坑道のカナリア

「坑道のカナリア」。有毒ガスに敏感に反応するので、一昔前は鉱山へ入っていく坑夫達が、籠にカナリアを入れて行ったという話。それをアメリカの著名な作家であるヴォネガットが比喩として使い、作家や芸術家という人々は、世間の人々がまだ感知していない危険や社会の悪化を感じ取り、知らしめるという使命を持つものであるという、芸術論として語った。ひいては芸術家やそもそも芸術というものが理解されにくいという前提から、自らを含む作家・芸術家という立場を知らしめるための表現なのだろうと思う。

実際に使われてきた事例をみると、反戦などの意見表明など、やや政治的な場が多いよう。その論が展開されたヴォネガットの論文をちゃんと読んだ訳ではないので、なんとも言えないけれど・・個人的には反戦などよりももう少し、根源的な人類の問題や方向性に関する、芸術家のセンシティブなアンテナ、センサリーを言うのではないか・・と、思う。

芸術家、作家などを含めた表現者は、表現せずにはいられない人々であると思う。媒体はなんであれ、この「カナリア」に当てはまる人種、種族というのは「表現者」でくくられるのではないかな。そうでなければ、芸術や文学が好きだとしても、趣味の域でいいわけで・・・表に出せば、批判されたり嫌いだと言われたり、誤解されたり、楽しい事ばかりではない訳だけど、それでも、「表現」せずにはいられない、つまり深いところからの叫びがあるはず。

人間の思考や感情が結びついた顕在意識というのは、社会的な制約や時代の風潮などに染まりやすい。動物的な自己保存本能からいえば、その方が生存がしやすいからだ。でも、動物的な自己保存本能を抑えてでも、自分の立場をこの物質世界において、表そうとする。それが表現者、芸術家ではないかと思う。

実際には全ての表現者が「カナリア」とは言い切れず、むしろ傷や痛みや怒りなど、ネガティブなエナジーを社会にぶつける、エゴイズムからの自己表現も多々、あるだろう。けれど、坑道に向かうカナリアの使命は確かに、自らの身をもって坑夫たちの命を守る、というものであり、そのような思想家や芸術家・作家は少なくない。

若い頃、こういった運命に過敏で、ドラッグや自死で夭折するアーティストなどに非常に同情的だった。自分でも不思議なほど。。恐らく過去生などでたくさん、「浮かばれない芸術家」や「生活に押しつぶされ才能も認められず」などの、天からの祝福(才能や直感)と地上で生きることの狭間で、潰れていく人生を少なからず経験したに違いないと思っている。おかしなくらい、シンパシーを感じていた。

そんな二十代前半にとある集まりで、こういったこと(「芸術家の苦しみ」)へのシンパシーを語ったところ、学校の先生をしているという人に「僕はそういうの嫌いだな」と言われ、ショックを受けている時、「僕はわかります」と助言してくれた人が二人。一人は舞台の役者さんを目指す方で、もう一人は、出版社で編集をしているという方。その時、「やっぱり、芸術家の気持ちは芸術家にしか分からないものだな」と思ったのを、よく覚えている。当時から自称「作家」だったので・・・

けれどもまあ、何というか、こういう人に一番効いたのは自分が親になること。生きる、ということをここまで生々しく、力強く、笑いと涙で教えてくれる道はない。どこか危うい翼の折れた天使たちも、親になることで地上の人になる。エネルギーワークが無かったら、そして子供を持つことがなかったら、きっと二十代で人生が終わっていたのではないかと、思っている。

そうして今は、エネルギーの世界で人間の仕組みや世界の仕組み、大宇宙の法則がわかってくると、そういうギリギリな芸術家の生き様には、常に隙間が多く、足を引っ張る力が入り込んでくるのだという、芸術家をめぐる秘密のようなものがよく見える。才能があるということは、それだけ魂からの光の流入があるということ。それは逆の力からしても「美味しい」魅力があり、「波動の高い人が感情や周波数的にアップダウンする」のを、闇の力は何よりも嗜好するもの。また当人も、センシティブな感性は美しい世界の響きをキャッチする一方で、人をダメにするようなサウンドにも自分を預けてしまうことがあるのだろう・・・

メタフィジカルな世界でも、そういった事が起きている。情報も撹乱される。だから本当のライトワーカー達の仕事が進みにくくなる。アルガンザのジェネシス視点でいえば、坑道のカナリアの比喩が一番似合うのは、「アンドロセラフ」。アンドロメダから地球創生に関わるために降りてきているセラフ達が、地球で起きた様々な攻防や変動に巻き込まれ、その魂が人として生まれる道が作られ、地上で転生してきているパターン。芸術家肌、こだわりの多い、洗練されたセンスで知的好奇心の強い人が多い。・・が、内面にどうにもならないような深い淵を持っていたりもする。

この癒しはなかなか手強く、そうでない人々に比べるとかなり難しい。けれど、健全にケロっとして生き、さらにそれを超えて魂から生きていこうとすることだって出来る。そのためには、「堕ちたセラフィム」以外の要素を自分の魂の何らかのコネクションから、呼び出さなくてはならない。私の場合はそれは2005年に命がけの強烈な瞑想体験として起きて、以後、シリウス人になり(笑)・・去年からはアルクトゥルス人にもなり(笑)。

地球にまつわる様々な思いを持っている。元素や、デザインにまで遡る創成の記憶・・(だからこそ芸術家が多いのだろう)・・・個我を持たず淡々と関わる創造活動の中で、地球の質量が重くなって行き、人間達の意識とシステムは落ちていく。犠牲になり、再生され、人間界へ。その複雑さが、(アルガンザジェネシスヒーリングに照らすと)アンドロソウルを持った人の人生の難しさ、本人の生きづらさとして現れる。

けれどその複雑さに、呑まれていては・・負けていては・・翻弄されていては、今生の創造が本格的に身を結ばない。やりたいと意図すること、魂が望むことを表現し、創造的に生きながらも、苦悩にとらわれないところまで、自分を持ち上げ、整えていく。それが出来るのは、自分の強い意志から始まる魂との共同作業。

若い頃と違い、抜け出す方法は分からないのにただ同情する、なんてことはしない。少し前までのように、抜け出す方法が分かって自分は抜けられているのに、深みに居るアンドロソウルたちを無意識の領域で引き上げようとしたりも、もうしない・・先に進めと、言われているから。カナリアたちが、自らコミットし強い意志で、持ち前のセンサリーと創造的本能を、今生で思う存分に開花させることが出来るよう、ただ祈っている。

この、「坑道のカナリア」という概念を知ったキッカケは、先月下旬のジェネシスヒーリングの認定セミナーでのこと。受講者の方が用意してきたオリジナルワークが、「鉱山のカナリアのように優れたセンサリーと感性ゆえに、人々の前線に出ている、けれど傷ついている、という部分に効く」という、何とも優しい愛に溢れたワークで、モニタリングで体験させてもらった私も、感動的に響くものがあった・・

その後、調べてみてヴォネガット氏の「カナリア論」だと知った。ジェネシスのセミナーに来てくれていた Alphさんに、この度、ブログ記事にしても良いかとお尋ねして、了解を頂いた。ちょうど彼女の方でも、ブログにカナリアのワークについて書かれているようなので、ご紹介しておきます。

実は・・・

ジェネシスの認定セミナーの時はいつでも、受講生の方が用意してくるオリジナル光線のヒーリングの趣旨にピタッとハマる「役作り」が、どうやら私に起きるよう。その日の朝、「どうしてこんなに脆弱な私がこれ以上、前に進めるというのか」と天に向かって心で叫んでいて・・数時間後、Alph さんのワークを受けて、起き上がった時には「はい、頑張ります」とニコニコしていた私。。。笑

自分の無意識レベルの女優シャーマン魂には、いつもながら呆れてしまう。けれど、まだまだそんな叫びが出てくるエネルギーが、自分の中にあったのだなあ、と。

Alph さんは星巫女専科の1期、卒業発表においても非常にクオリティの高いエナジーワークを作っていました。エネルギーへの感性だけでなく、それを読み解くセンスや、説明する知識の引き出しも必要になってくるエナジーワークのクリエイション。今回、カナリアのようなレモンイエローの光を私もモニターしながら感じていましたが、それをシェアしたところ、Alph さんから坑道のカナリア・・の話を聞いて、体感と、効き目と、その日の朝の自分と、ワークの世界観がぴったりと一致して、感心したのです。

自らの経験上、自分ではどうにもならないというレベルの力が、自分の深いところを押さえつけていることは多々ありますね。ヒーラー、ヒーリングは、そんな時に専門家として、活用して貰えたらと。

ちょうど、第二世代のプラクティショナー伝授4デイズが昨日、終わったところ。いつものようにみんなのジェネシス層が改めて揺さぶられ、見つめるべきところを見つめた4日間は、不思議な天候や、鳥達の大群や、宇宙船の群れのような雲や、強風、みんなが帰った後に私一人で2度も見てしまったUFOのかつてない大きな光など、すでに3次元ではなく5次元にあり、自分たちのソウルと地球の歴史を傍で感じ続けるような時間として流れていき、スッキリさっぱりと終える事ができた。

これをもってようやく、ジェネシスプラクティショナー第一世代の伝授、カレッジ5期、星巫女2期、なども、ようやくここで終わった、そう感じた。

そして今週から、2018年度の「インテンシブ」、新しいシーズンが始まる。

Love and Grace,

Amari