思想や歴史はかれこれ、15歳くらいからずっと好きで、もう30年になって・・しまいます・・・その中で、常にぐるぐると移転する興味のフォーカスが、ここ最近は哲学に当たっています。どちらかというと東洋哲学。インド思想、仏教も含め。そう、仏教は元々は哲学なのですよネ。シャカが亡くなったのち、数百年をかけて宗教になっていく。古代のインドは、ギリシャの哲学者たちも敬意を抱くほどの哲学の国でした。
『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(白い蓮のようにもっとも優れた真実の教え)という経典(スートラ)(日本では『法華経』)の中に出てくるサダーパリブータ、と呼ばれた人のお話について。。。19〜29歳の頃、訳あって仏教徒をしていた私ですが、当時毎日のように読み上げていた経典の中で、特に好きで、印象的だったのがこの逸話。日本語訳の法華経では「常不軽(じょうふきょう)菩薩」と訳されているこの人は、ブッダの前世の一つだそうです。
出家者ではあったけれど、特にこれといった学びはせず、聖典も読まず、人に教理を教えることもせず、ただいつも、誰も彼もに近づいていって、「私はあなたを軽んじません。あなたは菩薩行を修行しなさい。いつか仏として成仏するでしょう」と、ひたすら言い続けていたそうです。聞かれてもいないのに急に近づいてきてそんなことを言われると、どうなるでしょう?・・・殆どの人が腹を立てたり、嫌悪感を生じて、罵り、時には石を投げつけたりと。特に、自らが仏道を学び、ある程度のレベルに達しているとプライドを持っている僧たちほど、「なんだよ、お前は」ということになる。
打たれたり、罵られたりしても、その人は同じことを続け、やがて「常不軽」という渾名を付けられちゃったそうです。そして人生が終わろうとする時、空から神々しい音がやってきて、白い蓮華の教えが自分に入ってきたと同時に、六根清浄、つまり五感と体の浄化が一気に起きて、完全に清らかな能力を身につけた。。それを生かして自ら神力を使うことが出来るようになり、寿命を伸ばして、天から授かったスートラを説く、ということをその後の長い長い年月、成し遂げた。
ざざっと略説するとそんなストーリー。若い頃の私、読経していて意味の分からないものが多い中で、この常不軽さんの、どこか愚鈍な一途さ、どこまで真面目なのか、もしかしたらユーモアなのか?というなんとも言えない妙なるキャラクターに、面白さを感じていました。最近「意識の学校」や個人的な読書のなかで改めて『法華経』を紐解いたらば、やはりこの話に惹かれました。植木雅俊氏による現代語訳『法華経』(岩波書店)では、法華経の20番目に配置されているこの話のタイトルが、次のようになっていました。
常に軽んじない(のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には軽んじられないものとなる)菩薩
常に誰のことも軽んじること・偏見を持つことなく、全ての人に「あなたは仏です」と言い続けることで、「なんだお前、俺をバカにしているのか」と思われ、本人は罵倒され軽んじられることになる・・けれど、人生を通じてそれを自身の修行としてやり続けたことで、結局は直接、宇宙から教えが降りて来て、そのチャネルとなり、超人的に長生きをし、教えを説いて・・かつて自身を罵っていた人々は一度、仏に会えないような世界に堕ちてしまっていたものの、再び巡り会い(それもある種の前世からのご縁なのでしょうね)常不軽の教えを聞いて、救われたという話。
思うのは、何をやったか(修行や学問的な学びなど)ではなく、心、それだけなんだなと。逆に言えば、本来は修行や学びは、心を作っていくためのもの。それを、履き違えてしまうような僧たち、バラモンたちも多いのでしょう。そこへの戒めのような性質の逸話かもしれないけれど、なんとも爽やかで、私は好きなのです。
どうしても硬く偏狭になってしまいがちな人間の頭や心。そんな常識の中で、囚われずにひとり淡々と、自分が決めたコンセプトと行動を守り通す。そのような人が報われて、菩薩になるのだという伸びやかな教えは、ホっとさせられます。
それと、死が近づいた時に常不軽に起きたことが、天から降りてきたロータスの教えのチャネルになることと同時に、六根清浄という、人間としてのあらゆる感覚と肉体のクリアリングであったという点も、良いなと思います。特別な能力、神通力を身につけるというのは、古代インドの修行者の間でも流行っていた?らしいのですが、「そんなもの身につけてどうする?大事なのは煩悩にとらわれない心だよ」と気づくことが大事、これはシャカの哲学の根幹だったようです。
心を作っていく。それは何かを身につけて装飾していくことではなく、いらないものを削ぎ落としていくこと。その道程で、苦しみが消えていき、本来の自己意識、煩悩にとらわれない高い自己へと合一していく。。。
今を生きる、出家者ではない私たちにとっては、日々の生活こそが、心を作っていくための修行の場、ですね。自分は勉強好きですが、なぜかというと人間のことが色々とまた見えて来たり、人間たちが生きているこの世界が何なのか、人間とは何なのかが、また少しずつ分かるようになる、その感動が好きなのです。学ぶことは、私にとっては、体験です。それも伝えていきたいと思う今日この頃。
と、まるでお寺の説法のような内容になってしまいました。ついつい・・「仏教はフィロソフィー(哲学)」というカテゴリーを今回から作ってしまいましたが、西洋哲学や、さまざまな思想、歴史、芸術、なども語っていきたいと思います。
Love and Gratitude,
Amari