転生の宿題


どの教師も、教え子が割り当てられた課題学習に直向きに取り組んだ時は嬉しいもので、後にその気持ちを思い出すことがある。だが、注意散漫や無関心で時間を無駄にする御し難い子供を授業に向かわせるときに感じる気の滅入りも、鮮明に思い出すものだ。この現在界という世界学校では、私たちの多くがこんな程度の悪い子供たちと似たり寄ったりであり、それこそ、自然の摂理が私たちを学習させるために、時として過酷な経験という処罰を執行せざるを得ない理由の一つなのである。だから、無為に日々を過ごすことなく、常に珠玉の教えを探し求めるならば、この上ない幸福が私たちに訪れるのである。何事も偶然には起こらない。全ての物、全ての出来事に極めつけの目的が。私たちのやるべきことは、その目的を見つけ、それから何らかの教訓を得ることである。それができなければ、少しばかり形を変えて、繰り返し同じ経験をすることになる。私たちがなすべきことを為すまでは。

Irvine S. Cooper 『神智学入門』(アルテ/星雲社

最近持ち歩いて読んでいたこの本。そう、「入門」なんて今更に変だよね・・それも初めて読む。長いこと本棚図書館の一部分に。神智学の初見はアリスベイリー書籍をテーマごとにダイジェストでまとめたシリーズ。それからアリスベイリー他、更に先人たちの著作を、目的に応じてその時々、部分的に。私はあまりどの分野でも「入門」や、間接的な解説本を読むことはなく、創始者とか、より情報の源泉に近い人を直撃して読む。それも部分的に。丁寧に読み込んで、更に繰り返し読む人が本当の読書家なんだろ

う。私の場合は自分のその時々の知りたいことを調べるために本を手に取る。研究者的な癖を(ソウルが)持っているのだろうと思ふ。
そしてこちらのCooper氏がどういう人かも深く考えず、移動中などに読む本としてアリス〜よりは読みやすいかなとカバンに。どのページを開いても、自分が普通に考えていること、これまでブログやテキストや色々な場所に書いてきているお決まりのこと、最近も考えたり書いていたことと同じ内容ばかりが見つかり、不思議な感じがしている。20世紀で神智学を知らしめるにあたって、西洋人にはまず輪廻転生や、カルマの法則を教えなくてはならないから、その辺りで丁寧な比喩を使ったり・・結果、表現や感性が通じるものがあるのかもしれない。

更にこの著者は19世紀末生まれで、リードビーターの秘書であったことを知る。その頃に生きていた自覚と、神智学協会に西洋人として関わっていた気がムンムンとしている私としては、「では、知り合いかも?」・・なんて思ったりもした(笑)。今の自分の感性、「当然だと思っていた」けど20〜21世紀の日本人的にはどうもズレが生じがちな(笑)スピリチュアル観、のようなものを、やはりこの時代、この分野の経験で身につけ、刻み、それを今も携えているのだろうと改めて思う。

ただ、一つ違うことは、自分の使命のようなものとして、神智学的なこと、古来の叡智(インド哲学や仏教など)を、やはりこれからの時代向けにリニューアル、改訂を加えて形にするという事が、自分なりにソウルが歩みを進めてやって来ている、かつ、今世生きてきて道に迷う事なく(多少はフラフラしつつ大筋は)辿り着けている「目的」であると改めて確認する。

同著によると、人の魂は40〜60年サイクルで生まれ変わるということだ。霊的に進化していると更にサイクルは長くなるらしい。そして生まれ変わるたびにスピリチュアルな仕事の続きに取り掛かるのだとか。(芸術家や学者、今の時代ならば映画制作者や作家もそこに含まれるかも。カルチャーの中で霊的なものを追求し世に示していく。)

19世紀末〜20世紀初頭の神智学ムーブメントは、現文明が始まって以来、西洋と東洋の叡智が時を待って結集し、賢人たちが新時代(ニューエイジ)の始まりを興奮と共に感じながら、グローバル化していく世界の(世界大戦と時を同じくしながら)中で、まとめ上げていった大仕事、だったと・・本当に凄い事だった・・と感じる。同じような力を背景に、この世界と舞台裏を行ったり来たりしながら、仲間たちと一緒に、時にはすれ違ったりしながら、あの時、それまでの努力が「神智学」として結集された。

思想的には、まだその余波の中にあるのかもしれない。学者の方々が、「こうなのだろうか」という話し合いをしている様子を見るにつけいつも「神智学を読めば良いのに」「すべて解決しますよ」と心の中で思う。。。(笑)。。。まあ、そこがミソなんでしょうね。一筋縄では行かない。「私たちが、成すべきことを成すまでは」

Love and Grace
Amari

情報で闘う時代=風の時代?

前にこの日記にも書いた記憶がある。NHKの番組を見た流れで・・「人間は情報である」という量子物理学の考え方について。実感としてこれはとても分かる。エナジーワーカーとして、また自分自身の元々持っている感覚からも、情報の集まりがソウルシステムであり、その情報が肉体レベル、可視の三次元の物質世界に「顕れて」いるものが、私たちの物質的な(感情や思考も含めて)「現実」である。

ゆえに、情報を変えて行くことで、当然ながら現実も変わる。変えたい部分、体や心の不快な部分(病気、不調、痛み、など)を変えるには、情報レベルでその「設計図」に変化を起こしていく。これがヒーリングということになる。ヒーリングのみならず、ホリスティックな癒しの手法はこのメカニズム。

毎日、空が美しかったりドラマティックだったり、「非凡さ」を感じる最近の空模様。それが時折ではなく、毎日のように。けれど天候や気候は一定せず、絶えず変化して日本の気候も変わったなと実感する。世界各地で、それぞれの「らしさ」とは違う天候や気温や空模様が展開していて、Climate Changeとして、問題意識を持たれている。地球の環境問題だけではなく、時代の変わり目で秘教的な意味での世界の作り替えが起きていて、それが天候不順や、別次元の気配を感じさせる空の様子などに日々、顕れているように思う。

『古代の宇宙人』最近はシーズン7を見ていて、いつもあの番組の内容は「え!?」ではなく「そうですよね」と頷きながら、更に多くの知識をもらって良い刺激になる。ニューエイジでも言われている「人類を取り巻いている様々な思惑を持った『宇宙存在』たち」について、実際に欧米の国家の中枢に居た立場で、退職後にそれが事実であると証言する人々が少なからず居る。人類は知るべきであると・・一部の人々だけが知っているのは良くないことだと。

予定通り・・時に想定外の事象に対処しながら、地球を運営してきた宇宙存在たちは、「人類を自分たちのように進化させよう」というコンセプトを持っている。かたや「愚かで欲深い存在のままにさせておこう」という思惑を持った存在たち、あるいは集団もあるのだろというお話。双方のエネルギーや情報が、地上世界に混淆して、人間たちを通しても現実化される。結果、「上にあるものは下にも」。人間社会も混淆し、それを映した現実が常に三次元でも展開される。

ずっとその歴史は続いている。けれど時代の大きな変わり目、大枠の地球プログラムは予定通り働こうとしていて、それを止めることは出来ないのではないかと思う。運営している「地球の管理者」の領域が、そもそも「時代の変わり目」を設定している訳で、あくまでもその範囲内で、邪魔をする力が介入しつつ、大枠は変えることは出来ないのだろうと個人的には思っている。ただ、そちら(管理者=ロゴス)の情報ではなく、介入して来ているものが発信する情報に、人類の多くが、あるいは重要なポジションの人々が耳を傾けたりすると、結果として「ノアの大洪水」のようになってしまうのだろうと考える。

ただその情報戦・・人類のテクノロジーが発展して、グローバル化し、集合意識を物質化させたようなネットワークが現在はウェブ、それも無線で飛び交う時代。ロゴス側の情報を撹乱させるための、逆向きの操作も佳境、なのではないかと感じる。

一番上に書いたように、「情報」とは何も文字で書かれたもの、だけではない。人間そのものが情報の集まりであり、目に見えない情報も含めて考え、感じなくてはならない。文字で書かれた情報だけではなく、世界を飛び交う周波数、電波のようなレベルでも、「情報の混交」が起きている。それが大気や空に現れているのかもしれない。

私たちが生まれてからの数十年は、長い歴史の観点から見ればずっと「時代の変わり目」の範囲内になるだろう。確証は無いけれど感覚的に、マヤ暦の終わりである2012年末から、「進化」は加速している気がする。マヤ・・・は、ロゴスとは違う(逆向きの)意図を持った力に導かれていたかも?と少し思っている。つまり、プレアデス系。そちらが優勢でいられる=人類の進化をとどめておける時間が、2012年で終わった・・ということ?あくまでも仮説。

その「個人的仮説」に拠れば、進化の切り替えポイントが、2013年からということになる。植民地が返還されたようなことだろうか。歴史を見ていると、「自由」を取り戻した後、しばしその国や民族は混乱する。「風の時代」は、否応なしに人類の次のステップ、意識や霊性を高めていく上昇気流が動き出す。宇宙的背景同士の条約、決め事があったのかもしれない。その期限が切れて、植民地が返還された(?)

けれどまだまだ、前時代の情報の名残と、人間社会がインプットしてしまった、体や心や意識、ソウルシステムにさえ染み込んだ・刻み込んだ「霊性の進化を止められた時代」の情報が私たちを支配していて、社会制度も一瞬では変えられない。時間をかけて、人間も社会も「変換ポイント」を無事に成し遂げる必要がある。

古代の始まりにおいて、人間社会は前文明(アトランティス)の名残り、知識を持っていた。けれど古代社会同士の騒乱の中で、それらの証拠は破壊され、中には文明ごと消息が分からないようなものも。アレクサンドリア、バグダッドなどの大図書館は壊され、中国でも焚書がたびたび行われた。一神教で塗り固められた社会は、超古代の叡智を参照して活用することも、人間の意識を進化させることも封じるような世の中を作っていく。

ルネサンス頃からゆっくりと開花。市民革命、産業革命、帝国主義から始まっていたグローバル化、その行末の世界大戦、その後の復興、物質的に豊かな時代。そして情報化社会、パンデミック。

テクノロジーではなく、霊性の成長、進化ということを自分たちの課題としてどこまで向き合えるか。物質的な社会、欲を満たして恐れを回避する社会構造や気風に、どれほど自分自身の心身魂が馴染んでしまっているか、を自覚し、その幻想を剥がし、剥がして、情報を選んで取り入れる。・・文字になっている情報だけではなく、あらゆる意味での「情報」。

 

 

一昨日の昼間の曇り空と、夕方の晴れ間。

そして、爽やかに晴れていた昨日の空。

長細いシルエットの雲が壮大に広がる空が続く。

生活を根本から見直す、思考的な慣習や自分の属する環境を見直す。自分自身の長年の思い込みや家系や環境から「当たり前」の一部として取り込み固めてその範囲でしか考えたり行動したり感じたり出来なくなっているような、服、あるいは鎧のような「世渡り」「常識」「無難」のエネルギーを見直し、必要に応じて脱ぎ捨てることも、多くの人に必要になるだろう。それを促されるだろう。

感情が言い訳、逃げ道になる時代が長く続いた。けれども感情という重荷を背負っていると、情報化の風の時代に仕掛けられる罠には、易々と捕まってしまいそう。

情報には情報で対処。意識の時代。自分を客観視、必要に応じて(自分自身そして社会の健全さのために)その情報に変化を加えていく。これまでのように感情や「気持ち」ベースで居ると、次々にやってくる変化の波を「試練」と感じて辛くなってしまうことでしょう。

心地良い、変化として、時代の風に乗っていけるように。

Love and Grace

Amari

最大の壁は「じぶん」

 

 

譲れない願いを抱けば誰もが 栄光の影潜む 悪魔に出会う

というのは、海外の小説の・・・ではなく、ももクロちゃんの歌の一節。(以前も何度か動画や呟きをSNSに載せていた『境界のペンデュラム』)この曲の歌詞はなかなか体育会系で(ももクロはそういうのが多い、特に数年前の曲は)神智学と頭の中で響きあったりする(笑)。アリス・ベイリーを読んでいる周波数と、ももクロ。なぜか共鳴する。知識人層や文化人や、業界人や、普段全くアイドルとは縁遠い人たちにもファンが多いという。歌詞だけでなくご本人たちも普通のムスメさんたちではない(魂が)。

悪魔に出会う、とか、闇に堕ちる、とか、言えば大袈裟に聞こえてしまうけど、メタフィジカルを長年やってきて、当初から、そして今でも、ヒーリングを受け始めたばかりの人も、かなり勉強し続けて(中には10年以上とか)来ている人でも、メカニズムは一緒。後にも先にも、「エゴセルフかソウル(魂)か」常に選択はそれだけ。ソウルかエゴか。そこで「境界の」ペンデュラム、振り子がゆらゆらする。そしてまた、エゴセルフをいつだって選ぶことは許されている= 自由意志。

仮に、その自由意志を悪魔や、闇に堕ちること、と想定して考えてみよう。

それはあながち嘘ではなくて、ソウルや、高次から見たらそういうことなのだ。譲れない願い、つまり感情、想い、思い、思考、反応。・・人間、パーソナリティ(人格)部分で選択をすることは、「普通」ではなくて、グレーゾーンなのだ。高次はそれを「ダメ」とは言わない。けれど、宇宙の神レベルの愛、五次元からすれば、常にそこへと回帰する道のりを推奨していて、指し示して、導きを与えている。

苦しい、生きづらい、などの分かりやすい問題や課題を抱えてヒーリングを受けて、五次元的にエネルギーが作用するコツも体感し、それを楽しく感じて、歩み続けていても、折々で「どうしてもこの壁を越えるには、自分が持っている『ある部分』を変えるしかない」という状況にぶつかることがある。脇で客観視しているヒーラーにとってそれは見えるものだけど、自分自身だと中々、素直にそう思えなかったりする。それは当然で、『ある部分』を含めて自分のパーソナリティ。考えるのも理解するのも同じ自分。脳には決まった思考の回路が固定されている。

それゆえに、高次は・・私たちの魂やそのネットワーク、更に背後に働くワンネスの愛の集合場は、私たちが苦しいと感じるような体験を見せてくる。その状況を何とかしようと立ち上がるには、まだ、私たちには苦しい、大変だ、などの感情のモチベーションが必要な世界に生きている。

歩いているその道を、逸れたり、戻ったりすることがもし出来ないとしたら・・・例えば、もう退路が無い。進むしかない。けれど進める状況ではない、と感じて、恐れや諦めが出て来たとしたら。

それでも他に道が無いから、きっとどうにかする方法を考えるものだろう。恐怖で多少、問題が膨らんで見えていたけれど、とか、気づきもあるかもしれない。実際に感情のフィルターは物事を、ありのまま見せることは無く、その感情や、長年の思考の壁が厚ければ厚いほど、違うように見せてしまう。

今まで楽しく進んできた道に、障害が出て来た。それを越えるには、自分の中を見つめて方法を探せという。そんな時は、エゴセルフは最高潮に現実を脚色することに全力を注いでくる。私たちのエゴとは、それくらい自己保存本能が強い。

面白くない時、辛い時、苦しい時ほど、今まで崩せなかった自分の中にある強力な「壁」を認めて、自ら、パーソナリティの改善、改変を意図しなくてはいけない。けれど多くは、その壁を前に、超えなくてもいい方法を考える。無意識にも。自由意志という活路が与えられているから、別の道へと降りていく。または、感傷や虚しさなどの中に逃げていく。

最近、この本を読んでいて、というのも、やはり少し前に書いた記事のタイトル通り「何かが起きて」いて、脳波、耳からの操作に注意、と日々感じるので、ブレインチューナーや石たちを頼りにするとともに、やはりチューニングする先をシリウス、シャンバラにするには A ベイリーだということで。「イニシエーション」を再読して、続いてこちらに入った。

この本で「非人格性」という言葉が繰り返し出てくる。それが大事であると。

日本語にすると誤解されてしまいそう、嫌悪感を持たれそうな言葉だ。要するにエゴセルフでは無く、感情のグラマーや思考のトリックを超えて高次の「弟子」として機能することで、グループとして成立するし、良い仕事が出来るという、新時代(=ニューエイジ)のための 弟子(=真面目な、本物の、ライトワーカー)への、メッセージ。

A.ベイリーを読むといつも思うのは、自分が常に思考していること、その方向性や、実際に選択してやって来ていることの、手がかり、確認作業となる。もちろん失敗することも多々あるけど、それも含めて書いてあったりする・・(笑)

自由意志が与えられているからといって、本当に自由が無限にある、と思ってしまうのは人間界の良くない性質、性癖である。選択したことは来世を待たずして自分に返ってくるし、常に、こうしている今も、どの瞬間であっても、私たちは自分の周波数、心の持ちよう、発するエネルギー、思考や感情に埋もれるか客観視するか、を選択する自由がある。

そして本当に10年、いや20年前から、結局私もいつも同じことをブログやテキストにこうして書き続けているなあ・・と。同じことを、繰り返し繰り返し。そしてこれからもきっと。

Love and Grace

ハコブネ、つづき

突然言うようなことでは無いかもしれないケド・・
恐らく過去生で、「流罪」「流刑」になったことがあると思っている。
それも一度ではないかも。

一般市民をやったことが無い、と、受けたセッションで言われたこともあるくらいだから、きっといつも思想家とか宗教家、革命家とか、ちょっとギリギリな研究をしている??人とか(笑)・・そんな事が多かったのではないかと思う。ごくろうさん。

ヒーラーとしての立場を「引退」し、自分がやってきた(ちょっと特殊な)ヒーリングワークを、私以外の人たちにも担ってもらえるように伝授、そのために形式を整える、テキストを書く、それからプログレッシヴワークというまた別の形式を作る。このあたりまでの特に、プログレッシヴ執筆中の二年ほどの間は、まさにこの「流刑地」を味わっていたのだろうと、今になると思う。当時はそんな自覚なく。

過去生のパターンが現生で、ある一時や、ある仕事に取り組む間に、被るようにミニチュア化して出て来るというのは、恐らく何かを造る、生み出す仕事では起こるものだろうと思う。
歴史大作のドラマや映画なんて、もしかすると俳優さんや監督は本当に、その人物の生まれ変わりかもしれない、とも思ったりする。

とてもとても、ワークを作れるような状態ではありません、という気分になる中、決めたことだから仕上げなくてはいけない。
「自分を整えてから〜」とか言ってられず、
整ってなくても今すぐ、神がかってでも書く。

不遇だからこそ(実際はそうではないのに過去生の記憶でそんな気分になっている)至った境地、湧いてくる想いがあり、けれどゆとりなどなく、ただただ、綴っていく。形にしていく。
まさに、流刑地にあって、淡々と作品を書いている思想家。・・・の気分。
「水星アルカイ」の(執筆)時はまだ、生みの苦しみも少し感じつつ、終えると同時にこの「流刑地」気分は消えた。

そして落ち着いたところでの「レムリアンセイクレッドレイキ」
とはいえ、いつものように、実践篇、気づきを促す体験、大変だった。。。終えてみれば全て、解放のためのプロセス。

テキストの実際的な執筆に入ってからは、スイスイスイ、あっという間。
あ、また本題から逸れはじめている。

タイトルのこと。(前回そこに至らなかったため、二度目の)
「セイクレッドレイキ」のテキストの中で、シャンバラやマヌの視点で一文を書いている時に、突然、思いついた。というより、
既に受け取っていたことが、「ひらめき」という形で顕在化した。
『シャンバラ光の学校』を、もう一度、やろうと思う。遠隔グループセッション。
そんなことはまっっっっったく、これまで考えていなくて、でも何か、この新しいサイトが出来たら、
自分の立場で、自分しか出来ないことをやるのだろう・・とは、思っていた。
まさか、『シャンバラ〜』とは、顕在意識はまるで、想像さえしていなかった。

キッカケの(自分が書いていたテキストの)一文は、

『高次はひとりでも多く、進化の波に載せたい』というものだった。

アルガンザワークを受けた人だけが・・ハコブネに・・とか、そんな事は微塵も考えていなくて、
スピリチュアル、という分野に属している者として、集合意識を持ち上げ、人類が高次の計画とおりに進化を果たしていくために、何が出来るか?と言ったら、いわゆる「ライトワーカー」あるいは、「自分の意識とエネルギーの周波数・質を保ち、周囲にもその影響を及ぼせる人」を増やす。専門分野としてやるべきことは、ここ。

シャンバラ、「神々」、マヌの世界をよく知る(本能的に、記憶として)者として、最初からずっと(子供の頃から)感じていたことだけど、その『計画』はもう決まっていて、人間はその進化プロジェクトの中に在る存在だ。それは、進んでいく。自由意志が与えられているのは、自分たちで考え選択している結果としての、「人類」のあり方を、決めなさいよ、と言われているだけであって、それでずっと、安全に暮らしていけるという訳ではない。

現に、人間界は常に、さまざまな災害、天災、人災に見舞われる。
「神様のいじわるう」という訳ではなく、人類にあたえられている「自由意志」の、常に結果なのだ。

生み出した可愛い子たち、分身たちを、いじめたいわけはなく。大いなる計画の中で、人類が自分たちが何者であるかちゃんと思い出し、忘れたフリなどせずに、与えられている課題に答える、少なくともその努力をする・・ことを望み、見守っている。

特に「マヌ」という役目の魂、存在たち。破壊を、犠牲を、少なく留めたい。そうであって欲しいと、願っている。

私が行うのではなく、「シャンバラ光の学校」は、シャンバラの専門チームが行う。2007年に始まった時、最初からそのスタイルだった。

ネーミングは変える予定。いつから始まるのか、決まり次第、ここ(日記)ではなく、正式な連絡としてブログか、詳細ページをUP予定。

今の自分が事務係をしたら、どんな風になるのだろう。きっと、10年以上前とは違うはず。シャンバラからは、どんな施術やブラッシュアップが来るのだろう。
そして、どんな人々が参加してくれるのだろう。
楽しみであ〜る。

Love and Grace
Amari

今のところは『メタフィジカル』

若い頃から好きな人物の一人が世阿弥。能楽も好きです。世阿弥が残した哲学とも言える思想の中に、「体用」(たいゆう)があります。元々は禅の言葉のようですが、世阿弥はそれを後に続く人々のための芸能論の中で語っています。

喩えるなら体は花で、用は匂い。花があるから良い香りがする。中身があるからその結果が生まれる。若い役者などは、名人の演技を見て「かっこいい!」と思うと、その技だけを真似ようとする。それはみっともないことである、用ではなく体を真似なさい、という戒めです。基本を積み重ね、やり尽くしたからこそ、名人たちは型を崩す、それがエネルギーを放って人を魅せる。

能の世界では、そのほかの世界もそうですが、「内弟子制度」で師匠と同じ屋根の下に住み、雑用をこなす下積み生活が数年。職人もそうですが、言葉による伝授ではなく、師匠の身近にあって、日々の佇まいや生活態度を通じて・・生き様を知ることで、多くを得て行きます。逆に言えば、言葉では伝授できないし、言葉にすることで「型」となって固まり、まだ未熟な弟子はいつでもそのメソッドの通りにやろうとする。

能楽はかつて野外で行われることが多く、その日の湿度や時間、天候や日差し、観客から伝わってくるもの、貴人の前で舞うのかそれとも市民の前で舞うのか・・などによって、名人ならばその「場」のエネルギーを読み、必要なことを感覚で即興することもできる。だからこそ、見る人に感動を与えるエネルギーがそこで生まれるのでしょう。だからこそ、言葉やメソッドではなく、その奥に流れているものを学ぶ必要がある。そのための方法として、師匠とともに暮らすというスタイルが現在でも続けられているのでしょう。

メタフィジカルに関しても、同じように感じて来ました。言いたいことは、日々の暮らしの中で、どのように生きるか。その人間力を身につける中で、レイキなどのワーク(=これが能でいう「型」にあたる)により得られる恩恵も、身について行く訳です。日々の生活すべてに、メタフィジカルで得られたものを浸透させて行く。生き様にして行く。そこで初めて、知識やメソッドが「生きた知恵」になる。「その場」のエネルギーを感じて読み取って、適切な判断が出来れば、どのような状況にも対処できるし、現実を自らクリエイトしていける。

これから、スピリチュアル=趣味 に変わる、生き様 としての何かが、いま一括りにされているところから、分岐して行くでしょう。今の所は「メタフィジカル」と呼んでおきます。

Love and Gratitude,

Amari