人はどこまで恐れるのか–「 箱舟の7年」

最終年度としてのマスタークラス2つが始まった。土曜日、石巫女アースワーク専科でのアルプス水晶たちと、上は翌日曜日の、星巫女プロ専科コース、終了後の空。

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普段はテレビをほとんど見ない我が家は、数年来、食事時にだけ「英語を聞いていたい」という理由で、主にイギリス英語を喋っているDVDを見るのが常。何度かブログに書いた「Game of Thrones」や「ダウントンアビー」(どちらも世界的大ヒットドラマ)が、1話の時間が食事時にちょうど良いのと、超大作なので連続して日常的に流す用途に向いているので、登場することが多く。

前者はアメリカのドラマとして知られている訳だけど、俳優陣や裏方の技術スタッフなどはイギリスが中心。伝統的に歴史物の製作技術がある故だろうし、そもそも監督や原作者にもこだわりがあるよう。架空の大陸ウェスタロスの7王国の攻防を描くドラマで、それぞれの国や地域の役柄により、俳優たちの起用、そこで話す訛りなどを、イギリス各地の訛りに置き換えて、配役しているのだとか。色々なイギリス英語を聴く、それをストーリーとともに楽しめる作品。

で、最近は「ダウントン」を見ていて・・思ったこと。百年前のイギリスの伯爵家を舞台に、使用人や伯爵一家(三人の娘とその配偶者たち)や周辺の人々の日常を描く群像劇。社会的地位や立場も様々で、世代も四世代に渡る。貴賎を問わず、保守的で伝統を重んじようとする人々と、貴族制が崩壊しつつある時代の気風を感じている人々、その両者の間でうまくバランスしている人も、様々。

連続ドラマ故に、これでもかと問題が起きていく。そして解決も起きていく。でもまた次の問題が・・と。或る意味で長編ドラマは一山超えて終わってしまう映画に比べて、人間についての学びのエッセンスがある。自分でも『ガイアナ神謡集』を有料メルマガで出していた十二年前、毎週毎週の配信なので、最後に「ええ?次はどうなるの?」という終わり方をしてみたりする、ドラマ製作者の気持ちを味わっていた(笑)。同作は本当に、連続ドラマ並みに問題、試練が次々と起こる。。。

その、問題を生み出す神?の目線になってみると、結局、トラブルを起こすものは何かというと、天災などを除くと、やはり誰かの恐れの作動による。一見恐れに見えないものも、核を探して行けば、結局は恐れの種がある。人間の本能が恐れを知ったときから、それは始まっている。

ドラマを観る側、小説を読む側(そして書く側も)としては、恐れがあるから人間界のドラマとは展開される訳で、その反動としての喜びや愛とともに綴ることで、人々が感動したり共鳴したりする。ドラマを成立させるためには、恐れとはある意味で人の本性として存在している。が、自分自身の身になって考えてみると、どうなのでしょう。アップダウンや連続して起きるトラブルなどなく、穏やかに突き抜けて存在していることも、この世界で可能。それを望んでいる人や、そこに押し出される、押し上げられる人々も居る。「ガイアナ」の主人公も、最終巻ではそこに抜けていく。もはや何が起きてどうなろうとも、動じない、内なる衝動として何も起こらないという自分が、出来上がっていく。

人はどこまで恐れるのか。。。翻弄され、喜びや感動とともに苦しみや葛藤や摩擦を味わいたいうちは、恐れ続けるのだろう。魂がまだ良しと言わないのか、パーソナリティがまだ、味わい足りないと思っているのか。「恐れは幻想である」と受け入れた瞬間から、世界は変わるものですが、恐れは幻想なんだということを、受け入れられない自分があるならば、そこは見つめてあげて、声を聞いてあげる必要がある。

先日の石巫女クラスの最中、生徒さんが持っていた石井ゆかりさんの「星ダイヤリー」に「宇宙船やノアの箱船に乗り込むような約7年のスタート」との文言があり、去年から何度か書いていた、神智学に言う2025年の第四光線(テーマは統合と調和)の到来に向けて、今年から7年間、その光線を受け入れるための準備が人類の側でも起きるのだろうということ、そしてアルガンザでは昨年3月に迎え入れた10キロのマスタークリスタルが「箱船」と名乗っていることとも通じ、皆で「わあ!」と驚いていたところ。ちなみに、今日、5月16日がその始まりのよう。。石井さんの著書やサイトを、更に見てみようかな。

そして私が思うのは、これからの7年の変容というのは、神智学の7のサイクルを考えると、一年ごとに7段階に別れているのではないかと思う。1年ずつ、振るわれていくような?箱船というのは、そういうことだろう。周波数で分けられていくような。。「高ければ良いという意味ではない」と言いたい所だけれど、宇宙は数字で動くので、やはり数値で道が別れて行く。これを言い換えると、「いかに恐れを削ぎ落とすか」ということに、なるのではないかと。

そうそう 恐れと言えば、4月半ばに面白い体験をして、そのうちに書こうと思っていたこと。用事までに時間が空いたので、ふらっと立寄った本屋さんで、何となくウロウロして立ち止まった場所で、光るように存在が目に入ったのが鏡リュウジさんの「・・座の君へ」シリーズの、なぜか水瓶座と双子座だけが、代表して2冊棚に並んでいる様子。で、前から知ってはいたものの、タイミングというか導きを感じて買おうと思いたち、横で娘が「私(双子座)はもう持ってる。ママが買ってくれた。」というので(笑!よく忘れるんです)、自分の水瓶座を買って、その後用事に出かけた。

とある場所で、呼ばれるのを待っている間、あまりにも「普通」と状況や様子が違うので、さすがの私も不安がよぎった。驚くほど恐れの反応が出て、身体が強張るほど。で、気をとり直して「さっき買った鏡さんの本でも読んでいよう」と、開いたページに出ていた言葉、

「水瓶座の人は迷ったとき、『変なもの』を選ぶとうまく行く」

と来た。一人でふっと笑いを漏らし、そうだったそうだったと、我に帰る。実はその施設を選ぶ時に、ネット検索をしていて、いかにもという感じの輝かしい風を醸し出している一見華やかに見えるところが沢山、並んでいて、「一般の人はこういうのを見てそのまま受け取るのだろうな」と達観しながら、自分はネットの仕組みや背後を色々と頭で巡らせ、本物で間違いないところを選ぼうといくつか検索の仕方を工夫し、最後にはオーナーさんの顔で決めるという、いつもやる方法で決めたのだった。

なのに、実際に行ってみると、そのオーナーさんのシステムが余りにも「前例がない」ものだったので、たじろいだ。自分で直観を働かせて選んだはずなのに、それも忘れて。鏡さんの本、ありがとう&うちのガイドたちは凄い。と笑いながら、待ち時間で一冊を読み終えると「多数決の反対を選ぶ」「組織じゃなくネットワークを作る」など、ちょうど自分が昨年から今年、改めて仕事のアイデンティティを模索していた中で、自分の個性という原点に立ち返りながら感じていたことと、気持ちよく合致。

あなたの水瓶のなかには、無限の発想が詰まっている。しかも、ただのひらめきじゃない。宇宙から地球を眺めるような客観性。ゼロから新しいものを作り上げるクリエイティビティ。最初は反対だった人をも惹きつけていくストーリー。

水瓶座が中心にいる世界は、フラットで自由だ。それぞれが自分なりの個性を大切にしながら、手を結び合うこともできる世界。変化は偶然、起きるんじゃない。あなたが、変えるんだ。

「なぜ?」「こんなのおかしい!」そのささやきを、言葉に、形にして。奇人変人? 宇宙人みたい? その通り。だけど、新しい世界の扉を開いて来たのは、奇人変人、宇宙人たちだ。

『水瓶座の君へ』(鏡リュウジ/サンクチュアリ出版)

ここ数ヶ月、まさに自分でも問い直し、確認し直したことでもあった。ウンウンと頷きながら、鏡先生に感謝。多分このシリーズは、どの星座においてもその本質を大事にしていれば大丈夫と、背中を押すようなコンセプトなのではないかな。

そしてその日の、誰もやっていないようなシステムで仕事をしているオーナーさんは、私が咄嗟に発動した恐れのフィルターを通しては「人と違っていてアヤシイ?」だったものが、そのフィルターを外して我にかえると、それなりに自分が選んだだけあって、「すごく風変わりだけど全責任を自分で背負って一人でやってのけている達人」であった。。そう、私がセレクトの指針にしたお顔といえば、やはりお坊さんのような空気。変わっている事を、変わっている事がやりにくい日本という土壌で、それもサービス業なのに、あえてリスクを引き受けて、自分が正しいと思うことを実践している。社会にはおかしな習慣や思い込みや盲点が沢山あり、恐らくそれを一切排除し、一見不器用なようで、結果としてうまく現実を示しているというケースなのだと思った。

私がそのように安心すると、さっきまで人気(ひとけ)がなく静まり返り、外の天気も悪くてどんより暗く、いかにも不安になるような空気だったのが、急に「人の紹介で」という客からの電話や、次のお客さんが次々と。そしてオーナーさんが慕われ尊敬されているのが伝わってくる空気に変わった。外の雨さえ上がってしまった。。。笑

人は恐れを見ようと思えば本当に、無いところにさも恐れの要素があるような現象化をしてしまう。もうあまり恐れることも日常的には無い自分も、この体験は象徴的で、学びの要素を感じて笑ってしまった。この直前に鏡さんの「水瓶座・・」を買っていたことも含め、よく出来ている演出だった。そのオーナーさんも水瓶座かもしれない。業界や、社会の常識がおかしいと思ったら、行動してしまう。ある意味、革命家なのだ。シュタイナー学校にも、確率として先生や親などに水瓶座が多めな気がしている。世間の常識にこだわっていたら、ああいう学校に、それもリスクもある中でわざわざ子供を入れない。。。

今日からスタートするという「箱舟の7年」が、神智学でいう2025年以後の人類の上昇孤の進化、調和的なあり方への社会の変容への準備として用意されているとすると(人類進化を影ながら管理している世界は、実はアストロロジーのプログラミングの『製作者』でもありますから・・)これまで私たちを縛り付けつつ、飼い慣らすことで安住させて来たシステムがどんどん崩れ、本質、個々の力が生きる世界へスライドしていくのでしょう。

意識やエネルギーの放つ周波数で、どの程度、その変容の波に乗れているかを、一年サイクルで分類分けして、7年後に向けて送る刺激を、セクションごとに実験的に変えていく、強めにする、どうにも目覚めなければ大地変などもありうるかも?と、進化の管理者たちは箱舟プロジェクトに着手しているのかもしれない・・・ただ、ここで乗れる乗れないと二つに振り分けられるのではなく、それぞれの箱舟に分類されるのではないか。そしてその軸になるのは「恐れの解放」による、意識指数の上昇であるのだろうと感じている。意識が低いと、第四光線は受け入れられないのだろうし、意識の進化を止めるのは、エゴの抵抗つまり恐れなのだから。

選択に迷った時、恐れからの行動を取っていると、「恐れ指数」の高い箱舟から降りることが出来ず、また違うところに居たのにそこに戻され、同じ恐れをさらに克服のために繰り返し見せられるのかも。。

「あなたの小ささからではなく、あなたの大きさから、行動しなさい」

これはヨーガ哲学の中で見た言葉だったかな。

そこが試される7年である、ということだ。毎年分類されるような感じがあるのは、やり直し、階層の選び直しも7年の猶予が与えられているということかもしれない。何れにせよ、100年に一度あるかないかの、人類進化のプロジェクトの今後の方向性に触れる、7年になりそうだ。

Love and Grace,

Amari

坑道のカナリア

「坑道のカナリア」。有毒ガスに敏感に反応するので、一昔前は鉱山へ入っていく坑夫達が、籠にカナリアを入れて行ったという話。それをアメリカの著名な作家であるヴォネガットが比喩として使い、作家や芸術家という人々は、世間の人々がまだ感知していない危険や社会の悪化を感じ取り、知らしめるという使命を持つものであるという、芸術論として語った。ひいては芸術家やそもそも芸術というものが理解されにくいという前提から、自らを含む作家・芸術家という立場を知らしめるための表現なのだろうと思う。

実際に使われてきた事例をみると、反戦などの意見表明など、やや政治的な場が多いよう。その論が展開されたヴォネガットの論文をちゃんと読んだ訳ではないので、なんとも言えないけれど・・個人的には反戦などよりももう少し、根源的な人類の問題や方向性に関する、芸術家のセンシティブなアンテナ、センサリーを言うのではないか・・と、思う。

芸術家、作家などを含めた表現者は、表現せずにはいられない人々であると思う。媒体はなんであれ、この「カナリア」に当てはまる人種、種族というのは「表現者」でくくられるのではないかな。そうでなければ、芸術や文学が好きだとしても、趣味の域でいいわけで・・・表に出せば、批判されたり嫌いだと言われたり、誤解されたり、楽しい事ばかりではない訳だけど、それでも、「表現」せずにはいられない、つまり深いところからの叫びがあるはず。

人間の思考や感情が結びついた顕在意識というのは、社会的な制約や時代の風潮などに染まりやすい。動物的な自己保存本能からいえば、その方が生存がしやすいからだ。でも、動物的な自己保存本能を抑えてでも、自分の立場をこの物質世界において、表そうとする。それが表現者、芸術家ではないかと思う。

実際には全ての表現者が「カナリア」とは言い切れず、むしろ傷や痛みや怒りなど、ネガティブなエナジーを社会にぶつける、エゴイズムからの自己表現も多々、あるだろう。けれど、坑道に向かうカナリアの使命は確かに、自らの身をもって坑夫たちの命を守る、というものであり、そのような思想家や芸術家・作家は少なくない。

若い頃、こういった運命に過敏で、ドラッグや自死で夭折するアーティストなどに非常に同情的だった。自分でも不思議なほど。。恐らく過去生などでたくさん、「浮かばれない芸術家」や「生活に押しつぶされ才能も認められず」などの、天からの祝福(才能や直感)と地上で生きることの狭間で、潰れていく人生を少なからず経験したに違いないと思っている。おかしなくらい、シンパシーを感じていた。

そんな二十代前半にとある集まりで、こういったこと(「芸術家の苦しみ」)へのシンパシーを語ったところ、学校の先生をしているという人に「僕はそういうの嫌いだな」と言われ、ショックを受けている時、「僕はわかります」と助言してくれた人が二人。一人は舞台の役者さんを目指す方で、もう一人は、出版社で編集をしているという方。その時、「やっぱり、芸術家の気持ちは芸術家にしか分からないものだな」と思ったのを、よく覚えている。当時から自称「作家」だったので・・・

けれどもまあ、何というか、こういう人に一番効いたのは自分が親になること。生きる、ということをここまで生々しく、力強く、笑いと涙で教えてくれる道はない。どこか危うい翼の折れた天使たちも、親になることで地上の人になる。エネルギーワークが無かったら、そして子供を持つことがなかったら、きっと二十代で人生が終わっていたのではないかと、思っている。

そうして今は、エネルギーの世界で人間の仕組みや世界の仕組み、大宇宙の法則がわかってくると、そういうギリギリな芸術家の生き様には、常に隙間が多く、足を引っ張る力が入り込んでくるのだという、芸術家をめぐる秘密のようなものがよく見える。才能があるということは、それだけ魂からの光の流入があるということ。それは逆の力からしても「美味しい」魅力があり、「波動の高い人が感情や周波数的にアップダウンする」のを、闇の力は何よりも嗜好するもの。また当人も、センシティブな感性は美しい世界の響きをキャッチする一方で、人をダメにするようなサウンドにも自分を預けてしまうことがあるのだろう・・・

メタフィジカルな世界でも、そういった事が起きている。情報も撹乱される。だから本当のライトワーカー達の仕事が進みにくくなる。アルガンザのジェネシス視点でいえば、坑道のカナリアの比喩が一番似合うのは、「アンドロセラフ」。アンドロメダから地球創生に関わるために降りてきているセラフ達が、地球で起きた様々な攻防や変動に巻き込まれ、その魂が人として生まれる道が作られ、地上で転生してきているパターン。芸術家肌、こだわりの多い、洗練されたセンスで知的好奇心の強い人が多い。・・が、内面にどうにもならないような深い淵を持っていたりもする。

この癒しはなかなか手強く、そうでない人々に比べるとかなり難しい。けれど、健全にケロっとして生き、さらにそれを超えて魂から生きていこうとすることだって出来る。そのためには、「堕ちたセラフィム」以外の要素を自分の魂の何らかのコネクションから、呼び出さなくてはならない。私の場合はそれは2005年に命がけの強烈な瞑想体験として起きて、以後、シリウス人になり(笑)・・去年からはアルクトゥルス人にもなり(笑)。

地球にまつわる様々な思いを持っている。元素や、デザインにまで遡る創成の記憶・・(だからこそ芸術家が多いのだろう)・・・個我を持たず淡々と関わる創造活動の中で、地球の質量が重くなって行き、人間達の意識とシステムは落ちていく。犠牲になり、再生され、人間界へ。その複雑さが、(アルガンザジェネシスヒーリングに照らすと)アンドロソウルを持った人の人生の難しさ、本人の生きづらさとして現れる。

けれどその複雑さに、呑まれていては・・負けていては・・翻弄されていては、今生の創造が本格的に身を結ばない。やりたいと意図すること、魂が望むことを表現し、創造的に生きながらも、苦悩にとらわれないところまで、自分を持ち上げ、整えていく。それが出来るのは、自分の強い意志から始まる魂との共同作業。

若い頃と違い、抜け出す方法は分からないのにただ同情する、なんてことはしない。少し前までのように、抜け出す方法が分かって自分は抜けられているのに、深みに居るアンドロソウルたちを無意識の領域で引き上げようとしたりも、もうしない・・先に進めと、言われているから。カナリアたちが、自らコミットし強い意志で、持ち前のセンサリーと創造的本能を、今生で思う存分に開花させることが出来るよう、ただ祈っている。

この、「坑道のカナリア」という概念を知ったキッカケは、先月下旬のジェネシスヒーリングの認定セミナーでのこと。受講者の方が用意してきたオリジナルワークが、「鉱山のカナリアのように優れたセンサリーと感性ゆえに、人々の前線に出ている、けれど傷ついている、という部分に効く」という、何とも優しい愛に溢れたワークで、モニタリングで体験させてもらった私も、感動的に響くものがあった・・

その後、調べてみてヴォネガット氏の「カナリア論」だと知った。ジェネシスのセミナーに来てくれていた Alphさんに、この度、ブログ記事にしても良いかとお尋ねして、了解を頂いた。ちょうど彼女の方でも、ブログにカナリアのワークについて書かれているようなので、ご紹介しておきます。

実は・・・

ジェネシスの認定セミナーの時はいつでも、受講生の方が用意してくるオリジナル光線のヒーリングの趣旨にピタッとハマる「役作り」が、どうやら私に起きるよう。その日の朝、「どうしてこんなに脆弱な私がこれ以上、前に進めるというのか」と天に向かって心で叫んでいて・・数時間後、Alph さんのワークを受けて、起き上がった時には「はい、頑張ります」とニコニコしていた私。。。笑

自分の無意識レベルの女優シャーマン魂には、いつもながら呆れてしまう。けれど、まだまだそんな叫びが出てくるエネルギーが、自分の中にあったのだなあ、と。

Alph さんは星巫女専科の1期、卒業発表においても非常にクオリティの高いエナジーワークを作っていました。エネルギーへの感性だけでなく、それを読み解くセンスや、説明する知識の引き出しも必要になってくるエナジーワークのクリエイション。今回、カナリアのようなレモンイエローの光を私もモニターしながら感じていましたが、それをシェアしたところ、Alph さんから坑道のカナリア・・の話を聞いて、体感と、効き目と、その日の朝の自分と、ワークの世界観がぴったりと一致して、感心したのです。

自らの経験上、自分ではどうにもならないというレベルの力が、自分の深いところを押さえつけていることは多々ありますね。ヒーラー、ヒーリングは、そんな時に専門家として、活用して貰えたらと。

ちょうど、第二世代のプラクティショナー伝授4デイズが昨日、終わったところ。いつものようにみんなのジェネシス層が改めて揺さぶられ、見つめるべきところを見つめた4日間は、不思議な天候や、鳥達の大群や、宇宙船の群れのような雲や、強風、みんなが帰った後に私一人で2度も見てしまったUFOのかつてない大きな光など、すでに3次元ではなく5次元にあり、自分たちのソウルと地球の歴史を傍で感じ続けるような時間として流れていき、スッキリさっぱりと終える事ができた。

これをもってようやく、ジェネシスプラクティショナー第一世代の伝授、カレッジ5期、星巫女2期、なども、ようやくここで終わった、そう感じた。

そして今週から、2018年度の「インテンシブ」、新しいシーズンが始まる。

Love and Grace,

Amari

「青い鳥」円環構造

 

 

昨日アップしたピンクフローライト。水色やラベンダーの部分もあり、境界線のように走るピンクのラインも見えている。フローライトだけれどモルガナイト&アクアマリンのような高いオクターブを放つ、見たことないような美しいフローライト。

インド哲学の中から派生した仏教は、シャカの思想では「自己鍛錬」の道を説いたものだった。苦しみを生み出す己の心と徹底的に向き合い、そのメカニズムを超えて行くことを説く。その後、空の思想が深められて大乗仏教ができ、たくさんの宗派に分かれてそれぞれの宇宙観を展開していく。とはいえ、根底に流れるものは「ここに在る、煩悩で生きる自身ではないものに変容していく」という姿勢。

その哲学を懐に搭載して人生を歩んでいくということは、生きているうちに出くわす様々な障害、山、自身の内的葛藤などを、その都度、超えていくように・・少なくとも心がけて行く、という姿勢。これを人間として当然のことと見なす人々と、そうではない人々が居る。

先日テレビを見ていて(確かNHKの歴史系の番組)最後に司会者がコメンテーターの先生に質問した。「今の日本に足りないものは?」

その答え、「リア充で満足するのを否定するという態度」・・「現実生活が満たされていればそれでいいじゃん、という日本にある風潮は『負け』である。それは騙されているということなんじゃないか。」・・と、サラッと仰った。

インドから中国に入った仏教の流れの中から、新たに中国で生まれ日本にも入ってきたのが「禅」。元々はサンクスクリットの「ディヤーナ」から来ていて、インド仏教で説かれていた仏教者が守るべき3つのもの(「三学」)の中の一つ。「心を平静に保ち揺るがない、無我の境地」を意味し、=瞑想と説明されることが多い。

禅は中国で仏教の一派として生まれ、教義により主に二つの宗派に分かれて行く。一つの宗派は「ありのままを生きる。人はそのままでその人個人として完璧なのだ」と考え、他方は、「ありのままをどう乗り越えるか」をテーマとしたのだという。・・・いつの時代も、スピリチュアリティという分野では、やはりそういった分岐点があるのだなあと。

そして、「ありのままでいいんだよ」と考えた宗派の中でも、時代が降るうちに様々な解釈が生まれ、自分の本来性(本質)を、今あるこの自分とするか、または別次元に求めるか・・・など、思想の違いから5家7宗に分かれ、そのうちの臨済宗と曹洞宗が日本に入って来ている。

ニューエイジ的スピリチュアリティにおいても、同じようなことが起きて居るのは、むしろ然るべきことというか、人間の思想というものは、いつの世も同じだと納得が行く。「リア充信仰」が「負け」で、「騙されて居るのか」、そのまま(リア充)でいいのか。これも同じ分岐点だなあと感じた。

私の個人的な思想。基本的には、「生きている限り人は成長を心がけて行くもの」・・だけれど、自分一人で生きて居るわけではなく、世の中は複雑。時に、あえてダウングレードすることも、道に迷うことも、思想的にわからなくなることもあるだろう。子供の頃は、メーテルリンクの「青い鳥」について、「本当に大切なものは足元にあるのに、人はそれに気づかずに夢を追い続ける。が、いつかそれに気づく」というメッセージだろうと受け止めていた。けれど、四十代も半ばになって、漸くとてもとても深い意味が込められていたのだと知ったのは、禅で言われる円環構造に触れた時、「青い鳥」のことを想起したのがきっかけだった。

「必要なもの」「欲するもの」を探し求めて出向く冒険の旅。ジョゼフ・キャンベルの英雄神話論のように、また多くの神話的モチーフがそうであるように、様々な困難に遭遇する旅を通じて、そこにあるものは「何かを手に入れる」結果ではなく、「自らが変容する」というプロセス。言うなれば恐れの克服やいらないものの削ぎ落としや、視点や洞察力の進化成長があり、人間性の深まりや生きて行く知恵の習得があり・・・その状態で戻ってくるからこそ、「青い鳥は家に居た」と言う結果が顕現するのだろう。

世界中の思想や物語において「円環構造」「円環思想」は描かれている。「青い鳥」の物語がまさに語っているように、彼らが冒険を通じて変容していなかったら、鳥は元々の鳩のままだったのだろう。。。「世界を変えるなら、まず自分から」マイケル・ジャクソンも歌っていたっけ。(Man in the Mirror)

ヒーラー的に言えば、エネルギー状態、チャクラバランス、エネルギーの活性や意識指数の数値が上がって行けば、スロートチャクラから顕現する三次元の現象・現実・自身のあり方が変わるのだし、そのような人間が増えることで、集合意識が描き出す結果として、世界も変わるのだという、シンプルな法則。

できれば自分は何もせずに、世界がシフトして行くのを待とう・・・そういう人が、多いのではないかしら。。?

けれど、「あるがまま」で行くのならば、鳩が青い鳥になること=幸せ=地球のアセンション? は、永遠に来ないのではないか。同じところに居るようで、螺旋をいくつも上昇していくと、鳩だった自宅の鳥が、幸せの青い鳥であったという現象化が起きる。この円環構造から、何も今の時代が例外的であるとは、個人的には思えない。宇宙の創造の仕組み、エネルギーと顕現の仕組みからしか、現象は顕現しないはずだから・・

思想的な分岐点は、人々をどこへ運ぶのだろう?

誰もが青い鳥を見つけられたらいい。

Love and Grace

Amari