ちょうど良い真ん中を目指して

最近の Info記事で「南の海から(女性性的・リラ・プレアデス)」と、「北方から(男性性的・恐らくシリウス・ヴェガ)」的な要素が、人類学(遺伝子)レベル、文化人類学・宗教・民俗学レベル、そして更に下層にジェネシス原型レベルで、縦長の日本列島に流れ込んで来たのでは、という書き方をしていて、今回そのような表現に至ったけれど、考えてみれば人類学・民俗学的にはずっと分かっていたことで、それがジェネシス原型論の体感や瞑想ワークの中で、実感されたということだ。

更にこの点、なんとなくの考え事を繰り広げているうちに、あることに気づいた。

数年前にもうドラマは完結している『ゲームオブスローンズ』。私は(何度かSNS等でも触れていたけど)シーズン2〜3くらいの頃に存在に気づいて、まだネット配信で何かを見るという時期に入ってなかったので、その都度、DVDを買って観るようになった。まだ若大将は子供だったため(さすがにあれは見せられんでしょう・・)、DVDが届くと一人でこっそりと休みの日にドキドキしながら少しずつ見続けて、放送されるまで何年かブランクがあった最終シーズン(第8章)は待ち侘びた、という感じで。全シーズン、付録?付きのボックスが揃っていたりする(笑)。

私が映画やドラマについて書く時は基本的にネタバレなので、ご了承ください。一視聴者としてのワクワク感よりも、なぜか昔から制作者・原作者や監督などの目線で、何を伝えたいのか、ここに何を引っ掛けているのか、含めているのか・・という目で見てしまうので、自分自身がまったくネタバレを気にしない人間で、むしろ本などは最後の結論や後書きから読んだり、映画もメイキングを先に見たりするのでス。それと原作を読まずにドラマ版だけで書いているので、原作を知る方からするとずれている部分があるかも..この点もご了承ください。

そうそう。見た方ならご存知のとおり。このドラマの原作は「氷と炎の歌」というタイトルで、「七王国戦記」という副タイトルも付いている。架空の大陸に存在する7つの王国、それを束ねる宗主国の玉座を巡って争い合う、という。南部の国の「女王」と、北部の代表である「王」、それぞれが「炎」で「氷」であるわけだけど、この二人、最終段階でようやく実は親族であることが判明する(たしか叔母と甥になるのかな。年齢は多分同じくらい)。運命に引き寄せられるように、南から北上、北から南下しながら、それぞれの敵を倒して次第に自身に忠誠を誓う者たちが増えていく中で出会い、結ばれる。

なるほど氷と炎が出会って融合し、最後には王国に平和が戻るのだな〜・・と安心して見ていると、最終話でびっくりしてしまう。賛否両論、というか、ドラマが終わった頃はどちらかというと批判的な意見が多かったように見えた。けれども、ドラゴンや魔物、多少の魔術が出て来たりして「ファンタジー」のくくりに入りつつも、原作者が非常に歴史学に造詣深く、人間を人間臭く描ききっているという点で、「ファンタジー感」が無い、リアリズムの中で物語が進んでいく。それを考えると、あの結末は非常に、納得できる・・ドラマ、ではなく、実際の歴史の展開として自然、と言えるのかも。

炎の女王も、北部の王も、どちらも「犠牲」として大陸の表舞台から姿を消す。愛と人道で人々の崇敬を得ながら最終決戦まで来ていた女王は、七王国の統一を目の前にして、血筋が騒いだか残虐な支配者の顔を見せる。それを見た北部の王、彼女を人間としても同志としても愛していた者が、彼女を殺めるという決断を。そして彼は殺人罪で終身刑という。なんとも言えない結末。二人の人生を賭けた努力によって、専制的に玉座を死守していた一族は絶えて、大陸には平和が?訪れる。けれどその時、二人は居ない。

歴史の触媒のようになって、消えていく二人の英雄。氷と炎。作者はアメリカ人だそうだけど、北欧神話などの、英雄が最後には決して幸せにならない、むしろ貧乏くじを引くような犠牲で終わるというパターンに、影響を受けているように思う。歴史上たいていの英雄、カリスマは、確かにそのような定めを世に示して名前を刻んでいることも確かに多い。けれど全てでは無い・・「細く長く」じゃなくても、「太くても長く」健全に天寿と使命をまっとうした英雄、カリスマも居る。ゆえに、作者の思想的なものによるのかも。私はディスニー的なハッピーエンドもありだとも思う(現実としても。そういう現実創造力を発揮できる人間であれば)。

結末、は置いておいて。

言いたかったのは、日本列島でも、Game of Thrones (氷と炎の歌)であっても、もしかするとどの国でも、文明でも、「南・女性性・タマス」、「北・男性性・ラジャス」このセットが、法則として存在するのかもしれないという仮説。確かに、人間は南に居るとゆるんで、おおらか〜怠惰になり、女性的になる。北に暮らすと真面目〜神経質になり、男性的になる。その背後に、ガイアとヴァイアマスが南極と北極にそれぞれ座していたりしたらどうしよう。。地球上の海流やプレートの流れ、などすべて「ジェネシス原型」「ジェネシス神話」で説明できたりしたら。(広げ過ぎだけど「ニューエソテリシズム?新・神智学的にはその展開もライフワークとして良い)

旧石器時代人、もしくはもっと古い原人レベルかもしれないとも言われている、南から、北から、日本人の源流が入って来ていて、縄文人といっても、南方系と北方系で既に特徴づけされたいたはず。そこに到来した中国、朝鮮からの少なからずの「弥生人」=新説では、紀元前700年前から奈良時代(紀元後800ころ)までの、1500年という長期にわたって、渡来の波はずっとあったという。常に戦乱に悩まされていた中国や朝鮮では、その都度、亡命貴族・王族や、ボートピープルが日本を目指した。それらの渡来人たちは、またどのような中和作用、刺激をもたらしたのだろう。彼らが「中間」という訳ではなく、渡来人にも様々な文化・政治・宗教的背景があった。(帯びているジェネシス原型エネルギーも)

そんな「多様性」がミックスされて、天災の多いこの土地で、なんとか生きていく工夫を其々違う背景を持つ人たちが模索した。し続けた結果が、日本である。・・・という、新たな視点もあるかも。

よく言われている日本人の「動かない・空気を読む・人がしていることをしよう」という性質の原因は、稲作民であるため共同体意識が強い、とか、戦後のGHQの思惑、とか、徳川政権の支配体制が巧みだった(そこでの洗脳が抜けていない)などの理由が挙げられる。

けれど、もっと遡れば最初から、仕組まれて(用意されて)いたのかもしれない。上記の3つの要因・要素も含めて、プログラム、設定通りであったのかも。人類全体もそうだ・・眠ったように動かない、目覚めないように働くタマスの力と(その現象と)、争いばかりしているラジャスの力(とその現象)。南方的なエネルギーにおいては人々は欲深くなり、北方的なエネルギーに刺激され人々は争いを続ける。それすらも「歴史」あるいは「文明」というシナリオ通りの、現実、現象なのかもしれない。

その中から、中庸を見出し、抜け出す。何から抜け出すかって?

この「現象界」から。映画『マトリックス』と、同じみたいに聞こえるけど、もっと古く、仏教では・・引いてはその元であるインド哲学では、数千年前からそれを説いている。

両方あるし、二極だし、二限性だし、多様でフュージョンだけど、そんな中でも「善(愛)」とは何かを自分で見つけながら、「中間」という透明な場所を探している。それぞれ、何がどれくらい偏っているか、濁っているか、混乱しているか、そのバランスの悪さはみんな違う。二人として同じ人はいない。だからこそ、自分自身で自分のバランスの悪さに向き合いつづけ、(ひとつの生ではなく魂として)「ちょうどよい中間」つまり中庸を見出す。

『スローンズ』のジョン・スノウはその意味で魂の中庸、を達成したと言えるのかも。最愛の人を正義のために、状況判断して、大陸の平和のために手に掛けたのだから。

あ、そうだ。このドラマをジェネシス的に深読みしていて、もう一つ気づいたのが、南の女王の家系はドラゴンの末裔と言われていて、ドラゴンを飼い慣らし乗りこなす(炎を吹き空を飛ぶ西洋風ドラゴン)。ドラゴンは、東洋とは違って西洋では女性性と結びついていて、欲望、などのイメージもある。一方で北部には精霊たちの魔法の失敗のような形で生まれてしまった「魔王」が死者たちをゾンビにして軍隊を組織している、という。炎と氷、は、単に南と北だけではなく、人間の欲望とそれが齎す破壊力(南のドラゴン)、魔術・自然界が孕む危険と破壊力(北のダークネス)を表してもいそうだ。

話があちこち行くけれど。

ヨーガ哲学やヨーガの実践においては、菜食や禁欲が説かれている。けれどアーユルヴェーダは医療、健康術なので、禁止というのは無く「その人なりのバランス」をとることを考えていく。・・これもある意味、仏教でよくいう「方便」であると私は思う。バランスが取れていったら諸体が浄化されていって、禁欲も菜食も、難しいことではなくなる。むしろ自然にそれを指向するようになる。

人類全体では、行先は果てしない。けれど個人個人、「幸せになる」ための唯一の道は、「ちょうど良い真ん中」を見つけていくこと。これは間違いない。

きっと宇宙人たちも。宇宙文明もそんな振り子の揺らぎや、失敗や修正を繰り返し、同じように中庸を目指す途上にあるはずだ。

Love and Grace

Amari

変わる世界を追いかけて

FaceBookのオフィスダイヤリーを一昨日更新。そこで、今や動画の時代・・(に付いていけてないので練習のために/笑)と、ワークルームの動画を上げてみて・・やっぱり慣れてないのでアタフタして、(FBって本当に難しい、というか使いにくい、、)キャプションの編集がうまくいかず、一旦削除して、キャプション無しの同じものをもう一度上げて、文章だけ編集で付け加えようとしたらうまくいかず、「では、これも削除してもう一度トライ」と思ったけれど、今度は削除が「出来ません」と言われて。仕方なくそのまま。

何が言いたかったかというと、オフィスで瞑想をしていたある日の午後、半ばトランスから醒めてぼんやりしながら目を開けた時に、ちょうど差してきた日の光と、たまたま流していたバッハ、そして目の前の石たちがわわっと意識に入って来て、その世界に圧倒されて・・自分で感動してしまった。そこで急に思いついて、こんな感じで瞑想や仕事を日々、していますよ・・という、体験版のような動画を撮ってみたというお話。ちゃんとキャプションを付けられず、削除して再UPすることも出来ず。なのでここで説明をしてみました・・

時代に着いていけない、と言えば、実は私はいつもそうで、携帯を持つ、スマホを持つ、などは勿論のこと、2001年に育児中の気分転換にネット上にホームページなるものを持って、その後仕事を2004年に始めてから、世の中にブログというものが出来て、そのうちSNSが、インスタ、ラインが・・と、全てにおいて遅れに遅れて何とか、渋々、仕事の上で必要に迫られることを痛感してから導入する、という感じ。ブログも昔は存在せず、「日記」はホームページにその都度書いて、FTP転送して、と手間が掛かっていたっけ。

水瓶座は最先端のテクや情報ツールと相性が良いそうだけど、私はどうも古風な長老系の魂を引きずってか、常に「おくて」。基本的にメカにはとても苦手意識が今でもあり。正直なところ、2001年以来の、自分なりの努力で覚えて使いこなしてきた今では古風なサイト構築などの思考回路が、現在のような、クラウドで何でも(ネットショップやホームページも)簡単に作れてしまうという時代にしばし着いていけず、数年に渡ってかなり苦労しながら、頭の中を変換して、現在のショップやこのサイトに作り直し作業をしてきた。

最初からこれだったら、本当に便利で、何よりなんだけど、全く違う仕組みを一度インプットしてしまったから、新しい言語に置き換えていく様な作業、かなり混乱したり抵抗したり。。。を何とか、乗り越えながら(笑)リュミエールのショップもシステムにようやく、慣れて来たと感じられたのは最近のこと。

これからも、テクニカルな変化の波は激しくどこまでも・・移り変わっていくのだろうな。

テクニカルな事だけではなく、やはりどうしてもSNSなどで「常に繋がっている」女子っぽい感じが苦手らしい。群れる、というと言葉が悪いかもしれないけど。。「群れる」のが苦手。そもそも私の長い友人たちはみんなサバサバ系で、男気のあるタイプが多い。自分のことは自分で自己完結し、普通?ならば女性たち同士で話題に上がるようなデータ的な情報(それどこで買ったの?とか、数字に関わること、など)が行き交うことはなく、非常にマニアックな話ばかりしている(笑)。

けれど今や、若者たちは(それ以外でも?)Lineなんかが名刺がわりのようだし。何とか着いていくのに必死(笑)。

そんな中、横浜サロン時代の2016年に、オフィス用の部屋をもう一つ同じビルに借りて、スタッフさんを迎え、レンタルサロンルームなんかも始めて、その部屋に設置したMacのデスクトップが、巡り巡って今まで自宅の仕事用になっていたものの、動作が怪しくなって来たので、最近買い替えた。最新の可愛い色の着いたiMacは何ともチャーミングで、びっくりするほど動作が早い。性能が一気に良くなり、世界が変わったかのよう。そうなると、「やはりテクノロジーって良いな」なんて心で呟いている。笑

話はすっかり変わります。。

アーユルヴェーダで言う、ヴァータ/ピッタ/カパ と、サイキックの関係性についてぼんやりと考えていて。ヴァータは風と空(くう/アカシャ)だから、アルガンザ用語でいう「アンドロ」で受信が得意なタイプ。青い力。ピッタの人は火、だし、筋肉質だからきっと受信は苦手で発信、つまり念力タイプ。私の持論では、念力と筋肉は関係がある。。そして、筋肉質だとエネルギーの体感が、微細なものほどあまり感じられない(筋肉が持っている赤、火の力が邪魔をする)、けれど変わりに出力は強い。

確かに、赤要素が足りない私などは、念力を飛ばす才能?が無いと感じる。エイっと飛ばしても(紙飛行機のイメージ)ヒュウっと地面に落ちてしまいそう・笑。グループで話していてもアストラルフォースが強い人にすぐに話の流れを持っていかれる。赤が強めの友人によると、それはそれで悩みでもある様だけど。

では、「土と水」を持つカパのタイプの人はどうなんだろう?と考えてみる。と、いわゆる巫女タイプというか、憑依体質、シャーマン(神懸かり)タイプなのでは無いかと。青の(ヴァータの)受信能力と憑依体質は全く別のもので、受信(青)の力というのは、おそらく肉体やオーラ体も風や空気のように軽い(筋肉も無いし乾燥体質で潤いも少なめ)ため、結果「粒」が物理的にもエネルギー的にも細かくなり、オーラもフワっとしている。人当たりは良いけどプロテクションという意味では弱め。外からの情報がそのまま届く、響きやすい、という原理ではないかと。いわゆるエンパスはこちらかな。

カパは日本女性には多いのではないかと私は思っていて、小柄でややふっくらしていて、髪や肌や声なども潤っていて、性格は穏やかめ。「溜め込む」性質がカパ体質にはあるので、エネルギー全体的にヴァータのように軽い動きはなく。憑依体質は何ゆえか・・・ヴァータ(思考)やピッタ(感情)の動きが少ない(おっとりしている)事から、外の情報が入りやすく、居座りやすい、ということかな。。エンパスと憑依体質は、やはりメカニズムが違う。似て非なるもの。宇宙人タイプと、シャーマンタイプ、と言ったらいいかな。

そしてこの3タイプがそれぞれの配分で共存して、「ヴァータピッタ」とか、「ピッタカパ」とか、一人ひとり違っている。

・・と、そんなことを考えていて、足りていない念力が繰り出せるように、筋肉を付けようかと思っている最近(笑)。けれども水瓶座って「無筋体質」と言われていて、本当に筋肉が付きにくい。ヨガが一番とは思うけど、他にも何か良い方法を見つけよう。

Love and Grace

Amari

それぞれの役割 –時代の変わり目において–

 

久しぶりに会った人たちが、毎回纏っているエネルギーの様子や目が違う、ということがこの所多い。オーラの状態や、目を見ると、その人の調子の良い悪いは分かる・・これは誰でもそうだろうと。
特に意外と男性は、私が思うに直感なのか直観なのか、あるいは野生的な勘なのか、感じとる人が少なくない・・けれど恐らくこの物質社会、男性社会で、そこに蓋をして生きている。でも潜在意識的には分かっている。

本来、直感やハートは女性の方が素直に働くものだけど、それはある意味、社会の責任その他から比較的自由であったことによるのかも。でも情緒的である分だけ、「こうであってほしい」が働いて、直感で感じ取るものも、特に人間関係などにおいては編集が入った状態で脳で処理されてしまう為に、結局は直感をうまく活かせずに感情で事に処しがちなのかもしれない。

人の感情とは、中々難しいもの・・・。論理的・理性的でありながら、ハートの愛をうまく使って、人々や事に処していく。これが理想だけど、自分一人の範囲でそれがうまく行ったとしても、人生はそれだけではないから・・まあだからこそ与えられている地上で生きるという機会なのだろうけど。

シュタイナー、人智学研究者で、占星術研究もしておられる丹羽敏雄先生の本。私は余り、シュタイナーにせよ、神智学にせよ、それを解説した特に日本の先生が橋わたしをされている書籍は読むことはなく、何かに興味を持つとなるべく直球でその源泉に近づくようにしているので珍しい事だけど、以前ジェネシスをまとめている2017年に参考書としてたまたま、手に取った事をきっかけに、丹羽先生の本は幾つか拝読している。

今回こちらもそんな流れで、書店の天使?に薦められ、読んでみた。タイトルの通りで、シュタイナー的カルマ論、つまりこの日記やInfo記事で昨年の暮れ頃に触れていた、現世→死後の天界での生→来世 という魂(自我)の流れと、12星座と、カルマ、について優しい文体で解説して頂いている。

ところで神智学では(シュタイナーは「人智学」)黄道12星座による、地上の我々へのカルマ的法則は、シャンバラが作ったシステムだということ。それは考えてみれば、(シャンバラと呼ぶかどうかは別として)誰かが決めてプログラミングしていなければ、今、占星術は普及しているけど、そのように星と人生が連関し合うなんていう仕組みが出来るはずは無い。星座は、地球から見てどう見えるかの配置によって描かれていて、宇宙の普遍的事実ではないから。つまり占星術・占星学とは、自然・・というより、超自然的な法則だ。

12星座・占星術について、シュタイナーの人間観とカルマ論からの解説は、私としてはとても有り難く、また、メタフィジを学んでいる人、ニューエイジを基盤に思考する(人間は輪廻転生する、地球だけが魂の故郷ではない、と考えている)人には、おすすめしたい。12星座の概念は私は若いころから他者を理解するのには非常に役立っている。運勢のアップダウンのような事には余り興味はないものの、今世、カルマ的に運命付けられた「鋳型」の中をみな、生きているという理解と愛は、人間関係において役に立つ。太陽星座による人生への影響力を丹羽先生は「流儀」と書かれていて、それもまた良いな、と感じた。

私の以前からの直感では、今年の1月には「逆転」が起こり、4月には良き創造の波が加速する・・と感じていて、過去、こういった野生のカンは常に当然のように当たるものだった。が、今年1月も、この4月も、イメージしていた通りには「急に流れは変わらない」。そしてそれが、今、本格的な時代の変わり目の難しい変換点の特徴なのだろうと気づいた。   1月、何がどう、とは言えないものの、自分にとっては確かに大きなシフトポイントがあり(「意図」の重要さなどの)スイッチが入ったことは確か。その後、順調に行くように思っていると、逆風が来たという、エネルギー次元の体感がある。

同じように3月後半〜4月の頭は、3月前半の心地よい風が吹いて来た感覚から、また再びひっくり返されたような。あくまでも体感で、見えない世界の感触。 が、世界の周波数は確かに上がっていて、世界のあちこち、質が上がりつつある。意識的に目覚めた人たちも増えて来ている。それは間違いない。けれど、自分やその周囲のシフトだけではなく、社会、世界全体のシフトが起こっている時だからこそ、良風のあとには、逆風が来る。もう、このリズムに慣れたほうがいいのかも。。。

私はついつい自分自身がヒーリングと出会い、メタフィジカルに生き始めた頃からの「常識」、価値観でエネルギーの動きを期待してしまうから、ここは本当に切り替えないといけないなと思う。
同時に、これまでは自分が「カナリア体質」として、世界の変化をまだ誰も気づいていない時に察知しているような、それを人々に伝えなくてはいけないような感覚を常に開いていたけれど・・(たとえば「日本人の意識の問題」「環境問題」「地球の危機」などについて)さまざまな課題が現実レベルで一般の人々の周知となり、全体の意識の中にすでに常識として上がって来ている今、もう自分が(というかスピリチュアル、メタフィジカルの人々が)そこを敢えて語ったり書いたりする必要もないのだ、とこの数年考えてきて。

元々、ニューエイジ思想(出発はやはり神智学の誕生)などは、やはり反社会的な精神によるムーブメントであったはず。そこを切り替えて、問題意識はキープしつつ、既に全体にとっての議題となっている「地球を守ろう」「人間の尊厳」「自由そして平等」など、本来スピリチュアル分野が大事にしてきた思考を、一般社会と共有しながらも、スピ、メタフィジを貫いていく必要ってあるのだろうか?   それとも、ならばもう、その全体の流れに乗っていれば良いのでは・・(時代は変わりつつあるのだから)・・という問いが、恐らくこれまでメタフィジカルを探求してきた人たちに、浮上してくるこれからなのではないかと思う。

あなたはどちらを選びますか?

ここはもう、私としては答えはずっと昔から決まっていて、社会が追いついた場合?のメタフィジの役割のようなものを発揮する時こそが、本来の「ライトワーカー」的ソウルたちの仕事場、だと思っている。

けれどもまあ、社会全体を家族として、浄化やアップダウンの波を超えていく時代なのだと思うと、「特殊な世界」の「マニアックな人々」としてスピ、を実践している時よりも、はるかに忍耐力や持久力が、試されるのではないかと思う。スピ、業界の情報などは、人様のブログさえ見ないし、ワークショップ等にも行くこともないので全く分からないけど、どの分野でもそうであるように、これから個人もグループも組織も、試されていく時代なのでしょう。

Love and Grace
Amari

タイムカプセルその2・時空のはざま

昨日は(2023年2月の日記)、いつも通りオフィスに行ったものの、普段の当然のような仕事の流れに体が乗らずに、何故か部屋に吹き込んで来た独特の空気、情報とともに「時空のはざまの様な日」、と感じた。こういう事はそうそう無い・・・けれど、年に数回はあるのかなという気がする。

2020年、実家が奈良を引き上げた事で、奈良の家に残してあった創業当時からのショップ関連の書類、自分が学び始めた頃のテキストやネット情報のコピーや修了書、なんと新潟時代からの書類の山が、ダンボールで数箱、移動して来た。FaceBook のオフィス日記などで何度か呟いていたように、整理しなくては、と言っては少しいじって止まって。まだまだ最近まで、オフィス書斎ルームの大テーブルの下に。

趣味というくらいに整理整頓は好きな筈なのに、様々なエネルギーが詰まっている過去の記録ゆえか、その置き場所がうまく完全にダンボールたちを匿ってくれてほとんど目につかず邪魔にならないせいか、そのまま長い時間が経過。例えば、ヒーリングと出会った頃に貰ったヒーラーさんがたによるリーディングや、当時の自分の瞑想体験を記したノート、そして2004年にスタートしたショップの仕入れ、直輸入に関する膨大な書類。何一つ捨てていないという状態。

今のところ、まだ参考になる場面もあるから、ほとんどのものをそのまま、オフィスのキッチンの奥の棚につくってあった場所へ。そうそう、オフィスのビルは居住用のマンションだけど(何軒か店舗やサロンも入っている)デザイナーズ物件で、代々私が自宅として住んで来た賃貸のマンションと比べても、とても立派なキッチンやお風呂場がある。生活スペースではないのでそれらのゆとりの場所が、物品の置き場所のようになっていて・・

それでも、入れるものが無く余っているようなスペースの頑丈な棚があり、整理した書類の置き場所にはピッタリなのだ。

昨日は、二年前から引きずっていたこの仕事をようやく完全に終えた。何かの立場を「やめた」という段階では、人はそこまでの時間の記憶、記録を整理しにくいものだ。暫くそのままとっておこうと。けれど、更にその次のステップ、「やめた」ことを再び別の角度から、別の方法で、別のバックグラウンドで、「また始める」となった時は、取捨選択や区切りの必要が出てくるから、整理しながら次の流れを作っていくという作業が必要になるもの。

そんな流れの中で、フォトフレームだけを設置して中身が無いまま、祭壇のようになっていた故人を偲ぶ場所。急に思い立ち写真を印刷しに街に出た。こんなに簡単なことなのに何故か、2年もカラのフォトフレームを飾っていたのだ。その人が亡くなった日は、いつも乗っているバスを降り過ごして先のバス停で降りるとそこは縄文遺跡の広大な広場。そういう場所には次元のポータルがある、少なくとも必要な時には開いたりするのか、急にその場所でその人の魂を感じて、初めて悲しみと涙がこみ上げた。

泣きながら、バス停ひとつ分の慣れない夜道を歩いて家に帰り着くころ、晴天の霹靂。予報も出ていなかった急な激しい雷雨。それも凄い音、稲光、豪雨。そして地鳴りまでし始めた。雨が止んだ後も、しばらく地鳴りが続いた。「やはりただものでは無かったのね」と感じて、ホっとするような、「らしいな」と思って嬉しさ、笑いも出てきた。

プチシンクロとしては、昨日作業をしながら「前にもタイムカプセルがどうの・・って日記に書いた日があったな」と思っていたところ、夜にお客様からのメールでその日の記事についての言及があった。12月末の『タイムカプセルを開く』

昨日もまさにそんな日で、自分の普段のフローからは完全に降りて、ミクロではこの2年の。マクロでは2003年(まさにその頃からの記録、書類と向き合っていた)からの20年の、自分の味わってきた時間の整理をすることになった。そのマクロの中で、何がどう働いて直近のこの数年の出来事があったのか。ちゃんと対処が出来ていたのか、取りこぼしたものは?この先の課題は?と、先に進んでいくための整理も出来た。

人生には不可抗力でやってくる事象もたくさん。全てを直感したりできる訳ではない。・・というか、そういった要素が無ければ何も学ばず、ただ平穏な時間を過ごすだけならば何も人間界に降りて来ることは無い。まだ不完全ではあるけれど、自分の仕事を通して理解してきた人間の魂とこの世界に関しての(自分なりの)法則、歴史、エネルギーの相互作用の仕組みという「知恵の書」を通じて、ヒーラーやショップを起業してからも、その前の人生も、今ここの立ち位置も、見えて来ている。

人間的にあるべき部分と、「普通の人間」ではダメな部分と、さじ加減が難しい仕事である。以前のスタッフさんたちには「歴史と伝統のある神社に仕える神職である」というような意識で、サロンやショップに携わっているという私のスタンスを伝えた事があったけど、これはなかなか、難易度が高い(笑)。けれど、私が「毎日サロンを出る時に一礼をする」と話したら、大先輩のヒーラー先生は「もちろんです!」というお応えだった。やはりその姿勢は必要なんだろうと。高次との連携、導きでこそ、運ばれていく仕事。

時折スタッフさんを迎えると、色々な事が起きる。私がもう十五年やっていても起きていないようなミスやびっくり時変が(例えば関係する業者さんのミスや、スタッフさん自身のミス)が起きる。人によってはその連続で、ご本人がパニックに陥ることも。うちの娘は小さい頃、サロンに遊びに来ては眠気に抗えずソファで昼寝してばかり・・本人は手伝う!と言って来るにもかかわらず(笑)。そして大きくなってからも、ふだん家ではしないようなミスを(ものを壊したり)したりしていた。また、ベランダのラティスにペンキ塗りをする時は急に強風が吹いて気温が下がりとても続けられなくなり、私が替わったら風が止み、あっという間に終わってしまった・・と、手伝う人員には少なからず、日常とは違う波長へと周波数を持ち上げる(気を引き締める)ための「修行」が起こる。

そのような現象を体験して、娘は仕組みを理解し、オフィスに来る時は本当に「参拝する」ような姿勢で今ではやって来る。普段の自分よりも意識を持ち上げて来るので、ミスも起こらなくなる(もちろんミスがあったって良いのですが。当人が気にしてしまうので)。スタッフさんの中にもそれを理解し適応してくれていた方も居たし、うまく回っていかない事で混乱し、続けられなくなることも。今振り返るとそれはご本人たちの問題というよりも、同時に通ったり関わったりしているスピリチュアルなワークなり団体なり時にはご家族などから来るエネルギーが、アルガンザのエネルギーと拮抗し、摩擦が生じる為に起きる現象でもある。

まあ、それも含めてご本人の責任内、という事にもなるケド。この(シリウス式の)厳しさは私自身がヒーラーになってからずっと、歩んで来た道でもある。

これが最初に起こったのが、忘れていたけど今回の書類の整理で判明した、まだ奈良に居た時に親しくなったお客様がたと作った四人グループで、メルマガを出したりと活動を始めていた時だった。スタートして1ヶ月足らずで、今思うとアンドロっぽい方でよく起きるパターン、一方的に情報を捉え違えて傷ついて去っていくという・・この件が最初だった。私の個人的な人生では起きないような事だったので当時は驚いたけど、その後、何度そんなことがあったか。。。そのうちに、これが「スピリチュアル」という分野なのだと知った。

生徒さんやクライアントさんとは違い、スタッフさんや、一緒にプロジェクトを進めるメンバーとなると、厳しい高次の姿勢が現象化する。シリウスっぽい風が吹く。そこでどう受け止めるのか、試される。そこまでの自分の選択や流れ、高次やアルガンザとの縁を、信頼出来るかどうか、も。

「歴史と伝統ある神社に仕える神職」の意識?(比喩ですが)がないと、失敗ばかりが際立ってしまうような周波数。意識だけではなくエネルギーの実際も、鏡となって現れる。自分がその周波数に適応しようと努力するかが重要になる。思えばずっと、その努力をし続けて来た。変に力むこともなく、いつしかそれが普段の自分の生活とも融合し(まだまだ足りてないが)。人としての知恵を得るというのは、「神職」に染まっている魂としては逆に色々と難しさを感じるものだけど、双方を統合し、守るべきものは守り、伝えるべきものは伝え、前に進んでいく。

Love and Grace

Amari

煤(すす)が描いた黒い渦の話

今朝あった出来事。些細なことからの気づき。(23年2月の日記)

瞑想タイムのためにキャンドルを灯すにあたり、オイルウオーマーの蓋をティーライトの受け皿にしようと思いつく。しかし、以前ウオーマーとして使用した時のススがたっぷりとその裏側についていて、蓋を載せた私の片手は真っ黒に。さらにそこからこぼれおちたススにより、大事な仕事用のデスクの一部もまた真っ黒に。それを拭き取ろうとしたらば、ススって本当に粒子が細かいようで、かえって広がり、拭き取るためにティッシュで円を描いた通りに、デスクの上に怪しい魔法が降り立ったかのように黒い渦巻が出来てしまった。更には、床にもてんてん、と。

瞑想どころではなくなり、裏側にススが積もるように付着している小皿を洗いに洗面所へ。しかしそこでも、水に流れて消えていくことなくススは、純白の洗面台の水受け(掃除したばかり!)にアヤシイ黒い斑点を無数に出現させた。・・せっかく早起きしたのに。朝から面倒なことになったな、と思いつつ、淡々と対処を始める。まず洗面台は届いたばかりのヒバの粉石鹸ですぐにきれいに。何か象徴的な出来事だと感じながら、ヒバ(ヒノキチオールを含む樹木はシャンバラ系、ヴェガ系と感じる)の白さと清涼な香りで黒い点々を一掃したという気持ちよい感覚を味わい。

問題の部屋のデスク。アルカリ系のスプレーやウエットで拭いてみたけど殆ど効果は無し。ふと目についたのが、体の凝りなどに効くいつもお世話になっている、オーガニックのボディバーム。こちらはローズマリーの香り。体に塗るものであるにも関わらず、天然木の天板についたスス汚れは、ミツロウで落ちるのではないかという直感があった。試してみると、びっくりするくらいに落ちる。そう言えば、無垢材の家具や床板などに使用するミツロウがあったっけ・・と、仕舞ってある場所へ取りに行く。

戸棚を見ると、同じコーナーにオレンジオイルが居た。こちらも同じく無垢材や、ギターのボディなどの木の部分のお手入れに使用するものだ・・・このオレンジオイルで、デスク上に描かれていたアヤシイ黒い渦は簡単に見事に綺麗になり、よくよく見ると Wood Cleaner & Polish と書かれていた。そうか、クリーナーだったのか。今までワックスのようにしか使っていなかった。汚れを落としてくれものだったのね、と気づく。

デスクの天板、全体をそれで綺麗に。以前も一部にほんの少しだけ、付けてしまっていた同じくキャンドルやインセンス由来のススも、ティッシュでこすってかえって木目に残ってしまっていたけど、それも見事に綺麗に。

こんな些細な出来事から。洗面台やデスクが以前よりピカピカ、綺麗になり、自然派のクリーナーでそれぞれアロマとともに磨かれてリフレッシュされる姿に、何かピ〜ンと来るものがあった。ちなみに同じくアヤシイ黒い円が描かれた私の左手の平は、普段から使っている月桂樹オイルのアレッポの石鹸できれいになった。

デスクの片隅には、以前からスス汚れが小さく付いていたけど、小さいし端っこだから、まあ良いかとそのままにしていた。同じものが、さらに目立つ場所に大規模に展開されてしまったら、そのままではデスクは使えないから、今すぐ解決しなくてはならなくなる。動くことを意図する。そして使える手段を探して・・ひらめいて、結果、以前よりもずっと良い状態へとリフレッシュ、以前からの小規模の汚れもまた一掃されて、全体でリニューアルする。

セイキムレイキの伝授を受けた時に先生から、「小さなシミだと思っていたものが、より強い光が差して来たことで大きな汚れだったと気づく」という言葉を聞いていた。セイキムの高く強い光には、そういった現象、変化のプロセスが伴うものだ、と。「光と闇の統合」がテーマであもあるセイキム。それまで大人しくして隠れていた「闇」が、出て来たりするから中々に、伝授の場においても波乱がある。(だからこそウスイ、カルナでしっかりと自己浄化をしてから臨むべしと考えている)

時代の変換点も、個人の変化の時も、それまでは「小さな汚れだし、別にたいして邪魔にもならない」と放っておいた(共存していた)ものが、もうそれ以上は放置してはおけないという段階が来て、向き合わされると大きな問題として浮かび上がって自己主張したりするのだろう。社会は今、そのような段階を迎えているのだろうと思う。片隅でひっそりと存在する汚れならば見過ごしておいてもいいのかもしれない、けれどそうは言っていられない影響力、広がりが現象化し、向き合わざるを得なくなる。様々なジャンルで、今、これから、より顕著にそれが起きていく。

大きな変換点においては、小さなシミも大きな汚れとしてクローズアップされる。炙り出されて、もう「小さいから」と隠すことは出来なくなる。

地表世界の周波数は上がっている一方で、集合意識場がそれと比例していない感じがするのも、まさにそういうプロセスにあるゆえだろう。「いやいや、世界は何も変わっていないよ。今までのままだよ。」という空気が一番、要注意だろうと思う。

自分自身が強くまっすぐ立っているから、「大丈夫、世界は私たち自身が創造するのだから」と、信頼して慌てずに在るのと、事なかれ主義で「楽しさ」や「気持ち」を重視してただ自分の世界をキープし続けるのは歴然と違う。けれどその両者は見分けがつきにくく、ぼんやりしていると同じだと見えてしまうものだった。今までは。

他の国々では当たり前のような人間性の話が、日本では段階を踏んであえて説明しなくてはいけないような事になっている。世界経済において「日本病」という言葉さえ生まれてしまった今日だけど、経済・社会だけではなく何より精神における「日本病」を、自覚して抜け出す人々の空気を、今年、2023年は感じられるだろうか。

Love and Grace

Amari

苦しみも悲しみも幻想

木曜日の祝日と、金曜を挟んでまた週末が続いたので、仕事のバランスをとりにくいここ数日だった。時節の個人的および、アルガンザ・ネットワーク的な分析としては、月末の「聖堂」の区切り目と、特殊なワークだったその内容のエネルギー的余波が落ち着いて来たゆえか、次の空気感として、エルフ界の、これまでと違うタイプの情報と課題が来ているように思う。リラやアルビレオの「母」テーマをこれから纏めようと思っていたけれど、あっという間に切り替わった気がする。

スベクヒャン・・記事はまたしても、タイミングを逃したよう。アルビレオの原型ストーリーは新しい話題でもあるし、ジェネシスにしては珍しい、宇宙次元の物語でもあるので、さほど深入りしなくても良い、というか、深入り出来ない難しさがありそう。カルマの法則やエネルギーシステム、ソウルシステムを、ようやく私たちは理解しつつあるわけだけど、それはあくまでも地球モデル、であり、アルガンザのワークでいう「ソウルインテグレーション」等がそうであるように、物語を垣間見た所で、解釈がとてもとても難しい。

アトランティスやレムリアなどのジェネシス層であっても、この物質界とは仕組みが違うため、理解や説明が「とても」難しいけれど、それとは桁違いに「とてもとても」難しいのだ。

そう。だからシュタイナーの著書などは真実味を感じられる。アリス・ベイリーや、神智学の祖たちの著作も。けれど、スピの世界によくあるように、別次元や別の星系などの本来仕組みが違う世界の話を、あたかも地球の私たちが知る現実や歴史を語るように説明する手法は、かなりの正確さ・誠実さを大胆に省略している事になる。そこには昔から(実は、ニューエイジに傾倒し始めた当初から)密かに疑問を感じてはいた。

けれども。情報が伝わらないよりは、大胆に省略されていても、伝えてもらった方が良いこともある。より正確さ・誠実さを求めるならば、神智学やシュタイナー、インド哲学などに歩み寄っていくのが良いと思う。

エルフ界の新たな層、局面、というのは・・きっとそれぞれ、ジェネシスのプラクティショナーさんたちも時節的に今、自分ヴァージョンで追体験しているかもしれない。そこでセッションを受けて、リーディングを貰っているクライアントさんにも、エルフ界の原型についての情報が出ているかもしれない。必ずしも皆が一様に同じ部分が出るわけではないと思うけど、私が個人的に感じ取って掘り下げてみた結果、見えて来たのは、

本来5次元の存在であったエルフたちが、アトランティスで起きた天下分け目の戦争の戦力として加わるために、「受肉した」つまり物質界に「転生」ではなく、特殊な方法をとって物質化した時の不快さや、不具合に対して行われた何らかのエネルギーおよび肉体的な「処置」(物質的な存在らしさを獲得するため、リラやアンタレスの、つまり黄色や赤のエネルギー(或いは遺伝子)の注入のようなことを行った)による、苦痛など。

まとめると、「この世に物質体として存在すること、そのものへの不快感」そこから来る、今の私たちに残る「アストラル」データーとしては、憂いや、悲壮感。けれどそれを抑え込むための使命感や任務感、そこで生じる摩擦エネルギー。・・・このような入り方をしなければきっと、ソウルは肉体をもって生きることはただ喜びである、のかもしれない。

私自身は上記のような感覚を若い頃に(おそらく、幼い頃も)強く感じていて、苦悩した時代さえあったけど、さすがにヒーリング生活を20年近く過ごして来て、「自分の問題」として感じることはもう無くなっている。けれど、先日の「聖堂」からのエネルギーの動きや、確かにその時に感じた「受肉させられるための再組成」のような体感は(この辺りはまだ分析出来ていなかった為、参加者のシェアレポートには書いていません)、心地よいものではなく、その後も分析の対象となっていて。・・ようやくピンと来たところ。

サイキックアタックも、自分と全く関係のないものを受けることは無いから、そういったエネルギーも含めてトータルで感じ取って、サロンルームでソフィア源泉等とワークした結果、上に書いたようなことを受信、理解した。同時に、かつて2017年の冬頃に動いていた(今では「ジェネシス」神話に含まれている)闇側に囚われて悪用されてしまったエルフの男性体の記憶、そこから来る(本人は自覚無く、何か現実のキッカケから感じるだろう)苦しみ、混乱・・も、また次の波紋、別の層のソウルたちには、今、届いていきつつあるように感じた。目覚めや癒しの波紋は、グループごとに少しずつ、広がっていく。

この「敵側に囚われた男性体たちの記憶」は、恐らく鬱や統合失調、などの精神疾患として、現世では現れるのかもしれない。自分は悪だという刷り込みが魂に残るため、深刻なのだ。

また、エルフだけではなく、最近は同じように悪用されてしまったセラフ、も、ちらちらとセッションで出てくる。セラフだけに、より静かで分かりにくいけれど、影響は割と強烈で、これを持っているソウルは、恐らくエルフ以上に苦労して来ていると思う。どちらのケースも、ジェネシス光線の「ノストラム」や、「グレースオブセラフィム」(エヴォリューション)、ウリエルのターコイズの光線、「ラムネゴールド瞑想」(アルガンザのカレッジのオリジナル瞑想)、そして「レムリアンセクレッドレイキ」も、処方箋になる。

そんなジェネシスの原型フィールドの動きを感じつつ。「白い聖堂」後の恒例のようになっている、体や現実が勝手にシンクロして動いた結果の物理的な変化が、少し遅れて昨日、今日と。自宅と、オフィスの、模様がえ、配置換え、それによる気付きや新たな出会い、などなど。意図せずに起こるところがポイント。

オフィスでは、古い書類棚を整理していて、ライタリアンなどの古いテキスト、最近のテキスト、などが出て来て・・登録用紙の大量のコピーは、裏紙を再利用しなくてはいけないくらい沢山あったりして、「ああ、引退したんだなあ」と、今になって(!笑)しみじみと噛み締めた。まだ遠隔セッションは受付しているとは言え。

そういえば、「辞める」ことへの喪失感のようなものさえ、感じる暇さえなくここまで来たなあ、と。そして、現場でヒーラーとして、ティーチャーとしては言いにくい事や、記事など書いていてもお客様たちの顔が浮かんでしまって、出力チャンネルをやはりそこに合わせるという、癒し手、ティーチャーなら当然の配慮や寄り添い方から、一歩引いている今の自分の立ち位置や視点を・・・ここまで導かれて来たことに対して、とても感謝が湧いていた。

特に自分のようなパーソナリティでは、顔を合わせるサロンやスクールをしていると、その場所でのニーズに応えることにチャンネルを固定してしまう。そうなると、この数年やって来たような、プログレッシヴやジェネシス、セイクレッドレイキその他の執筆は出来なかっただろうし、これから先も。

棚を整理したり新たに配置したり仕分けしたりしながら、反面的に見せられる出来事や、逆向きに引っ張る力も含めて(笑)、すべて起きるべき事が起きて、パズルのピースになっているのだということを改めて実感。

ワンネス意識のような境地に、しばし浸っていたここ数日。

何となく、むくむくと、全体の周波数が上がっていく、時代が開けていく予感とともに。

タイトルについて。人として生きるということは、「課題」を情報として搭載し、生まれ出ずるということ。過去生の癒しなどを行うヒーラーでありながら言うのは変かもしれないけど、過去生含めて、カルマや運命すべて「情報」のインプットであるとさえ思っている。ある意味、プログラミングだ。

けれどそれを自分に課題として与えて、今世生き抜くことを決めているのは自分自身の魂。「情報」は情報として扱って、然るべき方法で癒し、リリースしていけば、自分の思うような自分へと作り変わっていく。魂はそれをやるために人間界にやってくる。よく言うように実際に、「現実を作っているのは自分自身」であるし、未来を作っていくのもまた、自分の意識、意図なのだ。

Love and Grace

www.arganza.earth

Message

というタイトル(原題は「Arrival」)の映画が好き。以前書いたことが。

『Arrival』『Big Eyes』から考える「孤独」と「共依存」

本当は、前投稿のつづきで、以前FaceBookで触れた事のある韓国時代劇の『守百香』(スベクヒャン)に見る、ジェネシス神話のアルビレオ恒星をめぐる原型ストーリー分析、を、書こうと考えて既に下書きしてある。けれど、皆さんもお聴き及びと思います、30日の韓国での事故を受けて、ドラマの話と関係ないと言えばそうなのですが、やはり、自嘲しようかと思い。自分もそのような気分にはなれなくて。

30日前後、世界では「大きな事故」が相次いだよう。今朝の日本のダイジェストニュースでは、韓国の事故と、ソマリアの爆弾テロ、インドの吊り橋崩落、と、珍しく海外のニュースが続いて。どれも100人以上の方が亡くなっている大惨事。ソマリアは事故では無いものの、ほぼ同時に起きているという所で、感じる、考えるものがあった。

日本で天災が起きた時も、いつもこういう事を書くことに気を遣いつつ・・ある意味で、まあでもそういう仕事、立場なのではと思う所もあって、いつも書いている。犠牲になった方々に落ち度があるという意味では、決して無い。

カナリア(最初に変事を察知し騒ぐという意味での)族の杞憂であって欲しい、と思いつつも、パンデミック以来、やはり人間社会このままで良いのだろうかという思いが強い。いや、多くの人に意識変化が起きて、働き方や社会のあり方も良いほうへ動いているという事は確かに、あると思う。けれど、逆の力も強く働いて、変化を自然な形で自分に取り入れる用意が出来ている、既に歩き出している人々が、それほど多数ではないのかな、と。

歴史上常に、事前に察知してあれこれと声を上げる知識人の方々、学者の方々などがいらっしゃる。パンデミックが始まるよりも前に、好きで見ているNHKのドキュメンタリーなどで、特に経済学などの一流の方々が、人間社会の崩壊の危険性を既に専門家ならではの分析力で語っていたし、科学者の方々も、地球上の生命が絶える大量絶滅の可能性、強い危機感を訴えていたりする(やはりそういう立場を表明するのは海外の学者が多い気がする)。

同日に世界で起きた3つの事象の重なりに「これでいいのだろうか」という、毎日感じている想いがまた、高まった。

ミャンマーの内戦はどうなっている? ウクライナ戦線はいつ終わるのだろう? シリアや、アフガニスタンは? 気候変動を毎日、普通のニュースでレポートし、一般の人々の意識に情報を注いで欲しい。全ては繋がっていて、自分たちは安全だから大丈夫、という事など無い。

邦題「メッセージ」と名付けられた映画『Arrival(原題)』は、宇宙人たちが地球に、このままだと危ないよという警鐘を鳴らしにやって来るという内容だった。

人々、群衆、転倒、崩落、爆弾テロ・・・この重なって報じられた事象に、私はとても「メッセージ」を感じてしまった。

私たちはパンデミックで「目を覚まし」たらば、これまでと同じように「楽しむ」「食べる」「遊ぶ」=欲を満たす のではなく、楽しむ、遊ぶ、食べる、にしても、これをキッカケに考えを深めて、変化を受け入れる必要が、ある。あった、のではないかと思っている。禁欲すべしという意味ではなく、生活や意識の質を変えていく、結果として、ライフスタイルも変わっていく。そんな人間社会のシフトが、必要だと言われているのだろうと。

・・と、相変わらずいつも同じようなことばかり。多分この15年以上ずっと、同じようなことを言い続けていると思ふ。(笑)

Man in the Mirror ということで、自分の生活や思考の中で、サットヴァを高めていこう。

P.S.

そうそう、先日の記事をUPして読み直している時に気づいたのですが、前々記事「ネガティブな執着」が、いつの間にか消えていました。メインブログに移動したその後の記事の削除作業をしたのは確かですが、その時に一緒に消してしまったのか? チェックボックスにチェックを入れなければ消えることなんて無い筈なのに、消えてしまいました。怪奇現象ですが・・・検閲(5次元からの・笑)が入ったのかもしれません。

いつも時間を掛けて書いた記事が、UP前に消える事で「ああ、この内容はダメなのね」と悟るものですが、今回はUPして暫く、読んでいただきつつも、「そろそろ下げよう」という事だったのかもしれません。

アリストテレスより「嫉妬とは、他者に起きる善なることを悲しむ行為である」というお話、他者に善が起きるのが「悲しい」だなんて、人間の心とはなかなか病み(闇)が深いのだな、というのが概要でした。

Love and Grace

始まりと原郷、そして未来。

イギリスの新首相が立候補1名で即決された。報道では、日本でも「イギリス初のアジア系首相」とか言われている・・海外メディアの表現を邦訳したのだろうけど、実際に「アジア系」という印象は少なく、スラリとした長身、長い手足、話すそぶりや顔立ちも・・イギリス人だなあと見る。白人の血が入っていると思いきや、ご両親ともインド系とのことで・・ アーリア人種、印欧語族とはこういうことか、と朝から考えゴトが壮大に広がる。

共通の言語を話すひとつの集団が、東〜中央ヨーロッパの辺りに居て、それらがロシアなどの東欧、西ヨーロッパ、インド・ペルシャ(イラン)さらには南ヨーロッパのギリシャ、イタリアまで、分布したという。共通のひとつの文明を呈していたという話を、シュタイナーなど神秘学方面の人々は「統一時代」と言う。これに基づくと、少なくとも南インド以外のインド人は「アーリア系」インド人であり、インドに住む事で肌の色や多少顔立ちが変化した白人種、という事になる。
けれど考古学や言語学においては更に複雑で諸説あるよう。

この「印欧」アーリア系に含まれる人々は、手足が長くてすらりとして肌が白く彫が深い顔立ち、という事になっている。神智学も、その手の分野が流行した?19世紀に生まれていて、人種や文明に関する神秘的な視点が文献に伝えられる。けれども・・当時の時代の風潮や、空気感の中で編まれたものだから、幾らか修正が必要なのだろうと個人的には思っている。それにしても、石器時代から、青銅器、鉄器時代への移行期の中で、人間の質や文化がどう変遷していったか、これは若い頃からの個人的な強い関心テーマなのだ。

「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」もその興味関心の土台の上で書いていて、舞台設定は今から11000年前(ハピ)〜ガイアナのシリーズ(?!)の最後は、9000年前ころ(紀元前7000年)を想定している。「統一時代」と言われるものは、その数千年後になる訳だけど、それらの、「物証があって今の私たちの歴史観において「先史時代」と呼んでいるもの」の「更に前」の、「失われた時代」を描くことが、自分のコンセプトでもある。
つまり、神話の様な「統一時代」を更にさかのぼり、アトランティス終焉後の「リセット」から、現在存在が知られている原郷的な文明に至るまでの空白の時代。

『なぜ今こうなっているのか』・・が、いつも知りたくて仕方ない。

空白・・と言っても、現時点で世界最古と言われているメソポタミアはだいたい7000年前、か。日本の縄文だって立派な文明、という説もあるけれど、そこは「文明」の定義とは何かということなってくる。

話が逸れてしまったけど、新首相のスナク氏については分からない、御先祖に白人系の方が居るからなのか、アーリア系インド人の方がイギリスの知的・上流層で磨かれているとあの様なイギリス紳士風になるのか、、ともあれ、「アーリア系」にはどうもコンプレックスを(そうでない)民族は無意識に持っているだろうし、「アーリア系」に該当する方々もおそらくは無意識レベルで、差別ではなくとも区別する感覚はあるのだろうと思う。

日本人は、自覚している以上に実は、差別主義者だと外国の方々には思われている。差別するつもりはなく、どちらかというと「島国根性」なのだと思うけど・・外からやって来たものは、崇めるか、近づかない様にするかのどちらかだ。そこに悪気は無かったりする訳だけど、そのどちらもが、された側は「人間扱いされていない」と受け止めるよう。

地理的に、古代中国の戦国時代や、朝鮮で内乱が起きた時などに常に、新しい色々な物を携えた人々が流れついて、牧歌的に暮らしていたホビットのような縄文の人々はその都度、びっくりしながら、受け入れて、融合してきた筈だ。そうしていつしか出来上がった「日本」という文化。鎖国をしてアイデンティティを深めて行った先の、近代化、敗戦、復興。そして平和ぼけという幸せな境遇を経て、
私の密かな危惧は、数十年後、いや数百年後、日本列島の人々は果たして日本語を話しているだろうかという。出来れば残したいと、誰もが思うはず。

興味深い、と言ったら今の時世的に語弊があるかもしれないが、ウクライナ・ロシア国境付近というのは、上記の「統一時代」(つまりヨーローッパと中東・インドを含めた全域)の文明の原郷(ルーツ)、と考えられている場所でもあるよう(これについても違う学説もある)。その地から拡散した現文明期の何らかのカルマの昇華が今、始まったのだと考えられなくもない。
そのルーツに属さない東アジア人やアフリカの立場、役目、演じるべきキャストは何だろうか? 世界地図がこれから変わっていくのだろうか。平和ボケや島国根性では、本当に私たち日本人は固有の文化や言語を、失ってしまうかもしれない。

どのように始まって、どうして今こうなっているのか・・を、実学ではなくメタフィジカル、秘教的な立ち位置から考え、パラレルな「歴史」を描いていく。。自分に出来ることはそれで精一杯かもしれず。

Arganza のHP内の日記「A Diary」に徒然の雑記として書いていたものを、長くなったのでこちらに掲載。そのため、内容まとまらず中途半端ですが、お許し下さい。

Love and Grace

– A Diary – : Office Arganza HP

 

イギリスのこと

エリザベス2世女王陛下の御逝去にまつわるニュースを、日本では翌朝になるのかな、なぜかその日はアメリカでも日本のニュースでもなく、BBCを見ようと覗いて知った。6月の在位70周年の記念イベント、コンサートなどもBBCで(世界的アーティスト達がぞくぞく登場するので)目を離せず、長時間見ていた記憶もまだ新しい。

ごくごく個人的な、イギリスについての雑感を書いてみよう。というのも、ウクライナ戦線が始まった時、「ロシアのこと」として、ロシアにまつわる自分史的雑感をここに書こうと思っていたので(まだ実行していないけど)・・今回のニュースをキッカケに、振り返ってみる。

現生を生きる私にとっては、イギリスに実際に滞在したのは7泊8日、一度きり。24歳の夏、一人旅だった。ただ、心理的な、理由は分からないけれど直感的なイギリス、というメタフィジカルな枠でとなると、けっこう色々と浮かんでくる。まず、最初に個人的に抱いた、英国への感情というのは、「怒りと嫌悪」だった。思えば不思議なことで、むしろ過去世で繋がりがあったからこその反応だったと思う。

前にも書いたように、歴史ものの少女漫画や、日本の時代劇が好きな(笑)子供時代で、今思えば、要するに歴史が好きだったんだろうと思う。そんな私が、高校時代に専攻した世界史に没頭するうちに、フツフツと湧いて来た感情が、思春期特有の極端な反応も手伝って、「今在る世界的な問題はみな、かつてのイギリスのせいではないか」という反感だった。思春期の子供が親や大人の社会に対して抱くような、ちょっと頑固で視野の狭い感情に過ぎないが、当時の自分にとっては、日本社会への嫌悪感とともに、かなり強く抱いていた感情だった。

当時は、オリエントやグレコローマン、イスラム文明、古代中国や、チベット、シルクロードや中央アジアの歴史、ネイティブアメリカンの文明、などに好感を持っていたため、まあそうなるかもね、という筋ではある。でもアメリカ合衆国が大好きだったので、矛盾してはいる。(笑・いかにも若者)

それが不思議なことに、イギリスへの反感やある種、逆恨みのような(笑)若い怒りは、24歳で渡英するころには全く消えて無くなっていた。理由は定かでないけど・・19歳から仏教信仰をしていて(〜29歳まで)、過去世のカルマに向き合う修行なども個人的に続けていた中で、イギリス人としての過去世のようなものも実感されて、国が嫌いで、「脱出!」と世相に乗ったこともあってアメリカへ移住したような人物を、当時よく見ていた夢や、修行中のヴィジョンとして体験していた。

ニューヨークが好きで、初渡米として21歳の時に、短期留学をしてとにかく楽しくて幸せでしかたなかった訳だけど、ニューヨークの摩天楼の、意外と実は100年以上を経ているような古いビルの雰囲気が好きだった。街の作りも古風で、無秩序な日本の街とは違い、平安京や平城京のような碁盤の目のようなアヴェニュー&ストリートは心地よく、中央にセントラルパーク。なんて素敵な街だろうと。世界中の人と文化が集まっている。

白黒映像で見るような19世紀後半あたりのニューヨークにも、反応する所があった。19世紀〜20世紀初めにかけては、多くの移民がヨーロッパからアメリカへ。その玄関口はニューヨークシティ、マンハッタン島だった。そのあたりの記憶がとてもある。ゆえに、イギリスが嫌いなイギリス人で、ニューヨークに向かったのだろうと、信仰時代に自分の過去世のひとつを自覚していた。恐らくもっとも最近の過去世だろうな。この頃は、神智学協会の先人たちも多くアメリカに移住している。

ニューヨーク旅行から3年を経て、今度は仕事の夏休みにロンドン・パリへと一人旅をすることに。1997年。本当はパリに行きたくて、でもパリは敷居が高く、終盤の3日だけ滞在。ロンドンには確か7泊8日、週単位で借りられるウイークリーマンションのようなものを借りて滞在。毎日自炊しなくてはいけなかったけど、大概は地下鉄の駅近くのサンドイッチ屋さんでカスクートのようなものを買い、ハイドパークに行って、半分だけ食べる(大きいので)。残りの半分を持ち帰って、夕飯にする、みたいな生活をしていた。日本国内の一人旅でもいつも割とストイックな旅をしていたので、それで大丈夫だった。

美術館や博物館を巡り、ミュージカルを見て、多少の観光スポットにも行き。ただ、私のロンドンの印象、感想は「つまらない」「刺激がない」「なんか盛り上がらない」というもので、決してイヤではないのだけど、馴染み過ぎて、普通過ぎて、ワクワクしないというものだった。きっと、前世で住んでいたのだろうと思う。。東京のほうがよほど、居心地が悪くて緊張感がある(笑)。街並みや漂う雰囲気も、先にニューヨークを体験してしまったため、退屈に感じられた。でも、住むには良き、と思った。(その後向かったパリには、マンハッタンと同じようなワクワクや興奮があった)

パリからの帰りの飛行機、チェックインの際に「空いているから」とビジネスクラスに乗せてもらうという嬉しいギフトも。隣に座った日本人ビジネスマン(パリ在住とのこと)の方と、妙に話が盛り上がってしまい、聞けば獅子座生まれ、私は水瓶座。この組み合わせはワイワイと盛り上がり、楽しくなりがち(でちょっと危険)。そのおじさまがず〜っと、JALの素晴らしいおもてなし、ビジネスクラスの美味しいワインや夜食を次々と注文し、「お嬢さんもどうですか」というので、ちょっとした小さな宴、状態。そのうちに、キャビンアテンダントの方に注意され、ライトを消されてやっと黙る。

ヨーロッパを熟知するおじ様の楽しい話の中に、「イギリスは女王が居るということだけで、国民が深いところでの安心感、安定感を抱いている。アフリカ系の人々も、パリとロンドンでは全く違う」と。確かにそれはその通りだった。ロンドンの人々は、人種はどうであれ「イギリス人」をまとっていた。日本もそうだけど、ロイヤルファミリーが居るということが、いかに国際関係上、有利で、国民がその恩恵を受けているか。を、説いてくれた。そうか〜・・・と、当時まだ遠い存在のようだったイギリス王室のことを、その時、少しだけ身近に考えてみたりもした。自分がイギリス人であれば、どんな風に今の王室を捉えているだろうか?と。

その旅から、日本での日常に戻り10日ほど経ったころ、ダイアナ元妃の事故のニュースが。ロンドンに滞在し、バッキンガム宮殿前の広場でのんびりと過ごしたり、飛行機での講釈から少しだけイギリス王室を身近に感じるようになっていたタイミングでのその衝撃で、尚更に、英王室の歴史などを改めて学んでみようと思うようになった。パリにも滞在し事故現場近くも体験していたので、驚きも身近さも、普段の自分が感じたであろうものよりも、強まっていた。

その後ゆっくりと時間をかけて(子育ての時期など中断も経て)、映画観賞をする際には自然と、イギリスの歴史もの、王家の周辺を描いたものが多くなって、我が家にはちょっとした「イギリス王室コレクション」の映画DVDがあったりもする。。。

とはいえ、日本の一市民として、やはり距離があり、もっと詳しく入り込まないとその複雑な歴史的な全体像は理解できていない。

日本の古代史、天皇家のルーツ、古代の・・奈良朝くらいまでの流れは、個人的興味の雑学と、奈良への旅を重ねて体感として自分の中にあるような感じ。明らかに、双方古い歴史を持つけれど、内包しているテーマは全く違うと感じる。イギリス、現在のウインザー家の王統は比較的最近、ドイツから血縁をたよりに迎え入れられたもの。単なる血筋や家だけではなく、日本でも、イギリスでも、土地・・・に重要なテーマがあり、そこで展開するロイヤルの系統は、そのエネルギーを継承し(もしかすると秘されて存在している)神秘を、取り扱う担い手としての役目を引き受けておられるのでは・・と、思ったりもする。

日本とイギリス。ずっと前から一人でブツブツとこういう場所に何度も書いてきたけど、秘教的に、世界が維持される上でのキーとなる二つの土地、と感じている。

呼応しあっている。実はここで、バランス、のようなものが生み出されているような気がする。詳しくは分からないけど・・

日本の王統、皇統はどうなるのでしょう。このまま行くときっと男系が貫かれると思うけど、ここで変化を作る時、という気もしている。

Love and Grace

オーラ写真

2010年・・だからもう10年以上前になるか。。お世話になっている取引先に出向いた時、オーラ写真を勧められて、そんな事でもないと自分からは体験しないだろうから、せっかくだからとお願いした事がある。

が、ヒーラーをやっているとは言え、奈良から横浜への引越しの直後のことで、しばらく引越作業のためにサロンは休んでいたし、瞑想やセルフワークの時間も思うように取れない自分的にはかなりの非常事態といえるタイミングで、ちょっとドキドキしながらの事だった。

案の定、「かなりお疲れですね・・」というお話になり、オーラ写真は嘘つかない。チャクラの状態がボロボロで、一般的な人のそれよりも「パワー不足です」というレベルになっていて、予想していた通り。「あはは、引越しを終えたばかりなので・・」と苦笑い。普段のヒーラーとしての日常と、エナジーワークによって活力を頂いている、その中でも調子が良いと自覚出来た時に録れたら良かったンだけど、これもまた何かの縁。そして参考に、勉強になったことは確か。

最近、オフィスの書類の整理をしていて、その時のファイルが出て来て、改めてフムフムと眺めていた。予想していた通り、そしてよく人にも言われる通り、私のオーラのメインはインディゴブルーで、ロイヤルブルーや、左右にマゼンタとパープルが広がっていて、ハートから上にはターコイズ。これはだいたい、中学生くらい(ちょっとした魂の目覚めを体験したころ)から自覚していた「自分の色」たちだ。

アポロン&アルテミスのエルフ界の男女性の混合(マゼンタとブルー)。そして、ターコイズとパープルの組み合わせは、オーラソーマのバースボトルの色(ニューメッセージ)でもある。

チャクラの状態が肉体的、神経的な疲労と乱れを反映してボロボロだったという点は置いておいて。このオーラの色彩は、まったくもって「ええ、私のオーラです」と言える結果だった。

(ヒーラーをしているので)「白系かなと思いましたが・・」と、担当の方は仰っていて、実は私も少しそう思っても居たけれど・・あの色彩で、調子が良い時、さらに純化がうまく進んでいる時は、全体に白を混ぜたような色になるのかもしれない。

それにしても、肉体的不調と神経的乱れを現したチャクラの状態・・の中で、サードアイだけが人並み外れて大きく活性していた。これはどういう事だろう。引越しって、何度も何度も人手と時間が足りてない状況で経験していて、本当に命がけだと思うほどいつも大変だ。私の場合は、自宅とサロン、両方一緒の事もある。業者さんとの連絡や、ゴミ捨てや工事・引き渡しの立ち合いなど日程調整だけでもかなり大変で、ショップ仕事を殆ど休まずに、強行突破でいつも行って来た。この時もそうだ。

クラウンチャクラもさすがに、三次元でアタフタしていた日々を象徴して、ションボリしていた(笑)というのに、サードアイだけはギンギン・・これは良いことなのか、どうなのか。今回、12年ぶりに眺めていて、考えていた。

人間には、主に2種類のサイキック能力があるという。赤のタイプ(念力、つまり発動)と、青のタイプ(受動・透視など)。明らかに青のタイプだけど、仕事としてのサロンや、自分のメンテ、瞑想などもろくに出来ない状態でもサードアイだけは元気。これを時に封じる・フタをするという工夫も必要なのかもしれない。情報を拾いすぎてしまうだろう。そうね・・当時に比べれば今は、無意識ながらに制御出来るようになっているかも。

ヒーリングや瞑想をしていると、脳の不思議についていつも感じる、考える。常に脳が変化することで、自分が変わっていくからだ。ワークを受けても、最後のその段階を受け入れないことで、変化せずに止まるという選択肢もあると感じる。クライアントさんにはぜひ、セッションそのものだけでなく、その後のプロセスの中での気づきや、自分の頑なな部分や、変化することへの恐れを、カチっと切り替える瞬間を、大事にして欲しい。それによって、ヒーリングの効果が、自分の一部となっていくから。

そうそう、ヒストリーチャンネルの(「古代の宇宙人」ではなく)世界の怪奇現象を紹介する番組から。西洋の「エクソシズム」つまり悪魔払いの事をやっていて・・おっかなびっくり見ていると、ユダヤ教のラビの方のコメントで、

「現代社会にはエクソシズムは必要無いと思う人も居るかもしれないが・・『悪魔憑き』とは何かというと、魂が地上に縛られている状態。言い換えると、魂が成長することを恐れている状態です。だから・・現代社会の普通の人々にも、悪魔払いは必要なのです」

と言っていて、おお・・その通り!と納得した。

もちろん、憑いてしまうモノは色々で、動物的に大暴れしてしまうモノから、一見静かでわかりにくいモノもある。

ある程度の癒しは起きていくものの、どうしてこんなにスピリチュアルな成長が難しいのだろうという事例を多く見る中で、ネガティブなエネルギーが外側に蔓延していて、その原型フィールドがあり、個人の中の成長したくない、魂に戻りたくないというエゴセルフの自己保存本能や、恐れなどの埋め込まれたパターンとその外からの力が結びつき、足を引っ張られる。または道を逸らされる、ということを知った。

そこで悟ったのは、平安文学のように、起きる問題すべてを「もののけ」のせいにして加持祈祷するというのは、ある意味、正しいのだということ。それと同じような話だな、と。

(エクソシズム、では決して検索しないで下さい・笑・・ホラー映画の題材になりやすいので、映画等のとても怖い画像が出て来ます。)

全ての人間は、完全に悟ったブッダでない限りはその状態にあり、自分の欲望や恐れ、つまり愛ではないものが作動して様々なネガティブな想念や現実が生まれていく。ここで生きるということは、それらを削ぎ落とし続け、濾過して純化しつづけること。ちょっとハードコアな伝統的な加持祈祷やエクソシズムが、ヒーリングに変わっても、その仕組みは同じ。

「成長したくない」傾向が強い日本の人々には、それなりの原型エネルギーが、集合場から、そして肉体的に受け継いだエーテル体の情報から、入り込んで(巣食って)いるのでしょう。

それでも、人の中心には「成長したい」「宇宙の源へ戻りたい」という強い善の力が備わっている。

だからこそ、その両者が摩擦をし、苦しんだり、切なかったりするのが人間。

自分の中のエゴと魂の折り合いをつけながら、やはり魂として、愛の中心軸で生きていくことを選択していこう。

アルガンザワークやカレッジはセルフワークを基本に置いているので、常に自分の魂が、自分の中で強く響くようにチューニングしていくツールとして活用して頂きたいと思ふ。

Love and Grace