相変わらず休「韓」期が続いているので、NHKオンデを開くと、放送されたばかりの『マルクス・ガブリエル日本を語る2023V』があり、早速視聴。このシリーズ、「欲望の時代の哲学」や「欲望の資本主義」は好きで全部見て来ている。
哲学者である氏の話は抽象的で捉え難いけれど、そのままフワっと受け止めるようにしていて、そのフワッとの中には自分なりにエッセンスとして理解できている感覚がある。「世界は存在しない」のフレーズで一躍、知られるようになったガブリエル氏だけど、そういえば、「一元的な世界は存在しない、それは分かるとして、その先どうしろという哲学理論なんだろう?」と、本を数冊買い集めているのによく分かっていない(丁寧に読了には至っていないゆえ)事ににふと気づいていて。
今さらだけど、人道、倫理、ヒューマニズム(人間愛)を、呼び戻そうということか・・と、今回の新しい番組を見ながらおさらいしていた。一見(特に自分にとってはずっとそういうものだと思って来たし発信してきたので)ごく普通、当然と感じるようなことだから、フワっとしている、という体感だったのかもしれない。識者の方々はどう評するのかなと検索をしてみると、こちらの記事が参考になった。
(集英社新書プラスHP 『新しい哲学の教科書』著者・岩内章太郎氏インタビュー)
あらゆる既存の概念を一度否定してみる「ニヒリズム」=ポストモダン主義哲学(少し前の時代の主流哲学)から、もう一度、人間をめぐる「実存」について考えてみようというのが新実存主義、ガブリエル氏の新実在論では、ヒューマニズムや倫理をその「実在」に据えている。世界という決まった枠組みが実在する訳ではない・・という感じかな。
そのせいか、どうも最初にこの方をNHKで見た時に、(ゲリーボーネルさんが言っていた、現代に再来しているという)キリストの生まれ変わりではないかという気がしてならなかった・・のは、はっきりと口にはしないものの、仰りたいことは実際に「愛」だと感じたからかもしれない。今はまた別の候補(キリストの・笑)が私の中でいらっしゃって・・ まあとにかく、人類の現状をどうにかしようと考え、あの手この手で奮闘している人たちは沢山いるものだと、この10年くらいは感じたり、そんな人々を発見したりしている。
上でリンクしたインタビュー記事で岩内先生は、「哲学とは困っている人のためにある」と考えるが、ガブリエル氏の哲学はあまりに「普通の人々が感じている普通の『大切なこと』を取り戻そう」という話で、本当に困っている人には役立たないかもしれない、と仰っている。
確かに・・ だから、ニヒリズムに染まって道が塞がっていたような哲学界にとっては、新風で、「天才だ!」という事になったのかもしれない。普通の人々は普通に生きる中で人間性の重要性を知っているところがある。特に女性は・・男性社会の、キリスト教的風潮をベースにした、かつ知の最先端をゆく哲学者の世界には、方向展開のために必要な風、新実在論、だったのだろう。
・・で、番組を見ていても、本を読んでも、そのそも西洋哲学それ自体が、女性性的なハートの感覚でいえば、「単純な話をあえて難しくして順番にひとつひとつ手順を踏まないといけない遠い道のり」という感じがしている。そうかと言ってここで道を分つのではなく、女性性的な感覚もまた(日本の一般人の集合意識は男性も含めこの感じなのかも。ハート的な直感や空気)怠惰や甘えを生んでしまうので、両者を統合していくしか無いと、やっぱり10年前くらいから考えている・・&私なりに少しずつその努力を、色々な意味で続けている。
もちろん単に哲学界の中だけでなく一般社会の気風や時代の世相、雰囲気というものとも確かに連動していることは間違いなく、ただそれが一般の人々には余り自覚化されない、というか、興味を持たれない。90年代以後の哲学的視点でいう特徴は「メランコリー世代」とも言えるそうで、その前のニヒリズム世代では「なにもしたくない。どうせ全て無駄」(おそらく私の世代や、付き合いの多い周囲の人々はここに当たる)という風潮だったものが、90年代以後の空気を感じて育っている人々は、恐らく社会が問題を抱えた側面を多く見聞きして育っているせいか、
「なにをしていいか分からない。でも、なにかしなくちゃいけないのでは?」と。それが最近の若い世代になると更に、「自分に何が出来るか」と悩み始めるくらいに、変遷して来ているという。その話も納得だ。けれど、国や集団によって、差はあると思う。我が子を通じて色々な土地の、普通の学校、オルタナティブ(シュタイナー)教育、新潟、奈良、横浜、東京・・と、子育てしながら経験して来て、それぞれの集団の感覚、空気というのはまた違っている。
「哲学というのは困った人のために」というお話も確かに分かる。けれども、一人ですべてのことに責任を持つのも不可能で、ガブリエル氏はまずは「哲学界」に新たな風を入れることを自身のテーマにしているのかも。知識人層から、実際に思考の波が降りていって、それを指標に経済や政治が変わっていき、一般の人々の暮らしに影響していくと思うし。
私が14歳で「地球の役に立てねば」と決意し、16歳で「日本を出て歴史(世界史)の専門家として世界を旅しながら、次の時代に向けての指標を残さねば」と何故か思い立ち、けれど全く現実は追いつかずに(そして恐らく持って生まれた学才の様なものも足りずに)そのうちに日本の神秘に20歳で目覚めて、ひとまず日本に居るか、という流れに(笑)。そして早々に?(思い立って10年後には)アカデミズムで生きる夢をあっさりと諦めたのは、また別の可能性、必要性のようなものを感じ始めたからだと、今では思う。
もう忘れてしまいそうなくらい、遠い過去の思考だけど、たどって考えていくと、結局は「フェミニズム」に行きつき、男社会の男性原理の男性的なアカデミズムの中では、16歳で思い立ったような成果は残せないと感じた。当時はそんな言語化は出来なかったけど、今の言葉で表現すると。19歳でオノヨーコさん、21歳で白洲正子さんというカッコいい女性たちを知り、私のベクトルはアカデミズムよりも、お二人のような「表現活動」に傾いたのだ。それでこそ、女性意識、女性原理で発する、次世代へのメッセージになろう、と。
その後、滅多に尊敬する人を持たない私にとっての希少なこのお二人の女性が「旧華族」出身であると知って、「そうだよなあ。この世代で自由に表現されている立場だし」と、肩を落とした辺りから個人的ニヒリズムの世界へ(笑)。暗闇への自主的な落下によって、冥界下りのような時期を経て、スピリチュアルに出会う。そうでなければ、出会う事も無かっただろうし、出会い方が違っていただろう。多くの人々がそうであるように片手間に、スピに興味を持ってちょっとかじって、様子を見る、ような付き合い方だったかもしれない。
困っている全ての人に有効なものを、すべて自分の関係の中で生み出せる、生み出したいとは思っていない。自分なりのターゲットや目標を定めることは大事だ。続きは次世代がやってくれるだろう、というような算段も、もう年齢的に計画の中に入れていかねばと思っている。
この「スピ」という分野で発信している限り、マルクスさんのように「天才」とか「ロックスター」とか渾名されることなど無いだろうけれど、私たちがしていることは、表でずっと日が当たっていた男性的な輝かしい分野ではなく、歴史の中で疎まれて虐げられながら細々と各国、各文化圏で続けられてきたメタフィジカルな癒しと知恵の分野なのだ。主に女性たちが担って来た。だからこそ、女性性が虐げられるのと一緒に、その分野も封殺されて来た。
男性・女性の問題ではなく、男性たちの、男性社会の中の女性性も封印され、愛や感性を否定された文明が特にこの数百年、加速して来た。だからこその、ここで改めての倫理や人道の見直しなのであり、それは男性的感性からの歩み寄りだと言える。
逆に、スピリチュアルのような女性的な立場からも、歩み寄り、説明や表現を続けなくてはいけないと思う。そう、そんなこともだいたい10年前には考え始めていた。それはヒーラーとして。けれど更に遡ると、『ハピの巫女姫』を書いた2002~2003年頃に、自分なりにはそれを感じて「立ち上がった」、それが執筆への原動力となっていた。けれどあの頃は無職で、離婚したばかりの子育てがこれから始まるという段階。作品を書いたはいいけれど、どうやって生きていく?が、先行していた。実際に、そこに奔走する20年が始まった。
20年を経て、状況はそんなに変わらない。相変わらず大した土台も影響力もない。でも、少なくともスピリチュアル、ヒーリングの分野を通して、人間の見えない領域の仕組みや法則はだいぶ学んだし、それに基づいて人や社会や世の中も見ている。「世界は存在しない」も直感的には理解出来る。けれど私はやはり東洋思想の下に生まれることを魂が選んでの日本人である気がしている。
日本は、中国的な二元性、善悪、白黒の理念や、変化や発展や強化も入っていて、その気になれば発揮できる土壌でもありつつ、
やはり中国思想だけではない要素、理論を抜け出してハートでキャッチするようなアニミズムと、三元論というか、インド的な宇宙観が仏教を通じて染み付いている。現代の日本人自身が考えている以上に、仏教、つまりインド哲学、宇宙論の影響は日本人の中に世代を重ねて浸透している。
この、何とも言えないフュージョン感を持つ日本人という存在が、今掛かっている病理から解放されれば、世界はまだ救いがあるのかもしれない。というくらいに、同番組を見ながら感じた。日本人にインド(仏教的宇宙観)や中国(儒教=武士道)の影響が根深いのと同じように、西洋の人々の二元の縛りはとても強い。その手に委ねていると(政治的にはアメリカの傘下に日本は存在している)最近多いディストピア近未来映画のようになるのが自然の流れのようにさえ感じる。
ただ、本当にありがたく素晴らしいと思うのは、19世紀末には神智学という試みで、既にその「東と西」の融合のプロジェクトは始まっている。今、脅威と言われている政治的な立場が中国とインドであるという点も本当に意味深い。ガブリエル氏も今回の番組で語っていた。中国とインドの世界史上の存在感の凄さについて。歴史が好きな人ならこれは本当に間違い無いと感じるし、ましてそこにイスラム世界が加われば、尚更である。
女性性とともに虐げられて来たもの=見えない世界の探求 を、既に西洋人、それも知識人層に向けて、東洋の古代からの叡智を通して語り、分散した世界の思想を統一できるのでは?という志を持って活動したのが神智学だ。けれど「神智学」と呼ばれるものが完成されると、今度はそれを維持し伝えるという使命を帯びる人々が必要になる。
一方で、その恩恵を学びの糧としながら、次なる時代の知恵を展開していく試みも必要で。小さくても、目立たなくてもいい。ソウルが何を目的に生まれて来たか・・ 「メランコリー世代」に、考え感じてもらうキッカケにでもなれれば、良いのかもしれない。
Love and Grace
Amari