アニエスカ・ホランド監督作品、『Copying Beethoven』(邦題:敬愛なるベートーベン)は何年か前にも一度、ブログに書いた気がする。久しぶりに観たら、以前よりも深く面白さを感じ、また監督の目線のようなものも前よりスッと自分に入って来て、我が家にある同監督のもう一つの作品『秘密の花園』も改めて見てみた。こちらもなかなか奥深くて、魅せられるものがある。
まずはベートーベン。原題にある「Copying」はこの映画のヒロインであるアンナという女性の「写譜師」=copyist という立場から来ている。作曲家が書いた楽譜を清書する仕事のようで、音楽のプロとしての知識が必要。そして作曲家との共同作業でもあるから、息が合う・その作曲家を深く理解している、などの条件が必要になると思われる。が、残念ながら、ダイアン・クルーガー演じるアンナは架空の人物。
大叔母が長を務める修道院に下宿する真面目で優秀な音楽学校の生徒であるアンナ。設計士を目指す恋人も真面目で堅物そうな印象。すでに晩年に差し掛かり(50代)、代表作である『第九』の発表を目前にしたベートベンの写譜師として紹介されたアンナは、尊敬する作曲家を前に、荒々しい性格のベートベンに怯えながらも、女性特有の母性的な人間愛と、敬愛をうまく統合しながら、ベートベンの良き理解者・仕事のパートナーとなって行く。
エド・ハリスが演じるベートーベンは不器用でしょうもない所も多々あるけど天才とはこういうもの、と感じさせ魅力的。透き通るようなアンナの美しさもこの映画を見ている中で清々しい風のようで、監督のタッチとダイアン・クルーガーの女優としての性質がうまく共鳴しているように感じる。
映画の見所として、ブタペストの劇場でオーケストラと合唱団と観客を用意してノンストップで撮影されている『第九』の初演があげられることが多い。確かに圧巻と言えるシーンではある。彼を揶揄していた人々も皆、作品の余りの素晴らしさに涙するというのも、見ていて伝わってくる。この現場に居たら誰もがそうなるだろうな、と。当時、大合唱団を交響曲の中に組み込むなんてことはあり得なかったよう。
特に晩年のベートーベンは、「普通ではやらない」ことを実行し、それまでの支持者を失ったり、聴衆は付いていけなくなり、映画でも描かれている『第九』の後の弦楽四十奏『大フーガ』の受けは惨憺たるものだったよう。。。時代を数十年、ひとり駆け抜けていたようだ。その作品が正当な評価を得たのは、20世紀に入ってから。現代では高く評価され、現代音楽への影響も少なからずと言われている。
第九のシーンは確かに素晴らしい。けれど、映画の中盤でさらっと終わって行く。その後、「大フーガ」に取り掛かるベートーベンがアンナに意見を求めると、「美しくないです。」と返ってくる。不協和音や、あえてズレて行くテンポ。当時の古典音楽においては考えられない発想と試みの数々は、結果的に、その後のロマン主義を呼び起こす力となった。ロマン派音楽というのは、より感情表現を乗せるために演奏する側の技能は高度なものが求められるようになっていったよう。間違いなく、「大フーガ」はその動きへの促進剤になったはず。
私は若い頃にぶつけどころのない、得体のしれない熱や情動のようなもののはけ口として、ハードロックやヘヴィメタルを好んで聴いていて・・それと同じような理由で30代、執筆活動をする時には必ず、ベートーベンのピアノソナタ(特に「ワルトシュタイン」)がBGMの定番だった(笑)。今、『大フーガ』は同じようなものを感じさせてくれる。
久しぶりに観たこの映画で、改めて印象的だった幾つか。人々に理解されない、人々が求めるものと、自分の立つ境地が大きく違っているのを承知しているベートーベンは、アンナを相手に本心を吐露する。「理解できないなら(聴衆の方が)想像力を高めればいい」・・まるで、「パンが無いならケーキを食べれば?」(マリーアントワネット)と同じような物言いだけれど。芸術家も一人の人間。自分が追求したいものを追求し、常に新たな境地を目指し続け、それを表現したいのは当然だろう。若い頃から天才として遇されパトロンたちの要求に応え続けて来たのだから、尚更のこと。
というか、そのような態度でなければ、死んだものしか生み出されない。一見、その時代の聴衆心理・大衆心理には心地よいものが生まれるかもしれない。それによって生活が安定するかもしれない。作曲家自身も楽だろう・・・・・が、それは本当の芸術ではない。自分自身が生み出したいもの、その時に到達できる最上のエネルギーでなければ、当人が満足することはないだろうし、一時の評価を得られたとしても、すぐに忘れ去られるようなものとなっていくだろう。それは本来、芸術ではなく、言ってみれば・・・商品だ。
本物の芸術家ほど、出せるものを全て出し尽くそうとするから、芸術以外の要素では苦労する。孤独な求道者としての道。
「神と私は完全に理解しあえる」・・映画の中でも神との繋がりを信頼していることを表すセリフが何度も出てくる。自分の仕事が神がかったものであることを信頼し切っていたからこそ、聴衆の意見を無視する、という態度が貫かれていたのかも。やっと見つけた、自分の音楽を理解し、寄り添ってくれる助手としてのアンナ。彼女も奇抜なベートーベンの天才振りに、真面目な優等生としてベートーベンを真似た作曲しか出来なかったところから、少しずつ変わり始める(頭の硬い恋人とはおそらく別れる・・笑)。
「この曲(大フーガ)は、未来の音楽への架け橋だ。この橋を渡れば、君にも新しい扉が開く」とアンナに諭す。アンナの曲については「君は私になろうとしている。ベートベンは一人いればいい。」
印象的なラストは、「大フーガ」発表後まもなく世を去ったベートベンを思いながら、喪服姿のアンナが一人、草原を歩いていく後ろ姿。彼女はおそらく、これからの人生でその橋を渡った先の、自らの魂から溢れ出す表現を生み出していくのだろうと、予感させる。
アンナのような理解者・同志が、芸術家の人生で一人二人でも、居ればいいのだろうなと。けれどアンナは架空の女性。実際のベートベンの人生に、そんな人が一人でも居たのだろうか、居たのならいいな、と思いながら、単に第九の圧巻シーンが目的では無い、この映画の深さにジワジワと感動していた。
そうそう、映画の冒頭にはベートベンの死の間際のシーンが挿入されている。駆けつけるアンナの中に第フーガが流れ込んできて、ようやく彼女の中で全霊で、その作品のエナジーが理解される瞬間が来る。それを、死の床に居るベートベンに告げることも出来た。「マエストロと同じように、私も大フーガを聴きました!」
敬愛するベートベンが逝ってしまうという瀬戸際、自分の全存在を持って馬車で疾駆するその祈りの高まりの中で、頭ではなく、魂でアンナは「大フーガ」を聴いた。それと自身が一体となり、世界の全てが大フーガとなった・・・
これは、「第九」で聴衆が総立ちで涙したことよりも、感動的で重要なシーンである。だからこそ、時系列ではなく、映画の冒頭の数分間に挟まれている。芸術家にとっては、数百人の聴衆のウケよりも、たった一人でも魂から理解してくれる人の存在が意味を持つ。監督自身の投影が、アンナであり、ベートベンでもあるのかもしれない。そんなことも思った。
Love and Grace,
Amari