愛であれ

先日瞑想していたら、アメリカのヒーローものドラマ「Flash」(長年見ているのですが..)の主人公の母親役の女優さんが、女神のようにヴィジョンに現れて「アビス」と何度も言うという(ウトウトしていて)夢を見ました。

最近、「アピス(エジプトの牡牛の神様)」や「アヌビス(エジプトの犬の神様)」は話題にしていたので、それかな?と思いつつ、何かもっと深い意味がありそうと気になっていました。

Flashは、メタヒューマンという、なんらかの性能が進化した(よくも悪くも)存在たちが沢山出てくるドラマですが、主人公 Flashはスピードスターで、その力は宇宙の「スピードフォース」という量子場?と繋がる事で、成立している。

亡くなった実の母親の姿をまとって、ある時に「スピードフォース=神のようなもの」が三次元の現実界に顕現するので、夢のメッセンジャーがその女優さんだった(神として現れた時の雰囲気だった)という点から、これは地球のロゴスである、白山姫からのメッセージなのかなと受け止めました。あるいは、地球の自然霊ロゴスであるガイアからの。

「アビス」=Abyss? ということで、J.キャメロン監督作品『Abyss』(1988)も見てみました。

米ソ冷戦時代、米軍の潜水艦が事故を起こし、その収集に関わった民間会社のダイバーたちが、アビス=深海、最終的にはワケあって6000mの深淵に。6000mだなんて。富士山より高い、海溝です。

そこには、宇宙人(ピンク紫の光るクラゲのような美しい存在たち)の海底都市があり。水のエレメントを操る彼らは、人間たちが地球を滅ぼす道を歩んでいるといって、30mの津波をまさに起こした所でしたが・・

互いに交流したことで、事態は収拾される。もう35年前の映画なので、少しレトロな感じもあり。そこがまた新鮮だったりします。ここに込められたメッセージはとてもシンプルに、

『争うな。愛であれ。』

高周波の輝くピンクパープルの光を放つエイリアンたちも可愛くて、長かったけれど(2時間45分!)、良い映画でした。

最近気になっている「深い海溝」にまつわる情報かもしれない。地球のほとんどが海で、人間が到達し得ない海溝の深みも沢山ある。そういう場所から、地震や巨大津波が寄せて来るのかもしれず。

私たちは、自分たちが地球の住民だと思い込んでいるけれど、実際はそうではないのかもしれない。

ガイアの奥深さ、壮大さを思えば。ほんの一部の住民でしか、無いのかも?

少なくとも、そういう心を忘れてはならないのだろうと思ふ。

Love and Grace

ロスト・エモーション

 

縄文土器と縄文の森

リドリー・スコット(監督)の名前につられるように、映画『ロストエモーション』を見た。核戦争で地球が壊滅状態になったあとの、生存者たちによるハイテク管理社会。遺伝子操作で感情を持たない新たな人類が生きていて、感情を「発症」すると病気として治療を受けるという。重症になれば隔離されて安楽死、という何とも悲しい設定。

リドリー・スコット監督は、以前日本の大林宣彦監督もそうであったように、監督その人の雰囲気や人柄が好きでファンになり、作品も見るというシリーズで。今回は制作総指揮で、プロデューサーになるのかな。監督は別の監督で、原作も手掛けているよう。独特の演出は未来のハイテク管理社会の機械的な雰囲気を出しているのだろうけど、青白く、影の多い暗い映像、静かすぎる、そしてどこか切なすぎる空気感に負けて、長時間見られず。

数回に分けてようやく見終えたところ。こういう見ていて切な苦しい映画はきっと、最後まで見ると救われるのかなという予感もしていた通り、まずまず爽やか。でもやっぱり切ない終盤。

日頃、神智学やヨーガ思想から、「感情を収めて」と繰り返し言っているので、常々、心配していることでもある。誤解されがちな事なので。

けれど結論として、この映画の予告編の「ユートピア?それともディストピア?」という問いかけは、当然、ディストピアでしょうと言いたい。もちろん・・

ヨーガの実践者、先生方なども、アリス・ベイリーの代弁者の方々もそうだろうと思う。感情を超えていくプロセスこそが、人間の成長、人類や社会の進化と平和に向かっていくために大事なことなので。感情をバッサリと切り落としたら、ヒトの中の本能のような部分が、支障を来たすに違いない。遺伝子操作、人間を作った「神々」がこれをいつか行ったとしても、人間それ自体が行うこと、引いてはそのようなテクノロジーの使い方をしてしまう事自体、きっと道を外れてしまうのだろうと・・個人的には思ふ。

若いころ、自分の中の苦しみや、収集のつかない部分の要因を探っていった結果として、「感情を超越できるなら生きているうちにそうなりたい」と呟いた私に、友人がやや怒りまじりに反論して来た。「感情が無かったら人間じゃないでしょう」と。

更には、同僚の女子たちとの恋愛観トークで「人間として、ではなく魂として自分を必要とする人」と答えると「人間としてではなくって何よ」と一人が怒りだした(笑)。

また、フランス人的な冷静な客観的語りで相手が傷つかないよう別れ話などしていると相手は「血は流れているのか、植物人間じゃないの?」みたいなことを言って来たっけ(笑)。

それらの全てが「誤解」なんだけど、伝わらないからいつも諦めてしまう。人間性として人以上に人情的だったりするところ、だからこその「感情を超えたい」という発言も、相手を極力傷つけないための客観的な態度も、それぞれ聞く人々のエゴセルフのフィルターを介すと、その人の思い通りにならなければ『冷たい人』になってしまう。

詳しくは、先日紹介したエイミー・アダムス関連の映画のメインブログの記事(「アライバル」で大泣きした、という部分)と繋げて読んでいただくと、ご理解いただけるかも?

そう、それから、スクールをやっていた時にも生徒さんたちの反応も時折、怒りのようなものが垣間見えるのが、やはり神智学の感情についての部分、それから闇、ダークサイドの話。なぜか怒りを感じて反発したくなる様子を何度か見かけた。人間って、というよりエゴセルフって、そういう風に出来ている。進化と逆行するエネルギー、プログラムが、仕掛けられているからだ。。

それを全て味わい尽くして、時に許して、解き放って、その仕組みに人生をコントロールされないように、カルマ(常に感情が関係)を乗り越えていく。感情についても、その他、エゴセルフの「魂の内部に統合されたりしたくない」という声についても同じ。

感情の揺らぎや反応は、そこ、その部分にこそ、自分のカルマや問題点の根っこがあるよと教えるサインでもある。だから急にブツっと消されたら、それこそ神智学的な神なる世界(人類の親)の進化プログラムは元もこもなくなってしまう。可愛い子には旅をさせよ、と、自由意志を許して見守っている視点、ガイアという魂たちの成長プロジェクトの計画が、為されなくなる。

この映画については、原作者でもある監督は、無神論者であるのかな? 人間の背後や周辺には、人間しか居ない、という思想でないと、こういうストーリーは生まれないかも。。

ネイティブアメリカン、ケルト、縄文・・つまり世界中の石器時代までの人々は、循環する生命の仕組みとその背後の力を知っていたし、そこと自分たちとの間にはしっかりと一体感があった。やはりその感覚を思い出していく他、ないのではないかと思う。「仏教では」「インド思想では」「神智学では」と切り出すと、宗教だと言われて(また誤解されて)しまいそうだから・・。

アニミズム(自然崇拝)と、仏教(インド思想・輪廻転生する宇宙観=これはきっと正しい)的感性を、ナチュラルに合わせ持っている日本人はやはり重要な立場にある。

今日もまたひとつ、あるいはそれ以上、地球の未来のためになることをしよう。毎日必ず、そのことを考えよう。そして何か行動しよう。小さなことでも。

Love and Grace

Amari

想い出は魔法

ディズニー映画の中でもかなり好きな『魔法にかけられて』の続編の、ネット配信(劇場公開はしないよう?)の報せをツイッター等で見かけてから、半年以上。ようやく見ることが出来た。

主演のエイミー・アダムスについては、以前もブログで「魔法に〜」含めて三作品について語った記事あり。

それで、いつものようにネタバレ失礼しながら、メタフィジ目線で感想を。昨年11月の時点で予告編を見て、検索して口コミもザザっと見ていて、1が好きだからという以上に、2を見るのが楽しみになっていた。

初作の原題は Enchantedで、そのまま邦題は訳されている→「魔法にかけられて」(enchant 「呪文を掛ける」「魅了する」など)

で、今回の続編は日本では「魔法にかけられて-2」ということになっているけど、原題がまた面白くて『Disenchanted』。魔法に掛ける「enchant」の受身形だった前作に対して、それが外れた「dis-enchant-ed」で、普段この単語は日本語では「幻滅する」などの意味に訳される。

語源的には dis= 外れる、で、「呪いが解ける」という感じか。

初作ではまだ若いプリンセスであった主人公「ジゼル」が、二次元の世界から魔女に魔法を掛けられて三次元のマンハッタンに次元移動・・ニューヨークの弁護士という現実世界のエリート、それもシングルファザーの男性と恋に落ちる。そこに、ジゼルの婚約者である二次元世界(アニメ)のプリンス・エドワードが「助けに」やってきて、更にはその継母である邪悪な女王(笑)も追いかけて来て。

ある意味、ニューヨーク舞台のラブコメの形をとった、ディズニープリンセスの新たな境地で、セントラルパークや摩天楼など、ニューヨークの風景とともに進んでいく、けれどそのストーリー展開はとてもディズニーで、悪者を倒して(王子ではなくジゼルが倒す。。)、恋も成就。婚約者のプリンスではなく、弁護士のロバートと。

ロバートの恋人であるナンシーは、NYのキャリアウーマンという設定だけど実は乙女チック、ロマンチックな恋を求める女性で、登場するたびに笑えるほど「ディズニーの王子」を大げさにコメディタッチに表現しているエドワードに、意外にもときめく(笑)。そして二次元の花嫁になるという(!)。

このナンシー役が、歌うシーンすら無いのになんと、アナ雪で世界的に名が知られることになったイディナ・メンゼルが演じていて、当時は私も気づかなかったけど、後でブロードウェイの有名な女優さんだと知って、歌えば良かったのに〜勿体ない!と思っていたっけ。今回続編ではさすがに、たっぷりとイディナが歌うシーンがあって何より。満足。

(ちなみにアナ雪はご縁が無いのか、ビビっと来る事もこれまで無く、まだ見たことがない。笑)

メタフィジ視点で印象的だった箇所を幾つか。

まず、ディズニープリンセスの「型」をそのまま、アニメの二次元から、現実世界のニューヨークに移動させた、という点でまさにコメディ要素もある「ラブコメ」でもあり、プリンセスの様々な「型」をあちこちの場面やエピソードに散りばめた点が前作の魅力であり、多くの人に愛され支持された。

しかし乍ら・・私は「さすがディズニー、さすがアメリカ」と唸ったんだけど、恐らく続編にがっかり(disenchanted)された人々は、その「型」を崩されたことに「ルール違反!」のような気持ちになってしまったのかも。期待が大きい分だけ、そうなるのかも。

制作のブランクは15年だけど、設定は10年後らしく、当時7~8歳だった可愛いモーガン(ロバートの娘)は高校生のお姉さんに。思春期真っ最中らしく、おとぎの国?出身のジゼルにはそれが理解出来ない。何がいけないのかしら、今までは完璧だったのに。。と。加えて、ロバートとの実子の新たなベイビー(ソフィア)が生まれて、夫婦共働きのニューヨーカーとしての育児生活に疲れ果てたという事情もあったよう。。

そこに、「まさに現代のおとぎの国!」みたいな看板を見かけてその郊外の街へと引っ越すことに。続編はそんな風に始まる。

(詳細は、ぜひ、予告編を覗いて下さい。)

で、ヒーラーおよびジェネシス視点で深読み混じりに分析するに、

ジゼルがモーガンの思春期を理解できずに悩み始めた、という時点で、現実の周波数が下がる。そこに、見知らぬ街に引っ越し、家の修復が大変だったり、町内づきあいに戸惑ったり(強烈なおばさまがヌシとして君臨している・笑)そこで更にジゼルは悩む。

天真爛漫で、魔法の国出身なので、ある意味天性の魔法使い。ジゼルが歌うと動物が集まってくる、勝手に家が掃除される、みたいな。・・ところが、そんな彼女が更に悩み始める。こういう波動の高い人が悩みを抱えると、普通の人以上に、天性のマジカルな才能が、それなりの現実創造をし始める。(だからヒーラーさんはなおさら、日々の自分の心や意識に注意が必要なのダ)

「魔法の杖」を引っ越し祝いに故郷から貰ったジゼル、その杖で現実世界に「魔法の国になりますように」と願いごとをしてしまって・・続編の醍醐味はここで。三次元の「郊外の街」が、ディズニーで普段描かれる「魔法の存在する世界」にシフト。光と闇とがドタバタと・・そして魔法が自分に跳ね返った形で、ジゼルが何と(実際にモーガンの継母なので)「いじわるな継母」へと変容し始める。

気づいてもその変化を止められず、葛藤して分裂症のような状態になった彼女を、周囲の人々が助ける。特に決め手はモーガンとの10年間の愛の軌跡、絆という「想い出マジック」。

ジゼルの出身地(二次元)アンダレーシアでは、「想い出は最高の魔法」と言われているそうだ。

今回、配偶者との「真実の愛〜♪」ではなく、思春期を迎えて距離が開いたことに胸を痛めていた義理娘の、母への愛が、ジゼルと二つの世界(三次元も二次元も)を救ったという形に。

その時、すっかり良いナイスミドルというか、ちょっとまるで最近のハリソン・フォードを思い出させるような活躍を見せるロバート、新たなモーガンのボーイフレンド候補の少年、も、それを手伝っている所も良い感じ。

幻滅した、というタイトルは、ジゼルがこちらの世界の「そう甘くはない」現実に、10年過ぎてから体験した気持ちなのかな?と思いつつも、

「呪いが解けた」という意味での Disenchanted であるならば、ダークな継母に完全にシフトしてしまう直前になんとか、皆の助けでジゼルも世界も魔法から逃れたという部分もあるし、両方、掛けつつ、前作のタイトルを踏んだ絶妙なネーミングなのかもしれない。

そしてひとつ気づいたこと。「想い出は最高の魔法」

つまり、魂が呪われてしまった時。その人自身の愛や尊厳を思い出させることが大事であるという意味で、ヒーリング視点でも理にかなっている。ジェネシスヒーリング、レムリアントランスミッションほか、アルガンザワークもまさに魂レベルでそこ、その人の魂の本源を思い出してもらうような体験、光線、施術であると。

本日「ノストラム」の遠隔グループセッションを終えたところ。この映画を一昨日に見たのもまさに、天使の采配。

Love and Grace

Amari

未来の思想と生殖

一昨日、19日の夕空。壮大な空模様の、ほんの一部。


2022年公開の映画『プロジェクト・ユリシーズ』を観た。制作がドイツ&スイスの合作という、ちょっと渋い背景。けれどハリウッド映画という感じの仕上がり。


近未来の地球、環境汚染等々で、ヒトが住めなくなる。富裕層など脱出可能な人々はケプラー209という惑星に移住。僅か二世代で生殖機能が働くなり、ヒト種族を守るために地球への「帰還」計画がスタート。選ばれた宇宙飛行士が派遣される。その頃地球は、一面の泥の海。そして時折水の満ち引きで洪水が起こる。地球には「生存者」たちがいて、泥に塗れながら命を繋いでいた。彼らは帰還計画の「ケプラー人」から「泥の民(the Muds)と呼ばれる。
そしてまあ色々なことが起こり、1時間半ちょっとの映画の中で、一応は決着、解決をみる。これからの未来・・ケプラー系地球人たちが帰還し、「泥の民」と共存していくのだろうか、という微かな希望が差したところで終わる。
 
深読み&ジェネシス神話と絡めて考える、シリーズ。
まずはタイトル。20世紀初めのアイルランドの作家ジョイスの名作小説「ユリシーズ」を連想させる(きっとそうなんだろう)。ユリシーズはギリシャの英雄叙事詩(ホメロス作と伝わる)『オデュッセイア』(オデュッセウスの歌という意味)のラテン発音が更に変化し英語化したもの、のよう。つまりオデュッセウスの長い放浪の旅からの故郷への帰還、を表現していると思われる。


幾つか印象的だった点。前に日記に書いた「インターステラー」という映画と似ている部分がある。特に、宇宙飛行士の父、と、その娘によって人類をめぐるプロジェクトがうまく運ぶという。どこか神話的な設定。息子ではなく娘である、という点が、時代を反映しているのかも。プラス、父と娘という設定に何か特別なロマンのようなものを、特に欧米の人々が(深層心理的に?)持っているのかもしれない。


どちらの映画も、あとあとの人類の歴史の中で、父と娘が英雄として名を刻まれるような功績。それが目立った形ではなく、純粋な父と娘が通い合わせる愛によって成り立っているという感じ。実際に、欧米のもろもろの著名人など、死後に娘や孫娘がその業績を残すことに貢献したり、確かにそのイメージはあるかも。欧米の娘たちは、立派な父を尊敬し、偉業を継ごうとするという何か原型的な感覚、感情のパターンがあるのかもしれない。
又は、映画の作者や監督などの男性陣?が、自分の仕事を「愛しい娘が理解し受け継いでくれたら」というある種の理想像があることの反映と、取れるかもしれない。
 
それと、ちょっと引っかかったこと。原作は読んでいないから分からないけど、明らかな悪役の男性たちや、エキストラレベルの人々以外に、目立ったそれも善良な人々の中で唯一の犠牲の死が、アジア系の女性で。物語の中でも大事な、また描かれていない未来においても重要な立ち位置となるだろう少年の母親だし、主人公の宇宙飛行士(娘)の父親が、現地で愛した「泥の民」の女性、だと思われる女性が、とてもあっさりとそれも気の毒な形で犠牲になっている。


見ていてその辺り、ミスサイゴンを思い出させた。仕方ないとも思うけど(ホントはそれじゃダメなんだろうけど)アジア人女性=現地の妻=(用が済んだ時点で)犠牲 をさらりと、やはり原型的なのか、深層心理なのか、描いている点に、アジア人女性としては引っかかるものを感じた。けど、仕方ない、と感じる自分も居てそれはそれで問題だとも。単なる人種差別的な無意識?の心理だとしても、やはりそうさせてしまう、エネルギーや意識のシステム的な問題を、アジアの、日本に居ると感じていることも確かだから・・
 
単純に劣っている、という意味ではない。それぞれ、優れている点、ダメな点あるわけで、人種に優劣があってはいけない。けれど、何というか・・「犠牲が似合ってしまう」という原型的な空気が、アジア人の、特に女性にはある。これが最近、アルガンザのジェネシス神話で分かって来たことと重なる。つまりそれなりの理由があると感じてしまう。だから仕方ないというのではなく、変わって行かなくては、と思う。


一昔前は「妻にするなら日本人、愛人はフランス人、家はイギリス、車はドイツ、シェフは中国、」みたいな偏見の譬え話があったけど、一昔前の男性陣が「妻にするなら」なぜ「日本女性」が「良い」と考えたのか・・・よくよく、感じてみたほうがいい。従順だということだよね・・・そして、いざとなったら、または用事がなくなったら、ミスサイゴン(日本ではないけど)のような犠牲で消えていく。悲しいネ、忘れないよ、ありがとう・・・みたいな原型ストーリーか。
 
そして、更に深読み。ケプラー209に移って僅か二世代で生殖できなくなるという部分。シュタイナーに学び、それをヒントにしてジェネシス神話に取り入れた「月」という存在の地球への影響から考えると、地球の生殖を支配しているのは月、なので、離れたら当然、機能しなくなると私は思った。けれどそこで頑張って、人類を生み出した神なる次元がヒト種族を見捨てていなければ、新しい生殖システムまたは手段が、生まれていくのではないかというのが、私の考え。テクノロジーで何とかするのかもしれない。それも含めて。


主人公の宇宙飛行士(娘のほう)が地球に来て、泥の世界で奮闘していると程なくして、月経が復旧したというシーンがあった。彼女の足に経血が流れてくる、という場面。・・・この映画の価値観においては、それは良いこと、未来への希望の証なのかもしれない・・・けれど、個人的にはこの生殖システムはそれほど(宇宙基準で)良いものとは思えないから、複雑に感じた。


聖書のイブへの呪いのように、月のサイクル28日でめぐる(そんなに子供を次々と産むわけではないのに)この忙しい生殖システム、男性側もだけど、かなり動物的、原始的なあり方で翻弄され、束縛され、体も気分もアップダウンし、そこにエネルギーを取られて、負担も多いから毎日3食食べなくてはならず、そのために日々働かなくてはならない、という、人類を束縛する最大の「呪い」のように思える。
 
これが、一年に一度、いや、数年に一度、「子供を持ちたい」と意図した夫婦が、「神」に申し出ると生殖機能が働き、子供を授かる・・みたいな仕組みであればどれほど、効率よく、合理的で、人類はもっと心穏やかに、思考を洗練させ、意味のある創造にエネルギーと時間を費やすことが出来るだろうか、、と、若い頃からずっと思って来た・・(笑)そのような星から私の魂は来たのかもしれない。地球上の生殖、性というものを理解するのにかなり混乱していた。


同時に、今この地球で生きていても、人類が月よりも太陽またはもっと別の力にエネルギー的に結ばれると、生殖システムは変わっていくだろうとも、思っている。


映画では、ケプラー人は「for the many」、己を捨てて、感情を抑えよ、という思想を持っている。字幕では for the many は「人類のため」と訳されていた。そこは、ある意味進化している姿であるが、もし原作が利己的(動物的)、感情的な部分も含めて「帰還」すべしという作者の意図が込められているのだとしたら、個人的には意見が合わないなあと思いながら見終わった。
 
for the many はもちろん、大事なことであるし、そのためには感情や利己を抑えるというのも自然のことわり。けれど、それにもっと早く気づいて、地球を捨てて去る前に、母なる星の環境破壊や人類の乱れを止めることが出来れば良かった・・・という、教訓として、見れたら良いのかもしれない。とにかく何しろ、自分たちのせいで壊れそうな地球を見捨てて生き延びることを考えるのではなく、何とかしようと奮闘すべきではないかと。女性性の中にあるハートの愛(自然界と通じる)のようなものは、きっとそう感じるものだろう。
 
Love and Grace

ちょうど良い真ん中を目指して

最近の Info記事で「南の海から(女性性的・リラ・プレアデス)」と、「北方から(男性性的・恐らくシリウス・ヴェガ)」的な要素が、人類学(遺伝子)レベル、文化人類学・宗教・民俗学レベル、そして更に下層にジェネシス原型レベルで、縦長の日本列島に流れ込んで来たのでは、という書き方をしていて、今回そのような表現に至ったけれど、考えてみれば人類学・民俗学的にはずっと分かっていたことで、それがジェネシス原型論の体感や瞑想ワークの中で、実感されたということだ。

更にこの点、なんとなくの考え事を繰り広げているうちに、あることに気づいた。

数年前にもうドラマは完結している『ゲームオブスローンズ』。私は(何度かSNS等でも触れていたけど)シーズン2〜3くらいの頃に存在に気づいて、まだネット配信で何かを見るという時期に入ってなかったので、その都度、DVDを買って観るようになった。まだ若大将は子供だったため(さすがにあれは見せられんでしょう・・)、DVDが届くと一人でこっそりと休みの日にドキドキしながら少しずつ見続けて、放送されるまで何年かブランクがあった最終シーズン(第8章)は待ち侘びた、という感じで。全シーズン、付録?付きのボックスが揃っていたりする(笑)。

私が映画やドラマについて書く時は基本的にネタバレなので、ご了承ください。一視聴者としてのワクワク感よりも、なぜか昔から制作者・原作者や監督などの目線で、何を伝えたいのか、ここに何を引っ掛けているのか、含めているのか・・という目で見てしまうので、自分自身がまったくネタバレを気にしない人間で、むしろ本などは最後の結論や後書きから読んだり、映画もメイキングを先に見たりするのでス。それと原作を読まずにドラマ版だけで書いているので、原作を知る方からするとずれている部分があるかも..この点もご了承ください。

そうそう。見た方ならご存知のとおり。このドラマの原作は「氷と炎の歌」というタイトルで、「七王国戦記」という副タイトルも付いている。架空の大陸に存在する7つの王国、それを束ねる宗主国の玉座を巡って争い合う、という。南部の国の「女王」と、北部の代表である「王」、それぞれが「炎」で「氷」であるわけだけど、この二人、最終段階でようやく実は親族であることが判明する(たしか叔母と甥になるのかな。年齢は多分同じくらい)。運命に引き寄せられるように、南から北上、北から南下しながら、それぞれの敵を倒して次第に自身に忠誠を誓う者たちが増えていく中で出会い、結ばれる。

なるほど氷と炎が出会って融合し、最後には王国に平和が戻るのだな〜・・と安心して見ていると、最終話でびっくりしてしまう。賛否両論、というか、ドラマが終わった頃はどちらかというと批判的な意見が多かったように見えた。けれども、ドラゴンや魔物、多少の魔術が出て来たりして「ファンタジー」のくくりに入りつつも、原作者が非常に歴史学に造詣深く、人間を人間臭く描ききっているという点で、「ファンタジー感」が無い、リアリズムの中で物語が進んでいく。それを考えると、あの結末は非常に、納得できる・・ドラマ、ではなく、実際の歴史の展開として自然、と言えるのかも。

炎の女王も、北部の王も、どちらも「犠牲」として大陸の表舞台から姿を消す。愛と人道で人々の崇敬を得ながら最終決戦まで来ていた女王は、七王国の統一を目の前にして、血筋が騒いだか残虐な支配者の顔を見せる。それを見た北部の王、彼女を人間としても同志としても愛していた者が、彼女を殺めるという決断を。そして彼は殺人罪で終身刑という。なんとも言えない結末。二人の人生を賭けた努力によって、専制的に玉座を死守していた一族は絶えて、大陸には平和が?訪れる。けれどその時、二人は居ない。

歴史の触媒のようになって、消えていく二人の英雄。氷と炎。作者はアメリカ人だそうだけど、北欧神話などの、英雄が最後には決して幸せにならない、むしろ貧乏くじを引くような犠牲で終わるというパターンに、影響を受けているように思う。歴史上たいていの英雄、カリスマは、確かにそのような定めを世に示して名前を刻んでいることも確かに多い。けれど全てでは無い・・「細く長く」じゃなくても、「太くても長く」健全に天寿と使命をまっとうした英雄、カリスマも居る。ゆえに、作者の思想的なものによるのかも。私はディスニー的なハッピーエンドもありだとも思う(現実としても。そういう現実創造力を発揮できる人間であれば)。

結末、は置いておいて。

言いたかったのは、日本列島でも、Game of Thrones (氷と炎の歌)であっても、もしかするとどの国でも、文明でも、「南・女性性・タマス」、「北・男性性・ラジャス」このセットが、法則として存在するのかもしれないという仮説。確かに、人間は南に居るとゆるんで、おおらか〜怠惰になり、女性的になる。北に暮らすと真面目〜神経質になり、男性的になる。その背後に、ガイアとヴァイアマスが南極と北極にそれぞれ座していたりしたらどうしよう。。地球上の海流やプレートの流れ、などすべて「ジェネシス原型」「ジェネシス神話」で説明できたりしたら。(広げ過ぎだけど「ニューエソテリシズム?新・神智学的にはその展開もライフワークとして良い)

旧石器時代人、もしくはもっと古い原人レベルかもしれないとも言われている、南から、北から、日本人の源流が入って来ていて、縄文人といっても、南方系と北方系で既に特徴づけされたいたはず。そこに到来した中国、朝鮮からの少なからずの「弥生人」=新説では、紀元前700年前から奈良時代(紀元後800ころ)までの、1500年という長期にわたって、渡来の波はずっとあったという。常に戦乱に悩まされていた中国や朝鮮では、その都度、亡命貴族・王族や、ボートピープルが日本を目指した。それらの渡来人たちは、またどのような中和作用、刺激をもたらしたのだろう。彼らが「中間」という訳ではなく、渡来人にも様々な文化・政治・宗教的背景があった。(帯びているジェネシス原型エネルギーも)

そんな「多様性」がミックスされて、天災の多いこの土地で、なんとか生きていく工夫を其々違う背景を持つ人たちが模索した。し続けた結果が、日本である。・・・という、新たな視点もあるかも。

よく言われている日本人の「動かない・空気を読む・人がしていることをしよう」という性質の原因は、稲作民であるため共同体意識が強い、とか、戦後のGHQの思惑、とか、徳川政権の支配体制が巧みだった(そこでの洗脳が抜けていない)などの理由が挙げられる。

けれど、もっと遡れば最初から、仕組まれて(用意されて)いたのかもしれない。上記の3つの要因・要素も含めて、プログラム、設定通りであったのかも。人類全体もそうだ・・眠ったように動かない、目覚めないように働くタマスの力と(その現象と)、争いばかりしているラジャスの力(とその現象)。南方的なエネルギーにおいては人々は欲深くなり、北方的なエネルギーに刺激され人々は争いを続ける。それすらも「歴史」あるいは「文明」というシナリオ通りの、現実、現象なのかもしれない。

その中から、中庸を見出し、抜け出す。何から抜け出すかって?

この「現象界」から。映画『マトリックス』と、同じみたいに聞こえるけど、もっと古く、仏教では・・引いてはその元であるインド哲学では、数千年前からそれを説いている。

両方あるし、二極だし、二限性だし、多様でフュージョンだけど、そんな中でも「善(愛)」とは何かを自分で見つけながら、「中間」という透明な場所を探している。それぞれ、何がどれくらい偏っているか、濁っているか、混乱しているか、そのバランスの悪さはみんな違う。二人として同じ人はいない。だからこそ、自分自身で自分のバランスの悪さに向き合いつづけ、(ひとつの生ではなく魂として)「ちょうどよい中間」つまり中庸を見出す。

『スローンズ』のジョン・スノウはその意味で魂の中庸、を達成したと言えるのかも。最愛の人を正義のために、状況判断して、大陸の平和のために手に掛けたのだから。

あ、そうだ。このドラマをジェネシス的に深読みしていて、もう一つ気づいたのが、南の女王の家系はドラゴンの末裔と言われていて、ドラゴンを飼い慣らし乗りこなす(炎を吹き空を飛ぶ西洋風ドラゴン)。ドラゴンは、東洋とは違って西洋では女性性と結びついていて、欲望、などのイメージもある。一方で北部には精霊たちの魔法の失敗のような形で生まれてしまった「魔王」が死者たちをゾンビにして軍隊を組織している、という。炎と氷、は、単に南と北だけではなく、人間の欲望とそれが齎す破壊力(南のドラゴン)、魔術・自然界が孕む危険と破壊力(北のダークネス)を表してもいそうだ。

話があちこち行くけれど。

ヨーガ哲学やヨーガの実践においては、菜食や禁欲が説かれている。けれどアーユルヴェーダは医療、健康術なので、禁止というのは無く「その人なりのバランス」をとることを考えていく。・・これもある意味、仏教でよくいう「方便」であると私は思う。バランスが取れていったら諸体が浄化されていって、禁欲も菜食も、難しいことではなくなる。むしろ自然にそれを指向するようになる。

人類全体では、行先は果てしない。けれど個人個人、「幸せになる」ための唯一の道は、「ちょうど良い真ん中」を見つけていくこと。これは間違いない。

きっと宇宙人たちも。宇宙文明もそんな振り子の揺らぎや、失敗や修正を繰り返し、同じように中庸を目指す途上にあるはずだ。

Love and Grace

Amari

緑豆の花

関東はようやく「恵みの雨」。個人的なガイアワークを行なうために出歩いていた或る日。当日は雲一つない青空で「おしるし」は出ないのかなと思っていると、翌日はほぼ一日、盛大にイシルコン系の雲が広がっていた。先日Info に書いたような大規模なワークが起きると、信じられないくらいにエネルギーがスッキリして、「ああ、ひと仕事終わった」と感じられるものだけど、今回はそれが無いまま、翌日、さらに翌日と経ち。

おかしいな、と思いながら翌朝に出ていた「イシルコン系」の空模様の写真をよくよく、スマホではなくデスクトップのMacの大画面で見てみると、おしるしが出た、と安心していたものの、決して空の様子もスッキリしてはいなかった。珍しく全ての方角に、それぞれ長細くたなびく、羽毛をもつような壮大な「ナガ系」の雲が広がっているけれど、炙り出されただけで、先日の(白い聖堂の翌日の)ワークのように昇華されていく自然界のエネルギーたち、主たちを見送ったという訳ではないことに気づいた。

そうなんだ、きっと、アルガンザの関係するある程度の範囲でワークしたのが、過日Infoに書いた内容であったけど、更にその外周や、もしかすると世間全般か、少なくともより離れた集合場のグループで、同じ系統の作用の波及が起きていますよ、という、空模様のおしるしだったのかもしれない。そう思うと、昨年2月にやはり同じように、最初は個人レベル、さらにアルガンザの周囲のグループ的なソウルの集合場、さらには世界全体?と、同じ原型テーマが波状に規模を広げながら伝わっていくような感覚の中で、Face Book に同じような空模様の写真を載せて「戦いを感じる」と呟いていた直後(翌日だったかな、)ウクライナ侵攻のニュースを耳にしたあの時によく似ている。

炙り出されたけれど、その波及と浄化と昇華はこれから起きていく。そういうことなのか・・と、画像を整理しながら感じていた。

と同時に、確か「火星逆行」が1月13日までだったっけ、と気づく。今日は14日だから、昨日までということか。そう言えば昨日の夕方ころ、急に何とも言えず不穏な「天が落ちて来る」という感覚で次元が、時空がゆがむような数分間があり、「これは何だ?」と思っていて・・昨夜、就寝前に瞑想をしておこうと座ったらば、火星的な(戦い、争い)エネルギーの集合場の乱れ、のようなものを感じて、これは寝てられないな・・・と、3時間くらいずっとワークをすることに。その中で見えたメッセージ的なものや、体感などから、ちょうど今見ていた韓流時代ドラマ「緑豆の花」の影響もあるかも・・少なくともそれが刺激になって、

130年ほど前、世界の作り替えの激動期のアジア情勢や日本軍のイメージ、さらには中国、朝鮮半島、日本列島の古代からの人種や人の往来、混血、文化や宗教がかつて日本で合流していく、良くも悪くも「日本」が作られていく歴史の流れとカルマ的エネルギーを、アカシックを通じて受信しているような状態になっているかも・・・と、3時間ほど経過したところで気づいて(!)

その後、自分が普段周りに置いて寝るような高波動の石たち(マスターウラルたち、ウラルの水晶、トパーズたち等)をいつもどおり配置したら、問題なくスイっと周波数が上がって眠りに就けた。。自ら見に行ってはまって何をしているのだろう?という感じだけど、上に書いたウクライナ戦線と同じように、というかそれ以上に、日本、半島、中国・・つまり東アジアでの情勢は、いつ表面化するかという所もあって、まだ先だと思っているけれど、水面下では着々と進んでしまっているのか、まだエネルギーレベルの情報を察知しているに過ぎないのか、色々と考えさせられた。

『緑豆の花』は、

1894年の日清戦争のころ、明治維新後の日本が「文明国」として「急成長」し、西洋の列強の真似をしてアジアの覇者になろうと動き出した最初の足がかりとなってしまった、朝鮮の、李朝末期の人々の戦いを描いている。史実に基づいて作られた、どこか日本の大河ドラマ的な真面目さをも感じさせる韓国ドラマだ。とは言え、スピード感と、恋愛なども程よく絡め、サイコパス的に壊れていく主要キャストの描き方などはやはり、韓流ならではの仕上がりで、面白くて全48話(1話が30分)、1日2話ペースであっという間に見終わった・・けれど、実際の歴史という明確な軸があるせいか、とても長く見ていたような感覚が残り、歴史体験をした、新たな体験が記憶に入ったという感じさえあった。

韓流ファンの日本人女性の方々からは「暗い」「男くさい」などの理由で、見れなかったという声もあるそうで、考えてみれば私は「ゲームオブスローンズ」などを全編見ていたし、『緑豆』を見て「暗い」とはまったく思わなかったけれど。確かにずっと、歴史に基づいた戦乱の積み重ねなので、好みに合わない方もいらっしゃるかとは思う。何しろ戦闘つづきで、リドリー・スコット作品のような戦場のリアルな描写のようなものは見ていて辛い。

日本人は見ておいたほうが良い。大日本帝国・・の所業、知ってはいたけど、侵略された国の人の目線で見ておくことは、重要だとも思う。初めての韓流ドラマとして「チャングム」を見た時から、おかしな倭人たちが出て来てチャングムに迷惑を掛けていたっけ(笑)・・その時から、いつかちゃんと時間を掛けて、李氏朝鮮王朝をいかに日本が侵略したのか・・を、勉強しなくてはと思っていて。だいたいの韓流時代劇では侵略者として登場するのは中国の各王朝な訳だけど、秀吉軍の侵略から300年振り、滅多に来ないだけに日本の侵攻、上陸はインパクトが強い。

ずっと李朝の、それ以前の高麗、さらに三国時代の歴史ドラマを見て来ていると、綿々と続いてきたその国の歴史を、蹂躙しにやって来ることの罪深さが、ただただ日本で歴史を習った時とは比べものにならない感覚で入ってくるものだ。

もちろんドラマはドラマなので、変に感情的になったりはしない。静かな気持ちで48話見ていたけど、戦争に良いも悪いもなく、侵略に言い訳や綺麗ゴトなど、無いのだよなあ。。と。日本に限らずどこの国でも、いつの時代も、戦争に正統な理由など存在しない。ただ仕掛けた者がいれば、正義や国の権利のために応戦しなくてはならず。いやはや、せっかくの生命、人生、なぜ闘う事に費やさなくてはならないのか、人間のサガを改めて悲しく思う。革命軍を組織し、国に代わって立ち上がり戦った市民たちの実話。東学党の乱、農民戦争、と呼ばれているらしい。

物語は実在する東学党の革命軍の主幹的な人々と絡む形で、ドラマの架空の人物である「ペク家の兄弟」が中心軸として描かれる。兄だけど庶子であるイガンと、弟のイヒョン。逞しく荒くれ者のイガン、理知的で理想主義者のイヒョン。ドラマ冒頭では、父親(ブラック系のどうにもならないような人格)の影響を受けて、悪行が多かったイガンは、革命軍との出会いにより改心、義兵として成長していく。一方で貴公子のような一家の自慢の息子イヒョンは、時代の変換点の混乱の中で受けた傷により、人格的に壊れてどこまでも落ちていく。時代の犠牲者、という役どころだ。

良かった点。革命軍の男たちがかっこいい。まあそうだよね、それが醍醐味のドラマだろうから。イヒョンの壊れ具合は、痛々しいを通り越して、お茶の間もちょっと辟易するほどのサイコパス振りで、同情できる余地がないほどだった。けど、アルガンザの世界観で「ブラックソウル」と呼ぶ、ハートも血も涙もないようなタイプは父親の血筋で、けれど父親よりはずっと薄まっていて(母が比較的まともなお陰で?)・・父のように完全に魔性に自分を明け渡すようなことにはならず、何とかその性質の遺伝的な連鎖を断ち切ったという終わり方。

父親も次に生まれる時には、だいぶ薄まって人間らしくなることだろうと思わせる。同じ父から生まれつつ(異母兄)、母親の太陽のような?性質を受け継いだせいか、イガンは闊達で、底抜けに頼れるヒーロー的人格に成長していく。

もう一つ良かった点は、女性陣がみな強くてしなやかであった事。女性キャストはそれほど多くはないが、男性をしのぐ真っ直ぐさ、安定感で、「男らしい」女性たちが見ていて安心出来た。

それにしても・・「日本軍め、もう辞めてくれ」と何度思ったことか。王統や歴史はその国の精神、真髄のようなもので。フランス革命のように国民自らが倒したという訳ではなくて、弱体化・腐敗化していたとはいえ、他国からやって来て歴史あるものを簡単に壊すなんて。清朝の最後も同じく・・・ 世界中同じような事はたくさんある訳だけど。戦争をしない、他者を侵略しない在り方、存在の仕方を人類が学べるのは、いつなのだろうかというため息と共に。

それでもまっすぐしなやかに自分を生きようとする陽であり善である人々の心の強さに、静かに胸打たれつつ、見え終えたところ。

しばらくの雨で、火星的な力の強まっていた時期に、炙り出されたものが鎮静されるのだろう。乾燥も程よく収まって、バランスが取れることを願ふ。

Love and Grace

彦姫シリーズ・その3 歴史からの雑感

昨日「書いたけど消えてしまった」と言っていた、日韓の彦姫(国民性の中の少年少女性、いつの間にか韓国も含まれている?)について、高次の検閲が入ったと思われる方面には触れずに、巻き込まれて?消えてしまった雑学的なつらつら、雑感部分をメモしておくことに。

一昨日の記事「スベクヒャン」の時代背景にまずは話を持っていくと、

当時、日本は飛鳥時代。蘇我氏が急に政治の中枢に出てから何代か続いて、蘇我と物部の衝突、内乱が起きるころ。聖明王から仏像その他一式?をプレゼントされて仏教伝来と、日本史では習う(今は分からない、私の時代は)。けれど、日本の政府が、というよりも蘇我氏が百済王家と繋がっていて、蘇我氏限定で「仏教伝来」が起こったという説もあるよう。蘇我が急に政権に絡むようになり、皇妃を出す外戚になり始めたことに関しては、諸説あって、蘇我氏のルーツがどこかという問題になってくる。

シルクロード由来の騎馬民族説、出雲王権の末裔説、百済の王族の一部が日本に来た、など。

そんなことを、個人的興味で20歳の頃からずっと考えているんだけど(笑)、前にもブログやら幾つかの場所で書いたように、栗本慎一郎さんの「シリウスの都・飛鳥」との出会いと、プラス自分オリジナルで想像、直感的に感じている蘇我氏の系譜というものがあり、それをいつか小説にしようと思っている。なんと!それは「ハピの巫女姫」や「ガイアナ神謡集」とも繋がってくるのだ・・・

「指輪物語」原作者、言語学者のトールキン博士は、自国のイギリスの実際の歴史と、ヨーロッパ各国の神話伝承の研究から、オリジナルの架空の歴史を、作ろうと意図していたそうだ。以前何度かブログ等に書いたアメリカのドラマシリーズ「ゲームオブスローンズ」の作者も同じようなスタンスで、歴史好きな作家とはそうやって、ある意味でパラレルなもう一つの歴史世界を、長い時間軸や地理的な広がりでもって、自作しようと自然と望む、自然とそこへ向かうのかもしれない。

世界観がかなり精密に決められているという、ハリポタ・シリーズの J.K. ローリングも同じくだ。

ヒーラー視点でのスピリチュアル史、人類の歴史だけでなく、ソウルが経てきた歴史を体系化しようというのだから、我ながらチャレンジャーだなと思う。日本古代史と、超古代の架空文明、ハピやガイアナとを繋げるだけでも時間軸や次元の層が忙しいというのに、地球創生からのジェネシス神話が下地としてある上での、古代史や超古代史、そしてアトランティス小説まで書こうと思っているのだから、一体どうなることやら。

ああ、話がだいぶ脇に逸れてしまった。

それで、恐らくは、ジェネシスの原型に共通性があり、日韓ともにアンドロ的な性質は、他の民族よりも配分として強いと感じている。韓国ドラマは、時代劇だとだいたい、幼い頃に親や師匠が無実の罪で死んでしまったり、それにより初恋の幸せな思い出が切り裂かれて、という所からスタートするし、現代ドラマの場合、サムネイルや予告が軽いラブコメ風でも、見ているとほぼ間違いなくインナーチャイルド、それもかなり激し目の傷が出てくる。

いつも言っているように、インナーチャイルドは「傷ついた天使性」「自然界やレムリアなどの傷」を反映する。

そういう意味では、日本人にはいくらか黄色い、リラの要素がかかっている分だけ現実的というか三次元的な「ずぶとさ」がコーティングされていると思う。

一方で、韓国のほうは実際の歴史的な苦労が日本とは比べものにならず、多くの痛みを民族として味わって来ている。同じようにアンドロベースでも、こちらは致し方なく(攻撃を受けてしまうから立ち上がる他なく、怒るほかなく、自己防衛のために)赤をまとった、という違いが、日韓の間には、歴史およびジェネシスからの視点で、見られると考えている。

けれど、どちらも社会の同調圧力、それゆえに身についてしまう同調習慣(空気を読む、という慣習)、自己犠牲的であるという共通点があり、やはりそれはジェネシスに照らすと「アンドロ」が強いという言い方が出来るだろう。

韓国の政治や経済などは不勉強で、ドラマを見ているばかりのお茶の間視点しかないが、日本の社会について少し真面目に考えてみると、

福祉大国で、定年後の医療費などの心配もなく、子育てにおいても教育費を高校まで、あるいは大学まで国が出している・・というような北欧諸国と、日本人は同じくらいの税金を払っていることになるらしい。(テレビ番組で野党の政治家が言っていた・・)けれど、よく言われているように日本は年金などの状況は心許なく、今後さらに大変になるらしい。文化系やスポーツなどの補助も少ない。スウェーデンだったか、出産までの費用は国が出してくれるとか。フランスは大学まで学費が無料。それらを日本人は自己負担で何とかやっている。

気づいてみると、とても自己犠牲的な状況なのだ。

ヒーリングの概念においても、自己犠牲的な要素と、搾取という力が引き寄せ合う。

赤や黄色をまとうことで、純粋すぎて壊れてしまいそうな「天使性」=インナーチャイルドを守ることは、三次元的に一時的には出来るかもしれない。凌ぐ、という感じだ。けれど、赤は赤を呼ぶし(戦い)、黄色は黄色に支配される(停滞・腐敗)。凌いでいても、いつかそれが極限を迎える時が来るものだ。

シリウスの風、白の軸で自分を成長進化させ、搾取や腐敗、終わりなき争いの連鎖から抜け出すしかない。

韓国時代劇を見ているとまさに、主人公たちはその白の力で難局を切り抜けるし、うまく行けば周囲をも変えることに成功する。・・ドラマはあくまでもドラマ(=理想)に過ぎないけれど、少なくとも何が自分たちの問題で、何によって切り抜けていけるのかを、韓国のクリエイター、作家の方々は知っている。見ているお茶の間も潜在意識では分かっている(だからドラマや映画を評価する)。日本のドラマや映画は最近見ていないから分からないけど、世界共通、人間は深いところでは「どうすべきか」を知っていると思う。

悪しき慣習、惰性、怠惰、利欲の優先=利己 に落ちてしまうことなく、主人公たちのように振舞う、選択する、それが人のあるべき道であるという普遍的な愛の仕組みを、誰もが本当は知っている。

話が逸れつつも、今日はこのくらいで。

Love and Grace,

Amari

守百香と彦姫たち 〜魔性と天使性の関係〜

以前の記事「ヤマトの彦姫」の続き。随分、ブランクが空いたけど、・・・と今朝書いていた長文がまたまた(また!)保存した筈なのに消えてしまった。どうもやはり、まだ「the Genesis」に公式に載せていないジェネシス情報について書こうとすると、(五次元からの)検閲が入るようだ。

ヤマトの彦姫という記事を書いて からもう一月半。

その間、アルガンザのテーマはエルフ界一色という感じだったけど、同時にセラフィムの新しい原型パターンも出て来ていて、そのことを少し前に記事にしようとしたらやはり消えて、こちらは、新改訂のバイブルに直接載せることになるのかも。けれど、「ヤマトの〜(10/29)」でも言っているように、気は進まないものの必要を感じて・・という同じ思いで、やはり今日は予告していたスベクヒャンのことを書こう。

当初の予定はアルビレオ恒星系のジェネシス原型ストーリーと、ドラマ『スベクヒャン』の共通性を書く中で、その中に含まれる象徴的な女性性の分断について少し触れる、というつもりだった。が、今朝書いていた内容が消えたことにより、方向性、角度を変えて再チャレンジ。アルビレオ(白鳥座)恒星系の家族パターンは置いておいて、女性性の分断にマトを絞ることにする。

エルフ界一色・・から、ここ2週間くらいかな、先日の満月に向けてだったのか、堕ちた女性性つまり「リリス」とアルガンザで呼ぶものの気配が非常に強くなっていて、その中でも特に「イワナガ姫」という神話原型(ジェネシス的に考えればリリスの一つのパターン、日本版)が自己主張を強めているようで、その手のエネルギーにひどく攻撃された過去の経験で痛めた幾つかの場所=「古傷」が反応するので分かりやすい。

・・・・

だいぶ前に、Face Book に書いている韓国時代ドラマの『スベクヒャン(守百香)』。冒頭に出してきた終盤のハードな盛り上がりが強烈すぎる点や、幾つかの要素がすこし残念で、脚本はとても良いと思うけど、本国でも予定より早く打ち切りになってしまったらしい。それ自体へのコメントは、もしご興味あればFace Book の投稿を遡って頂ければと思う。

当時の日本の蘇我氏系の皇統と、ドラマの舞台である朝鮮三国時代の百済(ベクチェ/日本では「くだら」)の繋がりについての学説や、主要キャストの役者さんたちへの他の出演作を含めての評価なども、今朝はつらつらと書いていたのに消えてしまったので今は割愛。要点だけを・・・原型としての「イワナガ姫」とその背景。

ネタバレを全く気にせずに書いています。ご了解ください。

このドラマの中心は姉妹。同じ母から生まれているが、長女ソルランは母「チェファ」が情を交わしていた今上の百済王(歴史上は武寧王)との間にできた娘。しかし、当時は武寧王の従兄弟?にあたる東城王が国を収めていたところ、クーデターが起きる。首謀者は、なんとチェファの父親。その城は攻められ父の命乞いを将軍である武寧王にすがるも冷たく突き放されたチェファは、お腹に子が居ることも告げられないまま別れた。武寧王は、先王への忠義が厚いためのその行いであって、その後生涯を通じて密かにチェファを愛し続けていたよう。

城が落ちていく中でチェファをかついで逃げたのは家の下男である、巨体で怪力、口がきけないが心優しいクチョン。その後、クチョンはありえない逆転劇により、ずっと憧れていた「お嬢様」チェファの夫の座を得る。彼女が悲劇に遭い「堕ちた」ために起きた、格差婚だ。

長女ソルランが生まれ、少し経てから、クチョンを父に次女ソルヒが生まれる。

二人の出生の違い、背景はそのように、同じ母を持つが大きなギャップの中にある。先王を狙ったクーデターを収めたのちに即位した百済王を父にもつソルラン。そして、その事変のために貴族の姫から「落ちぶれて」しまったチェファが、山の中で密かに隠れて暮らし、かつての下男との間にもうけたソルヒ。

しかしながら皮肉なことに、ソルランは男まさりのサバサバした性格でまっすぐ、正義感が強い(=シリウス的)。平凡な山村での暮らしを愛している。「父親」のクチョンのことも。妹のソルヒは、(設定では)誰もが見ていると幸せになるような美少女(=天使性)で、純真で綺麗なもの、美しく華やかなものが好き(=アンドロっぽい)。。。が、お姫様願望が強く、自分はこんな山村にいるべきではないと、普段の暮らしもどこか夢うつつで、自尊心が強い。

色々あって、昔のクーデターの火種から・・ひっそりと幸せに暮らしていたこの一家を含めて村ごと、ある夜、刺客が襲う。母チェファが犠牲となる(=ここがアルビレオ原型)。父クチョンが命を張って娘たちを逃す。そこからが、二人の姉妹の道が分離し始める。死に際の母の口から、お前の父親は百済王だと聞いたソルヒ(母はソルランだと思って語っていた)は、気づいて「姉さんにちゃんと伝えて」と必死で懇願する母が息を引き取るのを見届けても、もう頭の中は「父親は百済王」でいっぱい。死に際の母の懇願は耳に届かない様子。母のための薬草を取りに行っていた姉ソルランが戻っても、伝言することはなかった。

その後、ソルヒは姿を消し、都へ。自ら娘だと名乗り出て王女として王に迎えられる。妹想いのソルランは山賊に連れ去られたに違いないと必死で探し続けるが・・手繰り寄せられるように、彼女もまた宮中に出入りする役職(百済の諜報団)につく。水を得た魚のように「王女」を満喫するソルヒ。けれど次第にその座を失わないよう、嘘をついていることを知られないための画策で、心が荒んでいく。ソルランは強く逞しく?国に貢献しようと日々成長していく。

まあまあ色々あって(全108話)、それぞれを想う男性陣もまた、数奇な定めの二人の王子。政治的な陰謀も渦巻いて・・最も激しいピーク、この二人の姉妹の衝突シーンがドラマの第一話冒頭に配置されている。けれど、基本的に作中ずっと二人は仲が良いし、ソルヒも姉を憎んでいる訳ではない。(ただ妬んではいる)

権力欲でもなく、ただ「お姫様でいたい」という少女性と、現実世界の判断を鈍らせる自己愛性人格障害のような性質が、ソルヒをそこまで堕としていく。その過程で、ソルランと争うシーンの辺りでは既に、統合失調の症状が出ている。韓国ドラマは権力に憑かれた女性もたくさん出てくるが、この、ソルヒの人物設定が、賢いというかよくできていると思った。少女っぽさ、「綺麗なものが好き」というよく言えば純粋だけど人としてはあまりに未熟で、そんな自分のお姫様願望を貫くのに命をかけるという普段は余りないキャラクター。

だから・・下位チャクラが丈夫そうな、史劇でよく見る権力に固執する強い女性像とは違い、壊れてしまった。嘘がばれそうだ、偽物であることがばれそうだという恐れが高まるにつれて、「いいえ、私は王女よ」と信じ込んでしまう別人格が生まれてしまったよう。

私は、日本の神話にモチーフとして含まれている「イワナガ姫」のさらに原型、ジェネシス層のリリスが作用し堕ちてしまう女性性とは、このソルヒのようなものであろうと最近は思っている。最初から怖い(感情的に強い)女性ならば壊れることは無い。少女性、天使性のようなものがベースになっていて、そこに強い「願望」が作用しそれがポキっと折れた時に(前に書いたようにアリストテレスいわく嫉妬とは悲しみである、という)魔性のような原型エネルギーが作用してしまうのだろう。

このドラマの良かったところは、上に挙げたソルヒのそんなキャラクター設定(だからこそ冒頭にあのシーン・・は残念だった。見る人が誤解をしやすいだろう)。その他にも二つある。一つは、姉であるソルランが全てを失った、精神も病んでしまったソルヒを当然のように許し、寄り添って暮らしている最終章。ソルヒは記憶喪失になり、自分が犯した罪さえも忘れている。ただただ純粋な「少女」になって、姉を慕って生きている。

そこに、ソルヒに想いを寄せていた悲劇の王子チンムが、訪ねてくる。この若者も不思議な人物で、なぜかソルヒをその危うさも含めて宮中では見守っていて、悪どい一面も見抜きながらも、堕ちるなら一緒に、という勢いで彼女の側にいようとした。ソルランとともに暮らす、抜け殻のような、認知症のような状態になっている彼女を最終章では訪ねて来る。ソルランとチンム、二人がソルヒに向ける大きな愛が最後に描かれている所に、このドラマの救いとテーマがあるように思う。

実はソルランとチンムは同じ父を持つ兄と妹になるわけだ(異母兄妹)が、チンムは事情あって従兄弟のミョンノン王子と入れ替えられている。この事実が後半明らかになっても二人の王子同士が醜く争い合うような展開もなく、二人とも心優しい青年でやはり愛がある姿を示しているのも良かった。ちなみにソルランを慕うミョンノン(歴史上の聖明王)も、都から彼女を訪ねてくるというシーンが最後に。どうなるんだろう?ご想像にお任せします、という最終回だった。

チンム王子はセンシティブなアンドロっぽさ、そこにリラのマイペースな感じがうまく統合されているような・・俳優さんの本質かな。強がって時に父の愛欲しさに怒り憎しみを発現することもあったけど、ソルヒのように堕ちきって壊れることはなかった。この俳優さん、とても残念なことに今はもう亡くなられている。

他の作品でも(ソルヒなど比べ物にならない)魔性に取り憑かれたヒロインが、宮廷で戦い続ける・・その初恋の男として、彼女を最後まで憎むことが出来ない、優しい男を演じている。けれど亡くなられたと聞いて、そんな役が続いて俳優さん自身があたってしまったのではないかと、勝手に心配してしまった日本のお茶の間であった・・

天使性のまま、地上的強さ(下位チャクラのフォース)が足りないまま、失意や傷心を強く抱くような場面に、原型エネルギーが降りてきて被ってしまう。そのような先祖が居ればまた、気質や体質としてそれが遺伝していく。他の原型もそうだけど、原型フィールドのような集合場があって、特定の感情や周波数状態になると、繋がって被ってしまうのだと考えている。

天使性や純粋性が壊れた時に作用を受け入れてしまう、と言っても、原型エネルギーそのものは、もっとダークなマジカルな力をもった集合フィールドである。もう一つの例をあげると、「天城越え」を石川さゆりさんが紅白で歌うと(最近テレビが無くて見てないけど・・)間奏部分でさゆりさんが悲しく縋るような顔をするでしょ。。。(ん?分からないかな?笑)そしてバックの照明が真っ赤になったりする・・あれ、なんだと思う。リリス、イワナガ姫が舞い降りる瞬間とは。

天使性・純粋性、つまり、インナーチャイルドが、怒りを伴う形で発動する時、赤い女性性の怒り、破壊的な集合場の力と繋がってしまうケースが多々あると思う。それを表に出さずとも、内側に隠し持っていては、破壊的な事象を引き起こしてしまったり、他者のエネルギー体を無意識にも攻撃してしまったりする、つまり「チャネル」になってしまうだろう。

表面穏やかな日本の人々は、彦・姫でありつづける傾向が強いと 10/29記事で書いたけれど、その分だけ、表に出さない「怒りを伴う悲しみ」がお腹の奥に眠っている人が多いのかもしれない。イワナガ姫でワーク等をされる方々もいるという話を偶然聞いたけど、恐らくはそのような「奥に眠る」赤い荒ぶる力(その本質は悲しみ)を、癒しているという事だと理解している。

(アルガンザでは イワナガ姫、イコール「リリス」(堕ちた女性性)と表現していますが、それぞれの役目で表現しているだけで、向かう先は一緒、だと思っています。気に障ってしまったら申し訳ないですが、こちらの趣旨、ご理解いただけたらと思います)

とてもシンプルに、大切なことは日々、穏やかな心境で愛の周波数とともに生きること。

フツフツとしたものや、癒されない悲しみがお腹に自覚できる人はまず、それと向き合い、自己浄化と癒しに励みましょう。

ちなみに『スベクヒャン』は現在テレビで放送中だそうですよ 興味ある人は調べてみて下さいネ

Love and Grace,

分断か統合か 『英国総督 最後の家』

11/19の日記『偉業と偏見の狭間で』を書いた時に、神智学の重鎮である C.リードビーター(1854-1934)と、当時の同協会会長(2代目)アニー・ベサントらの啓蒙活動が、イギリスからのインド独立の流れに大きく影響したという事を改めて考えていた。

どういう事かというと、ガンジーがイギリスに留学(当時のインドの知識人層は「本国」であるイギリスの一流大学に留学することが多かったらしい)、その際に神智学協会と交流していて、インドの伝統的な哲学や思想の奥深さを、逆に神智学者たちによって学んだことで、民族意識に火が灯り、政治活動家になっていく流れを作ったらしい。

また、つい最近の「日記」記事に秘教的な地球の歴史・未来史に関わる記事『星々の導き。プレアデス信仰は火星から?』 を書いてその後、近い未来もどうなるんだろう?という国際情勢の中で、「道が別れる」「主義や方向性、譲れない条件によって互いに分断を選択する」ということが、地球文明規模でも起こるのだろうかと考えていた所でもあり。

そこに偶然見つけた映画『英国総督 最後の家』にタイミング的に感じるものがあり、見てみることに。

とても面白かった。面白いと言っていいのか・・「良い映画」だった。

1947年、インドで100万人以上の犠牲者が出る結果となったイギリスからの独立と、同時に行われたパキスタン建国による「インドの分断」を扱った映画である。

監督は、自身の祖母が当時実際に渦中に在り、そのような一般の人々の分断の記憶の痛みを描きつつも、物語の中心にはイギリスから派遣された「最後のインド総督」マウントバッテン伯爵とその家族の人道、ヒューマニズムと迷いの日々を軸として描いていて、映画の作品としてうまくまとめながら、伝えたい事をしっかりと観る者に、印象的に伝えてくる作品に仕上げている。


日記ブログには以前、エリザベス2世女王陛下が亡くなった時には『イギリスのこと』という記事を書いていた。そこで少し触れたが、子供の頃から歴史好きだった私は、高校時代に学んだ世界史において、近代の地域紛争・民族紛争の多くを引き起こしているのは、帝国主義時代のイギリスゆえではないか・・という理由で、思春期の?反発する矛先をなぜか英国、に向けている時期があった。

パレスティナ、香港、アイルランド、そしてこのインドの分断という歴史的な一幕も。その後、解決され得ない問題の始まりとなった。

イギリスは17世紀から300年間、インドを「領有」していた。その支配政策はどうやら(映画で何度かセリフの中に出てくるが)大多数のヒンドゥー教徒と、少数派のイスラム教徒を「適度に争わせ」、その上に母国として君臨するという方法をとっていた。歴史上よくあるように支配者が去っていって「解放された」国では、治安が乱れ、規制するものが不在な中で無秩序に人々が争い合い、国が乱れる。

他民族、他国民を支配することに慣れている「大英帝国」の貴族、王族でもあるマウントバッテン卿は、軍人として東南アジアで日本軍と戦い、その撤退後の収拾が落ち着いた頃に首相チャーチルの采配で、既に独立が確約されているインドの政治的処理を行う人物として最後のインド総督となる。

優しく誠実な人柄をある意味、国に「利用された」結果、「インドを分断させた人物」として歴史に残る形となった。作中、分断直後に大量の難民が発生し、暴徒と化した人々の、イスラムvsヒンドゥーの紛争、暴動は大規模な内乱となり、宮殿のような豪奢な総督邸には難民たちが救いを求めて押し寄せる。その光景を目にして総督は、自分が下した決定ゆえの、その国の有様に涙する。

イスラム教徒を住まわせる為のパキスタンの建国。ただ、人々は数千年に渡りともにインド人として生きて来たのであって、突然に線を引かれたことでパニックに、実際に宗派同士の紛争も勃発している中、命がけで、ヒンドゥ教徒は「インド」国内へ、ムスリムは「パキスタン」と決定された土地を目指す他ない。

この時、1400万人の人々が移動をし、難民となり、100万人が犠牲となったという。

この辺りの流れは、まさにイスラエル建国でパレスティナで起きたことと同じである。

途中、若かりしエリザベス女王の結婚が決まった、という話が出て来た。最近、逝去された女王はこのような激動期のイギリス君主であったのだなあ、としみじみ。もっとも激動していたのはインドのほうではある。ガンジーは、一貫して分断ではなく両宗教がともに生きるインドとして、イギリスから独立することを目指していた。

「インドを解放しに来たのに、切り裂くなんて」

総督夫人のこの一言は、当時の両国に関わったエリートのうち、イギリスの利権だけを考えていた人間でない場合、共有される心情だったのではないだろうか。300年に渡る、はるか遠いヨーロッパの国による支配から、晴れて自分たちで治める自分たちの国であるインド、を夢見ていた人々やその土地、習俗を愛していたイギリス人たちは、複雑な思い、いや、苦しんだことだろうと思う。もちろん、この映画の主人公である総督も。

神智学協会との交流がきっかけとなったにインドの精神文化への開眼が、ガンジーを祖国の独立運動へと導いたという件。300年のイギリスによる支配の間に風潮として定着していたのかもしれないが、当時インドで生まれ育つと、ヒンドゥ教はデタラメだ、と洗脳されていたらしい。ガンジーもそう思っていた所、19世紀末の激変する世界の空気感の中でヨーロッパで生まれた神智学では、古来のインド哲学や秘められた叡智の素晴らしさを「発見」し、掘り起こしを行っていた。

ガンジー初め、少なからぬインドのエリートたちがそんな空気に押されるようにインド独立へと希望を固めていったのだろう。

リードビーターは既に世を去っていたが、クリシュナムルティなどは、そんなインドの様子をどう見ていたのだろうか(彼は恐らく当時はアメリカに移っていた?)。

最近、アジア情勢も不安要素が多いために、中国のこと、朝鮮半島についても同じ様に日本がかつて分断のきっかけを作ってしまったということなどを、よく考える。し、古代史において日本にやって来たいわゆる「弥生人」のルーツ(紀元前の中国由来+もしかするとシルクロード由来+その後断続的な半島からの流入)に昔から興味があるから、最近はその筋の書籍を本棚から手にとって読んでいたりもした。

そして、直近の日記に書いた地球の遠い未来のことまで、思索は飛躍し繋がっていく。

これから、もちろん数百年規模で、だろうけど・・人間の望む未来は二手に分かれていくのではないか、と思っている。もうその頃には宗教の違いなどではなく、科学や生命、もしかすると魂などの量子物理レベルの取り扱いにおいて、人々の思想が大きく二分されていくのではないか。と。ひょっとするとそれが、「宗教」のようなものになっているかもしれない。

ガンジーが言った(この映画の中で)。

「心臓を二つに分けたら、二度と動かない。国も同じだ。」

「インド独立の父」と呼ばれるガンジーは、この映画で扱うイギリスからの独立そして国の分断、のわずか数ヶ月後に暗殺された。イスラム教徒、新国パキスタンと争ってはならないという平和主義を貫徹していたことで彼を逆恨みする、強硬派のヒンドゥ教徒によって銃弾に倒れた。

一方、マウントバッテン卿は、インド総督の後は英雄的な軍人・政治家としてイギリスで活躍していたが、映画で描かれた時代から30年を経た1979年に、なんとIRA(イギリスからのアイルランド独立を掲げる軍組織)により、家族数名ともども暗殺され、世を去っている。

かのヴィクトリア女王のひ孫であられるそうだ。

映画によると、実はイギリス政府は対ソ連対策で、海洋交通の要衝として港を有するカラチでの利権のために、最後の総督マウントバッテン伯爵を派遣するよりも前に既に、パキスタン独立を推進したいインドのイスラム系政治勢力とは話を付けていた、という。反対派(ヒンドゥ教徒)の指導者たちを説得しまとめるために、人間性から人望のある伯爵を総督にした、つまり国に利用されたということだ。– これが事実かどうかは、不勉強のため分からず確認していない–

個人的に、100年前前後のインドとイギリスの文化や人の往来には興味を持っていたのと、ロンドンに行った時にパキスタン系の移民の方々が多く、どのような経緯でインドと別れたのかをいつか勉強しようと思いつつここまで来てしまったので、この映画は大いに響いたし、色々と考えさせられた。

この数年は韓流ドラマ、時代劇をよく観るようになったせいで、ハリウッドやイギリス発の作品でも何か物足りないというか、深みや、ググっと刺さるような人間ドラマの交錯が足りなく感じてしまう症候群・・になっているが、この映画は、中に添えられたインド人の男女の純愛物語もともに、韓流に負けないくらいの力があった。

歴史的な実話ゆえの、迫力もあるのかもしれない。インドという国が持つパワーや波長も、監督自身のルーツでもあるということだから、作品に自然と吹き込まれているのかもしれない。

*興味ある方はぜひ、見てみて下さい* (2018年製作 インド・イギリス合作)

Love and Grace,

Amari

ヒーリング、クリスタル、オーガニックライフを提案 : Arganza

日記 Blog : A Diary – Office Arganza

偉業と偏見の狭間で

2017年3月、当時まだ正式な名前が決まったばかりの「アルガンザ・ジェネシスヒーリング™️」の、最初の世代の伝授最終段階のセミナーを前にして、バイブルとなる「the Genesis」のまとめに入ろうとした時、直感的に導かれて、結果、ジェネシス神話、特に、太陽系における魂の進化スキームについての教書となったのが、イギリス出身のチャールズ・リードビーターの概念。神智学協会2代目会長アニー・ベサントの右腕、とも呼ばれた方。

私はこの方の肖像をネットの画像検索で見た時(ぜひ見てみて)「一目惚れ」してしまい、その純粋さ、優しさを窺わせる深い瞳の光に、写真と見合うだけで包まれるようで、以後、こっそり印刷してブロマイドのようにして大切にしている。ジェネシスの伝授の際には、皆さんにもお見せしているし、アルガンザの内輪では「校長先生」と呼ばれている・・。この「一目惚れ」とはもちろん、師匠として、ということ。。

何故だか日本語に訳された書籍が、実際の業績の割には少なく、その背景なのか、様々な「問題点」を指摘されたり批判されたりしてきた当時の空気感が、何となく今でも、後世の私たちの時代でも、出版関係者等を迷わせるのかもしれない、と思ったりする。チャクラの概念を、インドのヨーガに学びながら西洋に分かりやすく説明し、オーラの層やチャクラが7つあり、こんな色をしているとか、それぞれの性質とか・・を、最初に整理し、提示し、紹介したのがこの方なのだ。

エーテル体、というのはインド思想にも示されていないものを、この方が、肉体の一部でありながら物質ではない層として、概念化した。

アリス・ベイリーの素晴らしい仕事も、土台としてはこの、リードビーターの偉業の上に積み重ねられたものだ。

数少ない邦訳書の中で、有名な『チャクラ』の巻末、訳者の先生方による「解説」に、非常に詳しい経歴や神智学のあゆみ、業績や人生について記されている。以前読んだ時に、協会内でも批判や嫌疑が浮上して、それも長期的に・・ 人望がある一方で、どうも叩かれてしまう方であったよう。

60代で、支持者からも「はっきりさせて欲しい」という声が上がり、法廷で争われた結果、無罪となり、疑いは晴れたそうだけど、最近読んだ現代のイギリス人の女性が書いたヨーガ系の情報本で、「リードビーターは小児性愛者」と書かれていて(!)、その他の情報ソースでも、彼が見出したクリシュナムルティや、その他の才能ある少年たちに対して、良からぬ事をしたという記述を以前、見た事があるのを思い出した。

以前、「チャクラ」の解説で裁判の話を読んだ時には、以下のような文章が添えられていた。

「この間(裁判沙汰の当時)彼のとった態度は、リードビーターの人柄をよく示している。彼は非難に対して一言も弁明せず、攻撃する人たちを怨むような態度も全くなかった。彼をよく知る人たちは、彼のその態度は忍耐の結果ではなくて、率直で純粋な性格によるものだと言っている。殉教者ぶる気持ちは全くなく、協会の大きな目的だけを考えていた」(「神智学協会小史」から)

私はこの一文を素直に読んで、マイケル・ジャクソンと同じ様に、何らかの理由で「小児性愛者」に仕立て上げられてしまったのだろうと、思ってきた。

けれど、書籍として販売されている情報源や、ネットで出てくる目立つ記述の中で、決め付けられているかのように書かれているのを見かけると、改めてショックを受け、フレームの中に入っている「校長先生」に、このところ心で語り掛けていた。。

情報というのは本当に曲者で、聞いた人には真偽を確かめる前に偏見を植え付けてしまい、そして何故かそれを完全にぬぐい去る事は難しい。イメージを残してしまうのだ。

まして、この、神秘の追求という世界に潜むよからぬエネルギーのこと、ネットワークについて、また、不意に誰か隙のある人の中にそれらが「舞い降りて」来て、仲間だと思っていたような身近な範囲の人が、攻撃要員に変わってしまう事が起こりうる、という事が、端くれながら私も体験や見聞から分かっている。スピだけではなく例えば韓流時代劇でもよくあるでしょ・・・相手を落としたい時、仕事の邪魔をしたい時、非常によくある手口でもある。

そして、あまり深く考えない大衆的な層には、真偽はどうであれ、偏見を植え付けてしまう。

私の主観として、「師匠」を信じることにしたい。生涯独身だったようだから、同性愛者であった可能性は(純粋な瞳の輝きからしても)察せられる。そんな彼が、インドで少年たちを次々と見出して、イギリスにおいて高等教育を受けさせるというプロジェクトを行っていて、指導していた神智学協会の青年たちによからぬ事を教えた(これはクンダリーニの暴走にまつわる性エネルギーの問題に関する情報を教えた、という事だと思ってもいる)などの、状況が起きていたために、

何らかの理由で彼を陥れたい、という人物や集団、あるいは「チャクラ」「オーラ」などの人類が賢くなる知恵を西洋社会に広めるという彼の偉業を邪魔するために働いた見えないエネルギーが、闇が光を潰そうとする時に行う方法論で、地上に居る人間たちを動かし、彼の仕事を封じようとしたのかもしれない。

そして、100年近く経過した今でも「小児性愛者」なんて書かれてしまうような、流れが生まれてしまったのかも。ブラバツキーやアニー・ベサント、後のアリス・ベイリーには起こらなかった?そのようなスキャンダル戦法?が、彼に起きたのは、同性愛者?、あるいはそう思われる空気や状況があった事が、隙になってしまったのかもしれない。

当時(欧米の一部の国では)同性愛者というだけで「罪人」として投獄されたという状況は、悲劇の天才アラン・チューリングに関してもよく語られる。(後述)

いや、真相は分からない。同性愛はその人の自由であるし、ある種、魂のカルマであることを神智学も伝えているから、問題視すべきではもちろん無いけれど、「小児・・」はマズい。どうしても、晩年の肖像からしてそれは結びつかない。幼い弟を、暴徒に襲われるという悲劇で亡くしていて、自身もオクスフォード進学の予定を、父親の経済的破綻ゆえに断念して、聖職者の道へ。

そのような経緯があったために、縁が出来たインドで、才能があっても貧しい少年たちに、教育を受けさせたいと願って、実行したのではないかと、思いたい。インド滞在中の使用人の少年を、進学させるために自身もわざわざイギリスに帰国して、出版社で勤務してお金を稼ぐ様な事をしている。幼い子に強要するような自分勝手な人が、そのような事をわざわざするだろうか??

クリシュナムルティとのすれ違いなどが、リードビーターの印象を悪くしているのは恐らくあるだろう。

読書から、こんなことを考えていた最近。それがまたいつものようにシンクロニシティで、たまたまNHKオンデマンドを覗いて、何となく見始めた『ヒューマニエンス–40億年のたくらみ』の「数字」の回の後半、リードビーターが亡くなる1930年代に、イギリスのアラン・チューリングという数学者が、今のコンピューターの元になっている二進法によるデジタル概念を発明し、後にナチスの暗号を解読するという活躍をしながらも、

同性愛者であったために「有罪」となり、ホルモン治療などを強要され、41歳で自死したというエピソードを知った。マイケル・ジャクソンも同じくだけど、この世に生まれ落ちてくれ、偉業を成し遂げてくれている天才たちを、なぜそんな形で早死にさせてしまうのだろうか・・・と。これこそが人間社会に発生する闇の力であるし、多くの人間がその恩恵を受けていながらも、そんな天才たちを守り救うことが出来ずに悲劇に追いやってしまう。

死後、認められる才能と偉業。・・そして無罪であったこと、純粋で優しい魂にひどい扱いをした人間社会の実態に、人々は後で気づく。

チューリングは、今現在のイギリスの新50ポンド(2021年〜)紙幣になっているようで。

師匠、リードビーターの「汚名」は晴れるだろうか。それとも・・? 当時裁判所は「詳しく調査」した結果、無罪判決を下したらしい。けれど、そうとは思えない「伝承」が今でも平然と見受けられる。チャクラについての見解も、インドの専門家によって誤りがある、と判定されている部分はあるそうで、それは仕方ないと思うけど、、、どこかで読んだ情報では「チャネリング情報が間違っている」と批判されていた。

・・・けれど、著名な作家でも研究者でも、その当時の見解で記録するだろうし誤りが見つかることだってあるだろう。増してチャネリングや透視が「間違っている」との批判を受けるという神秘家も、珍しいのではないかと思う。冷静に考えるとやはり、とても、何か不当な扱いを受けてしまっている「師匠」の事情が見えてくるばかり。何かあるのだろう、あったのだろう、きっと。(もちろん欠点や落ち度も、人間だからあったのだろうけれど・・)

そして何故に私はこんなにも、心を向けているのだろう。と、考えながら今日も「校長」の肖像写真を見つめる。

チューリングの映画「イミテーションゲーム」を見てみようかな。

Love and Grace

参考文献:

『The Chakras チャクラ』C. リードビーター(本山博 湯浅泰雄/平河出版社)