人はどこまで恐れるのか–「 箱舟の7年」

最終年度としてのマスタークラス2つが始まった。土曜日、石巫女アースワーク専科でのアルプス水晶たちと、上は翌日曜日の、星巫女プロ専科コース、終了後の空。

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普段はテレビをほとんど見ない我が家は、数年来、食事時にだけ「英語を聞いていたい」という理由で、主にイギリス英語を喋っているDVDを見るのが常。何度かブログに書いた「Game of Thrones」や「ダウントンアビー」(どちらも世界的大ヒットドラマ)が、1話の時間が食事時にちょうど良いのと、超大作なので連続して日常的に流す用途に向いているので、登場することが多く。

前者はアメリカのドラマとして知られている訳だけど、俳優陣や裏方の技術スタッフなどはイギリスが中心。伝統的に歴史物の製作技術がある故だろうし、そもそも監督や原作者にもこだわりがあるよう。架空の大陸ウェスタロスの7王国の攻防を描くドラマで、それぞれの国や地域の役柄により、俳優たちの起用、そこで話す訛りなどを、イギリス各地の訛りに置き換えて、配役しているのだとか。色々なイギリス英語を聴く、それをストーリーとともに楽しめる作品。

で、最近は「ダウントン」を見ていて・・思ったこと。百年前のイギリスの伯爵家を舞台に、使用人や伯爵一家(三人の娘とその配偶者たち)や周辺の人々の日常を描く群像劇。社会的地位や立場も様々で、世代も四世代に渡る。貴賎を問わず、保守的で伝統を重んじようとする人々と、貴族制が崩壊しつつある時代の気風を感じている人々、その両者の間でうまくバランスしている人も、様々。

連続ドラマ故に、これでもかと問題が起きていく。そして解決も起きていく。でもまた次の問題が・・と。或る意味で長編ドラマは一山超えて終わってしまう映画に比べて、人間についての学びのエッセンスがある。自分でも『ガイアナ神謡集』を有料メルマガで出していた十二年前、毎週毎週の配信なので、最後に「ええ?次はどうなるの?」という終わり方をしてみたりする、ドラマ製作者の気持ちを味わっていた(笑)。同作は本当に、連続ドラマ並みに問題、試練が次々と起こる。。。

その、問題を生み出す神?の目線になってみると、結局、トラブルを起こすものは何かというと、天災などを除くと、やはり誰かの恐れの作動による。一見恐れに見えないものも、核を探して行けば、結局は恐れの種がある。人間の本能が恐れを知ったときから、それは始まっている。

ドラマを観る側、小説を読む側(そして書く側も)としては、恐れがあるから人間界のドラマとは展開される訳で、その反動としての喜びや愛とともに綴ることで、人々が感動したり共鳴したりする。ドラマを成立させるためには、恐れとはある意味で人の本性として存在している。が、自分自身の身になって考えてみると、どうなのでしょう。アップダウンや連続して起きるトラブルなどなく、穏やかに突き抜けて存在していることも、この世界で可能。それを望んでいる人や、そこに押し出される、押し上げられる人々も居る。「ガイアナ」の主人公も、最終巻ではそこに抜けていく。もはや何が起きてどうなろうとも、動じない、内なる衝動として何も起こらないという自分が、出来上がっていく。

人はどこまで恐れるのか。。。翻弄され、喜びや感動とともに苦しみや葛藤や摩擦を味わいたいうちは、恐れ続けるのだろう。魂がまだ良しと言わないのか、パーソナリティがまだ、味わい足りないと思っているのか。「恐れは幻想である」と受け入れた瞬間から、世界は変わるものですが、恐れは幻想なんだということを、受け入れられない自分があるならば、そこは見つめてあげて、声を聞いてあげる必要がある。

先日の石巫女クラスの最中、生徒さんが持っていた石井ゆかりさんの「星ダイヤリー」に「宇宙船やノアの箱船に乗り込むような約7年のスタート」との文言があり、去年から何度か書いていた、神智学に言う2025年の第四光線(テーマは統合と調和)の到来に向けて、今年から7年間、その光線を受け入れるための準備が人類の側でも起きるのだろうということ、そしてアルガンザでは昨年3月に迎え入れた10キロのマスタークリスタルが「箱船」と名乗っていることとも通じ、皆で「わあ!」と驚いていたところ。ちなみに、今日、5月16日がその始まりのよう。。石井さんの著書やサイトを、更に見てみようかな。

そして私が思うのは、これからの7年の変容というのは、神智学の7のサイクルを考えると、一年ごとに7段階に別れているのではないかと思う。1年ずつ、振るわれていくような?箱船というのは、そういうことだろう。周波数で分けられていくような。。「高ければ良いという意味ではない」と言いたい所だけれど、宇宙は数字で動くので、やはり数値で道が別れて行く。これを言い換えると、「いかに恐れを削ぎ落とすか」ということに、なるのではないかと。

そうそう 恐れと言えば、4月半ばに面白い体験をして、そのうちに書こうと思っていたこと。用事までに時間が空いたので、ふらっと立寄った本屋さんで、何となくウロウロして立ち止まった場所で、光るように存在が目に入ったのが鏡リュウジさんの「・・座の君へ」シリーズの、なぜか水瓶座と双子座だけが、代表して2冊棚に並んでいる様子。で、前から知ってはいたものの、タイミングというか導きを感じて買おうと思いたち、横で娘が「私(双子座)はもう持ってる。ママが買ってくれた。」というので(笑!よく忘れるんです)、自分の水瓶座を買って、その後用事に出かけた。

とある場所で、呼ばれるのを待っている間、あまりにも「普通」と状況や様子が違うので、さすがの私も不安がよぎった。驚くほど恐れの反応が出て、身体が強張るほど。で、気をとり直して「さっき買った鏡さんの本でも読んでいよう」と、開いたページに出ていた言葉、

「水瓶座の人は迷ったとき、『変なもの』を選ぶとうまく行く」

と来た。一人でふっと笑いを漏らし、そうだったそうだったと、我に帰る。実はその施設を選ぶ時に、ネット検索をしていて、いかにもという感じの輝かしい風を醸し出している一見華やかに見えるところが沢山、並んでいて、「一般の人はこういうのを見てそのまま受け取るのだろうな」と達観しながら、自分はネットの仕組みや背後を色々と頭で巡らせ、本物で間違いないところを選ぼうといくつか検索の仕方を工夫し、最後にはオーナーさんの顔で決めるという、いつもやる方法で決めたのだった。

なのに、実際に行ってみると、そのオーナーさんのシステムが余りにも「前例がない」ものだったので、たじろいだ。自分で直観を働かせて選んだはずなのに、それも忘れて。鏡さんの本、ありがとう&うちのガイドたちは凄い。と笑いながら、待ち時間で一冊を読み終えると「多数決の反対を選ぶ」「組織じゃなくネットワークを作る」など、ちょうど自分が昨年から今年、改めて仕事のアイデンティティを模索していた中で、自分の個性という原点に立ち返りながら感じていたことと、気持ちよく合致。

あなたの水瓶のなかには、無限の発想が詰まっている。しかも、ただのひらめきじゃない。宇宙から地球を眺めるような客観性。ゼロから新しいものを作り上げるクリエイティビティ。最初は反対だった人をも惹きつけていくストーリー。

水瓶座が中心にいる世界は、フラットで自由だ。それぞれが自分なりの個性を大切にしながら、手を結び合うこともできる世界。変化は偶然、起きるんじゃない。あなたが、変えるんだ。

「なぜ?」「こんなのおかしい!」そのささやきを、言葉に、形にして。奇人変人? 宇宙人みたい? その通り。だけど、新しい世界の扉を開いて来たのは、奇人変人、宇宙人たちだ。

『水瓶座の君へ』(鏡リュウジ/サンクチュアリ出版)

ここ数ヶ月、まさに自分でも問い直し、確認し直したことでもあった。ウンウンと頷きながら、鏡先生に感謝。多分このシリーズは、どの星座においてもその本質を大事にしていれば大丈夫と、背中を押すようなコンセプトなのではないかな。

そしてその日の、誰もやっていないようなシステムで仕事をしているオーナーさんは、私が咄嗟に発動した恐れのフィルターを通しては「人と違っていてアヤシイ?」だったものが、そのフィルターを外して我にかえると、それなりに自分が選んだだけあって、「すごく風変わりだけど全責任を自分で背負って一人でやってのけている達人」であった。。そう、私がセレクトの指針にしたお顔といえば、やはりお坊さんのような空気。変わっている事を、変わっている事がやりにくい日本という土壌で、それもサービス業なのに、あえてリスクを引き受けて、自分が正しいと思うことを実践している。社会にはおかしな習慣や思い込みや盲点が沢山あり、恐らくそれを一切排除し、一見不器用なようで、結果としてうまく現実を示しているというケースなのだと思った。

私がそのように安心すると、さっきまで人気(ひとけ)がなく静まり返り、外の天気も悪くてどんより暗く、いかにも不安になるような空気だったのが、急に「人の紹介で」という客からの電話や、次のお客さんが次々と。そしてオーナーさんが慕われ尊敬されているのが伝わってくる空気に変わった。外の雨さえ上がってしまった。。。笑

人は恐れを見ようと思えば本当に、無いところにさも恐れの要素があるような現象化をしてしまう。もうあまり恐れることも日常的には無い自分も、この体験は象徴的で、学びの要素を感じて笑ってしまった。この直前に鏡さんの「水瓶座・・」を買っていたことも含め、よく出来ている演出だった。そのオーナーさんも水瓶座かもしれない。業界や、社会の常識がおかしいと思ったら、行動してしまう。ある意味、革命家なのだ。シュタイナー学校にも、確率として先生や親などに水瓶座が多めな気がしている。世間の常識にこだわっていたら、ああいう学校に、それもリスクもある中でわざわざ子供を入れない。。。

今日からスタートするという「箱舟の7年」が、神智学でいう2025年以後の人類の上昇孤の進化、調和的なあり方への社会の変容への準備として用意されているとすると(人類進化を影ながら管理している世界は、実はアストロロジーのプログラミングの『製作者』でもありますから・・)これまで私たちを縛り付けつつ、飼い慣らすことで安住させて来たシステムがどんどん崩れ、本質、個々の力が生きる世界へスライドしていくのでしょう。

意識やエネルギーの放つ周波数で、どの程度、その変容の波に乗れているかを、一年サイクルで分類分けして、7年後に向けて送る刺激を、セクションごとに実験的に変えていく、強めにする、どうにも目覚めなければ大地変などもありうるかも?と、進化の管理者たちは箱舟プロジェクトに着手しているのかもしれない・・・ただ、ここで乗れる乗れないと二つに振り分けられるのではなく、それぞれの箱舟に分類されるのではないか。そしてその軸になるのは「恐れの解放」による、意識指数の上昇であるのだろうと感じている。意識が低いと、第四光線は受け入れられないのだろうし、意識の進化を止めるのは、エゴの抵抗つまり恐れなのだから。

選択に迷った時、恐れからの行動を取っていると、「恐れ指数」の高い箱舟から降りることが出来ず、また違うところに居たのにそこに戻され、同じ恐れをさらに克服のために繰り返し見せられるのかも。。

「あなたの小ささからではなく、あなたの大きさから、行動しなさい」

これはヨーガ哲学の中で見た言葉だったかな。

そこが試される7年である、ということだ。毎年分類されるような感じがあるのは、やり直し、階層の選び直しも7年の猶予が与えられているということかもしれない。何れにせよ、100年に一度あるかないかの、人類進化のプロジェクトの今後の方向性に触れる、7年になりそうだ。

Love and Grace,

Amari

秘密の花園– 再生の力

先日書いた「敬愛なるベートベン」と、同じ監督作品ということで久しぶりに見ていた「秘密の花園」。製作総指揮という形で巨匠・コッポラが関わっている。原作は有名な児童文学で知っている人も多いとでしょうけれど・・ざっとストーリーを。

インド駐在イギリス貴族の家柄で、お姫様のように育った、けれどパーティ三昧の両親には放っておかれ、「泣いたことのない」少女メアリー。インドの地震で両親が亡くなり、イギリスの親戚の伯爵家へ引き取られることになる。そのクレイブン伯爵は愛する妻(メアリの母の双子の妹)を数年前に亡くして以来、心に愛も希望もなく、ほとんど鬱状態。実は妻が残した息子コリン(メアリの従兄弟)が居るが、病気だからと部屋に幽閉状態。コリンは生まれて一度も歩いたことがない。

コリンの存在はメアリには隠されていて、屋敷は伯爵の心象を表すように重くて暗い空気に包まれている。メアリの叔母が大切にしていた花園は、あるじの急逝により扉が閉じられ、鍵がかけられ「封印」され、植物たちは枯れ果てている。

ポニーに乗った近所の庶民の少年ディコンは、まるで小さなお爺さん、長老のような存在感を見せる。メアリと、コリンをさりげなく支え導き、メアリは少女の中にある母性を開花させ従兄弟のコリンを癒し励まし、大人たちに「封じられ」部屋から出たことのない、歩いたことさえないコリンを外の世界へ。。。大人たちの手厚い配慮で歩けなく「されていた」コリンは、メアリとディコンの、知識ではない直感的な導き(=子供ゆえの純粋さだからこそキャッチできる魂からの知恵の降下とも言えるだろう)で生命力を取り戻して行く。

彼は実際には病気ではなく、大人たちの知らないところで、歩けるようにさえなって行く。ディコンは上流階級の姫・王子であるメアリやコリンが負っている傷や重さとは無縁で、ただまっすぐに大地のように、太陽のように存在している。自分の欲望や不満などはなく、メアリ、コリン、伯爵が癒されて行く過程を遠い位置から見届けると、満足したように微笑み、ポニーに乗って去っていく・・不思議な少年だ。

少年の脆さをコリンが、少女の強さと母性をメアリが、それぞれの双子の母からの流れを象徴するように体現する。この二人は同じように傷を追った、貴族の少年と少女。対のようでもある。そして、同じく病んでしまった伯爵・・・コリンの父親は、メアリとの出会い、彼女が中心となって死んだ花園を蘇らせるという子供3人の密かなプロジェクトにより、長い鬱状態から目を覚ます。

コリンとの親子の再会。そう、同じ屋敷にいながらも、同じ世界にはいなかった。伯爵の時間は妻の死とともに停止し、コリンは封じられ、花園と同じく生命力を無いものとされていた。メアリという女性性、母性が入って来たことから、死んだ花園は蘇り、伯爵は目を覚まし、コリンはようやく生きることになった。その時に初めて、複雑な想いが入り混じったメアリは涙を流す・・・初めて泣いた。伯爵は長い間忘れていた笑顔を取り戻した。

子供たち3人の手で、再生された花園に満ちる新たな生命力。行き交う動物たち。生きるということ、命、育む力、育つということ。太陽、笑顔、そして涙。その当たり前のような営みが失われていた伯爵家に、全てが戻った。使用人たちも、喜ぶ。

使用人の人々は、結局は主人、ロゴスである伯爵とその息子のコリンの指示を受けるばかりで、女主人を失って以来、生命活動を止められた屋敷の陰鬱な空気をただ受け入れて、働き続ける。ロゴスである伯爵を目覚めさせるには、メアリが必要だった。女性性、女神の再生の力、豊穣の力が、少女であるメアリから発動したのだろう。

女主人の死により封印された花園、伯爵の心、息子であるコリンの生命力。

メアリの両親の死という現実からの、彼女の旅の始まり。逆・英雄譚。世界の神話には度々、少女や幼い姫が冒険を強いられ、難局を打開していく物語がある。伯爵、コリン、花園、屋敷の人々・・・が、その良き影響を受け、命を取り戻していく。

ただ、メアリの背後には、それらの成り行きを全て見通しているような不思議な少年、ディコンがいる。動物たちとも話せるようだ・・・まさに長老。アーサー王伝説でいうマーリンの少年版のよう。さらに上の階層のロゴス、といったところだろう。

先日触れた「青い鳥」と同じく児童文学が原作ですが・・・子供の頃も、大人になってからも、小説や文学作品を読むことがほとんどない私なので、映画の美しい表現に感じ入るものがあった。皆さん、とうによく知っているお話であれば申し訳ないなあと思いつつ。。。

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最近は、非二元、ノンデュアリティが話題として流行りのようだけど、では二元とはなんぞやというと、善悪などのモラリティではなく、生命を生み育む力と、その逆、枯れさせ萎えさせる力、と、アルガンザでは定義している。闇の力というのは、本来そういうものであると。闇=病み ゆえに。どうせならば育み、元気にしていく道を選択して行きたいもの。「愛」も然りで、活性し、癒し、アニメイトすることで創造を行っていく、維持していくのが宇宙的な愛のエナジーであるし、それはただ一つの宇宙の法則であると言える。

Love and Grace,

Amari

疾駆する魂・ベートーベン『大フーガ』

アニエスカ・ホランド監督作品、『Copying Beethoven』(邦題:敬愛なるベートーベン)は何年か前にも一度、ブログに書いた気がする。久しぶりに観たら、以前よりも深く面白さを感じ、また監督の目線のようなものも前よりスッと自分に入って来て、我が家にある同監督のもう一つの作品『秘密の花園』も改めて見てみた。こちらもなかなか奥深くて、魅せられるものがある。

まずはベートーベン。原題にある「Copying」はこの映画のヒロインであるアンナという女性の「写譜師」=copyist という立場から来ている。作曲家が書いた楽譜を清書する仕事のようで、音楽のプロとしての知識が必要。そして作曲家との共同作業でもあるから、息が合う・その作曲家を深く理解している、などの条件が必要になると思われる。が、残念ながら、ダイアン・クルーガー演じるアンナは架空の人物。

大叔母が長を務める修道院に下宿する真面目で優秀な音楽学校の生徒であるアンナ。設計士を目指す恋人も真面目で堅物そうな印象。すでに晩年に差し掛かり(50代)、代表作である『第九』の発表を目前にしたベートベンの写譜師として紹介されたアンナは、尊敬する作曲家を前に、荒々しい性格のベートベンに怯えながらも、女性特有の母性的な人間愛と、敬愛をうまく統合しながら、ベートベンの良き理解者・仕事のパートナーとなって行く。

エド・ハリスが演じるベートーベンは不器用でしょうもない所も多々あるけど天才とはこういうもの、と感じさせ魅力的。透き通るようなアンナの美しさもこの映画を見ている中で清々しい風のようで、監督のタッチとダイアン・クルーガーの女優としての性質がうまく共鳴しているように感じる。

映画の見所として、ブタペストの劇場でオーケストラと合唱団と観客を用意してノンストップで撮影されている『第九』の初演があげられることが多い。確かに圧巻と言えるシーンではある。彼を揶揄していた人々も皆、作品の余りの素晴らしさに涙するというのも、見ていて伝わってくる。この現場に居たら誰もがそうなるだろうな、と。当時、大合唱団を交響曲の中に組み込むなんてことはあり得なかったよう。

特に晩年のベートーベンは、「普通ではやらない」ことを実行し、それまでの支持者を失ったり、聴衆は付いていけなくなり、映画でも描かれている『第九』の後の弦楽四十奏『大フーガ』の受けは惨憺たるものだったよう。。。時代を数十年、ひとり駆け抜けていたようだ。その作品が正当な評価を得たのは、20世紀に入ってから。現代では高く評価され、現代音楽への影響も少なからずと言われている。

第九のシーンは確かに素晴らしい。けれど、映画の中盤でさらっと終わって行く。その後、「大フーガ」に取り掛かるベートーベンがアンナに意見を求めると、「美しくないです。」と返ってくる。不協和音や、あえてズレて行くテンポ。当時の古典音楽においては考えられない発想と試みの数々は、結果的に、その後のロマン主義を呼び起こす力となった。ロマン派音楽というのは、より感情表現を乗せるために演奏する側の技能は高度なものが求められるようになっていったよう。間違いなく、「大フーガ」はその動きへの促進剤になったはず。

私は若い頃にぶつけどころのない、得体のしれない熱や情動のようなもののはけ口として、ハードロックやヘヴィメタルを好んで聴いていて・・それと同じような理由で30代、執筆活動をする時には必ず、ベートーベンのピアノソナタ(特に「ワルトシュタイン」)がBGMの定番だった(笑)。今、『大フーガ』は同じようなものを感じさせてくれる。

久しぶりに観たこの映画で、改めて印象的だった幾つか。人々に理解されない、人々が求めるものと、自分の立つ境地が大きく違っているのを承知しているベートーベンは、アンナを相手に本心を吐露する。「理解できないなら(聴衆の方が)想像力を高めればいい」・・まるで、「パンが無いならケーキを食べれば?」(マリーアントワネット)と同じような物言いだけれど。芸術家も一人の人間。自分が追求したいものを追求し、常に新たな境地を目指し続け、それを表現したいのは当然だろう。若い頃から天才として遇されパトロンたちの要求に応え続けて来たのだから、尚更のこと。

というか、そのような態度でなければ、死んだものしか生み出されない。一見、その時代の聴衆心理・大衆心理には心地よいものが生まれるかもしれない。それによって生活が安定するかもしれない。作曲家自身も楽だろう・・・・・が、それは本当の芸術ではない。自分自身が生み出したいもの、その時に到達できる最上のエネルギーでなければ、当人が満足することはないだろうし、一時の評価を得られたとしても、すぐに忘れ去られるようなものとなっていくだろう。それは本来、芸術ではなく、言ってみれば・・・商品だ。

本物の芸術家ほど、出せるものを全て出し尽くそうとするから、芸術以外の要素では苦労する。孤独な求道者としての道。

「神と私は完全に理解しあえる」・・映画の中でも神との繋がりを信頼していることを表すセリフが何度も出てくる。自分の仕事が神がかったものであることを信頼し切っていたからこそ、聴衆の意見を無視する、という態度が貫かれていたのかも。やっと見つけた、自分の音楽を理解し、寄り添ってくれる助手としてのアンナ。彼女も奇抜なベートーベンの天才振りに、真面目な優等生としてベートーベンを真似た作曲しか出来なかったところから、少しずつ変わり始める(頭の硬い恋人とはおそらく別れる・・笑)。

「この曲(大フーガ)は、未来の音楽への架け橋だ。この橋を渡れば、君にも新しい扉が開く」とアンナに諭す。アンナの曲については「君は私になろうとしている。ベートベンは一人いればいい。」

印象的なラストは、「大フーガ」発表後まもなく世を去ったベートベンを思いながら、喪服姿のアンナが一人、草原を歩いていく後ろ姿。彼女はおそらく、これからの人生でその橋を渡った先の、自らの魂から溢れ出す表現を生み出していくのだろうと、予感させる。

アンナのような理解者・同志が、芸術家の人生で一人二人でも、居ればいいのだろうなと。けれどアンナは架空の女性。実際のベートベンの人生に、そんな人が一人でも居たのだろうか、居たのならいいな、と思いながら、単に第九の圧巻シーンが目的では無い、この映画の深さにジワジワと感動していた。

そうそう、映画の冒頭にはベートベンの死の間際のシーンが挿入されている。駆けつけるアンナの中に第フーガが流れ込んできて、ようやく彼女の中で全霊で、その作品のエナジーが理解される瞬間が来る。それを、死の床に居るベートベンに告げることも出来た。「マエストロと同じように、私も大フーガを聴きました!」

敬愛するベートベンが逝ってしまうという瀬戸際、自分の全存在を持って馬車で疾駆するその祈りの高まりの中で、頭ではなく、魂でアンナは「大フーガ」を聴いた。それと自身が一体となり、世界の全てが大フーガとなった・・・

これは、「第九」で聴衆が総立ちで涙したことよりも、感動的で重要なシーンである。だからこそ、時系列ではなく、映画の冒頭の数分間に挟まれている。芸術家にとっては、数百人の聴衆のウケよりも、たった一人でも魂から理解してくれる人の存在が意味を持つ。監督自身の投影が、アンナであり、ベートベンでもあるのかもしれない。そんなことも思った。

Love and Grace,

Amari