不可視の相互作用とヒトをめぐる外部の力

 

ウリエルとピュアレイのブレスたち。以前 ショップの Instagram に載せた画像ですが、なぜかウリエルの気分だったので、再び。

Face Book 7/27 に書いた文章、あまりに長いのでこちらの記事にすることにしました。前回と同じくですね(笑)、そのため文体がFaceBook仕様で「ですます」調に。場所が広くなると気持ちが大きくなって、編集・追記により文章さらに大分長くなっています。Face Bookで一読いただいた方も、ぜひお読み下さい。

・・・・・・

(Face Book に書いた「とある珍しい光景」に遭遇した後の、続きをこちらに書きます)

帰路の途中から、左半身の気配がおかしくて、帰路のなか色々ワークしましたが外れないうちに帰宅。何となく切り替えて過ごして普通に就寝したら、夜にうなされてしまいました。カルナのシンボルや、魔除けの究呪を唱えているうちにうつらうつら。すると、透明で黄色がかった人型のエーテルのようなものが、左側から私の体に入って来ようとするのを感じて、瞬間でセイキムのマントラを唱えると同時に、意識でそれを吹っ飛ばした・・

こういう体験、全く無い訳ではなかったのですが久しぶりだったので焦りました。少し違うけれど似た様な事は、まだヒーリング初心者だった頃にオーラソーマのボトルを初めて「体に塗って」みた夜、ゼリー様の弾力のあるエネルギーが入って来ようとするのを感じて(大天使ボトルだったのですが)怖くなり、それ以後、ボトルは観賞するのみで、体に塗らなくなりました。また、10年くらい前にモルダバイトの原石を2つ手にしたまま寝てみたら、同じような体感があって、やはり「怖い」と感じてしまった。

けれど、いずれもエネルギーの響きのようなものがオーラ層に作用して、さらに肉体に最も近いエーテル体に降りて来た時、人より少し敏感な私はそれを感知して飛び起きてしまったのだろうと、解釈しています。入って来ようとしたのはバイブレーション、振動のようなものだったので、今思えば。けれど今回のようなケースは、明らかにヒトの形をしていて、仰天しました。故に、ヒト、(のエネルギー)だったのだろうと思います。

アストラル体のフォースが強い人は、感情を強く出力した時に、敏感な相手だとズシっとその粒子の到来を感じ取りますし、感情エネルギーは肉体で影響される事が多い。重さを感じる、体調を崩す(来ている感情に攻撃性がある場合)、という形で。チャクラの体の裏側の力(回転)が弱いと人の感情を自分に入れてしまって、自分の感情と錯覚してしまったり。

この、アストラルにパワーが強めに入っている人は、本人が深く眠っている時にアストラル体が旅に出てしまい、執着している相手や、強い感情を持っていたり気にかかったりしている相手のところへ行ってしまう。そう、源氏の六条御息所です。私のような仕事人だと、相手の響きも感じるので包み込まれて不快さで目を覚ますと、「自分がまるごと相手の姿になっていた(起きた瞬間そのように見えた)」(!)という事もありました。恐る恐る、翌日ご本人にその時間帯に何してたかと聞いたところ、「気を失ったように寝ていた」という返事。やはり六条御息所です。

本当に旅をしてしまう人って居て、おそらく自分でも異変に気付いたりもすることと思います。人を念で動かしてしまう、というタイプの人は要注意。どうしたらいいのでしょう?赤い力が強い、という表現をアルガンザではします。青い力で中和、鎮める、メンタル体にエネルギーが移行していくように、瞑想などすると良いと思うのですが、こういうタイプの方々は瞑想が苦手で、波動が高まるとすぐに寝てしまうという特徴も共通してあります。この体質を努力して変えていった方が良いでしょう。アストラルがお散歩する可能性が高い体質です。

逆に、青い力、システム上方のパワーが強い人だと上のチャクラ、サードアイから思考波のようなものが相手のフィールドに電波的に性能良く飛んで行くので、相手が無意識に受信して人それぞれで何らかの反応をする(相手の体質、状態、組み合わせによって起きることは変わる)。浄化のされ具合と言ったらいいか、人間同士のアストラル(動物的)やメンタル(電気・電波的)物質のやりとりというのは、どれだけアストラル体やメンタル体(もちろんそれよりも下位にある肉体、エーテル体含めて)が浄化され、軽やかになっているかどうかで、起きることは変わってくる。

ただ、いずれにせよ、言葉や対面では現れないエネルギーとしての「やりとり」は常に、繰り広げられている訳なのです。

こういう仕事(エナジーワーカー)をしてくると、その時々で何が起きているかを分析しつつ直観しますが、間違いがあってはいけないので、最初は控えめに取り扱い、繰り返し、繰り返し、似たような事が起きると、腰を据えて分析して何らかの結論を出さなくては、という段階にギアチェンジします。

今回のことも、相当な複数回の体験を繰り返して来た後の、今の見解なのです・・・(と、何となく前置き、説明を加えた上で、当日の話に戻ります)

コレクションの中でも大きめのトパーズと一緒に寝ていたのも、良かったようです。侵入は防げたものの、翌日は終日、左半身の異変がつづき、また思考パターンのようなものが明らかにおかしい。これまでの経験で色々とわかっているので、エナジーワークで対処して1日で影響は外れましたが・・このように、エネルギーの不穏な事象が起きると、必ず、思考をハッキングされるような自覚がいつもあります。こういったこと、気付かずに影響されている人々が、きっと多いのではないかとも、思っています。

実際に起きたこととの関連性はわかりませんが、何かある時というのは、同時多発でネットワークを通じて、同じような響きを持つ人や事象を動かして来たりもします。全く自覚のない普通の人が、そのネットワークの一端になることもあります。

以前、電車で隣に来た人を「なんかイヤだな」と思ったら、その人が遠慮する様子もなく激しい咳を怪しい程していて、滅多に風邪など引かない私がひどい風邪をひいたことがありました。その頃サロンで起きていた事や不穏な事象が、呼吸器系に故障を起こす傾向のあるエネルギーであることが、今では分かる。例えばそんな具合に。

ネガティビティの系統はいくつかあり、日によって、同じ系統のものばかり見かけたり出くわしたり感じたりもします。

今回の、「人型をした透明な黄色いエネルギー体」は等身大のサイズだったので、アルガンザでいう「黄色系の宇宙エネルギー」の、大きなものと繋がって動かされてしまっているヒト・・の、アストラル体がやって来た、という解釈をしました。「大きなもの」とは、去年ようやく明確に知ったもので、本当にビルごと包まれるくらいに感じられる巨大なエネルギーです。ジェネシスヒーリングの概念に導入していますが、今は割愛します。。上記の人型エーテルが来るよりも少し前、その巨大なエネルギーも、やや久しぶりに降りて来た日がありました。明らかに違うものであることはもう既に、繰り返しの体験から分かっています。

稀ですが、神社に行くとその大きいエネルギーが祀られていることもあり、日本は縁が強いよう。ある意味で「愛」のように感じるのですが、(言いなりにならず)先方の目的から外れると、一転してネガティビティに変わる(ダークな力になる)ので、やはり繋がってしまっては、危険だなと思います。同じところをずっと、のどかに回っているようなあり方をしている間は、その力は母のように包み込んで、色々よくしてくれるのです。ただ本当に、ずっと同じところを回ります・・・サロンをやりながら見て来た多くの事例から、時間をかけて知った事でした。

「母」のフトコロで成長せずに「子供」のままで目覚めずに居ることを望む原型エネルギーで、人類の中にもそれは遺伝子として既に入っていて、人によって濃淡があり、濃い目の人はチャネルになってしまう傾向もある。包まれたままヒーリングその他の仕事をしている人々もいることでしょう。そこでは、「成長せずにグルグル回る」状況が続きます。

やはり「降臨」した後は、思考やエネルギーがおかしくなります。起きていることに気付いてエナジーワークで対処しようとしても、影響が完全に抜けるまで数日かかったりしますので、一般の人々が体調を崩したり、人間関係がこじれたり、わけもなくUpdownしたり、思考が自分らしく無い時期があったり、の背景には、様々なネガティブな力が働いている可能性があります。

また別の種類の、情報操作、思考操作を起こして人と人を争わせる系統もあります。驚いてしまいますが、瞑想でのヴィジョンや体感、インスピレーション、などの中にもその操作が入り込んで来て、情報、感情、思考を書き換えてしまうようです。それはかなり高度な場合ですし、私が関わって来たジャンルでは起こりやすい特殊な例と言えますが(集まっている人々がもともと直感的、ヴィジョンをよく見る、メッセージを受け取る、などの能力が拓けているから)。・・けれどやはり一般レベルで、大なり小なり、影響を受けていると思われます。

人間は、電波のようなものを常に持っていて、無意識に発していて、別次元の存在から見ると周波数の高低や種類などが、魂レベルでも人間レベルでも、その時だけの機嫌の良し悪しも含めて一目瞭然なのですよね。ゆえに、その時に「使えるものを使う」

逆に言えば、自分が良からぬ力に使われないためにも、常に良い響きを発していれば、ネガティブなチャネルにされることはない。悪意のない「ごく普通の喜怒哀楽」のつもりでも、怒りや妬みや執着などがよぎっていく時、貴方はネガティブな力のネットワークの一員になってしまうかもしれない。

サロンを長年やってくると、様々なエネルギーの動きを事象の中から感じ取ります。見えない次元が介在して、そういう事をぐるぐると繰り広げているのが、人が生きる世界。人間の遺伝子の中にもネガな周波数と響きあうタネが、誰にでも入っているので、それを浄化していくことなしには、世界は変わらないのです。

「人間らしくて良い」??

ネガティブな感情、思考、怠惰。 それは実は、人間自身のものではないものも、大いに混じっているかもしれない。

「今日だけは許して」「たまには良いじゃない」??

耳元で囁いたり、エーテル体やチャクラに侵入したり、ハッキングしてきた電波によって、他者を傷つけたり、人の何かを損なうことことの一端になっていたとしたら?

それでも、カルマとしてデータが残り、それを償却しなくてはいけないというマイナスの課題が自分に増えてしまうのです。

自由意志、自由だ、というつもりでも、実はそうではない。ただネガな見えない力、ネットワークに動かされているだけかもしれない。・・・という部分に、もっと人間社会が敏感になる時代が来ると良いなと思っています。そうしないと、利己的な社会で人間同士が幸せの邪魔をし合う連鎖が終わらない。

ある哲学者が言っていました。人間は生まれながらに自由である、と。それを意図的に(アメリカ的な)自由を行使してきた結果が、今の物質主義の極みであると。多分、ヒトは、自由すぎてはいけないのです。

道徳や善意の重要性を最近の世界をリードする思想家や歴史家・哲学者などが強調しているのは、とても重要なこと。見えないエネルギー次元にも大きく関わってくるから。

心が自由でありすぎると、そんなつもりなくてもエネルギー次元で人を攻撃していたり、人をコントロールしたり、人の足を引っ張ったりしているものなので。・・・・・自分を高めて涅槃に入っているような人の「心の自由」はまた別の話ですよ(笑)

それと、現実問題として自分を縛り付ける親や社会、というテーマがまだ自分の中に残っている人、インナーチャイルドがある人は、この「自由」という言葉には過剰の反応をします。自分を抑圧するネガティブな力と、重ねてしまうので、話が交わることがありません。「〜でなくては」「〜することも必要」などの大人としての話を全て、強要されるように感じて反発してしまうものですが、それでは上に書いたような話は耳に入らず、平行線となります。

自分が自分を運営しているという「大人」たちの、次のテーマ、「人間社会や世界をよくして未来を維持していくには?」という次元の話をしている、という大前提を、最後に付記しておきます。エナジーヒーラーとして来春で15年。人と魂と感情とエネルギーと、背後にある高次元と、横から入り込む別次元。その難しさを見せられた年月でしたが、

クリシュナムルティの言うように、全ては自分の内側にしか存在しない。それも事実ですし、マルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」もまた、真実であるように思います。ただ他者がいなければ経験することが出来ないので、他者という自分の断片をちりばめている。自作自演のような、魂の体験フィールド。その中で、全ての魂が目指していくものは一つに、決められていると思います。色々あって良い、という事ではないのだ、と。

その、ひとつの潮流、向かう先、流れの方向の話をしていて、ただそこに向かいましょうと言ったとしても、それぞれが立っている場所からは、色々な方向に道があるように見えてしまう。そのように人間を複雑にしているのは、辿ってきた歴史の中に理由がある。ちりばめたものを回収して、四方八方に見えている道がひとつひとつ、消えていった時に、ただひとつの潮の流れというものが、ようやく見えてくる。

そのためにヒトの魂は、どれくらい生まれ変わるのでしょう? 何百? 何千回・・かもしれない。

Love and Grace,

Amari

「持たざる者たち」のララバイ

 

おはようございます。霧雨が新緑を潤す、静かな朝。2月に引っ越した家は「昭和レトロ」なのですが、私の部屋は「大正モダン」?です。サロンのお下がりのアンティーク家具たちゆえに。障子を少しだけ開いて仕事をしていますが、木々の緑が迫って来て、それだけでもハートが癒される感じがします。あえて緑を見ていただくために影になるよう撮ってみました。
最近思ったことの徒然メモとしてフェイスブックに書いていたのですが、余りに長くなってしまったので、こちらに載せることにします。その為、いつものこちらのブログの口調と違って「ですます」調ですが、直すのも何なのでそのままに。笑
批判目的ではないので、ジャンルは明かさずにおきますが、10年以上前に好きで買い物をしていたショップがありました。そのお店をキッカケにその道に目覚めた、という感じで。オーナーさんはメディアの取材も受けていたり、メルマガなどを綴っていたりして、買い物する立場としては何となくごく自然に、お名前やお顔も印象に入ってくるという感じ。
優しさや真面目な職人気質が伝わってくる、お人柄が見えてくるサイトやラインナップや文章、そして商品に、その世界全体に素直に引き寄せられていくような気持ちでした。・・が、1〜2年くらい経つと、似たようなお仕事を、さらに勢いをもって展開する同業のショップが私の目についてしまい、
一見すると華やかで、ヴァリエーションの広がりに魅了されるように、今度はそちらのお店を利用するようになっていました。それから数年が経ち、先にあげたお店を探したところ、活動をすべてクローズしていて・・勝手な、本当に勝手な推測なのですが、業界の中で成功された後の、裏の反面を体験されて、真面目で優しい気質の方の心が折れてしまった?体調を崩してしまった?のではと、頭をよぎった私でした。
あまりにも思い切った、幾つかの実店舗やウェブすべてのクローズ、だったので、ヒーラー思考でついついそんな風に考え、他の店に気を移した自分のようなファンも、多くいたのかもしれない・・ことに、胸を痛めました。
おそらく先駆者としてのその方の背中を見て、取れるところを取りつつも、その方の生真面目さ、人の良さから展開している丁寧な活動の中には広がりにくいような部分で消費者のニーズを捉え、そこを満たして、バババっと勢いよく事業展開した二つめのお店。気づけばメディアにもそちらのお店のほうが取り上げられるように、確かに途中からなっていたよう。
様々な個性が存在する中で、(私含め)消費者はそのように反応するので致し方ないこと・・・とは思っていましたが、気を移したほうのお店で買い物を数年してくる中で、「あれ?」と想うことがあり、それでも「まあいいか」と、利用を続けていました。それが、今年の4月にちょっとした体験をしたのです。
すべてをクローズしたお店のオーナーさんが、形を変えてご自身の活動を再開されていたことに偶然気づいたのは去年。まったくの直感で、気づけばかつてのお店の名前を検索してみたその日。数年の間に同じようにしてみても「閉店しました」という画面が出るだけだったのが、新たな情報発信のページが表示されて、本当に嬉しく思いました。
去年のその再開から、何度かお買い物させていただいて。うちの娘でも、「商品から伝わってくるまごころみたいなエネルギーが全然他とは違う」と言うくらいの、良いお仕事を相変わらず、なさっています。
一方で、数年間、そのジャンルはそこでしか買わないというくらいに利用していたもう一方のショップさんを4月に利用した際に、手違いがあり、顧客としては1万円弱損をしてしまう状況だったので、問合せをしました。何度か・・けれど、お返事が無かった。この時にふと、霧が醒めるような体験をしました。グラマーが晴れるというか。
確かに、同じような職人仕事をアピールしている。お持ちのバックの力をうまく活用し、スピーディに魅力的なものを生み出している。から、消費者の目には華やかに映る。けれど、そう言えば、「顔が見える」わけではなかった。ブログやメルマガはすべて、どなたが書いているかわからないし、10年くらい買い物をしているのにオーナーさんの名前が表に出ることもなく、ましてお人柄などは全くわからず。
ただ、メーカーとしてのこだわりや取り組みについてはかなり力を入れて発信されていた。ようやく気づいたのですが、ほとんどをネットで買い物をしてきた私が個人的に気に入るお店や会社では、家具屋さんでも、雑貨屋さんでも、洋服屋さんでも、ワイン屋さんでも・・代表の方が表に出て、商品に込めている思いを伝えている。いわゆる「顔が見える」ところばかりでした。
すでに大きく、組織化しているというだけなのかもしれないけれど、同じジャンルで、同じようなものを販売されていても、見えてくるのが「組織」「技術」しかなかった。その時、4月に買い物をしたアイテムも気には入っていましたが、試しに、前者のお店を覗いてみると、同じような素材・色のアイテムが出ていたので、儀式的な意味で、そちらも買うことにしました。
私はよくそういう「儀式」をするのです・・今書いてきたことが、まったくの勘違いで、前者のショップの閉店の理由も状況も違っていて、後者のお店がブラックかもしれない?!という疑惑(笑)が何かの行き違いだったかもしれないとしても、深いところでコンセプトなどに共鳴し応援していた顧客だったのが、見た目の華やかさ(仕事はしっかりしていた)で他に気移りしていたことは確か。それが消費者としては普通のことであったとしても、結果としてまっとうに自分の道を正しく行っていた人を追い落とすような流れに自分も加担していたかもしれない?という可能性に、お詫びも込めて。
損をしそうな件はもう諦めて、代わりに後者のお店とは、サヨナラすることに決めて。気づけば、もう十分足りているではないか・・ついなんと無く、その華やかな発信力に、コレクター気質の私は随分とコレクションしてしまったのだ、もう、終わりでいいということだ、とも。
そしてこんな個人的な現実体験を、ここで語るつもりは無かったのだけど、ずっと前に見ていた「チャングムの誓い」の中の一場面がどうしても、この一件について考えていると頭にちらつく最近なので、同じくショップオーナーとしての自分への教訓としても、ここに刻んでおこうと思いました。「チャングム」の一場面とともに・笑。
宮廷で王の食事をつくる料理担当女官になるべく、修行中のチャングムに、師匠の貧民出身の上級女官である「ハン尚宮(さんぐん)」様は、山に行って数種類の湧水をとって味を覚えろとか、100種類の薬草をとって来て研究しなさい、などの体を使った学びをさせて、素直に励むチャングムは味を体感しイマジンできる料理人として、才能を発揮していきます。
そのライバルの「クミョン」は、それに気づいていて、自分もそのようにして学びたいという気持ちを抱いていると、叔母である(一族代々、最高尚宮を務めてその座を狙っている)チェ尚宮により、諭される。「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。我らには代々に伝わる知恵がある」と、数代にわたって料理女官のトップを務めてきた一族秘伝の書物に、頼ろうとします。
ドラマとしては政治的にはチェ一族が暗躍して一時的に勝ってしまうのですが(最後には滅びます)、職人としては無論、チャングムが・・というか師匠であったハン尚宮様の教えが勝利するわけです。色々な神話や物語でもすべてそうですが、所有しているものの上にあぐらをかいて、そのテクノロジー的な勝利でしか物事を見れなくなっていたら、その時点で真実の世界ではすでに負けてしまうということ。
様々な物語の主人公たちが、最初は「持たざるもの」であり、這い上がるように体験するトライ&エラーの中で培った実力こそが、本物であり、紛れもない愛を宿した何かがその仕事や人生に実るのだということ。
チャングムを見た時からこのチェ尚宮の「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。」のセリフにはとても反応していました。ハン尚宮様のほっそりとした優し気なたたずまいと貧しかった料理上手な少女がそこまで登りつめた、けれどいつまでも、悲しいくらいに優しすぎる姿に共感していた一人として。放送時はチャングム人気とともに、ハン尚宮ママニームのファンクラブも出来るほどだったそうです。
話が逸れましたが・・同時にこれは人類全体の行く末にも関わるテーマだ、と。歴史学では、物質的に豊かで戦争がない平和な時代がつづくと、人間は精神の上で腐敗していき、その文明は滅びると言われている。
個人の人生においても、同じことです。むしろいつでも自分自身を「持たざるもの」と心得ておくのがよろし、と想う私です。
Love and Grace,
Amari
 

 

壁に書かれた祈り「それでも」

 

pyrite heart


人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。

それでも彼らを愛しなさい。

もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。それでもいい行いをしなさい。

もしあなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。

それでも成功しなさい。

あなたがしたいい行いは、明日には忘れられます。

それでもいい行いをしなさい。

誠実さと親しみやすさはあなたを容易に傷つけます。

それでも、誠実で親しみやすくありなさい。

あなたが歳月を費やした建物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。

それでも建てなさい。

ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら彼らに襲われてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。

持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。

それでも、一番いいものを分け与えなさい。

 

 

 

出典:カルカッタ「孤児の家」の壁に書かれた言葉

『マザーテレサ A simple path』

(早川書房 ルシンダ・ヴァーディ編 猪熊弘子訳)

ほんもの思考・ほんもの志向

8月16日 インスタ記事より

1週間前ほど前、新しい何かが始まって、結果として辿りついた情報はとても嬉しいものだった。

2010年、当時奈良に住んでいた私が急に横浜で出張ワークショップをすることになり、それは言葉以上に大きい土台からの変化だったようで、その頃から、着るもの・持つものなどの主に外側で身につけるものを総入れ替え。今に続く自分のスタンダード、自分が求めるクオリティが確定するという、一見「横浜でレムリア瞑想会」とは全く関係のない変化を生み出した。

日本が世界に誇れる唯一のものは、「現場で良い仕事をする職人・技術者」ではないかと思う。あらゆる意味での「現場」で。その頃見つけて、暫く「ひとつ覚え」のようにリピートしていた職人的なお店があり、まったくジャンルは違えども、仕事へのクオリティにこだわる姿にレスペクトを抱いていた。違いがわかる人々、特に業界の人に非常に評価されていたのではないかと思う・・雑誌にも多く載り、地方都市から都内にも進出し華々しく。けれど、数年を経てはたと「閉店します」と。ザンネンに思っていた。

あれから4〜5年経つだろうか、少し形を変えて、同じオーナーさんが再出発をされていることをその朝、偶然知った。直感的ネットサーフィンの結果だった。それが私には非常に象徴的な、一つのサインに感じられた。きっと人よりは、あまり常識や固定観念に囚われないほうだと思うけれど、それでも、自分の思考で固まってしまった現実の中を人は生きる。その外側が、見えにくくなりがち。

まったく勝手な推測で外れているかもしれないけど、本来、職人的な「素材を見る目」、実際の仕事のクオリティ、素材と出会って作品作りが始まる・・などの意識の高いものづくりをされている方が、「売れすぎてしまって」、多忙さや、周囲から求められる勢いにペースを乱されたりと、追い詰められてしまったのかな?と、実店舗やオンライン含めすべてを閉じられた時、勝手ながらに思っていた。

それから数年。再び自分の大切なものを再構築し、もう一度、同じフィールドに戻ってこられるという姿に、凛とした生き様を感じて・・改めて、その方のものづくりのファンになった。

それがどんなジャンルであれ、精神性・生き様は、その人が生み出す空間や仕事すべてに現れる。見ている側も、その人の何に惹かれているのか・・が、変化が起きた時に問われるものである。華々しくヒットされている時に見ていた多くの人々のうち、もう、違うところを向いていて戻って来ない人たちも居るだろう。

けれど今回の自分のように、何かがキッカケでふと、再会できることもある。そこに起きていた変化と、自分に起きていた変化がフィットすれば、再び結びつくのだということを感じた。最初に惹かれていた理由と、今でもレスペクトを抱く理由は変わらず。その方の精神性が現れた仕事振り。つまり結局は、その方の生き様であり、精神が、自分の中にあるものと響くからだ。

時代の変わり目にあり、「ほんもの」で仕事をしている人々が苦境を味わっている時期だと感じてブログにも書いていたけど、そこに変化が起きつつあると言っていたのは今年の初めから春ころ。様々なジャンルで、同じことが起きていた事が、周囲から入ってくる話からしても、実感としても、よく分かる。私も先日ある方に、「人生で初めてスランプというものを体験しました」と話していたところ。

鬱になった時代は過去にあったけど、それとは別に・・仕事をする自分の創造性が何かうまく噛み合わないという体験を、一昨年〜去年、思えば初めて味わった。だからこそ、今見えている世界があり、勝手ながら、別ジャンルで同じように体験し、静かに、自分らしく、再スタートを切っている方々の姿は、何より力を頂ける。嬉しくて、それを記念して、久しぶりにそのショップでお買い物をした。

時代は少しずつ、動いている。

中途半端ではなく、本質を見て感じて、「それっぽい事をする」のではなく、自分から湧き出すもので仕事をしている「現場」の人々は、なんのジャンルであれ、堂々としていけばいい。売れるもの、うけるもの、など気にしなくていい。そもそもそれと、「本質からの仕事」は、噛み合うものではない。ただ、創造の仕組みからして、ほんものの仕事をしていれば、自分はそれで生きていけるものだ。

ちなみに英語で「本物志向」は authenticity oriented
authenticity:本格的なもの oriented: 志向

Love and Grace,
Amari

Instagram(office arganza アカウント)2019年8月16日投稿を削除のため文章をこちらに保存。

灰とダイヤモンド

9年間続いたお弁当づくりの最終日。だからこそ思う、エネルギー作りと現実・精神に向き合ってきた年月のこと。

英語の intension がもっともピッタリ来るかと思うが、intense (激しい・強烈)の名詞化したintension は、強化・強さ・増強などの肯定的な意味になる。精神面では緊張や努力といった意味にも使われる。私の個人的なこの単語のイメージは「集中によって出来上がった強度」という感じ。エナジーヒーラーでシングルマザーである日々は、まさにそれだった。

現実的にそのように仕向けられた?ことで、その意味や理由がわかり、コツを掴み、さまざまなパターンや落とし穴があることを痛感し、修正してはまた強度を高めていく。それによりこの物質次元で生きる中で、魂は人格をどのように動かし統合に向かうのか、その仕組みを(必要に迫られていたからこそ)理解することが出来た。

そうでない仕組みのものや人を否定したり遠ざけたりして逃げることもしなかったし、知っていく階段を上る過程で過去の世界を馬鹿にしたり見下したりもしなかった。その段階段階でお世話になってきた人々すべて、敬意をもって来たし、礼を欠くことのないようにして来た。過去のどの時代とも喧嘩別れをしていない。(元夫であっても・笑)

そのようにする人が多いのだ、世間的には・・それでは真に気づいた、成長したとは言えない。

intension =シリウス的エネルギーシステムの中で機能している今の地球の物質界は、ひとつひとつを確実にこなして清算していくことで、人間界でいう「成長」や「進化」として刻まれる。螺旋を確実に上っていく。人間の仕組みは「メカニック」で、作られた法則と仕組みからは免れない。そんな体験を選んで来たのが、われわれの魂。みんな、記憶を失っているけれど。

娘が卒業発表の作品として選んだももくろちゃんの「灰とダイヤモンド」の歌詞は、まさに同じ世界を歌っている。世のクリエイターの方がたは、高次意識の表現媒体となって働いている方が多い。

ダイヤモンドは灰から生まれるのだ。燃え尽きた先の灰から。それも平坦な地層の「安定地塊」という場所で長い年月をかけて生成されるということを、娘の発表を見た翌日にたまたま見た(!)NHK特集で知った。

私の場合は地上での仕組みを思い出すために与えられたお題が、「シングルマザーでエナジーワーカー」だった。人それぞれ、何の intension がかかるかは、違っている。けれど、進化成長していくには、現実を変えていけるほどエネルギーと意識を整えていくためには、intense が必要なのだ。一見追い詰められている時こそ、次の次元への新しい扉が開いている。

気づいて、習得するのにまた長い時間がかかるが、ある程度の段階を超えると、そのintension(緊張)の力は必要なくなる。何かによって負荷をかけてもらわなくても、自らを常にその集中状態に保つことが出来るようになる。それには長い時間と、多くの気づきと修正が必要で、そう簡単にそのようになれる訳ではない。数えきれないほど螺旋を周りながら到達する。

詳しくは、アリス・ベイリーを読みましょう!笑 全部書いてあります。

Love and Grace

(insta記事より移動)

天と通じ合い、大地に根ざす

何年も前から存じ上げている方々も、やはり今年は自分の方向性を問われるような意識の変化が起きている。それ故に、今までやってきた事を一旦閉じたり、小休止していたり。一方で、これまで動けなかった、どうしても表現や行動・発信などのアクティブな方向へ、自分を持っていけない力を内側に感じていた人々が、動けるようになって来ている。というのが、アルガンザの仲間達を見ていて、また日々語っていて伝わってくる。どちらも、然るべき・・時代の潮流、現実世界の奥にある、地球の息吹を感じ取ってのことだろうと思う。

昨日、3年ぶりの「石巫女アースワーク専科」がスタート。初回からスケールとエネルギーが壮大で・・前回は2015年の秋から半年間だったのと、今回石巫女をやることになった理由が直前に理解できた上でのスタート。今もまだエネルギー酔いして、体が余波でジンジン、ビリビリ、ほかほかして・・・今朝起きた時はクラクラして、頭痛も。延髄とクラウンチャクラからかなり情報とエネルギーが入って、早速動き出さないといけないようだ。石巫女は、アースワークというより、ガイアワークと言える。「ジェネシス」以後の今、行う2018年版は尚更に壮大になる予感。

話は変わるけれど、3年前の2015年に、念願だったアーユルヴェーダの集中基礎講座を受けて、そこである意味、開眼したというか、目が覚めてしまった。私自身は、今皆さんに起きているよりも少し早い流れで、今思うとあの時から、去年の「ヒーラーを辞める」宣言、そして今の、アルガンザの作り変えに向けての潜在的な流れが始まっている。今日のこの話を、ずっと書こうと思っていつつも、タイミングがいつもズレて来た。が、昨日の石巫女と、そこまでの2週間くらいかけて動いていた「新しい時代の潮流」を感じるエネルギーに載せて、今日、書いておこうと思う。

実はアーユルヴェーダをかじったのはその時で3度目の正直、だった。まだ奈良に住んでいた頃、大阪の先生、奈良の先生の講座を何度か受けていたものの、色んな意味で時期ではなかったようで、その時見た現実世界としては進展させることが出来なかった。ヒーラーとしてひた走った数年の後、2015年の春ころに再び急に気になりだし、久しぶりに先生を探し、朝から夜までの集中3日間コース、また別の時期のボディワーク講座を受けた。それが、今に通じる変換点となった事が、3年を経てみて冷静によく俯瞰できる。

若い頃からインド哲学やインド伝統の様々に、世界的なルーツが全て通じている気がして、更には宇宙の真理も詰まっている、ということはなぜか感じていた。けど、「難しすぎて、今の自分にはとても扱えない」と思って来たのが、「そろそろ、いいのでは?」と感じてのことだった。エナジーワークというジャンルに「奉仕」することに専心して来た結果、見える現実がようやく進化、違う層へと上がれたのでしょう・・その時のクラスは10名前後の女性ばかりで、志の高い人々ばかり。先生にとっても特別感があったようで、最終日の終わりの一時はとても感動的な空気だった。

かつて・・・21歳の時に、高校生の頃から憧れていたニューヨークへ、漸く行く事が出来た時に、別の土地にいることで、日本列島とそこに乗っかっている日本人の集合意識を、物質的なエネルギーの塊として「見えた」瞬間があり愕然とした。「普段、あんなモヤの中に居るの!?やだ、帰りたくない・・・」と。それと同じような事が、違う分野の志高い人々の中に入った時、起きたのだ。

ジャンルの良し悪しを言っているのではなく、先生は勿論のこと、その時にクラスとして集まった人たちが(ヨガの先生が多かった)意識の高い人々だったからだと思っている・・・(誤解のないようお願いしたい)。参加者の一人の方が、最後に言っていた。「今回が初めてではなく、私たちは前世の何処かで、同じ事を学ぶために、同じようにご一緒していたと思う。」・・私も本当にそう感じていた。いわゆる「スピリチュアル」に属してしまう(笑)自分の立場は、そのクラスではちょっと異色であるけれど、私の内側にあるものは、皆さんと全く同じで、かつ、普段そのつもりで仕事をしていると、ヒーリングサロンとしては何か、噛み合わないものが生まれるため、自分にとっては「どうしたものか」と当時、感じていたことでもあった。

クラスの中で一番盛り上がったのは、アーユルの各論よりも、サーンキャ哲学やヴェーダーンタ、宇宙の始まりから元素、世界、人間ができていく創造論、宇宙論。そして運命論だった。人は何のために生きるのか?それは最初から決まっている。天のエネルギーとともに正しくあれば、自分の心を磨き続ければ、それ(天命)は自ずと分かることであり、自然とそこに乗って行くもの。あとは、流れに乗るだけ。

これは私が20代の10年をかけて信仰していた法華経の考え方ともだいぶ違っている。法華経を含む大乗仏教はもう少し献身的・自己犠牲的で、原罪意識を伴う。=信仰とはそういうものかも。。原罪意識を伴うと、どうしても痛みが生まれる。それをやっていないと自分はダメだ、という。まだ癒されていないものが多い人にとっては、それは苦しみの元となって、何のための信仰かわからなくなってくる。

故に、10年間、水を被ったり、山に登ったり、先祖供養などをしてきた、まだ若かった私は、過去生のサンゲのために信仰と巡り合った、来世もまた・・という思想のなかで置き去りになっていつまでも傷ついている自分には、もう限界であると感じて、信仰をやめた。そんな時、たまたま幸運にも出会ったヴィジョナリーの方に「チベットの過去生で仏教に対するカルマがあり、それが終わった」と言われた。カルマ消化のために、私は19から29歳まで、仏教の信仰をしていたのか・・そして、必要な償却が成立したということか、と。

3年前にアーユル講座で体験した、ヒーリング・スピリチュアルという世界で作られている、そのジャンルの集合意識のグラマーの靄(もや)を直観するということ。あそこから既に、去年の今頃、「ヒーラーを辞める」と急に決めた瞬間への布石は、始まっていたということだ。ただ自分では全て無意識だけれど、実際に辞めるに当たって、これまでの全てを集大成し、のちの世代に繋ぐことと、自分の仕事を形に残す必要があり、それが「石巫女」「星巫女」などのマスタークラスと、「ジェネシス」だったということだ。・・グラマーの霧が晴れ始めてから、実際に抜けきるには3年かかった。

やるべき事をやり切らないと、抜けられない。過去にも「ヒーラーやめようかな」と試みたことが1度あったが、とんでもなかった! 抜けようと出口に向かったら、そこにお化けが待ち受けていて、戦わなくてはいけなかった。戦いながら、出口を塞がれたので、元居た場所に戻り、さらに上に登った。それがこの(今の横浜のサロンを開いて以後)6年のこと。当時の高さで出口を求めては、きっと違うところへ行ってしまったのだろう。もう少しちゃんと上に登って、カルマ償却をしてから、もっと高い層で出口を見つけなさい。・・私の魂はそう言っていたのだろう。

この1年をかけて、自分に起きていることをずっと感じようとして来るうちに、これは「仏教修行10年間」に続く、「ヒーラー修行12年間」の終焉ということだと、意外とシンプルにまとまった(笑)。任期満了、またはカルマ償却。

これからまた10年くらい、違う「修行」に入るのでしょうネエ・・・笑

最初の修行時代と、2つ目の修行時代が、気づいたら融合しつつある今。意識の学校や、プロテクション専科で仏教を扱ったり、インド哲学をカレッジ、マスタークラスで取り入れたり。自分が勝手に区別をしていただけで、もともと、ヒーラーとしての自分には、その前の仏教修行時代が、大いに生かされていた。あの頃、まだ若かった自分がぶつかった壁の色々も、今ならば意味がわかる。年長者や先人たちが、なぜそのような各論を設けていたかの意味が、人間の本質をヒーリングや神智学で見てきた故に、理解出来ている。なのに当時の自分は、未熟ゆえに尖って見たり、大人たちを批判してみたり。その人の「出来具合」によっては、あの信仰生活によって、幸せな毎日を暮らして人生を終えることだって、できるだろうことが今では分かる。

それとよく似たことが、「ヒーリング」「スピリチュアル」に対して、自分の中でこの数年、起きていた。し、これからも暫くは続くだろう。過去の修行時代と、自分の人生を統合できた今見ようとしている現実は、すべての要素から「これが自分の道」である事を常に設定でき、日々、まっすぐにそこを歩き続ける事。

ヒーラーを始めて最初の4〜5年は、それまでの人生への記憶が薄く、執着もないので過去のものをすべて売りに出し、人生でやりたいこともなくなり、ただ高次と繋がってヒーリングサロンをしていれば良いという状態になっていた。そこに最初の目覚めの一撃が来たのが2009年。・・この時の選択で、少し「人間に戻った」。

人間性を保ちながら、目的や意図や世界への貢献という意思を持ったワーカーになって行くために、恐らく、その選択をして、そうなるとかえって苦しさが生まれるので、神智学が教科書として必要となった。ただ高次の光のチャネルであればいい、という状態から、目的を持ったヒーラーであるという道に再び乗ることは、むしろ苦難を選ぶようなもの。けれど自分さえ、そして自分のサロンのクライアントさえ幸せで高周波であれれば良いということではない・・と、自分の魂が選択をしたのだと思う。

後半のヒーラー時代は、ゆえに「戦う」要素が強く、それは神智学が宇宙的な意味とメカニズムを説明してくれた。そうして、かつての信仰の世界で年長の人々が言っていたことが、ようやく身を以て理解できた。自分さえ、自分の世界にやってくる人々さえ、幸せであれば良いという設定で居ると、見えないことが膨大にあったのだ。まずは自分が癒されなくてはならなかった。そこから少しずつ、「本当の人間」=「大人」になって行く。

癒され、安心したら、もうそれで終わり=続きは来世 にして、「大人」にならずに生きて行くか。それとも、今世、魂が決めて来た事に着手するのか。その、魂つまり高次からの問いかけは、皆にやって来る。一度ではなく何度も来る。選択するその都度、世界が別れて行く。量子物理学的にいえば、そういうことだ。自分が乗っかる世界は、選択のたびに波のように上がったり下がったりする。

時折、買っている雑誌「ヨギーニ」から、引用させていただく。

私たちが目指している、「ヨギーニ」(ヨガをする女性)とはどんな人?(14年前の創刊時に設定していた「ヨギーニの条件」を編集部の皆さんが2017年に再検討した結果、「理想像は変わっていない」事を確認した、という記事)

ポジティブであること、そして凛としてそこに存在する安定感。そういったものに喜び、感性も豊かになって行くのに気づく。手の先から、足の先にまで神経が通り、腰が安定して 背筋はすうーと伸びて、その上に頭がある。宇宙と地球の真ん中を結んで、そこにまっすぐ、すくっと立つイメージ。そして、目に見えない自分の存在を確かなものとして感じ、次を求めるように・・

・・もちろん内面からにじみ出てくるものがあるからこそ。ポーズができなくても、瞑想をしたことがなくても、ヨガと言われる何かをしたことがなくても、その存在の仕方が「ヨガ」であればいい。そして大切なのは、自分と向き合い問い続けること。。。

『ヨギーニ 』枻出版社 vol.60 「新ヨギーニの条件」p24-25 よりお借りしました。ありがとうございます。

これに尽きるのではないかな〜と、この特集を拝読した時、思っていた。ジャンルはなんでも良い。その存在の仕方が「ヨガ」であればいい。

子供がお世話になっているシュタイナー教育についても、同じような事を思う。シュタイナーは人間を魂として考える。12年のシュタイナー教育を終えて卒業する18歳のころには、子供達は、フワフワした浮世離れした若者ではなく、宇宙と通じ地球とも繋がり、さらには世界のことも自分の一部として考えられる、縦軸だけではなく横軸も持った、しっかりした若者になっている、と、娘の先輩たちを見て思う。

そうなると、高校を卒業した後のことについて、「世界のために自分は何ができるだろうか」とごく自然に、考えているような存在になっている。これは、エネルギー的に自分軸がしっかりして、グラウンディングとセンタリングが確立し、かつハートや直観(サードアイ、松果体)もちゃんと使っているからこそ、だと思う。幼少期には活動している胸腺(ハートチャクラに対応する分泌腺)や松果腺が、むしろ現代社会で物質人間として育つことで、不活性化してしまうのが一般社会の現状だ。

私はエネルギーワークを通じて、この「ヨギーニな状態」を目指していけるよう、語り続けたのが、「ヒーラーズカレッジ」であったし、これからも「エコール」を通じてその活動を続けて行くつもり。重要なのは意識であり、実際に軸やエネルギーが整っていることであり、そこから生まれる現実や、日々を創造して行こうとする意欲、それを世界と分かち合おうとする姿勢、であると思う。普通の物質人間に一度なってしまった人間が、天地と繋がり健康的に魂を生きて行こうとするには、癒しと浄化と活性と意識変容を実践して行くための方法論が必要だ。アルガンザではその方法論の中心部に、私自身がそれらのプロセスを辿ってくるのに助けてもらった、エネルギーワークを据える、ということ。

「ヒーラー」=癒し手として、人々と接することで生まれる世界観では、それは今の所難しい部分がある。既存の「スピリチュアル」ジャンルのエネルギー背景と、そこを入り口にしていらっしゃる人々が求めるものと、時にズレが生じることがある。時代が自然に変化をもたらしてくれると言う人もいるかもしれない。けれど、人類史のどの時代を見ても、「自然に変わって行く」なんていうことはなく、活動し、働きかけ、発信する人々からの刺激があり、集合意識が変化して行くもの。そして自分がその流れの中で、何をしたか、あるいは何もしなかったか、によって・・・自分が乗っている現象界の層は常に、波のように変わっていく。

ヒーラーとは、日本語で言えば「治療家」

アルガンザで関わって来た人々の中でも、自分がヒーラーなのか、何なのかと悩み出している人たちが少なからず。私自身もこれは、長年常に頭の中にあるテーマだった。「治療家」なのか、または「教師」なのか。その両方か、あるいは別のものなのか。

「スピリチュアル」の括りの中に在ると一般的には考えられているレイキやエネルギーワークの世界を、今後どう扱って行くか、は、それを実践している人、学んで来た人それぞれが、自己に向き合い、答えを出して行くことになるだろう。エナジーワークが「ヒーリング」というジャンルの枠を超え、あって当たり前のものになる。ヨーガがここまで、普及したように。ヨーガはヨーガで、スピリチュアルと同じで様々な層が混在しているように見えるが、きっとそこでもこれから、変化が起きてジャンル全体が変質して行くような動きが生まれて行く(あるいはすでに生まれている)のかもしれない。

そんな時代が来ている、と感じる2018年の春であ〜る。

Love and Grace

Amari

太陽の宿り木 — 「恐れ」と太陽

 

このところ、スモーキークォーツが活性しているように思う。まだ新潟に住んでいた頃、アメジストとスモーキーが好きで仕方ない時期があって、恐らくグラウンディングやバランシングを学んでいたのだと思うけれど、その頃以来、久しぶりにスモーキーに目が止まる。これは先日、リュミエールのインスタグラム企画で、密やかに半額タイムセールになっていたルチルの入ったスモーキー。この時の3点は「もう長いことお店に居るので、今回半額でもお嫁に行かなかったら販売終了」・・として出したアイテムで、結局お嫁に行かなかったので「公家の姫様の出家コース」に。どうしようかな〜、、と、ひとまず持ち帰ってみた。どうやらこれがキッカケとなって、スモーキーたちが光って見えるというムーブメントが、始まったよう。。

我が家は東南向きで、朝日が地平から登ってくるところから始まり、数時間に渡って太陽がさんさんと降り注ぐ。この家を私は、「幸せの家」と名付けていて(笑)たくさんの植物、鉱物、そして犬たちが朝日を浴びて麗しく輝いている朝のひと時が一番、楽しい。

このスモーキールチルが朝日に輝く様子を眺めてコーヒータイムしていると、降りてきたのが「太陽の宿り木」という名前。宿り木は・・他の樹木に絡んで生息する種類の木・・だったかと思う。そのあたりは良いとして、「止まり木」でもいいのかもしれないとも思ったりしながら、響きもよかったのでそのままに。

あの頃、恐れを克服する、自分を強化する、という潜在意識も働いて、スモーキーを必要としていたのかもしれない。ザギマウンテンの男気ある原石、パキスタンのガーネットとブラックトルマリンを抱え込んだ原石など、お気に入りでいつも手にとっていたっけ。。

色々な、人間の苦しみのパターンを掘り下げて行くと、結局は全て「恐れ」に通じているような気がする。化学の分野などで、液体の物質を攪拌して、攪拌して、熱したり水分を飛ばしたりして、最終的に残った個体を取り出す・・・(なんて言うんだろう?)・・処理などをするように、色々な感情や、そこに色付けされたものを、攪拌して、攪拌して、最後に残るものとなると、「本能的な恐れ」が素材の中の純成分として、残るのかもしれない。

その本能的な感覚のような恐れから派生する、様々な感情。それに意味を与えようとする思考や理屈。コーティングされて、本質が見えなくなっているけれど、結局は、素材の中のさらに素材には、恐れが隠れているのではないかと思う。

もうそんな意味づけなんていいよ、それを恐れだと認めて、前に進もうよ・・・と、人を見ていると思うことがあるけれど、自分の中でモヤモヤっとして、尤もらしく考え事をしていたり、カッコつけて理屈で整理したりしていることを、一歩引いて視点の高さを戻して直観すれば、「結局これも恐れであらう」・・と、気づくようなことが、今でも度々ある。

去年の年末だったか、ふと「恐れを抱いて縮こまっているのって、人として美しくはない。誰だって、本当ならば美しく生きたいのではないか。。」と、思ったことがあった。誰だって・・少なくともソウル、魂は、この地上で美しく生きる自分を本当は味わいたいのではないかと。

こういう事を言うとすぐに傍で、「醜くたっていいのさ」「それが人間じゃないか」と言う声が上がる事は、経験上よく分かっているのだけれど(笑)、多分、人間の感情というものは、「魂が本来持っている美しさ(愛・調和)」から、パーソナリティの生き様がずれたときに、「苦しい」と感じるのではないだろうか。

太陽は、いつもそこに在る。ずっと、変わらずに。

けれど地上に居る人間には、「天気」というものを通してしか、太陽を感じられない。今日は晴れている、今日は曇っていて太陽は見えない、雨が冷たくて空が暗い・・・・・でも、太陽そのものは、いつも変わらずにずっと在る。

魂は太陽のようなもので、人として生きているパーソナリティは、お天気。

曇っていても、たとえ嵐でも、その奥にはいつも必ず、太陽が輝いているのだということを忘れなければ、本当は恐れなんて必要ないという自分に、誰もがなれるのだろう。

Love and Grace,

Amari

哲学の道と桜– 吾は行く

 

まだ五分咲き・・三分咲きかな?うちの近所の桜並木。

桜を見ていたら思い出しました。京都の哲学の道。

歩いたのはもうずっと昔ですが・・・短大を卒業した春なので、25〜6年前になりますか。。短大の卒業記念に母と出かけた京都旅行でのことでした。近くに泊まったのでガイドブックに導かれて出掛けて行って、何となく花曇り、寒々とした空だったような記憶が蘇ります。

当時は、留学や四年制大学への編入を資金的に諦めて、向いてないと知りながらイヤイヤ企業への就職が決まり、新入社員研修を目前にして逃亡したいような気分で過ごしていた時でした。更に、学友の多くがヨーロッパなどに卒業旅行に向かう中、これまた資金的に諦めて(苦学生だったので)、母と京都へ。ただ、この旅で琵琶湖を望む比叡山からの風景との衝撃的な出会い(過去生の記憶)や、仏像の魅力に開眼したり、続く20歳からの奈良大和路への一人旅、日本古代への探求が生まれて行くきっかけとなった、ターニングポイントの旅となりました。

そんな、モヤモヤした若い娘としての心情を抱えた中で不意に歩いた哲学の道で、あの有名な言葉に出会いました。

「人は人 吾はわれなり とにかくに われ行く道を われ行くなり」 西田幾太郎

高校時代で既に、自分の感性や思考回路が人と違うと気づく事が多く、世の中の、あるいは同じ世代の人々との価値観や見えている世界の違い、というものは十分に自覚していて・・それを自分の場合は学問や思想から、乗り越えて行こうと考えていた短大時代。それでも、アカデミズムの世界に進むことが叶わず、現実の壁に四方から囲まれているような苦しい時期。

自分に言い聞かせてはいたものの、人に・・それも(当時の私はどなたであるかも分からなかったけれど)偉い哲学者の先生の言葉として、刻まれた碑文と出会って、ありがたや、苦悶しながらの巡礼の先で神仏の姿を観照したかのように、感動と興奮でテンションが上がりました。それを見た母は、つくづく不思議な娘だなと思ったそうです。

その後・・本当に本当に、「われ行く道を われ行くなり」で、生きて来ました。

いつしか、他者からのリアクションが気にならないというよりも、気にしなくて良い現実の層の中で生きていて。いろいろ段階がありましたが、若い自分にとっては巨大な壁であったことが、いつしか壁は壁でなくなり、問題でさえなくなり。

人と違うように考えることは自分のむしろ財産であり、自分が決めた、自分で見つけた道を歩んでいられることは普通に呼吸をして生きていられるための不可欠な要素となり。その結果、人が得られるものを得られない要素があったとしても、そこには何の未練もない。から、人を羨むこともない。

これは私にとって空気のような要素だけれど、・・まだ、そこを突破できていない人々は多いのだろうな、と、サロンをして来て思います。考え方のコツをお話しし、結構一生懸命に説明をし続けるのですが(セッションで通っている方々など)、変容の良いところまで来たとしても、「自分」よりも「そこにあるもの」=世間の価値観 にヒュっと戻って行く方も多い。

人と違う、奇抜なことをしようという意味ではなくて。何を言われても、自分の魂が決めて来た道を行くのだ・・というところに、乗れない、乗り切れない人が非常に多い。そんな時、「私は私なりに、周りの人たちに少しでも光を配れたらと・・」というようなセリフもとてもよく聞きます。それはそうなのです。それはもちろんなのです。でもその先に、何かあったのでは?それを見つけかけて、掴もうとしていたところだったのでは? と、いつも思う。

けれど・・・時代はどうやら、変わり始めました。ワンネスとか、ホリスティックとか、全体へ、調和へ、という流れは必ずやって来ますが、そこに至るには、ある程度、個々のパーソナリティが目覚めなくてはならないのです。ある程度の質への高まり、魂つまり高次我に火が灯るからこその調和の時代へ、進んでいかないことであらう。。そうなると、日本人が苦手な「自分の頭でちゃんと考える」「それを行動に移す」という要素が、求められる時代であるとも、言えると思います。

日本は湿度が高くて、インド思想でいう「タマス」(怠性)のエネルギーが強いのだろうな。また、レムリア的グラマーが低い波動で作用してきた。

西田幾太郎は世界的にも引用されるような哲学の大家で、京都の琵琶湖疏水のほとりを散歩していたことから、当地が「哲学の道」と呼ばれています。

西田の哲学体系は西田哲学と呼ばれる。

郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。その思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。一方で、一見するだけでは年代的に思想が展開されているように見えながら、西田は最初期から最晩年まで同じ地点を様々な角度で眺めていた、と解釈する見方もあり、現在では研究者(特に禅関係)の間でかなり広く受け入れられている。

最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」は、哲学用語と言うより宗教用語のように崇められたり、逆に厳しく批判されたりした。その要旨は「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。論文『場所的論理と宗教的世界観』で西田は「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない。」と記している。

Wikipedia:   https://ja.wikipedia.org/wiki/西田幾多郎

『我々の人格が失われ行く過去をかき集めて現在の一点を突破するところに、

真の直観というものがあるのである』(「哲学の根本問題・形而上学序論」)

宗教的すぎて哲学ではない・・なんていう批判もあった西田哲学。けれど、個人的にはとても好きです– 『〜らしくない』

そういうタイプの学者の先生や、門外漢だったり、在野の人々が新しい目、斬新な意識で固まった世界に新たな風を吹き込んで、抵抗されながらもそのうちに、時代の潮流に押されて、いつしか本流に少なからぬ影響を与える、またはそれ自体が本流となっていく・・・というのは、珍しいことではないですよネ。

いつの世も、どの世界でも、新しいものは抵抗を受ける。けれど、封殺され得ない強い力を持っていれば、必ず流れは拡大して行く。そんなことの繰り返しが、人類をここまで持ち上げて来たのだろうな・・と、桜を見上げた散歩道、私も哲学を気取って歩いていた今日でした。それに、西田哲学の強いところは、ご本人が禅の実践者であった、つまり思考活動だけではなく、実践から導き出された言葉であり発想であったというところ。やはりどんな分野でも、それはとても大事なところです。

Love and Grace

始まりもなく、終わりもない

最近、娘と話していて、「宇宙には終わりがあるんだよね、終わりがない・・ってことは有り得ないもんね」と言われて・・・「いや、終わりが無いってことだって、あるんだよね、きっと」と、遠い目をして呟いた私。

人間の思考できるレベルまで宇宙のあり方を下ろしてくると、終わりが無いはずない・・と、思ってしまいがちだけれど、きっと始まりとか終わりとか、それ自体が私たちが囚われている制限なのだろうと、思います。

始まりも終わりもなく、右も左も、上も下も、過去も未来もない。全てがそのように見えるように設定されているだけ。けれど、体験する必要があるから、今、ここに居る。

表層で物事を考えていると、世界や、自分自身や、生きることの本質は見えてこない。密度と、奥行きが大事なのでしょう。ヒーリングやエナジーワーク、メタフィジカルというのは、感情の暴走を抑えるだけではなく、思考が表層を抜け出していく勇気が出せるかどうかが、決め手のように思っています。

エネルギーの密度を調整し、それによって自分を健康に保てるか。そして、三次元よりももっと深く、縦にも横にも深層にも、空の領域にも、少しずつ自分の意識の回路が鋭敏になっていくと、この固まった世界、物質世界や二元法則を超えたところから響いている、実はずっと響き続けている、届き続けているサウンド、波長に、自分の脳波やセンサリーを、ひらいていくコツのようなものが、自然と掴める。

始まりもなく、終わりもない円環する宇宙。その中で無限大が無数に絡み合ったような構造、それゆえに終わることなく、延々とそれを巡っているような在り方を、本来はしているのではないか。けれど、直線で一方向の時間軸や、様々なお約束ごとを設定し、そのプログラミングの中で今は生きることになっている、ここに居る私たち。

けれど別次元には、別のプログラムを体験している私たちが居る。

そんな別のセルフに、時折、想いを重ねる・・・というより、意識を通わせる。ピコピコピコ・・・ そんな瞬間は、宇宙には終わりが無いこと、そもそも宇宙、そして私、世界、あなた、という分かたれた細胞壁は存在しないことを、全霊で「知る」ことができる。一瞬で終わるけれど。。そうじゃ無いと、こちらで生きる感覚がマネジメントできなくなるから(笑)

エナジーワークをしてくると、とにかく進んでいくのが「軽さ」

最初はあちこち調子が悪く痛みや持病的な要素を抱えていた肉体が解放される。その次は五感、感覚、気分レベル(エーテル体や神経システム)から、アストラルつまり感情の重さから解放され、思考の囚われが外れていく。さらに体は軽くなっていき、肉体の感覚が薄くなっていくような。

そうなればなったで、今度は重たい世界とのやりとりに難しさを感じたり、不具合を生じることもあります。けれど、それでまたコツを掴んで、平気になっていく。さらに軽さを増していくと、また調整が必要な時期が来る。その繰り返し。

人間の脊髄は、ちょうど八の字、つまり無限大を描くような形の神経回路があると何かで・・ヨーガ系の本かな?・・で読んだ記憶がありますが、私たちのシステムの中心にあるエネルギー軸「スシュムナー」ともおそらく関係しあっていて、八の字の螺旋を上がったり下がったりしながら、エネルギー的にも、メンタルや感情も含め、変化し続け、違う響きを奏で続けるのではないか・・とそれを読んだ時、感じました。

球体の中に、まずは大きな螺旋があって、その無限大の一つの中に、もっと小さい無限大が仕込まれている。宇宙の進化はその小さな無限大をめぐり、大きな無限大に進むと、またその中に小さな、さっきとはヴァージョンの違う無限大世界があって、そこを体験する、次はまた・・・と、フラクタル構造をしている無限大の果てしなき円環なのでは無いかしら

と、脊髄=無限大 から、「終わりはあるの?」の会話から、考えてみたりしました。確か神智学の、リードビーター系の情報だったかと思うのですが、無限大ではなく螺旋で、螺旋の中に螺旋、で延々と続くと書いてあったようにも思う。けれどなんとなく、単なる螺旋ではなく、螺旋状に動いていく「無限大」なのかな。。と。

奥行き、密度を持ちながら、軽くなり、空気のようになっていく。。。と、自我意識ではなく全体性の中に自分を感じるワンネス意識になりそうですね

随分飛躍してしまいました(笑)

Love and Gratitude,

Amari

青い石、青い光

2016年のドイツ、ミュンヘンショーから入っていたアルプス産のブルーフローライト。それも珍しいオーストリア産でした。小さな原石なのでサロンで少しずつ買って頂いたり、時にはプレゼントに差し上げたり、自分も気に入ったりして持ち帰るなどしているうちに、たくさんあったものが、残り1つになりました。リュミエールで展開し始めた「ブルーソーマ/アルクトゥルスの青いエナジー」チャージ用に、アルプスだからピッタリ!ということで、選ばれました。

ブルーソーマに、しっとりした質感のフローライト、もちろんブルーはとてもよく似合う。そして、アルプス水晶とタンザニア水晶をブルーソーマにしていくことに決めていたところでもあったので、アルプスのブルーフローライト・・・は相応しい。けれど、気付いた時には1つしか居なかった。。でも1つでも、居てくれて良かった。

軽い液体のようなブルーソーマのエナジーは、このところ私自身も本当に助けてもらうことが多い。液体のよう・・と言いつつも、地球にある水のような重さはなくて、もっと別の軽い何か。体の中心から、オーラの7層まで全て、自在に伸縮するように行き交わせることが出来ます。アルクトゥルスではないけれど、最近は夜空にシリウスが青く輝いていて、ついつい立ち止まり、ボ〜ッと見上げてしまう。それだけでも体の中に清らかな光が通るような、懐かしいような、心地よさ。

ソフィアの雫も、とても美しいみずみずしいポイント、中くらいサイズ(200g)を撮影したところです。リュミエールに近日載せますので、どうぞ覗いてください。

さて、アルガンザではレコンセクレーションの新ヴァージョン伝授セミナー、昨日は新しいスクール「エコール」第一弾の『プロテクション専科』と、大きなグループ講座が続きました。どちらも、この変容のエネルギーが脈動するスピードの速い時代の中で、大切なものを見失わないように、足元が見えなくなることのないように、地に足をつけながらもしっかりと自分軸を伸ばし、また太く頑丈にしていくことを、サポートする内容になったと思います。

大きなセミナーの前はエネルギー準備も自分に自動的に起きてくるので、無事に終えてホッとした所です。私はこのところ、講座やセミナーが前以上に、楽しいのです。そのための準備も、当日皆さんとその時間を作り上げて行くのも、楽しい。

エコール・・・は、新しく生まれ変わるアルガンザの主軸でもあります。

  • 卒業生・在学生向け講座や瞑想会:エコール・ド・アルガンザ
  • 新規の方がエナジーワークを1年で習得:インテンシブマスターコース
  • ジェネシスヒーリングTM プラクティショナー育成

これに加えて、もう1つ2つ、柱が増えると良いなと思っていて・・きっと何年かかかるのでしょう。形になってくると、見る人にはより、コンセプトが分かりやすくなって行くことと思います。まだ建設中・工事中という感じではありますが、そんな時期だからこその、同じようにこれからの事を考え、何かをクリエイトしていこうとしている人々で、「語り合う」機会も、6月のエコールに設けました。ビビッと来た方はぜひ、ご参加ください。久しぶりのイギリス式アフタヌーンティと瞑想会のセットです。

そして、このところの二つの大きなセミナーを終えて思ったことは、

大事なジェネシス伝授を、他のセミナーと同じような仕組みに編成しようかなという思いつき。今、3デイズと4デイズで構成され、イベント的に行っているのですが、私もスケジュール的に、体力?的にも厳しいながらも、3日続きでジェネシス光線の伝授をシリウス、リラ、アンドロメダ、アルクトゥルスと、ぎゅっと濃縮して提供する事で、その3デイズは別次元体験のような時間の共有となり、そこが大事と思って来ました。

が、ある意味不便なのですよネ、お子さんが小さい方の参加、遠方の方、お忙しくて3日はキープできない方にはハードルが高い。それでもご縁のある人は高次の采配があるだろうと思っては居ますが、今のところの変わり目のサロンの様子を見ていると、第一、第二世代の募集時のように「はい!」と一気に5名、6名が集まるというのは、少なくとも当面は難しいかな。。

ゆえに、他のワークの伝授と同じように「ジェネシスの伝授希望」という方がまずは声をかけて下さったら、レベル1〜7まで(今までの7デイズ)の日程を決めて、募集を出して、他に希望者がいなければマンツーマンでも行う、という形に組み替えて見るのも良いかな。。と思いました。それならば受けられる、希望する、という方がおられましたら、ご一報ください。テキストを事前に自習で全て読んで来てもらうなど工夫すれば、5〜6日くらいに短縮できるかもしれません。ならば、マンツーマンになった場合でもこちらも対応できるかな、と。けれどやっぱりもちろん、仲間が一緒の方が良いのはもちろんのことです。

ジェネシスのプラクティショナーさんたちは、毎年、年に一度かそれ以上、集まって会議?と、共同ワークをしたいと思っているので、伝授が万が一お一人でも、チームワークの心強さは体験出来るとも、思います。

一つの可能性として、まずは刻んでおきます。ご意見やご相談のある方はご遠慮なくです。

春に向かう雨が、多くなる季節ですね

ガーデニングがしたくなってウズウズしている私です^^

Love and Grace,

Amari