英雄神話・魂からの「召命」

NHKの「100分de名著」で最近取り上げられた、一冊。Joseph Campbell 「千の顔を持つ英雄」。キャンベル博士は神話学という、地味だけど好きな人には大事な、そして様々な別ジャンルの人々への影響力も多大な分野の学問の大家で。神話は Myth だから、Mythology ですね、「ミソロジー」。

個人的な体験としては、遡ること30年(!)、短大の授業で…英文購読だったかな、たまたま先生が選んだテキストがキャンベル博士の、この本ではなく別の「神話の力」。ジャーナリストの方との対談を書籍化したもの。高校の頃から考古や歴史、神話などが好きだったので、ここではまりました。ちょうどNHKでその特集番組が放送されたことがあり、録画したのを覚えています。

神話学というのは日本ではなかなか学べる所も少なく、以前留学できないかと考えていた時代(高校〜短大)、探していると英米だと割と学部や学科がありました。ギリシャ神話などが文化に色濃く残るゆえかもしれません。

そんな神話学の代表的な学者の名著と言われる本で、ただそれ自体難しくはないので、正直なところ100分de名著に登場したのは意外、そして嬉しいことでした。立ち寄った本屋で目についたので買って、すぐに読み始めて、とても響いたので早速。(ちなみに、まだ番組は視聴してはいません、笑。これからオンデマンドで。)

英雄神話を分析した研究書ですが、実はこの著作が「スターウオーズ」に多大な影響を与えたらしい。私は同作をあまり見ていないのですが、言いたい事は何となく分かります。やはり英雄神話というのは、「ロードオブザリング」(この場合はフロド)でも、ドラマの「ゲームオブスローンズ」(やっぱり英雄ポジションはジョンかな)でも、そして韓国時代劇(頭に浮かんだのは「チュモン」とかそのほか色々、女性主人公でも)… みんな、英雄神話のパターンを思い出させる。

拙著「ハピの巫女姫」ならば女性だけどセイレン、「ガイアナ」ならばレオダイ。レオダイはかなり、神話的な英雄パターンをあてはめた存在だと自分でも思っています。苦労つづきな所も。女神を得るところも。それで終わらない部分は、北欧など北国系の神話のパターンかもしれません。ジョージ・ルーカス監督も博士の英雄神話の解説に胸打たれ、その概念を軸として「スターウオーズ」の脚本を書いたそうです。

そう、それで。今回こちらの解説本で、解説者である佐宗先生(多摩美術大特任准教授)によるわかりやすい説明を読んでいた中で、響いたのは。表題の「召命」という言葉。
英雄神話の基本構造は「行きて帰りし物語」。大きく円を描くように、そしてその一周回った頃には高い位置に登っている、つまり螺旋構造。

詳細はまた、番組を見て.. そして大事にコレクションにしている(そういう本が多くて/.. 部分的には読んだのですが..)同書を読了した暁には、このブログに戻って来て、書きたいなと思いますが、今日は「召命」というものについて。

主人公は最初、英雄になる前なので、普通の人として暮らしている。そこに、何らかの招待が来る。冒険が始まるから旅に出なさい、飛び込みなさい、というのが「冒険への召命(しょうめい)」だそうです。

「ハピ」のセイレンならば、隠れるように暮らしている少女時代のセイレンに「実はハピ国の落胤だった。あなたは巫女姫を継ぐべき人です。」と言って王城の遣いであるリーヴが迎えに来る。… ここに当たる。

その召命を受けるか否か、という選択の「自由意志」についても、キャンベル博士は言及されていて、「召命拒否」と言うそうです。

拒否をせず、平凡な生活を捨てる、というリスクを超えて危険なチャレンジの旅に出た場合、「思いもよらない援助」(大抵は師匠との出会いなど)が起こり、その後まあ色々な段階が。試練と苦難と、壁を越えて目的を達成した後の「帰還」の段階には、「帰還の拒否」も起こり得るそうです。

それに関しては、フロドがホビット村に帰らず、エルフたちの旅立ちに同行したのを想起しました。そういうケースもありますね。けれど、元の世界、日常の世界へと戻るパターンもある。大抵、そこではヒーローや王として、輝く存在、特別な存在になる。あるいは、精神的な成長をテーマにしている場合もあるかも。「青い鳥」など。

「召命」というのは、メタフィジカル、スピリチュアルな観点や言葉を通すと「インスピレーション」や「ハイヤーセルフからの導き」や「高次からのサイン」とも表現できる。神話学的にはそれは「魂」への招待状であり、平凡な人間としてそのまま、日常の安全をキープして生きていくか、魂の使命に向かう流れに乗って、本来の自分の力や知恵を取り戻し、違うものへと変容を果たすか、という事。

日頃、ヒーラー、メタフィジストとしては、「ソウルで生きましょう」「ソウルと人格の統合を果たしましょう」と言っていることと、同じだと思ったのです。ゆえに「召命」が響きました。思い起こすと、自分にもそれが間違いなくあったのですよね。その流れに乗った、飛び込んだ時には、それまでの人生とは確実に違う時間が流れる。エネルギーの高揚感とスピードが違う。

神話のように「降ってくる」出会いやご縁で、苦労して探さなくても、やるべきことが次々と目の前に運ばれて来るし、そのために必要な情報は人から伝えられたり。「これが運命、ソウルの決めて来た道だよ」と言われているかのよう。ただ、私の場合はその流れに乗ったのは、当時どうにもならないほど「谷底」のような心境で生きていたから、なのですよね。だから「危険な旅に出る」のではなく、「失う物は何もない」気分だった。

召命というより、当時の自分にしたら「蜘蛛の糸」ですね。。笑

ただ、月日が経ってみるとあれは、魂からの招待状であり、魂=高次=自分自身の高い部分 からの、導きであったと思います。ただ、恐らくそれに「はいはい!」と言って飛び乗るためには、やはり一度かなりの所まで、落ちている、降りている(少なくとも自分はそう思っている)という状況が必要だった。そうしないと、人生がうまく行って快適に暮らしていたら、召命拒否、になっていただろう。自分の性格からしても。そう思います。

主人公たち(一般の我々も同じく)は、なぜ召命を拒否するのだろうか… という点について、キャンベル博士は次のように書いています

つまり、日本人としては耳が痛いですが「現状維持」ということ。エゴセルフの本能、本音とも言えますね。

ただ、解説の佐宗先生がおっしゃるに、人は皆、深層では冒険に出たい、本当の自分を見つけたいと思っているので、

とのこと。(p36)
英雄神話でも召命を拒否した主人公は、何らかの「よからぬ結果」に陥り、結局それにより「旅に出る」(魂が示す方向へ向かう)事を選択するよう促されるのだとか。

ここで思い出したのは、ソフィアのブッククラブ(サブスクリプションの読書記事)で前にご紹介した知花先生の「我は道なり 我は神理なり」の中で、同じような事が書かれていた… 「神には絶対服従」で、己の使命に関する導きを無視していると、何もかもうまく行かない、ような現実になる..とのこと。先生もそのような時期を経て、「使命」を受け入れたのだとか。

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英雄神話は奥が深くて、まだまだ沢山の面白いお話が、この「100分de 名著」の薄い冊子の中にも溢れているのですが、今日はひとまずは「召命」について..に絞っておきたいと思います。

ヒーリングサロンやスクールをしていると、癒されてその人らしく生き生きしてきた人が、更に学んで、自分が癒されてきたプロセスや魂の素質を生かしたことが出来るかも、という次の創造と探検の段階に踏み込もうとした時、足を一歩踏み出したことで、ソウルが応えてたくさんのサインで導いていながらも、恐れや「現状維持」の心が働いて、踵を返してしまう姿は、割と目にして来ました。

英雄神話というのは、私の感覚では全ての人に捧げられたものであり、ここでいう英雄とは、その人の魂が舞い降りて人格と一体化した状態で地上で生きること。英雄たちが物語のプロセスで数々の苦労をしているように、確かに簡単なことではないかもしれない。

けれど、早かれ遅かれ、全ての人が、そのプロセスを体験してソウルとの統合を果たすのだろうと思います。転生を繰り返す中で、召命が来た時に「来た!」と思えるか「違う!」と逃げてしまうか。

英雄神話のパターンが沢山、古典や文学や最近の映画にも、刻まれているのは、私たちの集合意識場には、しっかりとその原型パターン、教訓、知恵が、共有されているのだろうと改めて思いました。

たくさんの神話的、原型的エッセンスが、魂を揺さぶる小説を書いていきたいです。

世界樹ブックスのページを作りました

https://www.earthkeeper.jp/sekaiju-books

22年前に書いた現代小説(ブロマンスです/笑)を公開しています

https://note.com/sekaiju_books

そして、新作は有料サブスクの「ソフィアブッククラブ」にて執筆スタート

と、かなり宣伝のようになりましたが、こちらの..
ジョゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』 をちゃんと読みまして、また書こうかと思います。あ、そうだ。ソフィアブッククラブで読むことに致します。。(更に宣伝を!)

https://sekaiju.net/sophia/category/bookclub

ではでは、

今日はこのくらいで

Love and Gratitude

Amari

セラピス・ベイと純白マーラ

サロン仕事で起きていること、故に、Arganza HPのinfoブログに書き始めたのですが、長くなり、マニアックでもあるので、こちらに載せることに。

ブログの統合についての前記事はこちら:

・・・・・・・・・・

10/15 の「白い聖堂17」で、マスターとして知られる「セラピスベイ」が関わって来て、ワーク&講義をしてくれた時間がありました。この時は淡い水色の光でした。

10/22 「クリスタルラボ・アースメディテーション6」では、事前に『白き神々降臨』というタイトルを受け取っていて、その「白い神々」とは、エルたち(アルガンザ・ジェネシスでいう「エルフ族」)であろう、という事は感じていたのですが、彼らの水星ソフィアやファウンテンを、シリウスの恒星エネルギー、アルクのGATエネルギーともども含んでいるのが、レムリアンセイクレッドレイキの「純白マーラである」ということが分かって・・

そのオリジンはアトランティスの、(ジェネシス世界観における)「イシス」エネルギー(全く同じではなくそこから派生して現在の「イシス」)ではないかと、気付きました。それで、先月の「聖堂」以後、純白マーラでのワークや、セラピスベイのことを意識に置いていて、改めて調べてみると・・

(とりあえずのwiki、これから正式に調べたいと思います)神智学初期の重鎮たちにより伝えられるに、セラピスベイは、

アトランティス終焉でエジプトに移った「聖なる炎の寺院」の高位聖職者、そして「白い炎」の守り手である、と言われているとのこと。

アルガンザでワークに含んでいる(「乳海撹拌・創造の5光線」)「イシス」エネルギーは、淡い水色と捉えていて、セイキムレイキのエネルギー(「エレクトリックブルー」→ 変化して「真珠エキスのような白)」ともほぼイコール(時代や用途に応じて高次が多少のレシピを変えてくるため「ほぼ」)と考えて来たのですが、

アトランティス終焉(の大洪水)から、エジプトに「イシス」神殿が移った、というのは、もう8年くらい前になるか、アルガンザ初のセイキムレイキ伝授の直前の「イシス瞑想会」で見たヴィジョンと受け取った情報と一致します。つまり、「純白マーラ」(セイクレッドレイキ)・「イシス」・「セラピスベイ」この3つの要素が符号するという流れが、この1ヶ月の間にありました。

そして更に驚くべきことに気づいたのは、「マンスリーイニシエイション」を始めたキッカケを、以前のサイトのinfoに書いた文章から↓

こちらの「マンスリーイニシエーション」は少し前に、私のソウルが指導を受けている「マヌ」系のマスター二人と先日、瞑想中に邂逅し、リアルなマスターとの対話は久しぶりのことでしたが、まばゆいゴールドの光と、情報が詰まった書物のようなものを受け取り、その瞑想が終了した後少し経過してから、言葉にはならずともマスター方から伝えられたことを解凍・解読しようとする作業の中で生まれた企画です。

この「マスター二人」は、一人は以前からたびたび見かける白髭の老賢者風マスターで、マヌに関する事で導かれる時にいつも登場する方。もう一人が、少し若く色黒で細身、以前お目にかかったことのあるエルモリヤ、サナンダ、セントジャーメイン・・とも違う、初めてお会いするマスターだったのですが、あの体験をしてから半年を経て、先月前触れも予感も何もない状態で聖堂中に「セラピスベイ」と響いてワークと教えを頂いたのをきっかけに、検索して画像をたくさん見るうち、「間違いない」と確信しました。

マンスリーイニシエイション企画の始まりから(7月企画・8月スタート)、繋がっていた、という訳です。

そして、イヤな思い出や戦いの記憶、痛みなどをともなう「エルたち」の魂=マヌ=ライトワーカーの過去の傷によるライトボディの傷を修正し、記憶を癒す、という先日実施の「エルたちの器・レストレーション」の終盤では、再び同マスターが登場し、儀式的な施術をいただきました。

今回最後の場面で、「白いローブ姿で輪になって座る私たちの、額に、孔雀色の光の炎を、点火してもらう」という儀式的なヴィジョンがありました。それを執り行っているのが、セラピスベイ、でした。ライトグリーンの炎の中に、芯として鮮やかなロイヤルブルー、という焔のエネルギー。

額の中心に頂くと、スウっとそれは中に入っていくようでした。そして「器」のプロテクションの光の幕が、その孔雀色の炎から、生み出されるよう。

(Monthly Ini 専用ブログに掲載した「エルたちの器」実施報告から)

「純白マーラ」は「シリウス系の白いエネルギーで、透明なほど波動が高いからGATも入っているよう」という認識で、レムリアンセイクレッドレイキのテキストを書いていましたが、日本や世界各地の石器時代人が繋がっていたシリウスの光でもあるし・・余りに普遍的な為に、深くそれ以上掘り下げるつもりも無かったのですが、扉が開いてから、次々と諸要素がつながり合い、全体像が見えて来ています。

そうなると、また新しい疑問が湧いて来ました。

現在、乳海光線として使わせてもらっている(「乳海撹拌」)イシスのエネルギー、そのオリジナルが「純白マーラ」であるならば、ジェネシス神話(『the Genesis』)のアトランティスの初期の時代、アトラスとハシスのそれぞれの信仰形態が、
アトラス=イシス信仰
ハシス=ソフィア信仰
であると(自分で)書いているけれど・・? 同時に「ハシスが滅亡したのちに、ハシスの地(中央ヨーロッパ〜アジア一帯)では、「白い神々の信仰」が継承されて、歴史時代の私たちの古典的宗教に通じている」と、以前から思っていて、セイクレッドレイキのテキストにも書いているし、上記の「二人のマスター」との邂逅のヴィジョンも、ハシスでのご縁によるものと感じていた。。。この件は、どう考えたらいいのだろう?

オリジナルイシス=純白マーラ は、アトラスの信仰であった? ハシスと、のちの時代の「白」信仰の接点は? ・・・そこで、ざっくりとした歴史しか取り上げていない神話仕立ての「the Genesis」には書いていない、アトランティスのアトラスとハシスという国、それぞれの個性と文化・宗教の流れを、より細かに把握する視点を持ってみました。

恐らく・・最初は同じく「白い炎」を、五次元から授かって運用していたことと思います。つまり、アトラスもハシスも「イシス神殿」で白い光を扱っていた。白いマーラ(母神)として。それが、どのように変遷していったか・・というのは、ひとつの国、ハシスという国の始まりから終わりまでを、追っていくという仕事になるのかなと。

新たな疑問からの、次のステップ。準備段階として、昨日は「世界樹メンバーズ」専用マガジン(note)「ジェネシスの方舟」でひとつ記事を書いておきました。「アトランティスの女神信仰その2」

考察を進めたことにより新たに浮上した疑問について、次に「その3」を書こうと思っています。中身は今はまだ分からないけど。きっとこれから分かる流れが来る。

グループ遠隔セッション Monthly Initiationは、この流れを受けて次回 12/3 は「セラピスベイの白い炎」です。(エントリー受付中)

今日書いた上の内容とは別に、ワークそのものについて示唆がありましたら、またワーク専用ブログに書き添えたいと思います。

Love and Grace,

Amari

変容期に湧いてくる、悲しみ、あるいは怒り

今回の「白い聖堂16」(20239月)は第三チャクラでのフォーカースが(当日セッション中だけではなく前後も)あったことを実感する。今は5日が過ぎて、チャクラの混線からくる息苦しさのような症状は消えて、周囲のライトボディも穏やかに落ち着いた感触。今回はなぜか、ピリピリした泡のようなものがオーラ体を刺激しているような体感、急な(不快ではない)ゾクゾク感(オーラの器が拡大する時の反応)など、直前〜事後もいろいろな体感が、さりげなくずっと続くような。変容が激しい時なんだろうな・・

 

それと、当日のセッションの直前、修了後、翌日、さらにもう一度くらい・・突発的な「悲しみ」がお腹の真ん中(第三チャクラ)にジュワっと出て来ては、数分〜数十分で自然と消える、を繰り返していて。普段、自分の現実や過去感情含めてまったく身に覚えのない、何かキッキケがあった訳でもなく急に浮上する感情的エネルギーというのは、誰か他の人の、特に第三チャクラの背中側からコードで繋がっている身近な人々の感情が自分に伝播している、というケースが多い。

同じく身に覚えなく急にやってくるけれどもう少し長時間つづく、全身の周囲、オーラ第二層のアストラル(感情)がその感情で染まり、全身で自分もそれに囚われるような現れ方をすると、「現実の自分には理由はないけれど、過去生やジェネシス層の大きめのストーリー、カルマパターンの浄化、解放が来ている」ということもある。これは、人格の自分にはまったく理由が分からないながら、抗えない悲しみや恐れなどに包み込まれて、長時間(2〜3日とか、長いと1ヶ月とか)続くこともあるかも。・・ジェネシスの原型神話が出て来た時、のような、稀に大規模なケース。

 

で、実はもうひとつあって・・・

最近では滅多に無かったから忘れていたけど、今回上に書いたような『突発的な悲しみがお腹の真ん中(第三チャクラ)にジュワっと出て来ては、数分〜数十分で自然と消える、を繰り返し』ということが、忙しく仕事をしている中で起きて、消えていくからまあよいか・・と思っていたけど、だんだんと理由を(過去の自分の事例から)思い出して来て、思考の中で繋がった。

仕事の上では良いほうへ、前に進んで行く時。そのための決断をする時。さらにソウルの仕事を前に進めて行く時。その直前、数日間くらいの期間上がってくる、できればその流れを止めたいと願うエゴセルフによる悲しみだ、と気づいた。細かい部分思い出せないけど、過去に何度かあった・・・現実も、仕事も、急流に乗って変容し続けていたころ。

 

当時はそれでも勢いに乗って、若かったし、実際に自分が何かを(連続するワークなどを)受講していたり、伝授を受けていたり、これが正しい道・・とはっきり分かっているレールの上に乗っていたから、悲しみ、に限らずなんらかの感情の浮上があれば「浄化だわ、浄化、浄化」で、前に進み続けたんだろうなと思う。今では自分自身で仕事も私事も決めていき、進むも止まるも、今後どうするかもすべて自分で判断・選択する段階に仕事人としても、個人の年齢や立場的にも、なっている訳だけど、「迷う」という余地はなく、ソウルの計画がなるべく前に進むように常に、人格部分を動かしているという状態。

だから、言ってみれば、潜在意識のようなレベルで、顕在意識化さえしない・・というか、取り上げようとしていない、パーソナリティの「声」が、ジワっとした悲しみとして上がって来たのだろうと。

 

人間界で生きていると、「何かを選ぶことは、別の何かを諦めること」あるいは「選択することは、もうひとつの可能性を捨てること」という言い方がなされるように、確かに生身の人間は万能ではないから、限られた時間や自身のフィジカルな現実の中で、出来ることを選び取っていかなくてはならない。

アルガンザが伝えているような「ソウルで生きる」ことは、アリス・ベイリー著書では「弟子道」という、高次元のマスター界の「弟子」であるというくらいの、人格にとっては覚悟がいる「道」である訳で、それが時に、(選択されないほうの現実への愛着やノスタルジーゆえに)悲しみと感じられたり、人によっては怒り、が浮上してくるものだと思う。

 

2〜3年は忘れていたその感覚が、久しぶりに浮上していたのだと感じた。「ソウルの仕事が前に進もう」としている時、毎回ではもちろん無いけれど、エゴセルフは悲しむ。ことがある。けれどもちゃんと分かっているから、ほんの数分だったり、数時間だったり。そして第三チャクラがそのあたりを整理する役目を担っているため、第三が反応したりする。(消化器系が今回、不調のような症状が出ていたというご報告も幾つか。実際には第三チャクラの、情報整理部門が頑張っていた証だろうと思います)

逆に。ヒーリングを受けていたり、メタフィジの勉強をしている人も、ヒーラーの仕事をしている人も、時折浮上してくる、大事な変容期だからこその人格部分の訴え・呟き・ため息のようなもの・・・・に、負けずに、「それだけ大事なステップなのだな」と感じ取って、躊躇わず前に進むことの大切さも強調しておきたい。

そうでもしていかないと、「ソウルで生きる」の道に乗ることは出来ないから。

 

そして、その時々の感情の山を超えてみると、「大した事では無かった」・・・と、リニューアル後の自分の目には映る。そして、エゴセルフのため息も統合して、前に進んでいく。その繰り返しで、人は個人としても進化していくし、社会や世界も変わっていく。

いつだって、成長や、調和への道、真の豊かさ、創造的なあり方・・を阻むものは感情反応であり、それを理由に、せっかく訪れている大きな変容気、変換点を、迂回してしまうのは勿体無い。もう一度螺旋を巡って一周してくるまでには、長い時間や、以前の選択から意識を改めさせるための現実の出来事に遭遇する・・などの、少なからずの労力と時間を要する。迂回した先で流されて、果てしなく遠くへ行ってしまうこともあるかもしれない。

日々の意識とセルフワークで、「自分」を構成するいろいろな要素、それぞれの声や反応を聞き分け感じ分けられるようにしよう。悲しみや怒りや混乱が浮上して来ても、それは、ソウルの仕事が今より更にうまく運んでいる軌道に乗るゆえの、人格の呟き、抵抗、自己主張であると判別することが出来れば、ソウルセルフの選択をする事が出来るし、人としての成長進化の波に乗れる。それは決して、パーソナリティを「犠牲に」することではない、と、経験から学んでいこう。

 

ちなみに・・(宣伝ですが)世界樹ブックス『ガイアナ神謡集』が「魂で生きるか、人として生きるか」をテーマにしています。両者の間で揺れ動くヒロインの星座を天秤座に設定しているくらい(笑)長い物語の間ずっと、その問い、感情と高次意識の間で揺れ動く心理が、ヒロインだけではなく主人公たちに。『ハピの巫女姫』は「女性性の癒し」をテーマとしますが、やはり同じく神性と人格のせめぎ合いはずっと、主人公の中では続きます(こちらのヒロインは乙女座)。。。ぜひ読んでみてね。(先日在庫切れを補充しています^^)

lumiereblanche.shop

 

Love and Grace

Amari

 

 

Unconditional Love

2014 

青野 芹

風に色が見えるとき 世界は私の中に在る

金色 銀色 刹那色 

世界の夢である私 私は世界を夢に見る

虚空に拡げた腕が 目の前の地球(ほし)を抱きしめる

桃色 水色 檸檬色

すべてが完全であるように 時が私の一部になる

風たちが騒ぐ

解き放った白い鳩が また戻って来た

止まる枝が見つからずに

ハートの小部屋から旅に出た 幸せの白い鳩

愛の証 明日への翼 無垢な羽搏き

止まる枝が見つからず 帰ってきた

少し羽を痛めて 白い翼をすり減らして

大丈夫

構わないよ

何度でも 戻っておいで

私のハートを 運んで欲しいから

傷付いたら、何度でも癒してあげるから

ただ反復するように また翼を磨いていこう

風たちが色づく

浅葱(あさぎ) 薄紅 ラベンダー

世界の夢である私 私は世界を夢に見る

毎日 白い鳩と語らう 私のハートに住む

無垢な愛の証

もう9年も前になる。2014年になぜか急にスイッチが入り、幾つか書いていた「スピリチュアルポエム」は、「ヒーラーとしての」当時の自分の心情を表現したもの。当時つくったポエム専用のブログは、更新されることのないまま密かに存在。

【解説】Unconditional Love

タイトル、「無条件の愛」

ヒーラーとしての立場や仕事の静かな喜びや満足感、世界や時空といった枠組みを超えて、大いなるものに波長を合わせて存在していられる素晴らしい時間を生きていることを冒頭の6行で。その次「風たちが騒ぐ」から変調。音楽で言えば曲調が変わる部分。

ただ喜びだけではない、切なさについて。心のさざなみや、ヒーラーであっても人間としての心の揺らぎ、躊躇い、動揺などが起きることもある。それを「風たちが騒ぐ」と表現。

ヒーラーの仕事、というよりも私自身の性格や性癖によるものかもしれない。「無条件の愛」のボールを突然(と言っても自分としてはごく自然に、当たり前のように)投げた時に、相手はそれに気づかずに、または「まさか」と誤解をし違う性質のものであると受け止めたり、まっすぐに「無条件の愛」であることに躊躇い、ボールをキャッチすることが出来なかったり。

「白い鳩」=純粋な愛、利己、相手のためだけを優先して考えた結果投げたエネルギー・・が、「止まる枝が見つからずに」、虚しく戻ってくる。

気づかない、躊躇った、場合はまだ良いかもしれない。相手が「まさか」(そんなに自分のためを考えてくれるなんてあるはずがない、きっと何か裏があるはずだ)と思って変な角度で投げ返してくることだって、稀だけど、無いこともなかった。

傷つくというより、そんな時は、「虚しい」

それでも・・・・・

「風たちは色づく」から先、

たとえ虚しくても、何度でも、これからも、同じように鳩を飛ばすだろう。

ワンネスの世界の中で、愛とともに在ろうとすることを、辞めないのだろう。そんな、日頃繰り返している心象の流れを綴った詩である。

そのテーマで書こうと思ったわけでもなく、気づいたらそのような事を書いていた、という感じ。

ジェンダーギャップと女性詩人

I held a Jewel in my fingers-

I held a Juwel in my fingers –

And went to sleep –

The day was warm, and winds were prosy –

I said “Twill keep” –

I woke – and chid my honest fingers,

The Gem was gone –

And now, an Amethyst remembrance

Is all I own

(Emily Dickinson)

 

 

わたしは宝石を握りしめ 眠りに就いた

その日は暖かく 風はさりげない

わたしは言った なくなったりはしない

目覚めると わたしは正直な自分の手を責めた

宝石は消えていて

アメジストの想い出だけが わたしに残されたすべてだ

(翻訳: by Amari)

 

大寒波、関東(東京・神奈川付近)では夜中の暴風と降雨が明けて、翌日(昨日のこと)は終日すご〜く気温が下がっていたもののそれだけで済んで、相変わらずの青空と太陽の日が続く。その分、雪雲を受け止めている日本海側では、ニュースは見ていないけど、ヤマトさんの荷受けが止まっているのでさぞ大変なことになっているのでしょう。新潟の海沿い出身者として、降雪だけでなく日本海から来る(シベリア発?)強風の大変さ、どれほど体力や気力を奪われるかは今もって忘れることは無く、心よりお見舞い申し上げます。

さて、表題。少し前の休日に、見る映画を何気なく探していて『静かなる情熱 (エミリ・ディキンスン)』を見つけて。ここに書こうかなと思っていることは殆ど、視聴後に見てみたオフィシャルのトレイラーのナレーションで語られていたので、興味のある方はそれを見て頂ければと。。

ディキンソンは、どこでも同じ、キャッチコピーのようなフレーズで常に紹介されているようだ。「生前はわずか10遍の詩を発表したのみ、無名のまま死去。その後発見された1800の詩が公開され、今では『アメリカを代表する天才詩人』と呼ばれる」というような。先に何の準備もなく映画を見てしまったので、一言でいうと私の印象は、「とてもよくわかる」そして、アルガンザの言語で語ると「人間界が生きづらかったアンドロ族」といったところだ。それもエルフ的、シャンバラ的(シリウス的)高潔さが強く。

南北戦争時代のアメリカ、良い家に生まれて良い教育を受けて・・という恵まれた環境にあって、学校やキリスト教的縛りや、当時の上流階級のしきたりや「常識」などに、反発する勢いが若い頃にはあった。少し斜めに見るとそれはやはり、家がちゃんとしていたからだろうと思う(言い換えると、土台が安定しているからこそ、強い態度でぶつかるというワガママも通用したという)。社会に対して、自分の魂は自分自身のもの、誰の言いなりにもならない、と、自分の「自由」を掲げていたところから、

最終的にはその社会にやはり負けてしまうというか、地上で生きる中で、魂の自由を叫ぶことの限界、肉体の限界(難病にかかる)、家族や周囲で起きる現実の諸問題での疲弊、などなど。「気持ち」や「高潔な意識」では、どうにもならないという現実世界の厳しさに、一個人としては敗北していくように見える。多くの芸術家、文芸家などがそうであったように。日本の金子みすずをも思い出させる。確か、家族を養うなどの生活の重圧で、自ら命を絶ってしまったのだよネ。上げたらキリが無いくらい、そのような芸術家は無数に居る。

ディキンソンは病気に掛かるという形で、自らこの世を去って行ったのかも。50代半ばの早逝であったよう。持っているかも?と本棚を探したけど無かったので、幾つかの詩集を買った。映画の中でも印象的かつ「わかるわかる」とアンドロ気質が深くうなづいたセリフが幾つかあった。兄の不倫を許せまじと咎めて喧嘩になった時、妹が「みんな人間なのよ」と、人々の心が決して清廉ではないのだと諭すと、「世界はなぜこんなにも汚れてしまったのか?」などなど。人の心の穢れにさえ、自分が傷ついてしまうのだ。

若い頃は詩人であるという自負と、家に守られて強気で、世の中を批判することも出来ただろうけれど、40代、50代と・・辛かっただろうな。金子みすずのような「家族を養う」重圧は無かったかもしれないけど、欧米の当時の上流社会は、結婚だとか女性の役割だとか、かなりのプレッシャーがかかっていただろうし。そんな社会はお断りよという強気な態度であったところから、次第に自分自身が、社会に出れない引きこもりのような状態になっていき、敗北感を感じ始めた頃の混乱や不安は大きかっただろうと。そこから患っていったのではないかと、勝手ながらに想像する。

この時代に、手の届くところにヒーリングやニューエイジ概念があったなら。きっと元気に生きていられただろうに。魂はそう、自由だし、自分自身のもの。教会の指示や世間の偏見にあなたまで染められなくてもいい。自由に選択して、生きていっていい。・・・ああ、それを思うと、今はアンドロさんたちが生きやすい時代なのだと悟った。それでも生きづらいけど(笑)、社会的な重圧や環境は、このころ(150年前くらい)とは比べものにならない。

本人は社会と同調できずに崩れていくが、「没後に発見された」作品から、「アメリカを代表する」「天才詩人」にまで昇り詰めるという極端な大逆転。時代のズレがあったのは仕方ないけれど、もしかすると何か手立てがあったのでは?と、今の私は思う。もし若いころディキンソンについて深く知る機会があったらば、恐らくかなり同情し、ファンになっていたかもしれない。この手のパターンを過去生で繰り返した気がするから。けれど今世、ヒーリングと出会ったお陰で、そんなアンドロシリウスの高潔系エルフ種族の芸術家?たちが、何も社会に幻滅して滅びていく必要は無いと思っていて。

究極は、ある意味、期待しなければいいのだ。

自分がやりたいことをして生きている、それで十分、と。ディキンソンは映画の中で「後世に残せれば良い」と語りながらも、落ち込む事があると「なにひとつ思い通りにならない」と嘆いたり、「誰もが自分を見捨てて去っていく」と悲しんでいる。アメリカ映画はかなり周到に研究などを踏まえて作られるものなので、恐らくそういったセリフの根拠になるような傾向が、作品から伺えたりするのかもしれない。1800遍をすべて眺める事は難しいけど、幾つかセレクトした詩集で、しばらくその世界に浸ってみよう。

それで思い出した!

私は小説を(読まないけど)書く。詩は(時々読むけど)自分では書かない・・・長文を書いたり長いストーリーを組み立てていく小説と、言葉をパーツにして伝えたい気持ちを刻む詩は、まったく違うもの。けれど、2014年に突然、ヒーラーとしての感覚をそのまま詩にしてみるという企画を、ひっそりと行っていて、リュミエールブランシュのショップカードの裏面にそれらのポエムを載せてみたり。その後、専用ブログを作って掲載したのが16篇。

当時作ったブログがなんとまだ残っている。歴代のブログを閉じたり、アーカイブブログでまとめたりとしている現状の中、その、幻の詩集ブログへの秘めた入り口があるのが(・・今回自分でも探してしまった・・)、旧ブログ「神様は青い鳥の中」の右カラムのリンクコーナー 一箇所のみ。きっと存在に気付いている人も居ないのではなかろうか。

(そういえばこのタイトル「神様は〜」は、金子みすずの詩の一部を文字ったのだった…)

今回のエミリー・ディキンソン試聴もまた、何かの導きと思って、この幻の詩集ブログをリンクしておくことに。

https://seripoem.exblog.jp

ではでは、今日はこのくらいで。

Love and Grace

Amari

P.S. 旧ブログ「神様は青い鳥の中」の最初の記事で、ネーミングの背景として金子みすずの詩や詩人について少し語っています。こちらもリンクしておこう。

https://blueandwhitecastle.blogspot.com/2015/09/blog-post_25.html

彦姫シリーズ・その3 歴史からの雑感

昨日「書いたけど消えてしまった」と言っていた、日韓の彦姫(国民性の中の少年少女性、いつの間にか韓国も含まれている?)について、高次の検閲が入ったと思われる方面には触れずに、巻き込まれて?消えてしまった雑学的なつらつら、雑感部分をメモしておくことに。

一昨日の記事「スベクヒャン」の時代背景にまずは話を持っていくと、

当時、日本は飛鳥時代。蘇我氏が急に政治の中枢に出てから何代か続いて、蘇我と物部の衝突、内乱が起きるころ。聖明王から仏像その他一式?をプレゼントされて仏教伝来と、日本史では習う(今は分からない、私の時代は)。けれど、日本の政府が、というよりも蘇我氏が百済王家と繋がっていて、蘇我氏限定で「仏教伝来」が起こったという説もあるよう。蘇我が急に政権に絡むようになり、皇妃を出す外戚になり始めたことに関しては、諸説あって、蘇我氏のルーツがどこかという問題になってくる。

シルクロード由来の騎馬民族説、出雲王権の末裔説、百済の王族の一部が日本に来た、など。

そんなことを、個人的興味で20歳の頃からずっと考えているんだけど(笑)、前にもブログやら幾つかの場所で書いたように、栗本慎一郎さんの「シリウスの都・飛鳥」との出会いと、プラス自分オリジナルで想像、直感的に感じている蘇我氏の系譜というものがあり、それをいつか小説にしようと思っている。なんと!それは「ハピの巫女姫」や「ガイアナ神謡集」とも繋がってくるのだ・・・

「指輪物語」原作者、言語学者のトールキン博士は、自国のイギリスの実際の歴史と、ヨーロッパ各国の神話伝承の研究から、オリジナルの架空の歴史を、作ろうと意図していたそうだ。以前何度かブログ等に書いたアメリカのドラマシリーズ「ゲームオブスローンズ」の作者も同じようなスタンスで、歴史好きな作家とはそうやって、ある意味でパラレルなもう一つの歴史世界を、長い時間軸や地理的な広がりでもって、自作しようと自然と望む、自然とそこへ向かうのかもしれない。

世界観がかなり精密に決められているという、ハリポタ・シリーズの J.K. ローリングも同じくだ。

ヒーラー視点でのスピリチュアル史、人類の歴史だけでなく、ソウルが経てきた歴史を体系化しようというのだから、我ながらチャレンジャーだなと思う。日本古代史と、超古代の架空文明、ハピやガイアナとを繋げるだけでも時間軸や次元の層が忙しいというのに、地球創生からのジェネシス神話が下地としてある上での、古代史や超古代史、そしてアトランティス小説まで書こうと思っているのだから、一体どうなることやら。

ああ、話がだいぶ脇に逸れてしまった。

それで、恐らくは、ジェネシスの原型に共通性があり、日韓ともにアンドロ的な性質は、他の民族よりも配分として強いと感じている。韓国ドラマは、時代劇だとだいたい、幼い頃に親や師匠が無実の罪で死んでしまったり、それにより初恋の幸せな思い出が切り裂かれて、という所からスタートするし、現代ドラマの場合、サムネイルや予告が軽いラブコメ風でも、見ているとほぼ間違いなくインナーチャイルド、それもかなり激し目の傷が出てくる。

いつも言っているように、インナーチャイルドは「傷ついた天使性」「自然界やレムリアなどの傷」を反映する。

そういう意味では、日本人にはいくらか黄色い、リラの要素がかかっている分だけ現実的というか三次元的な「ずぶとさ」がコーティングされていると思う。

一方で、韓国のほうは実際の歴史的な苦労が日本とは比べものにならず、多くの痛みを民族として味わって来ている。同じようにアンドロベースでも、こちらは致し方なく(攻撃を受けてしまうから立ち上がる他なく、怒るほかなく、自己防衛のために)赤をまとった、という違いが、日韓の間には、歴史およびジェネシスからの視点で、見られると考えている。

けれど、どちらも社会の同調圧力、それゆえに身についてしまう同調習慣(空気を読む、という慣習)、自己犠牲的であるという共通点があり、やはりそれはジェネシスに照らすと「アンドロ」が強いという言い方が出来るだろう。

韓国の政治や経済などは不勉強で、ドラマを見ているばかりのお茶の間視点しかないが、日本の社会について少し真面目に考えてみると、

福祉大国で、定年後の医療費などの心配もなく、子育てにおいても教育費を高校まで、あるいは大学まで国が出している・・というような北欧諸国と、日本人は同じくらいの税金を払っていることになるらしい。(テレビ番組で野党の政治家が言っていた・・)けれど、よく言われているように日本は年金などの状況は心許なく、今後さらに大変になるらしい。文化系やスポーツなどの補助も少ない。スウェーデンだったか、出産までの費用は国が出してくれるとか。フランスは大学まで学費が無料。それらを日本人は自己負担で何とかやっている。

気づいてみると、とても自己犠牲的な状況なのだ。

ヒーリングの概念においても、自己犠牲的な要素と、搾取という力が引き寄せ合う。

赤や黄色をまとうことで、純粋すぎて壊れてしまいそうな「天使性」=インナーチャイルドを守ることは、三次元的に一時的には出来るかもしれない。凌ぐ、という感じだ。けれど、赤は赤を呼ぶし(戦い)、黄色は黄色に支配される(停滞・腐敗)。凌いでいても、いつかそれが極限を迎える時が来るものだ。

シリウスの風、白の軸で自分を成長進化させ、搾取や腐敗、終わりなき争いの連鎖から抜け出すしかない。

韓国時代劇を見ているとまさに、主人公たちはその白の力で難局を切り抜けるし、うまく行けば周囲をも変えることに成功する。・・ドラマはあくまでもドラマ(=理想)に過ぎないけれど、少なくとも何が自分たちの問題で、何によって切り抜けていけるのかを、韓国のクリエイター、作家の方々は知っている。見ているお茶の間も潜在意識では分かっている(だからドラマや映画を評価する)。日本のドラマや映画は最近見ていないから分からないけど、世界共通、人間は深いところでは「どうすべきか」を知っていると思う。

悪しき慣習、惰性、怠惰、利欲の優先=利己 に落ちてしまうことなく、主人公たちのように振舞う、選択する、それが人のあるべき道であるという普遍的な愛の仕組みを、誰もが本当は知っている。

話が逸れつつも、今日はこのくらいで。

Love and Grace,

Amari

始まりと原郷、そして未来。

イギリスの新首相が立候補1名で即決された。報道では、日本でも「イギリス初のアジア系首相」とか言われている・・海外メディアの表現を邦訳したのだろうけど、実際に「アジア系」という印象は少なく、スラリとした長身、長い手足、話すそぶりや顔立ちも・・イギリス人だなあと見る。白人の血が入っていると思いきや、ご両親ともインド系とのことで・・ アーリア人種、印欧語族とはこういうことか、と朝から考えゴトが壮大に広がる。

共通の言語を話すひとつの集団が、東〜中央ヨーロッパの辺りに居て、それらがロシアなどの東欧、西ヨーロッパ、インド・ペルシャ(イラン)さらには南ヨーロッパのギリシャ、イタリアまで、分布したという。共通のひとつの文明を呈していたという話を、シュタイナーなど神秘学方面の人々は「統一時代」と言う。これに基づくと、少なくとも南インド以外のインド人は「アーリア系」インド人であり、インドに住む事で肌の色や多少顔立ちが変化した白人種、という事になる。
けれど考古学や言語学においては更に複雑で諸説あるよう。

この「印欧」アーリア系に含まれる人々は、手足が長くてすらりとして肌が白く彫が深い顔立ち、という事になっている。神智学も、その手の分野が流行した?19世紀に生まれていて、人種や文明に関する神秘的な視点が文献に伝えられる。けれども・・当時の時代の風潮や、空気感の中で編まれたものだから、幾らか修正が必要なのだろうと個人的には思っている。それにしても、石器時代から、青銅器、鉄器時代への移行期の中で、人間の質や文化がどう変遷していったか、これは若い頃からの個人的な強い関心テーマなのだ。

「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」もその興味関心の土台の上で書いていて、舞台設定は今から11000年前(ハピ)〜ガイアナのシリーズ(?!)の最後は、9000年前ころ(紀元前7000年)を想定している。「統一時代」と言われるものは、その数千年後になる訳だけど、それらの、「物証があって今の私たちの歴史観において「先史時代」と呼んでいるもの」の「更に前」の、「失われた時代」を描くことが、自分のコンセプトでもある。
つまり、神話の様な「統一時代」を更にさかのぼり、アトランティス終焉後の「リセット」から、現在存在が知られている原郷的な文明に至るまでの空白の時代。

『なぜ今こうなっているのか』・・が、いつも知りたくて仕方ない。

空白・・と言っても、現時点で世界最古と言われているメソポタミアはだいたい7000年前、か。日本の縄文だって立派な文明、という説もあるけれど、そこは「文明」の定義とは何かということなってくる。

話が逸れてしまったけど、新首相のスナク氏については分からない、御先祖に白人系の方が居るからなのか、アーリア系インド人の方がイギリスの知的・上流層で磨かれているとあの様なイギリス紳士風になるのか、、ともあれ、「アーリア系」にはどうもコンプレックスを(そうでない)民族は無意識に持っているだろうし、「アーリア系」に該当する方々もおそらくは無意識レベルで、差別ではなくとも区別する感覚はあるのだろうと思う。

日本人は、自覚している以上に実は、差別主義者だと外国の方々には思われている。差別するつもりはなく、どちらかというと「島国根性」なのだと思うけど・・外からやって来たものは、崇めるか、近づかない様にするかのどちらかだ。そこに悪気は無かったりする訳だけど、そのどちらもが、された側は「人間扱いされていない」と受け止めるよう。

地理的に、古代中国の戦国時代や、朝鮮で内乱が起きた時などに常に、新しい色々な物を携えた人々が流れついて、牧歌的に暮らしていたホビットのような縄文の人々はその都度、びっくりしながら、受け入れて、融合してきた筈だ。そうしていつしか出来上がった「日本」という文化。鎖国をしてアイデンティティを深めて行った先の、近代化、敗戦、復興。そして平和ぼけという幸せな境遇を経て、
私の密かな危惧は、数十年後、いや数百年後、日本列島の人々は果たして日本語を話しているだろうかという。出来れば残したいと、誰もが思うはず。

興味深い、と言ったら今の時世的に語弊があるかもしれないが、ウクライナ・ロシア国境付近というのは、上記の「統一時代」(つまりヨーローッパと中東・インドを含めた全域)の文明の原郷(ルーツ)、と考えられている場所でもあるよう(これについても違う学説もある)。その地から拡散した現文明期の何らかのカルマの昇華が今、始まったのだと考えられなくもない。
そのルーツに属さない東アジア人やアフリカの立場、役目、演じるべきキャストは何だろうか? 世界地図がこれから変わっていくのだろうか。平和ボケや島国根性では、本当に私たち日本人は固有の文化や言語を、失ってしまうかもしれない。

どのように始まって、どうして今こうなっているのか・・を、実学ではなくメタフィジカル、秘教的な立ち位置から考え、パラレルな「歴史」を描いていく。。自分に出来ることはそれで精一杯かもしれず。

Arganza のHP内の日記「A Diary」に徒然の雑記として書いていたものを、長くなったのでこちらに掲載。そのため、内容まとまらず中途半端ですが、お許し下さい。

Love and Grace

– A Diary – : Office Arganza HP

 

エルフたちのララバイ 〜次元と粒子と異世界〜

膝掛けが欲しくなるような今日。11月並みの気温。

infoで「エルフの事を書きますね」と予告した後、ちょうど話題にしていた「力の指輪」のたまっていた分を見終わり、金曜配信の週イチのペースに追いついて、やや意識が離れてしまったような感覚の今日。一昨日、書いたけど全文消えてしまった、という日記の記事は、また別の話題で。普段、韓流を中心に1日1話ペースで何かしら見ているから、通常のテレビ放送のような、続きの新作を待つのに7日掛かるというのは、中々、私の時間の粒の密度からすると、かなり遠ざかるような感じもしてしまう。

そう、消えてしまった記事にはそういうことを書いていた・・「Time is gold」というタイトルで。先日の「エスカレーターで止まっていられない」という話にも通じるけど、短気でもなく、人に待たされるとイライラするという訳でもなく、どちらかというとボンヤリ、マイペースな私が、時間の粒子の中に密度を詰めこむ、という感覚になれたのは「シングルマザーで自営業」の十数年の賜物だ。要するに人はゆとりが無ければ何とか出来るようモードチェンジする他ない。となると、火事場の馬鹿力と同じように、物質界を超えた法則で何とかするという、修行?に晒される。

そこでの基準は「意味」であり、その意味というのも、こういう仕事をしながらなので、物質界の基準ではなく、エネルギー次元での「中身」がものを言う。・・でも、まあ、この宇宙人的感覚は子供の頃から実はあり、興味向くものやペースや言動も、やはりちょっと普通の子供ではなかった。けれどこの三次元で生きるために、自分の中にある「その感覚」を呼び覚ましながらヒトとして生きていくために、シングルマザーで自営業、それも、ひとり親への保証は無いに等しく、自営業者に厳しいばかりのこの国で実践することに(魂は)したのだろう。・・本来持っていたものを出現させるために、必要な修行期間だったと思う。

人によって、時間の粒子の密度は違う。そこにどれほどのエネルギーが入っているか、振動も違う。これが、Alice Baily 著にある「インテンション」ではないかと思っている。緊張感とか、日本語では訳されてしまうけど、「密度濃く詰まっていて、かつ冷静で無駄がない」というような。「集中力」のほうが近いかも・・「インテンシブコース」のIntensive は同じ単語の形容詞だ。集中的な、という意味で使っている。

平等に与えられた時間の中で、この物質界の法則の中にありながら、時間の意味を変えるには、自分の意図を集中して注ぎ、周波数の高い粒にすることで、「質」を変えていく。それが5次元創造や、スピリチュアルな成長に繋がっていく。

(あっそうだ。物理学賞の受賞者発表もあった所だけど、量子は粒ではなく、正確には弦、でしたね。)

一昨日はそんな内容を、もっと三次元的な、昔こんな事があったり、あんなことも、と、長々と綴っていたら消えてしまった。それで良かったのでしょう・・あんなこと、こんなこと・・の、過去のエネルギーたちも昇天したのを見届けて。

「静かで落ち着いた集中力」と純粋性が結びついて、サットヴァ(Sattva)として機能するのではないかな。自分もまだまだ、半世紀も生きて来たのにボンヤリしていて、物質的に豊かで平和な時代のゆるい空気の中で、本来ヒトが育てるべき力の一つが育まれにくい社会の、一員として生きて来ていることを実感する。成長進化とは、時間がかかるものだな、と。

(P.S. エスカレーターは安全のため歩かずに立ち止まっておきましょう。)

では、エルフについて、『Lord of the Rings』の新篇、「力の指輪」視聴雑記を書いてみよう。

原作を読んでいない上に、今回、制作が始まった経緯や、脚本の背景などについても調べていないので、本当にお茶の間的な話になるかも。プラス、アルガンザの「ジェネシス」神話を絡めての考察。

本編の「ロードオブザリング」でも然りで、やはり見ていると何でも、ジェネシスの原型論にあてはめてしまう。エルフたちは神の使い、半ば別次元の存在が地上に降っているようなので、やはり「白」だろうけど、ドワーフは「赤」で、ホビットは「黄」、人間は・・何だろう? 明らかな黒サイドも非常に分かりやすい。人間は、これら全ての要素を持っているということだろう。白にも黒にもなびくし、赤い時も黄色い時もある。

原作を読んでいない私には、かつての映画版の本編で、最後に闘い疲れたフロドが、平和なホビット庄に帰らずにエルフ達の「西の故郷への帰還」に同行するという流れに、胸打たれるものがあった。最近ウクライナのニュースで、戦地の女性が「もう元の私には二度と戻れない」と語っているのを見た。多くの破壊を見てしまうと、人はそうなる。増して平和を愛する純粋なホビットであるフロドの変化を思えば。

・・彼の最後の静かな様子がとても印象的だった。ホビット村の周波数の中にあっては、体験した記憶をすべて忘れて封じてしまうか、ただただ悲しく壊れていってしまうのではないかと思う。

同じく映画本編の最後のシーンで、印象に残っていた事がもうひとつ。「西のエルフの故郷」とは、どのような世界なのだろうか・・・と。

今回「力の指輪」の第一話で、長年のその謎が解けて興奮していた。そのシーン、何度も繰り返し見てしまう。。笑

ガラドリエルが仲間とともに、王の命で「西の故郷への帰還」を許され、船に乗っている。船なんだな〜、フロドの時と一緒だ。海から繋がっているのね と見ていると、

あるゾーンまで来ると、独特の静寂に包まれて、前方に・・出た!ワームホールが開く!

海の上のワームホールに、船や飛行機が吸いこまれて行方不明になる事件が多発、という話題を「古代の宇宙人」でもやっていたっけ。その時に見ていたCG映像と同じような様子で、興奮。高次元への扉が開く時は、やはり目を開けていられないような光がそこから溢れ出す。そして精妙な空気が寄せて来て、明らかな別世界を見る。用事が済むと扉は閉まる。何らかの合図・必要性で開くのだろうけど、ドラマではエルフたちが歌を口ずさんでいた。

個人的にはこの、エルフ族の故郷=ワームホールを超えていく高次元の地球 という描かれ方をしていて、とても喜んだ。納得もしたし、アルガンザの「ジェネシス」の視点からいっても、無理なく噛み合って嬉しくなった。

そこで、放送している Am●z●n Prime の紹介ページをようやくマジメに読むと、「西の故郷」(ヴァリノール)とは「ヴァラールの国」という意味で、「ヴァラール」は神のような存在たち。ここから先はウイキを覗くと、単数形が「ヴァル」で、その複数形だそう。つまり「神々」である・・後々(ウイキの原作についての記述を読むと)、「力の指輪」にも登場しているエアレンディル(註*)の訴えを受けてヴァラールから援軍が中つ国に派遣されるとあり、原作では作者の時代を考えても恐らく、神々の世界も地上世界もフラットにつながっているような世界観かもしれない。だとしても、周波数の違う世界を行き来するにはやはり次元という区分を超えていくための「扉」が必要である。

( *「力の指輪」ヌーメノール人のエレンディルとは別の「エアレンディル」は、エルロンドとその兄弟エルロスの父だそうで、この兄弟はちなみに人間とエルフのハーフ、エルロスは人間の道を選びヌーメノールの初代王になり、その家系にエレンディルが子孫としている、らしい。wiki参照)

色々と予定している執筆物の中に、「ジェネシス」をまとめながら見えてきたアトランティスの様々な時代を描く構想がある(すでに一部書き始めている)。そこで考えさせられたのが、それ以前のレムリアまでの5次元世界とは違う、3次元の出現(「神々」による創造)のしくみと、長い長〜いアトランティスにおいても、時代によってヒトの作りは変わっていて、初期の頃にはきっと半分、5次元的だったのではないかと。そして終わる頃は、僅か今から13000年前だから、完全に物質界を生きている。(追記:そうとも限らないとその後、考えている。「the Genesis」三版では、別々の(パラレル)地球を統合して現在の文明期に入ったとしている)

けれど、必要に迫られた時には五次元の神々の世界を、物質的に「訪ねていく」事もできたのではないか・・とも思うし、アトランティス後、我々の文明期に入ってからも、聖職者のような人ならば次元の扉を時折抜けて、また戻って来る、というような事もあっただろうと考えている。それらの、多次元にまたがる舞台設定を、物質的なリアルな描写で描くべきかどうか、という迷いがあった。またその手法は中々、難しいものだ。

原作の「指輪物語」は北欧神話をベースにしているから、他の神話も同じくだけど、5次元と3次元がまだ、共立していて、往来が頻繁にあったし、全ての人の目に見える形でそのための「扉」があったのだろうと。「力の指輪」や映画の本編から察するに、その世界観は神々(恐らく非物質)の住む世界と、その膝もとで暮らす物質体を持ったエルフたちが在り、エルフたちは次元の扉を超えて人間その他の種族が住む世界へ出て来る事が出来る。その逆は難しいらしいけど、「力の指輪」でも「西に行った」者の話がチラチラ出てくる。(エレンディルの下の息子、かな?)エルフと一緒ならば、扉を超えられるのではないか? 人間ではないけどフロドの例もそうだ。

物質体を持つ、と言ってもエルフたちは不老不死で、何でも有能にやってのける。戦で深傷を受けるとセルフヒーリング機能が効かなくなるせいか?亡くなってしまうこともあるそうだが・・闇に囚われる事も稀にある。

アルガンザの「the Genesis」においては、2017年の冬以後、アトランティスにおける大戦争と、そこに出陣するエルフ軍、ケルビム軍のストーリーが出て来る事が続いた。一番、私たちがフタを開けたくなかった記憶だと言えるかもしれない。この路線もだいぶまとまって来て、神々の世界に住まい半ば神でありながら、レムリア期には自然界(が当時は人間の魂の生き場所)の秩序を守るために高次自然界に在り、アトランティス期には、大戦の援軍や、人間たちの要請があった時にワームホールを超えて現れてくれる助け手として、活躍していたのだろうと思う。

そんなエルフ(エロヒム、エロス)たちが地上で犠牲になってしまったり、完全体のまま「故郷」に帰れなかった場合に、地上のシステムに情報的に囚われてしまい、そのカルマゆえ、人間界に生まれ輪廻転生しなくてはならなくなった。ジェネシスにおけるエルたちの物語は、そのまま今を生きる私たちに繋がっている。原作者のトールキン博士も、無意識でアカシックを受信し、描かれたのだろうと思う。

アトランティスに関する神智学の文献の中に、「人間がマヌたちのアドバイスをちゃんと守っていれば、肉食動物は生まれなかった」という一文がある。マヌ、というのは、アルガンザの観点ではちょうどまさにエルたち=エルフたちを中心とした、「5次元の神の世界と人間の文明を繋ぎ、導くグループソウル」である。アトランティス期、人類が神々の教えを守らなかった事で、肉食する動物が誕生したそうだ。そして人間たちも争い合うようになったのかもしれない。

「力の指輪」を見ていると、誇り高き、神々の子であるエルフたちは、正義感が強くいつも正論で、人情や感情などはあまり重視しない。何でも出来る多彩な才能と、キリリっとした容姿と周波数。けれど、言葉は丁寧なのに率直すぎて、人間やドワーフの感情を損ねるらしい。。。無意識なる失言、それでも特に悪いという反省もなさそう。笑 そんな、相違をどれも偏りない愛を込めて描いているような眼差しは、原作から踏襲されているのだろうと想像される。

ホビットの祖先であるという「小さい人たち」ハーフットは、移動する行列で、「誰も列を逸れない!」「いつも仲間と一緒!」と唱えて進む・・・という、すごい同調圧力で(笑)体が小さいから無理もない防衛本能、外の世界に興味を持ってはダメ、勝手な行動をとってはダメ、冒険も空想もダメ、収穫や仲間のことに集中していなさい、という。それが少し洗練されて、後のホビットになるのかもしれないけど、日本人を見るような気がするのであ〜る。

クリスタルもちょいちょい出て来て、やはりスピの人々はこの作品、みんな好きなのかもしれない。・・でも「光と闇の闘い」がテーマであるから、どこまで見続けられるか、Prime 特典の1stシーズンを過ぎたら、見続けるかどうか、まだ分からない。ただ、ヴァラール、ヴァリノールには興味津々。どんな風に描かれるだろうか? 時折記憶に残る、シャンバラのある五次元インナーアースの世界と、やはりきっと、似ているのかな。

Love and Grace

マヌのお仕事

先週、水曜日の途中から何か集合場での重たい空気を感じていて.. 今朝は少し抜けたような気がする週末の朝。

神智学が伝える「マヌ」とは、文明の管理者のような立場。文明といっても、インダス文明、黄河文明、のような地域ごとに発生する小さい規模だけではなく(それも含めて)、人種期の準備をし、その中で生まれる各文明を概観し、歴史の流れを見守りつつ必要な修正を加えたり刺激を与えたりしながら、ひとつの人種期の「終わり」を見定め、そこで得られたデータや記録を保管しつつ、実際の「終わり」を演出。そして次の人種期へと引き継ぐ・・というような、壮大なプロジェクトの管理者のような人々。人というより、ソウルたち、と言った方が良いかも。シャンバラの一部門に属する。

この説明は神智学の本からの内容に、私のフィルターも入っているので、「本に書いてあるのと違う」と思う方も居るかもしれない(?)。やはり体験重視、体感重視なので、尊敬する先人たちの記述や教えがすべて、というよりは、自分の感性や体験をまずは中心に据えて、それを理解・整理するための手がかりとして、偉大な先人たちの著書を紐解く。そう、神智学に出会う前に、既に『ハピの巫女姫』において、何気に「マヌ」として地上で生きる人々を書いていた・・彼らに付けた、インスピレーションからの名称は「ヤ・ヌー」・・(笑)ダジャレのようだけど。。

「人種期」とは、レムリア人種、アトランティス人種、現在の「アーリア人種」のような大きい「型」という意味での人種。ひとつの人種は恐らくエネルギーシステムやソウルシステム、カルマシステムなどのレベルでその都度、デザインされ、実験のような段階を繰り返して「完成」され、リリースされる。iPhone のモデルみたいなものなのかもしれない。。時代、世代によってアプリケーションやOSも変わっていく。

今の我々の「アーリア人種期」は、『ジェネシス』では12000年前から始まっている。けれどちょっと気になるのが私たち日本人含むモンゴロイドはアトランティス人種だとどこかに書かれていたっけ。旧モデルらしい。ガラケーのような立場?(笑)

・・これは書かれた当時の時代意識によるものかもしれないとも思う。神智学の先人たちは霊能力と、研究者としての頭脳と態度を持ち合わせていた天才たちばかりではあるけれど、やはり生身の人間である限り、生きている時代の意識から完全に抜けて中立的かどうかはまた別で。人種的な、偏見・・というほどではなくとも「先入観」くらいは、あるのかもしれない。時々、読んでいて感じたりもする。

だからこそ、定期的に?人間界にやって来て、情報をアップデートしなくてはいけない。そんな役目もやはり、多く地上に転生しているマヌ部門のソウルたちの仕事なのかもしれない。と思ったりする。

私の中に在る、最初から在った、気づいたら創作物の中で物語の主軸に据えていた「ヤ・ヌー」という名の「マヌ」のソウルたちは、今後も恐らくすべての小説の中で主軸として描くのだろうと思う。最初に書いた歴史もの、文明ものである『ハピの巫女姫』はまさに、主人公の巫女姫を含めて、ヤ・ヌーたちのやっている仕事が「マヌ」そのものだ。これは後々から、神智学での「マヌ」の記述と出会って、『ハピ』を書いてから15年以上過ぎた時点で気づいた。ほんの数年前に。

ひとつの文明期の終わりに立ち会い、そこでの人々の動きを、「神々」のニーズに合わせて導き、自らもそのニーズに沿った役目を引き受ける。そして、次の新しい文明の始まり、デザインに関わる。時に神の化身のようになって、チャネルとして高次のエネルギーを地上世界のグリッドや地上の人々の生活の中に刻みつける。

人として生きながら、自分個人の人生の大きな流れは、選択の余地は無いのかもしれない。けれど、それは既に選択している結果なのだろうと。何をしに生まれて来るのか? 忘れているゆとりは無い。魂の選択により、人間世界に来ているのだから・・「思い込み」を逆転させれば、それが見えてくる。

マヌ、に限らず・・魂はもれなく、選択によってこの世界に来ている。けれど、地上での仮の「人格」が主導権を握ってしまうと、自分(人格)の良いように振る舞うことが「選択」であると逆転する。そうそう、「自由意志」としてそれが許されている上に、それを見破り、乗り越えて(という言葉に抵抗がある場合は「統合して」)、本来、ここに来た理由に気づき(思い出し)、それをどこまで実践出来るかに、残った時間を使う。転生は、その繰り返し。

経験の深さは人によって違うので、気づき(目覚め)が早い人は子供のうちから自分の道を見つけたりする。し、カルマ的な課題をすでに終えていれば、邪魔立てすることなくその使命を手助けしてくれる環境の中に生まれる。天才児が、その才能を見出し見守れるような両親のもとに生まれる、例えばそんな風に。

またまた話が逸れてしまった。

デザインしたものを種として物質化させて(種とはまさに情報を詰め込んだ奇跡のような仕組み)、それが育つための土壌を整え、種を播き、芽吹いて育つのを見守り、見届けて、・・・最終的にはまた種として保存・保管して、次に受け継ぐ。そんなマヌのお仕事を、地上で体現して生きる「ヤ・ヌー」たちの人生はきっと、作って、育てて、広げては畳み、を繰り返しながら、静かに洗練させたエッセンスを、また次の創造に使う。そんな事の繰り返しのように(他者からは)見えるかもしれない。

自分自身も、魂よりも人格の響きが大きいうちは、そんな現象に悲しんだり、虚しさを刻んだりするのかもしれない。それを、人間界レベルの「パターン」や「人間関係の問題」だと、思ってしまうのかもしれない。当人がそう思い込んでいるうちは、実際にそうなのだ。それは全てのカルマにおいて、言えること。

当人が、悲壮感や虚しさという幻想のトリックを抜ける、超えることが出来れば、ただただ、魂の仕事に打ち込めるのだけど。それが中々、難しい。だって私たち、生身の人間だもの。このトリックゆえに、「目的」のコースを出入りするソウルも多かろう。けれど迷うことは、操作できないのに無理をして壊れてしまうよりは良い。分からない時は、立ち止まったほうがいい。自分だけでなく、周りをも壊してしまったら大変だ。そういう人も見て来たから・・無理は禁物。

更に話が逸れてしまった。。

難しい話はさておいて。人はそれぞれの人生を見つけて、それぞれの人生を生きる。見つかっていない人は探せば良いし、偏見や思い込みを外して心を澄ませれば、すぐに見つかる。どんな人生でも良い。けれど、全てに共通してどうしても破れないルールは、「愛」と「清浄さ」に向けて生きるという方向性だ。これを破ってしまったら、何度でも逆戻りして、やり直しを繰り返す。毎日、「愛」と「清浄さ」に向けて生きているかを自分に問う。そうすれば、魂と人格は自然と統合されていく。

Love and Grace

生命叙事詩

先日、2014年公開アメリカ映画『インターステラー』をようやく見て。2時間49分もあるけれど退屈せず、コテコテしたハリウッドらしさも感じず(監督はイギリス出身らしい)、静かに穏やかに冷静に、感動する・・ような、エレガンスの効いたSFを楽しませて頂いた。

自分の中にあるものと、色々と響くポイントがあり。

まず、この作品の世界観。さらりとだけど「they」と語られる宇宙存在、宇宙人たちへの言及がある。というか、それはこの物語には不可欠な要素で。砂漠化が進み、あと数十年で酸素がなくなるという追い詰められた地球。(設定はいつなんだろう?近未来という感じではなく、ごくごく現代に近い様子) NASAが密かに研究・活動を続けていて、「土星近くに急に開いた」ワームホールの存在が明かされる。

「5次元の中に3次元を創り出し」、人類を見守ってきた「they」(彼ら)が、このままでは危ないという瀬戸際にある人類に活路を開くため、人類でも行ける土星近くのある場所に、別の銀河へと抜けるトンネル=ワームホールを作ったらしい。

この世界観と、ワームホールの描写の仕方、作品後半で出てくる「四次元立方体」という、「they」(5次元存在)がテクノロジーで必要に応じて開いたり閉じたりする時空の狭間のような場所(タイムマシン的な働きをするのだろう)の描き方などが、本当にその通り、というか・・自分が体験を通じて「そうだ」と思っていること、体験していないのになぜか「そうだ」と思って来ていることと、ナチュラルに一致する部分が多かった。

・・が、作品の解説などを読むと、最新の科学的な研究結果、宇宙論を反映しているとのことで・・ このところ続いている、自分の魂が知っていること、エナジーヒーラーとして、また個人的瞑想を通じて得てきたものと、実学的な情報が繋がっていくという感覚をここでも。

まだヒーラーになる前に書いた「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」でも、ワームホールを仕掛けた施設(古代遺跡の形で残っている)、神なる存在がすぐにその場で呼び出せる小型ワームホール(「渦」と作中で呼んでいる)、それらを抜ける時には意図した場所へ運ばれるという点など。「古代の宇宙人」を見ていても「わかる!」「私それ20年前に書いている!」という事が多く、創作というのは本当に、人間としての自分を超えた、魂のなせる技なのだなと改めて思う。

話の次元が違うケド、韓国ドラマを私が初めて見たのは2012年、『チャングム』の再放送(ブームよりかなり年数が経ってから)。その時はそれだけで終わって、「いや〜女子には必要な体験だな。娘にいつか見せたいな。」と思っていたところ、高校二年になった娘と共に二度目の『チャングム』を見たのが2017年。・・そこからノンストップで今でも、何らかの韓国ドラマを常に見ている生活が続いているわけだけど、

2002〜2003年に書いた『ハピ』、2005〜2006年に書いた『ガイアナ』、とくに「ハピ」と、韓国時代劇のストーリーの流れ方や、登場人物の設定、物語に現れるパターンなどが、「似ている!」と想う要素が多くて、これはどういう訳か。と考えている。日本の歴史物よりも、韓国史劇のほうが、似ていると感じる。まるで私が、幼い頃から見てきて韓国時代劇に強い影響を受けているかのように。

けれど実際はそうではない。1973年生まれの私は、「ベルばら」や「キャンディキャンディ」などをテレビアニメで見て、「王家の紋章」や「あさきゆめみし」「天上の虹」などなどの、今思えば巨匠のような漫画家先生の作品をリアルタイムで愛好しているマンガ少女だった。それから何故か・・小学生〜高校時代までの長きに渡り時代劇が好きで(笑!)家族の誰も見ないのに、一人で夕方や昼間の再放送から、夜の放送も見ていた(歴史好きの反映だろうと・・)。

大人になってから好きになった萩尾望都先生の作風や世界観には、わりと影響を受けているかなと自分では思っていたけど・・20代から好きで見てきたイギリス系のハリウッド作・歴史映画や、ファンタジーなどよりも、明らかに韓国時代劇が、とくに「ハピ」には最も似ている要素が多い。ジェネシス原型論で考えるとやはり「シリウス」要素なのだろうか。特に古典的な史劇のパターンを一つ一つ踏んでいるようなタイプの韓国時代ドラマと、その点では一致しているのかも。

そして、最新科学の知見とも符号していく要素も散りばめられている。ガイアナなどは本当にほぼ自動書記で執筆していたから・・これからも作品から私自身が教えられ学んだり、驚かされたりすることが多々、あるのかもしれない。

「インターステラー」に話を戻すと・・

地球は、残念ながら終わってしまう。人類が住めない星になる。けれど、移住先への活路が開き、人類の文明はつづく。物語の中でなされたことがもし、次の新たな文明に語り継がれたなら、それはあらたな「始まりの神話」つまり「創世記」であり、主人公たちは神話的英雄、ということになる。

プラス、神智学の観点を挟むと、いったん砂漠化して人が住めなくなった地球も、何らかの変化が起きて再び、地表世界が整えられる日が来るのかも。神智学では、惑星で魂たちが一時代を体験したあと、別の星に移動する。その間、留守になった惑星は休眠状態に入るのだ。

色々な意味で、自分の執筆活動や、メタフィジカル分野を探究しそこで仕事をしてきた感覚や体験から、納得したり共鳴したり出来る映画であった・・

見終わった時、「これは生命叙事詩だ」と感じた。

そして、まさに自分が望む事、20年前にハピやガイアナで少しだけやり掛けた事も、それ。「生命叙事詩」を謳い上げ、刻むこと。

利己・生存本能を見せるもの、利他・愛で行動しようとするもの、後者でも、何が利他の正しい行動なのかと幾つかの選択肢が示される。「愛は未知のパワー」「生命の基本は変異」など、メモしておきたいセリフも多い映画だった。

Love and Grace