Message

というタイトル(原題は「Arrival」)の映画が好き。以前書いたことが。

『Arrival』『Big Eyes』から考える「孤独」と「共依存」

本当は、前投稿のつづきで、以前FaceBookで触れた事のある韓国時代劇の『守百香』(スベクヒャン)に見る、ジェネシス神話のアルビレオ恒星をめぐる原型ストーリー分析、を、書こうと考えて既に下書きしてある。けれど、皆さんもお聴き及びと思います、30日の韓国での事故を受けて、ドラマの話と関係ないと言えばそうなのですが、やはり、自嘲しようかと思い。自分もそのような気分にはなれなくて。

30日前後、世界では「大きな事故」が相次いだよう。今朝の日本のダイジェストニュースでは、韓国の事故と、ソマリアの爆弾テロ、インドの吊り橋崩落、と、珍しく海外のニュースが続いて。どれも100人以上の方が亡くなっている大惨事。ソマリアは事故では無いものの、ほぼ同時に起きているという所で、感じる、考えるものがあった。

日本で天災が起きた時も、いつもこういう事を書くことに気を遣いつつ・・ある意味で、まあでもそういう仕事、立場なのではと思う所もあって、いつも書いている。犠牲になった方々に落ち度があるという意味では、決して無い。

カナリア(最初に変事を察知し騒ぐという意味での)族の杞憂であって欲しい、と思いつつも、パンデミック以来、やはり人間社会このままで良いのだろうかという思いが強い。いや、多くの人に意識変化が起きて、働き方や社会のあり方も良いほうへ動いているという事は確かに、あると思う。けれど、逆の力も強く働いて、変化を自然な形で自分に取り入れる用意が出来ている、既に歩き出している人々が、それほど多数ではないのかな、と。

歴史上常に、事前に察知してあれこれと声を上げる知識人の方々、学者の方々などがいらっしゃる。パンデミックが始まるよりも前に、好きで見ているNHKのドキュメンタリーなどで、特に経済学などの一流の方々が、人間社会の崩壊の危険性を既に専門家ならではの分析力で語っていたし、科学者の方々も、地球上の生命が絶える大量絶滅の可能性、強い危機感を訴えていたりする(やはりそういう立場を表明するのは海外の学者が多い気がする)。

同日に世界で起きた3つの事象の重なりに「これでいいのだろうか」という、毎日感じている想いがまた、高まった。

ミャンマーの内戦はどうなっている? ウクライナ戦線はいつ終わるのだろう? シリアや、アフガニスタンは? 気候変動を毎日、普通のニュースでレポートし、一般の人々の意識に情報を注いで欲しい。全ては繋がっていて、自分たちは安全だから大丈夫、という事など無い。

邦題「メッセージ」と名付けられた映画『Arrival(原題)』は、宇宙人たちが地球に、このままだと危ないよという警鐘を鳴らしにやって来るという内容だった。

人々、群衆、転倒、崩落、爆弾テロ・・・この重なって報じられた事象に、私はとても「メッセージ」を感じてしまった。

私たちはパンデミックで「目を覚まし」たらば、これまでと同じように「楽しむ」「食べる」「遊ぶ」=欲を満たす のではなく、楽しむ、遊ぶ、食べる、にしても、これをキッカケに考えを深めて、変化を受け入れる必要が、ある。あった、のではないかと思っている。禁欲すべしという意味ではなく、生活や意識の質を変えていく、結果として、ライフスタイルも変わっていく。そんな人間社会のシフトが、必要だと言われているのだろうと。

・・と、相変わらずいつも同じようなことばかり。多分この15年以上ずっと、同じようなことを言い続けていると思ふ。(笑)

Man in the Mirror ということで、自分の生活や思考の中で、サットヴァを高めていこう。

P.S.

そうそう、先日の記事をUPして読み直している時に気づいたのですが、前々記事「ネガティブな執着」が、いつの間にか消えていました。メインブログに移動したその後の記事の削除作業をしたのは確かですが、その時に一緒に消してしまったのか? チェックボックスにチェックを入れなければ消えることなんて無い筈なのに、消えてしまいました。怪奇現象ですが・・・検閲(5次元からの・笑)が入ったのかもしれません。

いつも時間を掛けて書いた記事が、UP前に消える事で「ああ、この内容はダメなのね」と悟るものですが、今回はUPして暫く、読んでいただきつつも、「そろそろ下げよう」という事だったのかもしれません。

アリストテレスより「嫉妬とは、他者に起きる善なることを悲しむ行為である」というお話、他者に善が起きるのが「悲しい」だなんて、人間の心とはなかなか病み(闇)が深いのだな、というのが概要でした。

Love and Grace

ヤマトの彦姫

今日書く内容については、前回の日記後から暫く、次はこの話題・・と思いつつ何故かいまいち気が向かずに。そして今日はいよいよどうしても書かなくては、という空気が来ている(この関連のエネルギーが流れて来ている)ので、区切るためにも向き合ってみる。

古代日本人から現代まで続く原型エネルギーの継承について、思うことを書いておこう。

「彦姫」とは、何が言いたいのかというと、人は国にかかわらず永遠の少年、少女であることは否めないし、純粋さと素直さという意味での少年・少女性はむしろ、私はとても良いこと、好ましいことだと思っているし、世の中に擦れたりこなれたりして「おじさん・おばさん」化するよりは、そういう方々が個人的にも好き。それとは別に、「依存心」という意味で、年を重ねても「男子」「女子」のままである、という性質が日本人にはありがちなのではないかと、常々思っている。

(他国の人々もそれぞれ課題は色々あるだろうと思う。が、日本の人々の癒しに関わる仕事をしているので、他国の人との比較が目的ではないことをご理解頂きたく)

最近は、SNS特にツイッターで女性たちの、家事と育児と外での仕事の両立における苦労を誰かが呟き、多くの人が賛同して盛り上がっているツイートを見かけたりもする。・・けれど、自分が女性として女性の中で生きてきて(友人関係)、ヒーラー仕事で出会うクライアントさんの多くも女性であるし、結果、思うのは、日本の女性たちはやはり「家父長制のもとで撫子」あるいは親指姫として大切に守られ育てられて来ているという事。結果として、ずっと「女子」であるし、結婚しても旦那さんが「一家のあるじ」つまり、父親の役目を担う事をよしとしている。

つまりは、日本は男尊女卑だというけれど、女性たちが、いつまでも「娘」=「姫」として守られているという風土がまだある。持ちつ持たれつの、「男子と女子」「姫と彦」の国、ある意味、文化・・と言えるだろう。

いざ、という時にはやはり、旦那様の後ろに隠れるだろうし、それが良しとされている空気もまだある。その分、母親としての仕事、子育てや家事のフィールドで自分が責任を引き受ける。結果として、夫の面倒も母親のように見ることとなり、その点で、夫はいつまでも「息子」であり、妻がある意味で「母代わり」であるという構図になる。もちろん例外的な人々は沢山いるし、昔よりは構図は変わって来ているのは間違いないけれど、夫であり妻である、反面、双方、相手が担当している分野について自分はタッチしない、とか、よく分からない、苦手なままであったりする。

以前、金融関係の方に聞いた話。日本の妻たちはご主人が先に亡くなった時、お金のことは特にどうしていいか分からず慌てる事が多いという。私のママ友たちは、プリンターのインクが無いとか、電球が切れたというだけで、それをご主人に頼むとかいう会話を前にしていたっけ。。これが更に、未婚の女性だとずっと「娘」のまま実家に居て、家のことは年老いていても両親が担っている、なんていうケースもある。男性側も同じくで、それは男の仕事じゃない、みたいな意識はきっとありそうだ。

シングルマザーたちも、うちは娘だから二人だけでの生活が始まる時に「あなたが手伝わないとママは自営業だからうちは破綻する」という現実を(笑)よく言ってきかせ、もちろん簡単な道のりでは無かったけれど、本人もちゃんと分かっていて葛藤しながらも、高校生くらいになると一通りなんでも出来るような状態になっていた(もちろん今でも私のほうが家の事をしているけど・まだ学生だから)。これが、お子さんが息子さんだと、シングル母たちは自分で家事を全てしてしまっているケースが多いようだ。

私は「ハピの巫女姫」の執筆に至ったキッカケがやはり、フェミニズム、それもユング派心理学のフェミニズム系の視点をもった研究者の著作に出会った事がキッカケ。とはいえ、それは29歳の時で、その10年前、19歳の短大生の頃にオノヨーコさんで、今思えば同じ「女神的」「太母神」的なエネルギーによる開眼のような事が起きていた。ヨーコさんのあり方を見ていれば分かるが、女性が女神である=大人である という事は、人として(母としてではなく)自立した責任意識を搭載しているという事だ。

社会が敷いたレールの上を歩き、そこからはみ出さず、「人がしていることをしなさい」と教育されている日本の人々。ゆえに言葉遣いや表現なども複製して使ってしまう・・安心感があるからだろう。けれど本当は、人のマネをするのはまだ「未熟で経験の浅い」見習い・若者だからこそ、であり、大人としてそれをやっているのは寧ろ恥ずかしい事、であるはず。けれど日本社会ではそれがゆるりと受容・黙認される空気がある。

この、男女ともに互いに、家族的原型エネルギーの縛りから抜けられない、永遠に彦(息子)であり姫(娘)である、という風土的な課題を、ジェネシス層、宇宙のより大きな原型エネルギーのモデルタイプが地上に降りたもの、として、考える試みをしている。

〜〜つづく〜〜 (笑)

Love and Grace

始まりと原郷、そして未来。

イギリスの新首相が立候補1名で即決された。報道では、日本でも「イギリス初のアジア系首相」とか言われている・・海外メディアの表現を邦訳したのだろうけど、実際に「アジア系」という印象は少なく、スラリとした長身、長い手足、話すそぶりや顔立ちも・・イギリス人だなあと見る。白人の血が入っていると思いきや、ご両親ともインド系とのことで・・ アーリア人種、印欧語族とはこういうことか、と朝から考えゴトが壮大に広がる。

共通の言語を話すひとつの集団が、東〜中央ヨーロッパの辺りに居て、それらがロシアなどの東欧、西ヨーロッパ、インド・ペルシャ(イラン)さらには南ヨーロッパのギリシャ、イタリアまで、分布したという。共通のひとつの文明を呈していたという話を、シュタイナーなど神秘学方面の人々は「統一時代」と言う。これに基づくと、少なくとも南インド以外のインド人は「アーリア系」インド人であり、インドに住む事で肌の色や多少顔立ちが変化した白人種、という事になる。
けれど考古学や言語学においては更に複雑で諸説あるよう。

この「印欧」アーリア系に含まれる人々は、手足が長くてすらりとして肌が白く彫が深い顔立ち、という事になっている。神智学も、その手の分野が流行した?19世紀に生まれていて、人種や文明に関する神秘的な視点が文献に伝えられる。けれども・・当時の時代の風潮や、空気感の中で編まれたものだから、幾らか修正が必要なのだろうと個人的には思っている。それにしても、石器時代から、青銅器、鉄器時代への移行期の中で、人間の質や文化がどう変遷していったか、これは若い頃からの個人的な強い関心テーマなのだ。

「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」もその興味関心の土台の上で書いていて、舞台設定は今から11000年前(ハピ)〜ガイアナのシリーズ(?!)の最後は、9000年前ころ(紀元前7000年)を想定している。「統一時代」と言われるものは、その数千年後になる訳だけど、それらの、「物証があって今の私たちの歴史観において「先史時代」と呼んでいるもの」の「更に前」の、「失われた時代」を描くことが、自分のコンセプトでもある。
つまり、神話の様な「統一時代」を更にさかのぼり、アトランティス終焉後の「リセット」から、現在存在が知られている原郷的な文明に至るまでの空白の時代。

『なぜ今こうなっているのか』・・が、いつも知りたくて仕方ない。

空白・・と言っても、現時点で世界最古と言われているメソポタミアはだいたい7000年前、か。日本の縄文だって立派な文明、という説もあるけれど、そこは「文明」の定義とは何かということなってくる。

話が逸れてしまったけど、新首相のスナク氏については分からない、御先祖に白人系の方が居るからなのか、アーリア系インド人の方がイギリスの知的・上流層で磨かれているとあの様なイギリス紳士風になるのか、、ともあれ、「アーリア系」にはどうもコンプレックスを(そうでない)民族は無意識に持っているだろうし、「アーリア系」に該当する方々もおそらくは無意識レベルで、差別ではなくとも区別する感覚はあるのだろうと思う。

日本人は、自覚している以上に実は、差別主義者だと外国の方々には思われている。差別するつもりはなく、どちらかというと「島国根性」なのだと思うけど・・外からやって来たものは、崇めるか、近づかない様にするかのどちらかだ。そこに悪気は無かったりする訳だけど、そのどちらもが、された側は「人間扱いされていない」と受け止めるよう。

地理的に、古代中国の戦国時代や、朝鮮で内乱が起きた時などに常に、新しい色々な物を携えた人々が流れついて、牧歌的に暮らしていたホビットのような縄文の人々はその都度、びっくりしながら、受け入れて、融合してきた筈だ。そうしていつしか出来上がった「日本」という文化。鎖国をしてアイデンティティを深めて行った先の、近代化、敗戦、復興。そして平和ぼけという幸せな境遇を経て、
私の密かな危惧は、数十年後、いや数百年後、日本列島の人々は果たして日本語を話しているだろうかという。出来れば残したいと、誰もが思うはず。

興味深い、と言ったら今の時世的に語弊があるかもしれないが、ウクライナ・ロシア国境付近というのは、上記の「統一時代」(つまりヨーローッパと中東・インドを含めた全域)の文明の原郷(ルーツ)、と考えられている場所でもあるよう(これについても違う学説もある)。その地から拡散した現文明期の何らかのカルマの昇華が今、始まったのだと考えられなくもない。
そのルーツに属さない東アジア人やアフリカの立場、役目、演じるべきキャストは何だろうか? 世界地図がこれから変わっていくのだろうか。平和ボケや島国根性では、本当に私たち日本人は固有の文化や言語を、失ってしまうかもしれない。

どのように始まって、どうして今こうなっているのか・・を、実学ではなくメタフィジカル、秘教的な立ち位置から考え、パラレルな「歴史」を描いていく。。自分に出来ることはそれで精一杯かもしれず。

Arganza のHP内の日記「A Diary」に徒然の雑記として書いていたものを、長くなったのでこちらに掲載。そのため、内容まとまらず中途半端ですが、お許し下さい。

Love and Grace

– A Diary – : Office Arganza HP

 

エルフたちのララバイ 〜次元と粒子と異世界〜

膝掛けが欲しくなるような今日。11月並みの気温。

infoで「エルフの事を書きますね」と予告した後、ちょうど話題にしていた「力の指輪」のたまっていた分を見終わり、金曜配信の週イチのペースに追いついて、やや意識が離れてしまったような感覚の今日。一昨日、書いたけど全文消えてしまった、という日記の記事は、また別の話題で。普段、韓流を中心に1日1話ペースで何かしら見ているから、通常のテレビ放送のような、続きの新作を待つのに7日掛かるというのは、中々、私の時間の粒の密度からすると、かなり遠ざかるような感じもしてしまう。

そう、消えてしまった記事にはそういうことを書いていた・・「Time is gold」というタイトルで。先日の「エスカレーターで止まっていられない」という話にも通じるけど、短気でもなく、人に待たされるとイライラするという訳でもなく、どちらかというとボンヤリ、マイペースな私が、時間の粒子の中に密度を詰めこむ、という感覚になれたのは「シングルマザーで自営業」の十数年の賜物だ。要するに人はゆとりが無ければ何とか出来るようモードチェンジする他ない。となると、火事場の馬鹿力と同じように、物質界を超えた法則で何とかするという、修行?に晒される。

そこでの基準は「意味」であり、その意味というのも、こういう仕事をしながらなので、物質界の基準ではなく、エネルギー次元での「中身」がものを言う。・・でも、まあ、この宇宙人的感覚は子供の頃から実はあり、興味向くものやペースや言動も、やはりちょっと普通の子供ではなかった。けれどこの三次元で生きるために、自分の中にある「その感覚」を呼び覚ましながらヒトとして生きていくために、シングルマザーで自営業、それも、ひとり親への保証は無いに等しく、自営業者に厳しいばかりのこの国で実践することに(魂は)したのだろう。・・本来持っていたものを出現させるために、必要な修行期間だったと思う。

人によって、時間の粒子の密度は違う。そこにどれほどのエネルギーが入っているか、振動も違う。これが、Alice Baily 著にある「インテンション」ではないかと思っている。緊張感とか、日本語では訳されてしまうけど、「密度濃く詰まっていて、かつ冷静で無駄がない」というような。「集中力」のほうが近いかも・・「インテンシブコース」のIntensive は同じ単語の形容詞だ。集中的な、という意味で使っている。

平等に与えられた時間の中で、この物質界の法則の中にありながら、時間の意味を変えるには、自分の意図を集中して注ぎ、周波数の高い粒にすることで、「質」を変えていく。それが5次元創造や、スピリチュアルな成長に繋がっていく。

(あっそうだ。物理学賞の受賞者発表もあった所だけど、量子は粒ではなく、正確には弦、でしたね。)

一昨日はそんな内容を、もっと三次元的な、昔こんな事があったり、あんなことも、と、長々と綴っていたら消えてしまった。それで良かったのでしょう・・あんなこと、こんなこと・・の、過去のエネルギーたちも昇天したのを見届けて。

「静かで落ち着いた集中力」と純粋性が結びついて、サットヴァ(Sattva)として機能するのではないかな。自分もまだまだ、半世紀も生きて来たのにボンヤリしていて、物質的に豊かで平和な時代のゆるい空気の中で、本来ヒトが育てるべき力の一つが育まれにくい社会の、一員として生きて来ていることを実感する。成長進化とは、時間がかかるものだな、と。

(P.S. エスカレーターは安全のため歩かずに立ち止まっておきましょう。)

では、エルフについて、『Lord of the Rings』の新篇、「力の指輪」視聴雑記を書いてみよう。

原作を読んでいない上に、今回、制作が始まった経緯や、脚本の背景などについても調べていないので、本当にお茶の間的な話になるかも。プラス、アルガンザの「ジェネシス」神話を絡めての考察。

本編の「ロードオブザリング」でも然りで、やはり見ていると何でも、ジェネシスの原型論にあてはめてしまう。エルフたちは神の使い、半ば別次元の存在が地上に降っているようなので、やはり「白」だろうけど、ドワーフは「赤」で、ホビットは「黄」、人間は・・何だろう? 明らかな黒サイドも非常に分かりやすい。人間は、これら全ての要素を持っているということだろう。白にも黒にもなびくし、赤い時も黄色い時もある。

原作を読んでいない私には、かつての映画版の本編で、最後に闘い疲れたフロドが、平和なホビット庄に帰らずにエルフ達の「西の故郷への帰還」に同行するという流れに、胸打たれるものがあった。最近ウクライナのニュースで、戦地の女性が「もう元の私には二度と戻れない」と語っているのを見た。多くの破壊を見てしまうと、人はそうなる。増して平和を愛する純粋なホビットであるフロドの変化を思えば。

・・彼の最後の静かな様子がとても印象的だった。ホビット村の周波数の中にあっては、体験した記憶をすべて忘れて封じてしまうか、ただただ悲しく壊れていってしまうのではないかと思う。

同じく映画本編の最後のシーンで、印象に残っていた事がもうひとつ。「西のエルフの故郷」とは、どのような世界なのだろうか・・・と。

今回「力の指輪」の第一話で、長年のその謎が解けて興奮していた。そのシーン、何度も繰り返し見てしまう。。笑

ガラドリエルが仲間とともに、王の命で「西の故郷への帰還」を許され、船に乗っている。船なんだな〜、フロドの時と一緒だ。海から繋がっているのね と見ていると、

あるゾーンまで来ると、独特の静寂に包まれて、前方に・・出た!ワームホールが開く!

海の上のワームホールに、船や飛行機が吸いこまれて行方不明になる事件が多発、という話題を「古代の宇宙人」でもやっていたっけ。その時に見ていたCG映像と同じような様子で、興奮。高次元への扉が開く時は、やはり目を開けていられないような光がそこから溢れ出す。そして精妙な空気が寄せて来て、明らかな別世界を見る。用事が済むと扉は閉まる。何らかの合図・必要性で開くのだろうけど、ドラマではエルフたちが歌を口ずさんでいた。

個人的にはこの、エルフ族の故郷=ワームホールを超えていく高次元の地球 という描かれ方をしていて、とても喜んだ。納得もしたし、アルガンザの「ジェネシス」の視点からいっても、無理なく噛み合って嬉しくなった。

そこで、放送している Am●z●n Prime の紹介ページをようやくマジメに読むと、「西の故郷」(ヴァリノール)とは「ヴァラールの国」という意味で、「ヴァラール」は神のような存在たち。ここから先はウイキを覗くと、単数形が「ヴァル」で、その複数形だそう。つまり「神々」である・・後々(ウイキの原作についての記述を読むと)、「力の指輪」にも登場しているエアレンディル(註*)の訴えを受けてヴァラールから援軍が中つ国に派遣されるとあり、原作では作者の時代を考えても恐らく、神々の世界も地上世界もフラットにつながっているような世界観かもしれない。だとしても、周波数の違う世界を行き来するにはやはり次元という区分を超えていくための「扉」が必要である。

( *「力の指輪」ヌーメノール人のエレンディルとは別の「エアレンディル」は、エルロンドとその兄弟エルロスの父だそうで、この兄弟はちなみに人間とエルフのハーフ、エルロスは人間の道を選びヌーメノールの初代王になり、その家系にエレンディルが子孫としている、らしい。wiki参照)

色々と予定している執筆物の中に、「ジェネシス」をまとめながら見えてきたアトランティスの様々な時代を描く構想がある(すでに一部書き始めている)。そこで考えさせられたのが、それ以前のレムリアまでの5次元世界とは違う、3次元の出現(「神々」による創造)のしくみと、長い長〜いアトランティスにおいても、時代によってヒトの作りは変わっていて、初期の頃にはきっと半分、5次元的だったのではないかと。そして終わる頃は、僅か今から13000年前だから、完全に物質界を生きている。(追記:そうとも限らないとその後、考えている。「the Genesis」三版では、別々の(パラレル)地球を統合して現在の文明期に入ったとしている)

けれど、必要に迫られた時には五次元の神々の世界を、物質的に「訪ねていく」事もできたのではないか・・とも思うし、アトランティス後、我々の文明期に入ってからも、聖職者のような人ならば次元の扉を時折抜けて、また戻って来る、というような事もあっただろうと考えている。それらの、多次元にまたがる舞台設定を、物質的なリアルな描写で描くべきかどうか、という迷いがあった。またその手法は中々、難しいものだ。

原作の「指輪物語」は北欧神話をベースにしているから、他の神話も同じくだけど、5次元と3次元がまだ、共立していて、往来が頻繁にあったし、全ての人の目に見える形でそのための「扉」があったのだろうと。「力の指輪」や映画の本編から察するに、その世界観は神々(恐らく非物質)の住む世界と、その膝もとで暮らす物質体を持ったエルフたちが在り、エルフたちは次元の扉を超えて人間その他の種族が住む世界へ出て来る事が出来る。その逆は難しいらしいけど、「力の指輪」でも「西に行った」者の話がチラチラ出てくる。(エレンディルの下の息子、かな?)エルフと一緒ならば、扉を超えられるのではないか? 人間ではないけどフロドの例もそうだ。

物質体を持つ、と言ってもエルフたちは不老不死で、何でも有能にやってのける。戦で深傷を受けるとセルフヒーリング機能が効かなくなるせいか?亡くなってしまうこともあるそうだが・・闇に囚われる事も稀にある。

アルガンザの「the Genesis」においては、2017年の冬以後、アトランティスにおける大戦争と、そこに出陣するエルフ軍、ケルビム軍のストーリーが出て来る事が続いた。一番、私たちがフタを開けたくなかった記憶だと言えるかもしれない。この路線もだいぶまとまって来て、神々の世界に住まい半ば神でありながら、レムリア期には自然界(が当時は人間の魂の生き場所)の秩序を守るために高次自然界に在り、アトランティス期には、大戦の援軍や、人間たちの要請があった時にワームホールを超えて現れてくれる助け手として、活躍していたのだろうと思う。

そんなエルフ(エロヒム、エロス)たちが地上で犠牲になってしまったり、完全体のまま「故郷」に帰れなかった場合に、地上のシステムに情報的に囚われてしまい、そのカルマゆえ、人間界に生まれ輪廻転生しなくてはならなくなった。ジェネシスにおけるエルたちの物語は、そのまま今を生きる私たちに繋がっている。原作者のトールキン博士も、無意識でアカシックを受信し、描かれたのだろうと思う。

アトランティスに関する神智学の文献の中に、「人間がマヌたちのアドバイスをちゃんと守っていれば、肉食動物は生まれなかった」という一文がある。マヌ、というのは、アルガンザの観点ではちょうどまさにエルたち=エルフたちを中心とした、「5次元の神の世界と人間の文明を繋ぎ、導くグループソウル」である。アトランティス期、人類が神々の教えを守らなかった事で、肉食する動物が誕生したそうだ。そして人間たちも争い合うようになったのかもしれない。

「力の指輪」を見ていると、誇り高き、神々の子であるエルフたちは、正義感が強くいつも正論で、人情や感情などはあまり重視しない。何でも出来る多彩な才能と、キリリっとした容姿と周波数。けれど、言葉は丁寧なのに率直すぎて、人間やドワーフの感情を損ねるらしい。。。無意識なる失言、それでも特に悪いという反省もなさそう。笑 そんな、相違をどれも偏りない愛を込めて描いているような眼差しは、原作から踏襲されているのだろうと想像される。

ホビットの祖先であるという「小さい人たち」ハーフットは、移動する行列で、「誰も列を逸れない!」「いつも仲間と一緒!」と唱えて進む・・・という、すごい同調圧力で(笑)体が小さいから無理もない防衛本能、外の世界に興味を持ってはダメ、勝手な行動をとってはダメ、冒険も空想もダメ、収穫や仲間のことに集中していなさい、という。それが少し洗練されて、後のホビットになるのかもしれないけど、日本人を見るような気がするのであ〜る。

クリスタルもちょいちょい出て来て、やはりスピの人々はこの作品、みんな好きなのかもしれない。・・でも「光と闇の闘い」がテーマであるから、どこまで見続けられるか、Prime 特典の1stシーズンを過ぎたら、見続けるかどうか、まだ分からない。ただ、ヴァラール、ヴァリノールには興味津々。どんな風に描かれるだろうか? 時折記憶に残る、シャンバラのある五次元インナーアースの世界と、やはりきっと、似ているのかな。

Love and Grace