自己表現への夢を抱く人々。

こんにちは 新しいブログサイトへと移行して最初に書く記事です。

また「ソフィアの図書館」もオープンしました。サロン顧客様専用の「世界樹メンバーズ」、今月下旬スタート予定のオンライン読書会「ソフィア・ブッククラブ」により構成されたメンバー専用の有料サブスクリプションサイトです。

さてさて。最近 テレビも見ないし俗世間に疎い私を案じた友人に(笑)薦められ、以前よりYoutubeを見るようになりました・・時代の移り変わりを痛感しています。(年寄り臭いですネ)

それで、ヒストリーチャンネルに去年やっと目覚めたのですが、同じような領域を紹介しているyoutuber のナオキマンさんの番組を見ていて知った話題がとても興味深かったので、今日は記録しておきたいと思います。皆様にもぜひ知って頂きたく。

アメリカの政治学者、ロナルド・イングルハート による世界中の国民性における「価値観」の研究。

『世界価値観調査』(wikipedia)

このウィキのページを読んでいただくと概要は書かれているので、興味ある方はお読みいただければと思いますが、結論、「日本人とは」

Naokiman さんのまとめの言葉をお借りすると、

ということが、浮かび上がった結果だったと。

同調圧力がとても強いと言われている日本や韓国よりも、アメリカのほうがよほどに「他人と同じでありたい」と望んでいることが分かったという。意外ですよね。

どうも日本の人々は自分たちを「集団主義」だと思い込んでいるけれど、深層心理、表に出さない本心を探っていくと、本当は「人と同じで」ありたいわけではない。ただ、同じであるように振る舞うことで失敗を回避して、本来とてもとても何よりも価値があると思っている「自己表現」を犠牲にして、合理的に振る舞っている。ということが読み取れそうです。

リンク先のwikiページの、「価値マップ」を見ていただくと、この調査で見えてきた各国の価値観を地図にして視覚化しているので、分かりやすい。日本はちょっと飛び抜けた位置にあり、不思議なポジションだということが分かります。これで見ると、とても近いと思っている日本と韓国はまただいぶ違っているのだな、という距離感も分かりますね。

日本人は「世俗性(伝統や因習にとらわれるのではなく現代的な合理性)」が非常に高くて、また、他のどのアジア人よりも、北欧の人々なみに、自己表現を望んでいることが見えて来ます。本当に求めているもの、それは自己表現。

けれど、社会的に安全であるためにそれを封じている。社会的な「空気」に紛れることを演じているために、かなりストレスが掛かっているのではないかな。同調圧力ゆえ、ではなく、自由な自己表現をしないという選択の影で、エゴセルフと(社会とは関係のない無垢な)ソウルセルフが摩擦を起こしているであろうと、メタフィジスト視点では推察されます。

そしてある意味で、ソウルとパーソナリティが統合されている人、自己表現を経て活躍している人、自己表現を懸命に叶えようとしている人などを、本人は無意識でも嫉妬している、羨ましいと思っている人々が、マスメディアやSNSを通じて叩いたり引き下ろそうとしたりするのだろうと。ヒーラーの視点、ヒーリングの観点から言うと、やはりそう思えてくる。

それにしても・・

最近、スピリチュアルな領域でさかんな「日本人=特別」という考え方は、賛同する/しないは私個人的には50/50 なのですが、世界価値観調査マップを見ると、やはりちょっと普通ではないのだな・・・ある意味、飛び抜けた立ち位置。

本心:合理主義で、自己表現に価値を抱いている

実際:非合理主義的にふるまい、自己表現を封印

「くる時が来たら、化ける」というのは、こういう人々なのかもしれない。と、客観的に感じた。その意味では私などは、まったくもって外国人だなあ。と。「自己表現」と「合理主義」を表に出して、そうでありたい、と努めているので。。。ソウルとしては、この重要で不思議な国に、興味を持って今世選んで生まれて来たのかもしれない。

皆さんはどう感じましたか?

・・ああ、だから、日本人は職人気質なのか。淡々とした職人作業の中に、自己表現の道を見出す。けれども職人の世界も長らく男性のフィールドであった時代、日本の女性たちは一体どこに、秘めた自己表現願望を流し込んだのだろうか。

と、エンドレスに考えてしまうこの話題。レヴィ・ストロースの『月の裏側』(世界的な文化人類学者による日本文化論)、買って以来本棚にしまってあるけれど。読んでみようという気持ちになりました。

今日はこのくらいで。

Love and Gratitude

Office Earthkeeper のサイトを新設しました。ぜひ覗いてください^^

https://www.earthkeeper.jp

日本とジェンダーと第四光線

 
ナチュラルスピリット刊 森由里子さん著

ものすご〜く久しぶり(6~7年振り)に、それも突然、ナチュラルスピリットさんのサイトを直感で覗いて、目が合ったので何かありそうに感じるものがあり。著者の森さんは人気の作詞家でとてもご活躍、成功されたキャリアをお持ちで、時々私が呟いたり動画を貼り付けたりしているももクロさん(←母娘でもののふ、「女子のふ」というのかな。けれどマニアックな事をいうと「もののふ」とは古代豪族の物部氏の武者のことを言うので、ソガ系を自称する私としては複雑である。笑)の曲も手がけておられるとのこと。

スピリチュアルなこともされているようなので、もしや私が「シャンバラっぽい」と言って動画など掲載してきた曲は、森さんの手によるものなのだろうか?それはさておいて。

愛子さまに、女性天皇になって頂く。

という選択は、とても重要な日本という国にとっての分岐点になると私も思っています。なので輝かしい経歴をお持ちの森さんが、こういったデリケートな領域に掛かる著書を勇気を持って出された事に、「一票」を投じる思いで自分でも書いておこうと思いました。

スピの界隈ではよく言われているのが「日本は特別な指命を持った国である」ということ。これにも個人的には同意。その背景としての「ジェネシス層」の理由、地球47億年の精神史としての「the Genesis」の中でも少し触れて(仄めかして)書いています。

 

構想は30年前、執筆は20年前になる『ハピの巫女姫』も最後まで読んで頂いた方にはお分かり頂いているかと思いますが、その部分、日本の神秘性についての「はじまり」を作品のラストで描いていますし、そもそも、ハピの執筆のキッカケが、20歳で奈良や伊勢の一人旅をし始めた頃に見ていた白昼夢のような瞑想体験から生まれた、日本のスピリチュアリティの中心軸に流れる、宇宙由来の神秘な力や遺伝子・・を、歴史絵巻にしようという構想の、プロローグ的な作品として、超古代の「ムウ」大陸を描いたという経緯があります。

つまりは、森さんが27年かけて様々な神秘体験や導きをされて、その結論は「愛子天皇」というのと、ルートは別ながらも、私も同じような30年の歩み・神秘体験により、今とこれからのこの国にとって重要な課題は、やはりそこであると思っていて。一緒だなと感じたし、何しろ以前、奈良に移住していた時期のサロン名が「セイリオス三輪」であったけれど、森さんは「セイリオス」という名称の音楽ユニットをされているそう。シリウス存在とのコンタクトがあり、それでのご著書もあるようで。

「ハピの巫女姫」の終盤「新しい時代」が到来(1万1000年前)、そこでの導き手はシリウスの宇宙船団。続編である「ガイアナ神謡集」も時代の守護神たちはシリウス存在。当時は何気なく書いていたけど、それが今のヒーラーとしての仕事に繋がっていて、仕事全般を導くのは常にそのラインである訳で、冷静に考えると「情報ソース」「導き手」が一緒だから、導かれている方向が一緒であるのは当然なのだな、と。

よくある事、のように聞こえるかもしれない。けれど実はスピリチュアル業界においては、むしろ、表向き、ではなく本当にシリウスの仕事をしている人って寧ろ少数派。以前はそうではなかったけど、今はそう感じる。神智学が伝えているシャンバラ、地球のロゴス意識やその守り手たちは、シリウス由来であるのですが・・何故か、地上の「ライトワーカー」たちはその逆の方向に導くところに、接続しているのが最近の風潮だと感じる。

そんな背景を思うと、社会的ステイタスのある方がこういった本を書いていらっしゃる事も、納得出来る。そんなチャレンジを必要とする、本当に良き事をするために勇気を出さなくてはいけない仕事というのは、シリウスが背景にある。

古代日本史、民俗学を趣味で探求してきた者として、「アマテラス」は本来は男性神かもしれないと思ってはいる。けれど、それは今この話においては重要ではなくて、日巫女(ヒミコ)であった女性部族長が魏志倭人伝によって「卑弥呼」と記載されて、要するに日本の古代は縄文時代からの母系社会、女性部族長の伝統があり、その伝統が破壊されながら新興勢力の父権社会や文明に吸収されていったという流れが「ヤマト」の国の始まりや、天皇制と関わり合っているということ。

色々省略して・・7〜8世紀に記紀が編まれた時、女神と古代の女性首長たち=日の巫女が、当時の君主であった持統女帝の存在感とも重ねられて、日本の神話に「アマテラス」という女神が誕生した。少し表現の仕方を私流に変えると、「新時代のアマテラス」は「新時代の日の巫女(古代日本の女王たちの総称)」という事になる。それを「女神アマテラス」と表現されているのが、こちらの本のスタンス。言葉のチョイスが違うけれども言いたい事は同じです。

今、この時代の、さらに特別な短い時期、愛子様が生まれて成長されたこのタイミングで、日本は大変換点を迎えようとしている。女性天皇を受け入れるという選択を国が達成することで、ようやく、日本は歴史上、文明史において、高次によって遠い遠い昔に託された役目を、果たすことが出来るのではないか・・・ちなみに国民の8〜9割が世論調査によると女性天皇に賛成しているという。

この本に導かれて、もうひとつ、良かった、嬉しかった事があり、

30年前になる。実家で見ていたテレビ番組で、世界各地から予言者を招いて日本の未来について予言してもらうという企画があり、他の男性予言者たちの顔や雰囲気や予言の内容などは全く覚えていないのに、一人だけ、短髪の白人女性が言ったこととその人の印象はなぜか強烈に残っていました。

「イランと中国がアメリカに対して宣戦布告し、第三次世界大戦が始まる」

「日本に、三大宗教をひとつにまとめる救世主的な人物が現れる」

あの女性予言者は誰だったんだろう?と、その後、自分がヒーラーになりスピ視点に基づく思想を展開する中で、何度も思い出していて。調べようとしても見つからなかったことも。

それが、森さんのこの本の中で、ブルガリアのベラ・コチェフスカ女史であったと偶然知ることができ、1992年に来日しているというから、テレビ出演のタイミングからしてもきっと間違いない。

ベラさんは前世が日本人であったそうで、思い入れも強かったよう。ある時に霊視で古代日本の指導者の女性を見た、その人のクニが NARA にあったと語ったとか。素直に受け止めればヤマトの連合国家が樹立した際の三輪王朝の、日巫女(=魏志倭人伝の卑弥呼?)、オオヒルメ、トヨ、あるいはヤマトヒメ、その辺りの女性司祭長であっただろうと。

また、来日時に伊勢神宮に行かれたベラさんは、外宮の多賀宮を目掛けて走り出して、境内で涙を流して「ここは、ユダヤ、キリスト、イスラムの『ヤハウェ』を祀っている」と言ったとか。・・・この感覚は私もよく理解できる。20歳、初めて伊勢に言った(1993年、ベラさん来日と1年違い?)時、最も感動してそれこそ泣きそうになったのは多賀宮でした。

最近になって(昨年秋ころから今年にかけて)アルガンザの瞑想ワーク等で一歩一歩、感覚を掴んで来た結果として、「白い炎」の聖地として、中東も日本も、そのほかの各地も、同じものが形を変えて点在し守られている事を、ワークの実感とともに噛み締めて来た所でもあります。

この流れからして、ベラさんについても改めてよく知るために本を買うことに。まだ読めていないけれど・・手元に届いたところ。(こちらはヒカルランドから出版されている)

書籍を探す際に検索していると、2025年7月、日本に起こる大地変について、ベラさんのみならず、ババ・ヴァンガ(前にこのブログでも紹介)、漫画家のたつきさん、そしてシュタイナーまで!予言していると、Youtuberの方の紹介でかなり話題になっているよう。Youtubeでスピ系をよく見ているという友人に「そうなの?」と聞いてみると、私が逆に「予言」を求められた(笑)・・翌週には、別の知人と話していたら同じ事を聞かれて。

アルガンザでは以前から、神智学で伝えられている2025年の「第四光線の顕現」については、ずっと意識をして来て、何度も書いて来ている。それは天災という事ではなく、おそらく「ゆっくり顕現する」と言うので、実際に世の中に変化が起きていくのを後押しするエネルギーなのではないか、と考えています。

で、そのための準備がうまく進まない場合、自然界、その背後にある高次元も致し方なく大地変を起こして、物理面から社会をひっくり返さなくてはならなくなる。という事ではないかと。なので、絶対に来年7月に巨大地震や噴火や隕石落下などのディザスターが起こるとは思ってはいません。ただ、日本は第四光線を宿した国でもあるので、宇宙的に決められている進化のタイミングにおいて日本がキーになっている事は確かで、その主軸は「ジェンダーと聖性」であり、言ってみれば「ヒミコ」(森さんや美内すずえ先生の言葉ではそれが「アマテラス」)であり、イコール「女性天皇」なのではないか、と。

来年7月までに、少しでも動きがあれば。人心や、エネルギー面、意識、集合場の周波数において。愛子さまを天皇に。という象徴的な事象を通じて、日本は高次に試されているようにも思う。それだけではなく、父権社会的な構造の中で起きている弊害や、愛ではない要素が、リリースされるべき時であると、言えるのでしょう。

来年7月に日本に大災害が・・と伝える4つの予言の中で、シュタイナーのものは「日本がなくなる」という衝撃的な言葉だけれど・・ネット上で取り上げているブログなど幾つか拝見すると、その解釈はいろいろです。日本の国土がすべて、海に沈んでしまうとか、壊滅してしまうというのは、少々、考えにくい。次の2つのうちどちらかだろうと思う。。。

  1. 日本語を話す日本人や日本文化が「無くなる」(戦争を経て他国の一部になるかも?)
  2. 日本=日本の皇室(それこそまさに日本人が民族文化の拠り所、精神とするもの)が、なくなる。

どちらも、決して起きてほしくはない。

森さんの本から、幾つか引用させて頂いて、締めくくりとしたい。

何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、ほかの人からの親切一つしとつに感謝し、他の人を思いやるところから、「平和」は始まるのではないだろうか。

そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人一人の思いや責任ある行動で築き上げていくものだから。

(愛子内親王殿下 中学生時代の作文より・p101)

このように国民から愛されるお人柄やご聡明さにおいて比類のないお方が天皇家の直系長子であるのに、もし女性というだけで皇太子の座を閉ざされてしまうとしたら、まさに国民・国家にとっての大きな損失と言わざるを得ない。

片や、愛子さまが立太子されて天皇への道が開かれたら、皇位継承の危機も少なくなり、日本国内に一気に明るい光が差し込むと共に、民主主義国家として世界的に高い評価を得ることだろう。現在、ヨーロッパ王室は、すでに男女の区別のない長子継承制に移行しているという。

(p103)

私はいつも思うのだが、「未来志向」の人間は、時代に吹く風に敏感で、軽やかに前を向いて生きている。「過去思考」(そんな言葉はないが)の人だけが残念な因習にこだわって同じ場所にとどまっている。そして時代の風に乗って進んでいる人の方が現実もうまくいく。つまり運もよくなるのだ。これは個人だけに限らず、集団や国家にも言えると思う。(p111)

参考文献・引用:

『新時代のアマテラス — 愛子天皇の未来へ』

森由里子著 (出版:ナチュラルスピリット)

長子相続制がスタンダードになりつつあるヨーロッパ諸国では、続々と女性の皇太子が誕生していて、いずれ愛子様と同年代のその姫君たちが、女王として即位される時期が巡ってくるそうです。21世紀は女性そして多様性の時代と言われていますが、第四光線の顕現に責任を持つ日本が、進化しようとしている世界基準の波に乗れるでしょうか。大事な分岐点です。

今日はこのくらいで。

Love and Grace

Amari

大祈願(A.ベイリー)

神の御心の光の源より

光をあまねく流れ入れさせ給え

光を地上に降らせ給え

神の御心の愛の源より

愛をあまねく人の心に流れ入れさせ給え

キリスト(如来)よ、地上に戻られ給え

神の意志、明らかなる中心より

大目的が人の乏しき意志を導かんことを

如来は大目的を知り、これに仕え給う

我らが人類と呼ぶ中心より

愛と光の大計画を成させ給え

悪の棲処の扉を封じ給え

光と愛と力とをもて地上に大計画を復興させ給え

 

『以上の祈願つまり祈りは特定の個人やグループのものではなく、全人類のためのものである。この祈願の美しさと強さはそのシンプルさと、すべての人々が生来自然に受け入れている中心となる真理の表現にある。その真理とは、私たちが漠然と神と呼んでいる知的存在の真理、すべての外的なものの背後にあり、宇宙を動かしている力が愛であるという真理、キリスト教徒がキリストと呼ぶ偉大なる個性が地上に現われ、私たちに理解できるようその愛を体現したという真理、この愛と知性が「神の意志」と呼ばれるものの結果であるという真理、そして、人類を通してのみ神の大計画が成し遂げられるという自明の真理である。』(A. ベイリー)
​石川道子訳:AABライブラリー各著の冒頭に収録される。

A.ベイリーを愛読される方々は重要視しているこの「大祈願」。

個人的には自分で祈りの言葉を作ったりも、スクールのメソッドに導入するなどもして来たけれど、この「大祈願」は敷居が高く、今まであまり触れることはなく。

けれども今回、2023年12月末ころから(山羊座の満月から?)の、「用意されている時代の変わり目のお膳立て」の勢いが今までとは比較にならず、昨日1月21日の冥王星の水瓶座移動=風の時代の本格始動、水瓶座時代が具現化して来るタイミング・・で、世界が変わっていく舞台裏と、それを受信して自分たちが格段とギアチェンジしなくてはいけないという五次元と三次元のこちらを結ぶ「通信」のようなものを感じていると、

ふと、響いて来たのがこちらの「大祈願」です。

A.ベイリーが伝えるマスター界からのメッセージは、水瓶座時代の準備をせよという内容で。神智学の先達が、苦労しながらもこれからの時代のために、世に出され受け継がれて来たもの。正式な「神智学徒」ではなく、横から斜めから自分の仕事を通じて学ばせて貰っている私などは、ほんのうわべしか触れていない訳ですが、ますますこれまで以上に、これらのメッセージや用意されていた知恵が、時代を導いて行くことを感じます。

神智学、人智学、インド思想、「哲学としての仏教」など。

世界が平和に向かっていくよう・・変わり目には、人の癒しと一緒で色々な事が起こり、社会が「無事(なにごともない)」事は無いのだろうと思いますが・・

宗派などの垣根のない、神智学の先達が提唱する「新しい世界のスピリチュアリティ」が、人々を、人類を、地球を、守り導いていくことを願います。

Love and Grace

空気を読まずに流れを読もう

互いに空気を読む、という国民性は、とても便利ではある。通じるなあ、という見知らぬ人々との無言の空気の「読み合い」に、妙に心が安堵感を覚えることもある。哲学者のマルクス・ガブリエル氏はこの国民性を「テレパシー」と英語にしていた。やはり海外の異なる文化意識の方々から見るとある種の、テレパシーとも言えるのかも。

けれども・・エナジーワーカーという仕事をして来て、エナジー、つまり「空気」とここで称しているものにも種類があるという部分、職業グセで分析をしたくなる。この場合は神智学の言葉を借りると「アストラル」、そして「エーテル」に関わるのではないかと思っている。

アストラルとは感情、であり。やや動物的な、モノノケ的な成分で、その人から発しているにも拘らず、発した当人が意識しないまま他の人にも伝播して影響を与えるし、横に接続し合うと大きなアストラルフィールドが出来る。良い例としてはコンサートやスポーツ観戦などの感動や一体感。良くない例として、ネガティブな雰囲気が集団で広がってそうでない人まで染まってしまう、という感じの。

また、人から分離して個別の存在(?!)になることもあるという記述も神智学文献にはあり、人間が生み出しているけれど、動いたり独立したりし始めるもの。ゆえにやや動物的。

もうひとつのエーテル、は、生体エネルギーフィールドの量子の波のようなものが、肉体の周りに存在していて、そこに遺伝情報や健康に関することなど(おそらく国民性、なども)私たちのプログラムがその人その人にセットされているもの。「肉体の一部の見えていない部分」という考え方もある。

日本人が互いに「読み合い」をしている「空気」とは、これらの二つがメインではないかと思う。そこに、アストラル体よりも外側にあるメンタル体のより機械的・粒子的な情報が、さらに外側から影響を与えて、「成分」としてのアストラル情報と、情報帯として私たちが「肌で感じる」エーテル体のあり方がその時々、個人個人から発せられている。

つまり・・人が集まった時。グループで何かをしなくてはいけない時。私たちは無意識に、(アストラルとエーテルをひとことでまとめると)「気持ち」を読み合う。それが習慣化されているので、無意識にやってしまう。そして、「調和」という、全体が同じような響きである状態を「良し」と感じる。そうでない場合、その「調和」状態にしなくては・・と、言葉を掛けたり、自分のやるべき事、発言・行動を考えたりする。

それは、何のための集いであるか・・によって、評価が変わってくる。「これから宜しく。仲良くしましょうね。」という顔合わせであれば、上の段落に書いたような、無意識の努力は必要かもしれない。誰かの「気持ち」が損なわれたら、目的が果たされなくなってしまうから。

けれども、会社のプロジェクト、研究や何らかの目的を持つタスクフォースのような場であったとしたら・・(政治や経済やボランティア活動やあらゆる「活動」は皆、目的があることだろう)・・「気持ち」を読み合い、調和することに尽力していたら、どうなるだろうか。

余程、安定している人々の集まりでなければ、集まるたびに違う「空気のゆらぎ」が発生して、誰かの気持ちや調子の低迷を他の人々が「読み取り」、気遣い、調整することに時間とエネルギーを費やすことになる。そんな光景は、人々の集まる場所で、よく繰り広げられているのではないかと思う。小さな池(感情エネルギーは水であるからそのイメージ)の周りに集まって、皆で水を覗いているような風に、私には(心の目で)見える事がある。

大きな流れは遠くから来ていて、この先も流れに乗せて目的を現実化して行きたいのならば、小さな池を覗き込む輪を作らずに、遠くから来ている流れが自分たちの前へ、そしてその先の(存在している、決めているはずの目的=ゴール)に向かう様子を見据えて、流れて来ているエネルギーの上に乗らなくてはならない。

ここでは、ひとりひとりの「気持ち」へのフォーカスは超えていなくてはいけなくて、それは既に個々で、仕上げた上で集まっているか、舞台裏でその都度解決するよう試みながら、大人として参席しなくてはいけないのだろうと思う。

神智学、アリス・ベイリー著書からも、(チベット人のマスターからの教えではあるけれど)インテンション、緊張感を良い意味でキープして、それにより成長をし続けることの大切さが説かれていて、私はそれを「シリウス的」(ひいては「ヴェガ」由来の宇宙思想)と捉えて来た。(余談:地上でそれを体現しているのが、ユダヤ精神なのかもしれない。ニューエイジのスピリチュアルはそもそも欧米発で、ユダヤ的なエッセンスが含まれているかもしれないことに、最近、読書をしていて気づいた・・)

日本における議論だと、池をみんなでじっと見つめていて、波が立って乱れたら様子を見て、「池」の平穏さを守ろう・・の状況について、

「そこからも、何かが生まれてくるかもしれないし、それも良いんじゃないかと僕は思うよ」・・みたいな声が聞こえて来そう。(笑)もちろん悪いことではない。

けれども、そんな日本人精神は「プロジェクト向き」ではないのだろう。大きな視点で流れを見て、見据えて、流れに乗っていこう・・・というよりも、お題や課題を与えられてその中でコツコツと頑張る時間を貰えたら、(職人仕事的に)良い成果を出します・・というのが、日本ダマシイといったところかもしれない。

目的意識が明確にあり、流れを読んで過去(状況)と未来(目的地)の間にある「今」の、「必要なこと」をしようという意図があったとして。目的は全体のものであった筈が、集まった人たちは、各自の「気持ち」をそのまま持ち込み、互いにそれを調整して調和させることに、その集まり=池 を使おうとしているようなことは、日本の色々な場所で繰り広げられているだろう。

特に女性たちは(私も含めて)自分の「気持ち」を大事にすること、他者の「気持ち」を気遣うことを重視するような土壌で、それを期待され、お互いに期待し合いながら育って来ている。ヤマトナデシコとは、[永遠の少女]のような原型エネルギーを被ること、なのかもしれない。

自分の古いブログ記事を整理している中で、「気持ち」重視の自分に気づいた、という文章もちょうど昨日読んでいて・・確かにその気づきは何度もあったっけ。ヒーラー仕事をして来る上で、「気持ち」が壁に引っ掛かって進めなくなることが多々あったから。ヒーラー、というかメタフィジカルはある意味「大いなる(地球規模の)プロジェクト」の一員になることだから、個人的な仕事ではなく、ある一定の法則の中に、自分を合わせていかなくては、上手くいかないという局面が多々、現れて来る。

A.ベイリー著書などはそんな話をしている。「見習いの道」「弟子道」とも呼ばれたりする。あらゆる宗教や文化のジャンルに分かれていたとしても、(正しい思想や哲学の)行き着く所はひとつの筈で、地球を動かしているプロジェクトには、ひとつの法則があるのだ。絶対善と表現したりもしている。

ゆえに、日本人の一人、それも日本女性の一人として、空気を読み合う文化の優しさも良さも十分に分かって居るけれど・・その上でやはり思うのは、それは「プロジェクト向きではない」ということ。自分自身も修正し続けて来たけれど。

折しも最近読書していた「ユダヤ思想」についての勉強から、世界中で結果を出している、つまりプロジェクトに強いという性質として、ニューエイジのスピリチュアルでもよく語られる「フロー」や「豊かさ」などの思想の源泉を見つけた気がした。

ユダヤ、のキーワードについて問題が連想されるとしたら、今も起きている紛争、争いという局面だけれど。それは、一神教ゆえであり、勤勉さや上昇志向や、よく言われる「無から有を生み出す」というユダヤ精神とはまた別の話であろうと今のところはまだ思っている。が、もう少しよく学んでみないと・・

私なりに、それ(一神教のはじまり)に関しては最近ひとつの(秘教的な)答えを得ている。(by 「古代の宇宙人」・笑)それについてはまたの機会に書きたいと思ふ。

アリス・ベイリー著書のような神智学の教え、緊張感や成長(進化)主義のような思想が、日本ではなぜ受けないか・・も、ジェネシス原型論からも今では良く理解できる。

「流れを読み取ろう」といつも、スクールでは言い続けて来て、みんなちゃんと在学中は出来るのだけど(アルガンザのエネルギーメカニズムに乗せられるというか、乗らない訳にはいかない仕組み?ゆえに)、日常に戻ってしまうと、自ら流れを読み取ったり、増して乗り続けるために自分自身を成長させ変化変容させ続ける、という状況を、自ら積極的に作ろうというのは難しいのだろう。

なぜかそれが出来る、そういうものだ、そうあらねばと思える人は、前世ユダヤ人を何度かやっているとか(あるいは人生とは成長だという思想が強い人生を複数回経ているとか)、シリウス遺伝子が強いとか、神智学や「絶対善」への道、魂の進化の道というものをよく分かっている人・・なのかもしれない。

メタフィジカル、スピリチュアルな道を学ぶということは、池のほとりを離れて、大河の流れを常に見定め、自らそこに乗る、乗り続ける努力が必要、ということになる。

Love and Grace

Amari

セラピス・ベイと純白マーラ

サロン仕事で起きていること、故に、Arganza HPのinfoブログに書き始めたのですが、長くなり、マニアックでもあるので、こちらに載せることに。

ブログの統合についての前記事はこちら:

・・・・・・・・・・

10/15 の「白い聖堂17」で、マスターとして知られる「セラピスベイ」が関わって来て、ワーク&講義をしてくれた時間がありました。この時は淡い水色の光でした。

10/22 「クリスタルラボ・アースメディテーション6」では、事前に『白き神々降臨』というタイトルを受け取っていて、その「白い神々」とは、エルたち(アルガンザ・ジェネシスでいう「エルフ族」)であろう、という事は感じていたのですが、彼らの水星ソフィアやファウンテンを、シリウスの恒星エネルギー、アルクのGATエネルギーともども含んでいるのが、レムリアンセイクレッドレイキの「純白マーラである」ということが分かって・・

そのオリジンはアトランティスの、(ジェネシス世界観における)「イシス」エネルギー(全く同じではなくそこから派生して現在の「イシス」)ではないかと、気付きました。それで、先月の「聖堂」以後、純白マーラでのワークや、セラピスベイのことを意識に置いていて、改めて調べてみると・・

(とりあえずのwiki、これから正式に調べたいと思います)神智学初期の重鎮たちにより伝えられるに、セラピスベイは、

アトランティス終焉でエジプトに移った「聖なる炎の寺院」の高位聖職者、そして「白い炎」の守り手である、と言われているとのこと。

アルガンザでワークに含んでいる(「乳海撹拌・創造の5光線」)「イシス」エネルギーは、淡い水色と捉えていて、セイキムレイキのエネルギー(「エレクトリックブルー」→ 変化して「真珠エキスのような白)」ともほぼイコール(時代や用途に応じて高次が多少のレシピを変えてくるため「ほぼ」)と考えて来たのですが、

アトランティス終焉(の大洪水)から、エジプトに「イシス」神殿が移った、というのは、もう8年くらい前になるか、アルガンザ初のセイキムレイキ伝授の直前の「イシス瞑想会」で見たヴィジョンと受け取った情報と一致します。つまり、「純白マーラ」(セイクレッドレイキ)・「イシス」・「セラピスベイ」この3つの要素が符号するという流れが、この1ヶ月の間にありました。

そして更に驚くべきことに気づいたのは、「マンスリーイニシエイション」を始めたキッカケを、以前のサイトのinfoに書いた文章から↓

こちらの「マンスリーイニシエーション」は少し前に、私のソウルが指導を受けている「マヌ」系のマスター二人と先日、瞑想中に邂逅し、リアルなマスターとの対話は久しぶりのことでしたが、まばゆいゴールドの光と、情報が詰まった書物のようなものを受け取り、その瞑想が終了した後少し経過してから、言葉にはならずともマスター方から伝えられたことを解凍・解読しようとする作業の中で生まれた企画です。

この「マスター二人」は、一人は以前からたびたび見かける白髭の老賢者風マスターで、マヌに関する事で導かれる時にいつも登場する方。もう一人が、少し若く色黒で細身、以前お目にかかったことのあるエルモリヤ、サナンダ、セントジャーメイン・・とも違う、初めてお会いするマスターだったのですが、あの体験をしてから半年を経て、先月前触れも予感も何もない状態で聖堂中に「セラピスベイ」と響いてワークと教えを頂いたのをきっかけに、検索して画像をたくさん見るうち、「間違いない」と確信しました。

マンスリーイニシエイション企画の始まりから(7月企画・8月スタート)、繋がっていた、という訳です。

そして、イヤな思い出や戦いの記憶、痛みなどをともなう「エルたち」の魂=マヌ=ライトワーカーの過去の傷によるライトボディの傷を修正し、記憶を癒す、という先日実施の「エルたちの器・レストレーション」の終盤では、再び同マスターが登場し、儀式的な施術をいただきました。

今回最後の場面で、「白いローブ姿で輪になって座る私たちの、額に、孔雀色の光の炎を、点火してもらう」という儀式的なヴィジョンがありました。それを執り行っているのが、セラピスベイ、でした。ライトグリーンの炎の中に、芯として鮮やかなロイヤルブルー、という焔のエネルギー。

額の中心に頂くと、スウっとそれは中に入っていくようでした。そして「器」のプロテクションの光の幕が、その孔雀色の炎から、生み出されるよう。

(Monthly Ini 専用ブログに掲載した「エルたちの器」実施報告から)

「純白マーラ」は「シリウス系の白いエネルギーで、透明なほど波動が高いからGATも入っているよう」という認識で、レムリアンセイクレッドレイキのテキストを書いていましたが、日本や世界各地の石器時代人が繋がっていたシリウスの光でもあるし・・余りに普遍的な為に、深くそれ以上掘り下げるつもりも無かったのですが、扉が開いてから、次々と諸要素がつながり合い、全体像が見えて来ています。

そうなると、また新しい疑問が湧いて来ました。

現在、乳海光線として使わせてもらっている(「乳海撹拌」)イシスのエネルギー、そのオリジナルが「純白マーラ」であるならば、ジェネシス神話(『the Genesis』)のアトランティスの初期の時代、アトラスとハシスのそれぞれの信仰形態が、
アトラス=イシス信仰
ハシス=ソフィア信仰
であると(自分で)書いているけれど・・? 同時に「ハシスが滅亡したのちに、ハシスの地(中央ヨーロッパ〜アジア一帯)では、「白い神々の信仰」が継承されて、歴史時代の私たちの古典的宗教に通じている」と、以前から思っていて、セイクレッドレイキのテキストにも書いているし、上記の「二人のマスター」との邂逅のヴィジョンも、ハシスでのご縁によるものと感じていた。。。この件は、どう考えたらいいのだろう?

オリジナルイシス=純白マーラ は、アトラスの信仰であった? ハシスと、のちの時代の「白」信仰の接点は? ・・・そこで、ざっくりとした歴史しか取り上げていない神話仕立ての「the Genesis」には書いていない、アトランティスのアトラスとハシスという国、それぞれの個性と文化・宗教の流れを、より細かに把握する視点を持ってみました。

恐らく・・最初は同じく「白い炎」を、五次元から授かって運用していたことと思います。つまり、アトラスもハシスも「イシス神殿」で白い光を扱っていた。白いマーラ(母神)として。それが、どのように変遷していったか・・というのは、ひとつの国、ハシスという国の始まりから終わりまでを、追っていくという仕事になるのかなと。

新たな疑問からの、次のステップ。準備段階として、昨日は「世界樹メンバーズ」専用マガジン(note)「ジェネシスの方舟」でひとつ記事を書いておきました。「アトランティスの女神信仰その2」

考察を進めたことにより新たに浮上した疑問について、次に「その3」を書こうと思っています。中身は今はまだ分からないけど。きっとこれから分かる流れが来る。

グループ遠隔セッション Monthly Initiationは、この流れを受けて次回 12/3 は「セラピスベイの白い炎」です。(エントリー受付中)

今日書いた上の内容とは別に、ワークそのものについて示唆がありましたら、またワーク専用ブログに書き添えたいと思います。

Love and Grace,

Amari

第四光線

台風が関東を、比較的静かに通過していった曇り空の土曜日朝。

ここ数日は、ジェネシスのバイブル本のサンプル完成〜ショップへのアップと受注(第一便の15冊がほぼ完売・これから印刷製本)、それと前後したリュミエールブランシュの閉店のお知らせ、ショップブログのUP、始動した「ドットアース」の事務的な作業、などなどに追われつつ、台風の経過を感じながらそろそろ秋期石ラボへの参考文献の手配などをして。まだ残暑はありつつ、季節の変わり目をしかと感じているところ。

タイトルにした『第四光線』

2025年に顕現、というアリス・ベイリー(ジュワルカル)の情報とともに、これまで文章では触れて来たものの、いまひとつ自分で掴めていなかった・・というか、2025年に顕現するということは、もうその影響下にあるはず。だけど、それを実感しにくいと思って来たここ数年。で、本当にこれが「調和と統合」に向かっている道なのか?と感じつつも、社会も個人も、夜明け前の沈黙あるいは、静かな拮抗を起こしていることの現れだろうと考えるようにしてきた。

・・・それが、最近ようやく、「ああ・・なるほど」と本能的に掴めて来た感じがする。2017〜2024年の7年間『ノアの方舟に乗るような時期』(石井ゆかりさん著書での表現)とも、感覚的にその、掴めて来た新光線の空気感が、繋がって来た。

そして、『ああ、人類は本当に、進化しなくちゃいけないのだなあ・・』と、そこに思考は落ち着く。

「試練を通じて進化する。その先の調和と統合。」それが第四光線。色は黄色〜オレンジだと言われている。

Twitter でフォローさせて貰っている『エコトピア』さんのサイトを先日何気なく見ていたら、以前知って衝撃的だった『ジョージアガイドストーン』についての2018年の記事が、先月のランキング1位に上がっていた。(どこかでも話題になっているのだろうか?)

 

タイトルにもあるように、陰謀論的な見方もあるらしいけど。真相は分からないものの、最初にこの石碑のことを知った時、メッセージはとてもシャンバラ的、神智学的だと感じた。「人口5億人」は引っかかるけど、もし、私自身が地球だったら、そう思うだろう。まして、今のような文明的意識をもつ利己的な要素が多く残る人類が、今のような数まで増えて、自然界のあちこちを破綻させている状況であれば。地球を生命の星として運営管理しなくてはならないハイラーキーも同じくだ。

この石碑の背景にどのような思想の人が居るのかは分からないけど、書かれていることは尤もな内容だ。

記事にあるように「日本語が無い」については、恐らくは使用している人口の数で、選ばれた8ヶ国語なのかなと。けれど、その時間軸は近未来なのかもしれない。フランス語も多い筈だけど入っていないのと、日本語は日本列島人以外には普及していない割には現在の人口からして今は11~13位くらいの人口だそうだから、8位に入っていなくてもまあ、良いのか。フランス人は英語が分かるから良しとされたのかな?・・だから、余りそこ(日本語が参加していない)は、気にしなくてもいいのではと個人的には感じた。

けれども、近未来、日本が「中国語圏」になっているという可能性も無くはないとも、思って(危惧して)いて・・・

人類全体もだけど、特別な何かを日本は高次から授かっていながらも、その役目を果たさない、果たせなかったらば、そういうことにもなる筋書きも秘教的にはありそうだ、と。

第四光線の顕現と、日本の状態というのは、大いに関係してくる筈だ。それがどちらに振れるかは、日本人の集合意識のありようで、第四光線の担い手として世界をさりげなく?導く(日本式で。リードするのではなく調整する感じで)ことが出来るか。平和ボケから抜けきれず、役目を果たせずに終わるか(・・ここに巨大地震や戦争の危険が直結して来そう・・)

まさに、5年以内にその答えが出て、15年後には結果が現れているのではないかと。もちろん良い方へとイメージしたい。これまで、私たちが生きてきた無条件の(日本をめぐる)平和という時代はもう、無いのだということは強調したいと個人的に思う。平和で安全だったから、特に何もしなくても、自分のことだけ考えていれば良かったのは、とても幸せな状況だった。それは平成まで。でも今はもう違う。平和や安全を維持するには、一人一人がアンテナを立てて、自分に出来ることを探していなくてはならない。

もうそういう時代に突入している。

Love and Grace

始まりの奈良。

昨日の帰路の電車で、継体天皇についての書籍を読んでいて・・帰宅後、 前日まで見ていた韓国ドラマが終わってちょうど途切れ目だったので、そんな時に開くNHKオンデマンドですぐに目に入った(topにサムネイルが出ていた)26日に放送されたばかりの『歴史探偵』、「古墳最前線」を見始める。(2023年7月の日記)

日本全国、発見されているだけで16万の古墳があるそうで、コンビニの全店舗数の3倍にあたるとか。もちろん、多くは宅地開発やそれ以前の時代で既に破壊されたり埋もれたりしているだろうから、私たちの生活圏がそもそも古墳だらけ、だということだ。

「おすすめの古墳3選」の中に、出た!継体天皇の陵墓と推測されている大阪、高槻市の今城塚古墳が入っていた。近くの別の古墳が継体陵とされている(宮内庁)そうだけれど、多くの研究者が「こちら、」と言っているのが今城塚のほうらしく、NHKさんも「継体天皇陵と言われている」とナレーションしていた。

そのほか、最近大きなニュースにもなって個人的に注目してYoutubeで見ていたばかりの、富雄丸山古墳も取り上げられていて、いつもいつもそんな調子で、思考や直感と、連動して特に探さなくても入ってくる情報や動きや流れは、「図書館の天使」的なガイドたちの手配なのだろうとまた合掌して見終えると、「関連番組」としてサムネイルのトップに上がっていたのが、昔から割と好きな「新日本風土記」という番組。今年3月に放送された「はじまりの奈良」が目について。今朝はさっそくそれを見てみた。

「はじまりの奈良」その心は、奈良といってもヤマトの国の(とりあえず「正史」である記紀が伝えるに)始まりの舞台である、桜井市・天理市あたりを、山辺の道を軸に、取り上げていた。「正史」がその前提で色々と書き残しているので、「ヤマト王権の始まり」「仏教の伝来」「相撲」「みかん(柑橘類の伝来)」「能楽・芸能(番組では触れなかった)」などの「始まり」と言われている桜井、三輪周辺の色々を紹介していた。三輪そうめんも。

私も20歳の時に最初に奈良にはまった旅は、(何故かガイドブックから選んだ)山辺の道を歩くコース。次々と現れる古墳や、疲れ果てた頃にたどり着いた大神神社に感動して。

移住してから横浜に移るまでの4年の間、幼稚園〜小学校低学年だった娘の引率で歩いた三輪の麓の通学路、地元人しか知らないような田んぼの中の三輪の絶景ポイント、一人で早朝散歩したり、家族で出かけた山辺や桧原神社付近、自宅サロンに来てくれたお客さん達を駅まで送りがてら一緒に歩いた道、素麺屋さんや、みかん狩りに行った付近、娘の幼稚園がすぐそばで生活圏内だった箸墓古墳などなど、懐かしい風景が次々と。纏向遺跡も自転車で見に行ったっけ。奈良びとの絶妙なトークも懐かしい(笑)。

後半の2年、マンションの8階から眺めていた360度の奈良盆地のパノラマ。やはり特別な場所だったと想う。

春分と秋分に、三輪山から太陽が昇り、二上山のふたつの嶺の間に沈む。その観測ポイントが桧原神社。「元伊勢」と言われる。この場所を最初に見つけた人々は興奮しただろうな。縄文の人々か、または農耕のために暦の目安を必要とした弥生の人々か。

ヤマタイコクは何処か?と、相変わらずまだ、決着が付いていないらしい。ヤマタイではなくヤマトであると思うけど・・ただ、連合政権が出来るまでには下地としての王国が、三輪の麓にあっただろうし、葛城、熊野や、出雲はもちろん、丹波、東海〜東国、たくさんのクニグニは存在していた。だから「始まり」と言っていいのかどうかは、本当のところ微妙ではある。けれど一つの国としてまとまろうとした、そのセンターという意味で国史の「始まり」は確かにその通り。

初めて撮影を許可したという、石上神宮の「鎮魂祭」や、土中に刀剣が埋められているという禁足地の映像も興味深かった。宮司さん(森家)が物部氏の子孫ってさすが凄い歴史だなあ。以前飛鳥をひとりで回った時、お目当ての(ソガ系天皇家ゆかりの)遺跡を探していたら民家の庭先だったので、ピンポンしてご挨拶。表札を見ると苗字に「蘇我」が付いててびっくりした事を思い出す。

そしてこの番組のお影で気づいたのは、私はやはり「始まりの地」として、あの付近(磐余(いわれ)という言い方が割と好き)に惹かれたし、今でも凄みを感じるのだなあと。子供の頃から「始まり」を紹介するアニメ番組も好きだったし、ダーウインの進化論を知った時には本当にワクワクしたっけ。・・それが結局『ジェネシス』の仕事にも繋がっているのだ、と。「始まり」を「知りたがる」、あるいは「掘り下げたがる」。

正史にはならなかった、なれなかった沢山の「始まり」もまた日本全国にあるのだろう。そんな事にも思いを馳せながら。

Love and Grace

学びは進化。澱まずに変化しつづけること。

久しぶりに小蛇(白小蛇、またはミニ白龍)が左に来ていた。いつからだろう?今朝か、昨晩からかな。

「イワナガ姫の遣い」というほど攻撃性はない。その場合だと右の内蔵系に来るけど、左。怒りではなく、ひたすら悲しそう。でも脾臓にしっかりと繋がれていたから、バンパイアの一種であることは確か・・
人間だって、悲観的な人が側にいたら、そしてずっと泣き言を言い続けていたら、自分の波動も下がるし不快なもの。避けられるならば避けたい。

それと同じで、ただペタっという感触がエーテル体にあるだけであっても、その悲しそうな、そして頼ってくるような響きには心地よく無さを感じるから、外さずにはいられない。ワークし始めると実際に、触手のようなものが脾臓にしっかり繋がっている。。右の一部もズキっとした。

悲しいのかもしれないけど、人を頼ってはダメ。人から吸い取ってはダメ。解放して貰いなさい、貴方を「飼っている」人の悲しみの感情から。・・瞑想の中、レコンその他で外す。

考えてみれば、澱んだ水からこういった小さな精霊のようなモノノケが生み出されて、それをマジカルに取り扱うタイプの三次元や四次元の存在が居て。水の澱み=「エヴォリューション」テキストに書いている「腐」にも通じる。セラフィムやアンドロ存在(自然界の精霊)たちが、ネガティブな物質界の場や術に取り込まれ、生まれたエネルギー。

そう考えると、イワナガヒメ、リリスなども「もともとはセラフやアンドロ(精霊)たち」とも言えるし、人間界においても、腐の感情や行動や現実もあれば、それらとは無縁の感情や行動や現実もある。

スピリチュアルも、それ以外の分野でも、「難しいことは考えず言われた通りにしていれば大丈夫」ということは無い。特にスピリチュアル。
唱えていれば大丈夫、救われますよ、というタイプの鎌倉仏教が誕生した時、日本は飢饉やら武士の台頭と貴族の没落、疫病や天災など、色々がことが起こり、この世の終わりの雰囲気だった。パニックになる民衆を落ち着かせるために、彼らには学が無いため、色々な周波の始祖たちが念仏や題目を「発明」して広めた。
それまでは、飛鳥時代に仏教が伝来して以来、いわゆるインド哲学のひとつとして、学問であり、お坊さんたちが研究し専門家として実践、国家に役立てるためのものだった。

けれど今の私たち、無学な訳ではない。これだけ情報も交錯し、複雑化した社会に生きる。
スピリチュアル、メタフィジカルに(鎌倉時代以後ずっと)定着していた「理論はいらない」「信じていれば大丈夫」という風潮が、ある意味、宗教界などに多くの問題を生じさせて、ニューエイジ系の「スピ」も同じくだ。
考えなくてもいい、という空気は、思考や疑問や変化という風を知らず、「腐」のエネルギーが温存されやすい。

日本は水の国であるがゆえの、ネガティブな側面、課題、とも言える。
やっぱり、勉強って大事。学ぶことは、変化を受け入れること。学んで成長することで、常に変化、進化していける。
何事も。つくづくそう思う。

Love and Grace

ちょうど良い真ん中を目指して

最近の Info記事で「南の海から(女性性的・リラ・プレアデス)」と、「北方から(男性性的・恐らくシリウス・ヴェガ)」的な要素が、人類学(遺伝子)レベル、文化人類学・宗教・民俗学レベル、そして更に下層にジェネシス原型レベルで、縦長の日本列島に流れ込んで来たのでは、という書き方をしていて、今回そのような表現に至ったけれど、考えてみれば人類学・民俗学的にはずっと分かっていたことで、それがジェネシス原型論の体感や瞑想ワークの中で、実感されたということだ。

更にこの点、なんとなくの考え事を繰り広げているうちに、あることに気づいた。

数年前にもうドラマは完結している『ゲームオブスローンズ』。私は(何度かSNS等でも触れていたけど)シーズン2〜3くらいの頃に存在に気づいて、まだネット配信で何かを見るという時期に入ってなかったので、その都度、DVDを買って観るようになった。まだ若大将は子供だったため(さすがにあれは見せられんでしょう・・)、DVDが届くと一人でこっそりと休みの日にドキドキしながら少しずつ見続けて、放送されるまで何年かブランクがあった最終シーズン(第8章)は待ち侘びた、という感じで。全シーズン、付録?付きのボックスが揃っていたりする(笑)。

私が映画やドラマについて書く時は基本的にネタバレなので、ご了承ください。一視聴者としてのワクワク感よりも、なぜか昔から制作者・原作者や監督などの目線で、何を伝えたいのか、ここに何を引っ掛けているのか、含めているのか・・という目で見てしまうので、自分自身がまったくネタバレを気にしない人間で、むしろ本などは最後の結論や後書きから読んだり、映画もメイキングを先に見たりするのでス。それと原作を読まずにドラマ版だけで書いているので、原作を知る方からするとずれている部分があるかも..この点もご了承ください。

そうそう。見た方ならご存知のとおり。このドラマの原作は「氷と炎の歌」というタイトルで、「七王国戦記」という副タイトルも付いている。架空の大陸に存在する7つの王国、それを束ねる宗主国の玉座を巡って争い合う、という。南部の国の「女王」と、北部の代表である「王」、それぞれが「炎」で「氷」であるわけだけど、この二人、最終段階でようやく実は親族であることが判明する(たしか叔母と甥になるのかな。年齢は多分同じくらい)。運命に引き寄せられるように、南から北上、北から南下しながら、それぞれの敵を倒して次第に自身に忠誠を誓う者たちが増えていく中で出会い、結ばれる。

なるほど氷と炎が出会って融合し、最後には王国に平和が戻るのだな〜・・と安心して見ていると、最終話でびっくりしてしまう。賛否両論、というか、ドラマが終わった頃はどちらかというと批判的な意見が多かったように見えた。けれども、ドラゴンや魔物、多少の魔術が出て来たりして「ファンタジー」のくくりに入りつつも、原作者が非常に歴史学に造詣深く、人間を人間臭く描ききっているという点で、「ファンタジー感」が無い、リアリズムの中で物語が進んでいく。それを考えると、あの結末は非常に、納得できる・・ドラマ、ではなく、実際の歴史の展開として自然、と言えるのかも。

炎の女王も、北部の王も、どちらも「犠牲」として大陸の表舞台から姿を消す。愛と人道で人々の崇敬を得ながら最終決戦まで来ていた女王は、七王国の統一を目の前にして、血筋が騒いだか残虐な支配者の顔を見せる。それを見た北部の王、彼女を人間としても同志としても愛していた者が、彼女を殺めるという決断を。そして彼は殺人罪で終身刑という。なんとも言えない結末。二人の人生を賭けた努力によって、専制的に玉座を死守していた一族は絶えて、大陸には平和が?訪れる。けれどその時、二人は居ない。

歴史の触媒のようになって、消えていく二人の英雄。氷と炎。作者はアメリカ人だそうだけど、北欧神話などの、英雄が最後には決して幸せにならない、むしろ貧乏くじを引くような犠牲で終わるというパターンに、影響を受けているように思う。歴史上たいていの英雄、カリスマは、確かにそのような定めを世に示して名前を刻んでいることも確かに多い。けれど全てでは無い・・「細く長く」じゃなくても、「太くても長く」健全に天寿と使命をまっとうした英雄、カリスマも居る。ゆえに、作者の思想的なものによるのかも。私はディスニー的なハッピーエンドもありだとも思う(現実としても。そういう現実創造力を発揮できる人間であれば)。

結末、は置いておいて。

言いたかったのは、日本列島でも、Game of Thrones (氷と炎の歌)であっても、もしかするとどの国でも、文明でも、「南・女性性・タマス」、「北・男性性・ラジャス」このセットが、法則として存在するのかもしれないという仮説。確かに、人間は南に居るとゆるんで、おおらか〜怠惰になり、女性的になる。北に暮らすと真面目〜神経質になり、男性的になる。その背後に、ガイアとヴァイアマスが南極と北極にそれぞれ座していたりしたらどうしよう。。地球上の海流やプレートの流れ、などすべて「ジェネシス原型」「ジェネシス神話」で説明できたりしたら。(広げ過ぎだけど「ニューエソテリシズム?新・神智学的にはその展開もライフワークとして良い)

旧石器時代人、もしくはもっと古い原人レベルかもしれないとも言われている、南から、北から、日本人の源流が入って来ていて、縄文人といっても、南方系と北方系で既に特徴づけされたいたはず。そこに到来した中国、朝鮮からの少なからずの「弥生人」=新説では、紀元前700年前から奈良時代(紀元後800ころ)までの、1500年という長期にわたって、渡来の波はずっとあったという。常に戦乱に悩まされていた中国や朝鮮では、その都度、亡命貴族・王族や、ボートピープルが日本を目指した。それらの渡来人たちは、またどのような中和作用、刺激をもたらしたのだろう。彼らが「中間」という訳ではなく、渡来人にも様々な文化・政治・宗教的背景があった。(帯びているジェネシス原型エネルギーも)

そんな「多様性」がミックスされて、天災の多いこの土地で、なんとか生きていく工夫を其々違う背景を持つ人たちが模索した。し続けた結果が、日本である。・・・という、新たな視点もあるかも。

よく言われている日本人の「動かない・空気を読む・人がしていることをしよう」という性質の原因は、稲作民であるため共同体意識が強い、とか、戦後のGHQの思惑、とか、徳川政権の支配体制が巧みだった(そこでの洗脳が抜けていない)などの理由が挙げられる。

けれど、もっと遡れば最初から、仕組まれて(用意されて)いたのかもしれない。上記の3つの要因・要素も含めて、プログラム、設定通りであったのかも。人類全体もそうだ・・眠ったように動かない、目覚めないように働くタマスの力と(その現象と)、争いばかりしているラジャスの力(とその現象)。南方的なエネルギーにおいては人々は欲深くなり、北方的なエネルギーに刺激され人々は争いを続ける。それすらも「歴史」あるいは「文明」というシナリオ通りの、現実、現象なのかもしれない。

その中から、中庸を見出し、抜け出す。何から抜け出すかって?

この「現象界」から。映画『マトリックス』と、同じみたいに聞こえるけど、もっと古く、仏教では・・引いてはその元であるインド哲学では、数千年前からそれを説いている。

両方あるし、二極だし、二限性だし、多様でフュージョンだけど、そんな中でも「善(愛)」とは何かを自分で見つけながら、「中間」という透明な場所を探している。それぞれ、何がどれくらい偏っているか、濁っているか、混乱しているか、そのバランスの悪さはみんな違う。二人として同じ人はいない。だからこそ、自分自身で自分のバランスの悪さに向き合いつづけ、(ひとつの生ではなく魂として)「ちょうどよい中間」つまり中庸を見出す。

『スローンズ』のジョン・スノウはその意味で魂の中庸、を達成したと言えるのかも。最愛の人を正義のために、状況判断して、大陸の平和のために手に掛けたのだから。

あ、そうだ。このドラマをジェネシス的に深読みしていて、もう一つ気づいたのが、南の女王の家系はドラゴンの末裔と言われていて、ドラゴンを飼い慣らし乗りこなす(炎を吹き空を飛ぶ西洋風ドラゴン)。ドラゴンは、東洋とは違って西洋では女性性と結びついていて、欲望、などのイメージもある。一方で北部には精霊たちの魔法の失敗のような形で生まれてしまった「魔王」が死者たちをゾンビにして軍隊を組織している、という。炎と氷、は、単に南と北だけではなく、人間の欲望とそれが齎す破壊力(南のドラゴン)、魔術・自然界が孕む危険と破壊力(北のダークネス)を表してもいそうだ。

話があちこち行くけれど。

ヨーガ哲学やヨーガの実践においては、菜食や禁欲が説かれている。けれどアーユルヴェーダは医療、健康術なので、禁止というのは無く「その人なりのバランス」をとることを考えていく。・・これもある意味、仏教でよくいう「方便」であると私は思う。バランスが取れていったら諸体が浄化されていって、禁欲も菜食も、難しいことではなくなる。むしろ自然にそれを指向するようになる。

人類全体では、行先は果てしない。けれど個人個人、「幸せになる」ための唯一の道は、「ちょうど良い真ん中」を見つけていくこと。これは間違いない。

きっと宇宙人たちも。宇宙文明もそんな振り子の揺らぎや、失敗や修正を繰り返し、同じように中庸を目指す途上にあるはずだ。

Love and Grace

Amari

何かが起きている

やるべき事をやっていない時、気づくべき事に気づけていない時、現実はうまく回らない。・・これはメタフィジカルの基本。とはいえ、20年近く関わってきた私自身、なにか変だなと思う今の現実世界の空気。真面目な人ほど、感じやすい人ほど、これは何だ?と混乱したり当惑したりしていることと思う。それにより、自分の現実が今までのような手応えがなく、空回りしたり、体調やメンタルの調子が悪いという人たちもいるだろう。
 
私も自分が更年期である・・ということを十分に差し引きして(笑)、更年期フィルター(つまり絶好調ではない)を通して感じたり考えたりしている為に、その不思議な空気感を体感してしまうのだろうか?ということを、この数年、パンデミック以後、考えて精査してきた。それを補う為に、以前以上にセルフワークをするようになっているし、ある意味、精神もかなり鍛えられた。差し引きした結果、今この春に思うのは、やはり変だ、何かが起きている。ということ。
 
毎日、エネルギーワークをしない日は無いので、それが現実界に響いていく作用を、それこそ気象予報士の天気予報のように、「雲行き」「気圧配置」のように感じる訳だけど、パンデミックでみんなが息を飲んでいた20年、21年は、まだ、これまで通りの三次元と五次元の繋がり、メカニズムが普通に動いていた。22年の春、世間ではウクライナ戦線が始まった頃から、・・というか、理由はもっと別のところにあるとは思うけど、Arganza が大事にしているような、上の画像に載せた神智学、アリスベイリーが伝えているようなメタフィジカルの「道」にとっては、逆風、とも言えるような周波数に、変わって来ている。
 
遡ればさらにもっと前から、その空気は来ている。2018年くらいか・・ 22年はググッとそれが、人々の意識周波数のようなところに、本格的に響き始めた。慣れない状況から、人々はそれを分析して、互いのせいにするかもしれない。職場がおかしい、この人がおかしい、という具合に。どうもこの春は、仕事を辞める、転職する、という話をよく耳にするのはそのような状況下かもしれない。とは言っても、「時代の変わり目」は間違いなく、そんな配置換えもまた社会全体で起きていくことにも意味、意義もあるのだろうとも思う。

「何かが起きている」を簡単に言うと、シリウス性・・が響かないくらいに、世間の空気、周波数が(高まってはいるけれどある意味、高まり過ぎて?)意識の目覚めとは逆のほうにチューニングされている気がする。以前、アルガンザのスクールでアリス・ベイリーを取り上げていた時は、「難しい」を理由に、なかなか皆さんにとってそれは壁、だった。けれど、今の空気だと「それな〜に?」という感じになりつつあるような。「難しい話はやめてくれ」ではなく、「そんなの知らない」というレベルに、意識の面で一段、下がっている。(追記:このDiary 記事を書いた23年4月の感覚。現在の感じ方はまた少し違う)
 
そうさせる空気がどこからともなく(電磁的に?)流れてくると、私の場合は自分の仕事にチューニングしにくくなる。だから「おかしいな」と感じてセルフワークをする、と、アンタカラナ(クラウンチャクラから伸びるモナドまでつづく縦軸)や、ライトボディに何らかの仕掛けが見つかる。外す、と、もとの自分のコンディションに戻る。その繰り返し。・・世間の人々だと(私の知人たちにヒアリングしても)気づかないまま、その意識波の状態で行ってしまうのではないかと思う。そうしているうちにゆっくりと少しずつ低下していく。

表面上、何も大きな困りごとなく、日常が今まで通り保たれていると、特に気づかない人が多いのかも。仕事上、「空気」レベルで異変を感じるような専門家の人々だけが、気づくのかもしれない。ヒーリングやスピリチュアルも、携わる人の中で「シリウス性」、神智学のようなメタフィジ「道」に誰もがアンテナを向けている訳ではないので、世間の人々と同じかもしれない。
 
去年4月に、「白い聖堂」が始まって・・自分でも本当に良かったと思っている。確実にシャンバラの周波数に触れ、その学びの独特のフローが保たれていることが、ひとつの軸となって、その大事な波長を、見失わずにいられるような状態。それにしても、高次はなぜ、こんな風に難しく分かりにくく、未知の、掴み所なく、下手をするといつ崖から足を踏み外すか分からないような環境の中で、私たち「メタフィジ道」を行くもの、学ぼうとしているものたちを、放置しているのだろうか・・と、ゲッセマネのような問いかけを、久しぶりに、激しくはなくてごくごく静かに考えていた最近。そしてすぐに答えを得た。
ああ、そうだった。「方舟だった」と。
 
以前この A Diaryを始めた頃にも書いていた。石井ゆかりさんの表現を借りて「2018~2024年は、ノアの方舟に乗るような7年間」と。
ノアの方舟に乗るような」とはどういうことか?
ああ、そうか。こういうことなんだ。
なぜ? がたくさん出てくる中で、それでも、自分の『神』を信じられるか。
世間のほとんどの人々と道を違えて、ノアとその家族だけが、純粋な生き物たちとともに、乗り込んだ方舟。
おすすめの映画『ノア(ラッセル・クロウ主演)』を良かったら見てみて下さい。舟を作っている段階でも馬鹿にされるわ、邪魔されるわ、家族だけで乗り込んだのに、挙句には次男に裏切られ、長男とその嫁、妻にまで反対され、お父さん(ノア)は人としてボロボロに傷つく。
 
ノアの方舟に乗るような」と、「ノアになるような」は違うかもしれない。
けれど、舟の中で、そして舟を降りてからも、家族みんなが難問を抱えて苦悩していたように、「方舟に乗る」とは、難問や「??」がいっぱいで、いつまでも答えが出ない中、それでも、『神』を、そして(映画で家族の女性陣が見せたような)ハートの慈愛を、追求しつづけ、自分を保ち続け、正しいことは何かを問い続けるような状態を言うのではないか、と。
私たち一人一人が、ノアであったり、その妻、息子、嫁、であったり。その時々、それぞれの立場で難問を抱えながらも・・『神』の舟に乗り続ける。
 
神智学でいう、2025年にやってくる新しい時代の呼び声となる光線の到来までの準備であると考えられる「方舟の七年」はあと残り二年。

アルガンザでは、そんなことも知らないうちに、2017年3月にサロンに迎えた10キロのマスターウラルレムリアンが『箱舟(アーク)』と名乗っていた。そこから確かに、時代の変換点は、アルガンザ的には既に到来していて(いつも世間より1〜2年先にその時代のテーマが箱庭的に動く)、
確かにあの映画のノア、のような気分を味わうことも何度かあった。そうだった、箱舟だった。年々、アリス・ベイリーの書籍が体現する神智学のシリウス性の周波数が、世間とずれていくような感覚が深まっているけど・・・
だからと言って、それでいいという事ではないのだ。
本来の「正しいこと」は、「(その時代の一過性の)世間の大多数の意見」とは、全く関係がない。
 
「方舟に乗るような」最後の二年だと思うと、今のこの空気感も理解できる。そして、自分がやるべきことも。
伝わっているとは思うけど念のために。誰かが方舟に乗り、誰かが乗れない、ということではなく、各自においてそのような時代感を体験するという事。もちろんそこでのあり方や、本来魂がこの時代を選んできた理由や生き様を、方舟時代をどう乗り切ったか、によって、その後の自分自身に映し出されてくる。振り分けられるというか。。

ちなみにこの仕組み、人類の進化や歴史の流れ、カルマやソウルシステムを管理運営しているのがシャンバラ(とアルガンザでは呼ぶことにしている)=シリウス系のロゴスのシステムである。ゆえに、「方舟に乗る」を言い換えると「ガイアの進化プロジェクトに乗る」ということだ。そのためには、横に見えている世界に合わせる、染まるのではなく、自分自身のソウルシステムと繋がっていなくてはいけない。なぜなら進化プロジェクト、その先のワンネスとは、ロゴスのもと、私たちのソウルシステムがワンネスでユニットする状態に戻っていくことを言うから。。
最近よく言っている「自立し合うことで結果的に生まれる調和・青のワンネス」とはそういう事だ。誰かや、どこかと、繋がる事ではないのだ。魂として生きることを多くの人が選択した先に、ワンネスが実現される。
 
・・と、スピに慣れていない人が読むときっと、新手の宗教か、と思われるかもしれませんネ・・けれど違うのです。こういう事がいつか「科学」や「物理学」や「医学」とごく自然と融合されて、人類の常識的な知恵の一部となる時代もやってくるはず。アトランティスで人類は「堕ちた」ので、それらがバラバラになってしまったのです。そういえば、古代インドのヴェーダ文献などは、それらの融合が見られる。失われた太古の叡智を、現文明に与えておく、という理由で高次から齎されたものなので。

アリス・ベイリーの書籍が並ぶオフィスの本棚。その下段は、恐らく3000件以上になるアルガンザのセッション記録。
方舟感が増していく 2023年。
 
自分の意図を見失わず。幻想に惑わされず。今までとは違って軌道から一度逸れて「堕ちて」しまうと、2025年をまたぐと再びそこに乗ることは難しくなるかもしれない。守りたいものを守り、難問疑問に負けることなく。人を頼ることは出来ません、メタフィジカルな道は自分自身でしか、自分を変えたり育てていく事が出来ない。周波数の高い人と繋がる、のではなく、自分自身のソウルシステムと常にコネクトし、作りたい現実を作っていきましょう。
 
Love and Grace
Amari