始まりの奈良。

昨日の帰路の電車で、継体天皇についての書籍を読んでいて・・帰宅後、 前日まで見ていた韓国ドラマが終わってちょうど途切れ目だったので、そんな時に開くNHKオンデマンドですぐに目に入った(topにサムネイルが出ていた)26日に放送されたばかりの『歴史探偵』、「古墳最前線」を見始める。(2023年7月の日記)

日本全国、発見されているだけで16万の古墳があるそうで、コンビニの全店舗数の3倍にあたるとか。もちろん、多くは宅地開発やそれ以前の時代で既に破壊されたり埋もれたりしているだろうから、私たちの生活圏がそもそも古墳だらけ、だということだ。

「おすすめの古墳3選」の中に、出た!継体天皇の陵墓と推測されている大阪、高槻市の今城塚古墳が入っていた。近くの別の古墳が継体陵とされている(宮内庁)そうだけれど、多くの研究者が「こちら、」と言っているのが今城塚のほうらしく、NHKさんも「継体天皇陵と言われている」とナレーションしていた。

そのほか、最近大きなニュースにもなって個人的に注目してYoutubeで見ていたばかりの、富雄丸山古墳も取り上げられていて、いつもいつもそんな調子で、思考や直感と、連動して特に探さなくても入ってくる情報や動きや流れは、「図書館の天使」的なガイドたちの手配なのだろうとまた合掌して見終えると、「関連番組」としてサムネイルのトップに上がっていたのが、昔から割と好きな「新日本風土記」という番組。今年3月に放送された「はじまりの奈良」が目について。今朝はさっそくそれを見てみた。

「はじまりの奈良」その心は、奈良といってもヤマトの国の(とりあえず「正史」である記紀が伝えるに)始まりの舞台である、桜井市・天理市あたりを、山辺の道を軸に、取り上げていた。「正史」がその前提で色々と書き残しているので、「ヤマト王権の始まり」「仏教の伝来」「相撲」「みかん(柑橘類の伝来)」「能楽・芸能(番組では触れなかった)」などの「始まり」と言われている桜井、三輪周辺の色々を紹介していた。三輪そうめんも。

私も20歳の時に最初に奈良にはまった旅は、(何故かガイドブックから選んだ)山辺の道を歩くコース。次々と現れる古墳や、疲れ果てた頃にたどり着いた大神神社に感動して。

移住してから横浜に移るまでの4年の間、幼稚園〜小学校低学年だった娘の引率で歩いた三輪の麓の通学路、地元人しか知らないような田んぼの中の三輪の絶景ポイント、一人で早朝散歩したり、家族で出かけた山辺や桧原神社付近、自宅サロンに来てくれたお客さん達を駅まで送りがてら一緒に歩いた道、素麺屋さんや、みかん狩りに行った付近、娘の幼稚園がすぐそばで生活圏内だった箸墓古墳などなど、懐かしい風景が次々と。纏向遺跡も自転車で見に行ったっけ。奈良びとの絶妙なトークも懐かしい(笑)。

後半の2年、マンションの8階から眺めていた360度の奈良盆地のパノラマ。やはり特別な場所だったと想う。

春分と秋分に、三輪山から太陽が昇り、二上山のふたつの嶺の間に沈む。その観測ポイントが桧原神社。「元伊勢」と言われる。この場所を最初に見つけた人々は興奮しただろうな。縄文の人々か、または農耕のために暦の目安を必要とした弥生の人々か。

ヤマタイコクは何処か?と、相変わらずまだ、決着が付いていないらしい。ヤマタイではなくヤマトであると思うけど・・ただ、連合政権が出来るまでには下地としての王国が、三輪の麓にあっただろうし、葛城、熊野や、出雲はもちろん、丹波、東海〜東国、たくさんのクニグニは存在していた。だから「始まり」と言っていいのかどうかは、本当のところ微妙ではある。けれど一つの国としてまとまろうとした、そのセンターという意味で国史の「始まり」は確かにその通り。

初めて撮影を許可したという、石上神宮の「鎮魂祭」や、土中に刀剣が埋められているという禁足地の映像も興味深かった。宮司さん(森家)が物部氏の子孫ってさすが凄い歴史だなあ。以前飛鳥をひとりで回った時、お目当ての(ソガ系天皇家ゆかりの)遺跡を探していたら民家の庭先だったので、ピンポンしてご挨拶。表札を見ると苗字に「蘇我」が付いててびっくりした事を思い出す。

そしてこの番組のお影で気づいたのは、私はやはり「始まりの地」として、あの付近(磐余(いわれ)という言い方が割と好き)に惹かれたし、今でも凄みを感じるのだなあと。子供の頃から「始まり」を紹介するアニメ番組も好きだったし、ダーウインの進化論を知った時には本当にワクワクしたっけ。・・それが結局『ジェネシス』の仕事にも繋がっているのだ、と。「始まり」を「知りたがる」、あるいは「掘り下げたがる」。

正史にはならなかった、なれなかった沢山の「始まり」もまた日本全国にあるのだろう。そんな事にも思いを馳せながら。

Love and Grace

差別を無くすための差別?

多様性を実現するというのは、最近よくあるメッセージ。実際にそのための活動や発信は常々行われていて、法律の改正などにも反映されている。

私は決して「保守的」な人間のつもりは無い。物心ついた時から・・いや、思春期あたりから、多様性を許さない社会の風潮などに反感や嫌悪感を感じて、若い頃はマイノリティ的な立場の人々を取り上げるエピソードを、小説に書いたりもしていた。

けれど、ここ最近何か引っかかる、といつも感じるのが、ハリウッド映画やアメリカのドラマで実際のパーセンテージはそんなんじゃないでしょう!というくらいに、多様性を強調するような設定や展開を多く見かけて、何事も「やる時は徹底的に」という姿勢なのかな.. とまあ受け止めていた。

ディスニーの実写版「リトルマーメイド」のアリエルに、特に中国社会が反発を抱いたと報じられた件も記憶に新しく。個人的には人魚姫が黒い肌であっても違和感は無い… けれど、先日たまたま知った、ブロードウェイで歴史的終幕となった名作『オペラ座の怪人』(大好きでブロードウェイとロンドンで計3度観た)のクリスティーヌが、黒人の女優さんだった事には少し驚いてしまって、設定がそもそもフランス人では無かったか? 。。と。少し不自然さは感じてしまった。

本当の平等ってなんだろう。

ディズニー社は、「Reimagine Tomorrow」のスローガンのもと、「公平に代表されていない集団」から、全体の半数のキャストを選ぶと発表しているそうだ。それから最近ニュースで見かけたアメリカの最高裁判所が、大学におけるマイノリティーの学生優遇措置は「憲法違反」であると判決を下したという話。

1960年代から、黒人学生は入学選考において優遇されるという措置が取られて来たらしい。こういう件を「アファーマティブアクション(差別是正措置)」と呼ぶらしい。・・何というか、とても欧米的な方法だなと感じた。

同じ実力の人が差別されずに同じ扱いを受ける・・差別撤廃は、そのくらいでいいのではと考えてしまう。そういう意見も方々、あるらしい。けれどそんな生ぬるさでは、社会のバランスは変えられないのだ・・ということかもしれない。

ディズニーのアニメで好きなのは「ヘラクレス」や「ポカホンタス」「ノートルダムの鐘」など。ギリシャ人のヘラクレスをアジア人が、ネイティブアメリカンのポカホンタスを白人が、ジプシーであるノートルダムのヒロイン・エスメラルダをそうは見えない俳優さんが演じていたら、やはり気になってしまうだろう。芸術・娯楽作品にまで、「差別是正措置」を導入しなくてはならないのだろうか、と。原作の設定を変えるようだと寧ろ不自然さが生まれるし、

あまり行きすぎると、反発も出てくる。そういう時の反動って憎しみ、八つ当たりも混じってくるから、怖い気もする。

人魚姫、アリエルにもともとの人種的な設定は無いだろうから、黒人の女優さんでも全然良いと想う。今回、こういった問題に終始慣れている欧米ではなく、中国の人々が強く反発を表明したという点も、理解・想像出来る。

グローバリズムの時代。そのうちに人種などなくなるくらい、地球人はミックスされていくのだろうか。それはそれでいいとも想う。しかし、多様性が普及することで、結局、文化や民族という点では、多様性を失うのかもしれない。そんなパラドックスも感じる。差別はないけれど、それぞれが、変に力むこともなく、ごく普通に、自然に、共存している。・・それでいいと思う。

社会というのは、感情が常に伴うので、中々難しいものだ。誰かの「気持ち」を気に掛けるあまり、他の誰かが蔑ろになったり、バランスを取ろうと優遇することで別のどこかに歪みが出来たり。神智学が言うように、感情という問題をうまく統御出来るようになっていくことが、世界をよくしていく為の「まずは自分から」の第一歩だろう。

Love and Grace

学びは進化。澱まずに変化しつづけること。

久しぶりに小蛇(白小蛇、またはミニ白龍)が左に来ていた。いつからだろう?今朝か、昨晩からかな。

「イワナガ姫の遣い」というほど攻撃性はない。その場合だと右の内蔵系に来るけど、左。怒りではなく、ひたすら悲しそう。でも脾臓にしっかりと繋がれていたから、バンパイアの一種であることは確か・・
人間だって、悲観的な人が側にいたら、そしてずっと泣き言を言い続けていたら、自分の波動も下がるし不快なもの。避けられるならば避けたい。

それと同じで、ただペタっという感触がエーテル体にあるだけであっても、その悲しそうな、そして頼ってくるような響きには心地よく無さを感じるから、外さずにはいられない。ワークし始めると実際に、触手のようなものが脾臓にしっかり繋がっている。。右の一部もズキっとした。

悲しいのかもしれないけど、人を頼ってはダメ。人から吸い取ってはダメ。解放して貰いなさい、貴方を「飼っている」人の悲しみの感情から。・・瞑想の中、レコンその他で外す。

考えてみれば、澱んだ水からこういった小さな精霊のようなモノノケが生み出されて、それをマジカルに取り扱うタイプの三次元や四次元の存在が居て。水の澱み=「エヴォリューション」テキストに書いている「腐」にも通じる。セラフィムやアンドロ存在(自然界の精霊)たちが、ネガティブな物質界の場や術に取り込まれ、生まれたエネルギー。

そう考えると、イワナガヒメ、リリスなども「もともとはセラフやアンドロ(精霊)たち」とも言えるし、人間界においても、腐の感情や行動や現実もあれば、それらとは無縁の感情や行動や現実もある。

スピリチュアルも、それ以外の分野でも、「難しいことは考えず言われた通りにしていれば大丈夫」ということは無い。特にスピリチュアル。
唱えていれば大丈夫、救われますよ、というタイプの鎌倉仏教が誕生した時、日本は飢饉やら武士の台頭と貴族の没落、疫病や天災など、色々がことが起こり、この世の終わりの雰囲気だった。パニックになる民衆を落ち着かせるために、彼らには学が無いため、色々な周波の始祖たちが念仏や題目を「発明」して広めた。
それまでは、飛鳥時代に仏教が伝来して以来、いわゆるインド哲学のひとつとして、学問であり、お坊さんたちが研究し専門家として実践、国家に役立てるためのものだった。

けれど今の私たち、無学な訳ではない。これだけ情報も交錯し、複雑化した社会に生きる。
スピリチュアル、メタフィジカルに(鎌倉時代以後ずっと)定着していた「理論はいらない」「信じていれば大丈夫」という風潮が、ある意味、宗教界などに多くの問題を生じさせて、ニューエイジ系の「スピ」も同じくだ。
考えなくてもいい、という空気は、思考や疑問や変化という風を知らず、「腐」のエネルギーが温存されやすい。

日本は水の国であるがゆえの、ネガティブな側面、課題、とも言える。
やっぱり、勉強って大事。学ぶことは、変化を受け入れること。学んで成長することで、常に変化、進化していける。
何事も。つくづくそう思う。

Love and Grace

未来の思想と生殖

一昨日、19日の夕空。壮大な空模様の、ほんの一部。


2022年公開の映画『プロジェクト・ユリシーズ』を観た。制作がドイツ&スイスの合作という、ちょっと渋い背景。けれどハリウッド映画という感じの仕上がり。


近未来の地球、環境汚染等々で、ヒトが住めなくなる。富裕層など脱出可能な人々はケプラー209という惑星に移住。僅か二世代で生殖機能が働くなり、ヒト種族を守るために地球への「帰還」計画がスタート。選ばれた宇宙飛行士が派遣される。その頃地球は、一面の泥の海。そして時折水の満ち引きで洪水が起こる。地球には「生存者」たちがいて、泥に塗れながら命を繋いでいた。彼らは帰還計画の「ケプラー人」から「泥の民(the Muds)と呼ばれる。
そしてまあ色々なことが起こり、1時間半ちょっとの映画の中で、一応は決着、解決をみる。これからの未来・・ケプラー系地球人たちが帰還し、「泥の民」と共存していくのだろうか、という微かな希望が差したところで終わる。
 
深読み&ジェネシス神話と絡めて考える、シリーズ。
まずはタイトル。20世紀初めのアイルランドの作家ジョイスの名作小説「ユリシーズ」を連想させる(きっとそうなんだろう)。ユリシーズはギリシャの英雄叙事詩(ホメロス作と伝わる)『オデュッセイア』(オデュッセウスの歌という意味)のラテン発音が更に変化し英語化したもの、のよう。つまりオデュッセウスの長い放浪の旅からの故郷への帰還、を表現していると思われる。


幾つか印象的だった点。前に日記に書いた「インターステラー」という映画と似ている部分がある。特に、宇宙飛行士の父、と、その娘によって人類をめぐるプロジェクトがうまく運ぶという。どこか神話的な設定。息子ではなく娘である、という点が、時代を反映しているのかも。プラス、父と娘という設定に何か特別なロマンのようなものを、特に欧米の人々が(深層心理的に?)持っているのかもしれない。


どちらの映画も、あとあとの人類の歴史の中で、父と娘が英雄として名を刻まれるような功績。それが目立った形ではなく、純粋な父と娘が通い合わせる愛によって成り立っているという感じ。実際に、欧米のもろもろの著名人など、死後に娘や孫娘がその業績を残すことに貢献したり、確かにそのイメージはあるかも。欧米の娘たちは、立派な父を尊敬し、偉業を継ごうとするという何か原型的な感覚、感情のパターンがあるのかもしれない。
又は、映画の作者や監督などの男性陣?が、自分の仕事を「愛しい娘が理解し受け継いでくれたら」というある種の理想像があることの反映と、取れるかもしれない。
 
それと、ちょっと引っかかったこと。原作は読んでいないから分からないけど、明らかな悪役の男性たちや、エキストラレベルの人々以外に、目立ったそれも善良な人々の中で唯一の犠牲の死が、アジア系の女性で。物語の中でも大事な、また描かれていない未来においても重要な立ち位置となるだろう少年の母親だし、主人公の宇宙飛行士(娘)の父親が、現地で愛した「泥の民」の女性、だと思われる女性が、とてもあっさりとそれも気の毒な形で犠牲になっている。


見ていてその辺り、ミスサイゴンを思い出させた。仕方ないとも思うけど(ホントはそれじゃダメなんだろうけど)アジア人女性=現地の妻=(用が済んだ時点で)犠牲 をさらりと、やはり原型的なのか、深層心理なのか、描いている点に、アジア人女性としては引っかかるものを感じた。けど、仕方ない、と感じる自分も居てそれはそれで問題だとも。単なる人種差別的な無意識?の心理だとしても、やはりそうさせてしまう、エネルギーや意識のシステム的な問題を、アジアの、日本に居ると感じていることも確かだから・・
 
単純に劣っている、という意味ではない。それぞれ、優れている点、ダメな点あるわけで、人種に優劣があってはいけない。けれど、何というか・・「犠牲が似合ってしまう」という原型的な空気が、アジア人の、特に女性にはある。これが最近、アルガンザのジェネシス神話で分かって来たことと重なる。つまりそれなりの理由があると感じてしまう。だから仕方ないというのではなく、変わって行かなくては、と思う。


一昔前は「妻にするなら日本人、愛人はフランス人、家はイギリス、車はドイツ、シェフは中国、」みたいな偏見の譬え話があったけど、一昔前の男性陣が「妻にするなら」なぜ「日本女性」が「良い」と考えたのか・・・よくよく、感じてみたほうがいい。従順だということだよね・・・そして、いざとなったら、または用事がなくなったら、ミスサイゴン(日本ではないけど)のような犠牲で消えていく。悲しいネ、忘れないよ、ありがとう・・・みたいな原型ストーリーか。
 
そして、更に深読み。ケプラー209に移って僅か二世代で生殖できなくなるという部分。シュタイナーに学び、それをヒントにしてジェネシス神話に取り入れた「月」という存在の地球への影響から考えると、地球の生殖を支配しているのは月、なので、離れたら当然、機能しなくなると私は思った。けれどそこで頑張って、人類を生み出した神なる次元がヒト種族を見捨てていなければ、新しい生殖システムまたは手段が、生まれていくのではないかというのが、私の考え。テクノロジーで何とかするのかもしれない。それも含めて。


主人公の宇宙飛行士(娘のほう)が地球に来て、泥の世界で奮闘していると程なくして、月経が復旧したというシーンがあった。彼女の足に経血が流れてくる、という場面。・・・この映画の価値観においては、それは良いこと、未来への希望の証なのかもしれない・・・けれど、個人的にはこの生殖システムはそれほど(宇宙基準で)良いものとは思えないから、複雑に感じた。


聖書のイブへの呪いのように、月のサイクル28日でめぐる(そんなに子供を次々と産むわけではないのに)この忙しい生殖システム、男性側もだけど、かなり動物的、原始的なあり方で翻弄され、束縛され、体も気分もアップダウンし、そこにエネルギーを取られて、負担も多いから毎日3食食べなくてはならず、そのために日々働かなくてはならない、という、人類を束縛する最大の「呪い」のように思える。
 
これが、一年に一度、いや、数年に一度、「子供を持ちたい」と意図した夫婦が、「神」に申し出ると生殖機能が働き、子供を授かる・・みたいな仕組みであればどれほど、効率よく、合理的で、人類はもっと心穏やかに、思考を洗練させ、意味のある創造にエネルギーと時間を費やすことが出来るだろうか、、と、若い頃からずっと思って来た・・(笑)そのような星から私の魂は来たのかもしれない。地球上の生殖、性というものを理解するのにかなり混乱していた。


同時に、今この地球で生きていても、人類が月よりも太陽またはもっと別の力にエネルギー的に結ばれると、生殖システムは変わっていくだろうとも、思っている。


映画では、ケプラー人は「for the many」、己を捨てて、感情を抑えよ、という思想を持っている。字幕では for the many は「人類のため」と訳されていた。そこは、ある意味進化している姿であるが、もし原作が利己的(動物的)、感情的な部分も含めて「帰還」すべしという作者の意図が込められているのだとしたら、個人的には意見が合わないなあと思いながら見終わった。
 
for the many はもちろん、大事なことであるし、そのためには感情や利己を抑えるというのも自然のことわり。けれど、それにもっと早く気づいて、地球を捨てて去る前に、母なる星の環境破壊や人類の乱れを止めることが出来れば良かった・・・という、教訓として、見れたら良いのかもしれない。とにかく何しろ、自分たちのせいで壊れそうな地球を見捨てて生き延びることを考えるのではなく、何とかしようと奮闘すべきではないかと。女性性の中にあるハートの愛(自然界と通じる)のようなものは、きっとそう感じるものだろう。
 
Love and Grace

ちょうど良い真ん中を目指して

最近の Info記事で「南の海から(女性性的・リラ・プレアデス)」と、「北方から(男性性的・恐らくシリウス・ヴェガ)」的な要素が、人類学(遺伝子)レベル、文化人類学・宗教・民俗学レベル、そして更に下層にジェネシス原型レベルで、縦長の日本列島に流れ込んで来たのでは、という書き方をしていて、今回そのような表現に至ったけれど、考えてみれば人類学・民俗学的にはずっと分かっていたことで、それがジェネシス原型論の体感や瞑想ワークの中で、実感されたということだ。

更にこの点、なんとなくの考え事を繰り広げているうちに、あることに気づいた。

数年前にもうドラマは完結している『ゲームオブスローンズ』。私は(何度かSNS等でも触れていたけど)シーズン2〜3くらいの頃に存在に気づいて、まだネット配信で何かを見るという時期に入ってなかったので、その都度、DVDを買って観るようになった。まだ若大将は子供だったため(さすがにあれは見せられんでしょう・・)、DVDが届くと一人でこっそりと休みの日にドキドキしながら少しずつ見続けて、放送されるまで何年かブランクがあった最終シーズン(第8章)は待ち侘びた、という感じで。全シーズン、付録?付きのボックスが揃っていたりする(笑)。

私が映画やドラマについて書く時は基本的にネタバレなので、ご了承ください。一視聴者としてのワクワク感よりも、なぜか昔から制作者・原作者や監督などの目線で、何を伝えたいのか、ここに何を引っ掛けているのか、含めているのか・・という目で見てしまうので、自分自身がまったくネタバレを気にしない人間で、むしろ本などは最後の結論や後書きから読んだり、映画もメイキングを先に見たりするのでス。それと原作を読まずにドラマ版だけで書いているので、原作を知る方からするとずれている部分があるかも..この点もご了承ください。

そうそう。見た方ならご存知のとおり。このドラマの原作は「氷と炎の歌」というタイトルで、「七王国戦記」という副タイトルも付いている。架空の大陸に存在する7つの王国、それを束ねる宗主国の玉座を巡って争い合う、という。南部の国の「女王」と、北部の代表である「王」、それぞれが「炎」で「氷」であるわけだけど、この二人、最終段階でようやく実は親族であることが判明する(たしか叔母と甥になるのかな。年齢は多分同じくらい)。運命に引き寄せられるように、南から北上、北から南下しながら、それぞれの敵を倒して次第に自身に忠誠を誓う者たちが増えていく中で出会い、結ばれる。

なるほど氷と炎が出会って融合し、最後には王国に平和が戻るのだな〜・・と安心して見ていると、最終話でびっくりしてしまう。賛否両論、というか、ドラマが終わった頃はどちらかというと批判的な意見が多かったように見えた。けれども、ドラゴンや魔物、多少の魔術が出て来たりして「ファンタジー」のくくりに入りつつも、原作者が非常に歴史学に造詣深く、人間を人間臭く描ききっているという点で、「ファンタジー感」が無い、リアリズムの中で物語が進んでいく。それを考えると、あの結末は非常に、納得できる・・ドラマ、ではなく、実際の歴史の展開として自然、と言えるのかも。

炎の女王も、北部の王も、どちらも「犠牲」として大陸の表舞台から姿を消す。愛と人道で人々の崇敬を得ながら最終決戦まで来ていた女王は、七王国の統一を目の前にして、血筋が騒いだか残虐な支配者の顔を見せる。それを見た北部の王、彼女を人間としても同志としても愛していた者が、彼女を殺めるという決断を。そして彼は殺人罪で終身刑という。なんとも言えない結末。二人の人生を賭けた努力によって、専制的に玉座を死守していた一族は絶えて、大陸には平和が?訪れる。けれどその時、二人は居ない。

歴史の触媒のようになって、消えていく二人の英雄。氷と炎。作者はアメリカ人だそうだけど、北欧神話などの、英雄が最後には決して幸せにならない、むしろ貧乏くじを引くような犠牲で終わるというパターンに、影響を受けているように思う。歴史上たいていの英雄、カリスマは、確かにそのような定めを世に示して名前を刻んでいることも確かに多い。けれど全てでは無い・・「細く長く」じゃなくても、「太くても長く」健全に天寿と使命をまっとうした英雄、カリスマも居る。ゆえに、作者の思想的なものによるのかも。私はディスニー的なハッピーエンドもありだとも思う(現実としても。そういう現実創造力を発揮できる人間であれば)。

結末、は置いておいて。

言いたかったのは、日本列島でも、Game of Thrones (氷と炎の歌)であっても、もしかするとどの国でも、文明でも、「南・女性性・タマス」、「北・男性性・ラジャス」このセットが、法則として存在するのかもしれないという仮説。確かに、人間は南に居るとゆるんで、おおらか〜怠惰になり、女性的になる。北に暮らすと真面目〜神経質になり、男性的になる。その背後に、ガイアとヴァイアマスが南極と北極にそれぞれ座していたりしたらどうしよう。。地球上の海流やプレートの流れ、などすべて「ジェネシス原型」「ジェネシス神話」で説明できたりしたら。(広げ過ぎだけど「ニューエソテリシズム?新・神智学的にはその展開もライフワークとして良い)

旧石器時代人、もしくはもっと古い原人レベルかもしれないとも言われている、南から、北から、日本人の源流が入って来ていて、縄文人といっても、南方系と北方系で既に特徴づけされたいたはず。そこに到来した中国、朝鮮からの少なからずの「弥生人」=新説では、紀元前700年前から奈良時代(紀元後800ころ)までの、1500年という長期にわたって、渡来の波はずっとあったという。常に戦乱に悩まされていた中国や朝鮮では、その都度、亡命貴族・王族や、ボートピープルが日本を目指した。それらの渡来人たちは、またどのような中和作用、刺激をもたらしたのだろう。彼らが「中間」という訳ではなく、渡来人にも様々な文化・政治・宗教的背景があった。(帯びているジェネシス原型エネルギーも)

そんな「多様性」がミックスされて、天災の多いこの土地で、なんとか生きていく工夫を其々違う背景を持つ人たちが模索した。し続けた結果が、日本である。・・・という、新たな視点もあるかも。

よく言われている日本人の「動かない・空気を読む・人がしていることをしよう」という性質の原因は、稲作民であるため共同体意識が強い、とか、戦後のGHQの思惑、とか、徳川政権の支配体制が巧みだった(そこでの洗脳が抜けていない)などの理由が挙げられる。

けれど、もっと遡れば最初から、仕組まれて(用意されて)いたのかもしれない。上記の3つの要因・要素も含めて、プログラム、設定通りであったのかも。人類全体もそうだ・・眠ったように動かない、目覚めないように働くタマスの力と(その現象と)、争いばかりしているラジャスの力(とその現象)。南方的なエネルギーにおいては人々は欲深くなり、北方的なエネルギーに刺激され人々は争いを続ける。それすらも「歴史」あるいは「文明」というシナリオ通りの、現実、現象なのかもしれない。

その中から、中庸を見出し、抜け出す。何から抜け出すかって?

この「現象界」から。映画『マトリックス』と、同じみたいに聞こえるけど、もっと古く、仏教では・・引いてはその元であるインド哲学では、数千年前からそれを説いている。

両方あるし、二極だし、二限性だし、多様でフュージョンだけど、そんな中でも「善(愛)」とは何かを自分で見つけながら、「中間」という透明な場所を探している。それぞれ、何がどれくらい偏っているか、濁っているか、混乱しているか、そのバランスの悪さはみんな違う。二人として同じ人はいない。だからこそ、自分自身で自分のバランスの悪さに向き合いつづけ、(ひとつの生ではなく魂として)「ちょうどよい中間」つまり中庸を見出す。

『スローンズ』のジョン・スノウはその意味で魂の中庸、を達成したと言えるのかも。最愛の人を正義のために、状況判断して、大陸の平和のために手に掛けたのだから。

あ、そうだ。このドラマをジェネシス的に深読みしていて、もう一つ気づいたのが、南の女王の家系はドラゴンの末裔と言われていて、ドラゴンを飼い慣らし乗りこなす(炎を吹き空を飛ぶ西洋風ドラゴン)。ドラゴンは、東洋とは違って西洋では女性性と結びついていて、欲望、などのイメージもある。一方で北部には精霊たちの魔法の失敗のような形で生まれてしまった「魔王」が死者たちをゾンビにして軍隊を組織している、という。炎と氷、は、単に南と北だけではなく、人間の欲望とそれが齎す破壊力(南のドラゴン)、魔術・自然界が孕む危険と破壊力(北のダークネス)を表してもいそうだ。

話があちこち行くけれど。

ヨーガ哲学やヨーガの実践においては、菜食や禁欲が説かれている。けれどアーユルヴェーダは医療、健康術なので、禁止というのは無く「その人なりのバランス」をとることを考えていく。・・これもある意味、仏教でよくいう「方便」であると私は思う。バランスが取れていったら諸体が浄化されていって、禁欲も菜食も、難しいことではなくなる。むしろ自然にそれを指向するようになる。

人類全体では、行先は果てしない。けれど個人個人、「幸せになる」ための唯一の道は、「ちょうど良い真ん中」を見つけていくこと。これは間違いない。

きっと宇宙人たちも。宇宙文明もそんな振り子の揺らぎや、失敗や修正を繰り返し、同じように中庸を目指す途上にあるはずだ。

Love and Grace

Amari

雷は神鳴り

印象的だった7月1日の真夜中の雷。雷鳴と稲光に、寝ながらも「そう言えばどうして雷って起きるのだろう」と考えていて。。翌日、そんなことはすっかり忘れて何気なくNHKオンデマンドに入ると、6月23日に放送されたばかりの『知られざる雷 破壊と再生 その全貌に迫る』という特番のサムネイルを発見。さっそく見てみた。
Storm Chaser(嵐を追う者)と呼ばれる二人のアメリカ人男性。コンビを組んで、雷雲を追って、それを撮影。研究機関などに?その画像や動画を提供することで生計を立てる、プロフェッショナル。稲妻だけではなく、その遥か上空、大気圏で起こっているTLE(Transient Luminous Events)という現象をも撮影する。ブルー〜マゼンタ、さらに赤まで、グラデーションの広がりを見せる壮大な発光現象。

そう、肝心な「どうして雷が発生するのか」については、雷研究の第一人者、ドワイア博士いわく「まだ解明されていない」と冒頭で。けれどこの番組を見終わった頃には「解明されつつあるようだ」と分かった。実験結果なども提示されているようで、それが学界に認められ、さらに明確に実証され、定説になっていくという段階が「まだ」という感じ。
雷(カミナリ)は、やはり「神鳴り」だと改めて感じ入った。
原始惑星系円盤、という、太陽系にまだ太陽しか無かった段階で、周囲のチリが太陽の重力によりその周りを周回し始めて、チリ同士が摩擦して熱・電気が生まれて、ある意味これが雷のような現象となり、無重力空間で1500度以上の熱で溶けたチリが急激に冷えると、チリの塊(=コンドリュール)が丸く、球体になるという。地球のような惑星もそうやって出来たと考えられているとか。つまり、雷は地球の誕生そのものに、関わっている、ということ。

この話は、インド哲学におけるパンチャマハブータ、五大元素の発生を思い出させた。
ビッグバン(創造主の覚醒)→ アカシャ(第五元素・空)
→震え(風)
→摩擦による熱(光・火の元素)
→冷えて水になる
→水でチリなどが固まり土になる(物質が出来る)
地球そのものも、このようなプロセスで形成された。インド哲学の宇宙創生神話の言うとおりだ。

さらに、地球上の生命の誕生にも雷が関わっているのだとか。
大気中に8%含まれている窒素は、植物の成長に欠かせない。けれど、分子と分子がくっつく性質があり、くっついて固まった窒素の分子は水に溶けない。そこに、雷が関与することで、分子同士が結合せずに切り離され、水に溶けて、植物の成長を助ける。ある実験によれば収穫が倍増するとか。日本で古来「稲を実らせるから」=イナヅマ(稲の恋人?)と呼ばれて来たこともそこに関係する。雷がたくさんあった年は稲が多く実ると、古代の人は知っていた。
番組後半では、フルグライト(雷管石)が紹介されていた。フルグライトを専門に研究しているアメリカのペイセック博士は、世界中のフルグライト標本を保有していて、とても綺麗な白や、ブルーのメノウのようなフルグライトも有った。フロリダの白い砂山からは、無数に出てくるそうで、白くてキラキラ・・「ああ、欲しい」と思いながら。笑

巨大なものだと、木の根っこが大きく広がるような形状でフルグライトは形成される。砂岩や砂に落雷があり熱で溶けてガラス化した部分を解析すると、地表には存在しないシュライバーサイトという鉄とリンの化合物が発見された。リンは生命誕生に欠かせない元素と言われているが、地球で生命が誕生した38億年前、太陽系のチリはもう落ち着いて隕石の数はだいぶ減少していた。シミュレーションすると、現在の10倍以上の雷がその頃、発生していたと考えられ、隕石ではなく雷が、38億年前の生命の発生を助けていた可能性が高い、と。
フルグライトに含まれるリンは水に溶けやすく、落雷によりフルグライトが形成され、雨があたってリンが流れ出し、海の成分となって、生命誕生が成されたのではないかという話。ここでも、火(雷)から水、そして生命(物質=土)の誕生というプロセスが見える。

地球のような物質惑星の誕生そのものに、雷(と同様の宇宙でのプラズマ現象)が関わっていた。そして、地球での生命誕生には、むしろ欠かせない役割を担ったかもしれない。そして雷によって水の中の分子に変化が起こり、植物の成長が活性される、ということは分かった。では、なぜ雷は生まれるのか?の最初の問い。。。
宇宙の彼方から、地球には常に「宇宙線」という、惑星の爆発・誕生などで起こったエネルギーが到来しているという。そこに、雷を起こしやすい形態・性質の雲が大気に在ると、雲の中の氷が宇宙線により「電子なだれ」という現象を起こし、電流が発生し、地表へ。今度はその電流が地表から跳ね返る(?)と、雲の中で稲光が生まれる。そんな話だった・・(一度さらっと見ただけなので、違っていたらsorry)

宇宙で起こること全てが、偶然などではない、ということは分かっていても、改めて凄いなと思う。
Storm Chaser のお二人が「自然界の厳しさに向き合う」人の顔、人相で。「神聖な撮影だ」と語っていた。畏怖心と、純粋な情熱。カミナリ学者の方々も。
日々の仕事は人生の多くの時間を費やす。毎日触れているもの、そこへの意識の持ちようで、自分自身の思考や視点も変わっていく。畏怖心と純粋な情熱を持ち続けられるような仕事は、その人にとっての天職、天命なのだろうなと思った。

Love and Grace

90億年の遺伝子

メタトロンリンク vol.1を終えて。前日までのどんより空、そして前夜の豪雨を経て。まるで梅雨明け、季節の変わり目のような青空。終了直後に、そのままその場所で写した一枚。こういう瞬間、目を開けると世界が清らかになっていて(そのように見えて)、感動する。特に何を、というわけでもないけど、その瞬間の空気と光を映してみた。

マンスリーイニシエーションは「聖堂」や「石ラボ」とまた違うシェアリングの方法をとることにして、既に今朝、その記事を書いて保存したところ。コールインの方々の受け取りを考慮して、水曜日ころに公開予定。色々な驚きや新鮮な喜びもあったけれど、今はここには書かず。そちらの記事で読んで頂ければと思う。

今日が満月とのこと。6月のハードボイルドな男っぽい雰囲気は、ちょうど7月1日をもって落ち着いたのかも?(一旦の区切り、かな)・・その一方で、6月11日「白い聖堂」は始まる直前から左首にエネルギーの楔を打たれたかのような違和感。その日の聖堂・テーマは「セラフィムの憂い」の改めての波が来て、つまり女性性サイドも解放の余波が続いていて、フィールドワークに出れば古い呪詛のようなエネルギーに当たり(・・笑/笑いごとではない・・)、それを調べようと思った訳ではないのに、興味をもって取り寄せた参考書籍が結局同じ歴史のいちページや、同じ地域、エネルギーに繋がっていくなど。

左首は、ワークやセルフメンテで外れては、また来る、を何度か繰り返した。チャレンジ&ギフトのつづれ織り。ヘヴィメタの日々であった。
けれど、そのお陰でこれまで気にしていたことが気にならなくなり、無駄を省く、というスローガンのもと、自分自身もかなり思考の断捨離、行動パターンや発想などにおいてもリニューアルが続いているのだ(この一年くらいの間)、と、ゆっくり振り返る時間を取ると、気づいたりもしている。

世界は本当に作り替えの時期に来ているのだなあ・・という実感も、ようやく、感じる。「どうもそんなふうには思えない」という感覚が続いていたけど、やっと。地殻変動、動いているのだと実感する。=嬉しい、というわけではなくて、ただ地上で生きる人間として、時代の変換の波のようなものは避けられないから、嬉しいとか期待とか、不安とか迷いなど、感情のレベルは超えて、何が出来るかと常に考えている最近。

「古代の宇宙人」シーズン14(2022)最終話かな?見ていたら、先日載せたお寺の写真(とその次の記事にも)のアダムスキータイプのUFOと同じと思われるものの画像を解析していた。2015年、アメリカの海軍が撮影したもの。ホントそっくりな形。その「機体」の周囲が、まるく輪のように見えている現象から、その部分が温度が低く、黒く見える機体部分の温度が高く、「アルクビエレ・ドライブ」または「ワープバブル」と呼ばれるものではないか、と仮説していた。映画「スタートレック」を見ていてアルクビエレ博士が思いついたという。

機体の前の空間を収縮させ、後ろの空間を拡張させることで、機体自身は光の速度より早くワープ出来るという仕組みを搭載したUFOがあるのではないか(その技術を実現できるのではないか)というお話。宇宙工学の進歩も今、目覚ましい。そうそう、それから、シーズン14には色々と興味深い回があって、
人間の遺伝子は、最新の研究において、「90億年の歴史がある」かもしれない、という話。スタンフォードの遺伝学者 Gary Nolan 博士の研究によるもの。人間の遺伝子はとても複雑で、地球の年齢である46億年では到底、今のような進化はなされないという。地球外からもたらされた元々の人類の土台のようなものが、あるのではないかという。ジェネシスの原型神話からしても(「リラの原基」)納得できるし、シュタイナーが言う、「人間の要素の中で(ライトボディよりも)肉体がもっとも古い」という話も思い出させる。

娘が以前、シュタイナーの高校で先生から聞いたフレーズ。「鎖骨はかつて膝だった」・・人類の長い歴史の中で、今、鎖骨として存在するものは、かつて膝であった時代を経験しているということかな。これ、とても気になって、詳細を知りたいところだけど、、人智学の文献などに出ているかな? 鎖骨はジェネシスでは高次自然界、膝はソウルグループなどとのリンクポイントであると考えている。人類全体の歴史において、かつて人類ではなかった時代に、「膝だった」ということだ。とても気になるフレーズで、「90億年の遺伝子」にも通じるのかもしれない。

肉体の設計図である遺伝子に、地球上の肉体以前の人間のデーターが入っている。むしろそこから、外側のライトボディや、ダイアードソウルとトライアードの二層構造などが、集積されながら、地球46億年、さらにそれ以前の歴史が反映された「生命としての複合システム」として、私たちは生きている、というイメージが、その話とうまく繋がる気がする。

今日はこのくらいで。
Love and Grace