エコ意識の世界基準とは?

少し前の「Newsweek」で『温暖化の明るい未来–人類はもっと地球温暖化に楽観していい』という特集記事があった。目にした時「いやいや、そんな事を言うと、ただでさえ危機感が薄い日本の人々、日本社会は、本当に楽観しちゃうよ〜」と思った。けれど読み始めると、なるほど。「もっと楽観していい」のスタート地点が、そもそも、世界基準と日本での問題意識のズレがかなりありそうだと改めて思った。たとえば、

アメリカなど10カ国の16〜25歳の若者1万人を対象に実施された2021年の調査では、59%が気候変動について「とても/極度に不安」と回答、半数以上が「悲しみ・無力感・罪悪感などを感じ、3/4が未来を「恐ろしい」と感じている、と回答した。31カ国の人々を対象とした22年の調査では、回答者の40%が気候変動への懸念から子供を持ちたくないと考ええていることがわかった。(Newsweek日本版 9/12号 P19)

こういった不安を「エコ不安」と呼ぶらしい。慢性的に、広く世界の国々にはそのエコ不安が、若い世代に広まっているようだ。

けれど、「まだ世界の終わりを嘆くのは早い」というスタンスで、各国や企業の取り組みの結果を分析し、未来のポジティブな予測に励む「新しいタイプの気候活動家」なる人々が出て来ているらしく、「エコリアリスト」と名乗っているのだとか。

この記事を読んでいると、先進国の社会のスタンダードでは、「慢性的エコ不安」により、「もう未来は無いのかも」と思っている人たちが多いのだということがわかる。なぜ?

報道されているからだろう、と。日本のテレビを見ていない私には、見えてないだけかもしれない。けれど、欧米や世界基準の情報に触れていると、こんな感じでいいのだろうか?といつも思う事は確かだ。エコ不安が漂っている・・なんて、あまり日本の社会を見ていて、感じられない。が、どうでしょうか、皆さんの周囲では?

実際に、日本は環境問題に関して消極的であるとの指摘が、かなりあるようだ。国や自治体の取り組みや、メディアでの取り上げ方などが足りていないと、尚更に、平和ボケで過ごしてきた国民としては、状況を把握出来ていないし、結果、行動も(環境問題や地球の未来のための)取れていないのではないか・・自分も含めて、そう感じる。

アメリカには、エコ不安を癒す「エコセラピー」を専門に行う心理学者たちが居て、「気候心理学」という分野さえ生まれているそうだ。

実際に、環境問題に目覚めている人ほど情報を集めては悲観的になり、エコ不安を超えて鬱にさえなってしまうという。

皆さんの周りで、エコ不安やエコ鬱、になったという話は聞きますか?

メンタル、しっかり気味の欧米の人々が、そんな状態になるほど、日々の報道や報告される情報が、大変な内容であるということ。

う〜む。色々な意味で、時代的なアンテナを立てることが欠如しすぎている、島国。に、なってはいないだろうか。汚している、という点では、海洋プラスチックもそうだけど、日本はトップというか、ワーストクラス。けれど、環境意識はどうなのだろう?

データや調査結果にもとづいて「まだ絶望するのは早いよ」という発信をする「エコリアリスト」ではなく、ただただ、無条件の楽観、「まあ大丈夫だろう」的な「空気」に、呑まれていないだろうか?

Love and Grace

変容期に湧いてくる、悲しみ、あるいは怒り

今回の「白い聖堂16」(20239月)は第三チャクラでのフォーカースが(当日セッション中だけではなく前後も)あったことを実感する。今は5日が過ぎて、チャクラの混線からくる息苦しさのような症状は消えて、周囲のライトボディも穏やかに落ち着いた感触。今回はなぜか、ピリピリした泡のようなものがオーラ体を刺激しているような体感、急な(不快ではない)ゾクゾク感(オーラの器が拡大する時の反応)など、直前〜事後もいろいろな体感が、さりげなくずっと続くような。変容が激しい時なんだろうな・・

 

それと、当日のセッションの直前、修了後、翌日、さらにもう一度くらい・・突発的な「悲しみ」がお腹の真ん中(第三チャクラ)にジュワっと出て来ては、数分〜数十分で自然と消える、を繰り返していて。普段、自分の現実や過去感情含めてまったく身に覚えのない、何かキッキケがあった訳でもなく急に浮上する感情的エネルギーというのは、誰か他の人の、特に第三チャクラの背中側からコードで繋がっている身近な人々の感情が自分に伝播している、というケースが多い。

同じく身に覚えなく急にやってくるけれどもう少し長時間つづく、全身の周囲、オーラ第二層のアストラル(感情)がその感情で染まり、全身で自分もそれに囚われるような現れ方をすると、「現実の自分には理由はないけれど、過去生やジェネシス層の大きめのストーリー、カルマパターンの浄化、解放が来ている」ということもある。これは、人格の自分にはまったく理由が分からないながら、抗えない悲しみや恐れなどに包み込まれて、長時間(2〜3日とか、長いと1ヶ月とか)続くこともあるかも。・・ジェネシスの原型神話が出て来た時、のような、稀に大規模なケース。

 

で、実はもうひとつあって・・・

最近では滅多に無かったから忘れていたけど、今回上に書いたような『突発的な悲しみがお腹の真ん中(第三チャクラ)にジュワっと出て来ては、数分〜数十分で自然と消える、を繰り返し』ということが、忙しく仕事をしている中で起きて、消えていくからまあよいか・・と思っていたけど、だんだんと理由を(過去の自分の事例から)思い出して来て、思考の中で繋がった。

仕事の上では良いほうへ、前に進んで行く時。そのための決断をする時。さらにソウルの仕事を前に進めて行く時。その直前、数日間くらいの期間上がってくる、できればその流れを止めたいと願うエゴセルフによる悲しみだ、と気づいた。細かい部分思い出せないけど、過去に何度かあった・・・現実も、仕事も、急流に乗って変容し続けていたころ。

 

当時はそれでも勢いに乗って、若かったし、実際に自分が何かを(連続するワークなどを)受講していたり、伝授を受けていたり、これが正しい道・・とはっきり分かっているレールの上に乗っていたから、悲しみ、に限らずなんらかの感情の浮上があれば「浄化だわ、浄化、浄化」で、前に進み続けたんだろうなと思う。今では自分自身で仕事も私事も決めていき、進むも止まるも、今後どうするかもすべて自分で判断・選択する段階に仕事人としても、個人の年齢や立場的にも、なっている訳だけど、「迷う」という余地はなく、ソウルの計画がなるべく前に進むように常に、人格部分を動かしているという状態。

だから、言ってみれば、潜在意識のようなレベルで、顕在意識化さえしない・・というか、取り上げようとしていない、パーソナリティの「声」が、ジワっとした悲しみとして上がって来たのだろうと。

 

人間界で生きていると、「何かを選ぶことは、別の何かを諦めること」あるいは「選択することは、もうひとつの可能性を捨てること」という言い方がなされるように、確かに生身の人間は万能ではないから、限られた時間や自身のフィジカルな現実の中で、出来ることを選び取っていかなくてはならない。

アルガンザが伝えているような「ソウルで生きる」ことは、アリス・ベイリー著書では「弟子道」という、高次元のマスター界の「弟子」であるというくらいの、人格にとっては覚悟がいる「道」である訳で、それが時に、(選択されないほうの現実への愛着やノスタルジーゆえに)悲しみと感じられたり、人によっては怒り、が浮上してくるものだと思う。

 

2〜3年は忘れていたその感覚が、久しぶりに浮上していたのだと感じた。「ソウルの仕事が前に進もう」としている時、毎回ではもちろん無いけれど、エゴセルフは悲しむ。ことがある。けれどもちゃんと分かっているから、ほんの数分だったり、数時間だったり。そして第三チャクラがそのあたりを整理する役目を担っているため、第三が反応したりする。(消化器系が今回、不調のような症状が出ていたというご報告も幾つか。実際には第三チャクラの、情報整理部門が頑張っていた証だろうと思います)

逆に。ヒーリングを受けていたり、メタフィジの勉強をしている人も、ヒーラーの仕事をしている人も、時折浮上してくる、大事な変容期だからこその人格部分の訴え・呟き・ため息のようなもの・・・・に、負けずに、「それだけ大事なステップなのだな」と感じ取って、躊躇わず前に進むことの大切さも強調しておきたい。

そうでもしていかないと、「ソウルで生きる」の道に乗ることは出来ないから。

 

そして、その時々の感情の山を超えてみると、「大した事では無かった」・・・と、リニューアル後の自分の目には映る。そして、エゴセルフのため息も統合して、前に進んでいく。その繰り返しで、人は個人としても進化していくし、社会や世界も変わっていく。

いつだって、成長や、調和への道、真の豊かさ、創造的なあり方・・を阻むものは感情反応であり、それを理由に、せっかく訪れている大きな変容気、変換点を、迂回してしまうのは勿体無い。もう一度螺旋を巡って一周してくるまでには、長い時間や、以前の選択から意識を改めさせるための現実の出来事に遭遇する・・などの、少なからずの労力と時間を要する。迂回した先で流されて、果てしなく遠くへ行ってしまうこともあるかもしれない。

日々の意識とセルフワークで、「自分」を構成するいろいろな要素、それぞれの声や反応を聞き分け感じ分けられるようにしよう。悲しみや怒りや混乱が浮上して来ても、それは、ソウルの仕事が今より更にうまく運んでいる軌道に乗るゆえの、人格の呟き、抵抗、自己主張であると判別することが出来れば、ソウルセルフの選択をする事が出来るし、人としての成長進化の波に乗れる。それは決して、パーソナリティを「犠牲に」することではない、と、経験から学んでいこう。

 

ちなみに・・(宣伝ですが)世界樹ブックス『ガイアナ神謡集』が「魂で生きるか、人として生きるか」をテーマにしています。両者の間で揺れ動くヒロインの星座を天秤座に設定しているくらい(笑)長い物語の間ずっと、その問い、感情と高次意識の間で揺れ動く心理が、ヒロインだけではなく主人公たちに。『ハピの巫女姫』は「女性性の癒し」をテーマとしますが、やはり同じく神性と人格のせめぎ合いはずっと、主人公の中では続きます(こちらのヒロインは乙女座)。。。ぜひ読んでみてね。(先日在庫切れを補充しています^^)

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Love and Grace

Amari

 

 

第四光線

台風が関東を、比較的静かに通過していった曇り空の土曜日朝。

ここ数日は、ジェネシスのバイブル本のサンプル完成〜ショップへのアップと受注(第一便の15冊がほぼ完売・これから印刷製本)、それと前後したリュミエールブランシュの閉店のお知らせ、ショップブログのUP、始動した「ドットアース」の事務的な作業、などなどに追われつつ、台風の経過を感じながらそろそろ秋期石ラボへの参考文献の手配などをして。まだ残暑はありつつ、季節の変わり目をしかと感じているところ。

タイトルにした『第四光線』

2025年に顕現、というアリス・ベイリー(ジュワルカル)の情報とともに、これまで文章では触れて来たものの、いまひとつ自分で掴めていなかった・・というか、2025年に顕現するということは、もうその影響下にあるはず。だけど、それを実感しにくいと思って来たここ数年。で、本当にこれが「調和と統合」に向かっている道なのか?と感じつつも、社会も個人も、夜明け前の沈黙あるいは、静かな拮抗を起こしていることの現れだろうと考えるようにしてきた。

・・・それが、最近ようやく、「ああ・・なるほど」と本能的に掴めて来た感じがする。2017〜2024年の7年間『ノアの方舟に乗るような時期』(石井ゆかりさん著書での表現)とも、感覚的にその、掴めて来た新光線の空気感が、繋がって来た。

そして、『ああ、人類は本当に、進化しなくちゃいけないのだなあ・・』と、そこに思考は落ち着く。

「試練を通じて進化する。その先の調和と統合。」それが第四光線。色は黄色〜オレンジだと言われている。

Twitter でフォローさせて貰っている『エコトピア』さんのサイトを先日何気なく見ていたら、以前知って衝撃的だった『ジョージアガイドストーン』についての2018年の記事が、先月のランキング1位に上がっていた。(どこかでも話題になっているのだろうか?)

 

タイトルにもあるように、陰謀論的な見方もあるらしいけど。真相は分からないものの、最初にこの石碑のことを知った時、メッセージはとてもシャンバラ的、神智学的だと感じた。「人口5億人」は引っかかるけど、もし、私自身が地球だったら、そう思うだろう。まして、今のような文明的意識をもつ利己的な要素が多く残る人類が、今のような数まで増えて、自然界のあちこちを破綻させている状況であれば。地球を生命の星として運営管理しなくてはならないハイラーキーも同じくだ。

この石碑の背景にどのような思想の人が居るのかは分からないけど、書かれていることは尤もな内容だ。

記事にあるように「日本語が無い」については、恐らくは使用している人口の数で、選ばれた8ヶ国語なのかなと。けれど、その時間軸は近未来なのかもしれない。フランス語も多い筈だけど入っていないのと、日本語は日本列島人以外には普及していない割には現在の人口からして今は11~13位くらいの人口だそうだから、8位に入っていなくてもまあ、良いのか。フランス人は英語が分かるから良しとされたのかな?・・だから、余りそこ(日本語が参加していない)は、気にしなくてもいいのではと個人的には感じた。

けれども、近未来、日本が「中国語圏」になっているという可能性も無くはないとも、思って(危惧して)いて・・・

人類全体もだけど、特別な何かを日本は高次から授かっていながらも、その役目を果たさない、果たせなかったらば、そういうことにもなる筋書きも秘教的にはありそうだ、と。

第四光線の顕現と、日本の状態というのは、大いに関係してくる筈だ。それがどちらに振れるかは、日本人の集合意識のありようで、第四光線の担い手として世界をさりげなく?導く(日本式で。リードするのではなく調整する感じで)ことが出来るか。平和ボケから抜けきれず、役目を果たせずに終わるか(・・ここに巨大地震や戦争の危険が直結して来そう・・)

まさに、5年以内にその答えが出て、15年後には結果が現れているのではないかと。もちろん良い方へとイメージしたい。これまで、私たちが生きてきた無条件の(日本をめぐる)平和という時代はもう、無いのだということは強調したいと個人的に思う。平和で安全だったから、特に何もしなくても、自分のことだけ考えていれば良かったのは、とても幸せな状況だった。それは平成まで。でも今はもう違う。平和や安全を維持するには、一人一人がアンテナを立てて、自分に出来ることを探していなくてはならない。

もうそういう時代に突入している。

Love and Grace

「中途半端」が折り合い点。

昨日、マンスリーイニシエイション vol3「ラファエル&サンダルフォン」を無事に終えて。

程よいタイミングで「報告」記事をinfoに出す予定。その前に、自分自身のヴァージョンの記録をしておこうと思う。参加者の皆さんへのご報告の中で、いつも割と自分自身の体験を書いてしまうけど、匙加減は難しい。今回、自分の中でテンポよく今回の効果が実感できて、次の動きが始まったので早めに刻んでおこう。

前回は、前日夜と当日朝、2食抜いたプチ断食で臨むことになった「メタトロン」。

今回は、とても穏やかに前日、当日の準備段階も。ただ、「月セラフ」の「その周辺」記事を事前に書いていて、それに関係するのかなと思われる集合場の感情の波のようなものが押し寄せたのが、1日の朝。これは、セイクレッドレイキのワークで数十分でリリース。(抜群の効き目)

終了後のツイッターで呟いたように、終盤は妙に涙がこぼれて、けれど自分自身のことではなくて。これは、石ラボ前期の最終回と同じくで、セラフのソウル全体に対するシンパシーというか、地球で、この次元でヒトとして生きるなんて、ほんと大変だよね、という部分への共感と、同情というか。共振。

そしてとても中途半端に、今という時期を感じている自分自身を、5次元のワークの中でも実感し、客観視、でもその中途半端さであるからこその、人間界だよ・・という、やはり「石ラボ4」以来の、パーソナリティの言い分に、ソウルが折り合いをつけるような感覚、ちょっと切ないような胸の震えとともに、ワーク終了。

そんな中途半端な震えも含めて、何かスッキリと一山超えた感覚があり。ツイートしてみた・・・が、そう言えば、1時間くらいうまく作動せず、何度も試してようやく投稿出来たのだった。。(今水星も逆行しているそうだし。)

中途半端さ、でもそれが折り合い点。という、切ないような、黄昏のような、感覚ではありつつ、意識は安定して元気だし、目を見れば自分の調子が分かるけれど、ワーク後の漲った澄んだ感じがあったから、自分ではあまりその「切なさ」を気にせずに受け入れて過ごして。

一夜明けて・・今朝。切なさが増幅して、セラフっぽい悲壮感と謙虚さを通り越した自信の無さ、に変わっていたので、「ああ、これはグループワークで関係した皆さん、だけではなく更に広い範囲で、抱えている『セラフが人間界で生きることで味わい、積み重ねてきた気持ち』の集合場からの受信だな」と思って。

同時にやはりそれは私自身が若い頃にたびたび陥った穴だなと思い出していた。今では、それが「セラフの鋳型」によるものであること、それが家系的に受け継がれること、対処する光線やワーク、その「型」を持つ人や家系にどんな力がどのようにして抑圧をかけてくるか・・の、パターン、そしてその背後の歴史や神話レベルまで、知るに至っている。

若い頃は、ただ翻弄されるしか無かったのに。

そこに、しみじみしていた。

こっそりと予告。ラファエルの次は、ミカエルです。

理由などはまた、infoでの「報告」記事で!

Love and Grace

結果ではなくプロセス

結果ではなくプロセスが大事。・・最近いろいろな所でそのメッセージに出くわす。自分でも何か(ワークのレポートとか日記とか?)に書いた気もする・・「聖堂」でも同じような学びを感じていた気がするし(記憶が定かじゃないけれど)幾つかの本やウェブなどでも目にした。

極め付けが、少し前に読んでいた(この日記でも紹介した)A. ベイリー『新時代の弟子道』の中で。「弟子たちへの語りかけ」という副題がついているこの本、アリス本の中でも、一部の特定の「弟子たち」に対する、常に情報源となるジュワルカルからの「指導」=語りかけ、になっている。

前書きや、本文中「アリスベイリーによって削除」という部分があったり、ジュワルカルの言葉の中にも「(率先して学んでいるはずの)貴方がたのほうが、一般の生徒たちよりも仕事が出来ていない」ような苦言が登場していて、アリスさんも、ジュワルカル始め、指導にあたる存在がたも、常に苦労されていたのだろうな・・・と、沁みるように共感する。(笑)

「一般の生徒たちよりも・・・」の部分は、私はよく自分でそんな気分になることがある。そして「一般の生徒たち」よりも難題の中に投じられているのだから仕方ないじゃないですかあ、先生・・という気分になって、その後、「でもそれを(無意識だけど)選んでいる、好きでやっているんだから仕方ないな」と落ち着く。ヒーラー人生はずっとそんなことの繰り返しだ。つまり、「結果ではなくプロセス」をよくよく理解していないと、浮かばれないような気分になってしまうので、肝に銘じる必要がある。

一般の世の中、男性的な社会は結果重視で、特に数字がものを言う。けれどスピリチュアルな世界ではそうではない。究極的に考えれば、今日、いまこの瞬間、どのような心や意識で存在しているか・・・のほうがずっと重要で、色々なことが起こる中を、切り抜けながら、いかに良い状態を保持できるか、成長振りが試されることの積み重ねが、ひとつの「人生」として存在している。

あなた方が人類への奉仕に専心することで自分自身と私(ジュワルカル)を忘れるようになったとき、私はあなた方に満足するであろう。(p194-7)

なかなか、その境地に達することは難しい。

けれども、そこに向かって行かなくてはいけないとも、思う。

その人の過去、時折見られる傷やほころびについても。「赦し」という言葉で解決させるよりも、私は「プロセスから学んだ」「その学びが今の自分を作っている」という感覚のほうがお勧め出来る。赦し、愛、というと美しいけれど、螺旋で常に回りつつも上に上昇している(進化している)プロセスの中に私たちは在るということが、忘れられそうだと感じる。そしてどこか「赦し」は痛々しい。

螺旋を上昇して成長することで、ようやく、過去の傷やほころびにも意味があったと思えるから、自然な許しや愛が湧いてくるのではないかと思う。

それに、「プロセスを重視する」という心の中はすでに世界への(真の)愛が一杯に溢れている。今この瞬間の自分の感情、思考、行動、に責任を持つという精神こそが、力であり、創造なのだと思う。

Love and Grace

Amari

参考文献:「新時代の弟子道 1」A.ベイリー(AABライブラリー)