互いに空気を読む、という国民性は、とても便利ではある。通じるなあ、という見知らぬ人々との無言の空気の「読み合い」に、妙に心が安堵感を覚えることもある。哲学者のマルクス・ガブリエル氏はこの国民性を「テレパシー」と英語にしていた。やはり海外の異なる文化意識の方々から見るとある種の、テレパシーとも言えるのかも。

けれども・・エナジーワーカーという仕事をして来て、エナジー、つまり「空気」とここで称しているものにも種類があるという部分、職業グセで分析をしたくなる。この場合は神智学の言葉を借りると「アストラル」、そして「エーテル」に関わるのではないかと思っている。

アストラルとは感情、であり。やや動物的な、モノノケ的な成分で、その人から発しているにも拘らず、発した当人が意識しないまま他の人にも伝播して影響を与えるし、横に接続し合うと大きなアストラルフィールドが出来る。良い例としてはコンサートやスポーツ観戦などの感動や一体感。良くない例として、ネガティブな雰囲気が集団で広がってそうでない人まで染まってしまう、という感じの。

また、人から分離して個別の存在(?!)になることもあるという記述も神智学文献にはあり、人間が生み出しているけれど、動いたり独立したりし始めるもの。ゆえにやや動物的。

もうひとつのエーテル、は、生体エネルギーフィールドの量子の波のようなものが、肉体の周りに存在していて、そこに遺伝情報や健康に関することなど(おそらく国民性、なども)私たちのプログラムがその人その人にセットされているもの。「肉体の一部の見えていない部分」という考え方もある。

日本人が互いに「読み合い」をしている「空気」とは、これらの二つがメインではないかと思う。そこに、アストラル体よりも外側にあるメンタル体のより機械的・粒子的な情報が、さらに外側から影響を与えて、「成分」としてのアストラル情報と、情報帯として私たちが「肌で感じる」エーテル体のあり方がその時々、個人個人から発せられている。

つまり・・人が集まった時。グループで何かをしなくてはいけない時。私たちは無意識に、(アストラルとエーテルをひとことでまとめると)「気持ち」を読み合う。それが習慣化されているので、無意識にやってしまう。そして、「調和」という、全体が同じような響きである状態を「良し」と感じる。そうでない場合、その「調和」状態にしなくては・・と、言葉を掛けたり、自分のやるべき事、発言・行動を考えたりする。

それは、何のための集いであるか・・によって、評価が変わってくる。「これから宜しく。仲良くしましょうね。」という顔合わせであれば、上の段落に書いたような、無意識の努力は必要かもしれない。誰かの「気持ち」が損なわれたら、目的が果たされなくなってしまうから。

けれども、会社のプロジェクト、研究や何らかの目的を持つタスクフォースのような場であったとしたら・・(政治や経済やボランティア活動やあらゆる「活動」は皆、目的があることだろう)・・「気持ち」を読み合い、調和することに尽力していたら、どうなるだろうか。

余程、安定している人々の集まりでなければ、集まるたびに違う「空気のゆらぎ」が発生して、誰かの気持ちや調子の低迷を他の人々が「読み取り」、気遣い、調整することに時間とエネルギーを費やすことになる。そんな光景は、人々の集まる場所で、よく繰り広げられているのではないかと思う。小さな池(感情エネルギーは水であるからそのイメージ)の周りに集まって、皆で水を覗いているような風に、私には(心の目で)見える事がある。

大きな流れは遠くから来ていて、この先も流れに乗せて目的を現実化して行きたいのならば、小さな池を覗き込む輪を作らずに、遠くから来ている流れが自分たちの前へ、そしてその先の(存在している、決めているはずの目的=ゴール)に向かう様子を見据えて、流れて来ているエネルギーの上に乗らなくてはならない。

ここでは、ひとりひとりの「気持ち」へのフォーカスは超えていなくてはいけなくて、それは既に個々で、仕上げた上で集まっているか、舞台裏でその都度解決するよう試みながら、大人として参席しなくてはいけないのだろうと思う。

神智学、アリス・ベイリー著書からも、(チベット人のマスターからの教えではあるけれど)インテンション、緊張感を良い意味でキープして、それにより成長をし続けることの大切さが説かれていて、私はそれを「シリウス的」(ひいては「ヴェガ」由来の宇宙思想)と捉えて来た。(余談:地上でそれを体現しているのが、ユダヤ精神なのかもしれない。ニューエイジのスピリチュアルはそもそも欧米発で、ユダヤ的なエッセンスが含まれているかもしれないことに、最近、読書をしていて気づいた・・)

日本における議論だと、池をみんなでじっと見つめていて、波が立って乱れたら様子を見て、「池」の平穏さを守ろう・・の状況について、

「そこからも、何かが生まれてくるかもしれないし、それも良いんじゃないかと僕は思うよ」・・みたいな声が聞こえて来そう。(笑)もちろん悪いことではない。

けれども、そんな日本人精神は「プロジェクト向き」ではないのだろう。大きな視点で流れを見て、見据えて、流れに乗っていこう・・・というよりも、お題や課題を与えられてその中でコツコツと頑張る時間を貰えたら、(職人仕事的に)良い成果を出します・・というのが、日本ダマシイといったところかもしれない。

目的意識が明確にあり、流れを読んで過去(状況)と未来(目的地)の間にある「今」の、「必要なこと」をしようという意図があったとして。目的は全体のものであった筈が、集まった人たちは、各自の「気持ち」をそのまま持ち込み、互いにそれを調整して調和させることに、その集まり=池 を使おうとしているようなことは、日本の色々な場所で繰り広げられているだろう。

特に女性たちは(私も含めて)自分の「気持ち」を大事にすること、他者の「気持ち」を気遣うことを重視するような土壌で、それを期待され、お互いに期待し合いながら育って来ている。ヤマトナデシコとは、[永遠の少女]のような原型エネルギーを被ること、なのかもしれない。

自分の古いブログ記事を整理している中で、「気持ち」重視の自分に気づいた、という文章もちょうど昨日読んでいて・・確かにその気づきは何度もあったっけ。ヒーラー仕事をして来る上で、「気持ち」が壁に引っ掛かって進めなくなることが多々あったから。ヒーラー、というかメタフィジカルはある意味「大いなる(地球規模の)プロジェクト」の一員になることだから、個人的な仕事ではなく、ある一定の法則の中に、自分を合わせていかなくては、上手くいかないという局面が多々、現れて来る。

A.ベイリー著書などはそんな話をしている。「見習いの道」「弟子道」とも呼ばれたりする。あらゆる宗教や文化のジャンルに分かれていたとしても、(正しい思想や哲学の)行き着く所はひとつの筈で、地球を動かしているプロジェクトには、ひとつの法則があるのだ。絶対善と表現したりもしている。

ゆえに、日本人の一人、それも日本女性の一人として、空気を読み合う文化の優しさも良さも十分に分かって居るけれど・・その上でやはり思うのは、それは「プロジェクト向きではない」ということ。自分自身も修正し続けて来たけれど。

折しも最近読書していた「ユダヤ思想」についての勉強から、世界中で結果を出している、つまりプロジェクトに強いという性質として、ニューエイジのスピリチュアルでもよく語られる「フロー」や「豊かさ」などの思想の源泉を見つけた気がした。

ユダヤ、のキーワードについて問題が連想されるとしたら、今も起きている紛争、争いという局面だけれど。それは、一神教ゆえであり、勤勉さや上昇志向や、よく言われる「無から有を生み出す」というユダヤ精神とはまた別の話であろうと今のところはまだ思っている。が、もう少しよく学んでみないと・・

私なりに、それ(一神教のはじまり)に関しては最近ひとつの(秘教的な)答えを得ている。(by 「古代の宇宙人」・笑)それについてはまたの機会に書きたいと思ふ。

アリス・ベイリー著書のような神智学の教え、緊張感や成長(進化)主義のような思想が、日本ではなぜ受けないか・・も、ジェネシス原型論からも今では良く理解できる。

「流れを読み取ろう」といつも、スクールでは言い続けて来て、みんなちゃんと在学中は出来るのだけど(アルガンザのエネルギーメカニズムに乗せられるというか、乗らない訳にはいかない仕組み?ゆえに)、日常に戻ってしまうと、自ら流れを読み取ったり、増して乗り続けるために自分自身を成長させ変化変容させ続ける、という状況を、自ら積極的に作ろうというのは難しいのだろう。

なぜかそれが出来る、そういうものだ、そうあらねばと思える人は、前世ユダヤ人を何度かやっているとか(あるいは人生とは成長だという思想が強い人生を複数回経ているとか)、シリウス遺伝子が強いとか、神智学や「絶対善」への道、魂の進化の道というものをよく分かっている人・・なのかもしれない。

メタフィジカル、スピリチュアルな道を学ぶということは、池のほとりを離れて、大河の流れを常に見定め、自らそこに乗る、乗り続ける努力が必要、ということになる。

Love and Grace

Amari