「スマホ断ち」とアナログ回帰、そして「青い光」

自分が苦手なこともあって、モバイル、つまりスマホについてどうにかならないかしら.. という長年の気持ちを発端に、いわゆる「スマホ脳」「脳のハッキング」「スマホ依存」について本を幾つか読んでみた最近。

前もどこかに、書いた記憶がありますが、最初にパソコンを使わなければならないことになった時、「こんな小さな箱に自分が支配されるのは嫌だな」となぜか、多分20歳くらいの頃に感じました。その後、マックの楽しい画面や機能と出会い安心し、寧ろ人よりもPCを使う時間が長いかも?という状況で、仕事をしてきました。20年。

けれども、私にとってPCが必要なのは、ネットの情報を閲覧するほかには、仕事でサイトを作ったり、メールやブログの文章を書くなど、シンプルな創造を目的としていて、本当は、それ以上は要らない。増して、長年PCを常に使っているので、スマホでウェブを見たり、何かを操作する必要は、本当は無い。

本当は、というのは、やはりついつい、時代の流れもあってスマホで色々とすることはあるから。けれども、メールを打つ、などの作業や、最近ではネットの閲覧も、スマホでは(急いでいる時意外は)しないようにして、どうしても.. のアプリ以外は削除するなど。出来れば、本当に、ただの「携帯する電話」であってほしい。通信ツールとして、確かに小さくてどこにでも持ち運べるのは、素晴らしい事とは思う。

音楽を鳴らす、写真を撮る、なども。本当ならばそれぞれ別でいいのではと思ってしまうし、最近は何でも、アプリを強要される社会で、辟易することもたびたび。

『スマホ断ち〜30日でスマホ依存から抜け出す方法〜』
キャサリン・プライス著(角川新書)
新書で読みやすいので、興味ある方はぜひ読んでみてください。

本に巻かれている帯からの引用でご紹介するだけでもかなり、この本のお勧め具合が伝わるかと思うので、以下に。

スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも子供にデジタル機器を持たせなかった。
「脳のハッキング」IT企業はドーパミンの仕組みを利用、スマホへの依存を高めている。
正しく付き合い、本来の自分を取り戻すための無理のないノウハウを伝授
スマホ習慣を変えれば、脳の力が回復する
スマホを手放す時間が増えると、創造力・計画力・集中力が必ずアップします

著者はアメリカで活躍する気鋭の女性ジャーナリスト。心理学、脳科学、マインドフルネスの知見を交えながら、4週間で自分を取り戻せるメソッドを開発。150名が参加したそうです。アメリカ人は平均4時間以上スマホを使うとのこと。そんな人たちが、完全に断つのではなく、様々な工夫でスマホをなるべく遠ざける生活をしたことで、「自分を取り戻せた」と実感したそう。

私自身自分の仕事がウェブショップであり、ウェブを通じてアルガンザも、発信も行っているので、矛盾しているようですが… やはりスマホの小さな画面と、オンオフが簡単で様々な世界が次々と現れる仕組みが、脳の機能を低下させ、依存性を生み出しているようです。

<勝手なお願い>
もし.. PCをお持ちの方は、急ぎの時以外は、アルガンザやソフィアの図書館やブログ、世界樹なども、宜しければぜひ、PCで見て頂けると嬉しいです^^ 特にアルガンザは、PCで見ていただく仕様で作っています。大きな画面で見ていただけるとまた、伝わるものも違うと思います。歴代のサロンのサイトは、見ているだけで癒しや光を感じていただけるように、作って来ましたので。

情報を急ぎチェックする時は、スマホで。じっくりとワークを選んでいただく時などは、PCで。その時、写真や文字や文章にこめているエナジー、ページ全体で表現している周波数なども、感じて頂ければ幸いです。

本の中で紹介されていた幾つかのこと。道が複雑なロンドンのタクシー運転手はプロフェッショナルだと聞いた事がありますが、ロンドン大学の研究で、ロンドンのタクシー運転手は脳が大きくなっていて、長く仕事している人ほど、という事が分かったそう。人の脳は、きちんと使う事を続けていれば、年をとってからでも「育つ」のですね。

そしてその逆に、スマホによる害はさまざま指摘されていますが、中でも顕著なのは「脳が萎縮する」、睡眠障害や、依存性、注意散漫になる… エナジーワーカーとして、ここで自分の言葉を挟んで表現するならば、ヘッドセンター(ヒーリング的にはそこは自己の意識の中心、意識そのもの)が、自分のものでない状態になる… =乗っ取られる と、言えるのではないか、と。

そのような状況に対して、去年はセラピスベイの「エターナルノット」や、「ブルーソーマ」のワークが誕生しました。セラピスベイでは、前頭葉に入れるエネルギーを提供されましたが、今回それが先日あった「プロテクション専科」で伝授した「ヴェガの叡智」シンボルと関係していると感じました。また、紹介した本では「前頭前野」の働きが、自分の現実の今ここに集中する力を維持するそうで、それらのワークやシンボルとも、シンクロすると実感したところです。

また、エナジーワーク(エネルギーワーク)は、脳にとても良いという意見もあります。マインドフルネス、瞑想やヨガ、呼吸法もそうなのですから、エネルギーワークはもちろんですね。

関連して、私なりにこの件について感じていること、少し付記しておきます。何となく、人間の本能として、スマホに縛られ、何でもあの小さな中に用事があるという状況が得意ではありません.. 個人的には、アプリではなく、なるべく、アナログで出来るものはアナログのままにしておいて、世間の流れや企業の思惑とは逆になりますが、紙で出来るものは紙にしておこうかなと最近思います。

付きまして… 自分の仕事においても、アルガンザのサイトの内容(ワークの説明)をそのまま印刷した冊子や、ソフィアの図書館についても、紙版で発行するということも考えています。対面でのセミナーや講座がスタート、カレッジが再開するのも同じくで。出来る範囲で「アナログ回帰」していきたいなという気持ちがあります。もちろん一部の試み、ではありますが。

複数のサイトの作り替えなどがずっと続いていた数年でしたが、ようやく落ち着きましたので、対面スクールの再開も含め、アナログ回帰、紙へのこだわり.. ということで、今後動いてみようかと思います。

ウスイレイキのヘッドポジションや、カルナレイキの幾つかのシンボルも、脳の働きを守り、進行形の(現在社会が晒されている)脳への脅威から守ってくれそうなものがあります。アルガンザの光線だとやはりブルーソーマやノストラムなど、青い光がヘッドセンターを活性し、高い意識へと繋げてくれます。

今年以後のテクノロジー、技術革新でますます空間を行き交う電波が、人々の脳に影響するかもという話もあり。脳へのヒーリング、そしてプロテクション、日々の調整・修復など。気をつけて行きましょう。

今日はこのくらいで。

Love & Gratitude

Amari

自己表現への夢を抱く人々。

こんにちは 新しいブログサイトへと移行して最初に書く記事です。

また「ソフィアの図書館」もオープンしました。サロン顧客様専用の「世界樹メンバーズ」、今月下旬スタート予定のオンライン読書会「ソフィア・ブッククラブ」により構成されたメンバー専用の有料サブスクリプションサイトです。

さてさて。最近 テレビも見ないし俗世間に疎い私を案じた友人に(笑)薦められ、以前よりYoutubeを見るようになりました・・時代の移り変わりを痛感しています。(年寄り臭いですネ)

それで、ヒストリーチャンネルに去年やっと目覚めたのですが、同じような領域を紹介しているyoutuber のナオキマンさんの番組を見ていて知った話題がとても興味深かったので、今日は記録しておきたいと思います。皆様にもぜひ知って頂きたく。

アメリカの政治学者、ロナルド・イングルハート による世界中の国民性における「価値観」の研究。

『世界価値観調査』(wikipedia)

このウィキのページを読んでいただくと概要は書かれているので、興味ある方はお読みいただければと思いますが、結論、「日本人とは」

Naokiman さんのまとめの言葉をお借りすると、

ということが、浮かび上がった結果だったと。

同調圧力がとても強いと言われている日本や韓国よりも、アメリカのほうがよほどに「他人と同じでありたい」と望んでいることが分かったという。意外ですよね。

どうも日本の人々は自分たちを「集団主義」だと思い込んでいるけれど、深層心理、表に出さない本心を探っていくと、本当は「人と同じで」ありたいわけではない。ただ、同じであるように振る舞うことで失敗を回避して、本来とてもとても何よりも価値があると思っている「自己表現」を犠牲にして、合理的に振る舞っている。ということが読み取れそうです。

リンク先のwikiページの、「価値マップ」を見ていただくと、この調査で見えてきた各国の価値観を地図にして視覚化しているので、分かりやすい。日本はちょっと飛び抜けた位置にあり、不思議なポジションだということが分かります。これで見ると、とても近いと思っている日本と韓国はまただいぶ違っているのだな、という距離感も分かりますね。

日本人は「世俗性(伝統や因習にとらわれるのではなく現代的な合理性)」が非常に高くて、また、他のどのアジア人よりも、北欧の人々なみに、自己表現を望んでいることが見えて来ます。本当に求めているもの、それは自己表現。

けれど、社会的に安全であるためにそれを封じている。社会的な「空気」に紛れることを演じているために、かなりストレスが掛かっているのではないかな。同調圧力ゆえ、ではなく、自由な自己表現をしないという選択の影で、エゴセルフと(社会とは関係のない無垢な)ソウルセルフが摩擦を起こしているであろうと、メタフィジスト視点では推察されます。

そしてある意味で、ソウルとパーソナリティが統合されている人、自己表現を経て活躍している人、自己表現を懸命に叶えようとしている人などを、本人は無意識でも嫉妬している、羨ましいと思っている人々が、マスメディアやSNSを通じて叩いたり引き下ろそうとしたりするのだろうと。ヒーラーの視点、ヒーリングの観点から言うと、やはりそう思えてくる。

それにしても・・

最近、スピリチュアルな領域でさかんな「日本人=特別」という考え方は、賛同する/しないは私個人的には50/50 なのですが、世界価値観調査マップを見ると、やはりちょっと普通ではないのだな・・・ある意味、飛び抜けた立ち位置。

本心:合理主義で、自己表現に価値を抱いている

実際:非合理主義的にふるまい、自己表現を封印

「くる時が来たら、化ける」というのは、こういう人々なのかもしれない。と、客観的に感じた。その意味では私などは、まったくもって外国人だなあ。と。「自己表現」と「合理主義」を表に出して、そうでありたい、と努めているので。。。ソウルとしては、この重要で不思議な国に、興味を持って今世選んで生まれて来たのかもしれない。

皆さんはどう感じましたか?

・・ああ、だから、日本人は職人気質なのか。淡々とした職人作業の中に、自己表現の道を見出す。けれども職人の世界も長らく男性のフィールドであった時代、日本の女性たちは一体どこに、秘めた自己表現願望を流し込んだのだろうか。

と、エンドレスに考えてしまうこの話題。レヴィ・ストロースの『月の裏側』(世界的な文化人類学者による日本文化論)、買って以来本棚にしまってあるけれど。読んでみようという気持ちになりました。

今日はこのくらいで。

Love and Gratitude

Office Earthkeeper のサイトを新設しました。ぜひ覗いてください^^

https://www.earthkeeper.jp

「理由」は必ず訪れる

必ず「理由」がある。

その時、理由を知って解決したいと思っても、幾ら考えても答えは出なくて、もう忘れた頃、別のことに一生懸命に対処していたり、新しい感じ方考え方をするようになった時にふと急に、過去の出来事の意味、理由、エネルギー背景がするすると解けるように分かったりする。そういう時はだいたい、知ろうとするのではなく、「知ることになる」という感じだ。

ずっと前・・と言ってもデジカメが存在する範囲内の過去、プライベートな友人との旅行のエピソード。最初に予定していた数名(4〜5人)が次々と来れなくなるという不安になるような現象の後に、私ともう一人の友人だけで出かける事になり。旅は至って順調で何の問題もなく楽しく終えたのだけど、思えば最初の待ち合わせに、私がなぜかハプニング続きで大幅に遅れていたっけ。それだけ。

最近、古い写真データの整理を画面上でしていて、その旅の画像を見かけて、ほぼ無意識に友人の顔を「+」マークで拡大していた・・すると、穏やかで問題ない人柄の人だけど、その日はドヨンと黒く曇った目をしていた。当時、私は一緒に旅していても全く気づかず。親しい友人で普段から何の問題も起こさない人だったし、当時は目を見て人の状態を判断するなんていうことも、あまり意識的にはしていなかった。

それで・・なるほど、他の多くの友人たちが来れなくなったこと、当日私が現地に着くまで普段ないような公共の交通機関や道路のトラブルで大幅に遅れていたこと、の理由が分かった・・20年近くを経て。当日の様子、本人は至って普段通りに見えたけど、病弱な人ではあった。今はヒーラーになって長く、「闇の力」というのは何も、激しかったり分かり安く破壊的だとは限らないということを知るに至っている。

「闇」の影響が「ヤミ=病み」として体質に出ているということがある。障害、病弱などとして、その家系に出やすい。その人においては人間性や魂がこれまで培ってきた人格により闇は精神などには反映されず肉体の「病み」として出ている。けれども同じ闇であることに変わりなく、周囲には影響を落とす。

「自分はトラブルメーカーだ」とその友人がよく静かに呟いていたっけ。私は呑気なほうなので友人として余り気にしていなかったけど・・彼女いわく、自分はいつもただその場に居るのだけど、周囲の人々が何か調子が狂い、トラブルが生まれる。旅の当日、私はお気に入りのとても麗しい感じの女神のような水晶原石を連れていっていて、彼女に何故か持たせていた。それにより、

その日、そして事前に、発動していた他の友人たちを来れなくし、私もあやうく当日行けなくなりそうなトラブルの連続・・を引き起こしていた、その友人のエネルギー状態に、石のお陰で浄化が起こり、旅も平穏だったのかもしれない。あの石を持っていって良かった、と20年近く経た今、ようやく思えて理解できた。

人はみな、両面のエネルギーが行き交う世界に生まれ、生きている。

よく「光」と「闇」の二元で物事を考えがちだけど、本当は「愛」か「病み」か。と言い換えられるかもしれない。光とは目で見えるもの、視覚的なものだから、反対語として「闇」という漢字を当てるのだろう。けれどもヤマト語としては恐らくおなじ「やみ」であるはず。つまり「病み」であり、その自動詞が「病む」なのだろうと・・思っている。

愛とは、生み出すこと、潤し活力をあたえ育てること、恵むこと、癒し安心させること、そして成長させること、導くこと。

病み・あるいは闇とは、その反対。生み出されたもの・存在するものを弱らせること、止まること、止めること、恐れること、恐れさせること、成長させないこと。

闇・・というと何か恐ろしい感じがしてくるけれど、「病み」ならばあてはまる多くの「愛では無い」要素について、人は、今の時代の人間たち、人間社会は、考えていかなくてはいけない時が来ていると思う。

そして簡単に言ってしまえば、人が考えるべきことは「愛になっていくこと」だけ。

恐れず、「病み」に囚われず、純化の道をゆく。

自分の(ソウルの)どの部分が「病み」であるのかが、この現象界で、現実として人や事象として見えてくる。ある種のヴァーチャル体験である、この世界での人生。感情はそのまやかしであり、また同時に「病み」を自ら見つける手掛かりにもなる。

「光」と「闇」の二元ではなく、

「愛」と「病み」の相剋だと考えると、もつれた糸がほどけて、理解が進むことも多い。

Love and Grace
Amari

今年もありがとうございました。どうぞ、良いお年を!

6次元の教え

何日か前、朝起きた瞬間に別次元の学びを受け取っていた余韻・・・時々あるのだけど、その内容を自分が頭の中で確認している、という状態。

で、いつもそういう時は、内容を自分も理解出来ている。けれど「ああ、きっとこのまま三次元に意識がスライドすると忘れる・・」と感じて、枕元などにノートが置いてある時はすぐにメモする。同じように思いつつもこの日、鳴り響いているスマホをとりあえず止めることを優先。そして部屋の空間に立つ自分を認識した瞬間に、ああ・・・フェイドアウトしていく先刻までの記憶、感覚。

慌ててノートとペンとともに座ったものの、もう意識が三次元に切り替わってしまった。

きっと、自動書記で執筆したりしていると、こういった内容も自然と解凍されて出てくるものだけど(ガイアナなど読んでいると今だに「へえ〜そうなのか」と「勉強になる」ことが多い・笑)とりあえず遠ざかって行ってしまった。

前回の「白い聖堂15」で、脳の周辺に光のウェブを被せてもらっているような体感とヴィジョンがあったけれど、その施術に関係する「教え」であったと感じた。現実創造に関することで、以前から言っている「7次元的創造」のことなのだろうと。5次元的現実創造は比較的簡単で、ヒーリングと関わりが深い。癒しや解放が起きて「その部分」(自由に創造できない、つまり「ダメ」の刻印のある部分)の情報が消えていくと、感情や思考や意識がポジティブになっていく。

体の中にある封印やライトボディの(主に1〜3までの層の)ブロック要素とつながる情報(カルマ・家系などから受け取っている束縛の情報)から自由になっていくので、現実も明るい建設的なものになっていく。これは比較的簡単に、人々に訪れる変化で、ヒーリングを受けたりレイキを地道に続けていると、多くの人が実感されることと思う。人として生きやすくなる、という変化。

それとはまた違う階層での7次元的創造。見えたヴィジョンや起きた瞬間に思考していた言葉は思い浮かぶけれど、三次元の自分の頭では理解出来ない。けれどもまあ、潜在意識やシステムにはしっかり入ったのだろうから、心配はなかろう、と思っていると、その日たまたま立ち寄った書店でバシっと目があった一冊の新刊。普通、新刊書コーナーはあまり見ないで、奥のほうへ・・人文系の研究書のほうへ直行してしまうのだけど、昨日書いたnoteの記事のような事情で、何となく足を止めた。聞き覚えのある著者の一冊が目に留まって。

紹介欄を見てみると、既に自分が2冊持っている量子物理学博士(海外)の新著だった。それが高次からのサイン、ヒントのように感じて、7次元創造についての6次元からの教えは、やはり量子物理学的な書籍ならば何らかの理解が得られるのかも、と思って更に安心した。まずは買ったはいいけれどパラパラしか見ていない、2冊を読んでみよう。

全くの素人で癒しの世界を知ったばかりの私が初めて受けたセッション(2005年)の、ワーカーさんに、不思議なご縁で再び繋がって、2度目、8年振りのセッションを受けた時・・もう10年くらい前になるか・・

「ここまでやっていれば、何でも出来そうだよ」と言って頂いた。

その時、体に触れながら、フィジカルおよびライトボディのエネルギーを見てもらっている時で、システムが「ここまで出来ていれば」というニュアンスに受け取った。

恐らくあれは、5次元的創造のことだったんだろうなと思う。

6次元の教えは諸刃の剣で、5次元の(内界、ハイラーキーのような)人々が取り扱うもののようにも思う。3次元で生きるヒトである私たちが7次元創造を起こせる訳ではなく、5次元の自分自身(ハイヤーセルフ、ハイヤーシステム)と共同作業の結果、果たせるものなのだろうと感じる。アリス・ベイリーに言う「第三イニシエーション」とも関係していそうだ。つまり人類愛と、地球プロジェクト(神智学でいう「計画」)の一員という意識が土台として不可欠なのだろう、と。

Love and Grace

方舟航海もあと二年。

今日は何気なく「乙女座」の話をしていたら、そう言えば昨日23日からは乙女座の時節なのか・・

私は月星座が乙女座で。そして乙女座には「研究・勉強好きな修道女」のイメージがある。男性であっても、分野が違っても・・たとえば「探求熱心な僧侶」でもいいと思う。つまり純粋性と、探究心、そして奉仕が一緒になっているイメージ。月の星座は過去生だとも言うけれど、確かにとてもそんな気はする。

ずっと以前、ネット上で知り合った占星術系の方が、「女性の場合は月との関係、陰のエネルギーの作用から、他者から見ると月の星座の印象で見られるのではないか」という仮説を聞いた・・そしてこれもきっとそうだ、と思っている。周囲の人、身内も含めて、少し距離のある「他者」から受ける印象は月の星座的な評価で、自分の自己イメージとのギャップがあるよう。

他者から見える、というだけでなく、やっぱり自分の中でも太陽、月、に限らず。さまざまな要素があると思う。それをいかに情報を収集しながら、統合していくか。今は特にそれが重要な時だと感じる。アルガンザのグループでは、アリス・ベイリー著書が伝える2025年、第四光線の顕現・・に、注目し、「時代の変わり目」という意味で意識を置いている。

けれども、私の感覚では、新しい時代=よりスピリチュアルが高まる ものだとずっと思って来たものの、なにかこう、まったりとした怠惰な空気感で、今まで立てることができていた知性のアンテナも、立てにくくなっているような空気感を感じる。街を覆うエネルギー、集合意識に漂う雰囲気も。

それで、今朝は一般の人々が、地球の変化や気候変動などにどれほど危機感や意識を向けているのか、を、人に聞いていたりした。私の周囲、日々顔を合わせる人々はもちろん一般の人々ではあるけれど、スピか、半スピ・・少なくとも私の話を聞き慣れていて普通に聞いてくれる人々だから。

それと、どうも気になっているのが、目が「どよん」とか「とろん」としている人が多い。今は夏の暑さもあるけど、それだけでではなく。ここ数年レベルで。

・・と、「第四光線」のイメージがどうもまだうまく掴めないので、改めて調べてみた。色は黄色だそうだ。なるほど。世界がなんとなく黄色に包まれている感じはしている。

そして日本は国単位の「パーソナリティ光線」が、第四光線・・なのかな? なるほど。日本は黄色だ、確かに。

テーマは、調和、統合・・・ けれども、その為に厳しめの修行や浄化が起きるというのを踏まえると、これまでのスピリチュアルな「常識」もちょっと脇において、感じて考えていかねばと今更に思う。

う〜ん。改めて調べた結果、やっぱりよく分からなくなってしまった。今漂っている雰囲気も含めて。

でも思うのは、自分自身は2018年になぜか「コロナ」的なテーマを超えていて、10年来風邪も引いていなかったのに、呼吸器系にこじらせる風邪を一年のうち3回も引いて長引き(その後、2019年以後は普段の自分通りまったく風邪も引いていない)、2019~2021年も「試練の時」というという感じだったけど、2022年から着々と、「なにか」から抜けつつある。石井ゆかりさんの本から「方舟の七年」の話を前に書いたけれど、


2018年5月から始まったというそのサイクル、(もしU字型の変容期をイメージするならば)真ん中の谷間を抜けるのは2022年の春、というイメージ。私自身の体感としては、確かにそこで「白い聖堂」が始まり、前半期(2018年明け早々からの混乱期)に比べれば、その頃(2022年春)に現象化していた問題たちは解決していって、確かに次の時代に向けてというテーマが自分の中に今は自然にある。

光線の到来、顕現といってもそれに対する反応は恐らくかなり個人差がある。社会全体などはきっと、顕現すると言われている25年以後、具体的な影響を受けていくのだろうけれども、私のような仕事をしていると恐らく「その後」の時代感覚のようなものが今、(変容期を経て)自分の中で動き出しているように感じる。統合、調和がやはり目下のテーマだ。

「黄色」という色で表現されたりイメージされてきた、(戦隊モノの黄色担当も・笑)「欲」「自我(エゴ」「怠惰」など、人類をダメにしてきたネガティブなほうの要素を、人類が克服していく時代、と、捉えたらいいのかな。ということは、黄色の良いイメージは、ポジティブさ、陽気さ、目標意識、という感じ。

もっと言えば、人類のエゴセルフそのものが、欲や利己を乗り越えていかなくてはいけない時代。そのテストがうまくいかなかったら、人類は滅びる。滅ぼされる、くらいの時代がこれから来るのだろう。「第四光線の顕現」はつまり、シャンバラからのテストだ。甘やかせるために光線を提供するわけではもちろんなく。

(2024年現在また少し違った見解ですが、折々で改めて書いていきます)

神智学の、「地球全体の歴史を見る、感じる」視点は、やはり必要だ。その層で考えていないと、人間とはなぜ存在するか、人の歴史や社会とはなにか、その中で「今」の位置付けなどは、到底、想像ができないだろう。その視点で物事を日常的に考えている、各分野のアカデミズムの先生方、などの考えや著作に触れているから、「こんな呑気な感じでいいの?」と、感じてしまう。(←けれどいつの世も多分、一般社会とはそんな風なのだろうとも思う。だから、突然「その時」が来てしまう。本当は全然、突然なんかではない。)それが(上に書いた)今朝の会話にも通じる。

とにかくは、発信しつづけることだ。そして、一緒に発信してくれる仲間たちを、作っていくこと。

Love and Grace

ロスト・エモーション

 

縄文土器と縄文の森

リドリー・スコット(監督)の名前につられるように、映画『ロストエモーション』を見た。核戦争で地球が壊滅状態になったあとの、生存者たちによるハイテク管理社会。遺伝子操作で感情を持たない新たな人類が生きていて、感情を「発症」すると病気として治療を受けるという。重症になれば隔離されて安楽死、という何とも悲しい設定。

リドリー・スコット監督は、以前日本の大林宣彦監督もそうであったように、監督その人の雰囲気や人柄が好きでファンになり、作品も見るというシリーズで。今回は制作総指揮で、プロデューサーになるのかな。監督は別の監督で、原作も手掛けているよう。独特の演出は未来のハイテク管理社会の機械的な雰囲気を出しているのだろうけど、青白く、影の多い暗い映像、静かすぎる、そしてどこか切なすぎる空気感に負けて、長時間見られず。

数回に分けてようやく見終えたところ。こういう見ていて切な苦しい映画はきっと、最後まで見ると救われるのかなという予感もしていた通り、まずまず爽やか。でもやっぱり切ない終盤。

日頃、神智学やヨーガ思想から、「感情を収めて」と繰り返し言っているので、常々、心配していることでもある。誤解されがちな事なので。

けれど結論として、この映画の予告編の「ユートピア?それともディストピア?」という問いかけは、当然、ディストピアでしょうと言いたい。もちろん・・

ヨーガの実践者、先生方なども、アリス・ベイリーの代弁者の方々もそうだろうと思う。感情を超えていくプロセスこそが、人間の成長、人類や社会の進化と平和に向かっていくために大事なことなので。感情をバッサリと切り落としたら、ヒトの中の本能のような部分が、支障を来たすに違いない。遺伝子操作、人間を作った「神々」がこれをいつか行ったとしても、人間それ自体が行うこと、引いてはそのようなテクノロジーの使い方をしてしまう事自体、きっと道を外れてしまうのだろうと・・個人的には思ふ。

若いころ、自分の中の苦しみや、収集のつかない部分の要因を探っていった結果として、「感情を超越できるなら生きているうちにそうなりたい」と呟いた私に、友人がやや怒りまじりに反論して来た。「感情が無かったら人間じゃないでしょう」と。

更には、同僚の女子たちとの恋愛観トークで「人間として、ではなく魂として自分を必要とする人」と答えると「人間としてではなくって何よ」と一人が怒りだした(笑)。

また、フランス人的な冷静な客観的語りで相手が傷つかないよう別れ話などしていると相手は「血は流れているのか、植物人間じゃないの?」みたいなことを言って来たっけ(笑)。

それらの全てが「誤解」なんだけど、伝わらないからいつも諦めてしまう。人間性として人以上に人情的だったりするところ、だからこその「感情を超えたい」という発言も、相手を極力傷つけないための客観的な態度も、それぞれ聞く人々のエゴセルフのフィルターを介すと、その人の思い通りにならなければ『冷たい人』になってしまう。

詳しくは、先日紹介したエイミー・アダムス関連の映画のメインブログの記事(「アライバル」で大泣きした、という部分)と繋げて読んでいただくと、ご理解いただけるかも?

そう、それから、スクールをやっていた時にも生徒さんたちの反応も時折、怒りのようなものが垣間見えるのが、やはり神智学の感情についての部分、それから闇、ダークサイドの話。なぜか怒りを感じて反発したくなる様子を何度か見かけた。人間って、というよりエゴセルフって、そういう風に出来ている。進化と逆行するエネルギー、プログラムが、仕掛けられているからだ。。

それを全て味わい尽くして、時に許して、解き放って、その仕組みに人生をコントロールされないように、カルマ(常に感情が関係)を乗り越えていく。感情についても、その他、エゴセルフの「魂の内部に統合されたりしたくない」という声についても同じ。

感情の揺らぎや反応は、そこ、その部分にこそ、自分のカルマや問題点の根っこがあるよと教えるサインでもある。だから急にブツっと消されたら、それこそ神智学的な神なる世界(人類の親)の進化プログラムは元もこもなくなってしまう。可愛い子には旅をさせよ、と、自由意志を許して見守っている視点、ガイアという魂たちの成長プロジェクトの計画が、為されなくなる。

この映画については、原作者でもある監督は、無神論者であるのかな? 人間の背後や周辺には、人間しか居ない、という思想でないと、こういうストーリーは生まれないかも。。

ネイティブアメリカン、ケルト、縄文・・つまり世界中の石器時代までの人々は、循環する生命の仕組みとその背後の力を知っていたし、そこと自分たちとの間にはしっかりと一体感があった。やはりその感覚を思い出していく他、ないのではないかと思う。「仏教では」「インド思想では」「神智学では」と切り出すと、宗教だと言われて(また誤解されて)しまいそうだから・・。

アニミズム(自然崇拝)と、仏教(インド思想・輪廻転生する宇宙観=これはきっと正しい)的感性を、ナチュラルに合わせ持っている日本人はやはり重要な立場にある。

今日もまたひとつ、あるいはそれ以上、地球の未来のためになることをしよう。毎日必ず、そのことを考えよう。そして何か行動しよう。小さなことでも。

Love and Grace

Amari

純粋な青と黄色の世界 –マティス、天空文明 —

先日、Instagram に書いた上野行きの日、私が「かはく」に行っている間、連れ合いは東京都美術館の「マティス展」へ。かなり行きたかったらしく、そして日本人はマティス好きそうと思っていたけど、やはり人気のよう。けっこう混雑していたし、もうすぐ終わりということで尚更混み合っている様子。
翌日また何気なく開いたNHKオンデで、サムネイルで特集を発見。NHKさんでも特番を放送していたから、尚更に混み合っていたのかな。
アンリ・マティスの晩年の最後の作品、南仏ヴァンセの「ロザリオ礼拝堂」の設計から壁画や備品すべての制作&プロデュース。(興味ある方はぜひNHK等でご覧ください)なぜかこれになった、と言ってお土産をもらったグッズ二つがその礼拝堂のモチーフだった。右の丸いマグネットは「聖母子」だそうで・・独特な表現だけど、番組を見たりすると、マティスの人生の流れや人柄も分かり、芸術表現の変遷からしてもなるほど、と思える。

私は美術館もよく行くけれどなぜ、今回はマティスを見なかったかというと、以前秘書を務めていた医学博士の先生が、若い頃に「画家になるか医者あるいは医学の研究者になるか」と迷ったくらいだったという方で、結果、医学の研究者になられたけれど当時もずっと絵を趣味とされていて、会を主催したりもしていて。マティスがお好きだった、確かに絵のタッチがよく似ている・・と過去にインプットしていて。
自分の人生がすっかり、スピリチュアルになってしまって以来、お便りを頂いてもお返し出来ずに日々が過ぎるまま他界されたことに、申し訳なさをまだ感じているのか、今回マティスの絵に囲まれることに少し躊躇った。そう、それだけではなく。そのボスの絵の関係で拾われて?来て私の仕事を手伝っていた、絵描きの女の子(私よりひとつ年下)が、当時24歳で亡くなったという悲しい記憶もあり。彼女の絵はマティスというよりゴッホのようなタッチだったけど。
もう、だいぶ前に癒せたはずの悲しみや申し訳無さも、まだこうして行動に影響することがあるのだな・・ と実感しながら、自分は家族連れのごった返す「かはく」へ足を向けたのだ。マティスに行ったほうが良かったかな。。と、翌日 NHKを見ながら思っていた。笑

(興味ある方は「ロザリオ礼拝堂」で検索してぜひ写真をご覧ください)
私はNHKの番組でその映像を見て、ステンドグラスに差す光に癒されながら、鮮やかな青とレモンイエローは(ジェネシスの)「天空文明だな」と思って。また、色々な絵でよく使われている独特の憂いのある水色は、ヒーリング中に時折見かける光で、ブルーレースアゲートのような色。いつだったか調べて敢えていうなら「スプリングブルー」だなと。
人が何となく、あるいは自分なりに研究分析して、好む色、好んで選ぶ、あるいは好んで表現に使用する色などは、魂の原郷の記憶、源の記憶、から来るのではないかなと改めて思う。

shop やtwitter でおしらせを出したように noteにもダイヤリーを書く場所を作りました。
https://note.com/office_arganza/

また覗いて下さい。
ではでは。今日はこのくらいで。
Love and Grace

差別を無くすための差別?

多様性を実現するというのは、最近よくあるメッセージ。実際にそのための活動や発信は常々行われていて、法律の改正などにも反映されている。

私は決して「保守的」な人間のつもりは無い。物心ついた時から・・いや、思春期あたりから、多様性を許さない社会の風潮などに反感や嫌悪感を感じて、若い頃はマイノリティ的な立場の人々を取り上げるエピソードを、小説に書いたりもしていた。

けれど、ここ最近何か引っかかる、といつも感じるのが、ハリウッド映画やアメリカのドラマで実際のパーセンテージはそんなんじゃないでしょう!というくらいに、多様性を強調するような設定や展開を多く見かけて、何事も「やる時は徹底的に」という姿勢なのかな.. とまあ受け止めていた。

ディスニーの実写版「リトルマーメイド」のアリエルに、特に中国社会が反発を抱いたと報じられた件も記憶に新しく。個人的には人魚姫が黒い肌であっても違和感は無い… けれど、先日たまたま知った、ブロードウェイで歴史的終幕となった名作『オペラ座の怪人』(大好きでブロードウェイとロンドンで計3度観た)のクリスティーヌが、黒人の女優さんだった事には少し驚いてしまって、設定がそもそもフランス人では無かったか? 。。と。少し不自然さは感じてしまった。

本当の平等ってなんだろう。

ディズニー社は、「Reimagine Tomorrow」のスローガンのもと、「公平に代表されていない集団」から、全体の半数のキャストを選ぶと発表しているそうだ。それから最近ニュースで見かけたアメリカの最高裁判所が、大学におけるマイノリティーの学生優遇措置は「憲法違反」であると判決を下したという話。

1960年代から、黒人学生は入学選考において優遇されるという措置が取られて来たらしい。こういう件を「アファーマティブアクション(差別是正措置)」と呼ぶらしい。・・何というか、とても欧米的な方法だなと感じた。

同じ実力の人が差別されずに同じ扱いを受ける・・差別撤廃は、そのくらいでいいのではと考えてしまう。そういう意見も方々、あるらしい。けれどそんな生ぬるさでは、社会のバランスは変えられないのだ・・ということかもしれない。

ディズニーのアニメで好きなのは「ヘラクレス」や「ポカホンタス」「ノートルダムの鐘」など。ギリシャ人のヘラクレスをアジア人が、ネイティブアメリカンのポカホンタスを白人が、ジプシーであるノートルダムのヒロイン・エスメラルダをそうは見えない俳優さんが演じていたら、やはり気になってしまうだろう。芸術・娯楽作品にまで、「差別是正措置」を導入しなくてはならないのだろうか、と。原作の設定を変えるようだと寧ろ不自然さが生まれるし、

あまり行きすぎると、反発も出てくる。そういう時の反動って憎しみ、八つ当たりも混じってくるから、怖い気もする。

人魚姫、アリエルにもともとの人種的な設定は無いだろうから、黒人の女優さんでも全然良いと想う。今回、こういった問題に終始慣れている欧米ではなく、中国の人々が強く反発を表明したという点も、理解・想像出来る。

グローバリズムの時代。そのうちに人種などなくなるくらい、地球人はミックスされていくのだろうか。それはそれでいいとも想う。しかし、多様性が普及することで、結局、文化や民族という点では、多様性を失うのかもしれない。そんなパラドックスも感じる。差別はないけれど、それぞれが、変に力むこともなく、ごく普通に、自然に、共存している。・・それでいいと思う。

社会というのは、感情が常に伴うので、中々難しいものだ。誰かの「気持ち」を気に掛けるあまり、他の誰かが蔑ろになったり、バランスを取ろうと優遇することで別のどこかに歪みが出来たり。神智学が言うように、感情という問題をうまく統御出来るようになっていくことが、世界をよくしていく為の「まずは自分から」の第一歩だろう。

Love and Grace

学びは進化。澱まずに変化しつづけること。

久しぶりに小蛇(白小蛇、またはミニ白龍)が左に来ていた。いつからだろう?今朝か、昨晩からかな。

「イワナガ姫の遣い」というほど攻撃性はない。その場合だと右の内蔵系に来るけど、左。怒りではなく、ひたすら悲しそう。でも脾臓にしっかりと繋がれていたから、バンパイアの一種であることは確か・・
人間だって、悲観的な人が側にいたら、そしてずっと泣き言を言い続けていたら、自分の波動も下がるし不快なもの。避けられるならば避けたい。

それと同じで、ただペタっという感触がエーテル体にあるだけであっても、その悲しそうな、そして頼ってくるような響きには心地よく無さを感じるから、外さずにはいられない。ワークし始めると実際に、触手のようなものが脾臓にしっかり繋がっている。。右の一部もズキっとした。

悲しいのかもしれないけど、人を頼ってはダメ。人から吸い取ってはダメ。解放して貰いなさい、貴方を「飼っている」人の悲しみの感情から。・・瞑想の中、レコンその他で外す。

考えてみれば、澱んだ水からこういった小さな精霊のようなモノノケが生み出されて、それをマジカルに取り扱うタイプの三次元や四次元の存在が居て。水の澱み=「エヴォリューション」テキストに書いている「腐」にも通じる。セラフィムやアンドロ存在(自然界の精霊)たちが、ネガティブな物質界の場や術に取り込まれ、生まれたエネルギー。

そう考えると、イワナガヒメ、リリスなども「もともとはセラフやアンドロ(精霊)たち」とも言えるし、人間界においても、腐の感情や行動や現実もあれば、それらとは無縁の感情や行動や現実もある。

スピリチュアルも、それ以外の分野でも、「難しいことは考えず言われた通りにしていれば大丈夫」ということは無い。特にスピリチュアル。
唱えていれば大丈夫、救われますよ、というタイプの鎌倉仏教が誕生した時、日本は飢饉やら武士の台頭と貴族の没落、疫病や天災など、色々がことが起こり、この世の終わりの雰囲気だった。パニックになる民衆を落ち着かせるために、彼らには学が無いため、色々な周波の始祖たちが念仏や題目を「発明」して広めた。
それまでは、飛鳥時代に仏教が伝来して以来、いわゆるインド哲学のひとつとして、学問であり、お坊さんたちが研究し専門家として実践、国家に役立てるためのものだった。

けれど今の私たち、無学な訳ではない。これだけ情報も交錯し、複雑化した社会に生きる。
スピリチュアル、メタフィジカルに(鎌倉時代以後ずっと)定着していた「理論はいらない」「信じていれば大丈夫」という風潮が、ある意味、宗教界などに多くの問題を生じさせて、ニューエイジ系の「スピ」も同じくだ。
考えなくてもいい、という空気は、思考や疑問や変化という風を知らず、「腐」のエネルギーが温存されやすい。

日本は水の国であるがゆえの、ネガティブな側面、課題、とも言える。
やっぱり、勉強って大事。学ぶことは、変化を受け入れること。学んで成長することで、常に変化、進化していける。
何事も。つくづくそう思う。

Love and Grace

未来の思想と生殖

一昨日、19日の夕空。壮大な空模様の、ほんの一部。


2022年公開の映画『プロジェクト・ユリシーズ』を観た。制作がドイツ&スイスの合作という、ちょっと渋い背景。けれどハリウッド映画という感じの仕上がり。


近未来の地球、環境汚染等々で、ヒトが住めなくなる。富裕層など脱出可能な人々はケプラー209という惑星に移住。僅か二世代で生殖機能が働くなり、ヒト種族を守るために地球への「帰還」計画がスタート。選ばれた宇宙飛行士が派遣される。その頃地球は、一面の泥の海。そして時折水の満ち引きで洪水が起こる。地球には「生存者」たちがいて、泥に塗れながら命を繋いでいた。彼らは帰還計画の「ケプラー人」から「泥の民(the Muds)と呼ばれる。
そしてまあ色々なことが起こり、1時間半ちょっとの映画の中で、一応は決着、解決をみる。これからの未来・・ケプラー系地球人たちが帰還し、「泥の民」と共存していくのだろうか、という微かな希望が差したところで終わる。
 
深読み&ジェネシス神話と絡めて考える、シリーズ。
まずはタイトル。20世紀初めのアイルランドの作家ジョイスの名作小説「ユリシーズ」を連想させる(きっとそうなんだろう)。ユリシーズはギリシャの英雄叙事詩(ホメロス作と伝わる)『オデュッセイア』(オデュッセウスの歌という意味)のラテン発音が更に変化し英語化したもの、のよう。つまりオデュッセウスの長い放浪の旅からの故郷への帰還、を表現していると思われる。


幾つか印象的だった点。前に日記に書いた「インターステラー」という映画と似ている部分がある。特に、宇宙飛行士の父、と、その娘によって人類をめぐるプロジェクトがうまく運ぶという。どこか神話的な設定。息子ではなく娘である、という点が、時代を反映しているのかも。プラス、父と娘という設定に何か特別なロマンのようなものを、特に欧米の人々が(深層心理的に?)持っているのかもしれない。


どちらの映画も、あとあとの人類の歴史の中で、父と娘が英雄として名を刻まれるような功績。それが目立った形ではなく、純粋な父と娘が通い合わせる愛によって成り立っているという感じ。実際に、欧米のもろもろの著名人など、死後に娘や孫娘がその業績を残すことに貢献したり、確かにそのイメージはあるかも。欧米の娘たちは、立派な父を尊敬し、偉業を継ごうとするという何か原型的な感覚、感情のパターンがあるのかもしれない。
又は、映画の作者や監督などの男性陣?が、自分の仕事を「愛しい娘が理解し受け継いでくれたら」というある種の理想像があることの反映と、取れるかもしれない。
 
それと、ちょっと引っかかったこと。原作は読んでいないから分からないけど、明らかな悪役の男性たちや、エキストラレベルの人々以外に、目立ったそれも善良な人々の中で唯一の犠牲の死が、アジア系の女性で。物語の中でも大事な、また描かれていない未来においても重要な立ち位置となるだろう少年の母親だし、主人公の宇宙飛行士(娘)の父親が、現地で愛した「泥の民」の女性、だと思われる女性が、とてもあっさりとそれも気の毒な形で犠牲になっている。


見ていてその辺り、ミスサイゴンを思い出させた。仕方ないとも思うけど(ホントはそれじゃダメなんだろうけど)アジア人女性=現地の妻=(用が済んだ時点で)犠牲 をさらりと、やはり原型的なのか、深層心理なのか、描いている点に、アジア人女性としては引っかかるものを感じた。けど、仕方ない、と感じる自分も居てそれはそれで問題だとも。単なる人種差別的な無意識?の心理だとしても、やはりそうさせてしまう、エネルギーや意識のシステム的な問題を、アジアの、日本に居ると感じていることも確かだから・・
 
単純に劣っている、という意味ではない。それぞれ、優れている点、ダメな点あるわけで、人種に優劣があってはいけない。けれど、何というか・・「犠牲が似合ってしまう」という原型的な空気が、アジア人の、特に女性にはある。これが最近、アルガンザのジェネシス神話で分かって来たことと重なる。つまりそれなりの理由があると感じてしまう。だから仕方ないというのではなく、変わって行かなくては、と思う。


一昔前は「妻にするなら日本人、愛人はフランス人、家はイギリス、車はドイツ、シェフは中国、」みたいな偏見の譬え話があったけど、一昔前の男性陣が「妻にするなら」なぜ「日本女性」が「良い」と考えたのか・・・よくよく、感じてみたほうがいい。従順だということだよね・・・そして、いざとなったら、または用事がなくなったら、ミスサイゴン(日本ではないけど)のような犠牲で消えていく。悲しいネ、忘れないよ、ありがとう・・・みたいな原型ストーリーか。
 
そして、更に深読み。ケプラー209に移って僅か二世代で生殖できなくなるという部分。シュタイナーに学び、それをヒントにしてジェネシス神話に取り入れた「月」という存在の地球への影響から考えると、地球の生殖を支配しているのは月、なので、離れたら当然、機能しなくなると私は思った。けれどそこで頑張って、人類を生み出した神なる次元がヒト種族を見捨てていなければ、新しい生殖システムまたは手段が、生まれていくのではないかというのが、私の考え。テクノロジーで何とかするのかもしれない。それも含めて。


主人公の宇宙飛行士(娘のほう)が地球に来て、泥の世界で奮闘していると程なくして、月経が復旧したというシーンがあった。彼女の足に経血が流れてくる、という場面。・・・この映画の価値観においては、それは良いこと、未来への希望の証なのかもしれない・・・けれど、個人的にはこの生殖システムはそれほど(宇宙基準で)良いものとは思えないから、複雑に感じた。


聖書のイブへの呪いのように、月のサイクル28日でめぐる(そんなに子供を次々と産むわけではないのに)この忙しい生殖システム、男性側もだけど、かなり動物的、原始的なあり方で翻弄され、束縛され、体も気分もアップダウンし、そこにエネルギーを取られて、負担も多いから毎日3食食べなくてはならず、そのために日々働かなくてはならない、という、人類を束縛する最大の「呪い」のように思える。
 
これが、一年に一度、いや、数年に一度、「子供を持ちたい」と意図した夫婦が、「神」に申し出ると生殖機能が働き、子供を授かる・・みたいな仕組みであればどれほど、効率よく、合理的で、人類はもっと心穏やかに、思考を洗練させ、意味のある創造にエネルギーと時間を費やすことが出来るだろうか、、と、若い頃からずっと思って来た・・(笑)そのような星から私の魂は来たのかもしれない。地球上の生殖、性というものを理解するのにかなり混乱していた。


同時に、今この地球で生きていても、人類が月よりも太陽またはもっと別の力にエネルギー的に結ばれると、生殖システムは変わっていくだろうとも、思っている。


映画では、ケプラー人は「for the many」、己を捨てて、感情を抑えよ、という思想を持っている。字幕では for the many は「人類のため」と訳されていた。そこは、ある意味進化している姿であるが、もし原作が利己的(動物的)、感情的な部分も含めて「帰還」すべしという作者の意図が込められているのだとしたら、個人的には意見が合わないなあと思いながら見終わった。
 
for the many はもちろん、大事なことであるし、そのためには感情や利己を抑えるというのも自然のことわり。けれど、それにもっと早く気づいて、地球を捨てて去る前に、母なる星の環境破壊や人類の乱れを止めることが出来れば良かった・・・という、教訓として、見れたら良いのかもしれない。とにかく何しろ、自分たちのせいで壊れそうな地球を見捨てて生き延びることを考えるのではなく、何とかしようと奮闘すべきではないかと。女性性の中にあるハートの愛(自然界と通じる)のようなものは、きっとそう感じるものだろう。
 
Love and Grace