扉が自動的に開くもので、「ちょっと好きかも」「かじって学んでみました」というコンテンツは少しずつ増えてはいく。

けれど、10代後半〜二十代前半に目覚めて大事にしていたようなものは、ずっと変わらずメインテーマであり続けている。一時、低迷した時代には見失うというか、手放さざるを得なかったり、ヒーラーの仕事で駆け抜けた初期の頃は自我意識が薄くなり、過去の記憶や過去の自分への興味が消えていき、ある意味、別の人になりかけていた(そうそう、その頃は完全にビーガンでノンアルコールだった)。その後色々とシステムから修正が入り、取り戻したり力を付けたり、鍛えられたり。そうなった時に、自我が大事にしていた「好き」もまた戻って来た。そのひとつが「奈良」である。

皮肉にも、奈良に移住して三輪山の麓にサロンを出して仕事に「熱中」していた4年間は、過去の奈良への愛着や、散策したいというモチベーションを失っていた時代。神智学でいう「熱誠家」にあたるのだろうと今では振り返る。スピリチュアルに自分が変容・成長していくことに情熱を持っているような時代。今では確かにちょっと違う。もう少し重たく、責任を感じているし、どう伝えたら伝わるだろう、何を残せるだろう、よりよい形にして人の役に立てるにはどうしたらいいだろう・・と、プロデュースする事に意識が集中しているし、そこにあるのは「情熱」や「楽しさ」でも「やりがい」でもない。

責任という力学を通じて行う、自分なりの愛の表現。そんな感じだ。

その中で、表現や思索を磨いていかねばという今のベクトルに、若い頃に情熱を感じていた奈良や歴史探求、哲学としての仏教や、美術・建築・思想などに触れることの出来る旅が、仕事の流れと統合されていくことが心地よい。「それなりに、キミの情熱と行動は、未来のキミのために役に立っているよ」・・・と、若い頃の自分に語りかけたい気持ちで、東大寺境内を歩いていた。

17歳くらいだったか、今の自分に通じるような、恐らく魂そのものの個性のようなものが固まって以来、頑張り過ぎて駆け抜け過ぎて、仏教信仰と修行、古代史探求と大和路めぐり、小説の執筆、ニューヨーク、ロンドン・パリまで一人旅、忙しい交友関係、日本全国に老若男女の友人たち、常にその人々の人生相談を引き受け、ロックバンドや作詞作曲、ライブ、観劇に大学の通信教育、夜間大学の受講・・・と。そりゃあパンクするよ、壊れるよ。と今なら思うけれど。その後、弾けるようにウツに落ちていき5年を過ごすことになる。

まだ元気で、奈良を歩いていた頃の、貧乏旅行を思い出す。ろくに食事もとらず、ユースホステルに泊まって真夏の炎天下を歩き続けたり。今と違ってスマホも無いので、ナビも時刻表も出せず、紙の地図とガイドブック、事前に書いてきた旅程の自筆のメモ、そして重たい(デジタルでもない)一眼レフカメラ。方向音痴だから道に迷う、電車を乗り間違える。奈良公園は節約のためか、もしかすると文系で左脳処理が乏しく距離感をイメージ出来なかったせいか、基本歩きで通していた。だから目的地に辿り着けず。などなど。

47歳の今は時間も体力も省エネ。バスを多用して移動。そして心強いスマホが居てくれる。不器用極まりない旅をしていたあの頃に比べて、エナジーワーカーとして15年以上を過ごしてきた今は、(スマホのお陰だけではなく)すべてがカチっと巧く噛み合い、運んでいくような絶妙な流れの中で、短い旅の中に必要なことだけがギュっと詰まっているよう。

「奈良」というテーマを巡っても、「vol. 2」に書いたように様々な時代を経て来た。情熱、移住、子育て、ヒーラーとしての関わり、二手に別れていた家族の統合、拠点の手放し。最終日3日目は、それらの全てに感謝しながら、一つの流れになって習合されていく現実、昇華されていく過去のエネルギーを、空に見送るような気持ちで、ゆっくりと歩んで盧舎那仏に会いに行った。

普段より格段と空いている境内。制服姿の修学旅行生と大仏殿・・が、むしろここ最近の雰囲気からして、新鮮に見えた。

定番のショットですが・・やはり少しだけセラフィー、シルフィーな雲がこの時、出ていました。同じ形で飛んでいる、まるで仏教壁画の飛天のような。

こちらも(去年の奈良旅のインスタ記録でもご紹介した)定番。複雑な歴史を持つ大仏殿の境内の中で、創建当時から唯一、変わらずに立っている青銅の八角灯籠。見上げるほど大きい。国宝です。

学生の皆さんから、盧舎那仏の大きさを感じて下さい。(勝手に・・笑)

脇侍は虚空蔵菩薩、反対側に如意輪観音。このお二人が身長7メートル。大仏さんは14メートルです。聖武天皇が創建した当時は、大仏も大仏殿もさらに巨大だった。今はこれでも縮小され、鎌倉期の再建・修復を経て現存しているものが多い。

盧舎那仏の後ろ姿。光背だけでも迫力満点。

こんな様子は見たことが無い・・人が映らない大仏殿。いつも人気の柱の穴くぐりもクローズされていた。

境内で近くを歩いていた私と同じくらいの世代の女性二人が「大きい!」「こんなに大きかったんだね」と、大仏殿が見えて来た頃に驚いていた。そうそう、同じ世代の方々・・私が若い頃に奈良に通っていてもまるで興味なさそうで。奈良出身の人にも「見るとこ無いでしょ?」と言われることも。友人たちが着いて来てくれた事もあったけど・・反応はいまひとつ。これくらいの・・つまり40代も後半になると、お寺や仏像に少しくらいは興味を持つのが一般的感覚なのかな? 自粛ムードで観光客がぐんと減っている中、もしやこんなご時世だからこそ、初めて興味を持って足を運んでみた、という人たちも結構いるような感触を肌で感じた。

テンション高めのアジア圏の観光客の皆さんの姿が無く。奈良好きで通っている風のご夫婦とか、スーツ姿で「仕事の出張で来たけれど時間が空いて・・」風の男性とか。手ぶらでお参りに来ている地元の方? そして本当は海外に行ける筈だったのかもしれない高校生の皆さん。いつもと違う、とても静かな奈良。だから余計に異空間、異次元に感じられて、統合と昇華の計らいを感じやすかった。

「光と影」

「陰と陽」

そんなキーワードもちらつく3日間だった。

帰路へ。大仏殿の裏手から。

ありがとう〜

家族連れかな。

去年の奈良旅でインスタに載せた、「講堂跡」の礎石の写真のシリーズ?を撮るため、同じ石を探したけどちょっと急いでいたこともあって見つからず。似ている石をお借りして記念撮影。今回の旅直前に、儀式的にブーツを新調していた・・・靴はエネルギー視点からも大事なアイテムで、現実をシフトアップしたい時には、良い革の良い靴を買い、古い靴を感謝とともに処分する。

ネットが無かった時代に写真集などで奈良に浸っていたのがスタート地点。その頃からの癖のように、大仏殿を遠くから望むような場所も好き。幾つかお気に入りスポットがあったりする。

感謝とともに。

(記事に載せた写真プラス、写真を足して、また違うセレクトで、アルガンザのInstagram にも投稿する予定。良かったら覗いて下さい。)

Love and Grace,

Amari

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 2

前記事のつづき

春日野を後にして、近鉄奈良にバスで戻り、特急で大和八木へ。待ち合わせも無事に出来て、要件は約1時間で終了。さてどうしようかな、八木まで来ているのだから、三輪に行く(桜井駅)ならば電車で10分足らず。時間的にもあと2時間ほどで神社仏閣や博物館も閉まるようなタイミング。三輪にいくのが自然かな、と事前には考えていた。けれど、前記事に書いたように今回、春日野で三輪を体験していた。だから、行く必要が無いと感じた。特急の車窓から三輪のお山に挨拶をして、桜井を通過。

何故だか分からないけど、無性に平城宮に行きたいと思った。平城宮跡は何度かレンタサイクルや徒歩で、近所のお寺やホテルに行く途中で見かけたり通り過ぎたりする程度で、ちゃんと「上陸」したことが無かった。せんとくんを生み出した遷都1300年(2010年)前後に、朱雀門や第一次大極殿などが復元され、現在も着々と工事が続いているよう。どこまで再現されるのか分からないけど、広大な平城宮の敷地内に、門や建物、庭園などが当時の姿で蘇っていくのならば、華麗なる李朝時代を伝える韓国ドラマのように、日本でももっと奈良時代のドラマや映画の撮影が可能になって、作品が増えるかもしれない・・それに期待したい。

話を旅程に戻すと・・・平城宮を特急の中から一望したらば(電車で通り過ぎていてもしばらく続いているほどに広い)、ススキが一面に広がっているエリアがあった。あそこに行こう、と決意しつつも、もうひとつ、同じ大和西大寺駅を拠点として散策できる大好きなお寺がある。秋篠宮家のネーミングの由来になった「秋篠寺」。ここも、二十代前半の一人旅の中で好きで何度も訪れた場所。有名過ぎるほどだけど、美しい伎芸天の仏像が人気で、奈良時代から現存している本堂それ自体も国宝。苔むしたお庭も風情があって、全体に清潔感と、守っている方々のセンスの良さ、伝統的な洗練された美意識の高さを感じるお寺。

好きで通っていた、とは言え、何年振りだろう。。。奈良に住んでいる四年の間は結局、行けそうで行けなかったから、かれこれ。。。二十三年振りとか(!)なんと。

山門から、参道に入り、風情のあるお庭を片手に玉砂利を踏む。

時間があれば、ゆっくり眺めていたいようなお庭。(私はちょっと急ぎ足)

こちらの可愛いお堂が本堂。奈良時代から立っているって、法隆寺もそうだけど奈良のお寺ならでは(ダジャレではなく)で、京都は応仁の乱による焼失、再建が多いから、奈良のように古くは無い。やはり独特の古さと、大切に守られてきたオーラを感じる。正確には鎌倉時代に大修理を経ているとのこと。

このあたり、平城宮に近かったエリアなので、当時の皇族がたが発願しているお寺が多い。この秋篠寺も光仁天皇による776年の発願を受けて建立、その子にあたる桓武天皇が平安京に遷都したころに完成しているよう。光仁天皇もなかなか、奥様の井上内親王ともども、悲劇の人でもあり。そんな事を思いながら、参道・入り口を経て、こちらの本堂とその前の玉砂利の広がりに出たら、午前中に春日野で見かけていたエンジェリックな雲から、またすこし様相を変えて、乱舞する羽毛のように。

何故だかここで、ほろりと・・泣けてしまった。

二十三年振りの伎芸天。それから、当時はあまり意識を向けていなかった御本尊は薬師如来。脇侍に、日光・月光菩薩。「薬師十二神将」が、6人ずつに別れて御本尊の左右に。それから地蔵菩薩と不動明王が対応するように左右に。そして伎芸天、対応して反対の端には同じサイズの(共に造られただろう)帝釈天。さらに、区切られた空間の外側の左には「五大力菩薩」という、とても菩薩には見えない、天部かなという怖い形相、武装しているような五体の躍動感ある像。反対側にはコワモテでどのお寺や博物館で見ても引いてしまう赤い肌をした愛染明王。ここも、左右の両端でとても良い感じのバランスだ。

伎芸天は名前からしても分かる通り天女という事で伝わっている。けれど、体つきからして女性ではないことが分かる。本当は何の像なのだろう?といつも興味深く見つめてしまう。けれどご正体が何であれ、とにかく美しさに魅了される。(とても有名な仏像で、検索するとすぐに出て来るので宜しければ「ぎげいてん」と入れて見て下さい)

そんなに広くはないお堂の、中心部、薬師如来の前に立つと、左右のバランスの良さと全ての仏像が調和してひとつのグループを成しているような一体化した迫力が迫って来る。目を閉じて全霊でそれを浴びる。体の芯まで、浄化されていくよう。

お堂の中の小さなブースに座っているのは普通、御老人の職員さんというイメージがあるけど、お守りを買おうと思ってふと見るととても若い、高校生・・大学生かな?お兄さんが座っていた。こんな素晴らしい場所に静かに座っていられるのだから、徳を持っているのだろうな・・なんてオバさん、思いながらお守りを頂く。

お堂から名残おしい気持ちで外に出ると、再び見上げた羽毛の空に・・もう一度泣けてしまった。春日野で解けたものについて、感じてみる。こういう時、「赦し」のような現象が起きるものだと思っていた。ところが、却って、何だか分からないその「相手」に対しての「許せない」という魂の声は高まっていた。それは意外だった。とても静かだけれど、よくよく声を聞いてみると「許せない」「許してはならない」「許す必要はない」という。

けれど全くそれは「感情」や「想い」ではなく、まして「怒り」でもなく。ただエネルギーを読み取り直観する魂の、ありのままの感覚だった。ジャッジメントではなく、自然界の法則と同じように、ナチュラル、自然そのものだった。

「許せない」===けれど、自分が先方に何かを返す必要はないということを、潜在意識ごと悟った。受け入れた、というか。宇宙が返すのだから、自分がやり返す必要も、心や魂を損なわれる必要も、気に掛ける必要さえない。ただ、宇宙があるがままを返すのだから。と。

何でしょう?前世の記憶なのか、いにしえ人の集合場からの受信なのか・・・この、春日野で起きたエネルギーの解放と、秋篠寺で静かに払拭されたことによる気づきの2ステップで、とにかくこの境内では震えるような涙がお腹の底から湧き上がった。

何度か、お礼をしながら境内を後にして山門をくぐる。

バスで大和西大寺駅へ戻り、そこからもう一度、今度は平城宮跡に向かうバスに乗る。

既に夕方で、日が沈んでしまいそう。

何とか、間に合いますように。

間に合った!

おまけに夕焼けで、広大な宮殿跡地と復元された建造物、ススキや紅葉が美しい。

大和盆地の向こう、生駒山系(大阪方面)、そして間近には午前中に出かけていた春日方面の山並みも。秋篠寺から1時間も経っていないのに、エンジェリックな雲たちはどこかへ消えていて、今度は長細く横たわるような優しげな雲。

ありがとう、奈良。

先刻の用事は不動産の売却が成立したための契約。20歳の私が大好きになってしまい、そこから通い続けた5年間。その後、精神的な低迷とともに旅にも出られなくなって5年が過ぎ、30歳を過ぎてからヒーリングと出会って、癒しの道へ。ヒーラーの仕事が安定し始めて33歳の時に奈良へ。一年後に新築の分譲マンションを買い、家族で桜井へ本格移住。その後、シュタイナー学校進学のために娘と二人で横浜へ。2010年。

残してきた両親が今年の10月に神奈川へ。その準備として私たちは先に中古住宅をリフォームしながら待ち受けていた(詳しくはインスタにあり)。まだまだ先かと思いきや、急に買い手の方が良いご縁で現れて、トントンと。これで本当に「奈良の家」は無くなる。けれどまったく執着もなく、不思議なほど寂しさもない。

春日で三輪を体感した、というのとこれは似ているのかもしれない。もう奈良は・・というか、奈良への自分自身の愛着やノスタルジーは当たり前のように自分の一部になり、奈良というテーマは外にあるのではなく全てが自分の内側にある。いつでも自分の中から感じることが出来る。それを確認するために、これからもまた通うのだろうし、若い頃のような切望はもちろん無い。

ごく当たり前のようにそこに居る。ただそれに感謝する。そういう存在になっている。

他の土地や、他の興味についても同じで・・・ひとえに、私自身の変化によるものと言えるかもしれない。欲する、望む、求める・・ということは無い。ただ内側にある響きを、確認するために、響き合わせるために、どこかから聞こえるサウンドに呼ばれるように足を運んだり、何かや、誰かに、出会ったりするのかもしれない。

写真↑の正面奥に写っているのが「朱雀門」。結局、ここまで歩いて平城宮の反対側へ抜けることにした。朱雀門前のバス停から、バスでホテルに帰る。

(たぶん、「つづく」)

Love and Grace,

Amari

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 1

テレビを見ない私でも、さすがにニュースがちらちらと目に入り、世相的には旅をするタイミングではないと感じつつ、冬の奈良へ。どうしても避けられない事務的な要件があり、最初は「代理人では?」とか「オンラインでは?」と尋ねてみたくらいだったけど、そうは行かないということで、ならば一年半振り、ご縁のある場所や以前から思い入れのある場所へ寄って来ようということに。

出発2日前に予約したホテルは平日ということもありガラガラで。去年利用した時とはまったく違う鎮まり感。さすがに観光地・奈良なので人が居ないという訳ではないけれど、いつもの外国人観光客のにぎわいが引いて、25年以上、奈良に通っている私の目には初めてというくらいに人出が無かった。無理もないけれど。私も本当は「自粛派」。

去年はやはり用事もあって二度、奈良に行っていて。確かSNS等では「ブログで旅日記を綴ります」と宣言していたけど、書けず仕舞い。もしかすると今回の記事を書きながら、話がつながって行ったりしたら、自然と去年の旅記録も載せられるかも?・・なんて淡く期待を抱きながら、今回は記憶が新しいうちに、書き始めてみよう。

ただいま、アルガンザでは今年リリースのプログレッシヴ版「エヴォリューション」の(プラクティショナー伝授は1年前に始まっていたものの)ようやく、クライアントの皆様にお届けする「ワークブック」の最初の2冊が配本できる状態になったところ。そこに至るまでの、いつもの高次が用意する試練のような流れを、執筆中の私も、ワークの現場を担っていくプラクティショナーさんたちも共有しながら、各自の修行、そして全体の潮流を体験し、関係する「サンダルフォンニュートリション」や、(来年改訂に着手する)「レムリアンセイクレッドレイキ」なども、同じ世界観の中つながり合うエネルギーゆえに動いていて、

新しい情報も多く集まり、それによって「ワークブック」の内容に手を加え、「天使」の一般概念をアルガンザ流でガラリと書き換えながらの「アルガンザ天使学」の展開(のまずは触りだけ。ライフワークくらいの難題でもあるから。)という動きも起きている。行く先々でエンジェリックな、天使の羽のような雲が、出発前の関東から、移動する先、する先に着いてくるように現れ、しばし感じ入って感謝していると、その地を去る頃には薄まって消えていく、を繰り返して。何かとても、意義深い時間なのだろうなと感じていた。

奈良に着いてすぐ、定番の奈良公園に。近鉄奈良駅から歩き出すとすぐに見えてくる興福寺で、お決まりの「最初の一枚」。さっそく、雲が凄かった。

先日インスタグラムに書いたようにトーハクの会員優待期限がなんとこの日、最終日。少しでも活用しなくては・・と、同じ国立博物館ならば使えるので、奈良公園内の奈良国立博物館へ。仏像館、ほとんど一人で見て回る(人が少なくて)ような状態で、とても贅沢。やっぱり、飛鳥・白鵬・奈良時代までの仏像が好き。せめて平安かな、けれど鎌倉期の運慶・快慶はやはり凄いと想う。

冷静に見ていると、どんな分野でもそうだけれど、上手い人の技術の高さは卓越して見えるものだ。とはいえ、素朴な市民が彫ったらしいというものでも、良い雰囲気で引き付けられるものもある。だからこそ、博物館で大事にされているのだろう。

雲が向かっているのか、そこから現れている(ように見える演出?)のか、大事な御蓋山(みかさやま)のフォーカスを予感させる。20歳の新人会社員時代に大和路ひとり旅を初めた時も、幾つかフォーカスしていたテーマのひとつが春日山付近の古代祭祀で、中途半端であまり深く掘り下げないまま年月が・・(27年も!)経っての今だけど、去年の奈良旅では、ここ10年くらい寧ろ避けていた春日について、「和解の旅」とか名付けて、興福寺の薪能と合わせて心をオープンにして臨んだ。ところが、ひとりよがりの「和解」設定はまあ、良かったものの、拮抗するエネルギーの厳しい逆流があり、やはりそう簡単な問題ではないのだなと痛感して帰って来ていた。

あれからそのテーマもすっかり忘れて、今回何も考えずに用事のために出向き、優待券を活用せねばという三次元思考で奈良国立博、に行ってみたらば、特別展示で「春日大社の祭祀」を取り上げていて、呼ばれた感じもし始めた。展示そのものはどう、ということでは無かったものの、「そう言えば主祭神はタケミカズチだなあ」「ヒタチの国から鹿に乗って御蓋山に降り立ったという伝承だったなあ」と考えていると、

昨年こころみた「和解」旅のカラクリ、個人的な魂の影響力などが解けていく予感がした。若い頃に春日山周辺に思い入れていた理由は、巫女らしい女性たちや女神系エネルギーの気配があり、恐らく縄文時代〜ヤマト国により再編成されるまでは、古来の神奈備だったに違いないし、なぜ神様が(栗本慎一郎氏が、縄文以来の本来の日本、ヒノモトの重要地だったと表現している)ヒタチ(茨城県)から、奈良に移動してしまったのだろうかという事を考えると、古代史に詳しい人々ならば言わずもがな、ご存知だろうけど・・藤原氏の台頭の影響によるもの。もっと言えば、藤原氏による、蘇我氏の権力・土地・神話・バックの神様 の乗っ取り・・というと言葉が悪いか・・・「成りすまし」・・もっと悪いか、まあ、そういう事なのです。(笑)

どこの国の歴史でも、いつの時代でもあることで。もちろん色々な考えの人がいるし、私は古代に興味を抱いた20歳ころから色々と読んで来た中で、エナジーワーカーとしての経験、体感や直感などもともに、ここ数年は、栗本氏の著書で展開されるソガ=イズモ(日本海側の広い範囲)、アズマ(東国・東北の広い範囲)の首長的な存在だったという説に、賛同している。もちろんルーツは、古来言われて来たように「渡来人」だとは思うけれど、早い時期にやってきて、ネイティブの縄文の部族社会と仲良くしていたのだろうと。

話が逸れたけど、

何か偶然ではない、博物館での「春日祭祀」に誘導されるように、翌日の午前中は春日大社の奥の方へ、行ってみようとふと思いつく。

そして明くる日。まずは、ホテルからバスで奈良公園エリアへ、「春日大社参道入り口」で降りる。本当はもっと大社に近いところまで、歩かずにバスで入りたいと思っていたところ(午後に大事な用事があったので体力温存のため)・・その路線が本数が少なく、「入り口」バス停を利用することに。けれどお陰で、昔は大好きでよく行っていた「飛火野」エリアを満喫できた。広大な芝、春日原始林から継続的に点在する森の巨木たち、鹿たちもここでは広々と群れで広がっていたり。そして、大事な神奈備も背後に見える。

2007年、家族がこの近くで大変な事になり、救急車を呼んだ。遡ればもっとずっと前、若い時分の旅でも、何度か「問題」が起きたり、ヒヤっとしたり、という経験が春日の森、春日野ではあり、2007年の一件から、以前の思い入れは引いて「近づきたくない」という気持ちが続いていた。去年の「和解」を経てもまだ、今思えば少しどこか、心を開けない感覚が残っていたのかもしれない。

今回、直前までのスケジュールが過酷だったので、一切計画を立てず。ただ博物館だけは行くというラフな予定から、結果的に誘導されてみると、この日は本当に世界が美しく違う次元に居るようで不思議。空気の粒子が違うというのだろうか。それでもヒーラーとしてこの数年、様々なエネルギーの拮抗を「研究」してきて、そうそう簡単に喜べない、簡単に解決するとは思えない、という構えが出来ていた。だからこそ全く期待をせずにふらりと向かう旅だったのが、良かったのかもしれない。

顕在意識ではよく分からないけど、何か過去生に関する記憶、更にその原型はアルガンザの「ジェネシス」概念で言う、「ジェネシス層」のいろいろに由来・起因している何かが、奥へ、奥へと登っていくにつれて解けていくようだった。春日のいわゆる「大社」は御蓋山の中腹にあたるそうで、今回インスピレーションを得た大社よりも奥のゾーンへ足を進めることにした。

飛火野で遭遇した、「鹿寄せ」という楽しいイベントは動画をフェイスブックに載せたので、良かったら覗いてください。

大社にももちろんご挨拶に立ち寄る。ちょうど御神事の最中で、琴と横笛、祝詞と巫女さん二人の舞の美しい場面にも遭遇。

御蓋山自体は神が降臨した聖地。ということで「禁足地」とされていて、一般ピープルはここから拝んでいいよ、という「遥拝」の場所が幾つかあり。その他、たくさんの摂社に出会いながら。

神社として、オヤシロを建てるようになったのは6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来して、お寺という立派な建築物に圧倒されたヤマトの人々が、祭祀にも建物が必要だと考えるようになったから、と言われている。それ以前の神祀りは、きっとこんな風↑だったのだろうな、と思う。木々や岩を神なる場所として区切って、祭祀を行う。

これまでは自分の中に色々な区別、識別が起きていたのだろうと思う。今回、この春日の山の中腹や、森の中を歩いていて、「三輪」を感じた。20歳の旅で「ひとめぼれ」して通い続け、10年以上過ぎてからその麓に移住し、四年間住んでいた、三輪。

一方で、何かこう、興味を持って通いつつも、自分との相性の悪さを感じていた春日。けれどその幻想がスルっと外れて、「ああ、同じものだ」と腑に落ちたような瞬間があった。相性が悪かったのは、その地ではなく、歴史の断片、一側面、確かにそこにあったマジカルな力と、それが自分の過去生や、持っているエネルギーと出会すと実際に作用していた拮抗するもの、それが顕現して現象化していたこと。

人の感情にヒーリングが起きるのと同じような体験を、その土地、歴史的なテーマにおいて、体感したようだった。ただ、あるのは祝福と、光、感謝だけ。間に分け入って邪魔をするエネルギーにより、仲違いさせられていたような・・・喩えて言うならば。

そんな訳で、今回は三輪には行かなかった。その必要が無かった・・・春日で、三輪と会っていたから。

そして!

面白い「落ち」もある。旅から帰って来て一晩過ぎて、翌朝気がついたのは、実は私、自宅のある神奈川県、サガミの国のアースワークのためにあれこれと調べたり、ソフィア他、クリスタルでワークしていた中で、つい最近「これは春日信仰について調べないとな」と思っていたのだった。信じられないことに、旅の道中、まったくその事を忘れていた。けれど春日信仰の中心地、春日大社と春日山には行っていたという。笑

昔から変わらないこの天然振り。ここが高次と仕事をする上ではきっと大事なのよ〜・・ある種の才能なのよ〜・・と、自分に言い聞かせてみたり。

そうそう。もちろん、春日信仰という言葉によって私がイメージしていたのは、縄文の石器時代の人々による太陽崇拝=春分の日、春の太陽(春の日・カスガ)、にまつわる信仰のことで。春日大社がタケミカズチ神を主祭している、というのとは内容が違う。ゆえに春日大社に行きたかった訳ではなくって、春日信仰がおそらく縄文の人々によって行われていた一つの拠点であった春日山、御蓋山に行き、その空気を体感することが、ポイントだったのだろうと後からしみじみと理解する。さらに、その地で「三輪を感じた」ことにも深く納得。三輪山も同じように、縄文の人々による太陽崇拝の拠点であったのだから。

時間がないのと体力的にもかなり問題がある中、ただ導かれるまま駆け抜けたような旅だったけれど、とても重要なエネルギーの動きがあったと感じている。

長くなりそうなので、幾つかに記事を分けることにします。

今日はこのくらいで。〜〜「つづく」〜〜

Love and Grace,

Amari