「スマホ断ち」とアナログ回帰、そして「青い光」

自分が苦手なこともあって、モバイル、つまりスマホについてどうにかならないかしら.. という長年の気持ちを発端に、いわゆる「スマホ脳」「脳のハッキング」「スマホ依存」について本を幾つか読んでみた最近。

前もどこかに、書いた記憶がありますが、最初にパソコンを使わなければならないことになった時、「こんな小さな箱に自分が支配されるのは嫌だな」となぜか、多分20歳くらいの頃に感じました。その後、マックの楽しい画面や機能と出会い安心し、寧ろ人よりもPCを使う時間が長いかも?という状況で、仕事をしてきました。20年。

けれども、私にとってPCが必要なのは、ネットの情報を閲覧するほかには、仕事でサイトを作ったり、メールやブログの文章を書くなど、シンプルな創造を目的としていて、本当は、それ以上は要らない。増して、長年PCを常に使っているので、スマホでウェブを見たり、何かを操作する必要は、本当は無い。

本当は、というのは、やはりついつい、時代の流れもあってスマホで色々とすることはあるから。けれども、メールを打つ、などの作業や、最近ではネットの閲覧も、スマホでは(急いでいる時意外は)しないようにして、どうしても.. のアプリ以外は削除するなど。出来れば、本当に、ただの「携帯する電話」であってほしい。通信ツールとして、確かに小さくてどこにでも持ち運べるのは、素晴らしい事とは思う。

音楽を鳴らす、写真を撮る、なども。本当ならばそれぞれ別でいいのではと思ってしまうし、最近は何でも、アプリを強要される社会で、辟易することもたびたび。

『スマホ断ち〜30日でスマホ依存から抜け出す方法〜』
キャサリン・プライス著(角川新書)
新書で読みやすいので、興味ある方はぜひ読んでみてください。

本に巻かれている帯からの引用でご紹介するだけでもかなり、この本のお勧め具合が伝わるかと思うので、以下に。

スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも子供にデジタル機器を持たせなかった。
「脳のハッキング」IT企業はドーパミンの仕組みを利用、スマホへの依存を高めている。
正しく付き合い、本来の自分を取り戻すための無理のないノウハウを伝授
スマホ習慣を変えれば、脳の力が回復する
スマホを手放す時間が増えると、創造力・計画力・集中力が必ずアップします

著者はアメリカで活躍する気鋭の女性ジャーナリスト。心理学、脳科学、マインドフルネスの知見を交えながら、4週間で自分を取り戻せるメソッドを開発。150名が参加したそうです。アメリカ人は平均4時間以上スマホを使うとのこと。そんな人たちが、完全に断つのではなく、様々な工夫でスマホをなるべく遠ざける生活をしたことで、「自分を取り戻せた」と実感したそう。

私自身自分の仕事がウェブショップであり、ウェブを通じてアルガンザも、発信も行っているので、矛盾しているようですが… やはりスマホの小さな画面と、オンオフが簡単で様々な世界が次々と現れる仕組みが、脳の機能を低下させ、依存性を生み出しているようです。

<勝手なお願い>
もし.. PCをお持ちの方は、急ぎの時以外は、アルガンザやソフィアの図書館やブログ、世界樹なども、宜しければぜひ、PCで見て頂けると嬉しいです^^ 特にアルガンザは、PCで見ていただく仕様で作っています。大きな画面で見ていただけるとまた、伝わるものも違うと思います。歴代のサロンのサイトは、見ているだけで癒しや光を感じていただけるように、作って来ましたので。

情報を急ぎチェックする時は、スマホで。じっくりとワークを選んでいただく時などは、PCで。その時、写真や文字や文章にこめているエナジー、ページ全体で表現している周波数なども、感じて頂ければ幸いです。

本の中で紹介されていた幾つかのこと。道が複雑なロンドンのタクシー運転手はプロフェッショナルだと聞いた事がありますが、ロンドン大学の研究で、ロンドンのタクシー運転手は脳が大きくなっていて、長く仕事している人ほど、という事が分かったそう。人の脳は、きちんと使う事を続けていれば、年をとってからでも「育つ」のですね。

そしてその逆に、スマホによる害はさまざま指摘されていますが、中でも顕著なのは「脳が萎縮する」、睡眠障害や、依存性、注意散漫になる… エナジーワーカーとして、ここで自分の言葉を挟んで表現するならば、ヘッドセンター(ヒーリング的にはそこは自己の意識の中心、意識そのもの)が、自分のものでない状態になる… =乗っ取られる と、言えるのではないか、と。

そのような状況に対して、去年はセラピスベイの「エターナルノット」や、「ブルーソーマ」のワークが誕生しました。セラピスベイでは、前頭葉に入れるエネルギーを提供されましたが、今回それが先日あった「プロテクション専科」で伝授した「ヴェガの叡智」シンボルと関係していると感じました。また、紹介した本では「前頭前野」の働きが、自分の現実の今ここに集中する力を維持するそうで、それらのワークやシンボルとも、シンクロすると実感したところです。

また、エナジーワーク(エネルギーワーク)は、脳にとても良いという意見もあります。マインドフルネス、瞑想やヨガ、呼吸法もそうなのですから、エネルギーワークはもちろんですね。

関連して、私なりにこの件について感じていること、少し付記しておきます。何となく、人間の本能として、スマホに縛られ、何でもあの小さな中に用事があるという状況が得意ではありません.. 個人的には、アプリではなく、なるべく、アナログで出来るものはアナログのままにしておいて、世間の流れや企業の思惑とは逆になりますが、紙で出来るものは紙にしておこうかなと最近思います。

付きまして… 自分の仕事においても、アルガンザのサイトの内容(ワークの説明)をそのまま印刷した冊子や、ソフィアの図書館についても、紙版で発行するということも考えています。対面でのセミナーや講座がスタート、カレッジが再開するのも同じくで。出来る範囲で「アナログ回帰」していきたいなという気持ちがあります。もちろん一部の試み、ではありますが。

複数のサイトの作り替えなどがずっと続いていた数年でしたが、ようやく落ち着きましたので、対面スクールの再開も含め、アナログ回帰、紙へのこだわり.. ということで、今後動いてみようかと思います。

ウスイレイキのヘッドポジションや、カルナレイキの幾つかのシンボルも、脳の働きを守り、進行形の(現在社会が晒されている)脳への脅威から守ってくれそうなものがあります。アルガンザの光線だとやはりブルーソーマやノストラムなど、青い光がヘッドセンターを活性し、高い意識へと繋げてくれます。

今年以後のテクノロジー、技術革新でますます空間を行き交う電波が、人々の脳に影響するかもという話もあり。脳へのヒーリング、そしてプロテクション、日々の調整・修復など。気をつけて行きましょう。

今日はこのくらいで。

Love & Gratitude

Amari

「目覚め」に必要な「心のあり方」

今年の前半、そして7月にあったと感じる「回転」の区切り目以後は「沈んでいるもの」の昇華と浄化が実際に(アースワーク的な意味での「物理的に」)起きていて、エネルギー的に厳しいなと感じる事が何度かあったのですが、最近は大気に含まれる気の流れ、プラーナやグレースが「シン」と周波数を上げて、とても気持ちが良い。一方で、その光に照らされてこれまで、見なくても済んでいたような人々の各自の歴史の中の闇のようなものが人それぞれ、浮上してくる時期なのかも。

心のあり方が本当に試される時です。3~4年前に(その当時の)学びの扉のようなものが、内界(地球人類の背後にある高次元の愛の領域=神界)側では締め切られたような時がありました。これは確かにそうだったと思っています… が、いつでもどのタイミングでも「間に合う」というのも事実で。

間に合う、そのコースはそれぞれ変わりますが、もちろん人間として生まれて来て生きることは常に学びであり、いつでも切り替える事は出来るし、「間に合う」ことも出来る。

早く気づいている人はこれまで以上に、そうではない人々の道に迷う姿、それでも気づかずにいる姿、時に、気づいている人を「間違っている」と指摘してくる姿に、出会うのではないでしょうか。多くの偉大な宗教家がそうであったように… その神話的なパターン(原型)が、多くの人々に適用されるという時代が来ているような気がします。

もっとも、それを小さく再現したモデルタイプは常に、スピリチュアル、や、癒しの世界や、人生観などに目覚めが起きた人々には付き物ではありますが。そのような体験を通じて、自分自身の目覚めや覚悟を試される。つまり全て、反対する人や邪魔する人、そう見えている人々や物事があったとしても、自分自身の魂がこの現象界に映し出している、エネルギーであるということ。

小さく再現した個人ヴァージョンではなく、社会全体でそのモデルタイプを体験し、試されるのが、歴史上時折巡ってくる時代の周期の変わり目だろうと思うのですが、今はとても大きい勢いでその周期の入れ替えが来ているタイミングだろうと感じます。

神智学(リードビーター)の人類と太陽系、宇宙の進化サイクルについての理論では、地球のソウルが体験する七つの進化段階の中で、もっとも「波動が下がる」=物質的 のがアトランティスであり、そこを抜けて現在は5番目のサイクルに入った。恐らく12000~13000年前の大洪水以後のことを言うのだと思いますが。

私たちの文明期に残っている伝承・伝説の類では、アトランティス末期の混乱を生き延びて(避難して)、現在の文明のスタートに立ち会った人々から伝わっているものと、現在の文明の始まりを表した創世神話的なものが混ざっていると考えています。

進化サイクルの話に戻ると、5つめの人種期に入ったとは言え、一つ前の人種期のカルマ精算や、情報の整理・おさらいをする時期が必要で、恐らくそこに1万年くらい掛かって、今に至っているのではないでしょうか。

アトランティスの終盤、持っていた能力、ライトボディやチャクラシステム、サードアイ・松果体の活用や、当時なりの生殖システムなど、多くの「宇宙的」遺伝子の働きを封じられて、物質界に閉じ込められてしまった人類。その封印を解いていく時だと考えます。

とは言え、失った、「神々により」封じられたことにはそれなりの理由があり、取り戻していくに当たって、利己的な動機によってただ力、能力だけを開発しようとしても、寧ろ逆効果であろうと思います。ここでは、個人ではなく「人類全体」の歴史やカルマ精算が働く。

能力を拓く、のではなく、もともとあったものを取り戻す。ただ、そこには、「なぜ失ったか」を知り、贖いや、新たな決意・意図といった、心の持ちようの洗礼が必要なのだと思います。

聖書が伝えるように、やはり人間が「利己主義」に陥ったために、光や音や波動といった微細なものを扱う、感じる力を封じられていった。急にではなく、徐々に。

ゆえに「利己的」であること、フィジカルな世界や目に見えるものだけに注意や思考を集中している現在の在り方を頭から「外して」、体や骨格や遺伝情報や隅々に刻まれている「物質的な感性で生きている状態にとどめておく仕組み」を、ほどいていく行程が必要です。

そのプロセスの歩みの中で、ひとつずつ、封印が解かれていく。

私が考える人類の「覚醒」「進化」とはそのようなものです。もちろん、全体を引き上げる力が働いているので、集合意識フィールドの協力体制にシナジー効果が起これば、一気にグンとステップアップするようなことも、準備されているとは思います。ですがそれには、

まずは「心のありよう」を切り替えて、自然界や母なる地球、世界中のすべての人々とともに在るという、ワンネス意識、ホールネス意識、全てはつながり合い、関わりあって、支え合っているのだという意識を持ち、生活や思考を変えていくことから、全てが始まる。

研究者の発表などから、スマートフォンやデジタル生活による人間の脳の危険が問われている最近ですが、100年前に書かれた神智学の先人たちの情報によると、人間は意識の持ちようや自己浄化に励むことで「魂が肉体脳を支配する」という状態になるそうです。

「支配する」というと言葉がよくないかもしれませんが、自分自身がソウルとして生きることで、物質的な肉体的な自分ではない大きな宇宙的な存在として、肉体や、脳を、機能させることが出来る状態になる、ということ。

本当ならば恐らくパンデミック前に、自我をしのぐ魂の力を各自の中で強めておくことが、特にメタフィジカルな探求をしている人々、スピリチュアルに興味を持ったりかじったりしている人々には、求められていたのだろうと思うのですが…(「内界」の「神なる領域」、人類進化を導く世界はそれを促進していたのですが)

というのは、社会における「脳への脅威」はすでに始まっているので。ソウルが優勢、魂に道を開け渡す準備が出来ている、あるいは葛藤はするけれどその用意はある、というような段階の人々は、やすやすと脅威に絡め取られていくようなことはない。けれどもそうでないと、社会や個人にかかるマジックやトリックに、翻弄されてしまう。

「物質的ではない存在である自分」に気づき、目覚めていく。クラウンチャクラやソウルシステムの縦軸から、流れ込んでくるその光と成長のウェーブを受け取り、利己ではなく利他、地球や自然界を愛する方向へ導いていく力に、心と現実を沿わせていきましょう。

「上から来る」、光であるように装って違うものが来ることも多い最近。見分ける、感じ分けるには、左脳的な情報(数字や三次元的な上下関係・地位)ではなく、右脳やハートの感性で測る力も必要で、それにはやはり、自分自身をクリアリングして、淀みを洗い流していく事が大事です。恐れや怠惰や怒りなど、重たい感情を清めることが、最初の一歩です。

2024年、冬至を目前にして。

Love and Grace

Amari

闇と愛と光と

なかなかハードボイルドな日々が続きます。と言ってもあくまでも自分の内側でのことだけれど。「ジェネシス層」が今年は特に動く。動きっぱなしな気がする… いつも一般の人々よりも少し前にずれて、シャンバラの采配による「人類進化プログラム」のフローが、先に適用されるようなところがあるので、2025が境目とよく言われているけれど、それってこういうことか!と、明らかになる頃に、多くの人々が味わうような感覚、リリースであったり、内側の鋳型からのシフトであったり… を、体験している年のような気がします。

その中で、自分個人としてはあまり、フォーカスしたくないな、と日頃から考えている「光と闇」の二元について、どうしても周囲から、状況から、考えざるを得ないような事が多く。私が身を置いて来たようなニューエイジ系の癒しはやはり「愛」を絶対的な基盤としている訳なので、すべての究極的なベクトルは「宇宙の無限の愛」であると、答えが分かっている中で、まだ発展途上のこの物理世界で繰り広げられる二元性に対して、どのような臨機応変な「(暫定的な)答えを出していくか」が、テーマでもあります。

今、4名の受講生の方々と進めている「アースワークカレッジ」でも、参考図書として挙げている「チベッタンヒーリング」という本で、チベットの僧籍を持っていると思われる著者の方が、「シャーマニズム」「タントラ」「ゾクチェン」という、チベットにおける宗教的なアプローチが3階層ある、という説明をしてくれていて、とても分かりやすい。

それらを行ったり来たりしながら、この世は幻想・唯物是真であると分かりつつも、目の前の事象に対処するという時間がまた、「修行者」には必要とされるのだということを実感します。

仏教の世界では、闇と光(仏教では光の代わりに「仏」というのかもしれません。仏はブッディなので「慈悲・智慧」であり、光というよりは愛に近いのですが..)は拮抗し、31vs32で、1点の差で光が勝利すると仏典に書かれています。若い頃から、その「1」とは何なのだろうとずっと思って来ました。が、Harry Potter でも、the Lords of the Rings でも良いのですが、光と闇の相剋が、ああいった「魔法戦争」であるとイメージすると、分かりやすい。

有史以来ずっとあんな感じで世界の見えない部分で摩擦して来ている。いや、個人個人の内部でも、同じです。

神智学では、もっとも闇を極めたのはアトランティス末期であると伝えています。それは、数億年単位で地球を見た場合のこと。そして、仏教やそのベースであるインド哲学では、現在を含む時代は暗黒の世で、光が伝わらない、思想が乱れ、人々が正気を失う時代であると。

神智学のほうは正確には「闇を極めた」というよりは「物質を極めた」のであって、少し意味が違うのかもしれません。。もっと深淵、神妙な、人間のライトボディとフィジカルボディ全体の「システム」が、「物質」というテーマを極めた、という感じなのかも。。仏教が行っているような、心理および社会の「暗黒」と、違う層の話なのかもと最近は思っていますが…

ともあれ、
現在は物質的には豊かな社会が(昔よりは)世界の広範囲に渡っているけれども、人々の心は大事なものを見失い、おそらく最大の問題は、自分たち自身の「存在にまつわる知恵」を失ってしまっているという状況。

インド哲学の文献を残した当時の賢者たちからしたら、「そんな時代が来たら恐ろしい」と思えたのでしょうね。哲学が生き生きと存在していた古代からの視点からすると、それくらい、大事なものを欠如している状況。ゆえの「暗黒時代」という表現なのでしょう。

冷静に考えてみると、自分が何者であり、なぜ人は生きているのか。などの本源的な思想や理解や直感を失った状態で生きるというのはやはり、とてもとても、ある意味「不幸」なことであると私も本能的に思います。それで「人間」なのだろうか、と。

31と32、ほぼ互角に戦ってしまう「光と闇」。それでは、最後の勝利を決める「1」とは何なのだろうか。

やはり、というか当然ですが、「愛」ですよね。
誰もが分かっていること、と言えるかもしれません。そう、本当は誰もが分かっていること。けれども分からない振りをしている。

「愛」ってなんだ?というと、きっとキリストの言葉などを聖書で読むととても分かりやすいのかな。愛は、感情でも、思考でもなく、エネルギーで。宇宙の本源と言えるでしょう。それが、さまざまな階層に降りて来る中で、最終的には感情などになるとも言えそうです。現時点での地球の人間世界では、人々同士の間で行き交う、または感じられるフィーリングとして「愛」をその階層まで下ろして来て、その一端を体験している。

愛は宇宙のエネルギーである。
浄めて育てる「光」と、滅ぼし壊す「闇」
その双方さえ内包しているのが「愛」なのでしょうけれども、科学的に(宇宙レベルの意味で)、闇は愛とは結びつくことが出来ない。光は愛を意識して存在している。

それゆえの「1」の違いで、光により、最終的に闇は浄化され中和される。

なぜ「闇」は愛と結びつくことが出来ないか。もし結びついたならその時点で「闇」ではなくなる。「光」になるのです。なぜなら、「愛を失った光」が、「闇」であるから。

「宇宙の本源(愛)」を見失った世界こそが、「光と闇」の二元の相剋を体験している。

思い出した人からその次元を抜けていく?いや、世界というのは一つのユニットになっていて、他の魂が、思い出すまで手助けをするのだそうです。(仏教にいう「菩薩道」)ニューエイジで活躍している「アセンデッドマスター」はまさにその意味で菩薩たち、ですね。

実はこれは、ヒーリング(癒し)の世界で個人個人の中で起きていることと同じ。「愛を見失った」迷子の過去生やインナーチャイルド、シャドウセルフが、私たちの中で自己主張をしているから、不具合や苦しみや不完全感などが生まれる。それらに「愛」を思い出させることで、癒しが起きる。小世界と、外の世界は、フラクタル構造。同じことが起きています。

本能的・潜在的に「愛」をどのくらい知っているか。魂によりその深さ・度合いが違う。ただ、家系的に受け継がれる性質もそこに加わって、愛により近い魂は「光=生み出し育てる」ことに惹かれてそのように生きようとするし、その逆もある。滅びや破壊に、そのための支配に惹かれるというベクトルもある。

けれども… 「愛を思い出した闇」は、その瞬間に「光」になる。

個人の中では、そんなことを小さく日々、繰り返して、揺れ動いている。それが、現在の人間の世界であるのだろうと。常々、ヒーラー目線でそう思っています。

Love and Grace
Amari(青野芹)

英雄神話・魂からの「召命」

NHKの「100分de名著」で最近取り上げられた、一冊。Joseph Campbell 「千の顔を持つ英雄」。キャンベル博士は神話学という、地味だけど好きな人には大事な、そして様々な別ジャンルの人々への影響力も多大な分野の学問の大家で。神話は Myth だから、Mythology ですね、「ミソロジー」。

個人的な体験としては、遡ること30年(!)、短大の授業で…英文購読だったかな、たまたま先生が選んだテキストがキャンベル博士の、この本ではなく別の「神話の力」。ジャーナリストの方との対談を書籍化したもの。高校の頃から考古や歴史、神話などが好きだったので、ここではまりました。ちょうどNHKでその特集番組が放送されたことがあり、録画したのを覚えています。

神話学というのは日本ではなかなか学べる所も少なく、以前留学できないかと考えていた時代(高校〜短大)、探していると英米だと割と学部や学科がありました。ギリシャ神話などが文化に色濃く残るゆえかもしれません。

そんな神話学の代表的な学者の名著と言われる本で、ただそれ自体難しくはないので、正直なところ100分de名著に登場したのは意外、そして嬉しいことでした。立ち寄った本屋で目についたので買って、すぐに読み始めて、とても響いたので早速。(ちなみに、まだ番組は視聴してはいません、笑。これからオンデマンドで。)

英雄神話を分析した研究書ですが、実はこの著作が「スターウオーズ」に多大な影響を与えたらしい。私は同作をあまり見ていないのですが、言いたい事は何となく分かります。やはり英雄神話というのは、「ロードオブザリング」(この場合はフロド)でも、ドラマの「ゲームオブスローンズ」(やっぱり英雄ポジションはジョンかな)でも、そして韓国時代劇(頭に浮かんだのは「チュモン」とかそのほか色々、女性主人公でも)… みんな、英雄神話のパターンを思い出させる。

拙著「ハピの巫女姫」ならば女性だけどセイレン、「ガイアナ」ならばレオダイ。レオダイはかなり、神話的な英雄パターンをあてはめた存在だと自分でも思っています。苦労つづきな所も。女神を得るところも。それで終わらない部分は、北欧など北国系の神話のパターンかもしれません。ジョージ・ルーカス監督も博士の英雄神話の解説に胸打たれ、その概念を軸として「スターウオーズ」の脚本を書いたそうです。

そう、それで。今回こちらの解説本で、解説者である佐宗先生(多摩美術大特任准教授)によるわかりやすい説明を読んでいた中で、響いたのは。表題の「召命」という言葉。
英雄神話の基本構造は「行きて帰りし物語」。大きく円を描くように、そしてその一周回った頃には高い位置に登っている、つまり螺旋構造。

詳細はまた、番組を見て.. そして大事にコレクションにしている(そういう本が多くて/.. 部分的には読んだのですが..)同書を読了した暁には、このブログに戻って来て、書きたいなと思いますが、今日は「召命」というものについて。

主人公は最初、英雄になる前なので、普通の人として暮らしている。そこに、何らかの招待が来る。冒険が始まるから旅に出なさい、飛び込みなさい、というのが「冒険への召命(しょうめい)」だそうです。

「ハピ」のセイレンならば、隠れるように暮らしている少女時代のセイレンに「実はハピ国の落胤だった。あなたは巫女姫を継ぐべき人です。」と言って王城の遣いであるリーヴが迎えに来る。… ここに当たる。

その召命を受けるか否か、という選択の「自由意志」についても、キャンベル博士は言及されていて、「召命拒否」と言うそうです。

拒否をせず、平凡な生活を捨てる、というリスクを超えて危険なチャレンジの旅に出た場合、「思いもよらない援助」(大抵は師匠との出会いなど)が起こり、その後まあ色々な段階が。試練と苦難と、壁を越えて目的を達成した後の「帰還」の段階には、「帰還の拒否」も起こり得るそうです。

それに関しては、フロドがホビット村に帰らず、エルフたちの旅立ちに同行したのを想起しました。そういうケースもありますね。けれど、元の世界、日常の世界へと戻るパターンもある。大抵、そこではヒーローや王として、輝く存在、特別な存在になる。あるいは、精神的な成長をテーマにしている場合もあるかも。「青い鳥」など。

「召命」というのは、メタフィジカル、スピリチュアルな観点や言葉を通すと「インスピレーション」や「ハイヤーセルフからの導き」や「高次からのサイン」とも表現できる。神話学的にはそれは「魂」への招待状であり、平凡な人間としてそのまま、日常の安全をキープして生きていくか、魂の使命に向かう流れに乗って、本来の自分の力や知恵を取り戻し、違うものへと変容を果たすか、という事。

日頃、ヒーラー、メタフィジストとしては、「ソウルで生きましょう」「ソウルと人格の統合を果たしましょう」と言っていることと、同じだと思ったのです。ゆえに「召命」が響きました。思い起こすと、自分にもそれが間違いなくあったのですよね。その流れに乗った、飛び込んだ時には、それまでの人生とは確実に違う時間が流れる。エネルギーの高揚感とスピードが違う。

神話のように「降ってくる」出会いやご縁で、苦労して探さなくても、やるべきことが次々と目の前に運ばれて来るし、そのために必要な情報は人から伝えられたり。「これが運命、ソウルの決めて来た道だよ」と言われているかのよう。ただ、私の場合はその流れに乗ったのは、当時どうにもならないほど「谷底」のような心境で生きていたから、なのですよね。だから「危険な旅に出る」のではなく、「失う物は何もない」気分だった。

召命というより、当時の自分にしたら「蜘蛛の糸」ですね。。笑

ただ、月日が経ってみるとあれは、魂からの招待状であり、魂=高次=自分自身の高い部分 からの、導きであったと思います。ただ、恐らくそれに「はいはい!」と言って飛び乗るためには、やはり一度かなりの所まで、落ちている、降りている(少なくとも自分はそう思っている)という状況が必要だった。そうしないと、人生がうまく行って快適に暮らしていたら、召命拒否、になっていただろう。自分の性格からしても。そう思います。

主人公たち(一般の我々も同じく)は、なぜ召命を拒否するのだろうか… という点について、キャンベル博士は次のように書いています

つまり、日本人としては耳が痛いですが「現状維持」ということ。エゴセルフの本能、本音とも言えますね。

ただ、解説の佐宗先生がおっしゃるに、人は皆、深層では冒険に出たい、本当の自分を見つけたいと思っているので、

とのこと。(p36)
英雄神話でも召命を拒否した主人公は、何らかの「よからぬ結果」に陥り、結局それにより「旅に出る」(魂が示す方向へ向かう)事を選択するよう促されるのだとか。

ここで思い出したのは、ソフィアのブッククラブ(サブスクリプションの読書記事)で前にご紹介した知花先生の「我は道なり 我は神理なり」の中で、同じような事が書かれていた… 「神には絶対服従」で、己の使命に関する導きを無視していると、何もかもうまく行かない、ような現実になる..とのこと。先生もそのような時期を経て、「使命」を受け入れたのだとか。

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英雄神話は奥が深くて、まだまだ沢山の面白いお話が、この「100分de 名著」の薄い冊子の中にも溢れているのですが、今日はひとまずは「召命」について..に絞っておきたいと思います。

ヒーリングサロンやスクールをしていると、癒されてその人らしく生き生きしてきた人が、更に学んで、自分が癒されてきたプロセスや魂の素質を生かしたことが出来るかも、という次の創造と探検の段階に踏み込もうとした時、足を一歩踏み出したことで、ソウルが応えてたくさんのサインで導いていながらも、恐れや「現状維持」の心が働いて、踵を返してしまう姿は、割と目にして来ました。

英雄神話というのは、私の感覚では全ての人に捧げられたものであり、ここでいう英雄とは、その人の魂が舞い降りて人格と一体化した状態で地上で生きること。英雄たちが物語のプロセスで数々の苦労をしているように、確かに簡単なことではないかもしれない。

けれど、早かれ遅かれ、全ての人が、そのプロセスを体験してソウルとの統合を果たすのだろうと思います。転生を繰り返す中で、召命が来た時に「来た!」と思えるか「違う!」と逃げてしまうか。

英雄神話のパターンが沢山、古典や文学や最近の映画にも、刻まれているのは、私たちの集合意識場には、しっかりとその原型パターン、教訓、知恵が、共有されているのだろうと改めて思いました。

たくさんの神話的、原型的エッセンスが、魂を揺さぶる小説を書いていきたいです。

世界樹ブックスのページを作りました

https://www.earthkeeper.jp/sekaiju-books

22年前に書いた現代小説(ブロマンスです/笑)を公開しています

https://note.com/sekaiju_books

そして、新作は有料サブスクの「ソフィアブッククラブ」にて執筆スタート

と、かなり宣伝のようになりましたが、こちらの..
ジョゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』 をちゃんと読みまして、また書こうかと思います。あ、そうだ。ソフィアブッククラブで読むことに致します。。(更に宣伝を!)

https://sekaiju.net/sophia/category/bookclub

ではでは、

今日はこのくらいで

Love and Gratitude

Amari

自己表現への夢を抱く人々。

こんにちは 新しいブログサイトへと移行して最初に書く記事です。

また「ソフィアの図書館」もオープンしました。サロン顧客様専用の「世界樹メンバーズ」、今月下旬スタート予定のオンライン読書会「ソフィア・ブッククラブ」により構成されたメンバー専用の有料サブスクリプションサイトです。

さてさて。最近 テレビも見ないし俗世間に疎い私を案じた友人に(笑)薦められ、以前よりYoutubeを見るようになりました・・時代の移り変わりを痛感しています。(年寄り臭いですネ)

それで、ヒストリーチャンネルに去年やっと目覚めたのですが、同じような領域を紹介しているyoutuber のナオキマンさんの番組を見ていて知った話題がとても興味深かったので、今日は記録しておきたいと思います。皆様にもぜひ知って頂きたく。

アメリカの政治学者、ロナルド・イングルハート による世界中の国民性における「価値観」の研究。

『世界価値観調査』(wikipedia)

このウィキのページを読んでいただくと概要は書かれているので、興味ある方はお読みいただければと思いますが、結論、「日本人とは」

Naokiman さんのまとめの言葉をお借りすると、

ということが、浮かび上がった結果だったと。

同調圧力がとても強いと言われている日本や韓国よりも、アメリカのほうがよほどに「他人と同じでありたい」と望んでいることが分かったという。意外ですよね。

どうも日本の人々は自分たちを「集団主義」だと思い込んでいるけれど、深層心理、表に出さない本心を探っていくと、本当は「人と同じで」ありたいわけではない。ただ、同じであるように振る舞うことで失敗を回避して、本来とてもとても何よりも価値があると思っている「自己表現」を犠牲にして、合理的に振る舞っている。ということが読み取れそうです。

リンク先のwikiページの、「価値マップ」を見ていただくと、この調査で見えてきた各国の価値観を地図にして視覚化しているので、分かりやすい。日本はちょっと飛び抜けた位置にあり、不思議なポジションだということが分かります。これで見ると、とても近いと思っている日本と韓国はまただいぶ違っているのだな、という距離感も分かりますね。

日本人は「世俗性(伝統や因習にとらわれるのではなく現代的な合理性)」が非常に高くて、また、他のどのアジア人よりも、北欧の人々なみに、自己表現を望んでいることが見えて来ます。本当に求めているもの、それは自己表現。

けれど、社会的に安全であるためにそれを封じている。社会的な「空気」に紛れることを演じているために、かなりストレスが掛かっているのではないかな。同調圧力ゆえ、ではなく、自由な自己表現をしないという選択の影で、エゴセルフと(社会とは関係のない無垢な)ソウルセルフが摩擦を起こしているであろうと、メタフィジスト視点では推察されます。

そしてある意味で、ソウルとパーソナリティが統合されている人、自己表現を経て活躍している人、自己表現を懸命に叶えようとしている人などを、本人は無意識でも嫉妬している、羨ましいと思っている人々が、マスメディアやSNSを通じて叩いたり引き下ろそうとしたりするのだろうと。ヒーラーの視点、ヒーリングの観点から言うと、やはりそう思えてくる。

それにしても・・

最近、スピリチュアルな領域でさかんな「日本人=特別」という考え方は、賛同する/しないは私個人的には50/50 なのですが、世界価値観調査マップを見ると、やはりちょっと普通ではないのだな・・・ある意味、飛び抜けた立ち位置。

本心:合理主義で、自己表現に価値を抱いている

実際:非合理主義的にふるまい、自己表現を封印

「くる時が来たら、化ける」というのは、こういう人々なのかもしれない。と、客観的に感じた。その意味では私などは、まったくもって外国人だなあ。と。「自己表現」と「合理主義」を表に出して、そうでありたい、と努めているので。。。ソウルとしては、この重要で不思議な国に、興味を持って今世選んで生まれて来たのかもしれない。

皆さんはどう感じましたか?

・・ああ、だから、日本人は職人気質なのか。淡々とした職人作業の中に、自己表現の道を見出す。けれども職人の世界も長らく男性のフィールドであった時代、日本の女性たちは一体どこに、秘めた自己表現願望を流し込んだのだろうか。

と、エンドレスに考えてしまうこの話題。レヴィ・ストロースの『月の裏側』(世界的な文化人類学者による日本文化論)、買って以来本棚にしまってあるけれど。読んでみようという気持ちになりました。

今日はこのくらいで。

Love and Gratitude

Office Earthkeeper のサイトを新設しました。ぜひ覗いてください^^

https://www.earthkeeper.jp

未来の思想と生殖

一昨日、19日の夕空。壮大な空模様の、ほんの一部。


2022年公開の映画『プロジェクト・ユリシーズ』を観た。制作がドイツ&スイスの合作という、ちょっと渋い背景。けれどハリウッド映画という感じの仕上がり。


近未来の地球、環境汚染等々で、ヒトが住めなくなる。富裕層など脱出可能な人々はケプラー209という惑星に移住。僅か二世代で生殖機能が働くなり、ヒト種族を守るために地球への「帰還」計画がスタート。選ばれた宇宙飛行士が派遣される。その頃地球は、一面の泥の海。そして時折水の満ち引きで洪水が起こる。地球には「生存者」たちがいて、泥に塗れながら命を繋いでいた。彼らは帰還計画の「ケプラー人」から「泥の民(the Muds)と呼ばれる。
そしてまあ色々なことが起こり、1時間半ちょっとの映画の中で、一応は決着、解決をみる。これからの未来・・ケプラー系地球人たちが帰還し、「泥の民」と共存していくのだろうか、という微かな希望が差したところで終わる。
 
深読み&ジェネシス神話と絡めて考える、シリーズ。
まずはタイトル。20世紀初めのアイルランドの作家ジョイスの名作小説「ユリシーズ」を連想させる(きっとそうなんだろう)。ユリシーズはギリシャの英雄叙事詩(ホメロス作と伝わる)『オデュッセイア』(オデュッセウスの歌という意味)のラテン発音が更に変化し英語化したもの、のよう。つまりオデュッセウスの長い放浪の旅からの故郷への帰還、を表現していると思われる。


幾つか印象的だった点。前に日記に書いた「インターステラー」という映画と似ている部分がある。特に、宇宙飛行士の父、と、その娘によって人類をめぐるプロジェクトがうまく運ぶという。どこか神話的な設定。息子ではなく娘である、という点が、時代を反映しているのかも。プラス、父と娘という設定に何か特別なロマンのようなものを、特に欧米の人々が(深層心理的に?)持っているのかもしれない。


どちらの映画も、あとあとの人類の歴史の中で、父と娘が英雄として名を刻まれるような功績。それが目立った形ではなく、純粋な父と娘が通い合わせる愛によって成り立っているという感じ。実際に、欧米のもろもろの著名人など、死後に娘や孫娘がその業績を残すことに貢献したり、確かにそのイメージはあるかも。欧米の娘たちは、立派な父を尊敬し、偉業を継ごうとするという何か原型的な感覚、感情のパターンがあるのかもしれない。
又は、映画の作者や監督などの男性陣?が、自分の仕事を「愛しい娘が理解し受け継いでくれたら」というある種の理想像があることの反映と、取れるかもしれない。
 
それと、ちょっと引っかかったこと。原作は読んでいないから分からないけど、明らかな悪役の男性たちや、エキストラレベルの人々以外に、目立ったそれも善良な人々の中で唯一の犠牲の死が、アジア系の女性で。物語の中でも大事な、また描かれていない未来においても重要な立ち位置となるだろう少年の母親だし、主人公の宇宙飛行士(娘)の父親が、現地で愛した「泥の民」の女性、だと思われる女性が、とてもあっさりとそれも気の毒な形で犠牲になっている。


見ていてその辺り、ミスサイゴンを思い出させた。仕方ないとも思うけど(ホントはそれじゃダメなんだろうけど)アジア人女性=現地の妻=(用が済んだ時点で)犠牲 をさらりと、やはり原型的なのか、深層心理なのか、描いている点に、アジア人女性としては引っかかるものを感じた。けど、仕方ない、と感じる自分も居てそれはそれで問題だとも。単なる人種差別的な無意識?の心理だとしても、やはりそうさせてしまう、エネルギーや意識のシステム的な問題を、アジアの、日本に居ると感じていることも確かだから・・
 
単純に劣っている、という意味ではない。それぞれ、優れている点、ダメな点あるわけで、人種に優劣があってはいけない。けれど、何というか・・「犠牲が似合ってしまう」という原型的な空気が、アジア人の、特に女性にはある。これが最近、アルガンザのジェネシス神話で分かって来たことと重なる。つまりそれなりの理由があると感じてしまう。だから仕方ないというのではなく、変わって行かなくては、と思う。


一昔前は「妻にするなら日本人、愛人はフランス人、家はイギリス、車はドイツ、シェフは中国、」みたいな偏見の譬え話があったけど、一昔前の男性陣が「妻にするなら」なぜ「日本女性」が「良い」と考えたのか・・・よくよく、感じてみたほうがいい。従順だということだよね・・・そして、いざとなったら、または用事がなくなったら、ミスサイゴン(日本ではないけど)のような犠牲で消えていく。悲しいネ、忘れないよ、ありがとう・・・みたいな原型ストーリーか。
 
そして、更に深読み。ケプラー209に移って僅か二世代で生殖できなくなるという部分。シュタイナーに学び、それをヒントにしてジェネシス神話に取り入れた「月」という存在の地球への影響から考えると、地球の生殖を支配しているのは月、なので、離れたら当然、機能しなくなると私は思った。けれどそこで頑張って、人類を生み出した神なる次元がヒト種族を見捨てていなければ、新しい生殖システムまたは手段が、生まれていくのではないかというのが、私の考え。テクノロジーで何とかするのかもしれない。それも含めて。


主人公の宇宙飛行士(娘のほう)が地球に来て、泥の世界で奮闘していると程なくして、月経が復旧したというシーンがあった。彼女の足に経血が流れてくる、という場面。・・・この映画の価値観においては、それは良いこと、未来への希望の証なのかもしれない・・・けれど、個人的にはこの生殖システムはそれほど(宇宙基準で)良いものとは思えないから、複雑に感じた。


聖書のイブへの呪いのように、月のサイクル28日でめぐる(そんなに子供を次々と産むわけではないのに)この忙しい生殖システム、男性側もだけど、かなり動物的、原始的なあり方で翻弄され、束縛され、体も気分もアップダウンし、そこにエネルギーを取られて、負担も多いから毎日3食食べなくてはならず、そのために日々働かなくてはならない、という、人類を束縛する最大の「呪い」のように思える。
 
これが、一年に一度、いや、数年に一度、「子供を持ちたい」と意図した夫婦が、「神」に申し出ると生殖機能が働き、子供を授かる・・みたいな仕組みであればどれほど、効率よく、合理的で、人類はもっと心穏やかに、思考を洗練させ、意味のある創造にエネルギーと時間を費やすことが出来るだろうか、、と、若い頃からずっと思って来た・・(笑)そのような星から私の魂は来たのかもしれない。地球上の生殖、性というものを理解するのにかなり混乱していた。


同時に、今この地球で生きていても、人類が月よりも太陽またはもっと別の力にエネルギー的に結ばれると、生殖システムは変わっていくだろうとも、思っている。


映画では、ケプラー人は「for the many」、己を捨てて、感情を抑えよ、という思想を持っている。字幕では for the many は「人類のため」と訳されていた。そこは、ある意味進化している姿であるが、もし原作が利己的(動物的)、感情的な部分も含めて「帰還」すべしという作者の意図が込められているのだとしたら、個人的には意見が合わないなあと思いながら見終わった。
 
for the many はもちろん、大事なことであるし、そのためには感情や利己を抑えるというのも自然のことわり。けれど、それにもっと早く気づいて、地球を捨てて去る前に、母なる星の環境破壊や人類の乱れを止めることが出来れば良かった・・・という、教訓として、見れたら良いのかもしれない。とにかく何しろ、自分たちのせいで壊れそうな地球を見捨てて生き延びることを考えるのではなく、何とかしようと奮闘すべきではないかと。女性性の中にあるハートの愛(自然界と通じる)のようなものは、きっとそう感じるものだろう。
 
Love and Grace