「中途半端」が折り合い点。

昨日、マンスリーイニシエイション vol3「ラファエル&サンダルフォン」を無事に終えて。

程よいタイミングで「報告」記事をinfoに出す予定。その前に、自分自身のヴァージョンの記録をしておこうと思う。参加者の皆さんへのご報告の中で、いつも割と自分自身の体験を書いてしまうけど、匙加減は難しい。今回、自分の中でテンポよく今回の効果が実感できて、次の動きが始まったので早めに刻んでおこう。

前回は、前日夜と当日朝、2食抜いたプチ断食で臨むことになった「メタトロン」。

今回は、とても穏やかに前日、当日の準備段階も。ただ、「月セラフ」の「その周辺」記事を事前に書いていて、それに関係するのかなと思われる集合場の感情の波のようなものが押し寄せたのが、1日の朝。これは、セイクレッドレイキのワークで数十分でリリース。(抜群の効き目)

終了後のツイッターで呟いたように、終盤は妙に涙がこぼれて、けれど自分自身のことではなくて。これは、石ラボ前期の最終回と同じくで、セラフのソウル全体に対するシンパシーというか、地球で、この次元でヒトとして生きるなんて、ほんと大変だよね、という部分への共感と、同情というか。共振。

そしてとても中途半端に、今という時期を感じている自分自身を、5次元のワークの中でも実感し、客観視、でもその中途半端さであるからこその、人間界だよ・・という、やはり「石ラボ4」以来の、パーソナリティの言い分に、ソウルが折り合いをつけるような感覚、ちょっと切ないような胸の震えとともに、ワーク終了。

そんな中途半端な震えも含めて、何かスッキリと一山超えた感覚があり。ツイートしてみた・・・が、そう言えば、1時間くらいうまく作動せず、何度も試してようやく投稿出来たのだった。。(今水星も逆行しているそうだし。)

中途半端さ、でもそれが折り合い点。という、切ないような、黄昏のような、感覚ではありつつ、意識は安定して元気だし、目を見れば自分の調子が分かるけれど、ワーク後の漲った澄んだ感じがあったから、自分ではあまりその「切なさ」を気にせずに受け入れて過ごして。

一夜明けて・・今朝。切なさが増幅して、セラフっぽい悲壮感と謙虚さを通り越した自信の無さ、に変わっていたので、「ああ、これはグループワークで関係した皆さん、だけではなく更に広い範囲で、抱えている『セラフが人間界で生きることで味わい、積み重ねてきた気持ち』の集合場からの受信だな」と思って。

同時にやはりそれは私自身が若い頃にたびたび陥った穴だなと思い出していた。今では、それが「セラフの鋳型」によるものであること、それが家系的に受け継がれること、対処する光線やワーク、その「型」を持つ人や家系にどんな力がどのようにして抑圧をかけてくるか・・の、パターン、そしてその背後の歴史や神話レベルまで、知るに至っている。

若い頃は、ただ翻弄されるしか無かったのに。

そこに、しみじみしていた。

こっそりと予告。ラファエルの次は、ミカエルです。

理由などはまた、infoでの「報告」記事で!

Love and Grace

結果ではなくプロセス

結果ではなくプロセスが大事。・・最近いろいろな所でそのメッセージに出くわす。自分でも何か(ワークのレポートとか日記とか?)に書いた気もする・・「聖堂」でも同じような学びを感じていた気がするし(記憶が定かじゃないけれど)幾つかの本やウェブなどでも目にした。

極め付けが、少し前に読んでいた(この日記でも紹介した)A. ベイリー『新時代の弟子道』の中で。「弟子たちへの語りかけ」という副題がついているこの本、アリス本の中でも、一部の特定の「弟子たち」に対する、常に情報源となるジュワルカルからの「指導」=語りかけ、になっている。

前書きや、本文中「アリスベイリーによって削除」という部分があったり、ジュワルカルの言葉の中にも「(率先して学んでいるはずの)貴方がたのほうが、一般の生徒たちよりも仕事が出来ていない」ような苦言が登場していて、アリスさんも、ジュワルカル始め、指導にあたる存在がたも、常に苦労されていたのだろうな・・・と、沁みるように共感する。(笑)

「一般の生徒たちよりも・・・」の部分は、私はよく自分でそんな気分になることがある。そして「一般の生徒たち」よりも難題の中に投じられているのだから仕方ないじゃないですかあ、先生・・という気分になって、その後、「でもそれを(無意識だけど)選んでいる、好きでやっているんだから仕方ないな」と落ち着く。ヒーラー人生はずっとそんなことの繰り返しだ。つまり、「結果ではなくプロセス」をよくよく理解していないと、浮かばれないような気分になってしまうので、肝に銘じる必要がある。

一般の世の中、男性的な社会は結果重視で、特に数字がものを言う。けれどスピリチュアルな世界ではそうではない。究極的に考えれば、今日、いまこの瞬間、どのような心や意識で存在しているか・・・のほうがずっと重要で、色々なことが起こる中を、切り抜けながら、いかに良い状態を保持できるか、成長振りが試されることの積み重ねが、ひとつの「人生」として存在している。

あなた方が人類への奉仕に専心することで自分自身と私(ジュワルカル)を忘れるようになったとき、私はあなた方に満足するであろう。(p194-7)

なかなか、その境地に達することは難しい。

けれども、そこに向かって行かなくてはいけないとも、思う。

その人の過去、時折見られる傷やほころびについても。「赦し」という言葉で解決させるよりも、私は「プロセスから学んだ」「その学びが今の自分を作っている」という感覚のほうがお勧め出来る。赦し、愛、というと美しいけれど、螺旋で常に回りつつも上に上昇している(進化している)プロセスの中に私たちは在るということが、忘れられそうだと感じる。そしてどこか「赦し」は痛々しい。

螺旋を上昇して成長することで、ようやく、過去の傷やほころびにも意味があったと思えるから、自然な許しや愛が湧いてくるのではないかと思う。

それに、「プロセスを重視する」という心の中はすでに世界への(真の)愛が一杯に溢れている。今この瞬間の自分の感情、思考、行動、に責任を持つという精神こそが、力であり、創造なのだと思う。

Love and Grace

Amari

参考文献:「新時代の弟子道 1」A.ベイリー(AABライブラリー)

6次元の教え

何日か前、朝起きた瞬間に別次元の学びを受け取っていた余韻・・・時々あるのだけど、その内容を自分が頭の中で確認している、という状態。

で、いつもそういう時は、内容を自分も理解出来ている。けれど「ああ、きっとこのまま三次元に意識がスライドすると忘れる・・」と感じて、枕元などにノートが置いてある時はすぐにメモする。同じように思いつつもこの日、鳴り響いているスマホをとりあえず止めることを優先。そして部屋の空間に立つ自分を認識した瞬間に、ああ・・・フェイドアウトしていく先刻までの記憶、感覚。

慌ててノートとペンとともに座ったものの、もう意識が三次元に切り替わってしまった。

きっと、自動書記で執筆したりしていると、こういった内容も自然と解凍されて出てくるものだけど(ガイアナなど読んでいると今だに「へえ〜そうなのか」と「勉強になる」ことが多い・笑)とりあえず遠ざかって行ってしまった。

前回の「白い聖堂15」で、脳の周辺に光のウェブを被せてもらっているような体感とヴィジョンがあったけれど、その施術に関係する「教え」であったと感じた。現実創造に関することで、以前から言っている「7次元的創造」のことなのだろうと。5次元的現実創造は比較的簡単で、ヒーリングと関わりが深い。癒しや解放が起きて「その部分」(自由に創造できない、つまり「ダメ」の刻印のある部分)の情報が消えていくと、感情や思考や意識がポジティブになっていく。

体の中にある封印やライトボディの(主に1〜3までの層の)ブロック要素とつながる情報(カルマ・家系などから受け取っている束縛の情報)から自由になっていくので、現実も明るい建設的なものになっていく。これは比較的簡単に、人々に訪れる変化で、ヒーリングを受けたりレイキを地道に続けていると、多くの人が実感されることと思う。人として生きやすくなる、という変化。

それとはまた違う階層での7次元的創造。見えたヴィジョンや起きた瞬間に思考していた言葉は思い浮かぶけれど、三次元の自分の頭では理解出来ない。けれどもまあ、潜在意識やシステムにはしっかり入ったのだろうから、心配はなかろう、と思っていると、その日たまたま立ち寄った書店でバシっと目があった一冊の新刊。普通、新刊書コーナーはあまり見ないで、奥のほうへ・・人文系の研究書のほうへ直行してしまうのだけど、昨日書いたnoteの記事のような事情で、何となく足を止めた。聞き覚えのある著者の一冊が目に留まって。

紹介欄を見てみると、既に自分が2冊持っている量子物理学博士(海外)の新著だった。それが高次からのサイン、ヒントのように感じて、7次元創造についての6次元からの教えは、やはり量子物理学的な書籍ならば何らかの理解が得られるのかも、と思って更に安心した。まずは買ったはいいけれどパラパラしか見ていない、2冊を読んでみよう。

全くの素人で癒しの世界を知ったばかりの私が初めて受けたセッション(2005年)の、ワーカーさんに、不思議なご縁で再び繋がって、2度目、8年振りのセッションを受けた時・・もう10年くらい前になるか・・

「ここまでやっていれば、何でも出来そうだよ」と言って頂いた。

その時、体に触れながら、フィジカルおよびライトボディのエネルギーを見てもらっている時で、システムが「ここまで出来ていれば」というニュアンスに受け取った。

恐らくあれは、5次元的創造のことだったんだろうなと思う。

6次元の教えは諸刃の剣で、5次元の(内界、ハイラーキーのような)人々が取り扱うもののようにも思う。3次元で生きるヒトである私たちが7次元創造を起こせる訳ではなく、5次元の自分自身(ハイヤーセルフ、ハイヤーシステム)と共同作業の結果、果たせるものなのだろうと感じる。アリス・ベイリーに言う「第三イニシエーション」とも関係していそうだ。つまり人類愛と、地球プロジェクト(神智学でいう「計画」)の一員という意識が土台として不可欠なのだろう、と。

Love and Grace

方舟航海もあと二年。

今日は何気なく「乙女座」の話をしていたら、そう言えば昨日23日からは乙女座の時節なのか・・

私は月星座が乙女座で。そして乙女座には「研究・勉強好きな修道女」のイメージがある。男性であっても、分野が違っても・・たとえば「探求熱心な僧侶」でもいいと思う。つまり純粋性と、探究心、そして奉仕が一緒になっているイメージ。月の星座は過去生だとも言うけれど、確かにとてもそんな気はする。

ずっと以前、ネット上で知り合った占星術系の方が、「女性の場合は月との関係、陰のエネルギーの作用から、他者から見ると月の星座の印象で見られるのではないか」という仮説を聞いた・・そしてこれもきっとそうだ、と思っている。周囲の人、身内も含めて、少し距離のある「他者」から受ける印象は月の星座的な評価で、自分の自己イメージとのギャップがあるよう。

他者から見える、というだけでなく、やっぱり自分の中でも太陽、月、に限らず。さまざまな要素があると思う。それをいかに情報を収集しながら、統合していくか。今は特にそれが重要な時だと感じる。アルガンザのグループでは、アリス・ベイリー著書が伝える2025年、第四光線の顕現・・に、注目し、「時代の変わり目」という意味で意識を置いている。

けれども、私の感覚では、新しい時代=よりスピリチュアルが高まる ものだとずっと思って来たものの、なにかこう、まったりとした怠惰な空気感で、今まで立てることができていた知性のアンテナも、立てにくくなっているような空気感を感じる。街を覆うエネルギー、集合意識に漂う雰囲気も。

それで、今朝は一般の人々が、地球の変化や気候変動などにどれほど危機感や意識を向けているのか、を、人に聞いていたりした。私の周囲、日々顔を合わせる人々はもちろん一般の人々ではあるけれど、スピか、半スピ・・少なくとも私の話を聞き慣れていて普通に聞いてくれる人々だから。

それと、どうも気になっているのが、目が「どよん」とか「とろん」としている人が多い。今は夏の暑さもあるけど、それだけでではなく。ここ数年レベルで。

・・と、「第四光線」のイメージがどうもまだうまく掴めないので、改めて調べてみた。色は黄色だそうだ。なるほど。世界がなんとなく黄色に包まれている感じはしている。

そして日本は国単位の「パーソナリティ光線」が、第四光線・・なのかな? なるほど。日本は黄色だ、確かに。

テーマは、調和、統合・・・ けれども、その為に厳しめの修行や浄化が起きるというのを踏まえると、これまでのスピリチュアルな「常識」もちょっと脇において、感じて考えていかねばと今更に思う。

う〜ん。改めて調べた結果、やっぱりよく分からなくなってしまった。今漂っている雰囲気も含めて。

でも思うのは、自分自身は2018年になぜか「コロナ」的なテーマを超えていて、10年来風邪も引いていなかったのに、呼吸器系にこじらせる風邪を一年のうち3回も引いて長引き(その後、2019年以後は普段の自分通りまったく風邪も引いていない)、2019~2021年も「試練の時」というという感じだったけど、2022年から着々と、「なにか」から抜けつつある。石井ゆかりさんの本から「方舟の七年」の話を前に書いたけれど、


2018年5月から始まったというそのサイクル、(もしU字型の変容期をイメージするならば)真ん中の谷間を抜けるのは2022年の春、というイメージ。私自身の体感としては、確かにそこで「白い聖堂」が始まり、前半期(2018年明け早々からの混乱期)に比べれば、その頃(2022年春)に現象化していた問題たちは解決していって、確かに次の時代に向けてというテーマが自分の中に今は自然にある。

光線の到来、顕現といってもそれに対する反応は恐らくかなり個人差がある。社会全体などはきっと、顕現すると言われている25年以後、具体的な影響を受けていくのだろうけれども、私のような仕事をしていると恐らく「その後」の時代感覚のようなものが今、(変容期を経て)自分の中で動き出しているように感じる。統合、調和がやはり目下のテーマだ。

「黄色」という色で表現されたりイメージされてきた、(戦隊モノの黄色担当も・笑)「欲」「自我(エゴ」「怠惰」など、人類をダメにしてきたネガティブなほうの要素を、人類が克服していく時代、と、捉えたらいいのかな。ということは、黄色の良いイメージは、ポジティブさ、陽気さ、目標意識、という感じ。

もっと言えば、人類のエゴセルフそのものが、欲や利己を乗り越えていかなくてはいけない時代。そのテストがうまくいかなかったら、人類は滅びる。滅ぼされる、くらいの時代がこれから来るのだろう。「第四光線の顕現」はつまり、シャンバラからのテストだ。甘やかせるために光線を提供するわけではもちろんなく。

(2024年現在また少し違った見解ですが、折々で改めて書いていきます)

神智学の、「地球全体の歴史を見る、感じる」視点は、やはり必要だ。その層で考えていないと、人間とはなぜ存在するか、人の歴史や社会とはなにか、その中で「今」の位置付けなどは、到底、想像ができないだろう。その視点で物事を日常的に考えている、各分野のアカデミズムの先生方、などの考えや著作に触れているから、「こんな呑気な感じでいいの?」と、感じてしまう。(←けれどいつの世も多分、一般社会とはそんな風なのだろうとも思う。だから、突然「その時」が来てしまう。本当は全然、突然なんかではない。)それが(上に書いた)今朝の会話にも通じる。

とにかくは、発信しつづけることだ。そして、一緒に発信してくれる仲間たちを、作っていくこと。

Love and Grace

ロスト・エモーション

 

縄文土器と縄文の森

リドリー・スコット(監督)の名前につられるように、映画『ロストエモーション』を見た。核戦争で地球が壊滅状態になったあとの、生存者たちによるハイテク管理社会。遺伝子操作で感情を持たない新たな人類が生きていて、感情を「発症」すると病気として治療を受けるという。重症になれば隔離されて安楽死、という何とも悲しい設定。

リドリー・スコット監督は、以前日本の大林宣彦監督もそうであったように、監督その人の雰囲気や人柄が好きでファンになり、作品も見るというシリーズで。今回は制作総指揮で、プロデューサーになるのかな。監督は別の監督で、原作も手掛けているよう。独特の演出は未来のハイテク管理社会の機械的な雰囲気を出しているのだろうけど、青白く、影の多い暗い映像、静かすぎる、そしてどこか切なすぎる空気感に負けて、長時間見られず。

数回に分けてようやく見終えたところ。こういう見ていて切な苦しい映画はきっと、最後まで見ると救われるのかなという予感もしていた通り、まずまず爽やか。でもやっぱり切ない終盤。

日頃、神智学やヨーガ思想から、「感情を収めて」と繰り返し言っているので、常々、心配していることでもある。誤解されがちな事なので。

けれど結論として、この映画の予告編の「ユートピア?それともディストピア?」という問いかけは、当然、ディストピアでしょうと言いたい。もちろん・・

ヨーガの実践者、先生方なども、アリス・ベイリーの代弁者の方々もそうだろうと思う。感情を超えていくプロセスこそが、人間の成長、人類や社会の進化と平和に向かっていくために大事なことなので。感情をバッサリと切り落としたら、ヒトの中の本能のような部分が、支障を来たすに違いない。遺伝子操作、人間を作った「神々」がこれをいつか行ったとしても、人間それ自体が行うこと、引いてはそのようなテクノロジーの使い方をしてしまう事自体、きっと道を外れてしまうのだろうと・・個人的には思ふ。

若いころ、自分の中の苦しみや、収集のつかない部分の要因を探っていった結果として、「感情を超越できるなら生きているうちにそうなりたい」と呟いた私に、友人がやや怒りまじりに反論して来た。「感情が無かったら人間じゃないでしょう」と。

更には、同僚の女子たちとの恋愛観トークで「人間として、ではなく魂として自分を必要とする人」と答えると「人間としてではなくって何よ」と一人が怒りだした(笑)。

また、フランス人的な冷静な客観的語りで相手が傷つかないよう別れ話などしていると相手は「血は流れているのか、植物人間じゃないの?」みたいなことを言って来たっけ(笑)。

それらの全てが「誤解」なんだけど、伝わらないからいつも諦めてしまう。人間性として人以上に人情的だったりするところ、だからこその「感情を超えたい」という発言も、相手を極力傷つけないための客観的な態度も、それぞれ聞く人々のエゴセルフのフィルターを介すと、その人の思い通りにならなければ『冷たい人』になってしまう。

詳しくは、先日紹介したエイミー・アダムス関連の映画のメインブログの記事(「アライバル」で大泣きした、という部分)と繋げて読んでいただくと、ご理解いただけるかも?

そう、それから、スクールをやっていた時にも生徒さんたちの反応も時折、怒りのようなものが垣間見えるのが、やはり神智学の感情についての部分、それから闇、ダークサイドの話。なぜか怒りを感じて反発したくなる様子を何度か見かけた。人間って、というよりエゴセルフって、そういう風に出来ている。進化と逆行するエネルギー、プログラムが、仕掛けられているからだ。。

それを全て味わい尽くして、時に許して、解き放って、その仕組みに人生をコントロールされないように、カルマ(常に感情が関係)を乗り越えていく。感情についても、その他、エゴセルフの「魂の内部に統合されたりしたくない」という声についても同じ。

感情の揺らぎや反応は、そこ、その部分にこそ、自分のカルマや問題点の根っこがあるよと教えるサインでもある。だから急にブツっと消されたら、それこそ神智学的な神なる世界(人類の親)の進化プログラムは元もこもなくなってしまう。可愛い子には旅をさせよ、と、自由意志を許して見守っている視点、ガイアという魂たちの成長プロジェクトの計画が、為されなくなる。

この映画については、原作者でもある監督は、無神論者であるのかな? 人間の背後や周辺には、人間しか居ない、という思想でないと、こういうストーリーは生まれないかも。。

ネイティブアメリカン、ケルト、縄文・・つまり世界中の石器時代までの人々は、循環する生命の仕組みとその背後の力を知っていたし、そこと自分たちとの間にはしっかりと一体感があった。やはりその感覚を思い出していく他、ないのではないかと思う。「仏教では」「インド思想では」「神智学では」と切り出すと、宗教だと言われて(また誤解されて)しまいそうだから・・。

アニミズム(自然崇拝)と、仏教(インド思想・輪廻転生する宇宙観=これはきっと正しい)的感性を、ナチュラルに合わせ持っている日本人はやはり重要な立場にある。

今日もまたひとつ、あるいはそれ以上、地球の未来のためになることをしよう。毎日必ず、そのことを考えよう。そして何か行動しよう。小さなことでも。

Love and Grace

Amari

純粋な青と黄色の世界 –マティス、天空文明 —

先日、Instagram に書いた上野行きの日、私が「かはく」に行っている間、連れ合いは東京都美術館の「マティス展」へ。かなり行きたかったらしく、そして日本人はマティス好きそうと思っていたけど、やはり人気のよう。けっこう混雑していたし、もうすぐ終わりということで尚更混み合っている様子。
翌日また何気なく開いたNHKオンデで、サムネイルで特集を発見。NHKさんでも特番を放送していたから、尚更に混み合っていたのかな。
アンリ・マティスの晩年の最後の作品、南仏ヴァンセの「ロザリオ礼拝堂」の設計から壁画や備品すべての制作&プロデュース。(興味ある方はぜひNHK等でご覧ください)なぜかこれになった、と言ってお土産をもらったグッズ二つがその礼拝堂のモチーフだった。右の丸いマグネットは「聖母子」だそうで・・独特な表現だけど、番組を見たりすると、マティスの人生の流れや人柄も分かり、芸術表現の変遷からしてもなるほど、と思える。

私は美術館もよく行くけれどなぜ、今回はマティスを見なかったかというと、以前秘書を務めていた医学博士の先生が、若い頃に「画家になるか医者あるいは医学の研究者になるか」と迷ったくらいだったという方で、結果、医学の研究者になられたけれど当時もずっと絵を趣味とされていて、会を主催したりもしていて。マティスがお好きだった、確かに絵のタッチがよく似ている・・と過去にインプットしていて。
自分の人生がすっかり、スピリチュアルになってしまって以来、お便りを頂いてもお返し出来ずに日々が過ぎるまま他界されたことに、申し訳なさをまだ感じているのか、今回マティスの絵に囲まれることに少し躊躇った。そう、それだけではなく。そのボスの絵の関係で拾われて?来て私の仕事を手伝っていた、絵描きの女の子(私よりひとつ年下)が、当時24歳で亡くなったという悲しい記憶もあり。彼女の絵はマティスというよりゴッホのようなタッチだったけど。
もう、だいぶ前に癒せたはずの悲しみや申し訳無さも、まだこうして行動に影響することがあるのだな・・ と実感しながら、自分は家族連れのごった返す「かはく」へ足を向けたのだ。マティスに行ったほうが良かったかな。。と、翌日 NHKを見ながら思っていた。笑

(興味ある方は「ロザリオ礼拝堂」で検索してぜひ写真をご覧ください)
私はNHKの番組でその映像を見て、ステンドグラスに差す光に癒されながら、鮮やかな青とレモンイエローは(ジェネシスの)「天空文明だな」と思って。また、色々な絵でよく使われている独特の憂いのある水色は、ヒーリング中に時折見かける光で、ブルーレースアゲートのような色。いつだったか調べて敢えていうなら「スプリングブルー」だなと。
人が何となく、あるいは自分なりに研究分析して、好む色、好んで選ぶ、あるいは好んで表現に使用する色などは、魂の原郷の記憶、源の記憶、から来るのではないかなと改めて思う。

shop やtwitter でおしらせを出したように noteにもダイヤリーを書く場所を作りました。
https://note.com/office_arganza/

また覗いて下さい。
ではでは。今日はこのくらいで。
Love and Grace

融合の哲学 — M.ガブリエル・フェミニズム・神智学 —

相変わらず休「韓」期が続いているので、NHKオンデを開くと、放送されたばかりの『マルクス・ガブリエル日本を語る2023V』があり、早速視聴。このシリーズ、「欲望の時代の哲学」や「欲望の資本主義」は好きで全部見て来ている。

哲学者である氏の話は抽象的で捉え難いけれど、そのままフワっと受け止めるようにしていて、そのフワッとの中には自分なりにエッセンスとして理解できている感覚がある。「世界は存在しない」のフレーズで一躍、知られるようになったガブリエル氏だけど、そういえば、「一元的な世界は存在しない、それは分かるとして、その先どうしろという哲学理論なんだろう?」と、本を数冊買い集めているのによく分かっていない(丁寧に読了には至っていないゆえ)事ににふと気づいていて。

今さらだけど、人道、倫理、ヒューマニズム(人間愛)を、呼び戻そうということか・・と、今回の新しい番組を見ながらおさらいしていた。一見(特に自分にとってはずっとそういうものだと思って来たし発信してきたので)ごく普通、当然と感じるようなことだから、フワっとしている、という体感だったのかもしれない。識者の方々はどう評するのかなと検索をしてみると、こちらの記事が参考になった。

(集英社新書プラスHP 『新しい哲学の教科書』著者・岩内章太郎氏インタビュー)

あらゆる既存の概念を一度否定してみる「ニヒリズム」=ポストモダン主義哲学(少し前の時代の主流哲学)から、もう一度、人間をめぐる「実存」について考えてみようというのが新実存主義、ガブリエル氏の新実在論では、ヒューマニズムや倫理をその「実在」に据えている。世界という決まった枠組みが実在する訳ではない・・という感じかな。

そのせいか、どうも最初にこの方をNHKで見た時に、(ゲリーボーネルさんが言っていた、現代に再来しているという)キリストの生まれ変わりではないかという気がしてならなかった・・のは、はっきりと口にはしないものの、仰りたいことは実際に「愛」だと感じたからかもしれない。今はまた別の候補(キリストの・笑)が私の中でいらっしゃって・・ まあとにかく、人類の現状をどうにかしようと考え、あの手この手で奮闘している人たちは沢山いるものだと、この10年くらいは感じたり、そんな人々を発見したりしている。

上でリンクしたインタビュー記事で岩内先生は、「哲学とは困っている人のためにある」と考えるが、ガブリエル氏の哲学はあまりに「普通の人々が感じている普通の『大切なこと』を取り戻そう」という話で、本当に困っている人には役立たないかもしれない、と仰っている。

確かに・・ だから、ニヒリズムに染まって道が塞がっていたような哲学界にとっては、新風で、「天才だ!」という事になったのかもしれない。普通の人々は普通に生きる中で人間性の重要性を知っているところがある。特に女性は・・男性社会の、キリスト教的風潮をベースにした、かつ知の最先端をゆく哲学者の世界には、方向展開のために必要な風、新実在論、だったのだろう。

・・で、番組を見ていても、本を読んでも、そのそも西洋哲学それ自体が、女性性的なハートの感覚でいえば、「単純な話をあえて難しくして順番にひとつひとつ手順を踏まないといけない遠い道のり」という感じがしている。そうかと言ってここで道を分つのではなく、女性性的な感覚もまた(日本の一般人の集合意識は男性も含めこの感じなのかも。ハート的な直感や空気)怠惰や甘えを生んでしまうので、両者を統合していくしか無いと、やっぱり10年前くらいから考えている・・&私なりに少しずつその努力を、色々な意味で続けている。

もちろん単に哲学界の中だけでなく一般社会の気風や時代の世相、雰囲気というものとも確かに連動していることは間違いなく、ただそれが一般の人々には余り自覚化されない、というか、興味を持たれない。90年代以後の哲学的視点でいう特徴は「メランコリー世代」とも言えるそうで、その前のニヒリズム世代では「なにもしたくない。どうせ全て無駄」(おそらく私の世代や、付き合いの多い周囲の人々はここに当たる)という風潮だったものが、90年代以後の空気を感じて育っている人々は、恐らく社会が問題を抱えた側面を多く見聞きして育っているせいか、

「なにをしていいか分からない。でも、なにかしなくちゃいけないのでは?」と。それが最近の若い世代になると更に、「自分に何が出来るか」と悩み始めるくらいに、変遷して来ているという。その話も納得だ。けれど、国や集団によって、差はあると思う。我が子を通じて色々な土地の、普通の学校、オルタナティブ(シュタイナー)教育、新潟、奈良、横浜、東京・・と、子育てしながら経験して来て、それぞれの集団の感覚、空気というのはまた違っている。

「哲学というのは困った人のために」というお話も確かに分かる。けれども、一人ですべてのことに責任を持つのも不可能で、ガブリエル氏はまずは「哲学界」に新たな風を入れることを自身のテーマにしているのかも。知識人層から、実際に思考の波が降りていって、それを指標に経済や政治が変わっていき、一般の人々の暮らしに影響していくと思うし。

私が14歳で「地球の役に立てねば」と決意し、16歳で「日本を出て歴史(世界史)の専門家として世界を旅しながら、次の時代に向けての指標を残さねば」と何故か思い立ち、けれど全く現実は追いつかずに(そして恐らく持って生まれた学才の様なものも足りずに)そのうちに日本の神秘に20歳で目覚めて、ひとまず日本に居るか、という流れに(笑)。そして早々に?(思い立って10年後には)アカデミズムで生きる夢をあっさりと諦めたのは、また別の可能性、必要性のようなものを感じ始めたからだと、今では思う。

もう忘れてしまいそうなくらい、遠い過去の思考だけど、たどって考えていくと、結局は「フェミニズム」に行きつき、男社会の男性原理の男性的なアカデミズムの中では、16歳で思い立ったような成果は残せないと感じた。当時はそんな言語化は出来なかったけど、今の言葉で表現すると。19歳でオノヨーコさん、21歳で白洲正子さんというカッコいい女性たちを知り、私のベクトルはアカデミズムよりも、お二人のような「表現活動」に傾いたのだ。それでこそ、女性意識、女性原理で発する、次世代へのメッセージになろう、と。

その後、滅多に尊敬する人を持たない私にとっての希少なこのお二人の女性が「旧華族」出身であると知って、「そうだよなあ。この世代で自由に表現されている立場だし」と、肩を落とした辺りから個人的ニヒリズムの世界へ(笑)。暗闇への自主的な落下によって、冥界下りのような時期を経て、スピリチュアルに出会う。そうでなければ、出会う事も無かっただろうし、出会い方が違っていただろう。多くの人々がそうであるように片手間に、スピに興味を持ってちょっとかじって、様子を見る、ような付き合い方だったかもしれない。

困っている全ての人に有効なものを、すべて自分の関係の中で生み出せる、生み出したいとは思っていない。自分なりのターゲットや目標を定めることは大事だ。続きは次世代がやってくれるだろう、というような算段も、もう年齢的に計画の中に入れていかねばと思っている。

この「スピ」という分野で発信している限り、マルクスさんのように「天才」とか「ロックスター」とか渾名されることなど無いだろうけれど、私たちがしていることは、表でずっと日が当たっていた男性的な輝かしい分野ではなく、歴史の中で疎まれて虐げられながら細々と各国、各文化圏で続けられてきたメタフィジカルな癒しと知恵の分野なのだ。主に女性たちが担って来た。だからこそ、女性性が虐げられるのと一緒に、その分野も封殺されて来た。

男性・女性の問題ではなく、男性たちの、男性社会の中の女性性も封印され、愛や感性を否定された文明が特にこの数百年、加速して来た。だからこその、ここで改めての倫理や人道の見直しなのであり、それは男性的感性からの歩み寄りだと言える。

逆に、スピリチュアルのような女性的な立場からも、歩み寄り、説明や表現を続けなくてはいけないと思う。そう、そんなこともだいたい10年前には考え始めていた。それはヒーラーとして。けれど更に遡ると、『ハピの巫女姫』を書いた2002~2003年頃に、自分なりにはそれを感じて「立ち上がった」、それが執筆への原動力となっていた。けれどあの頃は無職で、離婚したばかりの子育てがこれから始まるという段階。作品を書いたはいいけれど、どうやって生きていく?が、先行していた。実際に、そこに奔走する20年が始まった。

20年を経て、状況はそんなに変わらない。相変わらず大した土台も影響力もない。でも、少なくともスピリチュアル、ヒーリングの分野を通して、人間の見えない領域の仕組みや法則はだいぶ学んだし、それに基づいて人や社会や世の中も見ている。「世界は存在しない」も直感的には理解出来る。けれど私はやはり東洋思想の下に生まれることを魂が選んでの日本人である気がしている。

日本は、中国的な二元性、善悪、白黒の理念や、変化や発展や強化も入っていて、その気になれば発揮できる土壌でもありつつ、

やはり中国思想だけではない要素、理論を抜け出してハートでキャッチするようなアニミズムと、三元論というか、インド的な宇宙観が仏教を通じて染み付いている。現代の日本人自身が考えている以上に、仏教、つまりインド哲学、宇宙論の影響は日本人の中に世代を重ねて浸透している。

この、何とも言えないフュージョン感を持つ日本人という存在が、今掛かっている病理から解放されれば、世界はまだ救いがあるのかもしれない。というくらいに、同番組を見ながら感じた。日本人にインド(仏教的宇宙観)や中国(儒教=武士道)の影響が根深いのと同じように、西洋の人々の二元の縛りはとても強い。その手に委ねていると(政治的にはアメリカの傘下に日本は存在している)最近多いディストピア近未来映画のようになるのが自然の流れのようにさえ感じる。

ただ、本当にありがたく素晴らしいと思うのは、19世紀末には神智学という試みで、既にその「東と西」の融合のプロジェクトは始まっている。今、脅威と言われている政治的な立場が中国とインドであるという点も本当に意味深い。ガブリエル氏も今回の番組で語っていた。中国とインドの世界史上の存在感の凄さについて。歴史が好きな人ならこれは本当に間違い無いと感じるし、ましてそこにイスラム世界が加われば、尚更である。

女性性とともに虐げられて来たもの=見えない世界の探求 を、既に西洋人、それも知識人層に向けて、東洋の古代からの叡智を通して語り、分散した世界の思想を統一できるのでは?という志を持って活動したのが神智学だ。けれど「神智学」と呼ばれるものが完成されると、今度はそれを維持し伝えるという使命を帯びる人々が必要になる。

一方で、その恩恵を学びの糧としながら、次なる時代の知恵を展開していく試みも必要で。小さくても、目立たなくてもいい。ソウルが何を目的に生まれて来たか・・ 「メランコリー世代」に、考え感じてもらうキッカケにでもなれれば、良いのかもしれない。

Love and Grace

Amari

想い出は魔法

ディズニー映画の中でもかなり好きな『魔法にかけられて』の続編の、ネット配信(劇場公開はしないよう?)の報せをツイッター等で見かけてから、半年以上。ようやく見ることが出来た。

主演のエイミー・アダムスについては、以前もブログで「魔法に〜」含めて三作品について語った記事あり。

それで、いつものようにネタバレ失礼しながら、メタフィジ目線で感想を。昨年11月の時点で予告編を見て、検索して口コミもザザっと見ていて、1が好きだからという以上に、2を見るのが楽しみになっていた。

初作の原題は Enchantedで、そのまま邦題は訳されている→「魔法にかけられて」(enchant 「呪文を掛ける」「魅了する」など)

で、今回の続編は日本では「魔法にかけられて-2」ということになっているけど、原題がまた面白くて『Disenchanted』。魔法に掛ける「enchant」の受身形だった前作に対して、それが外れた「dis-enchant-ed」で、普段この単語は日本語では「幻滅する」などの意味に訳される。

語源的には dis= 外れる、で、「呪いが解ける」という感じか。

初作ではまだ若いプリンセスであった主人公「ジゼル」が、二次元の世界から魔女に魔法を掛けられて三次元のマンハッタンに次元移動・・ニューヨークの弁護士という現実世界のエリート、それもシングルファザーの男性と恋に落ちる。そこに、ジゼルの婚約者である二次元世界(アニメ)のプリンス・エドワードが「助けに」やってきて、更にはその継母である邪悪な女王(笑)も追いかけて来て。

ある意味、ニューヨーク舞台のラブコメの形をとった、ディズニープリンセスの新たな境地で、セントラルパークや摩天楼など、ニューヨークの風景とともに進んでいく、けれどそのストーリー展開はとてもディズニーで、悪者を倒して(王子ではなくジゼルが倒す。。)、恋も成就。婚約者のプリンスではなく、弁護士のロバートと。

ロバートの恋人であるナンシーは、NYのキャリアウーマンという設定だけど実は乙女チック、ロマンチックな恋を求める女性で、登場するたびに笑えるほど「ディズニーの王子」を大げさにコメディタッチに表現しているエドワードに、意外にもときめく(笑)。そして二次元の花嫁になるという(!)。

このナンシー役が、歌うシーンすら無いのになんと、アナ雪で世界的に名が知られることになったイディナ・メンゼルが演じていて、当時は私も気づかなかったけど、後でブロードウェイの有名な女優さんだと知って、歌えば良かったのに〜勿体ない!と思っていたっけ。今回続編ではさすがに、たっぷりとイディナが歌うシーンがあって何より。満足。

(ちなみにアナ雪はご縁が無いのか、ビビっと来る事もこれまで無く、まだ見たことがない。笑)

メタフィジ視点で印象的だった箇所を幾つか。

まず、ディズニープリンセスの「型」をそのまま、アニメの二次元から、現実世界のニューヨークに移動させた、という点でまさにコメディ要素もある「ラブコメ」でもあり、プリンセスの様々な「型」をあちこちの場面やエピソードに散りばめた点が前作の魅力であり、多くの人に愛され支持された。

しかし乍ら・・私は「さすがディズニー、さすがアメリカ」と唸ったんだけど、恐らく続編にがっかり(disenchanted)された人々は、その「型」を崩されたことに「ルール違反!」のような気持ちになってしまったのかも。期待が大きい分だけ、そうなるのかも。

制作のブランクは15年だけど、設定は10年後らしく、当時7~8歳だった可愛いモーガン(ロバートの娘)は高校生のお姉さんに。思春期真っ最中らしく、おとぎの国?出身のジゼルにはそれが理解出来ない。何がいけないのかしら、今までは完璧だったのに。。と。加えて、ロバートとの実子の新たなベイビー(ソフィア)が生まれて、夫婦共働きのニューヨーカーとしての育児生活に疲れ果てたという事情もあったよう。。

そこに、「まさに現代のおとぎの国!」みたいな看板を見かけてその郊外の街へと引っ越すことに。続編はそんな風に始まる。

(詳細は、ぜひ、予告編を覗いて下さい。)

で、ヒーラーおよびジェネシス視点で深読み混じりに分析するに、

ジゼルがモーガンの思春期を理解できずに悩み始めた、という時点で、現実の周波数が下がる。そこに、見知らぬ街に引っ越し、家の修復が大変だったり、町内づきあいに戸惑ったり(強烈なおばさまがヌシとして君臨している・笑)そこで更にジゼルは悩む。

天真爛漫で、魔法の国出身なので、ある意味天性の魔法使い。ジゼルが歌うと動物が集まってくる、勝手に家が掃除される、みたいな。・・ところが、そんな彼女が更に悩み始める。こういう波動の高い人が悩みを抱えると、普通の人以上に、天性のマジカルな才能が、それなりの現実創造をし始める。(だからヒーラーさんはなおさら、日々の自分の心や意識に注意が必要なのダ)

「魔法の杖」を引っ越し祝いに故郷から貰ったジゼル、その杖で現実世界に「魔法の国になりますように」と願いごとをしてしまって・・続編の醍醐味はここで。三次元の「郊外の街」が、ディズニーで普段描かれる「魔法の存在する世界」にシフト。光と闇とがドタバタと・・そして魔法が自分に跳ね返った形で、ジゼルが何と(実際にモーガンの継母なので)「いじわるな継母」へと変容し始める。

気づいてもその変化を止められず、葛藤して分裂症のような状態になった彼女を、周囲の人々が助ける。特に決め手はモーガンとの10年間の愛の軌跡、絆という「想い出マジック」。

ジゼルの出身地(二次元)アンダレーシアでは、「想い出は最高の魔法」と言われているそうだ。

今回、配偶者との「真実の愛〜♪」ではなく、思春期を迎えて距離が開いたことに胸を痛めていた義理娘の、母への愛が、ジゼルと二つの世界(三次元も二次元も)を救ったという形に。

その時、すっかり良いナイスミドルというか、ちょっとまるで最近のハリソン・フォードを思い出させるような活躍を見せるロバート、新たなモーガンのボーイフレンド候補の少年、も、それを手伝っている所も良い感じ。

幻滅した、というタイトルは、ジゼルがこちらの世界の「そう甘くはない」現実に、10年過ぎてから体験した気持ちなのかな?と思いつつも、

「呪いが解けた」という意味での Disenchanted であるならば、ダークな継母に完全にシフトしてしまう直前になんとか、皆の助けでジゼルも世界も魔法から逃れたという部分もあるし、両方、掛けつつ、前作のタイトルを踏んだ絶妙なネーミングなのかもしれない。

そしてひとつ気づいたこと。「想い出は最高の魔法」

つまり、魂が呪われてしまった時。その人自身の愛や尊厳を思い出させることが大事であるという意味で、ヒーリング視点でも理にかなっている。ジェネシスヒーリング、レムリアントランスミッションほか、アルガンザワークもまさに魂レベルでそこ、その人の魂の本源を思い出してもらうような体験、光線、施術であると。

本日「ノストラム」の遠隔グループセッションを終えたところ。この映画を一昨日に見たのもまさに、天使の采配。

Love and Grace

Amari

始まりの奈良。

昨日の帰路の電車で、継体天皇についての書籍を読んでいて・・帰宅後、 前日まで見ていた韓国ドラマが終わってちょうど途切れ目だったので、そんな時に開くNHKオンデマンドですぐに目に入った(topにサムネイルが出ていた)26日に放送されたばかりの『歴史探偵』、「古墳最前線」を見始める。(2023年7月の日記)

日本全国、発見されているだけで16万の古墳があるそうで、コンビニの全店舗数の3倍にあたるとか。もちろん、多くは宅地開発やそれ以前の時代で既に破壊されたり埋もれたりしているだろうから、私たちの生活圏がそもそも古墳だらけ、だということだ。

「おすすめの古墳3選」の中に、出た!継体天皇の陵墓と推測されている大阪、高槻市の今城塚古墳が入っていた。近くの別の古墳が継体陵とされている(宮内庁)そうだけれど、多くの研究者が「こちら、」と言っているのが今城塚のほうらしく、NHKさんも「継体天皇陵と言われている」とナレーションしていた。

そのほか、最近大きなニュースにもなって個人的に注目してYoutubeで見ていたばかりの、富雄丸山古墳も取り上げられていて、いつもいつもそんな調子で、思考や直感と、連動して特に探さなくても入ってくる情報や動きや流れは、「図書館の天使」的なガイドたちの手配なのだろうとまた合掌して見終えると、「関連番組」としてサムネイルのトップに上がっていたのが、昔から割と好きな「新日本風土記」という番組。今年3月に放送された「はじまりの奈良」が目について。今朝はさっそくそれを見てみた。

「はじまりの奈良」その心は、奈良といってもヤマトの国の(とりあえず「正史」である記紀が伝えるに)始まりの舞台である、桜井市・天理市あたりを、山辺の道を軸に、取り上げていた。「正史」がその前提で色々と書き残しているので、「ヤマト王権の始まり」「仏教の伝来」「相撲」「みかん(柑橘類の伝来)」「能楽・芸能(番組では触れなかった)」などの「始まり」と言われている桜井、三輪周辺の色々を紹介していた。三輪そうめんも。

私も20歳の時に最初に奈良にはまった旅は、(何故かガイドブックから選んだ)山辺の道を歩くコース。次々と現れる古墳や、疲れ果てた頃にたどり着いた大神神社に感動して。

移住してから横浜に移るまでの4年の間、幼稚園〜小学校低学年だった娘の引率で歩いた三輪の麓の通学路、地元人しか知らないような田んぼの中の三輪の絶景ポイント、一人で早朝散歩したり、家族で出かけた山辺や桧原神社付近、自宅サロンに来てくれたお客さん達を駅まで送りがてら一緒に歩いた道、素麺屋さんや、みかん狩りに行った付近、娘の幼稚園がすぐそばで生活圏内だった箸墓古墳などなど、懐かしい風景が次々と。纏向遺跡も自転車で見に行ったっけ。奈良びとの絶妙なトークも懐かしい(笑)。

後半の2年、マンションの8階から眺めていた360度の奈良盆地のパノラマ。やはり特別な場所だったと想う。

春分と秋分に、三輪山から太陽が昇り、二上山のふたつの嶺の間に沈む。その観測ポイントが桧原神社。「元伊勢」と言われる。この場所を最初に見つけた人々は興奮しただろうな。縄文の人々か、または農耕のために暦の目安を必要とした弥生の人々か。

ヤマタイコクは何処か?と、相変わらずまだ、決着が付いていないらしい。ヤマタイではなくヤマトであると思うけど・・ただ、連合政権が出来るまでには下地としての王国が、三輪の麓にあっただろうし、葛城、熊野や、出雲はもちろん、丹波、東海〜東国、たくさんのクニグニは存在していた。だから「始まり」と言っていいのかどうかは、本当のところ微妙ではある。けれど一つの国としてまとまろうとした、そのセンターという意味で国史の「始まり」は確かにその通り。

初めて撮影を許可したという、石上神宮の「鎮魂祭」や、土中に刀剣が埋められているという禁足地の映像も興味深かった。宮司さん(森家)が物部氏の子孫ってさすが凄い歴史だなあ。以前飛鳥をひとりで回った時、お目当ての(ソガ系天皇家ゆかりの)遺跡を探していたら民家の庭先だったので、ピンポンしてご挨拶。表札を見ると苗字に「蘇我」が付いててびっくりした事を思い出す。

そしてこの番組のお影で気づいたのは、私はやはり「始まりの地」として、あの付近(磐余(いわれ)という言い方が割と好き)に惹かれたし、今でも凄みを感じるのだなあと。子供の頃から「始まり」を紹介するアニメ番組も好きだったし、ダーウインの進化論を知った時には本当にワクワクしたっけ。・・それが結局『ジェネシス』の仕事にも繋がっているのだ、と。「始まり」を「知りたがる」、あるいは「掘り下げたがる」。

正史にはならなかった、なれなかった沢山の「始まり」もまた日本全国にあるのだろう。そんな事にも思いを馳せながら。

Love and Grace

差別を無くすための差別?

多様性を実現するというのは、最近よくあるメッセージ。実際にそのための活動や発信は常々行われていて、法律の改正などにも反映されている。

私は決して「保守的」な人間のつもりは無い。物心ついた時から・・いや、思春期あたりから、多様性を許さない社会の風潮などに反感や嫌悪感を感じて、若い頃はマイノリティ的な立場の人々を取り上げるエピソードを、小説に書いたりもしていた。

けれど、ここ最近何か引っかかる、といつも感じるのが、ハリウッド映画やアメリカのドラマで実際のパーセンテージはそんなんじゃないでしょう!というくらいに、多様性を強調するような設定や展開を多く見かけて、何事も「やる時は徹底的に」という姿勢なのかな.. とまあ受け止めていた。

ディスニーの実写版「リトルマーメイド」のアリエルに、特に中国社会が反発を抱いたと報じられた件も記憶に新しく。個人的には人魚姫が黒い肌であっても違和感は無い… けれど、先日たまたま知った、ブロードウェイで歴史的終幕となった名作『オペラ座の怪人』(大好きでブロードウェイとロンドンで計3度観た)のクリスティーヌが、黒人の女優さんだった事には少し驚いてしまって、設定がそもそもフランス人では無かったか? 。。と。少し不自然さは感じてしまった。

本当の平等ってなんだろう。

ディズニー社は、「Reimagine Tomorrow」のスローガンのもと、「公平に代表されていない集団」から、全体の半数のキャストを選ぶと発表しているそうだ。それから最近ニュースで見かけたアメリカの最高裁判所が、大学におけるマイノリティーの学生優遇措置は「憲法違反」であると判決を下したという話。

1960年代から、黒人学生は入学選考において優遇されるという措置が取られて来たらしい。こういう件を「アファーマティブアクション(差別是正措置)」と呼ぶらしい。・・何というか、とても欧米的な方法だなと感じた。

同じ実力の人が差別されずに同じ扱いを受ける・・差別撤廃は、そのくらいでいいのではと考えてしまう。そういう意見も方々、あるらしい。けれどそんな生ぬるさでは、社会のバランスは変えられないのだ・・ということかもしれない。

ディズニーのアニメで好きなのは「ヘラクレス」や「ポカホンタス」「ノートルダムの鐘」など。ギリシャ人のヘラクレスをアジア人が、ネイティブアメリカンのポカホンタスを白人が、ジプシーであるノートルダムのヒロイン・エスメラルダをそうは見えない俳優さんが演じていたら、やはり気になってしまうだろう。芸術・娯楽作品にまで、「差別是正措置」を導入しなくてはならないのだろうか、と。原作の設定を変えるようだと寧ろ不自然さが生まれるし、

あまり行きすぎると、反発も出てくる。そういう時の反動って憎しみ、八つ当たりも混じってくるから、怖い気もする。

人魚姫、アリエルにもともとの人種的な設定は無いだろうから、黒人の女優さんでも全然良いと想う。今回、こういった問題に終始慣れている欧米ではなく、中国の人々が強く反発を表明したという点も、理解・想像出来る。

グローバリズムの時代。そのうちに人種などなくなるくらい、地球人はミックスされていくのだろうか。それはそれでいいとも想う。しかし、多様性が普及することで、結局、文化や民族という点では、多様性を失うのかもしれない。そんなパラドックスも感じる。差別はないけれど、それぞれが、変に力むこともなく、ごく普通に、自然に、共存している。・・それでいいと思う。

社会というのは、感情が常に伴うので、中々難しいものだ。誰かの「気持ち」を気に掛けるあまり、他の誰かが蔑ろになったり、バランスを取ろうと優遇することで別のどこかに歪みが出来たり。神智学が言うように、感情という問題をうまく統御出来るようになっていくことが、世界をよくしていく為の「まずは自分から」の第一歩だろう。

Love and Grace