闇と愛と光と

なかなかハードボイルドな日々が続きます。と言ってもあくまでも自分の内側でのことだけれど。「ジェネシス層」が今年は特に動く。動きっぱなしな気がする… いつも一般の人々よりも少し前にずれて、シャンバラの采配による「人類進化プログラム」のフローが、先に適用されるようなところがあるので、2025が境目とよく言われているけれど、それってこういうことか!と、明らかになる頃に、多くの人々が味わうような感覚、リリースであったり、内側の鋳型からのシフトであったり… を、体験している年のような気がします。

その中で、自分個人としてはあまり、フォーカスしたくないな、と日頃から考えている「光と闇」の二元について、どうしても周囲から、状況から、考えざるを得ないような事が多く。私が身を置いて来たようなニューエイジ系の癒しはやはり「愛」を絶対的な基盤としている訳なので、すべての究極的なベクトルは「宇宙の無限の愛」であると、答えが分かっている中で、まだ発展途上のこの物理世界で繰り広げられる二元性に対して、どのような臨機応変な「(暫定的な)答えを出していくか」が、テーマでもあります。

今、4名の受講生の方々と進めている「アースワークカレッジ」でも、参考図書として挙げている「チベッタンヒーリング」という本で、チベットの僧籍を持っていると思われる著者の方が、「シャーマニズム」「タントラ」「ゾクチェン」という、チベットにおける宗教的なアプローチが3階層ある、という説明をしてくれていて、とても分かりやすい。

それらを行ったり来たりしながら、この世は幻想・唯物是真であると分かりつつも、目の前の事象に対処するという時間がまた、「修行者」には必要とされるのだということを実感します。

仏教の世界では、闇と光(仏教では光の代わりに「仏」というのかもしれません。仏はブッディなので「慈悲・智慧」であり、光というよりは愛に近いのですが..)は拮抗し、31vs32で、1点の差で光が勝利すると仏典に書かれています。若い頃から、その「1」とは何なのだろうとずっと思って来ました。が、Harry Potter でも、the Lords of the Rings でも良いのですが、光と闇の相剋が、ああいった「魔法戦争」であるとイメージすると、分かりやすい。

有史以来ずっとあんな感じで世界の見えない部分で摩擦して来ている。いや、個人個人の内部でも、同じです。

神智学では、もっとも闇を極めたのはアトランティス末期であると伝えています。それは、数億年単位で地球を見た場合のこと。そして、仏教やそのベースであるインド哲学では、現在を含む時代は暗黒の世で、光が伝わらない、思想が乱れ、人々が正気を失う時代であると。

神智学のほうは正確には「闇を極めた」というよりは「物質を極めた」のであって、少し意味が違うのかもしれません。。もっと深淵、神妙な、人間のライトボディとフィジカルボディ全体の「システム」が、「物質」というテーマを極めた、という感じなのかも。。仏教が行っているような、心理および社会の「暗黒」と、違う層の話なのかもと最近は思っていますが…

ともあれ、
現在は物質的には豊かな社会が(昔よりは)世界の広範囲に渡っているけれども、人々の心は大事なものを見失い、おそらく最大の問題は、自分たち自身の「存在にまつわる知恵」を失ってしまっているという状況。

インド哲学の文献を残した当時の賢者たちからしたら、「そんな時代が来たら恐ろしい」と思えたのでしょうね。哲学が生き生きと存在していた古代からの視点からすると、それくらい、大事なものを欠如している状況。ゆえの「暗黒時代」という表現なのでしょう。

冷静に考えてみると、自分が何者であり、なぜ人は生きているのか。などの本源的な思想や理解や直感を失った状態で生きるというのはやはり、とてもとても、ある意味「不幸」なことであると私も本能的に思います。それで「人間」なのだろうか、と。

31と32、ほぼ互角に戦ってしまう「光と闇」。それでは、最後の勝利を決める「1」とは何なのだろうか。

やはり、というか当然ですが、「愛」ですよね。
誰もが分かっていること、と言えるかもしれません。そう、本当は誰もが分かっていること。けれども分からない振りをしている。

「愛」ってなんだ?というと、きっとキリストの言葉などを聖書で読むととても分かりやすいのかな。愛は、感情でも、思考でもなく、エネルギーで。宇宙の本源と言えるでしょう。それが、さまざまな階層に降りて来る中で、最終的には感情などになるとも言えそうです。現時点での地球の人間世界では、人々同士の間で行き交う、または感じられるフィーリングとして「愛」をその階層まで下ろして来て、その一端を体験している。

愛は宇宙のエネルギーである。
浄めて育てる「光」と、滅ぼし壊す「闇」
その双方さえ内包しているのが「愛」なのでしょうけれども、科学的に(宇宙レベルの意味で)、闇は愛とは結びつくことが出来ない。光は愛を意識して存在している。

それゆえの「1」の違いで、光により、最終的に闇は浄化され中和される。

なぜ「闇」は愛と結びつくことが出来ないか。もし結びついたならその時点で「闇」ではなくなる。「光」になるのです。なぜなら、「愛を失った光」が、「闇」であるから。

「宇宙の本源(愛)」を見失った世界こそが、「光と闇」の二元の相剋を体験している。

思い出した人からその次元を抜けていく?いや、世界というのは一つのユニットになっていて、他の魂が、思い出すまで手助けをするのだそうです。(仏教にいう「菩薩道」)ニューエイジで活躍している「アセンデッドマスター」はまさにその意味で菩薩たち、ですね。

実はこれは、ヒーリング(癒し)の世界で個人個人の中で起きていることと同じ。「愛を見失った」迷子の過去生やインナーチャイルド、シャドウセルフが、私たちの中で自己主張をしているから、不具合や苦しみや不完全感などが生まれる。それらに「愛」を思い出させることで、癒しが起きる。小世界と、外の世界は、フラクタル構造。同じことが起きています。

本能的・潜在的に「愛」をどのくらい知っているか。魂によりその深さ・度合いが違う。ただ、家系的に受け継がれる性質もそこに加わって、愛により近い魂は「光=生み出し育てる」ことに惹かれてそのように生きようとするし、その逆もある。滅びや破壊に、そのための支配に惹かれるというベクトルもある。

けれども… 「愛を思い出した闇」は、その瞬間に「光」になる。

個人の中では、そんなことを小さく日々、繰り返して、揺れ動いている。それが、現在の人間の世界であるのだろうと。常々、ヒーラー目線でそう思っています。

Love and Grace
Amari(青野芹)

融合の哲学 — M.ガブリエル・フェミニズム・神智学 —

相変わらず休「韓」期が続いているので、NHKオンデを開くと、放送されたばかりの『マルクス・ガブリエル日本を語る2023V』があり、早速視聴。このシリーズ、「欲望の時代の哲学」や「欲望の資本主義」は好きで全部見て来ている。

哲学者である氏の話は抽象的で捉え難いけれど、そのままフワっと受け止めるようにしていて、そのフワッとの中には自分なりにエッセンスとして理解できている感覚がある。「世界は存在しない」のフレーズで一躍、知られるようになったガブリエル氏だけど、そういえば、「一元的な世界は存在しない、それは分かるとして、その先どうしろという哲学理論なんだろう?」と、本を数冊買い集めているのによく分かっていない(丁寧に読了には至っていないゆえ)事ににふと気づいていて。

今さらだけど、人道、倫理、ヒューマニズム(人間愛)を、呼び戻そうということか・・と、今回の新しい番組を見ながらおさらいしていた。一見(特に自分にとってはずっとそういうものだと思って来たし発信してきたので)ごく普通、当然と感じるようなことだから、フワっとしている、という体感だったのかもしれない。識者の方々はどう評するのかなと検索をしてみると、こちらの記事が参考になった。

(集英社新書プラスHP 『新しい哲学の教科書』著者・岩内章太郎氏インタビュー)

あらゆる既存の概念を一度否定してみる「ニヒリズム」=ポストモダン主義哲学(少し前の時代の主流哲学)から、もう一度、人間をめぐる「実存」について考えてみようというのが新実存主義、ガブリエル氏の新実在論では、ヒューマニズムや倫理をその「実在」に据えている。世界という決まった枠組みが実在する訳ではない・・という感じかな。

そのせいか、どうも最初にこの方をNHKで見た時に、(ゲリーボーネルさんが言っていた、現代に再来しているという)キリストの生まれ変わりではないかという気がしてならなかった・・のは、はっきりと口にはしないものの、仰りたいことは実際に「愛」だと感じたからかもしれない。今はまた別の候補(キリストの・笑)が私の中でいらっしゃって・・ まあとにかく、人類の現状をどうにかしようと考え、あの手この手で奮闘している人たちは沢山いるものだと、この10年くらいは感じたり、そんな人々を発見したりしている。

上でリンクしたインタビュー記事で岩内先生は、「哲学とは困っている人のためにある」と考えるが、ガブリエル氏の哲学はあまりに「普通の人々が感じている普通の『大切なこと』を取り戻そう」という話で、本当に困っている人には役立たないかもしれない、と仰っている。

確かに・・ だから、ニヒリズムに染まって道が塞がっていたような哲学界にとっては、新風で、「天才だ!」という事になったのかもしれない。普通の人々は普通に生きる中で人間性の重要性を知っているところがある。特に女性は・・男性社会の、キリスト教的風潮をベースにした、かつ知の最先端をゆく哲学者の世界には、方向展開のために必要な風、新実在論、だったのだろう。

・・で、番組を見ていても、本を読んでも、そのそも西洋哲学それ自体が、女性性的なハートの感覚でいえば、「単純な話をあえて難しくして順番にひとつひとつ手順を踏まないといけない遠い道のり」という感じがしている。そうかと言ってここで道を分つのではなく、女性性的な感覚もまた(日本の一般人の集合意識は男性も含めこの感じなのかも。ハート的な直感や空気)怠惰や甘えを生んでしまうので、両者を統合していくしか無いと、やっぱり10年前くらいから考えている・・&私なりに少しずつその努力を、色々な意味で続けている。

もちろん単に哲学界の中だけでなく一般社会の気風や時代の世相、雰囲気というものとも確かに連動していることは間違いなく、ただそれが一般の人々には余り自覚化されない、というか、興味を持たれない。90年代以後の哲学的視点でいう特徴は「メランコリー世代」とも言えるそうで、その前のニヒリズム世代では「なにもしたくない。どうせ全て無駄」(おそらく私の世代や、付き合いの多い周囲の人々はここに当たる)という風潮だったものが、90年代以後の空気を感じて育っている人々は、恐らく社会が問題を抱えた側面を多く見聞きして育っているせいか、

「なにをしていいか分からない。でも、なにかしなくちゃいけないのでは?」と。それが最近の若い世代になると更に、「自分に何が出来るか」と悩み始めるくらいに、変遷して来ているという。その話も納得だ。けれど、国や集団によって、差はあると思う。我が子を通じて色々な土地の、普通の学校、オルタナティブ(シュタイナー)教育、新潟、奈良、横浜、東京・・と、子育てしながら経験して来て、それぞれの集団の感覚、空気というのはまた違っている。

「哲学というのは困った人のために」というお話も確かに分かる。けれども、一人ですべてのことに責任を持つのも不可能で、ガブリエル氏はまずは「哲学界」に新たな風を入れることを自身のテーマにしているのかも。知識人層から、実際に思考の波が降りていって、それを指標に経済や政治が変わっていき、一般の人々の暮らしに影響していくと思うし。

私が14歳で「地球の役に立てねば」と決意し、16歳で「日本を出て歴史(世界史)の専門家として世界を旅しながら、次の時代に向けての指標を残さねば」と何故か思い立ち、けれど全く現実は追いつかずに(そして恐らく持って生まれた学才の様なものも足りずに)そのうちに日本の神秘に20歳で目覚めて、ひとまず日本に居るか、という流れに(笑)。そして早々に?(思い立って10年後には)アカデミズムで生きる夢をあっさりと諦めたのは、また別の可能性、必要性のようなものを感じ始めたからだと、今では思う。

もう忘れてしまいそうなくらい、遠い過去の思考だけど、たどって考えていくと、結局は「フェミニズム」に行きつき、男社会の男性原理の男性的なアカデミズムの中では、16歳で思い立ったような成果は残せないと感じた。当時はそんな言語化は出来なかったけど、今の言葉で表現すると。19歳でオノヨーコさん、21歳で白洲正子さんというカッコいい女性たちを知り、私のベクトルはアカデミズムよりも、お二人のような「表現活動」に傾いたのだ。それでこそ、女性意識、女性原理で発する、次世代へのメッセージになろう、と。

その後、滅多に尊敬する人を持たない私にとっての希少なこのお二人の女性が「旧華族」出身であると知って、「そうだよなあ。この世代で自由に表現されている立場だし」と、肩を落とした辺りから個人的ニヒリズムの世界へ(笑)。暗闇への自主的な落下によって、冥界下りのような時期を経て、スピリチュアルに出会う。そうでなければ、出会う事も無かっただろうし、出会い方が違っていただろう。多くの人々がそうであるように片手間に、スピに興味を持ってちょっとかじって、様子を見る、ような付き合い方だったかもしれない。

困っている全ての人に有効なものを、すべて自分の関係の中で生み出せる、生み出したいとは思っていない。自分なりのターゲットや目標を定めることは大事だ。続きは次世代がやってくれるだろう、というような算段も、もう年齢的に計画の中に入れていかねばと思っている。

この「スピ」という分野で発信している限り、マルクスさんのように「天才」とか「ロックスター」とか渾名されることなど無いだろうけれど、私たちがしていることは、表でずっと日が当たっていた男性的な輝かしい分野ではなく、歴史の中で疎まれて虐げられながら細々と各国、各文化圏で続けられてきたメタフィジカルな癒しと知恵の分野なのだ。主に女性たちが担って来た。だからこそ、女性性が虐げられるのと一緒に、その分野も封殺されて来た。

男性・女性の問題ではなく、男性たちの、男性社会の中の女性性も封印され、愛や感性を否定された文明が特にこの数百年、加速して来た。だからこその、ここで改めての倫理や人道の見直しなのであり、それは男性的感性からの歩み寄りだと言える。

逆に、スピリチュアルのような女性的な立場からも、歩み寄り、説明や表現を続けなくてはいけないと思う。そう、そんなこともだいたい10年前には考え始めていた。それはヒーラーとして。けれど更に遡ると、『ハピの巫女姫』を書いた2002~2003年頃に、自分なりにはそれを感じて「立ち上がった」、それが執筆への原動力となっていた。けれどあの頃は無職で、離婚したばかりの子育てがこれから始まるという段階。作品を書いたはいいけれど、どうやって生きていく?が、先行していた。実際に、そこに奔走する20年が始まった。

20年を経て、状況はそんなに変わらない。相変わらず大した土台も影響力もない。でも、少なくともスピリチュアル、ヒーリングの分野を通して、人間の見えない領域の仕組みや法則はだいぶ学んだし、それに基づいて人や社会や世の中も見ている。「世界は存在しない」も直感的には理解出来る。けれど私はやはり東洋思想の下に生まれることを魂が選んでの日本人である気がしている。

日本は、中国的な二元性、善悪、白黒の理念や、変化や発展や強化も入っていて、その気になれば発揮できる土壌でもありつつ、

やはり中国思想だけではない要素、理論を抜け出してハートでキャッチするようなアニミズムと、三元論というか、インド的な宇宙観が仏教を通じて染み付いている。現代の日本人自身が考えている以上に、仏教、つまりインド哲学、宇宙論の影響は日本人の中に世代を重ねて浸透している。

この、何とも言えないフュージョン感を持つ日本人という存在が、今掛かっている病理から解放されれば、世界はまだ救いがあるのかもしれない。というくらいに、同番組を見ながら感じた。日本人にインド(仏教的宇宙観)や中国(儒教=武士道)の影響が根深いのと同じように、西洋の人々の二元の縛りはとても強い。その手に委ねていると(政治的にはアメリカの傘下に日本は存在している)最近多いディストピア近未来映画のようになるのが自然の流れのようにさえ感じる。

ただ、本当にありがたく素晴らしいと思うのは、19世紀末には神智学という試みで、既にその「東と西」の融合のプロジェクトは始まっている。今、脅威と言われている政治的な立場が中国とインドであるという点も本当に意味深い。ガブリエル氏も今回の番組で語っていた。中国とインドの世界史上の存在感の凄さについて。歴史が好きな人ならこれは本当に間違い無いと感じるし、ましてそこにイスラム世界が加われば、尚更である。

女性性とともに虐げられて来たもの=見えない世界の探求 を、既に西洋人、それも知識人層に向けて、東洋の古代からの叡智を通して語り、分散した世界の思想を統一できるのでは?という志を持って活動したのが神智学だ。けれど「神智学」と呼ばれるものが完成されると、今度はそれを維持し伝えるという使命を帯びる人々が必要になる。

一方で、その恩恵を学びの糧としながら、次なる時代の知恵を展開していく試みも必要で。小さくても、目立たなくてもいい。ソウルが何を目的に生まれて来たか・・ 「メランコリー世代」に、考え感じてもらうキッカケにでもなれれば、良いのかもしれない。

Love and Grace

Amari

学びは進化。澱まずに変化しつづけること。

久しぶりに小蛇(白小蛇、またはミニ白龍)が左に来ていた。いつからだろう?今朝か、昨晩からかな。

「イワナガ姫の遣い」というほど攻撃性はない。その場合だと右の内蔵系に来るけど、左。怒りではなく、ひたすら悲しそう。でも脾臓にしっかりと繋がれていたから、バンパイアの一種であることは確か・・
人間だって、悲観的な人が側にいたら、そしてずっと泣き言を言い続けていたら、自分の波動も下がるし不快なもの。避けられるならば避けたい。

それと同じで、ただペタっという感触がエーテル体にあるだけであっても、その悲しそうな、そして頼ってくるような響きには心地よく無さを感じるから、外さずにはいられない。ワークし始めると実際に、触手のようなものが脾臓にしっかり繋がっている。。右の一部もズキっとした。

悲しいのかもしれないけど、人を頼ってはダメ。人から吸い取ってはダメ。解放して貰いなさい、貴方を「飼っている」人の悲しみの感情から。・・瞑想の中、レコンその他で外す。

考えてみれば、澱んだ水からこういった小さな精霊のようなモノノケが生み出されて、それをマジカルに取り扱うタイプの三次元や四次元の存在が居て。水の澱み=「エヴォリューション」テキストに書いている「腐」にも通じる。セラフィムやアンドロ存在(自然界の精霊)たちが、ネガティブな物質界の場や術に取り込まれ、生まれたエネルギー。

そう考えると、イワナガヒメ、リリスなども「もともとはセラフやアンドロ(精霊)たち」とも言えるし、人間界においても、腐の感情や行動や現実もあれば、それらとは無縁の感情や行動や現実もある。

スピリチュアルも、それ以外の分野でも、「難しいことは考えず言われた通りにしていれば大丈夫」ということは無い。特にスピリチュアル。
唱えていれば大丈夫、救われますよ、というタイプの鎌倉仏教が誕生した時、日本は飢饉やら武士の台頭と貴族の没落、疫病や天災など、色々がことが起こり、この世の終わりの雰囲気だった。パニックになる民衆を落ち着かせるために、彼らには学が無いため、色々な周波の始祖たちが念仏や題目を「発明」して広めた。
それまでは、飛鳥時代に仏教が伝来して以来、いわゆるインド哲学のひとつとして、学問であり、お坊さんたちが研究し専門家として実践、国家に役立てるためのものだった。

けれど今の私たち、無学な訳ではない。これだけ情報も交錯し、複雑化した社会に生きる。
スピリチュアル、メタフィジカルに(鎌倉時代以後ずっと)定着していた「理論はいらない」「信じていれば大丈夫」という風潮が、ある意味、宗教界などに多くの問題を生じさせて、ニューエイジ系の「スピ」も同じくだ。
考えなくてもいい、という空気は、思考や疑問や変化という風を知らず、「腐」のエネルギーが温存されやすい。

日本は水の国であるがゆえの、ネガティブな側面、課題、とも言える。
やっぱり、勉強って大事。学ぶことは、変化を受け入れること。学んで成長することで、常に変化、進化していける。
何事も。つくづくそう思う。

Love and Grace

歩き出さなければ、次の道は見つからない

二日前の朝、目覚めとともに「まずは己を知ることから始まる」と心で呟いていたので、ブログにでも書くのかな?と思っていた。ブランチを食べながら見るために、オンデマンドで番組を探していたら、『永平寺』が目につき、メニューが和食だったからちょうどいいかなとチョイス。

道元が開いた福井県の永平寺は禅の曹洞宗の大本山。仏教史を学んだ中で道元の思想というのは私はちょっと合わないと感じていたけど、禅は海外のインテリにも人気、ジョブズも永平寺に行きたがっていたらしい。禅問答の世界は左脳も刺激しそうだし、他の宗派とは違い、東洋独特の(インド、中国、チベット、そして日本の)民族宗教の湿りっけが混ざっていないドライさも、西洋人には抵抗なく受け入れ易いのかも。
さほど食いついて見ていたわけではなかったところ、修行に入って年数が浅い禅僧(雲水:うんすい)たちがまず徹底して学ぶことは「自己を知ること」と出てきて、おおっ「夢で先に見ていたのかな」と、導かれている感じが高まり、集中して見始めた。
まずは己を知り尽くすこと・・そこに立ててようやく、禅の修行者として歩み始める。己を知り、不要なもの(煩悩)をそぎ落としつづける。やがて自己そのものを捨て去ることで、解脱・悟りへ向かう。・・と、他の仏教や神智学からしても、ヒーリングやニューエイジでも、当然のことなんだけど、改めてなぜかそのフレーズ「まずは己を知ることから・・」を、メッセージされた。
同時に、なぜ人間は「自分を知る」ことにそんなに長い行程や、迷いの日々が必要なのだろうかと、日頃思っていることでもあるので、改めて考えた。私自身は水瓶座か、第一光線か、単に過去生で(今世でも)修行をしてきている?からか、気が着いたら最初から「わかっていた」。自分の進む方向、やりたいこと、やらなくて良いこと、全てはっきりしていて、若い頃から迷わなかった。ただ、はっきりし過ぎていて、そうではない事柄との摩擦で苦しみはしたが・・・
雲水さんたちが厳しい修行の中で見つけていくのはもちろんそういう事ではなく、24時間の生活の全てに決められた厳しい作法があり、四季の移ろいで暑い・寒い、毎日の座禅が辛い事もあるだろうけど、その中で立ち上ってくる自我、感情や思考のゆらぎを通じて、「自分」つまり「自分の中にいかに迷いが隠れているか」を体験し、「己を知っていく」のだろう。
「自分探し」に何十年とかかっている人々も居る。同じパターンを繰り替えしているのに、そこから学んだ筈なのに、見ていて祝福と成長の道筋に乗れているのに、当人はあるものを「無い」と言い、盲目的にまたいつもと同じ行動をとって、乗れていた道筋を無駄にする。そんなことも少なくない。そんな人は、神智学に言う「グラマー」に染まっているから、言葉で止めることは出来ない。

人はなぜ、「自分」を知らないのか。

シュタイナー教育を見ているとなおさらそう思う。18歳で子供たちは、ある程度人として出来上がる。自分のことを知っているし、世界の中で自分をどう活かそうか、さて・・と、自然体で当然のように考えている。
ヒーラーをしてきて最大の疑問は、「変わればいいのになぜ人は変わらないのか」「なぜ道を示されているのに、歩みはじめて手応えを掴んでいるのに、また堕ちていくのか」ひいては、この世の仕組みの中で、人の心・意識はなんと弱いのだろうか、と。傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどから、人は成長していく(現実を改善していく)道からわざと自分を逸らす。・・・けれど、それが自分で分からないから、長引く。
お寺の厳しい修行の中で、自分の傲慢さ、頑固さ、愚かさ、甘さなどに気づいていき、それを超えていくという仕組みなのだろう。つまり、甘い環境の中で生きていると、自分を見つけることさえ出来ないのかもしれず。歴史的にも、豊かになりすぎると人心は腐敗し国は滅びに向かう。ただ、甘い環境にいる(自分を甘やかしている)人が、「自分は厳しい状況にいる」と思い込んでいるケースも多く、それでは抜け出せないよなあ。。。という感じだ。
 永平寺は厳しい修行寺として知られている。世界中にファンが居て、サテライトのお寺も海外にあるらしい。道元は中国に留学した折、どんな深淵な教えと修行が待っているのだろうかと思っていたところ、生活そのものが全て禅である、修行である、という考え方を学び、体験し、二年ほどの留学期間に「心身脱落」(解脱・悟り)に至り、帰国。もとは京都の公家の生まれで比叡山に籍を置いていたが、あえて北陸、福井に大本山として永平寺を開き、曹洞宗の宗祖となった。
日本の仏教史、そしてインドでの発祥から全体の仏教史と、二度、学ぶ機会があった中から、少々、予備知識をご紹介。
インドには無かった禅宗は中国で生まれ、五家七宗に分かれ、そのうち臨済宗と曹洞宗が日本に入っている。禅における思想的な軸は「ありのままを受け入れる」か「ありのままを超えていくか」の解釈であり、考え方の違いにより宗派が分かれていったそう。また「ありのまま」の本来性をどこに求めるか、の解釈にも相違が生まれ、人間としての「あるがまま」を自己とするか、別次元の(魂?)自己をそれをするか、により系統が分かれたりと。
そのような伝統を受けて、道元は自ら新しい哲学を打ち立てる気迫で、仏典、釈迦の伝承や言葉を自ら改めて解釈しなおし、既存の禅を否定しつつ独自の思想体系を構築していったようだ。大著書「正法眼蔵」の世界観は凡人には理解しがたく難解。言葉遊びをしているようで、落ちがあるのか無いのかも分からないようで、結局何か言いたいのか、特に何も言う気はないのか・・それが落ちなのか。という感じ。
以前、ちらっと読んだ時は「ああ、ダメだわ。合わないわ。」と、自分の好みではないと決めてしまっていた。けれど今回、「永平寺」をふむふむと見終わった私にNHKさんは「関連番組」として「100分で名著」の『正法眼蔵』を進めて来た。分かり易く解説してくれる同番組なら、何か新境地を感じれるだろうか?と、見てみることに。要点と、興味深かったことを以下にざざっと。解説者ゲスト、ひろさちやさんのお言葉を中心に。
自我を捨てるのが悟りだが、「悟りたい」と思うのは自我であるから邪心である。(から悟れない)
→ほんとにその通りだ。悟りとは、自然と至るものであらう。
本当は既に悟りの世界(全宇宙)に生きているのに、迷うのが人間。
とにかくは歩み始めることだ。そうすれば、自然と次の道が見つかる。
→その通り。いつもうちのクライアントさん、生徒さんたちに言いたい「始める前から心配しないで。とにかく始めないと。」
迷うことは道元は一切否定していない。しっかり深く迷いなさい。そうすればいつか抜けられるから。
→これも本当にその通り。そこに真剣さが必要で、深く生きるということだろう。迷いを打ち消すことは出来ない。とことん迷って、ナチュラルな責任意識とともにそこから抜ければいい。
「悪を行うなかれ」ではなく、日々の修行生活をしっかり生きていると、自然と「悪など行えなくなる」
→これもよく分かる。きちっとした身のこなし、清潔さを保つ、無駄をせず食す、などの厳しい規律の中で生きていると、波動が高まるのだろう。そうなると、波動の低いもの、低い思考や感情は抱けなくなる。これはヒーラーとしての生活からよく実感できる。
「あるがまま」を肯定する禅の一つであるし、何に対しても結論づけるのではなく、あらゆるものが、世界そのものが既に仏であるとし、悟りは向こうからいつかやってくる、と説いている道元はいわゆる「他力(たりき)」の教えであると誤解されることもあるそうだ。けれど解説のひろさちや氏いわく、ヒンドゥーの喩え話を使って、
サルの親子。子ザルは、母ザルのお腹に自分でエイっとしがみつき、自力でぶら下がっていなくてはならない。母ザルが運んでくれるとは言え、これは自力である。一方で、ネコは他力。子ネコは母に咥えられ、運んでもらう。子ネコ自身は何もしなくても安全な場所へ運んでもらえる。
道元の教えは前者、サルの「自力」であるという。運んでくれるのは仏。けれど、仏を信じるという努力が、自分サイドで必要である。
→これも全く強く同感で、いつも皆さんに言って来たことでもある。高次が運んでくれる流れがある。常にその流れを感じれるように。そうすれば乗っていくだけだから、と。
・・・でも、どうして流れに乗れない、というか流れさえ見つけられない人々が居るのだろう?というのが、私の疑問でもあった。冒頭に書いていたこととも重なるが・・エネルギーワークや、瞑想や、ヨガでも他の何かでもいい、学びは全て同じだが、何か新たな「良きもの」と出会えば、学ぶ意思があれば、自分が「変わらない筈はない」というのが、自分の自然な感覚だった。逆に「変われずに居られる筈がない」と。
まして、ヒーリングやエナジーワークでエネルギー層に働きかけるなら尚更のこと。セッションや伝授を受けて、「分からない」「変わっているのか?」と疑問を口にする人が、ごく稀だけれど居る。一方で、スイスイとひとつひとつを理解して、進んであっという間に成長する人たちも居る。怠慢さや、信じる気持ちの欠如からちゃんと活かそうと努力していないから、という単純な理由もあるかもしれないが、もっと掘り下げれば、シャドウセルフや周囲のエネルギーなどから、変わっていけない仕組みが隠れている、と、解釈することもできる。そこには、適切な処方も必要だろう。けれどやはり、当人の「変わりたい」という強い意思、信念がなければ何も根付いていかない。(ヒーリングも「他力」ではないのだ)
昨日もちょうど、生徒さんたちとセミナーでそのような会話をしていた。永平寺の特番を見ていたのは一昨日だが、昨日あらためて大きな疑問、問題意識を抱えて帰って来たところ、「100分で」を見て、その子ザルの比喩が本当に、ピッタリだと感じた。
「自分は最初から仏の世界に存在している、仏の子である」と信じなさいと道元は言っている。苦しむ時も、迷う時も、それはそれで良し。いつか仏が、悟りが、迎えに来ると信じてしっかり苦しみなさい、迷いなさい。けれど・・・「信じる」「信じ続けるという努力」は、自力で、自己責任で、われわれサイドに欠かせないもの、ということ。
ヒーリング、エネルギーワークも全く同じだ。
以前から何度も、同じようなことをブログに書いてきた。「信じる力があるかどうか」・・・もし私に、ヒーラーとして何か才能があるとしたら、それくらいだろう、と。あとは高次がうまく運んでくれる。それを信じて、アルファ波的なリラックス状態でクライアントの横に座っている。自分からガザガザと考えたり、セッションをうまく運ぼうとは考えず、無欲で。
それが中々、人々に通じなかった。みんな心配し、うまく出来るのか、これでやれるのかと呟く。5年、10年と学んできた人でも、強い恐れが発動し逃げるように去っていく姿も。「信じるという才能」が、ヒーラーには必要なのだ。
・・・と、自分には合わないと思っていた道元さん。急に親しみが、そしてもちろんレスペクトが湧いてきて、「100分で」を全部(4回で100分)見ることに(笑)した。
天才肌だったのでしょう、一般的な仏教における解釈とは違う論を、新たに展開したという特徴もあるよう。そうそう、当時は平安末期からの末法思想の蔓延で、人々は若干パニック。天災や戦乱などにおびえる民衆はいよいよ末法の到来だと、大いに恐れていた。そんな大衆の処方箋として、現世ではなく死後の阿弥陀浄土へ行けるように阿弥陀様を信仰しようという浄土宗、浄土真宗が大衆レベルでウケた。
同時に、都と幕府の対立の中で権力者たちは加持祈祷を行う密教系の僧侶を重用した。どちらも、仏の真の教えからかけ離れているとして、道元は危機感を感じていた。ブッダの教えを改めて提示し、本来の仏法を教え、残さなくては・・そこに、使命感を感じたよう。禅宗や、曹洞宗であるというアイデンティティにこだわるよりも。
そうそう、仏教の勉強を趣味でして来た者として、番組を見ている途中で、これは原始仏教、つまりシャカ自身の哲学に近いのでは?と思っていた。法華経や華厳経含め、いわゆる大乗仏教はシャカの死後数百年を経て生まれた新しい潮流で、それぞれなんらかの土壌を持ち、なんらかのニーズに応えるものとして生まれていた。シャカの本来の仏教ではない、とさえ言われることがある。
一人の人間として自分を徹底的に見つめ、自己を乗り越えて自らの中に悟りを引き寄せ解脱する。密教のようなマジカルなパフォーマンス、華厳のような絢爛豪華な世界観は無い。
なぜ、道元が京都を離れて福井県の山深い地に永平寺を開いたのか。については、諸説あるそうだが、ひろさちや氏の解釈では、
「プロフェッショナルな仏教者」「本物の修行者」としての弟子たちを育てるために、隔離された場所で、少数精鋭を純粋培養しようとしたのだろう、と。
本物の、プロフェッショナルな者たちを育てようとした。
世間で横行している、権力(ビジネス)に媚びた仏教ではなく、大衆受けするための教義ではなく(けれど浄土宗や日蓮宗などは、当時の不安を抱えた力のない一般の人々の助けになったことと個人的には思っている)、
ブッダの真の教えを再現し、それを純粋なまま実践篇で体現していく修行者を育てていくための、指南書「正法眼蔵」、そして修行場の永平寺。
急に道元さんが、他人とは思えなくなって来た(笑・分かる人にだけ分かるところ)。
そして800年もの間受け継がれ、今では世界から注目される存在となっている。
いつの世も、思想やスピリチュアリティにおいて、起きることは同じだと今回もまた改めて深く感じ入った。同時に、二日前の目覚めの瞬間に響いたフレーズからのこの流れは、メッセージでもあり、シンクロニシティでもあり、ガイダンスでもあったのだと感じた。
感謝。
Love and Gratitude,
Amari
P.S. 生徒さん向け、アップデートブログも本日、更新しています。

窓のないモナド・インドラの網

(私物)ドラゴングラスと私は呼んでいたもの。今では違う名前で他の方が扱っているけれど、2009年だったか、ある石が欲しくて探し回り、英語サイトを探して探して・・とやっているうちに見つけたアメリカ人女性のショップ。日本人初の小売店として彼女から卸してもらっていた石たちは、独特の活気があって素敵だった。

私のほうでは周波数帯のような部分で時期が終わったかなと感じて、取り扱いを辞めたけど・・ちょうど時を同じくして、私のサイトで見たのをキッカケに日本の方が彼女を探し当てたとのことで、日本には引き続き入る道が出来た。

この「グラス」ではないが、カレッジでも教材として毎年使っていたので、うちの生徒さんたちが毎年、そちらのショップにその時期になると買いに行くという現象が続いた(笑)。そんな風に、当人たちは無意識でも、常に必要なことは移り変わり引き継がれ、この世界に途切れることなく、別次元からの波長が届くようになっている。

そのアメリカの方が、ドラゴンシリーズの販売をスタートし始めたまさにその時を見ていたので、なにしろ初期の初期。こちらのグラスもリュミエールやブログから販売しつつ、「社長特権」で自分用に取り置いたのは、なかなか大きくて、美人たちなのである。今、身辺整理のモードに入っていて、リュミエールではビーズのストックからのブレス群につづき、私物や、最後の石巫女での登場を終えたサロンの石たちを、Amari’s コレクション、略して「Aコレ」として、出し始めたところだけど・・・・・

このグラスたちは、今のところは・・・・売りませんっっ(笑) 最小限、記念になるものは残しておかねば。。

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「華厳経(けごんきょう)はモナドロジー、ライプニッツだ」と教わって、こわごわとライプニッツ、「モナドロジー」を覗いてみた。法華経とは違い、確かに華厳経は何か冴えたビビっと刺さるようなものがある。法華経が女性的なブッディ・モードだとすると、華厳思想は男性的なアートマだろうか。量子物理学と華厳哲学の一致に、知的な人々も注目しているらしい。

法華経は「この法華経って本っ当にすごいんだから。ねえ、試してみて。ぜったい凄いから。。」と言い続けているような内容。一方で華厳は、世界観をぐぐっと全宇宙に広げて、盧舎那仏(アートマン、ブラフマンつまり宇宙の源という説もある)という究極の如来(仏)を世界の中心に据えつつ、最小の微粒子の中にもその仏国土が無数に入っているのだ・・とか、大と小という対象も、全と一という対象も、有と無、有限と無限など、あらゆる相反するものが、本来はすべて矛盾しないと説く。「あらゆる矛盾律の超越」という一大テーマを掲げる。

時間の過去も未来も無い、とさえ言う。すべてのものが、関わりあい、干渉し合いながら存在している。が、主体と客体など無く、互いは溶け合い、含みあっている、という。まさに、量子物理学で分かって来ている宇宙や万物の仕組みを語っているかのよう。それはインド哲学という、そもそもの秀でた哲学的伝統を受けているから、でもあるけれど。華厳思想という形で新たに整理されたことにより、宇宙のフラクタル構造がヴィジュアル化され、密教の曼荼羅宇宙はここから派生していった。

民衆化・一般化されることでバラエティに富む楽しい世界になっていったような密教の印象に比べて、華厳宗はハイソな貴族的僧侶であった哲学者たちの領域として、守られたイメージがある。日本での総本山はなにしろ奈良の東大寺である。民衆化することなく、学問寺であった。今でも、檀家や信者などが存在しないため、拝観料で維持されているという独特の存在感。(東大寺は昔から好きで仕方ない。。また別の機会に書こうと思う)

そうそう、モナドロジー。神智学で採用された「モナド」は、ニューエイジでも継承され、私たちの魂のもっとも原初的な、創造主から分岐した「個」を表す言葉になっている。もともとは哲学用語で「単子」、ギリシャ語の「モナス」「モノス」に由来する。このモナドは、二つとして同じものはない。そして全てが内的に作用し、外部からの影響を受けることはない、という。ライプニッツは「窓のないモナド」と表現していて、つまり(右脳な私が物凄く飛躍的に解釈するに)他者によって何かされてこうなる、というような因果律ではなく、すべて、モナド自身が外部の世界を生み出している、という意味。。?

その理論(モナドロジー)が、華厳経で繰り返し出てくる「すべてが繋がりあっている」「心(意識)が世界を生み出している」に通じるという。窓がないから、モナドのレベルだと互いに外的に影響を与えるということはない。しかし、全てのモナドは響き合い、互いの情報を内包しあっているという。まさに量子物理学。

そんな、モナドロジーな華厳思想はしばしば、「インドラの網」に喩えられる。インドの神様インドラは、日本で言う帝釈天のこと。そのインドラ神をまつった寺院(神殿)に飾られる装飾の網のようなものであると言う。画像を検索して見てみると、同じパーツが無数に、網のような装飾でつながっている、天井から吊り下げるような、金属の暖簾(のれん)のようなもの。

ヴィジュアル派としては、モナドロジー=華厳思想を、このインドラ網をじっと見ることで理解しようと試みた。

すべての単一存在が、繋がりあっている。これはワンネス思想でおなじみ。もちろんアニミズム(自然崇拝)においても。

けれど、外的な影響を与え合うことはない。全てが内部で起きる。そして、合わせ鏡のようなインドラ網のようなフラクタル構造が、その、全てで起きたことを互いに記録し、含有し、ともに微細な変化を常に受け取っていく。

外的な影響を互いに与え合うと思い込んでいるのは、この物質界、三次元だ。けれどそうではないという、インドラ網のネットワークですべての情報も過去も未来も共有し含み合い、一斉に変化を伝播させていくというのは、魂の世界。あるいは量子物理学で見えてきた宇宙のエネルギー領域。

外部からの影響や相互作用など、本来は存在しない。幻想である。個々の意識、モナドが個性を帯びた情報から、外部に映し出している世界。その投影された現象・幻影同士が、影響を(エネルギー次元まで)刻むことで結果が現れるのではない。個の中で起きた変化が、映し出される世界の映像を、変えていく。。。そして個に起きた変化は、ほかのモナドすべてにも情報として内包されていくのだ。

ニューエイジのスピリチュアリティでも、よく言われることでもある。

そして、華厳哲学の真髄は、毛穴の中に宇宙がいくつも展開される、というような矛盾律の超越であり、それを理解できないと、他者を悟りに導くことは出来ないという。そもそもが、幻影である世界の想念に取り込まれていると、魂の回帰への道は前に進まない。堂々巡り。私たち人間の意識・心がそもそも幻影的に動くメカニズムなのだから、宇宙のエネルギー法則が矛盾しているように「見えてしまう」。

三次元の幻影的な思考メカニズムで、「矛盾してるじゃない」と決めつけてジャッジしてしまう。エネルギー視点で三次元を生きていこうとすると、幻影の枠の中で思考する世界の内では、しばしば路頭に迷う。天才の中の天才と言われたライプニッツも、晩年は寂しく苦しい人生であったという。それでも、天才たちはまた、降りて来てくれる。これを仏教的には、「菩薩道」というのだろう。

一切衆生(すべての人間、すべてのソウル)がこの次元の幻想世界から抜け出せるまで、人間界に生まれたり、インスピレーションを与えたり、なんらかの「任務」についたりして、菩薩「ボーディサットヴァ」たちは諦めることなく働いているという。華厳経でも、他の大乗仏教と同じく菩薩行に重点が置かれ、菩薩たち(つまりライトワーカーだ)のやるべきこと、なされるべき修行や境地について、提示している。そこが(具体的なメソッドが提示されない)法華経とは違う点で。女性や就学の機会の無い民衆向けの法華経、知識人や学者向けの華厳経、という感じで発生したのかもしれない。。

宮澤賢治が「インドラの網」という物語を書いているそうだ。ちなみに彼は法華経信者だったが。。

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人間の脳のつくりは、様々な分類を好む。そうでないと、この複雑で行きにくい物質界ではやっていけなかった故の、進化というか、退化というか。

矛盾律の超越・・・は、実は個人的にはいちばん、人間としてやってきて(?)他者との、つまり三次元的思考メカニズムとの共存の難しさを感じる点だった。つまり自分は超越OKというか、最初からそのフィルターが無いというか、過去生で大乗仏教かインド哲学を修行していたのかもしれない。

エネルギー次元をベースにして魂システムと連動して感覚する、行動する、発言する、そこからズレたくない、を貫くと・・(他者の・世間の)三次元思考と感情の波に揉まれてしまうことになる。けれど、そうそう。これが菩薩道なのだと。。分かっているからまたやってしまう。ずっとそれでやっていく。

アルガンザのヒーラーズカレッジのテキスト冒頭で、フリーエネルギー研究家の飯島秀行先生の言葉を紹介している。

「自分は人間なのだ、と思っている人から、知恵は出ない」

知識とは物質だけれど、知恵は宇宙エネルギーである。アリス・ベイリー著でも、チベットマスターのジュワル・クールが同じことを言っている。

ヒーラーとして、「ライトワーカー」と自認・受容し活動してきて、同じフィールドにいる、あるいは目指している筈の人々でも、ほとんどが、自分が「人間である」と思っていることに、いつも不思議な驚きや時に失望を味わってきた。そのようなフィールドを学ぶ人、そこで仕事をする人は、飯島先生の言う「人間である」と思っていては、宇宙エネルギーの扱い手として機能しない、と思う。本当に。「魂である」=宇宙存在である、と自認するからこそ、宇宙エネルギーとともに仕事をしていけるし、真に人に変化を齎すことのできる波動が動くのだ。ちなみに誤解のないように、ここでいう「人間である」とは「肉体存在である(に過ぎない)」という意味。非人間的であれという意味ではない。念のため。

一応は、地上で生きているわけなので、100%が魂であれという訳にはいかない。けれど、ソウルセルフがエゴセルフを凌ぐだけのフォースを、繰り出せるようにしておかなくては。魂が、地上を体験しているという今の我々、人間の生存自体が、矛盾している。そこから拮抗、葛藤が生まれている。ゆえに世界が常に不安定で、人体には病気も発生する。

ライトワーカー、ヒーラーをしている人たちの中でも、「高次の言いなりになりたくない」「自分の領域は守らねば」というような言葉を聞くことがある。そこに私は違和感をずっと感じて来た。「高次」「高次」と表現していても、それは私たち自身である。自分の魂が、この三次元に降りて来てこれをやろうと、決めていることを進めていくわけだから、自分自身が魂主導で生きていれば、エゴセルフとソウルセルフはうまく融合し、「領域を守る」もなにもない。

立派なお仕事をされているライトワーカーの方の言葉でも、「乗っ取られないように高次にはちゃんと意思表示をした方がいい」というニュアンスを聞いたこともあるけれど・・それこそがある意味、二元的な考え方だと思う。「モナドロジー」的に言えば、外部からの力ではなく、内部から魂は活動している筈、というのが私の感覚。ただ、自分のソウルと、パーソナリティを融合させ、エゴセルフの抵抗を抑え、ソウルセルフと折り合いをつけて、時にエゴセルフの言い分も聞きつつ、本流はソウルという本来の自分に融けて回帰していく。それだけのことなのだ。(もちろん自分のハイヤーではない怪しいモノに乗っ取られてはいけませんが。。基本的なライトワーカーの仕事とは、自らのハイヤーシステムと連動するということだから)

色々なものを分類し、切り分けて考えて、変に自己防衛をしたり、他者批判をしたり、分離を起こしたりしていく。そもそもの意識に、差別(仏教用語としてはシャベツ)をたくさん張り巡らすために、自分の生きる現象世界が難しくなっていくのだ。上にあげた飯島先生は言う。「神一元。宇宙の仕組みはたったひとつ」

そのたったひとつで、受信し、咀嚼し、発信し、発言し続けていくことで、少なくとも自己矛盾は消えていく。葛藤せず、苦しみが生まれないモナドとして、存在できるようになる。が、その肯定では、「神一元」では動いていない雑多なエネルギーに揉まれてしまう。それでもめげずに進み続ける道が・・・菩薩道、菩薩行、といったところか。

今日はこのくらいで

Love and Grace,

Amari

ロゴスとレンマ、二元と三元、からの無限。

読書していたら行き当たった「ロゴスとレンマ」。哲学概念で、簡単に言うと西洋的二元論が「ロゴス」、東洋的な三元論が「レンマ」という言葉で表される。三元論といっても、AとBとCということではなく、AとBの間の中間地点を、その真ん中に在る・・在るというよりも揺らいで漂っているAとBの関係性のようなエネルギーを重要視するのが、「レンマ的」であるということ・・なのかな?と自分なりに解釈。

これは、メタフィジカル&エソテリシズム(秘教)的な視点で言う、「レムリア」と「アトランティス」の拮抗からの受容と統合が今とこれから数年のテーマとして強調されるのではないか、と今年に入って感じていることと通じるな、と思った。

同時に、思い出したことがあって・・・まだヒーリングやメタフィジカルを始めていない、年代で言うと2001年〜2003年くらいの間のこと。娘が確か1歳の頃に初めて自分のホームページを作り、一人旅をしていた記録や、それにまつわる古代史や思想系のエッセイ、趣味で書いた論文などを載せていた。当時はブログというものさえまだ存在せず、掲示板・・に、同じ興味を持つ人々が互いに執筆物を読み合い、感想を書き込みしたり、という時代。その頃、私が発表していた古代史や思想や民俗学などで繋がっている方々は大抵が年配のおじさま・・で。

そんな、当時のネット仲間であるおじさまの一人が、「ロゴス」「レンマ」という言葉は使わないものの、西洋的な二元論に中国の思想的背景も含まれるが、何事も中国から文化が入って来ているにも関わらず、日本人の精神には三元論が土着として浸透している。そのルーツはインドである、と論を展開されていたのがとても興味深く、よく覚えているし、以来、ずっと私の中で「インドから中国を経由してやって来た文化は、中国ナイズされている筈なのに、なぜ日本人は自分たちの独自性を貫くことが出来たのか、何がそうさせたのか」というテーマは、日本という集合エネルギーを考える際に、常に頭の中に有った。

同じ構図は、新石器〜青銅器時代に対する鉄器時代、にも見られるし、分かりやすく言えば縄文(とそれと調和的に発展した出雲)に対する弥生、神話ではクニツカミとアマツカミと言ってもいいかもしれない。究極はレムリアとアトランティスであり、アルガンザのジェネシス概念では、レムリアに起きた予期せぬレムリア人種の「混迷」、アトランティスで起きた人類の自由意志による「堕落という選択」ゆえの一旦のリセット後の、大洪水後の今の文明期には、それらの要素を再び人類の中に両方とも発露させ、その拮抗を乗り越えて、自分たちが歴史的カルマを統合できるかどうかが試されている、と考える。

それは、ずっとず〜っと、テーマであり続ける訳だけれど、いよいよ社会レベル、個人レベルで魂に向けて突きつけられているのが、今とこれからなのだろうと。

少し角度を変えて更に気づいたのは、

このところ仏教やインド哲学を覗くことが多い中で、インドの当時すでに出来上がっていた伝統的バラモン哲学と、それに対する思想革命として生まれたシャカ(ブッダ)の哲学(後の仏教)は、この2元と3元のような構図で、対立していたのだということ。バラモン哲学では、究極的な絶対存在、宇宙の根源であるブラフマンがスタート地点としてあり、

創造の降下の中で、意識・アートマンが生まれる。それが肉体を持った人間を顕現させていて、いつか個我を超越し、根源の中へ回帰するという流れが大前提となる。が、シャカの思想は宇宙論を含まず、とにかく「今ここ」に在る我々、それも実体はなく、ただ互いに作用し合う関係性の中で全てが生まれては消えていく・・ゆえにカルマを滅して悟りを開くべし、ひたすら己の精神性の純度を上げていくことを重視している。

哲学の世界でいう「ロゴス(西)とレンマ(東)」のような思想的な構図は、同じインドの中でも正当バラモン哲学と、革命児であったシャカの新しい思想の関係性の中に見られる気がした。そもそも、我々とは何なのか、世界とは何なのか・・という出発点から始めるインド哲学に対し、シャカは始まりを自分・・一人の人間にした。

全ては関係性の中でたゆたう。関係し合うエネルギーとして、在るように「見えている」ものは、関係を様々に生み出して束縛し呪縛しているエネルギー(カルマ)さえ消えて行けば、いつか、在るように見えている状態、つまり存在の必要はなくなり、消えていく。・・・確かにそのようにも感じる。個人的な魂レベルの思想として、自分の中には何が刻まれているのだろう?今回改めて、考えてみた。

全体性への回帰、意識だと思っているものの消滅、これは間違いなく自分の中で「そうだ」と思っているようだ。おそらく過去生で知って来たことなのだろう、当然のようにそう思っている自分が奥にある。が、個としての個我がどこまで遡れるか・・これは神智学で言えば「モナド」ということになるが、モナドとはニューエイジでもよく聞く「ありてある我」のことである。

そんなことを考えて唸っている時、このような記述を見つけた。

中世の哲学者トマス・アクイナスについて

彼が存在を「在りて在るもの」と定義したのは、存在と本質とがそのものにおいて同一であることを表している。

存在が自己のうちに根拠をもつということは、他の何かに「因って/縁って」存在するのではなく、自らに「由って」あること、すなわち「自由」を意味する。その存在は、他の存在との因果や縁起によってではなく、「自己原因」(スピノザ)によって存在する。つまり、存在は存在するが故に存在する・・・

『あいだを開く レンマの地平』(木岡伸夫・世界思想社)

哲学って堂々巡りな気がする。。でも面白い。

そして自分なりの「存在論」について思い巡らせて見た。エナジーワーカ、ヒーラーとして、神智学でいう「神秘家」つまり感じて体験する方面を歩んで来たことが、こういう時には肌で知っていること、体感として、難しい思考を超越・中和するのに役に立つ。ジェネシスヒーリングの概念や、石巫女クラスで扱う地球史についても、常にそのような手法をとって、最後には「持論」を整理する試みをいつもしている。

インド哲学、シャカの哲学、そして神智学

モナド、アートマン、ブラフマン・・・

すると、全てが拮抗するものでもなく、同じ本質をただどう語るかにおいて、つまりフィルターが違うだけだと感じた。個我を超越し、意識は滅し、全体性の中に帰る。それが無であるか、愛や創造の源なのか、というだけのことだ。そのどちらでもいい。どちらでもあると思える。そして思想家は、その時代のニーズに答えようとする。それが魂が今世、持って来た意味でもあったりする。故にそれを精一杯、シャカもキリストも多くの哲学者も、生きようとするのだ。

いつもそういう意識が自分の中に在る。何も矛盾せず、ある意味で全てが矛盾してもいいと思っている。その奥に在るものを引き出すために、今、自分が何を出しておくか、ということ。存在の根拠は何か、という究極的な問いについては、ただそうであるとしか言えないのだろうし、宇宙の本質を「分からない」と感じる人間の意識は、それでこそ意味があるとも言える。分からないという役目を引き受けているのが、私たち、個々のアートマンなのではないか。。。

分からないという設定の中から、いろいろな在り方を思い巡らす。すると個我が生まれ、個我は世界を生み出し、現象界がフィールドされる。

・・・このところ、第六次元、第六オーラ層(アートマ体)にフォーカスしていくことになり(体験を通じて導かれ)、アトミックプリンシプル=アートマ原理とは何だ?と、考え事をしていたところだったけれど、ちょうど読書をしていた「ロゴスとレンマ」という全然別の入り口から、 何となく辿り着いたような気がしている。

そうそう、瞑想をしていたら、これまでの「5次元スペース」とは違う「6次元スペース」が急に開けて、その高性能・ハイテクノロジーに驚いたと同時に、これまでもちょいちょい、そのシステムはシリウス系やアルク系のワークで必要に応じて開けていたな。。と気づく。よほどにアピールされないと、真面目にアナログに律儀にやり続けるという変なローテク精神がある私。去年の4月に「7次元」というキーワードを受け取りながらも、心も、創造も、ライトボディも、肉体も、意識も、そこに進展させるのに、1年かかった。

今ようやく、全機能が入れ替わったような気がしている。すると・・びっくり!先週あった2件のセッション仕事で、ワークの進め方や周波数の幅がヴァージョンアップしていた。ヒーラー現役はもう辞めるというのに、どうしましょ・・・以前ならばこれでまた、新しいワークを作ったりするのだろうな。けれど。そのためにヴァージョンアップしたのではないということも、同時に悟った。(もういいのだそれは。。というか、今自分の見ているものでワーク化しても、ニーズは無いであろう、マニアック過ぎて/笑)

6次元に立つと、5次元で動いているよりも、テーマである7次元意識がかなり近く感じられる。去年やって来た「箱船」(=アーク=情報)と自ら名乗った10キロのクリスタルが言いたかったことが、全層でようやく足並みを揃えて理解できたという感じがしている。

Love and Grace,

Amari

「青い鳥」円環構造

 

 

昨日アップしたピンクフローライト。水色やラベンダーの部分もあり、境界線のように走るピンクのラインも見えている。フローライトだけれどモルガナイト&アクアマリンのような高いオクターブを放つ、見たことないような美しいフローライト。

インド哲学の中から派生した仏教は、シャカの思想では「自己鍛錬」の道を説いたものだった。苦しみを生み出す己の心と徹底的に向き合い、そのメカニズムを超えて行くことを説く。その後、空の思想が深められて大乗仏教ができ、たくさんの宗派に分かれてそれぞれの宇宙観を展開していく。とはいえ、根底に流れるものは「ここに在る、煩悩で生きる自身ではないものに変容していく」という姿勢。

その哲学を懐に搭載して人生を歩んでいくということは、生きているうちに出くわす様々な障害、山、自身の内的葛藤などを、その都度、超えていくように・・少なくとも心がけて行く、という姿勢。これを人間として当然のことと見なす人々と、そうではない人々が居る。

先日テレビを見ていて(確かNHKの歴史系の番組)最後に司会者がコメンテーターの先生に質問した。「今の日本に足りないものは?」

その答え、「リア充で満足するのを否定するという態度」・・「現実生活が満たされていればそれでいいじゃん、という日本にある風潮は『負け』である。それは騙されているということなんじゃないか。」・・と、サラッと仰った。

インドから中国に入った仏教の流れの中から、新たに中国で生まれ日本にも入ってきたのが「禅」。元々はサンクスクリットの「ディヤーナ」から来ていて、インド仏教で説かれていた仏教者が守るべき3つのもの(「三学」)の中の一つ。「心を平静に保ち揺るがない、無我の境地」を意味し、=瞑想と説明されることが多い。

禅は中国で仏教の一派として生まれ、教義により主に二つの宗派に分かれて行く。一つの宗派は「ありのままを生きる。人はそのままでその人個人として完璧なのだ」と考え、他方は、「ありのままをどう乗り越えるか」をテーマとしたのだという。・・・いつの時代も、スピリチュアリティという分野では、やはりそういった分岐点があるのだなあと。

そして、「ありのままでいいんだよ」と考えた宗派の中でも、時代が降るうちに様々な解釈が生まれ、自分の本来性(本質)を、今あるこの自分とするか、または別次元に求めるか・・・など、思想の違いから5家7宗に分かれ、そのうちの臨済宗と曹洞宗が日本に入って来ている。

ニューエイジ的スピリチュアリティにおいても、同じようなことが起きて居るのは、むしろ然るべきことというか、人間の思想というものは、いつの世も同じだと納得が行く。「リア充信仰」が「負け」で、「騙されて居るのか」、そのまま(リア充)でいいのか。これも同じ分岐点だなあと感じた。

私の個人的な思想。基本的には、「生きている限り人は成長を心がけて行くもの」・・だけれど、自分一人で生きて居るわけではなく、世の中は複雑。時に、あえてダウングレードすることも、道に迷うことも、思想的にわからなくなることもあるだろう。子供の頃は、メーテルリンクの「青い鳥」について、「本当に大切なものは足元にあるのに、人はそれに気づかずに夢を追い続ける。が、いつかそれに気づく」というメッセージだろうと受け止めていた。けれど、四十代も半ばになって、漸くとてもとても深い意味が込められていたのだと知ったのは、禅で言われる円環構造に触れた時、「青い鳥」のことを想起したのがきっかけだった。

「必要なもの」「欲するもの」を探し求めて出向く冒険の旅。ジョゼフ・キャンベルの英雄神話論のように、また多くの神話的モチーフがそうであるように、様々な困難に遭遇する旅を通じて、そこにあるものは「何かを手に入れる」結果ではなく、「自らが変容する」というプロセス。言うなれば恐れの克服やいらないものの削ぎ落としや、視点や洞察力の進化成長があり、人間性の深まりや生きて行く知恵の習得があり・・・その状態で戻ってくるからこそ、「青い鳥は家に居た」と言う結果が顕現するのだろう。

世界中の思想や物語において「円環構造」「円環思想」は描かれている。「青い鳥」の物語がまさに語っているように、彼らが冒険を通じて変容していなかったら、鳥は元々の鳩のままだったのだろう。。。「世界を変えるなら、まず自分から」マイケル・ジャクソンも歌っていたっけ。(Man in the Mirror)

ヒーラー的に言えば、エネルギー状態、チャクラバランス、エネルギーの活性や意識指数の数値が上がって行けば、スロートチャクラから顕現する三次元の現象・現実・自身のあり方が変わるのだし、そのような人間が増えることで、集合意識が描き出す結果として、世界も変わるのだという、シンプルな法則。

できれば自分は何もせずに、世界がシフトして行くのを待とう・・・そういう人が、多いのではないかしら。。?

けれど、「あるがまま」で行くのならば、鳩が青い鳥になること=幸せ=地球のアセンション? は、永遠に来ないのではないか。同じところに居るようで、螺旋をいくつも上昇していくと、鳩だった自宅の鳥が、幸せの青い鳥であったという現象化が起きる。この円環構造から、何も今の時代が例外的であるとは、個人的には思えない。宇宙の創造の仕組み、エネルギーと顕現の仕組みからしか、現象は顕現しないはずだから・・

思想的な分岐点は、人々をどこへ運ぶのだろう?

誰もが青い鳥を見つけられたらいい。

Love and Grace

Amari

常に軽んじない人

思想や歴史はかれこれ、15歳くらいからずっと好きで、もう30年になって・・しまいます・・・その中で、常にぐるぐると移転する興味のフォーカスが、ここ最近は哲学に当たっています。どちらかというと東洋哲学。インド思想、仏教も含め。そう、仏教は元々は哲学なのですよネ。シャカが亡くなったのち、数百年をかけて宗教になっていく。古代のインドは、ギリシャの哲学者たちも敬意を抱くほどの哲学の国でした。

『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(白い蓮のようにもっとも優れた真実の教え)という経典(スートラ)(日本では『法華経』)の中に出てくるサダーパリブータ、と呼ばれた人のお話について。。。19〜29歳の頃、訳あって仏教徒をしていた私ですが、当時毎日のように読み上げていた経典の中で、特に好きで、印象的だったのがこの逸話。日本語訳の法華経では「常不軽(じょうふきょう)菩薩」と訳されているこの人は、ブッダの前世の一つだそうです。

出家者ではあったけれど、特にこれといった学びはせず、聖典も読まず、人に教理を教えることもせず、ただいつも、誰も彼もに近づいていって、「私はあなたを軽んじません。あなたは菩薩行を修行しなさい。いつか仏として成仏するでしょう」と、ひたすら言い続けていたそうです。聞かれてもいないのに急に近づいてきてそんなことを言われると、どうなるでしょう?・・・殆どの人が腹を立てたり、嫌悪感を生じて、罵り、時には石を投げつけたりと。特に、自らが仏道を学び、ある程度のレベルに達しているとプライドを持っている僧たちほど、「なんだよ、お前は」ということになる。

打たれたり、罵られたりしても、その人は同じことを続け、やがて「常不軽」という渾名を付けられちゃったそうです。そして人生が終わろうとする時、空から神々しい音がやってきて、白い蓮華の教えが自分に入ってきたと同時に、六根清浄、つまり五感と体の浄化が一気に起きて、完全に清らかな能力を身につけた。。それを生かして自ら神力を使うことが出来るようになり、寿命を伸ばして、天から授かったスートラを説く、ということをその後の長い長い年月、成し遂げた。

ざざっと略説するとそんなストーリー。若い頃の私、読経していて意味の分からないものが多い中で、この常不軽さんの、どこか愚鈍な一途さ、どこまで真面目なのか、もしかしたらユーモアなのか?というなんとも言えない妙なるキャラクターに、面白さを感じていました。最近「意識の学校」や個人的な読書のなかで改めて『法華経』を紐解いたらば、やはりこの話に惹かれました。植木雅俊氏による現代語訳『法華経』(岩波書店)では、法華経の20番目に配置されているこの話のタイトルが、次のようになっていました。

常に軽んじない(のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には軽んじられないものとなる)菩薩

常に誰のことも軽んじること・偏見を持つことなく、全ての人に「あなたは仏です」と言い続けることで、「なんだお前、俺をバカにしているのか」と思われ、本人は罵倒され軽んじられることになる・・けれど、人生を通じてそれを自身の修行としてやり続けたことで、結局は直接、宇宙から教えが降りて来て、そのチャネルとなり、超人的に長生きをし、教えを説いて・・かつて自身を罵っていた人々は一度、仏に会えないような世界に堕ちてしまっていたものの、再び巡り会い(それもある種の前世からのご縁なのでしょうね)常不軽の教えを聞いて、救われたという話。

思うのは、何をやったか(修行や学問的な学びなど)ではなく、心、それだけなんだなと。逆に言えば、本来は修行や学びは、心を作っていくためのもの。それを、履き違えてしまうような僧たち、バラモンたちも多いのでしょう。そこへの戒めのような性質の逸話かもしれないけれど、なんとも爽やかで、私は好きなのです。

どうしても硬く偏狭になってしまいがちな人間の頭や心。そんな常識の中で、囚われずにひとり淡々と、自分が決めたコンセプトと行動を守り通す。そのような人が報われて、菩薩になるのだという伸びやかな教えは、ホっとさせられます。

それと、死が近づいた時に常不軽に起きたことが、天から降りてきたロータスの教えのチャネルになることと同時に、六根清浄という、人間としてのあらゆる感覚と肉体のクリアリングであったという点も、良いなと思います。特別な能力、神通力を身につけるというのは、古代インドの修行者の間でも流行っていた?らしいのですが、「そんなもの身につけてどうする?大事なのは煩悩にとらわれない心だよ」と気づくことが大事、これはシャカの哲学の根幹だったようです。

心を作っていく。それは何かを身につけて装飾していくことではなく、いらないものを削ぎ落としていくこと。その道程で、苦しみが消えていき、本来の自己意識、煩悩にとらわれない高い自己へと合一していく。。。

今を生きる、出家者ではない私たちにとっては、日々の生活こそが、心を作っていくための修行の場、ですね。自分は勉強好きですが、なぜかというと人間のことが色々とまた見えて来たり、人間たちが生きているこの世界が何なのか、人間とは何なのかが、また少しずつ分かるようになる、その感動が好きなのです。学ぶことは、私にとっては、体験です。それも伝えていきたいと思う今日この頃。

と、まるでお寺の説法のような内容になってしまいました。ついつい・・「仏教はフィロソフィー(哲学)」というカテゴリーを今回から作ってしまいましたが、西洋哲学や、さまざまな思想、歴史、芸術、なども語っていきたいと思います。

Love and Gratitude,

Amari