人はどこまで恐れるのか–「 箱舟の7年」

最終年度としてのマスタークラス2つが始まった。土曜日、石巫女アースワーク専科でのアルプス水晶たちと、上は翌日曜日の、星巫女プロ専科コース、終了後の空。

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普段はテレビをほとんど見ない我が家は、数年来、食事時にだけ「英語を聞いていたい」という理由で、主にイギリス英語を喋っているDVDを見るのが常。何度かブログに書いた「Game of Thrones」や「ダウントンアビー」(どちらも世界的大ヒットドラマ)が、1話の時間が食事時にちょうど良いのと、超大作なので連続して日常的に流す用途に向いているので、登場することが多く。

前者はアメリカのドラマとして知られている訳だけど、俳優陣や裏方の技術スタッフなどはイギリスが中心。伝統的に歴史物の製作技術がある故だろうし、そもそも監督や原作者にもこだわりがあるよう。架空の大陸ウェスタロスの7王国の攻防を描くドラマで、それぞれの国や地域の役柄により、俳優たちの起用、そこで話す訛りなどを、イギリス各地の訛りに置き換えて、配役しているのだとか。色々なイギリス英語を聴く、それをストーリーとともに楽しめる作品。

で、最近は「ダウントン」を見ていて・・思ったこと。百年前のイギリスの伯爵家を舞台に、使用人や伯爵一家(三人の娘とその配偶者たち)や周辺の人々の日常を描く群像劇。社会的地位や立場も様々で、世代も四世代に渡る。貴賎を問わず、保守的で伝統を重んじようとする人々と、貴族制が崩壊しつつある時代の気風を感じている人々、その両者の間でうまくバランスしている人も、様々。

連続ドラマ故に、これでもかと問題が起きていく。そして解決も起きていく。でもまた次の問題が・・と。或る意味で長編ドラマは一山超えて終わってしまう映画に比べて、人間についての学びのエッセンスがある。自分でも『ガイアナ神謡集』を有料メルマガで出していた十二年前、毎週毎週の配信なので、最後に「ええ?次はどうなるの?」という終わり方をしてみたりする、ドラマ製作者の気持ちを味わっていた(笑)。同作は本当に、連続ドラマ並みに問題、試練が次々と起こる。。。

その、問題を生み出す神?の目線になってみると、結局、トラブルを起こすものは何かというと、天災などを除くと、やはり誰かの恐れの作動による。一見恐れに見えないものも、核を探して行けば、結局は恐れの種がある。人間の本能が恐れを知ったときから、それは始まっている。

ドラマを観る側、小説を読む側(そして書く側も)としては、恐れがあるから人間界のドラマとは展開される訳で、その反動としての喜びや愛とともに綴ることで、人々が感動したり共鳴したりする。ドラマを成立させるためには、恐れとはある意味で人の本性として存在している。が、自分自身の身になって考えてみると、どうなのでしょう。アップダウンや連続して起きるトラブルなどなく、穏やかに突き抜けて存在していることも、この世界で可能。それを望んでいる人や、そこに押し出される、押し上げられる人々も居る。「ガイアナ」の主人公も、最終巻ではそこに抜けていく。もはや何が起きてどうなろうとも、動じない、内なる衝動として何も起こらないという自分が、出来上がっていく。

人はどこまで恐れるのか。。。翻弄され、喜びや感動とともに苦しみや葛藤や摩擦を味わいたいうちは、恐れ続けるのだろう。魂がまだ良しと言わないのか、パーソナリティがまだ、味わい足りないと思っているのか。「恐れは幻想である」と受け入れた瞬間から、世界は変わるものですが、恐れは幻想なんだということを、受け入れられない自分があるならば、そこは見つめてあげて、声を聞いてあげる必要がある。

先日の石巫女クラスの最中、生徒さんが持っていた石井ゆかりさんの「星ダイヤリー」に「宇宙船やノアの箱船に乗り込むような約7年のスタート」との文言があり、去年から何度か書いていた、神智学に言う2025年の第四光線(テーマは統合と調和)の到来に向けて、今年から7年間、その光線を受け入れるための準備が人類の側でも起きるのだろうということ、そしてアルガンザでは昨年3月に迎え入れた10キロのマスタークリスタルが「箱船」と名乗っていることとも通じ、皆で「わあ!」と驚いていたところ。ちなみに、今日、5月16日がその始まりのよう。。石井さんの著書やサイトを、更に見てみようかな。

そして私が思うのは、これからの7年の変容というのは、神智学の7のサイクルを考えると、一年ごとに7段階に別れているのではないかと思う。1年ずつ、振るわれていくような?箱船というのは、そういうことだろう。周波数で分けられていくような。。「高ければ良いという意味ではない」と言いたい所だけれど、宇宙は数字で動くので、やはり数値で道が別れて行く。これを言い換えると、「いかに恐れを削ぎ落とすか」ということに、なるのではないかと。

そうそう 恐れと言えば、4月半ばに面白い体験をして、そのうちに書こうと思っていたこと。用事までに時間が空いたので、ふらっと立寄った本屋さんで、何となくウロウロして立ち止まった場所で、光るように存在が目に入ったのが鏡リュウジさんの「・・座の君へ」シリーズの、なぜか水瓶座と双子座だけが、代表して2冊棚に並んでいる様子。で、前から知ってはいたものの、タイミングというか導きを感じて買おうと思いたち、横で娘が「私(双子座)はもう持ってる。ママが買ってくれた。」というので(笑!よく忘れるんです)、自分の水瓶座を買って、その後用事に出かけた。

とある場所で、呼ばれるのを待っている間、あまりにも「普通」と状況や様子が違うので、さすがの私も不安がよぎった。驚くほど恐れの反応が出て、身体が強張るほど。で、気をとり直して「さっき買った鏡さんの本でも読んでいよう」と、開いたページに出ていた言葉、

「水瓶座の人は迷ったとき、『変なもの』を選ぶとうまく行く」

と来た。一人でふっと笑いを漏らし、そうだったそうだったと、我に帰る。実はその施設を選ぶ時に、ネット検索をしていて、いかにもという感じの輝かしい風を醸し出している一見華やかに見えるところが沢山、並んでいて、「一般の人はこういうのを見てそのまま受け取るのだろうな」と達観しながら、自分はネットの仕組みや背後を色々と頭で巡らせ、本物で間違いないところを選ぼうといくつか検索の仕方を工夫し、最後にはオーナーさんの顔で決めるという、いつもやる方法で決めたのだった。

なのに、実際に行ってみると、そのオーナーさんのシステムが余りにも「前例がない」ものだったので、たじろいだ。自分で直観を働かせて選んだはずなのに、それも忘れて。鏡さんの本、ありがとう&うちのガイドたちは凄い。と笑いながら、待ち時間で一冊を読み終えると「多数決の反対を選ぶ」「組織じゃなくネットワークを作る」など、ちょうど自分が昨年から今年、改めて仕事のアイデンティティを模索していた中で、自分の個性という原点に立ち返りながら感じていたことと、気持ちよく合致。

あなたの水瓶のなかには、無限の発想が詰まっている。しかも、ただのひらめきじゃない。宇宙から地球を眺めるような客観性。ゼロから新しいものを作り上げるクリエイティビティ。最初は反対だった人をも惹きつけていくストーリー。

水瓶座が中心にいる世界は、フラットで自由だ。それぞれが自分なりの個性を大切にしながら、手を結び合うこともできる世界。変化は偶然、起きるんじゃない。あなたが、変えるんだ。

「なぜ?」「こんなのおかしい!」そのささやきを、言葉に、形にして。奇人変人? 宇宙人みたい? その通り。だけど、新しい世界の扉を開いて来たのは、奇人変人、宇宙人たちだ。

『水瓶座の君へ』(鏡リュウジ/サンクチュアリ出版)

ここ数ヶ月、まさに自分でも問い直し、確認し直したことでもあった。ウンウンと頷きながら、鏡先生に感謝。多分このシリーズは、どの星座においてもその本質を大事にしていれば大丈夫と、背中を押すようなコンセプトなのではないかな。

そしてその日の、誰もやっていないようなシステムで仕事をしているオーナーさんは、私が咄嗟に発動した恐れのフィルターを通しては「人と違っていてアヤシイ?」だったものが、そのフィルターを外して我にかえると、それなりに自分が選んだだけあって、「すごく風変わりだけど全責任を自分で背負って一人でやってのけている達人」であった。。そう、私がセレクトの指針にしたお顔といえば、やはりお坊さんのような空気。変わっている事を、変わっている事がやりにくい日本という土壌で、それもサービス業なのに、あえてリスクを引き受けて、自分が正しいと思うことを実践している。社会にはおかしな習慣や思い込みや盲点が沢山あり、恐らくそれを一切排除し、一見不器用なようで、結果としてうまく現実を示しているというケースなのだと思った。

私がそのように安心すると、さっきまで人気(ひとけ)がなく静まり返り、外の天気も悪くてどんより暗く、いかにも不安になるような空気だったのが、急に「人の紹介で」という客からの電話や、次のお客さんが次々と。そしてオーナーさんが慕われ尊敬されているのが伝わってくる空気に変わった。外の雨さえ上がってしまった。。。笑

人は恐れを見ようと思えば本当に、無いところにさも恐れの要素があるような現象化をしてしまう。もうあまり恐れることも日常的には無い自分も、この体験は象徴的で、学びの要素を感じて笑ってしまった。この直前に鏡さんの「水瓶座・・」を買っていたことも含め、よく出来ている演出だった。そのオーナーさんも水瓶座かもしれない。業界や、社会の常識がおかしいと思ったら、行動してしまう。ある意味、革命家なのだ。シュタイナー学校にも、確率として先生や親などに水瓶座が多めな気がしている。世間の常識にこだわっていたら、ああいう学校に、それもリスクもある中でわざわざ子供を入れない。。。

今日からスタートするという「箱舟の7年」が、神智学でいう2025年以後の人類の上昇孤の進化、調和的なあり方への社会の変容への準備として用意されているとすると(人類進化を影ながら管理している世界は、実はアストロロジーのプログラミングの『製作者』でもありますから・・)これまで私たちを縛り付けつつ、飼い慣らすことで安住させて来たシステムがどんどん崩れ、本質、個々の力が生きる世界へスライドしていくのでしょう。

意識やエネルギーの放つ周波数で、どの程度、その変容の波に乗れているかを、一年サイクルで分類分けして、7年後に向けて送る刺激を、セクションごとに実験的に変えていく、強めにする、どうにも目覚めなければ大地変などもありうるかも?と、進化の管理者たちは箱舟プロジェクトに着手しているのかもしれない・・・ただ、ここで乗れる乗れないと二つに振り分けられるのではなく、それぞれの箱舟に分類されるのではないか。そしてその軸になるのは「恐れの解放」による、意識指数の上昇であるのだろうと感じている。意識が低いと、第四光線は受け入れられないのだろうし、意識の進化を止めるのは、エゴの抵抗つまり恐れなのだから。

選択に迷った時、恐れからの行動を取っていると、「恐れ指数」の高い箱舟から降りることが出来ず、また違うところに居たのにそこに戻され、同じ恐れをさらに克服のために繰り返し見せられるのかも。。

「あなたの小ささからではなく、あなたの大きさから、行動しなさい」

これはヨーガ哲学の中で見た言葉だったかな。

そこが試される7年である、ということだ。毎年分類されるような感じがあるのは、やり直し、階層の選び直しも7年の猶予が与えられているということかもしれない。何れにせよ、100年に一度あるかないかの、人類進化のプロジェクトの今後の方向性に触れる、7年になりそうだ。

Love and Grace,

Amari

ロゴスとレンマ、二元と三元、からの無限。

読書していたら行き当たった「ロゴスとレンマ」。哲学概念で、簡単に言うと西洋的二元論が「ロゴス」、東洋的な三元論が「レンマ」という言葉で表される。三元論といっても、AとBとCということではなく、AとBの間の中間地点を、その真ん中に在る・・在るというよりも揺らいで漂っているAとBの関係性のようなエネルギーを重要視するのが、「レンマ的」であるということ・・なのかな?と自分なりに解釈。

これは、メタフィジカル&エソテリシズム(秘教)的な視点で言う、「レムリア」と「アトランティス」の拮抗からの受容と統合が今とこれから数年のテーマとして強調されるのではないか、と今年に入って感じていることと通じるな、と思った。

同時に、思い出したことがあって・・・まだヒーリングやメタフィジカルを始めていない、年代で言うと2001年〜2003年くらいの間のこと。娘が確か1歳の頃に初めて自分のホームページを作り、一人旅をしていた記録や、それにまつわる古代史や思想系のエッセイ、趣味で書いた論文などを載せていた。当時はブログというものさえまだ存在せず、掲示板・・に、同じ興味を持つ人々が互いに執筆物を読み合い、感想を書き込みしたり、という時代。その頃、私が発表していた古代史や思想や民俗学などで繋がっている方々は大抵が年配のおじさま・・で。

そんな、当時のネット仲間であるおじさまの一人が、「ロゴス」「レンマ」という言葉は使わないものの、西洋的な二元論に中国の思想的背景も含まれるが、何事も中国から文化が入って来ているにも関わらず、日本人の精神には三元論が土着として浸透している。そのルーツはインドである、と論を展開されていたのがとても興味深く、よく覚えているし、以来、ずっと私の中で「インドから中国を経由してやって来た文化は、中国ナイズされている筈なのに、なぜ日本人は自分たちの独自性を貫くことが出来たのか、何がそうさせたのか」というテーマは、日本という集合エネルギーを考える際に、常に頭の中に有った。

同じ構図は、新石器〜青銅器時代に対する鉄器時代、にも見られるし、分かりやすく言えば縄文(とそれと調和的に発展した出雲)に対する弥生、神話ではクニツカミとアマツカミと言ってもいいかもしれない。究極はレムリアとアトランティスであり、アルガンザのジェネシス概念では、レムリアに起きた予期せぬレムリア人種の「混迷」、アトランティスで起きた人類の自由意志による「堕落という選択」ゆえの一旦のリセット後の、大洪水後の今の文明期には、それらの要素を再び人類の中に両方とも発露させ、その拮抗を乗り越えて、自分たちが歴史的カルマを統合できるかどうかが試されている、と考える。

それは、ずっとず〜っと、テーマであり続ける訳だけれど、いよいよ社会レベル、個人レベルで魂に向けて突きつけられているのが、今とこれからなのだろうと。

少し角度を変えて更に気づいたのは、

このところ仏教やインド哲学を覗くことが多い中で、インドの当時すでに出来上がっていた伝統的バラモン哲学と、それに対する思想革命として生まれたシャカ(ブッダ)の哲学(後の仏教)は、この2元と3元のような構図で、対立していたのだということ。バラモン哲学では、究極的な絶対存在、宇宙の根源であるブラフマンがスタート地点としてあり、

創造の降下の中で、意識・アートマンが生まれる。それが肉体を持った人間を顕現させていて、いつか個我を超越し、根源の中へ回帰するという流れが大前提となる。が、シャカの思想は宇宙論を含まず、とにかく「今ここ」に在る我々、それも実体はなく、ただ互いに作用し合う関係性の中で全てが生まれては消えていく・・ゆえにカルマを滅して悟りを開くべし、ひたすら己の精神性の純度を上げていくことを重視している。

哲学の世界でいう「ロゴス(西)とレンマ(東)」のような思想的な構図は、同じインドの中でも正当バラモン哲学と、革命児であったシャカの新しい思想の関係性の中に見られる気がした。そもそも、我々とは何なのか、世界とは何なのか・・という出発点から始めるインド哲学に対し、シャカは始まりを自分・・一人の人間にした。

全ては関係性の中でたゆたう。関係し合うエネルギーとして、在るように「見えている」ものは、関係を様々に生み出して束縛し呪縛しているエネルギー(カルマ)さえ消えて行けば、いつか、在るように見えている状態、つまり存在の必要はなくなり、消えていく。・・・確かにそのようにも感じる。個人的な魂レベルの思想として、自分の中には何が刻まれているのだろう?今回改めて、考えてみた。

全体性への回帰、意識だと思っているものの消滅、これは間違いなく自分の中で「そうだ」と思っているようだ。おそらく過去生で知って来たことなのだろう、当然のようにそう思っている自分が奥にある。が、個としての個我がどこまで遡れるか・・これは神智学で言えば「モナド」ということになるが、モナドとはニューエイジでもよく聞く「ありてある我」のことである。

そんなことを考えて唸っている時、このような記述を見つけた。

中世の哲学者トマス・アクイナスについて

彼が存在を「在りて在るもの」と定義したのは、存在と本質とがそのものにおいて同一であることを表している。

存在が自己のうちに根拠をもつということは、他の何かに「因って/縁って」存在するのではなく、自らに「由って」あること、すなわち「自由」を意味する。その存在は、他の存在との因果や縁起によってではなく、「自己原因」(スピノザ)によって存在する。つまり、存在は存在するが故に存在する・・・

『あいだを開く レンマの地平』(木岡伸夫・世界思想社)

哲学って堂々巡りな気がする。。でも面白い。

そして自分なりの「存在論」について思い巡らせて見た。エナジーワーカ、ヒーラーとして、神智学でいう「神秘家」つまり感じて体験する方面を歩んで来たことが、こういう時には肌で知っていること、体感として、難しい思考を超越・中和するのに役に立つ。ジェネシスヒーリングの概念や、石巫女クラスで扱う地球史についても、常にそのような手法をとって、最後には「持論」を整理する試みをいつもしている。

インド哲学、シャカの哲学、そして神智学

モナド、アートマン、ブラフマン・・・

すると、全てが拮抗するものでもなく、同じ本質をただどう語るかにおいて、つまりフィルターが違うだけだと感じた。個我を超越し、意識は滅し、全体性の中に帰る。それが無であるか、愛や創造の源なのか、というだけのことだ。そのどちらでもいい。どちらでもあると思える。そして思想家は、その時代のニーズに答えようとする。それが魂が今世、持って来た意味でもあったりする。故にそれを精一杯、シャカもキリストも多くの哲学者も、生きようとするのだ。

いつもそういう意識が自分の中に在る。何も矛盾せず、ある意味で全てが矛盾してもいいと思っている。その奥に在るものを引き出すために、今、自分が何を出しておくか、ということ。存在の根拠は何か、という究極的な問いについては、ただそうであるとしか言えないのだろうし、宇宙の本質を「分からない」と感じる人間の意識は、それでこそ意味があるとも言える。分からないという役目を引き受けているのが、私たち、個々のアートマンなのではないか。。。

分からないという設定の中から、いろいろな在り方を思い巡らす。すると個我が生まれ、個我は世界を生み出し、現象界がフィールドされる。

・・・このところ、第六次元、第六オーラ層(アートマ体)にフォーカスしていくことになり(体験を通じて導かれ)、アトミックプリンシプル=アートマ原理とは何だ?と、考え事をしていたところだったけれど、ちょうど読書をしていた「ロゴスとレンマ」という全然別の入り口から、 何となく辿り着いたような気がしている。

そうそう、瞑想をしていたら、これまでの「5次元スペース」とは違う「6次元スペース」が急に開けて、その高性能・ハイテクノロジーに驚いたと同時に、これまでもちょいちょい、そのシステムはシリウス系やアルク系のワークで必要に応じて開けていたな。。と気づく。よほどにアピールされないと、真面目にアナログに律儀にやり続けるという変なローテク精神がある私。去年の4月に「7次元」というキーワードを受け取りながらも、心も、創造も、ライトボディも、肉体も、意識も、そこに進展させるのに、1年かかった。

今ようやく、全機能が入れ替わったような気がしている。すると・・びっくり!先週あった2件のセッション仕事で、ワークの進め方や周波数の幅がヴァージョンアップしていた。ヒーラー現役はもう辞めるというのに、どうしましょ・・・以前ならばこれでまた、新しいワークを作ったりするのだろうな。けれど。そのためにヴァージョンアップしたのではないということも、同時に悟った。(もういいのだそれは。。というか、今自分の見ているものでワーク化しても、ニーズは無いであろう、マニアック過ぎて/笑)

6次元に立つと、5次元で動いているよりも、テーマである7次元意識がかなり近く感じられる。去年やって来た「箱船」(=アーク=情報)と自ら名乗った10キロのクリスタルが言いたかったことが、全層でようやく足並みを揃えて理解できたという感じがしている。

Love and Grace,

Amari

天と通じ合い、大地に根ざす

何年も前から存じ上げている方々も、やはり今年は自分の方向性を問われるような意識の変化が起きている。それ故に、今までやってきた事を一旦閉じたり、小休止していたり。一方で、これまで動けなかった、どうしても表現や行動・発信などのアクティブな方向へ、自分を持っていけない力を内側に感じていた人々が、動けるようになって来ている。というのが、アルガンザの仲間達を見ていて、また日々語っていて伝わってくる。どちらも、然るべき・・時代の潮流、現実世界の奥にある、地球の息吹を感じ取ってのことだろうと思う。

昨日、3年ぶりの「石巫女アースワーク専科」がスタート。初回からスケールとエネルギーが壮大で・・前回は2015年の秋から半年間だったのと、今回石巫女をやることになった理由が直前に理解できた上でのスタート。今もまだエネルギー酔いして、体が余波でジンジン、ビリビリ、ほかほかして・・・今朝起きた時はクラクラして、頭痛も。延髄とクラウンチャクラからかなり情報とエネルギーが入って、早速動き出さないといけないようだ。石巫女は、アースワークというより、ガイアワークと言える。「ジェネシス」以後の今、行う2018年版は尚更に壮大になる予感。

話は変わるけれど、3年前の2015年に、念願だったアーユルヴェーダの集中基礎講座を受けて、そこである意味、開眼したというか、目が覚めてしまった。私自身は、今皆さんに起きているよりも少し早い流れで、今思うとあの時から、去年の「ヒーラーを辞める」宣言、そして今の、アルガンザの作り変えに向けての潜在的な流れが始まっている。今日のこの話を、ずっと書こうと思っていつつも、タイミングがいつもズレて来た。が、昨日の石巫女と、そこまでの2週間くらいかけて動いていた「新しい時代の潮流」を感じるエネルギーに載せて、今日、書いておこうと思う。

実はアーユルヴェーダをかじったのはその時で3度目の正直、だった。まだ奈良に住んでいた頃、大阪の先生、奈良の先生の講座を何度か受けていたものの、色んな意味で時期ではなかったようで、その時見た現実世界としては進展させることが出来なかった。ヒーラーとしてひた走った数年の後、2015年の春ころに再び急に気になりだし、久しぶりに先生を探し、朝から夜までの集中3日間コース、また別の時期のボディワーク講座を受けた。それが、今に通じる変換点となった事が、3年を経てみて冷静によく俯瞰できる。

若い頃からインド哲学やインド伝統の様々に、世界的なルーツが全て通じている気がして、更には宇宙の真理も詰まっている、ということはなぜか感じていた。けど、「難しすぎて、今の自分にはとても扱えない」と思って来たのが、「そろそろ、いいのでは?」と感じてのことだった。エナジーワークというジャンルに「奉仕」することに専心して来た結果、見える現実がようやく進化、違う層へと上がれたのでしょう・・その時のクラスは10名前後の女性ばかりで、志の高い人々ばかり。先生にとっても特別感があったようで、最終日の終わりの一時はとても感動的な空気だった。

かつて・・・21歳の時に、高校生の頃から憧れていたニューヨークへ、漸く行く事が出来た時に、別の土地にいることで、日本列島とそこに乗っかっている日本人の集合意識を、物質的なエネルギーの塊として「見えた」瞬間があり愕然とした。「普段、あんなモヤの中に居るの!?やだ、帰りたくない・・・」と。それと同じような事が、違う分野の志高い人々の中に入った時、起きたのだ。

ジャンルの良し悪しを言っているのではなく、先生は勿論のこと、その時にクラスとして集まった人たちが(ヨガの先生が多かった)意識の高い人々だったからだと思っている・・・(誤解のないようお願いしたい)。参加者の一人の方が、最後に言っていた。「今回が初めてではなく、私たちは前世の何処かで、同じ事を学ぶために、同じようにご一緒していたと思う。」・・私も本当にそう感じていた。いわゆる「スピリチュアル」に属してしまう(笑)自分の立場は、そのクラスではちょっと異色であるけれど、私の内側にあるものは、皆さんと全く同じで、かつ、普段そのつもりで仕事をしていると、ヒーリングサロンとしては何か、噛み合わないものが生まれるため、自分にとっては「どうしたものか」と当時、感じていたことでもあった。

クラスの中で一番盛り上がったのは、アーユルの各論よりも、サーンキャ哲学やヴェーダーンタ、宇宙の始まりから元素、世界、人間ができていく創造論、宇宙論。そして運命論だった。人は何のために生きるのか?それは最初から決まっている。天のエネルギーとともに正しくあれば、自分の心を磨き続ければ、それ(天命)は自ずと分かることであり、自然とそこに乗って行くもの。あとは、流れに乗るだけ。

これは私が20代の10年をかけて信仰していた法華経の考え方ともだいぶ違っている。法華経を含む大乗仏教はもう少し献身的・自己犠牲的で、原罪意識を伴う。=信仰とはそういうものかも。。原罪意識を伴うと、どうしても痛みが生まれる。それをやっていないと自分はダメだ、という。まだ癒されていないものが多い人にとっては、それは苦しみの元となって、何のための信仰かわからなくなってくる。

故に、10年間、水を被ったり、山に登ったり、先祖供養などをしてきた、まだ若かった私は、過去生のサンゲのために信仰と巡り合った、来世もまた・・という思想のなかで置き去りになっていつまでも傷ついている自分には、もう限界であると感じて、信仰をやめた。そんな時、たまたま幸運にも出会ったヴィジョナリーの方に「チベットの過去生で仏教に対するカルマがあり、それが終わった」と言われた。カルマ消化のために、私は19から29歳まで、仏教の信仰をしていたのか・・そして、必要な償却が成立したということか、と。

3年前にアーユル講座で体験した、ヒーリング・スピリチュアルという世界で作られている、そのジャンルの集合意識のグラマーの靄(もや)を直観するということ。あそこから既に、去年の今頃、「ヒーラーを辞める」と急に決めた瞬間への布石は、始まっていたということだ。ただ自分では全て無意識だけれど、実際に辞めるに当たって、これまでの全てを集大成し、のちの世代に繋ぐことと、自分の仕事を形に残す必要があり、それが「石巫女」「星巫女」などのマスタークラスと、「ジェネシス」だったということだ。・・グラマーの霧が晴れ始めてから、実際に抜けきるには3年かかった。

やるべき事をやり切らないと、抜けられない。過去にも「ヒーラーやめようかな」と試みたことが1度あったが、とんでもなかった! 抜けようと出口に向かったら、そこにお化けが待ち受けていて、戦わなくてはいけなかった。戦いながら、出口を塞がれたので、元居た場所に戻り、さらに上に登った。それがこの(今の横浜のサロンを開いて以後)6年のこと。当時の高さで出口を求めては、きっと違うところへ行ってしまったのだろう。もう少しちゃんと上に登って、カルマ償却をしてから、もっと高い層で出口を見つけなさい。・・私の魂はそう言っていたのだろう。

この1年をかけて、自分に起きていることをずっと感じようとして来るうちに、これは「仏教修行10年間」に続く、「ヒーラー修行12年間」の終焉ということだと、意外とシンプルにまとまった(笑)。任期満了、またはカルマ償却。

これからまた10年くらい、違う「修行」に入るのでしょうネエ・・・笑

最初の修行時代と、2つ目の修行時代が、気づいたら融合しつつある今。意識の学校や、プロテクション専科で仏教を扱ったり、インド哲学をカレッジ、マスタークラスで取り入れたり。自分が勝手に区別をしていただけで、もともと、ヒーラーとしての自分には、その前の仏教修行時代が、大いに生かされていた。あの頃、まだ若かった自分がぶつかった壁の色々も、今ならば意味がわかる。年長者や先人たちが、なぜそのような各論を設けていたかの意味が、人間の本質をヒーリングや神智学で見てきた故に、理解出来ている。なのに当時の自分は、未熟ゆえに尖って見たり、大人たちを批判してみたり。その人の「出来具合」によっては、あの信仰生活によって、幸せな毎日を暮らして人生を終えることだって、できるだろうことが今では分かる。

それとよく似たことが、「ヒーリング」「スピリチュアル」に対して、自分の中でこの数年、起きていた。し、これからも暫くは続くだろう。過去の修行時代と、自分の人生を統合できた今見ようとしている現実は、すべての要素から「これが自分の道」である事を常に設定でき、日々、まっすぐにそこを歩き続ける事。

ヒーラーを始めて最初の4〜5年は、それまでの人生への記憶が薄く、執着もないので過去のものをすべて売りに出し、人生でやりたいこともなくなり、ただ高次と繋がってヒーリングサロンをしていれば良いという状態になっていた。そこに最初の目覚めの一撃が来たのが2009年。・・この時の選択で、少し「人間に戻った」。

人間性を保ちながら、目的や意図や世界への貢献という意思を持ったワーカーになって行くために、恐らく、その選択をして、そうなるとかえって苦しさが生まれるので、神智学が教科書として必要となった。ただ高次の光のチャネルであればいい、という状態から、目的を持ったヒーラーであるという道に再び乗ることは、むしろ苦難を選ぶようなもの。けれど自分さえ、そして自分のサロンのクライアントさえ幸せで高周波であれれば良いということではない・・と、自分の魂が選択をしたのだと思う。

後半のヒーラー時代は、ゆえに「戦う」要素が強く、それは神智学が宇宙的な意味とメカニズムを説明してくれた。そうして、かつての信仰の世界で年長の人々が言っていたことが、ようやく身を以て理解できた。自分さえ、自分の世界にやってくる人々さえ、幸せであれば良いという設定で居ると、見えないことが膨大にあったのだ。まずは自分が癒されなくてはならなかった。そこから少しずつ、「本当の人間」=「大人」になって行く。

癒され、安心したら、もうそれで終わり=続きは来世 にして、「大人」にならずに生きて行くか。それとも、今世、魂が決めて来た事に着手するのか。その、魂つまり高次からの問いかけは、皆にやって来る。一度ではなく何度も来る。選択するその都度、世界が別れて行く。量子物理学的にいえば、そういうことだ。自分が乗っかる世界は、選択のたびに波のように上がったり下がったりする。

時折、買っている雑誌「ヨギーニ」から、引用させていただく。

私たちが目指している、「ヨギーニ」(ヨガをする女性)とはどんな人?(14年前の創刊時に設定していた「ヨギーニの条件」を編集部の皆さんが2017年に再検討した結果、「理想像は変わっていない」事を確認した、という記事)

ポジティブであること、そして凛としてそこに存在する安定感。そういったものに喜び、感性も豊かになって行くのに気づく。手の先から、足の先にまで神経が通り、腰が安定して 背筋はすうーと伸びて、その上に頭がある。宇宙と地球の真ん中を結んで、そこにまっすぐ、すくっと立つイメージ。そして、目に見えない自分の存在を確かなものとして感じ、次を求めるように・・

・・もちろん内面からにじみ出てくるものがあるからこそ。ポーズができなくても、瞑想をしたことがなくても、ヨガと言われる何かをしたことがなくても、その存在の仕方が「ヨガ」であればいい。そして大切なのは、自分と向き合い問い続けること。。。

『ヨギーニ 』枻出版社 vol.60 「新ヨギーニの条件」p24-25 よりお借りしました。ありがとうございます。

これに尽きるのではないかな〜と、この特集を拝読した時、思っていた。ジャンルはなんでも良い。その存在の仕方が「ヨガ」であればいい。

子供がお世話になっているシュタイナー教育についても、同じような事を思う。シュタイナーは人間を魂として考える。12年のシュタイナー教育を終えて卒業する18歳のころには、子供達は、フワフワした浮世離れした若者ではなく、宇宙と通じ地球とも繋がり、さらには世界のことも自分の一部として考えられる、縦軸だけではなく横軸も持った、しっかりした若者になっている、と、娘の先輩たちを見て思う。

そうなると、高校を卒業した後のことについて、「世界のために自分は何ができるだろうか」とごく自然に、考えているような存在になっている。これは、エネルギー的に自分軸がしっかりして、グラウンディングとセンタリングが確立し、かつハートや直観(サードアイ、松果体)もちゃんと使っているからこそ、だと思う。幼少期には活動している胸腺(ハートチャクラに対応する分泌腺)や松果腺が、むしろ現代社会で物質人間として育つことで、不活性化してしまうのが一般社会の現状だ。

私はエネルギーワークを通じて、この「ヨギーニな状態」を目指していけるよう、語り続けたのが、「ヒーラーズカレッジ」であったし、これからも「エコール」を通じてその活動を続けて行くつもり。重要なのは意識であり、実際に軸やエネルギーが整っていることであり、そこから生まれる現実や、日々を創造して行こうとする意欲、それを世界と分かち合おうとする姿勢、であると思う。普通の物質人間に一度なってしまった人間が、天地と繋がり健康的に魂を生きて行こうとするには、癒しと浄化と活性と意識変容を実践して行くための方法論が必要だ。アルガンザではその方法論の中心部に、私自身がそれらのプロセスを辿ってくるのに助けてもらった、エネルギーワークを据える、ということ。

「ヒーラー」=癒し手として、人々と接することで生まれる世界観では、それは今の所難しい部分がある。既存の「スピリチュアル」ジャンルのエネルギー背景と、そこを入り口にしていらっしゃる人々が求めるものと、時にズレが生じることがある。時代が自然に変化をもたらしてくれると言う人もいるかもしれない。けれど、人類史のどの時代を見ても、「自然に変わって行く」なんていうことはなく、活動し、働きかけ、発信する人々からの刺激があり、集合意識が変化して行くもの。そして自分がその流れの中で、何をしたか、あるいは何もしなかったか、によって・・・自分が乗っている現象界の層は常に、波のように変わっていく。

ヒーラーとは、日本語で言えば「治療家」

アルガンザで関わって来た人々の中でも、自分がヒーラーなのか、何なのかと悩み出している人たちが少なからず。私自身もこれは、長年常に頭の中にあるテーマだった。「治療家」なのか、または「教師」なのか。その両方か、あるいは別のものなのか。

「スピリチュアル」の括りの中に在ると一般的には考えられているレイキやエネルギーワークの世界を、今後どう扱って行くか、は、それを実践している人、学んで来た人それぞれが、自己に向き合い、答えを出して行くことになるだろう。エナジーワークが「ヒーリング」というジャンルの枠を超え、あって当たり前のものになる。ヨーガがここまで、普及したように。ヨーガはヨーガで、スピリチュアルと同じで様々な層が混在しているように見えるが、きっとそこでもこれから、変化が起きてジャンル全体が変質して行くような動きが生まれて行く(あるいはすでに生まれている)のかもしれない。

そんな時代が来ている、と感じる2018年の春であ〜る。

Love and Grace

Amari

秘密の花園– 再生の力

先日書いた「敬愛なるベートベン」と、同じ監督作品ということで久しぶりに見ていた「秘密の花園」。製作総指揮という形で巨匠・コッポラが関わっている。原作は有名な児童文学で知っている人も多いとでしょうけれど・・ざっとストーリーを。

インド駐在イギリス貴族の家柄で、お姫様のように育った、けれどパーティ三昧の両親には放っておかれ、「泣いたことのない」少女メアリー。インドの地震で両親が亡くなり、イギリスの親戚の伯爵家へ引き取られることになる。そのクレイブン伯爵は愛する妻(メアリの母の双子の妹)を数年前に亡くして以来、心に愛も希望もなく、ほとんど鬱状態。実は妻が残した息子コリン(メアリの従兄弟)が居るが、病気だからと部屋に幽閉状態。コリンは生まれて一度も歩いたことがない。

コリンの存在はメアリには隠されていて、屋敷は伯爵の心象を表すように重くて暗い空気に包まれている。メアリの叔母が大切にしていた花園は、あるじの急逝により扉が閉じられ、鍵がかけられ「封印」され、植物たちは枯れ果てている。

ポニーに乗った近所の庶民の少年ディコンは、まるで小さなお爺さん、長老のような存在感を見せる。メアリと、コリンをさりげなく支え導き、メアリは少女の中にある母性を開花させ従兄弟のコリンを癒し励まし、大人たちに「封じられ」部屋から出たことのない、歩いたことさえないコリンを外の世界へ。。。大人たちの手厚い配慮で歩けなく「されていた」コリンは、メアリとディコンの、知識ではない直感的な導き(=子供ゆえの純粋さだからこそキャッチできる魂からの知恵の降下とも言えるだろう)で生命力を取り戻して行く。

彼は実際には病気ではなく、大人たちの知らないところで、歩けるようにさえなって行く。ディコンは上流階級の姫・王子であるメアリやコリンが負っている傷や重さとは無縁で、ただまっすぐに大地のように、太陽のように存在している。自分の欲望や不満などはなく、メアリ、コリン、伯爵が癒されて行く過程を遠い位置から見届けると、満足したように微笑み、ポニーに乗って去っていく・・不思議な少年だ。

少年の脆さをコリンが、少女の強さと母性をメアリが、それぞれの双子の母からの流れを象徴するように体現する。この二人は同じように傷を追った、貴族の少年と少女。対のようでもある。そして、同じく病んでしまった伯爵・・・コリンの父親は、メアリとの出会い、彼女が中心となって死んだ花園を蘇らせるという子供3人の密かなプロジェクトにより、長い鬱状態から目を覚ます。

コリンとの親子の再会。そう、同じ屋敷にいながらも、同じ世界にはいなかった。伯爵の時間は妻の死とともに停止し、コリンは封じられ、花園と同じく生命力を無いものとされていた。メアリという女性性、母性が入って来たことから、死んだ花園は蘇り、伯爵は目を覚まし、コリンはようやく生きることになった。その時に初めて、複雑な想いが入り混じったメアリは涙を流す・・・初めて泣いた。伯爵は長い間忘れていた笑顔を取り戻した。

子供たち3人の手で、再生された花園に満ちる新たな生命力。行き交う動物たち。生きるということ、命、育む力、育つということ。太陽、笑顔、そして涙。その当たり前のような営みが失われていた伯爵家に、全てが戻った。使用人たちも、喜ぶ。

使用人の人々は、結局は主人、ロゴスである伯爵とその息子のコリンの指示を受けるばかりで、女主人を失って以来、生命活動を止められた屋敷の陰鬱な空気をただ受け入れて、働き続ける。ロゴスである伯爵を目覚めさせるには、メアリが必要だった。女性性、女神の再生の力、豊穣の力が、少女であるメアリから発動したのだろう。

女主人の死により封印された花園、伯爵の心、息子であるコリンの生命力。

メアリの両親の死という現実からの、彼女の旅の始まり。逆・英雄譚。世界の神話には度々、少女や幼い姫が冒険を強いられ、難局を打開していく物語がある。伯爵、コリン、花園、屋敷の人々・・・が、その良き影響を受け、命を取り戻していく。

ただ、メアリの背後には、それらの成り行きを全て見通しているような不思議な少年、ディコンがいる。動物たちとも話せるようだ・・・まさに長老。アーサー王伝説でいうマーリンの少年版のよう。さらに上の階層のロゴス、といったところだろう。

先日触れた「青い鳥」と同じく児童文学が原作ですが・・・子供の頃も、大人になってからも、小説や文学作品を読むことがほとんどない私なので、映画の美しい表現に感じ入るものがあった。皆さん、とうによく知っているお話であれば申し訳ないなあと思いつつ。。。

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最近は、非二元、ノンデュアリティが話題として流行りのようだけど、では二元とはなんぞやというと、善悪などのモラリティではなく、生命を生み育む力と、その逆、枯れさせ萎えさせる力、と、アルガンザでは定義している。闇の力というのは、本来そういうものであると。闇=病み ゆえに。どうせならば育み、元気にしていく道を選択して行きたいもの。「愛」も然りで、活性し、癒し、アニメイトすることで創造を行っていく、維持していくのが宇宙的な愛のエナジーであるし、それはただ一つの宇宙の法則であると言える。

Love and Grace,

Amari

イシスとオシリス

数年前に感じていた秘教的なテーマのひとつ、「イシス・オシリス」と私が呼んでいるエネルギー、出来事が起きたアトランティスの人類の誕生と選択、の部分。5次元的に、今年の1月後半からアルガンザでは動き出して、先週末の「ジェネシスヒーリング」伝授4デイズで、ひとまず区切られた。

ここで言う2次元とは、元はアースワークやセッションやチャネリングで得られたものをベースに、文章や思想や歴史的にざっと理解し、把握できたと言う意味で、5次元とは、アルガンザのセッションやジェネシスの場に絡めて、クライアントさんや生徒さんを通じて、多次元的にその情報が開き、生きたエネルギーとして動き、それを我々がキャッチ、理解し、現実を通して動いていたものをエネルギーワークにより対応できた・・・それにより、テーマは次の段階へ進む、という多次元ヒーリングとアースワークで対応するというレベル。

時代の流れや私たちのエネルギーシステム、周波数、意識の成長具合によって、その時々、少しずつ来てくれているのが分かる。当事者的ではない情報としてキャッチし、当事者として味わい、解放するために「役作り」を伴う現実の動きがあり、そして多次元ヒーリングで対処。・・・ここから先、いつものアルガンザの仕組みからすると、より大きなソウル集団、さらに大きな、と波及しながら同じようなテーマが伝播して行く。

自他ともに認める?フライング気味の走者なので、というかそれが自分の立ち位置だと認めていて、自分の前の流れというのはほとんど全く見ていない。情報収集を同じ時代からはほとんどしていなくて(仮にしたとしても「それは違う」という事実に気づくばかりで)、むしろ、同じようなケース、時代の流れのパターン、高次や私たちのソウルシステムがどのように連動して地球が動いて行くのか・・を、過去に刻まれて残されている先人たちの仕事や、歴史そのものから、参考になるものを得ていく。

「レムリア」も「アトランティス」も、過去ではない。人類が非物質な境界から、物質化して存在するようになったその時代の変遷は、これから、まだアトランティス人種期を引きずっている今の人類(神智学では「アーリア人種期」の始め)が、物質的・利己的という意味で(神智学的に言えば)最底辺をマークしていたアトランティス時代から、今度は上昇孤の進化段階へ入って行く時、もう一度、アトランティス→レムリアへと、逆回しで体験して行くような流れが、これから来るのだろうと思っている。

そうかと言って、それらの時代を懐かしむでも、逆に忌み嫌うでもなく、今を生きる私たちの中で、アトランティス→レムリア という、かつて辿ったのと逆のエネルギーや意識を体験して行く行程が来るのだろう。そこに、これまでの歴史を刻んで来ての今の人類、という「現実=三次元」と、5次元つまりエネルギーやカルマとしてのアトランティス、レムリア が、統合されて行く。

一見、歴史を逆に辿って行くようで、進化に向かって行く。そういう時代が、これから数十年か、数百年かけて動いて行くのではないかと「ジェネシス」をまとめて、今、感じている。

・・・これを、すご〜くキャッチーに分かり易く言ってしまうと、「光と闇、分離、という二元性を超えて、ワンネスへ」

という、ニューエイジで当たり前のようにずっと言われている表現になる(笑)。ならばそれでいいじゃん、という訳にはいかないのが、物事をアレコレと真面目に考えてひっくり返してみたり、「そもそも二元性とは・・」「人類の進化とはなんぞや」とやらずにはいられないタイプなのである。。(笑)。。けれど、「スピリチュアル好き」な人々の趣味の世界のキャッチフレーズ、として片付けられない為には、説得力のあるものを求めて行く態度が、不可欠であろうとも思ってのアプローチ。

歴史や思想史・宗教史を見ていると、民衆レベルの情報の取り扱いと、権力者(=当時はそこに知識人や賢人たちが集まる)の周辺との、常に二層構造があり、民衆はただ押し付けられて鵜呑みにしている(自分たちも頭の中身を委ねてしまっている)時代もあり、一方で安定した権力の元では学問や芸術は華々しく展開する。が、権力者同士の争いなどで世の中が荒れると、民衆にも火種が行くので、日々の生活の危機をまともに痛感した人々はようやく、自分の頭と行動力で、何か違うものを求め始める。

そこに、民衆のために立ち上がる、世の中を見据えた天才肌のカリスマ宗教家のような人たちが登場し、命がけで活動しながら、心の平安を求める人々のニーズに答えて行く。権力者たちは、自分たちが大事にして来たものが、思想レベルから崩れて行くことを危惧し、大抵の場合はそんなカリスマたちを弾圧する。でも大抵、その動きは止められない。市民たちが本気を出せば・・・数で勝ってしまうから。

そうして時代が流れ、思想も流れて行く。

現代社会は、幾度ものこうした思想とエネルギーの錯綜を経て、かつての民衆=市民と、権力者・知識人・文化人などの壁がなくなるところまで、人類は歴史を前に進めて来ている。今の思想的な主役は市民、つまり私たち一人一人であって、昔のように封建制の領主や専制君主たちに、自分たちの運命を委ねている訳ではない。それに加えて、情報化社会になり、ほとんど全ての知識や情報が開示されているような状況。

誰のせいにも出来ない。この時代背景の中で、アトランティス・レムリアという逆進化が、実は、本来の上昇孤の進化に乗って行くことであるという流れが来ている。

今年の1月に、アルガンザとしてはレムリア=自然界=調和の崩壊のテーマがこれまでに無い強さで来ていて、それが1月半ばで一段落。すると、1月後半には「なぜ調和の世界を当時の人類は否定し、自ら周波数の低下(楽園追放)や分離、二元性のある構造を生み出したのか」が、情報として開示されて、その中で様々な関わり方をしたことのカルマが、今月初めの「ジェネシス」伝授では浮上していた。それにより、2012年末、「イシス」のキーワードで始まったジェネシス(当時は創世記、と呼んでブログに刻み、カレッジでもシェアして来た)は、再び「イシス」のキーワードにより、一旦の情報として、螺旋で一周したように、締めくくられた。

体感としては、これが・・・現実の、より大きなフィールドで、つまり全世間的に、起きて行くのがこれからの数年なのではないか、と感じている。体験と消化なくしては、次の段階に進めないのが人間のエネルギーとソウルシステムの法則。

イシスとオシリス。光と影、女性性と男性性。このテーマを超えて行くことが、それらの分離が始まった(それを人類が選択した)アトランティスのカルマを解消し、調和を戻す(レムリア)という流れを生み出す。とはいえ、それは単なるレムリア回顧、回帰では当然なく(そこには戻れない)、物質体として存在する人間社会が、非物質のセンスを取り戻し統合して行く・・・5次元化。これをずっとずっとずっっと・・・やっていくと、また再び非物質領域で生きることになるのだろうけれど、今とこれからは、その上昇孤に人類が乗れるかどうかという、それを選択できるか、という、分かれ目のように思う。

封建制や絶対君主の居る時代の民衆たちと違って、私たちは自由市民である。けれども、いまは情報化社会やメディアそのものが、絶対君主のような存在と言えるかもしれない。そこに委ねてしまわずに、エネルギーと意識を常に自分自身のものにしていくことが、大切だろうと。

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ジェネシスヒーリング第二世代の伝授セミナーを終えて、2018年度に入ったこの一週間。新しいスクール「エコール」の「インテンシブコース」が始まり、また昨日は今年だけのスペシャルなコース「セルフスタディ特別クラス2018」のお二人が、無事に最終のスクーリングを終えたところ。皆さんと共有する時間の感触が、やはり明らかに新しいものになっている。これが2018年の感触なのだろうと。

まだうまく言葉にならないけれど、ある意味で「ほかに権力者・権威がいる社会の民衆」のように、誰もが無意識ながらに色々なものにとらわれ、怯え、動けなくなっていたのが今までの時代ではないかと思う。もう既に無い支配のエネルギーを、親や会社や周囲の人々に重ね、動けなくなっている。それ以上、行動できない、考えられないのを、何か・誰かの存在と重ねて。(私自身も含め)

そんな幻想のベールが、今年の2月くらいから剥がれていって、自分の責任をもうどこにも預けることが出来ないというエネルギーに、切り替わっている気がする。そこから、各人がどう、この2018年の新しさをまとめていくか。それが具体的に、創造というエネルギーに結実し始めている人たちも居る。変わり目には、自分の中からたくさんのお化け、ゴーストが現れてくる。それに騙されず、創造に向かっていくことに、この変化のエネルギーを使っていく人が増えたらいいと思う。

Love and Grace,

Amari

疾駆する魂・ベートーベン『大フーガ』

アニエスカ・ホランド監督作品、『Copying Beethoven』(邦題:敬愛なるベートーベン)は何年か前にも一度、ブログに書いた気がする。久しぶりに観たら、以前よりも深く面白さを感じ、また監督の目線のようなものも前よりスッと自分に入って来て、我が家にある同監督のもう一つの作品『秘密の花園』も改めて見てみた。こちらもなかなか奥深くて、魅せられるものがある。

まずはベートーベン。原題にある「Copying」はこの映画のヒロインであるアンナという女性の「写譜師」=copyist という立場から来ている。作曲家が書いた楽譜を清書する仕事のようで、音楽のプロとしての知識が必要。そして作曲家との共同作業でもあるから、息が合う・その作曲家を深く理解している、などの条件が必要になると思われる。が、残念ながら、ダイアン・クルーガー演じるアンナは架空の人物。

大叔母が長を務める修道院に下宿する真面目で優秀な音楽学校の生徒であるアンナ。設計士を目指す恋人も真面目で堅物そうな印象。すでに晩年に差し掛かり(50代)、代表作である『第九』の発表を目前にしたベートベンの写譜師として紹介されたアンナは、尊敬する作曲家を前に、荒々しい性格のベートベンに怯えながらも、女性特有の母性的な人間愛と、敬愛をうまく統合しながら、ベートベンの良き理解者・仕事のパートナーとなって行く。

エド・ハリスが演じるベートーベンは不器用でしょうもない所も多々あるけど天才とはこういうもの、と感じさせ魅力的。透き通るようなアンナの美しさもこの映画を見ている中で清々しい風のようで、監督のタッチとダイアン・クルーガーの女優としての性質がうまく共鳴しているように感じる。

映画の見所として、ブタペストの劇場でオーケストラと合唱団と観客を用意してノンストップで撮影されている『第九』の初演があげられることが多い。確かに圧巻と言えるシーンではある。彼を揶揄していた人々も皆、作品の余りの素晴らしさに涙するというのも、見ていて伝わってくる。この現場に居たら誰もがそうなるだろうな、と。当時、大合唱団を交響曲の中に組み込むなんてことはあり得なかったよう。

特に晩年のベートーベンは、「普通ではやらない」ことを実行し、それまでの支持者を失ったり、聴衆は付いていけなくなり、映画でも描かれている『第九』の後の弦楽四十奏『大フーガ』の受けは惨憺たるものだったよう。。。時代を数十年、ひとり駆け抜けていたようだ。その作品が正当な評価を得たのは、20世紀に入ってから。現代では高く評価され、現代音楽への影響も少なからずと言われている。

第九のシーンは確かに素晴らしい。けれど、映画の中盤でさらっと終わって行く。その後、「大フーガ」に取り掛かるベートーベンがアンナに意見を求めると、「美しくないです。」と返ってくる。不協和音や、あえてズレて行くテンポ。当時の古典音楽においては考えられない発想と試みの数々は、結果的に、その後のロマン主義を呼び起こす力となった。ロマン派音楽というのは、より感情表現を乗せるために演奏する側の技能は高度なものが求められるようになっていったよう。間違いなく、「大フーガ」はその動きへの促進剤になったはず。

私は若い頃にぶつけどころのない、得体のしれない熱や情動のようなもののはけ口として、ハードロックやヘヴィメタルを好んで聴いていて・・それと同じような理由で30代、執筆活動をする時には必ず、ベートーベンのピアノソナタ(特に「ワルトシュタイン」)がBGMの定番だった(笑)。今、『大フーガ』は同じようなものを感じさせてくれる。

久しぶりに観たこの映画で、改めて印象的だった幾つか。人々に理解されない、人々が求めるものと、自分の立つ境地が大きく違っているのを承知しているベートーベンは、アンナを相手に本心を吐露する。「理解できないなら(聴衆の方が)想像力を高めればいい」・・まるで、「パンが無いならケーキを食べれば?」(マリーアントワネット)と同じような物言いだけれど。芸術家も一人の人間。自分が追求したいものを追求し、常に新たな境地を目指し続け、それを表現したいのは当然だろう。若い頃から天才として遇されパトロンたちの要求に応え続けて来たのだから、尚更のこと。

というか、そのような態度でなければ、死んだものしか生み出されない。一見、その時代の聴衆心理・大衆心理には心地よいものが生まれるかもしれない。それによって生活が安定するかもしれない。作曲家自身も楽だろう・・・・・が、それは本当の芸術ではない。自分自身が生み出したいもの、その時に到達できる最上のエネルギーでなければ、当人が満足することはないだろうし、一時の評価を得られたとしても、すぐに忘れ去られるようなものとなっていくだろう。それは本来、芸術ではなく、言ってみれば・・・商品だ。

本物の芸術家ほど、出せるものを全て出し尽くそうとするから、芸術以外の要素では苦労する。孤独な求道者としての道。

「神と私は完全に理解しあえる」・・映画の中でも神との繋がりを信頼していることを表すセリフが何度も出てくる。自分の仕事が神がかったものであることを信頼し切っていたからこそ、聴衆の意見を無視する、という態度が貫かれていたのかも。やっと見つけた、自分の音楽を理解し、寄り添ってくれる助手としてのアンナ。彼女も奇抜なベートーベンの天才振りに、真面目な優等生としてベートーベンを真似た作曲しか出来なかったところから、少しずつ変わり始める(頭の硬い恋人とはおそらく別れる・・笑)。

「この曲(大フーガ)は、未来の音楽への架け橋だ。この橋を渡れば、君にも新しい扉が開く」とアンナに諭す。アンナの曲については「君は私になろうとしている。ベートベンは一人いればいい。」

印象的なラストは、「大フーガ」発表後まもなく世を去ったベートベンを思いながら、喪服姿のアンナが一人、草原を歩いていく後ろ姿。彼女はおそらく、これからの人生でその橋を渡った先の、自らの魂から溢れ出す表現を生み出していくのだろうと、予感させる。

アンナのような理解者・同志が、芸術家の人生で一人二人でも、居ればいいのだろうなと。けれどアンナは架空の女性。実際のベートベンの人生に、そんな人が一人でも居たのだろうか、居たのならいいな、と思いながら、単に第九の圧巻シーンが目的では無い、この映画の深さにジワジワと感動していた。

そうそう、映画の冒頭にはベートベンの死の間際のシーンが挿入されている。駆けつけるアンナの中に第フーガが流れ込んできて、ようやく彼女の中で全霊で、その作品のエナジーが理解される瞬間が来る。それを、死の床に居るベートベンに告げることも出来た。「マエストロと同じように、私も大フーガを聴きました!」

敬愛するベートベンが逝ってしまうという瀬戸際、自分の全存在を持って馬車で疾駆するその祈りの高まりの中で、頭ではなく、魂でアンナは「大フーガ」を聴いた。それと自身が一体となり、世界の全てが大フーガとなった・・・

これは、「第九」で聴衆が総立ちで涙したことよりも、感動的で重要なシーンである。だからこそ、時系列ではなく、映画の冒頭の数分間に挟まれている。芸術家にとっては、数百人の聴衆のウケよりも、たった一人でも魂から理解してくれる人の存在が意味を持つ。監督自身の投影が、アンナであり、ベートベンでもあるのかもしれない。そんなことも思った。

Love and Grace,

Amari

 

坑道のカナリア

「坑道のカナリア」。有毒ガスに敏感に反応するので、一昔前は鉱山へ入っていく坑夫達が、籠にカナリアを入れて行ったという話。それをアメリカの著名な作家であるヴォネガットが比喩として使い、作家や芸術家という人々は、世間の人々がまだ感知していない危険や社会の悪化を感じ取り、知らしめるという使命を持つものであるという、芸術論として語った。ひいては芸術家やそもそも芸術というものが理解されにくいという前提から、自らを含む作家・芸術家という立場を知らしめるための表現なのだろうと思う。

実際に使われてきた事例をみると、反戦などの意見表明など、やや政治的な場が多いよう。その論が展開されたヴォネガットの論文をちゃんと読んだ訳ではないので、なんとも言えないけれど・・個人的には反戦などよりももう少し、根源的な人類の問題や方向性に関する、芸術家のセンシティブなアンテナ、センサリーを言うのではないか・・と、思う。

芸術家、作家などを含めた表現者は、表現せずにはいられない人々であると思う。媒体はなんであれ、この「カナリア」に当てはまる人種、種族というのは「表現者」でくくられるのではないかな。そうでなければ、芸術や文学が好きだとしても、趣味の域でいいわけで・・・表に出せば、批判されたり嫌いだと言われたり、誤解されたり、楽しい事ばかりではない訳だけど、それでも、「表現」せずにはいられない、つまり深いところからの叫びがあるはず。

人間の思考や感情が結びついた顕在意識というのは、社会的な制約や時代の風潮などに染まりやすい。動物的な自己保存本能からいえば、その方が生存がしやすいからだ。でも、動物的な自己保存本能を抑えてでも、自分の立場をこの物質世界において、表そうとする。それが表現者、芸術家ではないかと思う。

実際には全ての表現者が「カナリア」とは言い切れず、むしろ傷や痛みや怒りなど、ネガティブなエナジーを社会にぶつける、エゴイズムからの自己表現も多々、あるだろう。けれど、坑道に向かうカナリアの使命は確かに、自らの身をもって坑夫たちの命を守る、というものであり、そのような思想家や芸術家・作家は少なくない。

若い頃、こういった運命に過敏で、ドラッグや自死で夭折するアーティストなどに非常に同情的だった。自分でも不思議なほど。。恐らく過去生などでたくさん、「浮かばれない芸術家」や「生活に押しつぶされ才能も認められず」などの、天からの祝福(才能や直感)と地上で生きることの狭間で、潰れていく人生を少なからず経験したに違いないと思っている。おかしなくらい、シンパシーを感じていた。

そんな二十代前半にとある集まりで、こういったこと(「芸術家の苦しみ」)へのシンパシーを語ったところ、学校の先生をしているという人に「僕はそういうの嫌いだな」と言われ、ショックを受けている時、「僕はわかります」と助言してくれた人が二人。一人は舞台の役者さんを目指す方で、もう一人は、出版社で編集をしているという方。その時、「やっぱり、芸術家の気持ちは芸術家にしか分からないものだな」と思ったのを、よく覚えている。当時から自称「作家」だったので・・・

けれどもまあ、何というか、こういう人に一番効いたのは自分が親になること。生きる、ということをここまで生々しく、力強く、笑いと涙で教えてくれる道はない。どこか危うい翼の折れた天使たちも、親になることで地上の人になる。エネルギーワークが無かったら、そして子供を持つことがなかったら、きっと二十代で人生が終わっていたのではないかと、思っている。

そうして今は、エネルギーの世界で人間の仕組みや世界の仕組み、大宇宙の法則がわかってくると、そういうギリギリな芸術家の生き様には、常に隙間が多く、足を引っ張る力が入り込んでくるのだという、芸術家をめぐる秘密のようなものがよく見える。才能があるということは、それだけ魂からの光の流入があるということ。それは逆の力からしても「美味しい」魅力があり、「波動の高い人が感情や周波数的にアップダウンする」のを、闇の力は何よりも嗜好するもの。また当人も、センシティブな感性は美しい世界の響きをキャッチする一方で、人をダメにするようなサウンドにも自分を預けてしまうことがあるのだろう・・・

メタフィジカルな世界でも、そういった事が起きている。情報も撹乱される。だから本当のライトワーカー達の仕事が進みにくくなる。アルガンザのジェネシス視点でいえば、坑道のカナリアの比喩が一番似合うのは、「アンドロセラフ」。アンドロメダから地球創生に関わるために降りてきているセラフ達が、地球で起きた様々な攻防や変動に巻き込まれ、その魂が人として生まれる道が作られ、地上で転生してきているパターン。芸術家肌、こだわりの多い、洗練されたセンスで知的好奇心の強い人が多い。・・が、内面にどうにもならないような深い淵を持っていたりもする。

この癒しはなかなか手強く、そうでない人々に比べるとかなり難しい。けれど、健全にケロっとして生き、さらにそれを超えて魂から生きていこうとすることだって出来る。そのためには、「堕ちたセラフィム」以外の要素を自分の魂の何らかのコネクションから、呼び出さなくてはならない。私の場合はそれは2005年に命がけの強烈な瞑想体験として起きて、以後、シリウス人になり(笑)・・去年からはアルクトゥルス人にもなり(笑)。

地球にまつわる様々な思いを持っている。元素や、デザインにまで遡る創成の記憶・・(だからこそ芸術家が多いのだろう)・・・個我を持たず淡々と関わる創造活動の中で、地球の質量が重くなって行き、人間達の意識とシステムは落ちていく。犠牲になり、再生され、人間界へ。その複雑さが、(アルガンザジェネシスヒーリングに照らすと)アンドロソウルを持った人の人生の難しさ、本人の生きづらさとして現れる。

けれどその複雑さに、呑まれていては・・負けていては・・翻弄されていては、今生の創造が本格的に身を結ばない。やりたいと意図すること、魂が望むことを表現し、創造的に生きながらも、苦悩にとらわれないところまで、自分を持ち上げ、整えていく。それが出来るのは、自分の強い意志から始まる魂との共同作業。

若い頃と違い、抜け出す方法は分からないのにただ同情する、なんてことはしない。少し前までのように、抜け出す方法が分かって自分は抜けられているのに、深みに居るアンドロソウルたちを無意識の領域で引き上げようとしたりも、もうしない・・先に進めと、言われているから。カナリアたちが、自らコミットし強い意志で、持ち前のセンサリーと創造的本能を、今生で思う存分に開花させることが出来るよう、ただ祈っている。

この、「坑道のカナリア」という概念を知ったキッカケは、先月下旬のジェネシスヒーリングの認定セミナーでのこと。受講者の方が用意してきたオリジナルワークが、「鉱山のカナリアのように優れたセンサリーと感性ゆえに、人々の前線に出ている、けれど傷ついている、という部分に効く」という、何とも優しい愛に溢れたワークで、モニタリングで体験させてもらった私も、感動的に響くものがあった・・

その後、調べてみてヴォネガット氏の「カナリア論」だと知った。ジェネシスのセミナーに来てくれていた Alphさんに、この度、ブログ記事にしても良いかとお尋ねして、了解を頂いた。ちょうど彼女の方でも、ブログにカナリアのワークについて書かれているようなので、ご紹介しておきます。

実は・・・

ジェネシスの認定セミナーの時はいつでも、受講生の方が用意してくるオリジナル光線のヒーリングの趣旨にピタッとハマる「役作り」が、どうやら私に起きるよう。その日の朝、「どうしてこんなに脆弱な私がこれ以上、前に進めるというのか」と天に向かって心で叫んでいて・・数時間後、Alph さんのワークを受けて、起き上がった時には「はい、頑張ります」とニコニコしていた私。。。笑

自分の無意識レベルの女優シャーマン魂には、いつもながら呆れてしまう。けれど、まだまだそんな叫びが出てくるエネルギーが、自分の中にあったのだなあ、と。

Alph さんは星巫女専科の1期、卒業発表においても非常にクオリティの高いエナジーワークを作っていました。エネルギーへの感性だけでなく、それを読み解くセンスや、説明する知識の引き出しも必要になってくるエナジーワークのクリエイション。今回、カナリアのようなレモンイエローの光を私もモニターしながら感じていましたが、それをシェアしたところ、Alph さんから坑道のカナリア・・の話を聞いて、体感と、効き目と、その日の朝の自分と、ワークの世界観がぴったりと一致して、感心したのです。

自らの経験上、自分ではどうにもならないというレベルの力が、自分の深いところを押さえつけていることは多々ありますね。ヒーラー、ヒーリングは、そんな時に専門家として、活用して貰えたらと。

ちょうど、第二世代のプラクティショナー伝授4デイズが昨日、終わったところ。いつものようにみんなのジェネシス層が改めて揺さぶられ、見つめるべきところを見つめた4日間は、不思議な天候や、鳥達の大群や、宇宙船の群れのような雲や、強風、みんなが帰った後に私一人で2度も見てしまったUFOのかつてない大きな光など、すでに3次元ではなく5次元にあり、自分たちのソウルと地球の歴史を傍で感じ続けるような時間として流れていき、スッキリさっぱりと終える事ができた。

これをもってようやく、ジェネシスプラクティショナー第一世代の伝授、カレッジ5期、星巫女2期、なども、ようやくここで終わった、そう感じた。

そして今週から、2018年度の「インテンシブ」、新しいシーズンが始まる。

Love and Grace,

Amari

「青い鳥」円環構造

 

 

昨日アップしたピンクフローライト。水色やラベンダーの部分もあり、境界線のように走るピンクのラインも見えている。フローライトだけれどモルガナイト&アクアマリンのような高いオクターブを放つ、見たことないような美しいフローライト。

インド哲学の中から派生した仏教は、シャカの思想では「自己鍛錬」の道を説いたものだった。苦しみを生み出す己の心と徹底的に向き合い、そのメカニズムを超えて行くことを説く。その後、空の思想が深められて大乗仏教ができ、たくさんの宗派に分かれてそれぞれの宇宙観を展開していく。とはいえ、根底に流れるものは「ここに在る、煩悩で生きる自身ではないものに変容していく」という姿勢。

その哲学を懐に搭載して人生を歩んでいくということは、生きているうちに出くわす様々な障害、山、自身の内的葛藤などを、その都度、超えていくように・・少なくとも心がけて行く、という姿勢。これを人間として当然のことと見なす人々と、そうではない人々が居る。

先日テレビを見ていて(確かNHKの歴史系の番組)最後に司会者がコメンテーターの先生に質問した。「今の日本に足りないものは?」

その答え、「リア充で満足するのを否定するという態度」・・「現実生活が満たされていればそれでいいじゃん、という日本にある風潮は『負け』である。それは騙されているということなんじゃないか。」・・と、サラッと仰った。

インドから中国に入った仏教の流れの中から、新たに中国で生まれ日本にも入ってきたのが「禅」。元々はサンクスクリットの「ディヤーナ」から来ていて、インド仏教で説かれていた仏教者が守るべき3つのもの(「三学」)の中の一つ。「心を平静に保ち揺るがない、無我の境地」を意味し、=瞑想と説明されることが多い。

禅は中国で仏教の一派として生まれ、教義により主に二つの宗派に分かれて行く。一つの宗派は「ありのままを生きる。人はそのままでその人個人として完璧なのだ」と考え、他方は、「ありのままをどう乗り越えるか」をテーマとしたのだという。・・・いつの時代も、スピリチュアリティという分野では、やはりそういった分岐点があるのだなあと。

そして、「ありのままでいいんだよ」と考えた宗派の中でも、時代が降るうちに様々な解釈が生まれ、自分の本来性(本質)を、今あるこの自分とするか、または別次元に求めるか・・・など、思想の違いから5家7宗に分かれ、そのうちの臨済宗と曹洞宗が日本に入って来ている。

ニューエイジ的スピリチュアリティにおいても、同じようなことが起きて居るのは、むしろ然るべきことというか、人間の思想というものは、いつの世も同じだと納得が行く。「リア充信仰」が「負け」で、「騙されて居るのか」、そのまま(リア充)でいいのか。これも同じ分岐点だなあと感じた。

私の個人的な思想。基本的には、「生きている限り人は成長を心がけて行くもの」・・だけれど、自分一人で生きて居るわけではなく、世の中は複雑。時に、あえてダウングレードすることも、道に迷うことも、思想的にわからなくなることもあるだろう。子供の頃は、メーテルリンクの「青い鳥」について、「本当に大切なものは足元にあるのに、人はそれに気づかずに夢を追い続ける。が、いつかそれに気づく」というメッセージだろうと受け止めていた。けれど、四十代も半ばになって、漸くとてもとても深い意味が込められていたのだと知ったのは、禅で言われる円環構造に触れた時、「青い鳥」のことを想起したのがきっかけだった。

「必要なもの」「欲するもの」を探し求めて出向く冒険の旅。ジョゼフ・キャンベルの英雄神話論のように、また多くの神話的モチーフがそうであるように、様々な困難に遭遇する旅を通じて、そこにあるものは「何かを手に入れる」結果ではなく、「自らが変容する」というプロセス。言うなれば恐れの克服やいらないものの削ぎ落としや、視点や洞察力の進化成長があり、人間性の深まりや生きて行く知恵の習得があり・・・その状態で戻ってくるからこそ、「青い鳥は家に居た」と言う結果が顕現するのだろう。

世界中の思想や物語において「円環構造」「円環思想」は描かれている。「青い鳥」の物語がまさに語っているように、彼らが冒険を通じて変容していなかったら、鳥は元々の鳩のままだったのだろう。。。「世界を変えるなら、まず自分から」マイケル・ジャクソンも歌っていたっけ。(Man in the Mirror)

ヒーラー的に言えば、エネルギー状態、チャクラバランス、エネルギーの活性や意識指数の数値が上がって行けば、スロートチャクラから顕現する三次元の現象・現実・自身のあり方が変わるのだし、そのような人間が増えることで、集合意識が描き出す結果として、世界も変わるのだという、シンプルな法則。

できれば自分は何もせずに、世界がシフトして行くのを待とう・・・そういう人が、多いのではないかしら。。?

けれど、「あるがまま」で行くのならば、鳩が青い鳥になること=幸せ=地球のアセンション? は、永遠に来ないのではないか。同じところに居るようで、螺旋をいくつも上昇していくと、鳩だった自宅の鳥が、幸せの青い鳥であったという現象化が起きる。この円環構造から、何も今の時代が例外的であるとは、個人的には思えない。宇宙の創造の仕組み、エネルギーと顕現の仕組みからしか、現象は顕現しないはずだから・・

思想的な分岐点は、人々をどこへ運ぶのだろう?

誰もが青い鳥を見つけられたらいい。

Love and Grace

Amari

太陽の宿り木 — 「恐れ」と太陽

 

このところ、スモーキークォーツが活性しているように思う。まだ新潟に住んでいた頃、アメジストとスモーキーが好きで仕方ない時期があって、恐らくグラウンディングやバランシングを学んでいたのだと思うけれど、その頃以来、久しぶりにスモーキーに目が止まる。これは先日、リュミエールのインスタグラム企画で、密やかに半額タイムセールになっていたルチルの入ったスモーキー。この時の3点は「もう長いことお店に居るので、今回半額でもお嫁に行かなかったら販売終了」・・として出したアイテムで、結局お嫁に行かなかったので「公家の姫様の出家コース」に。どうしようかな〜、、と、ひとまず持ち帰ってみた。どうやらこれがキッカケとなって、スモーキーたちが光って見えるというムーブメントが、始まったよう。。

我が家は東南向きで、朝日が地平から登ってくるところから始まり、数時間に渡って太陽がさんさんと降り注ぐ。この家を私は、「幸せの家」と名付けていて(笑)たくさんの植物、鉱物、そして犬たちが朝日を浴びて麗しく輝いている朝のひと時が一番、楽しい。

このスモーキールチルが朝日に輝く様子を眺めてコーヒータイムしていると、降りてきたのが「太陽の宿り木」という名前。宿り木は・・他の樹木に絡んで生息する種類の木・・だったかと思う。そのあたりは良いとして、「止まり木」でもいいのかもしれないとも思ったりしながら、響きもよかったのでそのままに。

あの頃、恐れを克服する、自分を強化する、という潜在意識も働いて、スモーキーを必要としていたのかもしれない。ザギマウンテンの男気ある原石、パキスタンのガーネットとブラックトルマリンを抱え込んだ原石など、お気に入りでいつも手にとっていたっけ。。

色々な、人間の苦しみのパターンを掘り下げて行くと、結局は全て「恐れ」に通じているような気がする。化学の分野などで、液体の物質を攪拌して、攪拌して、熱したり水分を飛ばしたりして、最終的に残った個体を取り出す・・・(なんて言うんだろう?)・・処理などをするように、色々な感情や、そこに色付けされたものを、攪拌して、攪拌して、最後に残るものとなると、「本能的な恐れ」が素材の中の純成分として、残るのかもしれない。

その本能的な感覚のような恐れから派生する、様々な感情。それに意味を与えようとする思考や理屈。コーティングされて、本質が見えなくなっているけれど、結局は、素材の中のさらに素材には、恐れが隠れているのではないかと思う。

もうそんな意味づけなんていいよ、それを恐れだと認めて、前に進もうよ・・・と、人を見ていると思うことがあるけれど、自分の中でモヤモヤっとして、尤もらしく考え事をしていたり、カッコつけて理屈で整理したりしていることを、一歩引いて視点の高さを戻して直観すれば、「結局これも恐れであらう」・・と、気づくようなことが、今でも度々ある。

去年の年末だったか、ふと「恐れを抱いて縮こまっているのって、人として美しくはない。誰だって、本当ならば美しく生きたいのではないか。。」と、思ったことがあった。誰だって・・少なくともソウル、魂は、この地上で美しく生きる自分を本当は味わいたいのではないかと。

こういう事を言うとすぐに傍で、「醜くたっていいのさ」「それが人間じゃないか」と言う声が上がる事は、経験上よく分かっているのだけれど(笑)、多分、人間の感情というものは、「魂が本来持っている美しさ(愛・調和)」から、パーソナリティの生き様がずれたときに、「苦しい」と感じるのではないだろうか。

太陽は、いつもそこに在る。ずっと、変わらずに。

けれど地上に居る人間には、「天気」というものを通してしか、太陽を感じられない。今日は晴れている、今日は曇っていて太陽は見えない、雨が冷たくて空が暗い・・・・・でも、太陽そのものは、いつも変わらずにずっと在る。

魂は太陽のようなもので、人として生きているパーソナリティは、お天気。

曇っていても、たとえ嵐でも、その奥にはいつも必ず、太陽が輝いているのだということを忘れなければ、本当は恐れなんて必要ないという自分に、誰もがなれるのだろう。

Love and Grace,

Amari

哲学の道と桜– 吾は行く

 

まだ五分咲き・・三分咲きかな?うちの近所の桜並木。

桜を見ていたら思い出しました。京都の哲学の道。

歩いたのはもうずっと昔ですが・・・短大を卒業した春なので、25〜6年前になりますか。。短大の卒業記念に母と出かけた京都旅行でのことでした。近くに泊まったのでガイドブックに導かれて出掛けて行って、何となく花曇り、寒々とした空だったような記憶が蘇ります。

当時は、留学や四年制大学への編入を資金的に諦めて、向いてないと知りながらイヤイヤ企業への就職が決まり、新入社員研修を目前にして逃亡したいような気分で過ごしていた時でした。更に、学友の多くがヨーロッパなどに卒業旅行に向かう中、これまた資金的に諦めて(苦学生だったので)、母と京都へ。ただ、この旅で琵琶湖を望む比叡山からの風景との衝撃的な出会い(過去生の記憶)や、仏像の魅力に開眼したり、続く20歳からの奈良大和路への一人旅、日本古代への探求が生まれて行くきっかけとなった、ターニングポイントの旅となりました。

そんな、モヤモヤした若い娘としての心情を抱えた中で不意に歩いた哲学の道で、あの有名な言葉に出会いました。

「人は人 吾はわれなり とにかくに われ行く道を われ行くなり」 西田幾太郎

高校時代で既に、自分の感性や思考回路が人と違うと気づく事が多く、世の中の、あるいは同じ世代の人々との価値観や見えている世界の違い、というものは十分に自覚していて・・それを自分の場合は学問や思想から、乗り越えて行こうと考えていた短大時代。それでも、アカデミズムの世界に進むことが叶わず、現実の壁に四方から囲まれているような苦しい時期。

自分に言い聞かせてはいたものの、人に・・それも(当時の私はどなたであるかも分からなかったけれど)偉い哲学者の先生の言葉として、刻まれた碑文と出会って、ありがたや、苦悶しながらの巡礼の先で神仏の姿を観照したかのように、感動と興奮でテンションが上がりました。それを見た母は、つくづく不思議な娘だなと思ったそうです。

その後・・本当に本当に、「われ行く道を われ行くなり」で、生きて来ました。

いつしか、他者からのリアクションが気にならないというよりも、気にしなくて良い現実の層の中で生きていて。いろいろ段階がありましたが、若い自分にとっては巨大な壁であったことが、いつしか壁は壁でなくなり、問題でさえなくなり。

人と違うように考えることは自分のむしろ財産であり、自分が決めた、自分で見つけた道を歩んでいられることは普通に呼吸をして生きていられるための不可欠な要素となり。その結果、人が得られるものを得られない要素があったとしても、そこには何の未練もない。から、人を羨むこともない。

これは私にとって空気のような要素だけれど、・・まだ、そこを突破できていない人々は多いのだろうな、と、サロンをして来て思います。考え方のコツをお話しし、結構一生懸命に説明をし続けるのですが(セッションで通っている方々など)、変容の良いところまで来たとしても、「自分」よりも「そこにあるもの」=世間の価値観 にヒュっと戻って行く方も多い。

人と違う、奇抜なことをしようという意味ではなくて。何を言われても、自分の魂が決めて来た道を行くのだ・・というところに、乗れない、乗り切れない人が非常に多い。そんな時、「私は私なりに、周りの人たちに少しでも光を配れたらと・・」というようなセリフもとてもよく聞きます。それはそうなのです。それはもちろんなのです。でもその先に、何かあったのでは?それを見つけかけて、掴もうとしていたところだったのでは? と、いつも思う。

けれど・・・時代はどうやら、変わり始めました。ワンネスとか、ホリスティックとか、全体へ、調和へ、という流れは必ずやって来ますが、そこに至るには、ある程度、個々のパーソナリティが目覚めなくてはならないのです。ある程度の質への高まり、魂つまり高次我に火が灯るからこその調和の時代へ、進んでいかないことであらう。。そうなると、日本人が苦手な「自分の頭でちゃんと考える」「それを行動に移す」という要素が、求められる時代であるとも、言えると思います。

日本は湿度が高くて、インド思想でいう「タマス」(怠性)のエネルギーが強いのだろうな。また、レムリア的グラマーが低い波動で作用してきた。

西田幾太郎は世界的にも引用されるような哲学の大家で、京都の琵琶湖疏水のほとりを散歩していたことから、当地が「哲学の道」と呼ばれています。

西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。

郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。

最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。

Wikipedia:   https://ja.wikipedia.org/wiki/西田幾多郎

『我々の人格が失われ行く過去をかき集めて現在の一点を突破するところに、

真の直観というものがあるのである』(「哲学の根本問題・形而上学序論」)

宗教的すぎて哲学ではない・・なんていう批判もあった西田哲学。けれど、個人的にはとても好きです– 『〜らしくない』

そういうタイプの学者の先生や、門外漢だったり、在野の人々が新しい目、斬新な意識で固まった世界に新たな風を吹き込んで、抵抗されながらもそのうちに、時代の潮流に押されて、いつしか本流に少なからぬ影響を与える、またはそれ自体が本流となっていく・・・というのは、珍しいことではないですよネ。

いつの世も、どの世界でも、新しいものは抵抗を受ける。けれど、封殺され得ない強い力を持っていれば、必ず流れは拡大して行く。そんなことの繰り返しが、人類をここまで持ち上げて来たのだろうな・・と、桜を見上げた散歩道、私も哲学を気取って歩いていた今日でした。それに、西田哲学の強いところは、ご本人が禅の実践者であった、つまり思考活動だけではなく、実践から導き出された言葉であり発想であったというところ。やはりどんな分野でも、それはとても大事なところです。

Love and Grace