「人間はAI」かもしれない、説

ヒストリーチャンネルを朝から何気なくBGMで流していたら、以前も見た「AI」についての回が。そして確か以前もそのことをチラリとこの日記か、Twitter かで呟いた気がするけど、二度目になると以前よりも気付く、感じることもあって、備忘録も兼ねてもう一度。

たびたび、同チャンネルの複数の番組でお見かけする、私も本を持っている日系人物理学者のカク・ミチオ博士のコメントから。

今世紀のうちに、人間の意識をすべてデジタル化する(データに置き換える)技術が可能になるだろう。それによって、別の惑星などに「自分の意識」を転送し、その地で肉体を用意して、その中に意識データーを入れることで、別の星で「自分が生きる」という体験が可能になる。つまり、本体である自己はこの場に居ても、自分の分身が別の星に存在する、という。まさにアバターであり、作られた肉体の中に宿ったその存在は AIだということになる。

また、制作側のコメントとして、古代地球にやってきた「神々」(として神話に語られている存在たち)はロボットであり、既にそのような技術を使って地球で人類を「作った」=創造した・・・ゆえに、既に地球人である私たちは「AIである」。という。今出来つつある技術でも、AIは自己再生により増殖が可能だそうで。人間=有機的な肉体を含めて自己再生できるAIであるという説明には、個人的にはとても納得できる。

最新の科学的知見を絡めて言い直した、つまり表現が違うだけで、私たちの本質や、ここでやるべきこと(輪廻転生からの解脱)のテーマは何も変わらない。

これを突き詰めていくと、神=宇宙の最高存在 とはでは何なのかということにもなるし、神の創造物という意味では、あらゆる世界、存在、生命が、同じ表現にあてはめてしまえば「AIである」となってしまうかも。そうなると、反感を抱く人も居るだろうし、誤解も発生しそうだ。けれどこの番組の良いところは、最新の研究成果と最先端の情報を、科学者や物理学者のコメンテーターを通して伝えつつ、古代の宇宙人という「神々」の奇跡を極めて真面目に探究しているところ。ただ不思議なミステリーを、何となく追いかけて不思議がっている、という姿勢ではない。

古代に地球を訪れて、人類を創造、文明を導いた「神々」がなぜ、ロボット(AI)だったかもしれないか・・というと、現代の地球で宇宙探索をしている立場や視点になって考えると(実際にその立ち位置に居る研究者・科学者がコメント)、生身の人間にとって人生の長い時間を費やして遠い宇宙に行くリスク、危険を考えると、人間なみ、あるいはそれ以上の人工知能を搭載した存在、ないし宇宙船そのものを派遣したほうが、賢明だという考え。これも尤も。実際にそんなプロジェクトは既に始まり、動き出している。

日本や東洋の人々は特に、とても情緒的な部分を重視するので尚更に、「人間は機械とも言える」なんて言い出すと嫌がる人々も多い。私自身は、逆に今、人類が生み出している機械、ロボットなどに、人間が支配されていくような風潮のほうが怖く感じるし、抵抗がある。

遠い昔(時間軸は直線ではないという話は置いておいて)にこの地球を整えて人類を作り出し、どこかに存在する宇宙的意識のデーターを人間というシステムの中に搭載して、この三次元をバーチャル体験するという仕組みを作り出した高次の意図や計画は、それが神秘な神話的ファンタジーであっても良いし、言い換えれば極めて科学的で、ある意味、「神々」である彼らによる「人工物」であると人類を表現することには、まったく違和感は無い。

サナトクマラ、白山姫、という「地球を運営するシャンバラの中枢の意図」(ロゴス)が、左右に配置された巨大なメカ(パイプオルガン)の様に見えることが何度かあったが、そこに投影された大いなる高貴な「意識」あるいは「プログラム(地球に関する計画)」の本体は、シリウスや太陽などのより高次元に「実在」するのだろうと思っている。

そして、今話しているようなことも含めて、私たちが肉体を伴うシステムを卒業する、いわゆるアセンションの段階に至った時には、アリス・ベイリーの言う「イリュージョン」として、一つの小説の冊子がここに置かれている、というくらいに客観視するのだろうと思っている。

19世紀末〜20世紀前半、神智学が生まれた時にはまだ、時代的に存在し得なかったそんな科学的、テクロノジーに根ざした視点や説明を、「変わらない真理」「守べき知恵の流れ」を軸として、時代に合ったものに置き換えて、または仲介の言葉を添えて、さらに次世代に残す。今を生きる私たちの、メタフィジカル探究者としての使命はそこにあるのだろうと思っている。

Love and Grace,

Amari

潜在意識と自由意志

今朝、またまた!書いていた長〜い日記が、うちの天使たちの検閲?に引っ掛かったようで、アップロードの瞬間に消えてしまった。ジェネシス情報だったので、取り扱い方を間違えたようで。出す時期というのがある事はよく分かっていて、いつも注意している筈なんだけど、、先日のInfo記事、からのエネルギーで少し感覚がゆるんでいたかもしれぬ。・・というか、ここまで来ると単に私がドジだという事かもしれない。

そんな訳で、どっちを書こうかなと迷ったもうひとつの話題で、気を取り直して書いておく。

最新の脳科学の研究では、人間の「自由意志」は存在しない、ことが分かりつつあるという。衝撃?でもあるけど、なかなか奥深く、哲学な発見だと思う。どういう事かと言うと、潜在意識にすべてプログラムされていて、自由意志で決めている、動いている、感じたり考えたり選択・行動したりしている、と思っているのは顕在意識の錯覚で、最初から決まった通りにそれらが顕現するのだ、ということらしい。

逆に考えてみると、映画「インセプション」のように(前に記事を書いています:「潜在意識と始まり」)特殊なスキルがある人が、潜在意識に手を加えることで、他人の人生を操ることが出来てしまうということだ。洗脳やコントロールよりも、もっと密やかにさり気なく、当人に「なぜかそうなってしまう」「そんな気がしてくる」という部分まで埋め込んでしまうことが出来るということか?!

私の最近の感覚だと、これをもう機械仕掛けで、AIなどにセットしてしまうような可能性もあるのではないかと思っている。エネルギーワークだって、決して悪用しないでね、という説明とともに、「潜在意識にアクセスする」という手法も紹介されている。この地球上のカルマの法則、因果応報を知っている(正常な畏怖心、正しい怖れを知っている)人は決してそんな事はしないだろうけど・・

前のインセプションの記事の時に書いたように、映画でターゲットになっていた御曹司が「潜在意識をいじられないように幼い頃から訓練を受けている」というセリフがあったけど、ライトワーカーの人々も、その訓練は必要ではないかと本当に思う。

潜在意識に組み込まれているものは何かと考えると、遺伝などの生物学的な情報、生きている社会その他からの情報、そして魂からの転生の記録はオーラ体を降りて来て脳にプログラムしていると思われる。自由意志があるようで無い、となると、私たちは何を目的として生まれて来るのだろうかという、フィロソフィーの世界になっていく。

何かというと、やはりそれでも「意志」を持って、潜在意識にプログラムされている自分の役作りのシナリオを、清めて洗練させていく為、なのだろうと思った。自我(エゴセルフ)にとっての「自由」が、有るようで無い、自由なようで自由ではないというセッティングの中で、ただのロボットではなく、意志をもっていることで、そのプログラミングとの摩擦に泣いたり笑ったりしながら、カルマや時代的な縛り、家系的な縛りではなく、自分自身の高い意識による運営を、潜在意識の中に存在する魂とともに実現させていく・・ために、ここに居るのだろうと思う。

赤いタイプの人、つまり念力が強い出力型の人は、「念力で」というよりもその人の想念波で、周囲の人々の気持ちや行動、だけではなく、潜在意識に影響を与えて状況まで、変えてしまう可能性がある(ぜひポジティブな出力をして欲しい)。そして青いタイプの、入力型、受信のほうが強めの人は、本当に注意しないと、自己評価や気持ち、気分だけでなく行動・選択までも、知らずのうちに潜在意識から他者の出力を受け取って、現実創造をしてしまう可能性もある。どちらも、注意が必要だ。

そして第三、第四、のタイプと居るように思う。周囲をジンワリと自分のイメージのように染めていってしまう、自分の中にある世界観を周囲を通じて現実化させてしまう魔法使いタイプの人(実際過去生で身につけた魔術的な手法を無意識に使う、作動してしまうのだろう)は、オーラの大きな広がりの中に他者を巻き込まないよう注意していないと、自分の考える世界のシナリオで周囲の現実が作られてしまう。それはその人の顕在意識とは関係なく働く(もちろん染められない、巻き込まれないタイプの人々も沢山いる)。

いずれにせよ、人間はそのような相互作用を通じて世界を共同創造している。ゆえに一人一人の中に、ポジティブな意識やエネルギーや感情・思考だけがあれば、世界は良い状態になる。

アリス・ベイリー著書における大師ジュワルカルの言葉で、意志ではなく意図を重視せよ、という教えがある。それと関係がありそうだ。最新研究によると、本来、意志は機能したくても出来ないということだから・・・ 意図というのは、もっと高度な、ソウルと連携した人生の創造性と、関係しているのだろう。ソウルとともに描いていく、人生の方向性、アウトラインのようなものなのかな。意図を大切に。

Love and Grace

Amari

偉業と偏見の狭間で

2017年3月、当時まだ正式な名前が決まったばかりの「アルガンザ・ジェネシスヒーリング™️」の、最初の世代の伝授最終段階のセミナーを前にして、バイブルとなる「the Genesis」のまとめに入ろうとした時、直感的に導かれて、結果、ジェネシス神話、特に、太陽系における魂の進化スキームについての教書となったのが、イギリス出身のチャールズ・リードビーターの概念。神智学協会2代目会長アニー・ベサントの右腕、とも呼ばれた方。

私はこの方の肖像をネットの画像検索で見た時(ぜひ見てみて)「一目惚れ」してしまい、その純粋さ、優しさを窺わせる深い瞳の光に、写真と見合うだけで包まれるようで、以後、こっそり印刷してブロマイドのようにして大切にしている。ジェネシスの伝授の際には、皆さんにもお見せしているし、アルガンザの内輪では「校長先生」と呼ばれている・・。この「一目惚れ」とはもちろん、師匠として、ということ。。

何故だか日本語に訳された書籍が、実際の業績の割には少なく、その背景なのか、様々な「問題点」を指摘されたり批判されたりしてきた当時の空気感が、何となく今でも、後世の私たちの時代でも、出版関係者等を迷わせるのかもしれない、と思ったりする。チャクラの概念を、インドのヨーガに学びながら西洋に分かりやすく説明し、オーラの層やチャクラが7つあり、こんな色をしているとか、それぞれの性質とか・・を、最初に整理し、提示し、紹介したのがこの方なのだ。

エーテル体、というのはインド思想にも示されていないものを、この方が、肉体の一部でありながら物質ではない層として、概念化した。

アリス・ベイリーの素晴らしい仕事も、土台としてはこの、リードビーターの偉業の上に積み重ねられたものだ。

数少ない邦訳書の中で、有名な『チャクラ』の巻末、訳者の先生方による「解説」に、非常に詳しい経歴や神智学のあゆみ、業績や人生について記されている。以前読んだ時に、協会内でも批判や嫌疑が浮上して、それも長期的に・・ 人望がある一方で、どうも叩かれてしまう方であったよう。

60代で、支持者からも「はっきりさせて欲しい」という声が上がり、法廷で争われた結果、無罪となり、疑いは晴れたそうだけど、最近読んだ現代のイギリス人の女性が書いたヨーガ系の情報本で、「リードビーターは小児性愛者」と書かれていて(!)、その他の情報ソースでも、彼が見出したクリシュナムルティや、その他の才能ある少年たちに対して、良からぬ事をしたという記述を以前、見た事があるのを思い出した。

以前、「チャクラ」の解説で裁判の話を読んだ時には、以下のような文章が添えられていた。

「この間(裁判沙汰の当時)彼のとった態度は、リードビーターの人柄をよく示している。彼は非難に対して一言も弁明せず、攻撃する人たちを怨むような態度も全くなかった。彼をよく知る人たちは、彼のその態度は忍耐の結果ではなくて、率直で純粋な性格によるものだと言っている。殉教者ぶる気持ちは全くなく、協会の大きな目的だけを考えていた」(「神智学協会小史」から)

私はこの一文を素直に読んで、マイケル・ジャクソンと同じ様に、何らかの理由で「小児性愛者」に仕立て上げられてしまったのだろうと、思ってきた。

けれど、書籍として販売されている情報源や、ネットで出てくる目立つ記述の中で、決め付けられているかのように書かれているのを見かけると、改めてショックを受け、フレームの中に入っている「校長先生」に、このところ心で語り掛けていた。。

情報というのは本当に曲者で、聞いた人には真偽を確かめる前に偏見を植え付けてしまい、そして何故かそれを完全にぬぐい去る事は難しい。イメージを残してしまうのだ。

まして、この、神秘の追求という世界に潜むよからぬエネルギーのこと、ネットワークについて、また、不意に誰か隙のある人の中にそれらが「舞い降りて」来て、仲間だと思っていたような身近な範囲の人が、攻撃要員に変わってしまう事が起こりうる、という事が、端くれながら私も体験や見聞から分かっている。スピだけではなく例えば韓流時代劇でもよくあるでしょ・・・相手を落としたい時、仕事の邪魔をしたい時、非常によくある手口でもある。

そして、あまり深く考えない大衆的な層には、真偽はどうであれ、偏見を植え付けてしまう。

私の主観として、「師匠」を信じることにしたい。生涯独身だったようだから、同性愛者であった可能性は(純粋な瞳の輝きからしても)察せられる。そんな彼が、インドで少年たちを次々と見出して、イギリスにおいて高等教育を受けさせるというプロジェクトを行っていて、指導していた神智学協会の青年たちによからぬ事を教えた(これはクンダリーニの暴走にまつわる性エネルギーの問題に関する情報を教えた、という事だと思ってもいる)などの、状況が起きていたために、

何らかの理由で彼を陥れたい、という人物や集団、あるいは「チャクラ」「オーラ」などの人類が賢くなる知恵を西洋社会に広めるという彼の偉業を邪魔するために働いた見えないエネルギーが、闇が光を潰そうとする時に行う方法論で、地上に居る人間たちを動かし、彼の仕事を封じようとしたのかもしれない。

そして、100年近く経過した今でも「小児性愛者」なんて書かれてしまうような、流れが生まれてしまったのかも。ブラバツキーやアニー・ベサント、後のアリス・ベイリーには起こらなかった?そのようなスキャンダル戦法?が、彼に起きたのは、同性愛者?、あるいはそう思われる空気や状況があった事が、隙になってしまったのかもしれない。

当時(欧米の一部の国では)同性愛者というだけで「罪人」として投獄されたという状況は、悲劇の天才アラン・チューリングに関してもよく語られる。(後述)

いや、真相は分からない。同性愛はその人の自由であるし、ある種、魂のカルマであることを神智学も伝えているから、問題視すべきではもちろん無いけれど、「小児・・」はマズい。どうしても、晩年の肖像からしてそれは結びつかない。幼い弟を、暴徒に襲われるという悲劇で亡くしていて、自身もオクスフォード進学の予定を、父親の経済的破綻ゆえに断念して、聖職者の道へ。

そのような経緯があったために、縁が出来たインドで、才能があっても貧しい少年たちに、教育を受けさせたいと願って、実行したのではないかと、思いたい。インド滞在中の使用人の少年を、進学させるために自身もわざわざイギリスに帰国して、出版社で勤務してお金を稼ぐ様な事をしている。幼い子に強要するような自分勝手な人が、そのような事をわざわざするだろうか??

クリシュナムルティとのすれ違いなどが、リードビーターの印象を悪くしているのは恐らくあるだろう。

読書から、こんなことを考えていた最近。それがまたいつものようにシンクロニシティで、たまたまNHKオンデマンドを覗いて、何となく見始めた『ヒューマニエンス–40億年のたくらみ』の「数字」の回の後半、リードビーターが亡くなる1930年代に、イギリスのアラン・チューリングという数学者が、今のコンピューターの元になっている二進法によるデジタル概念を発明し、後にナチスの暗号を解読するという活躍をしながらも、

同性愛者であったために「有罪」となり、ホルモン治療などを強要され、41歳で自死したというエピソードを知った。マイケル・ジャクソンも同じくだけど、この世に生まれ落ちてくれ、偉業を成し遂げてくれている天才たちを、なぜそんな形で早死にさせてしまうのだろうか・・・と。これこそが人間社会に発生する闇の力であるし、多くの人間がその恩恵を受けていながらも、そんな天才たちを守り救うことが出来ずに悲劇に追いやってしまう。

死後、認められる才能と偉業。・・そして無罪であったこと、純粋で優しい魂にひどい扱いをした人間社会の実態に、人々は後で気づく。

チューリングは、今現在のイギリスの新50ポンド(2021年〜)紙幣になっているようで。

師匠、リードビーターの「汚名」は晴れるだろうか。それとも・・? 当時裁判所は「詳しく調査」した結果、無罪判決を下したらしい。けれど、そうとは思えない「伝承」が今でも平然と見受けられる。チャクラについての見解も、インドの専門家によって誤りがある、と判定されている部分はあるそうで、それは仕方ないと思うけど、、、どこかで読んだ情報では「チャネリング情報が間違っている」と批判されていた。

・・・けれど、著名な作家でも研究者でも、その当時の見解で記録するだろうし誤りが見つかることだってあるだろう。増してチャネリングや透視が「間違っている」との批判を受けるという神秘家も、珍しいのではないかと思う。冷静に考えるとやはり、とても、何か不当な扱いを受けてしまっている「師匠」の事情が見えてくるばかり。何かあるのだろう、あったのだろう、きっと。(もちろん欠点や落ち度も、人間だからあったのだろうけれど・・)

そして何故に私はこんなにも、心を向けているのだろう。と、考えながら今日も「校長」の肖像写真を見つめる。

チューリングの映画「イミテーションゲーム」を見てみようかな。

Love and Grace

参考文献:

『The Chakras チャクラ』C. リードビーター(本山博 湯浅泰雄/平河出版社)

「ミカエル時代」を生きるとは

エルフ界の癒しが起こりやすいと毎年繰り返し言っているこの時期。エルフ=エルと呼ばれるものたち(男性集合意識:エロス/女性集合意識:エロヒム)とは、言い換えれば、文明の主「マヌ」たちとほぼ同じ立場で、人類と関わって来ている。ロゴスとそのもとで働く「神なる世界」と、魂たちつまり今は人間として生きている生命圏の間に在って、進化の全体的プログラムのために「神々」とともに働く者たち、であるゆえに。

エルフ界=自然界 と限定せずに、マヌの視点での考え事も、この時期増えてくる。そんな折、たまたま手にとったシュタイナー本(シュタイナーは著書というより講演録が多い)に、訳者(シュタイナー研究第一人者でもある)高橋巌先生が、2020年の12月に京都で行った講演録が添えられていて、それが興味深く、メモしておきたいと思う。

20世紀は決定的な歴史的変換点だった。シュタイナーの観点でそれは「時代霊」という、その時代を特徴づける聖なる象徴的存在が変わるということ。以後、私たちは「ミカエルの時代」に生きている。ミカエル文化とも呼ぶべき、その時代の人間たちが目指す、心がける意識の在り方とは、日常の中の物質的、現実的現象の中に常に霊の世界、「神」の法則のようなものを感じる、という境地や態度とのこと。

この時代霊というものは、「対象化して考えてもどこにも見当たらず」、「関わって、結びついて、それを自分の問題として受け入れた時に初めて、向こうから与えられる何か」だとのこと。

例として挙げられていた三島由紀夫。ほか、思想家と呼ばれる人たちや、識者の著書などにもよくあるように、その時代の特性、風潮、向かおうとしている先を、憂いたり批判したり、時に三島のように嘆いたりしながら『関わる』そして『結びつき』、『自分の問題として受け入れる』ことが叶った時、その「時代」という霊的なエネルギーが、自分が何をすべきか、もしかすると自分が何者か、も含めて、答えをくれるというのだ。

このお話に深く納得出来た。ここを卒業できないと、同じ時代霊の時代、つまり「ミカエル時代」の課題を消化することが出来ず、何度も生まれ変わるのかもしれない。それでも卒業できなかった魂は、またいつか巡ってくるミカエル時代に宿題を持ち越すのかもしれない。。

思想家でも無いけれど、この時代と関わり、結びつき、自分の問題として・・ということを、今世ではなぜか若い頃からやって来ているかもしれない。同時に、20歳頃からは三島由紀夫に傾倒した時期もあり、ちょっと危ない程だった。高橋先生は三島と少し交流があったそうで、話の中では、「時代と関わり、結びつき、自分の問題として」受け入れる事が出来なかった為に、あのような方法(最期の選択)を取らざるをえなかったという例として語られている。

確かに確かに。私は若い頃にはそういう人々に妙に惹かれたのだ。違う時代であっても、たとえば殉教者や、近代近世の夭折する芸術家など。

時代霊の課題を、自分のこととして「関わり」「結びつき」、挫折した人々に惹かれた(同情した)、と言い換えることも出来ると今回思った。恐らくそんな過去生が多かったのだろう。

多くの魂たちが、大衆的な精神状態から目覚めた後に、これらのステップを踏むところまでは比較的、簡単なのかもしれない。知性と勇気が少しあれば。

けれどその先、時代の様相を「自分の問題として受け入れる」という段階が、大きな壁なのか。課題はそれだけではなく、なおかつ、時代のニーズによって答えをもらった「自分という魂」の活かし方を、実際に生きるべしという。

ミカエルというと「正義」の象徴のようなイメージもある。けれどシュタイナーは、ミカエルからルシファーが別れたと考えているし、ミカエル文化の精神というのも、決して二元論とは違い、「すべての人が日常の中で」目覚め、霊的な意識を磨いていく時代であると特徴付けられているよう。そして、地上にあるものに全体性を見出していく・・と、スピリチュアルでもよく言われているような時代、つまりは「ニューエイジ」の特徴を先にシュタイナーも語っている。

そこで思い出したのが、確か「星巫女プロ専科」のテキストに書いたように思うけど(違っていたらゴメンナサイ、、)物事の中に「奥行き」を感じられるかどうか、それはつまり、多次元性と言い換えることも出来るが、私たちという存在の仕組みが多次元的であり、この小さな自我をいかに超えていくか、この世界や、自分の思考活動(感情はもちろんのこと)という幻想を超えていくか、が大事であって、

三次元の世界の広がりの中で、何が、誰が、正しいとか、正義だとか、と言っているうちは決してここから抜けられないということ。

もしかしから誤解されているかもしれないと、よく思っているのが、アルガンザの『ジェネシス』世界観。そしてヒーリング体系もそうだけど、私自身はなぜかベースに仏教またはその基盤であるインド思想の宇宙観に近いものが元々あって、ヒーリングを始めた時から、「ヒーリングやエネルギーの世界の法則は素晴らしく人間を救い、また変容させてくれる。」その事を追求していく・・・一方で、これは今の私たちに有効なだけであって、「地球の物質的人間」という体験が終われば、必要なくなると思っている。

宇宙的な絶対真理という意味ではなく、私たちのソウルシステムの中に埋め込まれた情報(カルマ・ネガティブなエネルギーブロック・制限・抑圧など)を解いて昇華していくために、必要な「物語」であるという意味で、ジェネシスも最近はよく「神話」と表現している。

高橋先生も講演の中で、シュタイナーのいう「ミカエル」などの言葉も、ある種の物語、あるいは象徴であると自分は考えると仰っているところ、とても頷けた。

そして、このような話というか感性、感覚が、なかなか伝えるのが難しいということも、長年サロン、スクールをしてきてよく分かっている。が、肉体や自我というものと、スピリチュアルの世界に橋をかけるのがこの「ミカエル時代」の主題であるというのだから、まさにその難しさに取り組むということは、必要な学びをしているのだと、しみじみ思った。

時代の課題を自分のこととして、悪戦苦闘する・・・(自分の生き場所で自分なりに、で良いのだと思います)それによって、この時代に生まれて自分が何をするべきか、つまりは魂の使命のようなものが、自ずとやってくる。とのこと。

まずは、世界で起きていること、自分が生きている時代に対して、意識をオープンにするところから。ある意味で、パンデミックによって強制的にそのフタを開けられているのが、今、なのだろうと思う。

Love and Grace

Amari