以前から憧れていた「男気のある」「東洋好きなイギリス人の」??書斎風の仕事部屋を目指している(笑)、移転後のアルガンザの八王子オフィス。理想に近づくにはまだまだ重厚感が足りないけれど、この冬は本棚を増やして、さらに書斎らしさを出したいところ。以前のオフィス「ブルーム」からのイギリス製のブックケース(写真)は、神智学系の書籍と、これまでのアルガンザの記録、歴代カレッジのテキストなどを収めて。
7月に、リリースされたDVDで映画『ARRIVAL』(邦題は『メッセージ』)を見て、すぐにここで記事を書こうかなと思ったまま、なんと5ヶ月。7年弱営んだ横浜のサロンを閉めるにあたってのキッカケの波が、ちょうど7月には来始めていて、淡々と、ではあったけれどそういえば、思想的に何かを噛みしめるゆとりの無い、この5ヶ月だったのかもしれない。現実世界とエネルギー次元とで、日々を創造したり、波乗りしたり、切り抜けたり、考えて行動して、終えて、また次・・という具合に。ただ、思えば「時間」をテーマにしているこの映画を鑑賞して後味が強く残った7月からの日々は、自分自身の「時間」のテーマに向かっていたのかもしれず、なにか連動するものも感じられる。
さて、この作品は「時間」と「意識」を主題にしている。アカデミー賞の作品賞・監督賞などを取っているそうなので、見た人も多いと思うが・・自分なりに紹介したいと思う。フランス系カナダ人のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品。巨大な卵型の岩の塊のような宇宙船が世界各地に飛来。その主である知的生命体を研究チームは「ヘプタポッド」(7本指)と名付けた。ヒトデのような巨大な触手に7本の指、壁のように立ちはだかる数メートルサイズ、つるんと頭だけがあるような姿をしたエイリアン。足や、首や、顔のパーツなどはなさそうで、ヒューマノイドと言えるのかどうか。。
世界12箇所のうち、アメリカは長閑なモンタナ州にUFOが来ていた。軍事基地さながらの現地のキャンプには、CIAや軍の男性たちが行き交う。そんな「現場」に呼び出されたのが、女性言語学者のルイーズ。エイミー・アダムズが演じている女性博士ルイーズは、学者らしく理性的でクールな大学教師という風情で登場する。ニュースを聞いて大学のキャンパスが若干パニックになっていても、ひとりでかなり落ち着いている。翌日も、普通に大学に出勤しているというマイペースな様子に、凡人とは違う突き抜けた知識人としての人間性を、映画の冒頭で示される。
結論に先に飛ぶと・・・宇宙人たちは地球人に対して、「武器を与えにやってきた」。その武器とは、「人類を助けるため」の武器であり、「未来を開く」もの。何かというと、このヘプタポッドたちの「言語」がその武器であり、与えられたものは彼らと同じように時間を直線的なものではないように考え、感じるという「高い意識」を得られるという。それが、宇宙人たちからの「メッセージ」であり、地球に到来した理由だった。
さらに奥にある背景として、彼らの言語を解読しコミュニケーションがとれるようになったルイーズにエイリアンの一人は「3000年後に人類の助けが必要」だから・・(人類を助けておくのだ)と、伝えて来た。ということは、彼らが与える「武器」=多次元的にものを見れる意識 がなければ、人類は分裂して争い、3000年後に存在していないという未来を、彼らの非直線的な時間感覚が捉えているから、という事なのだろう。
言語コミュニケーションがとれない宇宙人を相手に、ルイーズは言語学者として、彼らに自分たちの言葉を教えることから始める、という手法を取った。それが功を奏した訳だが、彼らから戻って来るのは巨大なヒトデのような触手の中心から吐き出されるスミ?が空間に繰り出す、筆で描いたような表意文字(ロゴグラム)で、言葉を話すことでのコミュニケーションは成立しない。
けれど、例えば日本人と中国人が漢字の筆談でコミュニケート出来るのと似ているが、彼らの表意文字がパーツごとに何を意味しているかを解析・解読し、各国が連携しながら研究を進めるうちに「会話」が成り立つようになっていく。
この、中国風?の書で描いたマルをモチーフにしたような独特のロゴグラムこそが、彼らの言語が直線的、つまり時系列に左から右へ、上から下へ読むのではないという、多次元意識の表れと言えるだろう。映画の中でも触れられていたが「サピア=ウオーフ仮説」という学説(「言語相対性仮説」)があり、人間の思考(脳)は話す言語によって形成される、という。・・これは体感として理解できる。英語圏に行って英語で話すことに慣れて来ると、明らかに日本に居る自分とは人格が変わるものだ。エイリアンの多次元的な言語を授けられれば、人類の意識が多次元性を搭載するようになる、ということ。
ルイーズは最前線で、彼らと交流していることから、文字だけではなく時にテレパシーや、エネルギーの波長のようなものも受け取っている。ゆえに映画が進行していくにつれて、過去のフラッシュバックを見るように、切れ切れに未来を見るようになっていく。その現場で同じく解読にあたっている数学者のイアンと結婚し娘をもうけ、しかし恐らく二人とも宇宙船内部で防護服を脱いで宇宙人に向かっていたせいだろう、生まれた娘は十代で(恐らく被曝による)癌で夭折しているという未来。そのプロセスで夫は娘の病気が原因で去っていくという未来も。
混乱しながらも、なんとか彼らと人類の間を取り継ごうとするが、「武器を与える」という地球に来た目的を誤解した地球人たちは、地球人同士を分裂させて争わせ、地球を征服しようとしていると判断。各国でUFOへの武力行使を宣言する動きへ。
具体的な方法は割愛するけれど、ルイーズが、自らに起こり始めていたその「未来を覗く」という方法で、他国の武力行使を止め、世界をひとつにすることに成功する。
一年半後の近い未来に、『ユニバーサル(宇宙的)言語』という研究書を出版し、解読したヘプタポッドのロゴグラムについての研究を発表するらしい。本の冒頭には、その時すでに生まれているのか、更に未来に生まれる事がわかっているからか、「ハンナ(娘の名前)に捧ぐ」と書かれている。人類の意識を拓くために、言語を与えに来たエイリアンたちは、世界12箇所は何か理由があってチョイスしたに違いないが、人類の中で一人でも、彼らの意図を誤解せずに受け止め、更にそれを読み解き、人類に伝える者を探していたのだろうと思う。
映画の途中では、軍人たちやマスコミ、世間が騒ぎ出し、恐れをなした若い軍人が単独でUFOに攻撃したり、中国の首席は彼らを征服者とみなしいち早く軍事行動に出ようとする。男性研究者でも現場での仕事に耐えきれず倒れたり、世界中の人間たちが「恐れ」からの思い込み・誤解で高次からの彼らのメッセージを無駄にしようとする中で、なぜ、ルイーズは彼らに対応できたのか。なぜ、ルイーズなら大丈夫だったのだろう・・という点を、考えながら見ていた。
女性だったから・・とも言えるかもしれない。ただ、普通の女性ではもちろんダメだ。並の男性たちよりも精神が強く落ち着いていて、理性的で、知性が深く・・・それでいて、女性的な感性と母性を使い、未知の宇宙人であっても、言語学者として未開の民族に対峙してきた時と同じように、相手に近づこうとハートで動いた。宇宙船の中で防護服を脱ぐという行為も、駆られるようにやっていて、後のこと、自らの身の安全のことなど考えていない。徹底した研究者・専門家意識と、男性性の美点、女性性の美点を兼ね備えた人であると言える。
この映画の最後の10分は、理由も分からず嗚咽するほど泣き通して見ていた私だったが、その理由についてもしばらく考えさせられた。
ルイーズの手腕で、中国軍のUFOへの攻撃をなんとか止める事が出来たが、UFOも地球から一斉に離陸し始め、地上でも、現場の基地を撤収するため全員が引き揚げるという流れの中で、ルイーズはますます鮮明に、これから生まれる愛くるしい娘の姿、成長していく中でのたくさんの思い出、そして別れ・・・の場面を見ている。
そこに、娘の父親となるイアンが横から言葉をかける。
「(学者として)ずっと宇宙に憧れて来たけど、ここでの一番の出会いは彼らじゃない。君だよ。」「子供を作ろうか。」
つまりプロポーズする訳だけど、そこでまたルイーズの頭の中では、娘ハンナの生い立ちが早まわしで流れる。たくさんの、喜びに溢れた親子・家族の場面だった。そこでルイーズは答える。「Yes」
映画の冒頭も、最後も、ルイーズの、娘ハンナにあてた言葉で始まり、終わる。この映画自体が、時間軸を超えたような作りにもなっている。最後まで見るとやっと、冒頭でのナレーションの意味が理解できる。
なぜ、初めてこの映画を見た時に、あれほど泣けたのだろう?
自己分析して思ったのは、ルイーズはやはり並みの人ではなく、それゆえに体験した彼らとのコミュニケーションを通じて、さらに一人、神のような視点を持つという孤独に立った。知性と母性で、娘に語りかける言葉は人を超えた領域からの呟きのようにも聞こえる。夫イアンは、恐らく未来のどこかで、娘が病気になるという話をルイーズから聞かされて、耐えきれずに離婚をする。・・ルイーズは、「基地」ですでに全てを見ていながら、イアンと結婚し娘をもうけ、成長を見つめ、そして見送るという覚悟を決めて、プロポーズを受けている。
そんな、ルイーズの非凡な心の強さが、私は哀しかったのだろうと、気づいた。
どこまで行っても孤独。
そして時に、非難される。夫イアンはきっと、彼女の強さに反発を覚えたのだろう。こんな悲しい事、自分は耐えられない。そう思って、ルイーズと娘との家庭から逃げたのだろうし、ルイーズを「こうと分かっていながら子供を作るなんて」と責めたのだろうと想像される。その辺りは映画では描かれないが、きっとそうなのだろう。
揺らぐこの世界では、常に感情の誘惑がやってくる。最初にUFOが来たとニュースで聞いてパニックになる人、学者として基地に向かいながらも仕事できずに倒れていく人、宇宙人を前にして怯んでしまう軍人、心配する妻のために基地から逃げ出したい人、そして征服されるのを恐れて攻撃しようと決める国家元首。・・そんな人々の「恐れる姿」が横行する中、ルイーズは淡々と仕事を続ける。この任務においてはルイーズのよき相棒、理解者であったイアンも、彼女が成し遂げた更なる女性としての強さ(死すべき命だと知りながら子供を産んだこと)には、同調できずに脱落していった。
そして「残る」のは、いつも、どこまでも強いルイーズ一人だった。夭折する娘を一人、病院で見送る彼女。知っていたとは言え、哀しくない訳ではない。それを一人で受け止めていく。感情が無いわけではない。ただ、そこに落ちないでい続けることが出来る人の強さは、時に、多くの感情に揺らぐ人々の目には、冷たい人や理解できない人として映るものだ。しかし真実はそうではない。誰よりも愛、本物の愛が深いからこそ、感情に動かされない善なる選択をしていく。流されずに壁を乗り越えたというのに、むしろ非難され誤解される。・・・そんな事も承知、そこで傷つくこともない高い知性と理性、母性。
そんな彼女の姿に、淡々とした映画の語りに、泣けたのだと分かった。非凡な心の強さ、善の強さを持つ人々の人生に、よく現れるモチーフであるし、英雄的な人々の意識であり、時にそれは人間社会において犠牲となり得る。それでもこういう人々は、何度生まれ変わっても同じようにするのだということも感じる。それは菩薩道であり、完全に感情的な幻想世界を超えている精神だと言える。
もうひとつ・・映画の後味として考えたことは、
そんなルイーズだったからこそ、彼らの「言語」を受け取り、変容が起こるもそれを自らの中に統合できたのであって、もし、そんな風に未来が切れ切れに見えるという変化が、他の人々に起きたとしても、ただ混乱してむしろ、壊れていくのではないだろうか。彼女が出版した本が、それゆえに最後に少し気になった。。特定の周波数を持つ人じゃないと、変化変容が起きない、という仕組みがあの言語にコード化されているほうが、安全だろうな、と。
映像も非常に美しいので、予告編も宜しければぜひ見てみて・・但し、やはりよくあるように、予告編の作り方がちょっと・・本来の作品の持つ味やテーマから外れている気はする。邦題の「メッセージ」も同じく残念な感じがする。
今回もエイミー・アダムスの演技力に深く引き込まれた訳だけれど、我が家には彼女の主演作・助演作がいくつかある。
左から、彼女の出世作と言えるディズニーの半実写半アニメ作品『魔法にかけられて』、実話の映画化・メリル・ストリープと見事に演じ合った『ジュリー&ジュリア』、同じくメリル・ストリープ他演技派4名の密室劇の一役を担った『ダウト』。
このうち、『魔法にかけられて』と『ジュリー&ジュリア』は過去にもブログで取り上げたことがある。『ダウト』はアルガンザのマスタークラス「星巫女プロ専科」の映画分析で題材にしたことも。他にも話題作に続々と出演しているエイミー。最初に彼女を見た『魔法にかけられて』のプリンセス役は本当に素敵だった・・まさにディズニー・プリンセス、の風情を楽しく可愛く演じていて。。ディズニーの中では最高レベルの映画ではないかと個人的には評価。二次元と三次元を足して五次元、みたいな奥深さも感じる。意識の持ちようでどんな世界でもファンタジー・・という、ディズニーの精神が教科書のように分かりやすい。
エイミーの演じる女性は心の清らかさ、純粋さが際立つものが多い。そこに『Arrival』では徹底した知性・理性が加わっている感じ。制作側にとってルイーズ役の第一候補はダメ元でエイミーだったとか。本人は育児に専念しようと思っていたところにオファーが来て、脚本を読んで了解したと語っている。これまで見た彼女の主演作品の中で一番、英雄的なキャラクターと思う。『ジュリー&ジュリア』はメリル・ストリープのいつもながらの存在感、演技力も素晴らしく、おすすめの作品だ。
これを機に・・と、さらにもうひとつ彼女の主演映画を見てみた先日。
『ビッグアイズ』。60年代アメリカでブームになったという「ビッグアイズ」と呼ばれた絵画。その作者であるウオルター・キーンは人気を博す、が、実はその絵を描いていたのは妻だったという実話に基づく映画。営業力と口のうまさで絵を売り込み出世していく夫は享楽的な生活をし、妻は我が子にすら秘密で部屋に閉じこもり絵を描き続ける。そんないびつな生活が10年続くうちに、すっかり「もうかって」豪邸に住むほどになっていた。
内気で夫の言いなりに、日陰の存在として描きつづける妻マーガレット。連れ子だった娘とともにハワイへ逃亡し、そこで(きっと実話なのでしょう)「エホバの証人」の信仰者たちに出会い、夫に奪われていた自分の力と尊厳を取り戻していく。カルト教団に洗脳された人々が、キリスト教の聖職者の方のサポートを受けてリハビリしていくという話がよくあるが、それと似ているなと思った。実際、夫による人権侵害を許していたのだから、洗脳と同じような仕組みが起きていたのだろう。
ネットで見たレビューの中に、「監督はマーガレットよりも、人としてどうしようもないダメな夫であるウオルターに愛の眼差しを持っているのでは」と言っている人もいたが、私はそうは感じなかった。が、ティム・バートン監督なので、真意は読みにくいが。。。
きっとこういう話って、女性の権利が弱かった時代にはたくさんあっただろう。これからは男女関係なくなるかもしれないが。おかしいな、と相手のやり方に本能的に不信感を抱くことがあっても、特に夫婦であると、生理学的にも女性にとっては、男性のアストラルエネルギーには負かされてしまうことも多い。出力の強さから言って、アストラル体の力はやはり、女性よりは男性、そして感情的な人ほど強いものだ。社会的に女性が弱い立場であればなおさらに。
とは言え、「Arrival」のルイーズのように、アストラルよりもメンタルフォースで生きているような女性ならば、搾取されるようなことにはならない訳だけれど、この大きな瞳のこどもたちは、マーガレット自身のインナーチャイルドなのだろうなと思われるから、恐らく、「強い力によって抑圧される自分」という型を持っていたための、共依存的な夫婦関係だったのだろうと思う。
最後、連れ子である娘が年頃になり、大人の女性二人として手をとりあい、夫から逃げてハワイへ。そして法廷で勝利するという流れに、マーガレットに感情移入する人々はホっとするし、爽やかに見終えることが出来るだろう。他者から見れば、なぜ10年も夫のいいなりになっていたのか?と思ってしまうけれど、人間同士の関係はほとんど全てが共依存であり、自分の中の弱さの投影に、強者としてそれを支配する人を必要としたりする。自分なんて価値がないと思い込んでしまうと、何か少しでも自分をとりたててくれる人の存在を、(実は搾取されているにも拘らず)ありがたく思ってしまったり・・・人間模様は様々だ。
誰もがルイーズのように自己完結していない。
が、自己完結するということは、共依存の投影が要らないのだから、神のような永遠の孤独の中に座することになる。
しかし、孤独 aloneness と寂しさ lonlyness は違う。aloneness は独尊に通じる。他者によって自分を満たす必要が無いという状態からしか、ワンネスや覚醒やニルヴァーナは生まれない。そこに近道はなく、創造主のような孤独の疑似体験に身を浸すからこそ、多次元意識が拓けていく。そうなると、世界の主としてたった一人で現実界を創造している自分の中に、すでに全ての生命や現象があり、その中の全てに同じ意識が宿ることが、体験として理解される。「孤独」の意味もなくなる。
最後に、
『Arrival』に関してもうひとつだけ。
未来を見る・・と言っても、固定された未来は無いと個人的には考える。ゆえに、未来の様々な可能性が見える、という解釈で映画を見ていればいいのかな。様々な可能性の未来が生まれては消えていくのは、今この場で、何を選択するかで未来が変わり続けるからだ。そうなると、やはり、未来から現在を見るのではなく、現在から未来を作る、という感覚のほうが自分の中では自然だ。もしかするとそこは、監督ないし原作者と、思想的に違っているのかもしれないと感じた。
決まっている未来は無い。
だからこそ、常に、出会いたい未来に向けて「今」の生き様、「今」のエネルギーを作っていよう・・というほうが、自分としてはより重要な「メッセージ」だと考える。
Love and Grace,
良いお年を。