それぞれの役割 –時代の変わり目において–

 

久しぶりに会った人たちが、毎回纏っているエネルギーの様子や目が違う、ということがこの所多い。オーラの状態や、目を見ると、その人の調子の良い悪いは分かる・・これは誰でもそうだろうと。
特に意外と男性は、私が思うに直感なのか直観なのか、あるいは野生的な勘なのか、感じとる人が少なくない・・けれど恐らくこの物質社会、男性社会で、そこに蓋をして生きている。でも潜在意識的には分かっている。

本来、直感やハートは女性の方が素直に働くものだけど、それはある意味、社会の責任その他から比較的自由であったことによるのかも。でも情緒的である分だけ、「こうであってほしい」が働いて、直感で感じ取るものも、特に人間関係などにおいては編集が入った状態で脳で処理されてしまう為に、結局は直感をうまく活かせずに感情で事に処しがちなのかもしれない。

人の感情とは、中々難しいもの・・・。論理的・理性的でありながら、ハートの愛をうまく使って、人々や事に処していく。これが理想だけど、自分一人の範囲でそれがうまく行ったとしても、人生はそれだけではないから・・まあだからこそ与えられている地上で生きるという機会なのだろうけど。

シュタイナー、人智学研究者で、占星術研究もしておられる丹羽敏雄先生の本。私は余り、シュタイナーにせよ、神智学にせよ、それを解説した特に日本の先生が橋わたしをされている書籍は読むことはなく、何かに興味を持つとなるべく直球でその源泉に近づくようにしているので珍しい事だけど、以前ジェネシスをまとめている2017年に参考書としてたまたま、手に取った事をきっかけに、丹羽先生の本は幾つか拝読している。

今回こちらもそんな流れで、書店の天使?に薦められ、読んでみた。タイトルの通りで、シュタイナー的カルマ論、つまりこの日記やInfo記事で昨年の暮れ頃に触れていた、現世→死後の天界での生→来世 という魂(自我)の流れと、12星座と、カルマ、について優しい文体で解説して頂いている。

ところで神智学では(シュタイナーは「人智学」)黄道12星座による、地上の我々へのカルマ的法則は、シャンバラが作ったシステムだということ。それは考えてみれば、(シャンバラと呼ぶかどうかは別として)誰かが決めてプログラミングしていなければ、今、占星術は普及しているけど、そのように星と人生が連関し合うなんていう仕組みが出来るはずは無い。星座は、地球から見てどう見えるかの配置によって描かれていて、宇宙の普遍的事実ではないから。つまり占星術・占星学とは、自然・・というより、超自然的な法則だ。

12星座・占星術について、シュタイナーの人間観とカルマ論からの解説は、私としてはとても有り難く、また、メタフィジを学んでいる人、ニューエイジを基盤に思考する(人間は輪廻転生する、地球だけが魂の故郷ではない、と考えている)人には、おすすめしたい。12星座の概念は私は若いころから他者を理解するのには非常に役立っている。運勢のアップダウンのような事には余り興味はないものの、今世、カルマ的に運命付けられた「鋳型」の中をみな、生きているという理解と愛は、人間関係において役に立つ。太陽星座による人生への影響力を丹羽先生は「流儀」と書かれていて、それもまた良いな、と感じた。

私の以前からの直感では、今年の1月には「逆転」が起こり、4月には良き創造の波が加速する・・と感じていて、過去、こういった野生のカンは常に当然のように当たるものだった。が、今年1月も、この4月も、イメージしていた通りには「急に流れは変わらない」。そしてそれが、今、本格的な時代の変わり目の難しい変換点の特徴なのだろうと気づいた。   1月、何がどう、とは言えないものの、自分にとっては確かに大きなシフトポイントがあり(「意図」の重要さなどの)スイッチが入ったことは確か。その後、順調に行くように思っていると、逆風が来たという、エネルギー次元の体感がある。

同じように3月後半〜4月の頭は、3月前半の心地よい風が吹いて来た感覚から、また再びひっくり返されたような。あくまでも体感で、見えない世界の感触。 が、世界の周波数は確かに上がっていて、世界のあちこち、質が上がりつつある。意識的に目覚めた人たちも増えて来ている。それは間違いない。けれど、自分やその周囲のシフトだけではなく、社会、世界全体のシフトが起こっている時だからこそ、良風のあとには、逆風が来る。もう、このリズムに慣れたほうがいいのかも。。。

私はついつい自分自身がヒーリングと出会い、メタフィジカルに生き始めた頃からの「常識」、価値観でエネルギーの動きを期待してしまうから、ここは本当に切り替えないといけないなと思う。
同時に、これまでは自分が「カナリア体質」として、世界の変化をまだ誰も気づいていない時に察知しているような、それを人々に伝えなくてはいけないような感覚を常に開いていたけれど・・(たとえば「日本人の意識の問題」「環境問題」「地球の危機」などについて)さまざまな課題が現実レベルで一般の人々の周知となり、全体の意識の中にすでに常識として上がって来ている今、もう自分が(というかスピリチュアル、メタフィジカルの人々が)そこを敢えて語ったり書いたりする必要もないのだ、とこの数年考えてきて。

元々、ニューエイジ思想(出発はやはり神智学の誕生)などは、やはり反社会的な精神によるムーブメントであったはず。そこを切り替えて、問題意識はキープしつつ、既に全体にとっての議題となっている「地球を守ろう」「人間の尊厳」「自由そして平等」など、本来スピリチュアル分野が大事にしてきた思考を、一般社会と共有しながらも、スピ、メタフィジを貫いていく必要ってあるのだろうか?   それとも、ならばもう、その全体の流れに乗っていれば良いのでは・・(時代は変わりつつあるのだから)・・という問いが、恐らくこれまでメタフィジカルを探求してきた人たちに、浮上してくるこれからなのではないかと思う。

あなたはどちらを選びますか?

ここはもう、私としては答えはずっと昔から決まっていて、社会が追いついた場合?のメタフィジの役割のようなものを発揮する時こそが、本来の「ライトワーカー」的ソウルたちの仕事場、だと思っている。

けれどもまあ、社会全体を家族として、浄化やアップダウンの波を超えていく時代なのだと思うと、「特殊な世界」の「マニアックな人々」としてスピ、を実践している時よりも、はるかに忍耐力や持久力が、試されるのではないかと思う。スピ、業界の情報などは、人様のブログさえ見ないし、ワークショップ等にも行くこともないので全く分からないけど、どの分野でもそうであるように、これから個人もグループも組織も、試されていく時代なのでしょう。

Love and Grace
Amari

何かが起きている

やるべき事をやっていない時、気づくべき事に気づけていない時、現実はうまく回らない。・・これはメタフィジカルの基本。とはいえ、20年近く関わってきた私自身、なにか変だなと思う今の現実世界の空気。真面目な人ほど、感じやすい人ほど、これは何だ?と混乱したり当惑したりしていることと思う。それにより、自分の現実が今までのような手応えがなく、空回りしたり、体調やメンタルの調子が悪いという人たちもいるだろう。
 
私も自分が更年期である・・ということを十分に差し引きして(笑)、更年期フィルター(つまり絶好調ではない)を通して感じたり考えたりしている為に、その不思議な空気感を体感してしまうのだろうか?ということを、この数年、パンデミック以後、考えて精査してきた。それを補う為に、以前以上にセルフワークをするようになっているし、ある意味、精神もかなり鍛えられた。差し引きした結果、今この春に思うのは、やはり変だ、何かが起きている。ということ。
 
毎日、エネルギーワークをしない日は無いので、それが現実界に響いていく作用を、それこそ気象予報士の天気予報のように、「雲行き」「気圧配置」のように感じる訳だけど、パンデミックでみんなが息を飲んでいた20年、21年は、まだ、これまで通りの三次元と五次元の繋がり、メカニズムが普通に動いていた。22年の春、世間ではウクライナ戦線が始まった頃から、・・というか、理由はもっと別のところにあるとは思うけど、Arganza が大事にしているような、上の画像に載せた神智学、アリスベイリーが伝えているようなメタフィジカルの「道」にとっては、逆風、とも言えるような周波数に、変わって来ている。
 
遡ればさらにもっと前から、その空気は来ている。2018年くらいか・・ 22年はググッとそれが、人々の意識周波数のようなところに、本格的に響き始めた。慣れない状況から、人々はそれを分析して、互いのせいにするかもしれない。職場がおかしい、この人がおかしい、という具合に。どうもこの春は、仕事を辞める、転職する、という話をよく耳にするのはそのような状況下かもしれない。とは言っても、「時代の変わり目」は間違いなく、そんな配置換えもまた社会全体で起きていくことにも意味、意義もあるのだろうとも思う。

「何かが起きている」を簡単に言うと、シリウス性・・が響かないくらいに、世間の空気、周波数が(高まってはいるけれどある意味、高まり過ぎて?)意識の目覚めとは逆のほうにチューニングされている気がする。以前、アルガンザのスクールでアリス・ベイリーを取り上げていた時は、「難しい」を理由に、なかなか皆さんにとってそれは壁、だった。けれど、今の空気だと「それな〜に?」という感じになりつつあるような。「難しい話はやめてくれ」ではなく、「そんなの知らない」というレベルに、意識の面で一段、下がっている。(追記:このDiary 記事を書いた23年4月の感覚。現在の感じ方はまた少し違う)
 
そうさせる空気がどこからともなく(電磁的に?)流れてくると、私の場合は自分の仕事にチューニングしにくくなる。だから「おかしいな」と感じてセルフワークをする、と、アンタカラナ(クラウンチャクラから伸びるモナドまでつづく縦軸)や、ライトボディに何らかの仕掛けが見つかる。外す、と、もとの自分のコンディションに戻る。その繰り返し。・・世間の人々だと(私の知人たちにヒアリングしても)気づかないまま、その意識波の状態で行ってしまうのではないかと思う。そうしているうちにゆっくりと少しずつ低下していく。

表面上、何も大きな困りごとなく、日常が今まで通り保たれていると、特に気づかない人が多いのかも。仕事上、「空気」レベルで異変を感じるような専門家の人々だけが、気づくのかもしれない。ヒーリングやスピリチュアルも、携わる人の中で「シリウス性」、神智学のようなメタフィジ「道」に誰もがアンテナを向けている訳ではないので、世間の人々と同じかもしれない。
 
去年4月に、「白い聖堂」が始まって・・自分でも本当に良かったと思っている。確実にシャンバラの周波数に触れ、その学びの独特のフローが保たれていることが、ひとつの軸となって、その大事な波長を、見失わずにいられるような状態。それにしても、高次はなぜ、こんな風に難しく分かりにくく、未知の、掴み所なく、下手をするといつ崖から足を踏み外すか分からないような環境の中で、私たち「メタフィジ道」を行くもの、学ぼうとしているものたちを、放置しているのだろうか・・と、ゲッセマネのような問いかけを、久しぶりに、激しくはなくてごくごく静かに考えていた最近。そしてすぐに答えを得た。
ああ、そうだった。「方舟だった」と。
 
以前この A Diaryを始めた頃にも書いていた。石井ゆかりさんの表現を借りて「2018~2024年は、ノアの方舟に乗るような7年間」と。
ノアの方舟に乗るような」とはどういうことか?
ああ、そうか。こういうことなんだ。
なぜ? がたくさん出てくる中で、それでも、自分の『神』を信じられるか。
世間のほとんどの人々と道を違えて、ノアとその家族だけが、純粋な生き物たちとともに、乗り込んだ方舟。
おすすめの映画『ノア(ラッセル・クロウ主演)』を良かったら見てみて下さい。舟を作っている段階でも馬鹿にされるわ、邪魔されるわ、家族だけで乗り込んだのに、挙句には次男に裏切られ、長男とその嫁、妻にまで反対され、お父さん(ノア)は人としてボロボロに傷つく。
 
ノアの方舟に乗るような」と、「ノアになるような」は違うかもしれない。
けれど、舟の中で、そして舟を降りてからも、家族みんなが難問を抱えて苦悩していたように、「方舟に乗る」とは、難問や「??」がいっぱいで、いつまでも答えが出ない中、それでも、『神』を、そして(映画で家族の女性陣が見せたような)ハートの慈愛を、追求しつづけ、自分を保ち続け、正しいことは何かを問い続けるような状態を言うのではないか、と。
私たち一人一人が、ノアであったり、その妻、息子、嫁、であったり。その時々、それぞれの立場で難問を抱えながらも・・『神』の舟に乗り続ける。
 
神智学でいう、2025年にやってくる新しい時代の呼び声となる光線の到来までの準備であると考えられる「方舟の七年」はあと残り二年。

アルガンザでは、そんなことも知らないうちに、2017年3月にサロンに迎えた10キロのマスターウラルレムリアンが『箱舟(アーク)』と名乗っていた。そこから確かに、時代の変換点は、アルガンザ的には既に到来していて(いつも世間より1〜2年先にその時代のテーマが箱庭的に動く)、
確かにあの映画のノア、のような気分を味わうことも何度かあった。そうだった、箱舟だった。年々、アリス・ベイリーの書籍が体現する神智学のシリウス性の周波数が、世間とずれていくような感覚が深まっているけど・・・
だからと言って、それでいいという事ではないのだ。
本来の「正しいこと」は、「(その時代の一過性の)世間の大多数の意見」とは、全く関係がない。
 
「方舟に乗るような」最後の二年だと思うと、今のこの空気感も理解できる。そして、自分がやるべきことも。
伝わっているとは思うけど念のために。誰かが方舟に乗り、誰かが乗れない、ということではなく、各自においてそのような時代感を体験するという事。もちろんそこでのあり方や、本来魂がこの時代を選んできた理由や生き様を、方舟時代をどう乗り切ったか、によって、その後の自分自身に映し出されてくる。振り分けられるというか。。

ちなみにこの仕組み、人類の進化や歴史の流れ、カルマやソウルシステムを管理運営しているのがシャンバラ(とアルガンザでは呼ぶことにしている)=シリウス系のロゴスのシステムである。ゆえに、「方舟に乗る」を言い換えると「ガイアの進化プロジェクトに乗る」ということだ。そのためには、横に見えている世界に合わせる、染まるのではなく、自分自身のソウルシステムと繋がっていなくてはいけない。なぜなら進化プロジェクト、その先のワンネスとは、ロゴスのもと、私たちのソウルシステムがワンネスでユニットする状態に戻っていくことを言うから。。
最近よく言っている「自立し合うことで結果的に生まれる調和・青のワンネス」とはそういう事だ。誰かや、どこかと、繋がる事ではないのだ。魂として生きることを多くの人が選択した先に、ワンネスが実現される。
 
・・と、スピに慣れていない人が読むときっと、新手の宗教か、と思われるかもしれませんネ・・けれど違うのです。こういう事がいつか「科学」や「物理学」や「医学」とごく自然と融合されて、人類の常識的な知恵の一部となる時代もやってくるはず。アトランティスで人類は「堕ちた」ので、それらがバラバラになってしまったのです。そういえば、古代インドのヴェーダ文献などは、それらの融合が見られる。失われた太古の叡智を、現文明に与えておく、という理由で高次から齎されたものなので。

アリス・ベイリーの書籍が並ぶオフィスの本棚。その下段は、恐らく3000件以上になるアルガンザのセッション記録。
方舟感が増していく 2023年。
 
自分の意図を見失わず。幻想に惑わされず。今までとは違って軌道から一度逸れて「堕ちて」しまうと、2025年をまたぐと再びそこに乗ることは難しくなるかもしれない。守りたいものを守り、難問疑問に負けることなく。人を頼ることは出来ません、メタフィジカルな道は自分自身でしか、自分を変えたり育てていく事が出来ない。周波数の高い人と繋がる、のではなく、自分自身のソウルシステムと常にコネクトし、作りたい現実を作っていきましょう。
 
Love and Grace
Amari
 

遺伝子の記憶 

以前、アメリカ「ヒストリーチャンネル」の番組を見ていたら、イタリアの研究チームが、「ナチスのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を生還した、PTSDなどの症状を持つユダヤ人」の子孫を調べたところ、精神疾患の発症率が高い事が分かった」とあった。

人間の気質は、ヒーリングの視点で表現すれば、エネルギーのデータとなって、過去生由来の当人のものだけでなく、親から、そして先祖代々受け継がれるものだと言える。

ヒーラーとしての私のイメージ(セッションでの見え方・感じ方と、神智学からの情報をすり合わせて)は、ソウルの転生データは宇宙に保管されていて、転生する際に胎児の段階のどこかでソウルが体に宿るその時に、データが移動して、オーラ第四層のコーザル体に搭載、そこから徐々に、エーテル(1)、アストラル(2)、メンタル(3)体と、整備されていく。

一方で、両親から受け継いだ遺伝子の中にあるフィジカルだけではなく、気質や本能的感覚などもまた、エーテル、アストラル・・と浸透していって、ソウルからの情報と混ざり合って、個人の特徴付けが起きていく。この辺りは胎児の段階なのか、生まれてからなのかはよく分からない。シュタイナーはどこかで書いていた(述べていた)気がする。

ホロコーストのようなかなり強いストレス、恐怖、飢餓や痛みなどの身体的苦痛を伴う記憶は、当人だけではなく、生き延びた後に生まれた子孫にもコピーされ継承されるという。より詳しく知るためにネット上で検索してみると、ホロコーストだけではなく、同じようなPTSDと子孫への遺伝を扱った研究が、世界各国の研究チームにより、報告されているようだ。

この事について、ヒーラー目線で更に考えていくと、ご先祖が苦しんだ記憶は遺伝子に何らかの変化を起こし、先天的な情報となってその後の子孫たちに継承される。ヒーリングを必要とする理由は様々であるけれど、体質だけでなく気質や、本能的なパターン、精神なども、家系の影響を受けていると言うのは、納得出来る。

今世それほど、苦労や苦痛を味わったわけではなく、平凡に幸せに生きて来た筈なのに、この常にある「空虚感/悲壮感/自己否定感/不安感/謎の怒り/疎外感/孤独感 etc.」はなに?というようなご相談は割とある。

その場合、考えられる路線は2つあり、

一つは、今世の自分にトラウマ等はなくても、過去生などの魂の記憶にその情報がある。

もう一つは、家系的、遺伝的に受け継がれている気質、である。

そして、双方は重なっていることが多い。魂は、未解決の課題を消化するために同じ鋳型、カルマパターンを持った家系や親を選んで生まれて来るからだ。

さらには、土地が持っている歴史・・という要素も、先祖代々その土地に住んでいるとしたら、影響を受けているかもしれない。

もちろん、皆が皆ではなく・・例えば古戦場近くに住むある家族が居て、代々、同じような病いや、嫁が来ないとか、男子が生まれない、などのカルマが持ち越されているとしても、ある時にキラキラと高周波でパワフルな人がその家系に生まれて来て、引き寄せでその人に同じようなパワフルな嫁が来て(笑)、悩まされて来た問題が一気に解決するかもしれない。

中和されたり・・また戻ったり・・ということもあるだろうし。私が実際に見聞きした中で、先祖が開拓・開梱していると、そこに住んでいた動物たち、特に駆除された蛇などのエネルギーがその家系に憑くということも。地主さんは神社を建てて祀ったりとされてる事がよくあるけど、やはりそういう事は大事なのだなと思う。

蛇について言えば、夫婦の繋がりが強いそうで、伴侶を奪われたりすると仇となった人間、その一族を恨んでしまうとか。

ニュータウンに住んでいて、さほどその土地に歴史は無いと思っていても、開発・開拓などで一気に広範囲の自然が破壊される時、そこに眠っていた(最近まで雑木林で隠れていたような)遺跡や遺物なども掘り返されて、昔の地主さんのような宗教的儀式をせずに工事を進めてしまう事もあるだろうから、ニュータウンでも安心は出来ない。実際に幾つも、そういった事例を聞いている。

それと、私自身が割と引越しが多かった為に、土地のエネルギーがそれぞれ全く違うことを体験するうちに、気の流れが良い/悪い なども感じやすくなっていて、最近だと事前に物件の前にその土地を見に行くようにしている。開発・開拓によって土地の性質が生かされずに損なわれている事も多々あるだろうと思う。

話が逸れたので元に戻すと・・この事は、アルガンザで基盤に据えている地球と魂の創世記「ジェネシス」世界観における、様々な原型エネルギー、原型種族との関連付けからも、説明することが出来る。家系に「〜の原型エネルギーが強め」などの表現をする事もあり、また家庭内で、家族同士それぞれの原型パターンを持って、互いに学びの為に生まれて来たりする。

土地についても、ジェネシスにいう宇宙由来の原型エネルギーや、その混合で生まれて来ているレムリア、アトランティスなどの先文明(非物質含む)のエネルギー、自然界の集合場、種族のグループ的な情報を持っていることもある。

一度、仏教徒して信仰・修行していた時代がある私としては、「先祖供養」「土地(歴史)の浄化」などのテーマでも、当時は学んだ事も多かったけれど、今はそれとは少し違ったスタンスを持っている。今ここ、の遺伝子をヒーリングによって癒す時、その遺伝子で繋がっている先祖の魂もまた、癒されると考える。同時に、誰かに癒しが起きると、同じ原型で繋がっているソウルたちの集合場にも、癒しが波及する。その逆もある。

見えないもの=霊、スピリットなど神秘的な領域 ではなく、

私たち人間の物質要素も、非物質要素も、魂も、すべてデータ(情報)で出来ているというのが、今、量子物理学などと接近してきた新たな時代期の「スピリチュアル」である。そうかと言って機械的なあり方や考え方、心や温かさをカットしたような世界観ではなく・・数学的であっても、その中に宇宙を貫く創造主の愛を感じられるような意識を、私たちが拓いていく時代が来ているということだ。

そうそう。同じくヒストリーチャンネルだったか、NHKだったか・・コンピューターを動かしている「0と1だけで表現される言語」=2進法。遺伝子もある意味、2進法なのだとか。つきつめて&意識を広げて考えると、遺伝子を始めとして、あらゆる人間の物質・非物質が同じ原理で説明が出来るのかもしれず。肉体でも、感情でも、魂でも、過去生でも、関係なく、同じ言語で記述されているのだとすれば、

インド哲学や仏教の宇宙観にあるような、宇宙の創造主はミクロにしてマクロであり、それが私たち自身である、というような話も、数学的に謎解ける日が来るのかもしれない。

今はまだ人間の知識、技術、科学的センスが追いついていない訳だけど、量子論、脳科学や医学の研究も、遺伝子の解明も、すべてが一つの法則で説明出来るはずであるし、古代インドの人々は・・少なくとも一部の哲学者や執筆者は、それを知っていたのだろう。

遺伝子に刻まれているあらゆる記録、データから、直接話を効くヒーリング、みたいな手法が生まれるかもしれないし、先祖供養や地鎮や霊媒や憑依などの「非科学的」な現象や手段も、きわめて科学的なアプローチによるエネルギー変換であるということが、理解される時代も遠からず、来るのだろうと思う。

ニコラ・テスラは電気を発明し、世界中に無料で配ろうとして阻止された。A.チューリングは二進法によりコンピュータの土台を発明したが、時代の犠牲者となって失意のうちに世を去った。それでも人類の歴史は少しずつ賢くなり、先駆者だった天才たちの偉業を少し遅れて理解し、実用化する。

これもある種のワンネスで、今ここにある世界こそが、私たちの魂が共に作り上げて来た結果である。良いことも、そうでないことも。遺伝子の中には、そんな人類・・いや、ヒト種族になる前からのソウルたちの、地球における歴史が詰まっている。

ジェネシスヒーリングのバイブル「the Genesis」の改訂作業をしていたら、時々ある、個人を超えた「歴史そのものと同化する」「アカシックレコードになる」ような感覚が訪れた。

ワンネスと言いつつも、まだ悟りに至った訳ではない私にはどうしても、固めておきたいコンセプト、自分の仕事を通して伝えるべきメッセージがある。

色々有って、良いと思う。それぞれ、の役目や立場で、良いと思う。それぞれの速さ、高さ、遅さ、低さ、自由な角度、あっていいと思う。ラジャスとタマスを行き来しながら、サットヴァにはいつか、それぞれのペースで行き着けばいい。

むしろ自分自身がそれにこだわり、世間や周囲になびくではない、自分のライフスタイル、生き方を重視して来た。

自由な人間が、自分自身としてそこに立ち、自分の足で歩いていけば良い。

けれど、滅ぼす力、壊す力、奪う力、損なう力、枯れさせる力、だけは、人類は無くしていくよう意図しなくてはいけないのではないか、と思っている。

戦争や破壊がある限り、遺伝子は傷を記録するから・・人類は負のループから抜けられなくなる。急には無くならないとしても、少しずつ創造と破壊の比率が変わっていき、いつか悲しみを伴うような攻撃や、奪い合い、戦いが、個人のレベルでも、国同士のレベルでも、起こらなくなることを願う。

Love and Grace

Amari

分断か統合か 『英国総督 最後の家』

11/19の日記『偉業と偏見の狭間で』を書いた時に、神智学の重鎮である C.リードビーター(1854-1934)と、当時の同協会会長(2代目)アニー・ベサントらの啓蒙活動が、イギリスからのインド独立の流れに大きく影響したという事を改めて考えていた。

どういう事かというと、ガンジーがイギリスに留学(当時のインドの知識人層は「本国」であるイギリスの一流大学に留学することが多かったらしい)、その際に神智学協会と交流していて、インドの伝統的な哲学や思想の奥深さを、逆に神智学者たちによって学んだことで、民族意識に火が灯り、政治活動家になっていく流れを作ったらしい。

また、つい最近の「日記」記事に秘教的な地球の歴史・未来史に関わる記事『星々の導き。プレアデス信仰は火星から?』 を書いてその後、近い未来もどうなるんだろう?という国際情勢の中で、「道が別れる」「主義や方向性、譲れない条件によって互いに分断を選択する」ということが、地球文明規模でも起こるのだろうかと考えていた所でもあり。

そこに偶然見つけた映画『英国総督 最後の家』にタイミング的に感じるものがあり、見てみることに。

とても面白かった。面白いと言っていいのか・・「良い映画」だった。

1947年、インドで100万人以上の犠牲者が出る結果となったイギリスからの独立と、同時に行われたパキスタン建国による「インドの分断」を扱った映画である。

監督は、自身の祖母が当時実際に渦中に在り、そのような一般の人々の分断の記憶の痛みを描きつつも、物語の中心にはイギリスから派遣された「最後のインド総督」マウントバッテン伯爵とその家族の人道、ヒューマニズムと迷いの日々を軸として描いていて、映画の作品としてうまくまとめながら、伝えたい事をしっかりと観る者に、印象的に伝えてくる作品に仕上げている。


日記ブログには以前、エリザベス2世女王陛下が亡くなった時には『イギリスのこと』という記事を書いていた。そこで少し触れたが、子供の頃から歴史好きだった私は、高校時代に学んだ世界史において、近代の地域紛争・民族紛争の多くを引き起こしているのは、帝国主義時代のイギリスゆえではないか・・という理由で、思春期の?反発する矛先をなぜか英国、に向けている時期があった。

パレスティナ、香港、アイルランド、そしてこのインドの分断という歴史的な一幕も。その後、解決され得ない問題の始まりとなった。

イギリスは17世紀から300年間、インドを「領有」していた。その支配政策はどうやら(映画で何度かセリフの中に出てくるが)大多数のヒンドゥー教徒と、少数派のイスラム教徒を「適度に争わせ」、その上に母国として君臨するという方法をとっていた。歴史上よくあるように支配者が去っていって「解放された」国では、治安が乱れ、規制するものが不在な中で無秩序に人々が争い合い、国が乱れる。

他民族、他国民を支配することに慣れている「大英帝国」の貴族、王族でもあるマウントバッテン卿は、軍人として東南アジアで日本軍と戦い、その撤退後の収拾が落ち着いた頃に首相チャーチルの采配で、既に独立が確約されているインドの政治的処理を行う人物として最後のインド総督となる。

優しく誠実な人柄をある意味、国に「利用された」結果、「インドを分断させた人物」として歴史に残る形となった。作中、分断直後に大量の難民が発生し、暴徒と化した人々の、イスラムvsヒンドゥーの紛争、暴動は大規模な内乱となり、宮殿のような豪奢な総督邸には難民たちが救いを求めて押し寄せる。その光景を目にして総督は、自分が下した決定ゆえの、その国の有様に涙する。

イスラム教徒を住まわせる為のパキスタンの建国。ただ、人々は数千年に渡りともにインド人として生きて来たのであって、突然に線を引かれたことでパニックに、実際に宗派同士の紛争も勃発している中、命がけで、ヒンドゥ教徒は「インド」国内へ、ムスリムは「パキスタン」と決定された土地を目指す他ない。

この時、1400万人の人々が移動をし、難民となり、100万人が犠牲となったという。

この辺りの流れは、まさにイスラエル建国でパレスティナで起きたことと同じである。

途中、若かりしエリザベス女王の結婚が決まった、という話が出て来た。最近、逝去された女王はこのような激動期のイギリス君主であったのだなあ、としみじみ。もっとも激動していたのはインドのほうではある。ガンジーは、一貫して分断ではなく両宗教がともに生きるインドとして、イギリスから独立することを目指していた。

「インドを解放しに来たのに、切り裂くなんて」

総督夫人のこの一言は、当時の両国に関わったエリートのうち、イギリスの利権だけを考えていた人間でない場合、共有される心情だったのではないだろうか。300年に渡る、はるか遠いヨーロッパの国による支配から、晴れて自分たちで治める自分たちの国であるインド、を夢見ていた人々やその土地、習俗を愛していたイギリス人たちは、複雑な思い、いや、苦しんだことだろうと思う。もちろん、この映画の主人公である総督も。

神智学協会との交流がきっかけとなったにインドの精神文化への開眼が、ガンジーを祖国の独立運動へと導いたという件。300年のイギリスによる支配の間に風潮として定着していたのかもしれないが、当時インドで生まれ育つと、ヒンドゥ教はデタラメだ、と洗脳されていたらしい。ガンジーもそう思っていた所、19世紀末の激変する世界の空気感の中でヨーロッパで生まれた神智学では、古来のインド哲学や秘められた叡智の素晴らしさを「発見」し、掘り起こしを行っていた。

ガンジー初め、少なからぬインドのエリートたちがそんな空気に押されるようにインド独立へと希望を固めていったのだろう。

リードビーターは既に世を去っていたが、クリシュナムルティなどは、そんなインドの様子をどう見ていたのだろうか(彼は恐らく当時はアメリカに移っていた?)。

最近、アジア情勢も不安要素が多いために、中国のこと、朝鮮半島についても同じ様に日本がかつて分断のきっかけを作ってしまったということなどを、よく考える。し、古代史において日本にやって来たいわゆる「弥生人」のルーツ(紀元前の中国由来+もしかするとシルクロード由来+その後断続的な半島からの流入)に昔から興味があるから、最近はその筋の書籍を本棚から手にとって読んでいたりもした。

そして、直近の日記に書いた地球の遠い未来のことまで、思索は飛躍し繋がっていく。

これから、もちろん数百年規模で、だろうけど・・人間の望む未来は二手に分かれていくのではないか、と思っている。もうその頃には宗教の違いなどではなく、科学や生命、もしかすると魂などの量子物理レベルの取り扱いにおいて、人々の思想が大きく二分されていくのではないか。と。ひょっとするとそれが、「宗教」のようなものになっているかもしれない。

ガンジーが言った(この映画の中で)。

「心臓を二つに分けたら、二度と動かない。国も同じだ。」

「インド独立の父」と呼ばれるガンジーは、この映画で扱うイギリスからの独立そして国の分断、のわずか数ヶ月後に暗殺された。イスラム教徒、新国パキスタンと争ってはならないという平和主義を貫徹していたことで彼を逆恨みする、強硬派のヒンドゥ教徒によって銃弾に倒れた。

一方、マウントバッテン卿は、インド総督の後は英雄的な軍人・政治家としてイギリスで活躍していたが、映画で描かれた時代から30年を経た1979年に、なんとIRA(イギリスからのアイルランド独立を掲げる軍組織)により、家族数名ともども暗殺され、世を去っている。

かのヴィクトリア女王のひ孫であられるそうだ。

映画によると、実はイギリス政府は対ソ連対策で、海洋交通の要衝として港を有するカラチでの利権のために、最後の総督マウントバッテン伯爵を派遣するよりも前に既に、パキスタン独立を推進したいインドのイスラム系政治勢力とは話を付けていた、という。反対派(ヒンドゥ教徒)の指導者たちを説得しまとめるために、人間性から人望のある伯爵を総督にした、つまり国に利用されたということだ。– これが事実かどうかは、不勉強のため分からず確認していない–

個人的に、100年前前後のインドとイギリスの文化や人の往来には興味を持っていたのと、ロンドンに行った時にパキスタン系の移民の方々が多く、どのような経緯でインドと別れたのかをいつか勉強しようと思いつつここまで来てしまったので、この映画は大いに響いたし、色々と考えさせられた。

この数年は韓流ドラマ、時代劇をよく観るようになったせいで、ハリウッドやイギリス発の作品でも何か物足りないというか、深みや、ググっと刺さるような人間ドラマの交錯が足りなく感じてしまう症候群・・になっているが、この映画は、中に添えられたインド人の男女の純愛物語もともに、韓流に負けないくらいの力があった。

歴史的な実話ゆえの、迫力もあるのかもしれない。インドという国が持つパワーや波長も、監督自身のルーツでもあるということだから、作品に自然と吹き込まれているのかもしれない。

*興味ある方はぜひ、見てみて下さい* (2018年製作 インド・イギリス合作)

Love and Grace,

Amari

ヒーリング、クリスタル、オーガニックライフを提案 : Arganza

日記 Blog : A Diary – Office Arganza

「人間はAI」かもしれない、説

ヒストリーチャンネルを朝から何気なくBGMで流していたら、以前も見た「AI」についての回が。そして確か以前もそのことをチラリとこの日記か、Twitter かで呟いた気がするけど、二度目になると以前よりも気付く、感じることもあって、備忘録も兼ねてもう一度。

たびたび、同チャンネルの複数の番組でお見かけする、私も本を持っている日系人物理学者のカク・ミチオ博士のコメントから。

今世紀のうちに、人間の意識をすべてデジタル化する(データに置き換える)技術が可能になるだろう。それによって、別の惑星などに「自分の意識」を転送し、その地で肉体を用意して、その中に意識データーを入れることで、別の星で「自分が生きる」という体験が可能になる。つまり、本体である自己はこの場に居ても、自分の分身が別の星に存在する、という。まさにアバターであり、作られた肉体の中に宿ったその存在は AIだということになる。

また、制作側のコメントとして、古代地球にやってきた「神々」(として神話に語られている存在たち)はロボットであり、既にそのような技術を使って地球で人類を「作った」=創造した・・・ゆえに、既に地球人である私たちは「AIである」。という。今出来つつある技術でも、AIは自己再生により増殖が可能だそうで。人間=有機的な肉体を含めて自己再生できるAIであるという説明には、個人的にはとても納得できる。

最新の科学的知見を絡めて言い直した、つまり表現が違うだけで、私たちの本質や、ここでやるべきこと(輪廻転生からの解脱)のテーマは何も変わらない。

これを突き詰めていくと、神=宇宙の最高存在 とはでは何なのかということにもなるし、神の創造物という意味では、あらゆる世界、存在、生命が、同じ表現にあてはめてしまえば「AIである」となってしまうかも。そうなると、反感を抱く人も居るだろうし、誤解も発生しそうだ。けれどこの番組の良いところは、最新の研究成果と最先端の情報を、科学者や物理学者のコメンテーターを通して伝えつつ、古代の宇宙人という「神々」の奇跡を極めて真面目に探究しているところ。ただ不思議なミステリーを、何となく追いかけて不思議がっている、という姿勢ではない。

古代に地球を訪れて、人類を創造、文明を導いた「神々」がなぜ、ロボット(AI)だったかもしれないか・・というと、現代の地球で宇宙探索をしている立場や視点になって考えると(実際にその立ち位置に居る研究者・科学者がコメント)、生身の人間にとって人生の長い時間を費やして遠い宇宙に行くリスク、危険を考えると、人間なみ、あるいはそれ以上の人工知能を搭載した存在、ないし宇宙船そのものを派遣したほうが、賢明だという考え。これも尤も。実際にそんなプロジェクトは既に始まり、動き出している。

日本や東洋の人々は特に、とても情緒的な部分を重視するので尚更に、「人間は機械とも言える」なんて言い出すと嫌がる人々も多い。私自身は、逆に今、人類が生み出している機械、ロボットなどに、人間が支配されていくような風潮のほうが怖く感じるし、抵抗がある。

遠い昔(時間軸は直線ではないという話は置いておいて)にこの地球を整えて人類を作り出し、どこかに存在する宇宙的意識のデーターを人間というシステムの中に搭載して、この三次元をバーチャル体験するという仕組みを作り出した高次の意図や計画は、それが神秘な神話的ファンタジーであっても良いし、言い換えれば極めて科学的で、ある意味、「神々」である彼らによる「人工物」であると人類を表現することには、まったく違和感は無い。

サナトクマラ、白山姫、という「地球を運営するシャンバラの中枢の意図」(ロゴス)が、左右に配置された巨大なメカ(パイプオルガン)の様に見えることが何度かあったが、そこに投影された大いなる高貴な「意識」あるいは「プログラム(地球に関する計画)」の本体は、シリウスや太陽などのより高次元に「実在」するのだろうと思っている。

そして、今話しているようなことも含めて、私たちが肉体を伴うシステムを卒業する、いわゆるアセンションの段階に至った時には、アリス・ベイリーの言う「イリュージョン」として、一つの小説の冊子がここに置かれている、というくらいに客観視するのだろうと思っている。

19世紀末〜20世紀前半、神智学が生まれた時にはまだ、時代的に存在し得なかったそんな科学的、テクロノジーに根ざした視点や説明を、「変わらない真理」「守べき知恵の流れ」を軸として、時代に合ったものに置き換えて、または仲介の言葉を添えて、さらに次世代に残す。今を生きる私たちの、メタフィジカル探究者としての使命はそこにあるのだろうと思っている。

Love and Grace,

Amari

潜在意識と自由意志

今朝、またまた!書いていた長〜い日記が、うちの天使たちの検閲?に引っ掛かったようで、アップロードの瞬間に消えてしまった。ジェネシス情報だったので、取り扱い方を間違えたようで。出す時期というのがある事はよく分かっていて、いつも注意している筈なんだけど、、先日のInfo記事、からのエネルギーで少し感覚がゆるんでいたかもしれぬ。・・というか、ここまで来ると単に私がドジだという事かもしれない。

そんな訳で、どっちを書こうかなと迷ったもうひとつの話題で、気を取り直して書いておく。

最新の脳科学の研究では、人間の「自由意志」は存在しない、ことが分かりつつあるという。衝撃?でもあるけど、なかなか奥深く、哲学な発見だと思う。どういう事かと言うと、潜在意識にすべてプログラムされていて、自由意志で決めている、動いている、感じたり考えたり選択・行動したりしている、と思っているのは顕在意識の錯覚で、最初から決まった通りにそれらが顕現するのだ、ということらしい。

逆に考えてみると、映画「インセプション」のように(前に記事を書いています:「潜在意識と始まり」)特殊なスキルがある人が、潜在意識に手を加えることで、他人の人生を操ることが出来てしまうということだ。洗脳やコントロールよりも、もっと密やかにさり気なく、当人に「なぜかそうなってしまう」「そんな気がしてくる」という部分まで埋め込んでしまうことが出来るということか?!

私の最近の感覚だと、これをもう機械仕掛けで、AIなどにセットしてしまうような可能性もあるのではないかと思っている。エネルギーワークだって、決して悪用しないでね、という説明とともに、「潜在意識にアクセスする」という手法も紹介されている。この地球上のカルマの法則、因果応報を知っている(正常な畏怖心、正しい怖れを知っている)人は決してそんな事はしないだろうけど・・

前のインセプションの記事の時に書いたように、映画でターゲットになっていた御曹司が「潜在意識をいじられないように幼い頃から訓練を受けている」というセリフがあったけど、ライトワーカーの人々も、その訓練は必要ではないかと本当に思う。

潜在意識に組み込まれているものは何かと考えると、遺伝などの生物学的な情報、生きている社会その他からの情報、そして魂からの転生の記録はオーラ体を降りて来て脳にプログラムしていると思われる。自由意志があるようで無い、となると、私たちは何を目的として生まれて来るのだろうかという、フィロソフィーの世界になっていく。

何かというと、やはりそれでも「意志」を持って、潜在意識にプログラムされている自分の役作りのシナリオを、清めて洗練させていく為、なのだろうと思った。自我(エゴセルフ)にとっての「自由」が、有るようで無い、自由なようで自由ではないというセッティングの中で、ただのロボットではなく、意志をもっていることで、そのプログラミングとの摩擦に泣いたり笑ったりしながら、カルマや時代的な縛り、家系的な縛りではなく、自分自身の高い意識による運営を、潜在意識の中に存在する魂とともに実現させていく・・ために、ここに居るのだろうと思う。

赤いタイプの人、つまり念力が強い出力型の人は、「念力で」というよりもその人の想念波で、周囲の人々の気持ちや行動、だけではなく、潜在意識に影響を与えて状況まで、変えてしまう可能性がある(ぜひポジティブな出力をして欲しい)。そして青いタイプの、入力型、受信のほうが強めの人は、本当に注意しないと、自己評価や気持ち、気分だけでなく行動・選択までも、知らずのうちに潜在意識から他者の出力を受け取って、現実創造をしてしまう可能性もある。どちらも、注意が必要だ。

そして第三、第四、のタイプと居るように思う。周囲をジンワリと自分のイメージのように染めていってしまう、自分の中にある世界観を周囲を通じて現実化させてしまう魔法使いタイプの人(実際過去生で身につけた魔術的な手法を無意識に使う、作動してしまうのだろう)は、オーラの大きな広がりの中に他者を巻き込まないよう注意していないと、自分の考える世界のシナリオで周囲の現実が作られてしまう。それはその人の顕在意識とは関係なく働く(もちろん染められない、巻き込まれないタイプの人々も沢山いる)。

いずれにせよ、人間はそのような相互作用を通じて世界を共同創造している。ゆえに一人一人の中に、ポジティブな意識やエネルギーや感情・思考だけがあれば、世界は良い状態になる。

アリス・ベイリー著書における大師ジュワルカルの言葉で、意志ではなく意図を重視せよ、という教えがある。それと関係がありそうだ。最新研究によると、本来、意志は機能したくても出来ないということだから・・・ 意図というのは、もっと高度な、ソウルと連携した人生の創造性と、関係しているのだろう。ソウルとともに描いていく、人生の方向性、アウトラインのようなものなのかな。意図を大切に。

Love and Grace

Amari

偉業と偏見の狭間で

2017年3月、当時まだ正式な名前が決まったばかりの「アルガンザ・ジェネシスヒーリング™️」の、最初の世代の伝授最終段階のセミナーを前にして、バイブルとなる「the Genesis」のまとめに入ろうとした時、直感的に導かれて、結果、ジェネシス神話、特に、太陽系における魂の進化スキームについての教書となったのが、イギリス出身のチャールズ・リードビーターの概念。神智学協会2代目会長アニー・ベサントの右腕、とも呼ばれた方。

私はこの方の肖像をネットの画像検索で見た時(ぜひ見てみて)「一目惚れ」してしまい、その純粋さ、優しさを窺わせる深い瞳の光に、写真と見合うだけで包まれるようで、以後、こっそり印刷してブロマイドのようにして大切にしている。ジェネシスの伝授の際には、皆さんにもお見せしているし、アルガンザの内輪では「校長先生」と呼ばれている・・。この「一目惚れ」とはもちろん、師匠として、ということ。。

何故だか日本語に訳された書籍が、実際の業績の割には少なく、その背景なのか、様々な「問題点」を指摘されたり批判されたりしてきた当時の空気感が、何となく今でも、後世の私たちの時代でも、出版関係者等を迷わせるのかもしれない、と思ったりする。チャクラの概念を、インドのヨーガに学びながら西洋に分かりやすく説明し、オーラの層やチャクラが7つあり、こんな色をしているとか、それぞれの性質とか・・を、最初に整理し、提示し、紹介したのがこの方なのだ。

エーテル体、というのはインド思想にも示されていないものを、この方が、肉体の一部でありながら物質ではない層として、概念化した。

アリス・ベイリーの素晴らしい仕事も、土台としてはこの、リードビーターの偉業の上に積み重ねられたものだ。

数少ない邦訳書の中で、有名な『チャクラ』の巻末、訳者の先生方による「解説」に、非常に詳しい経歴や神智学のあゆみ、業績や人生について記されている。以前読んだ時に、協会内でも批判や嫌疑が浮上して、それも長期的に・・ 人望がある一方で、どうも叩かれてしまう方であったよう。

60代で、支持者からも「はっきりさせて欲しい」という声が上がり、法廷で争われた結果、無罪となり、疑いは晴れたそうだけど、最近読んだ現代のイギリス人の女性が書いたヨーガ系の情報本で、「リードビーターは小児性愛者」と書かれていて(!)、その他の情報ソースでも、彼が見出したクリシュナムルティや、その他の才能ある少年たちに対して、良からぬ事をしたという記述を以前、見た事があるのを思い出した。

以前、「チャクラ」の解説で裁判の話を読んだ時には、以下のような文章が添えられていた。

「この間(裁判沙汰の当時)彼のとった態度は、リードビーターの人柄をよく示している。彼は非難に対して一言も弁明せず、攻撃する人たちを怨むような態度も全くなかった。彼をよく知る人たちは、彼のその態度は忍耐の結果ではなくて、率直で純粋な性格によるものだと言っている。殉教者ぶる気持ちは全くなく、協会の大きな目的だけを考えていた」(「神智学協会小史」から)

私はこの一文を素直に読んで、マイケル・ジャクソンと同じ様に、何らかの理由で「小児性愛者」に仕立て上げられてしまったのだろうと、思ってきた。

けれど、書籍として販売されている情報源や、ネットで出てくる目立つ記述の中で、決め付けられているかのように書かれているのを見かけると、改めてショックを受け、フレームの中に入っている「校長先生」に、このところ心で語り掛けていた。。

情報というのは本当に曲者で、聞いた人には真偽を確かめる前に偏見を植え付けてしまい、そして何故かそれを完全にぬぐい去る事は難しい。イメージを残してしまうのだ。

まして、この、神秘の追求という世界に潜むよからぬエネルギーのこと、ネットワークについて、また、不意に誰か隙のある人の中にそれらが「舞い降りて」来て、仲間だと思っていたような身近な範囲の人が、攻撃要員に変わってしまう事が起こりうる、という事が、端くれながら私も体験や見聞から分かっている。スピだけではなく例えば韓流時代劇でもよくあるでしょ・・・相手を落としたい時、仕事の邪魔をしたい時、非常によくある手口でもある。

そして、あまり深く考えない大衆的な層には、真偽はどうであれ、偏見を植え付けてしまう。

私の主観として、「師匠」を信じることにしたい。生涯独身だったようだから、同性愛者であった可能性は(純粋な瞳の輝きからしても)察せられる。そんな彼が、インドで少年たちを次々と見出して、イギリスにおいて高等教育を受けさせるというプロジェクトを行っていて、指導していた神智学協会の青年たちによからぬ事を教えた(これはクンダリーニの暴走にまつわる性エネルギーの問題に関する情報を教えた、という事だと思ってもいる)などの、状況が起きていたために、

何らかの理由で彼を陥れたい、という人物や集団、あるいは「チャクラ」「オーラ」などの人類が賢くなる知恵を西洋社会に広めるという彼の偉業を邪魔するために働いた見えないエネルギーが、闇が光を潰そうとする時に行う方法論で、地上に居る人間たちを動かし、彼の仕事を封じようとしたのかもしれない。

そして、100年近く経過した今でも「小児性愛者」なんて書かれてしまうような、流れが生まれてしまったのかも。ブラバツキーやアニー・ベサント、後のアリス・ベイリーには起こらなかった?そのようなスキャンダル戦法?が、彼に起きたのは、同性愛者?、あるいはそう思われる空気や状況があった事が、隙になってしまったのかもしれない。

当時(欧米の一部の国では)同性愛者というだけで「罪人」として投獄されたという状況は、悲劇の天才アラン・チューリングに関してもよく語られる。(後述)

いや、真相は分からない。同性愛はその人の自由であるし、ある種、魂のカルマであることを神智学も伝えているから、問題視すべきではもちろん無いけれど、「小児・・」はマズい。どうしても、晩年の肖像からしてそれは結びつかない。幼い弟を、暴徒に襲われるという悲劇で亡くしていて、自身もオクスフォード進学の予定を、父親の経済的破綻ゆえに断念して、聖職者の道へ。

そのような経緯があったために、縁が出来たインドで、才能があっても貧しい少年たちに、教育を受けさせたいと願って、実行したのではないかと、思いたい。インド滞在中の使用人の少年を、進学させるために自身もわざわざイギリスに帰国して、出版社で勤務してお金を稼ぐ様な事をしている。幼い子に強要するような自分勝手な人が、そのような事をわざわざするだろうか??

クリシュナムルティとのすれ違いなどが、リードビーターの印象を悪くしているのは恐らくあるだろう。

読書から、こんなことを考えていた最近。それがまたいつものようにシンクロニシティで、たまたまNHKオンデマンドを覗いて、何となく見始めた『ヒューマニエンス–40億年のたくらみ』の「数字」の回の後半、リードビーターが亡くなる1930年代に、イギリスのアラン・チューリングという数学者が、今のコンピューターの元になっている二進法によるデジタル概念を発明し、後にナチスの暗号を解読するという活躍をしながらも、

同性愛者であったために「有罪」となり、ホルモン治療などを強要され、41歳で自死したというエピソードを知った。マイケル・ジャクソンも同じくだけど、この世に生まれ落ちてくれ、偉業を成し遂げてくれている天才たちを、なぜそんな形で早死にさせてしまうのだろうか・・・と。これこそが人間社会に発生する闇の力であるし、多くの人間がその恩恵を受けていながらも、そんな天才たちを守り救うことが出来ずに悲劇に追いやってしまう。

死後、認められる才能と偉業。・・そして無罪であったこと、純粋で優しい魂にひどい扱いをした人間社会の実態に、人々は後で気づく。

チューリングは、今現在のイギリスの新50ポンド(2021年〜)紙幣になっているようで。

師匠、リードビーターの「汚名」は晴れるだろうか。それとも・・? 当時裁判所は「詳しく調査」した結果、無罪判決を下したらしい。けれど、そうとは思えない「伝承」が今でも平然と見受けられる。チャクラについての見解も、インドの専門家によって誤りがある、と判定されている部分はあるそうで、それは仕方ないと思うけど、、、どこかで読んだ情報では「チャネリング情報が間違っている」と批判されていた。

・・・けれど、著名な作家でも研究者でも、その当時の見解で記録するだろうし誤りが見つかることだってあるだろう。増してチャネリングや透視が「間違っている」との批判を受けるという神秘家も、珍しいのではないかと思う。冷静に考えるとやはり、とても、何か不当な扱いを受けてしまっている「師匠」の事情が見えてくるばかり。何かあるのだろう、あったのだろう、きっと。(もちろん欠点や落ち度も、人間だからあったのだろうけれど・・)

そして何故に私はこんなにも、心を向けているのだろう。と、考えながら今日も「校長」の肖像写真を見つめる。

チューリングの映画「イミテーションゲーム」を見てみようかな。

Love and Grace

参考文献:

『The Chakras チャクラ』C. リードビーター(本山博 湯浅泰雄/平河出版社)

始まりと原郷、そして未来。

イギリスの新首相が立候補1名で即決された。報道では、日本でも「イギリス初のアジア系首相」とか言われている・・海外メディアの表現を邦訳したのだろうけど、実際に「アジア系」という印象は少なく、スラリとした長身、長い手足、話すそぶりや顔立ちも・・イギリス人だなあと見る。白人の血が入っていると思いきや、ご両親ともインド系とのことで・・ アーリア人種、印欧語族とはこういうことか、と朝から考えゴトが壮大に広がる。

共通の言語を話すひとつの集団が、東〜中央ヨーロッパの辺りに居て、それらがロシアなどの東欧、西ヨーロッパ、インド・ペルシャ(イラン)さらには南ヨーロッパのギリシャ、イタリアまで、分布したという。共通のひとつの文明を呈していたという話を、シュタイナーなど神秘学方面の人々は「統一時代」と言う。これに基づくと、少なくとも南インド以外のインド人は「アーリア系」インド人であり、インドに住む事で肌の色や多少顔立ちが変化した白人種、という事になる。
けれど考古学や言語学においては更に複雑で諸説あるよう。

この「印欧」アーリア系に含まれる人々は、手足が長くてすらりとして肌が白く彫が深い顔立ち、という事になっている。神智学も、その手の分野が流行した?19世紀に生まれていて、人種や文明に関する神秘的な視点が文献に伝えられる。けれども・・当時の時代の風潮や、空気感の中で編まれたものだから、幾らか修正が必要なのだろうと個人的には思っている。それにしても、石器時代から、青銅器、鉄器時代への移行期の中で、人間の質や文化がどう変遷していったか、これは若い頃からの個人的な強い関心テーマなのだ。

「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」もその興味関心の土台の上で書いていて、舞台設定は今から11000年前(ハピ)〜ガイアナのシリーズ(?!)の最後は、9000年前ころ(紀元前7000年)を想定している。「統一時代」と言われるものは、その数千年後になる訳だけど、それらの、「物証があって今の私たちの歴史観において「先史時代」と呼んでいるもの」の「更に前」の、「失われた時代」を描くことが、自分のコンセプトでもある。
つまり、神話の様な「統一時代」を更にさかのぼり、アトランティス終焉後の「リセット」から、現在存在が知られている原郷的な文明に至るまでの空白の時代。

『なぜ今こうなっているのか』・・が、いつも知りたくて仕方ない。

空白・・と言っても、現時点で世界最古と言われているメソポタミアはだいたい7000年前、か。日本の縄文だって立派な文明、という説もあるけれど、そこは「文明」の定義とは何かということなってくる。

話が逸れてしまったけど、新首相のスナク氏については分からない、御先祖に白人系の方が居るからなのか、アーリア系インド人の方がイギリスの知的・上流層で磨かれているとあの様なイギリス紳士風になるのか、、ともあれ、「アーリア系」にはどうもコンプレックスを(そうでない)民族は無意識に持っているだろうし、「アーリア系」に該当する方々もおそらくは無意識レベルで、差別ではなくとも区別する感覚はあるのだろうと思う。

日本人は、自覚している以上に実は、差別主義者だと外国の方々には思われている。差別するつもりはなく、どちらかというと「島国根性」なのだと思うけど・・外からやって来たものは、崇めるか、近づかない様にするかのどちらかだ。そこに悪気は無かったりする訳だけど、そのどちらもが、された側は「人間扱いされていない」と受け止めるよう。

地理的に、古代中国の戦国時代や、朝鮮で内乱が起きた時などに常に、新しい色々な物を携えた人々が流れついて、牧歌的に暮らしていたホビットのような縄文の人々はその都度、びっくりしながら、受け入れて、融合してきた筈だ。そうしていつしか出来上がった「日本」という文化。鎖国をしてアイデンティティを深めて行った先の、近代化、敗戦、復興。そして平和ぼけという幸せな境遇を経て、
私の密かな危惧は、数十年後、いや数百年後、日本列島の人々は果たして日本語を話しているだろうかという。出来れば残したいと、誰もが思うはず。

興味深い、と言ったら今の時世的に語弊があるかもしれないが、ウクライナ・ロシア国境付近というのは、上記の「統一時代」(つまりヨーローッパと中東・インドを含めた全域)の文明の原郷(ルーツ)、と考えられている場所でもあるよう(これについても違う学説もある)。その地から拡散した現文明期の何らかのカルマの昇華が今、始まったのだと考えられなくもない。
そのルーツに属さない東アジア人やアフリカの立場、役目、演じるべきキャストは何だろうか? 世界地図がこれから変わっていくのだろうか。平和ボケや島国根性では、本当に私たち日本人は固有の文化や言語を、失ってしまうかもしれない。

どのように始まって、どうして今こうなっているのか・・を、実学ではなくメタフィジカル、秘教的な立ち位置から考え、パラレルな「歴史」を描いていく。。自分に出来ることはそれで精一杯かもしれず。

Arganza のHP内の日記「A Diary」に徒然の雑記として書いていたものを、長くなったのでこちらに掲載。そのため、内容まとまらず中途半端ですが、お許し下さい。

Love and Grace

– A Diary – : Office Arganza HP

 

エルフたちのララバイ 〜次元と粒子と異世界〜

膝掛けが欲しくなるような今日。11月並みの気温。

infoで「エルフの事を書きますね」と予告した後、ちょうど話題にしていた「力の指輪」のたまっていた分を見終わり、金曜配信の週イチのペースに追いついて、やや意識が離れてしまったような感覚の今日。一昨日、書いたけど全文消えてしまった、という日記の記事は、また別の話題で。普段、韓流を中心に1日1話ペースで何かしら見ているから、通常のテレビ放送のような、続きの新作を待つのに7日掛かるというのは、中々、私の時間の粒の密度からすると、かなり遠ざかるような感じもしてしまう。

そう、消えてしまった記事にはそういうことを書いていた・・「Time is gold」というタイトルで。先日の「エスカレーターで止まっていられない」という話にも通じるけど、短気でもなく、人に待たされるとイライラするという訳でもなく、どちらかというとボンヤリ、マイペースな私が、時間の粒子の中に密度を詰めこむ、という感覚になれたのは「シングルマザーで自営業」の十数年の賜物だ。要するに人はゆとりが無ければ何とか出来るようモードチェンジする他ない。となると、火事場の馬鹿力と同じように、物質界を超えた法則で何とかするという、修行?に晒される。

そこでの基準は「意味」であり、その意味というのも、こういう仕事をしながらなので、物質界の基準ではなく、エネルギー次元での「中身」がものを言う。・・でも、まあ、この宇宙人的感覚は子供の頃から実はあり、興味向くものやペースや言動も、やはりちょっと普通の子供ではなかった。けれどこの三次元で生きるために、自分の中にある「その感覚」を呼び覚ましながらヒトとして生きていくために、シングルマザーで自営業、それも、ひとり親への保証は無いに等しく、自営業者に厳しいばかりのこの国で実践することに(魂は)したのだろう。・・本来持っていたものを出現させるために、必要な修行期間だったと思う。

人によって、時間の粒子の密度は違う。そこにどれほどのエネルギーが入っているか、振動も違う。これが、Alice Baily 著にある「インテンション」ではないかと思っている。緊張感とか、日本語では訳されてしまうけど、「密度濃く詰まっていて、かつ冷静で無駄がない」というような。「集中力」のほうが近いかも・・「インテンシブコース」のIntensive は同じ単語の形容詞だ。集中的な、という意味で使っている。

平等に与えられた時間の中で、この物質界の法則の中にありながら、時間の意味を変えるには、自分の意図を集中して注ぎ、周波数の高い粒にすることで、「質」を変えていく。それが5次元創造や、スピリチュアルな成長に繋がっていく。

(あっそうだ。物理学賞の受賞者発表もあった所だけど、量子は粒ではなく、正確には弦、でしたね。)

一昨日はそんな内容を、もっと三次元的な、昔こんな事があったり、あんなことも、と、長々と綴っていたら消えてしまった。それで良かったのでしょう・・あんなこと、こんなこと・・の、過去のエネルギーたちも昇天したのを見届けて。

「静かで落ち着いた集中力」と純粋性が結びついて、サットヴァ(Sattva)として機能するのではないかな。自分もまだまだ、半世紀も生きて来たのにボンヤリしていて、物質的に豊かで平和な時代のゆるい空気の中で、本来ヒトが育てるべき力の一つが育まれにくい社会の、一員として生きて来ていることを実感する。成長進化とは、時間がかかるものだな、と。

(P.S. エスカレーターは安全のため歩かずに立ち止まっておきましょう。)

では、エルフについて、『Lord of the Rings』の新篇、「力の指輪」視聴雑記を書いてみよう。

原作を読んでいない上に、今回、制作が始まった経緯や、脚本の背景などについても調べていないので、本当にお茶の間的な話になるかも。プラス、アルガンザの「ジェネシス」神話を絡めての考察。

本編の「ロードオブザリング」でも然りで、やはり見ていると何でも、ジェネシスの原型論にあてはめてしまう。エルフたちは神の使い、半ば別次元の存在が地上に降っているようなので、やはり「白」だろうけど、ドワーフは「赤」で、ホビットは「黄」、人間は・・何だろう? 明らかな黒サイドも非常に分かりやすい。人間は、これら全ての要素を持っているということだろう。白にも黒にもなびくし、赤い時も黄色い時もある。

原作を読んでいない私には、かつての映画版の本編で、最後に闘い疲れたフロドが、平和なホビット庄に帰らずにエルフ達の「西の故郷への帰還」に同行するという流れに、胸打たれるものがあった。最近ウクライナのニュースで、戦地の女性が「もう元の私には二度と戻れない」と語っているのを見た。多くの破壊を見てしまうと、人はそうなる。増して平和を愛する純粋なホビットであるフロドの変化を思えば。

・・彼の最後の静かな様子がとても印象的だった。ホビット村の周波数の中にあっては、体験した記憶をすべて忘れて封じてしまうか、ただただ悲しく壊れていってしまうのではないかと思う。

同じく映画本編の最後のシーンで、印象に残っていた事がもうひとつ。「西のエルフの故郷」とは、どのような世界なのだろうか・・・と。

今回「力の指輪」の第一話で、長年のその謎が解けて興奮していた。そのシーン、何度も繰り返し見てしまう。。笑

ガラドリエルが仲間とともに、王の命で「西の故郷への帰還」を許され、船に乗っている。船なんだな〜、フロドの時と一緒だ。海から繋がっているのね と見ていると、

あるゾーンまで来ると、独特の静寂に包まれて、前方に・・出た!ワームホールが開く!

海の上のワームホールに、船や飛行機が吸いこまれて行方不明になる事件が多発、という話題を「古代の宇宙人」でもやっていたっけ。その時に見ていたCG映像と同じような様子で、興奮。高次元への扉が開く時は、やはり目を開けていられないような光がそこから溢れ出す。そして精妙な空気が寄せて来て、明らかな別世界を見る。用事が済むと扉は閉まる。何らかの合図・必要性で開くのだろうけど、ドラマではエルフたちが歌を口ずさんでいた。

個人的にはこの、エルフ族の故郷=ワームホールを超えていく高次元の地球 という描かれ方をしていて、とても喜んだ。納得もしたし、アルガンザの「ジェネシス」の視点からいっても、無理なく噛み合って嬉しくなった。

そこで、放送している Am●z●n Prime の紹介ページをようやくマジメに読むと、「西の故郷」(ヴァリノール)とは「ヴァラールの国」という意味で、「ヴァラール」は神のような存在たち。ここから先はウイキを覗くと、単数形が「ヴァル」で、その複数形だそう。つまり「神々」である・・後々(ウイキの原作についての記述を読むと)、「力の指輪」にも登場しているエアレンディル(註*)の訴えを受けてヴァラールから援軍が中つ国に派遣されるとあり、原作では作者の時代を考えても恐らく、神々の世界も地上世界もフラットにつながっているような世界観かもしれない。だとしても、周波数の違う世界を行き来するにはやはり次元という区分を超えていくための「扉」が必要である。

( *「力の指輪」ヌーメノール人のエレンディルとは別の「エアレンディル」は、エルロンドとその兄弟エルロスの父だそうで、この兄弟はちなみに人間とエルフのハーフ、エルロスは人間の道を選びヌーメノールの初代王になり、その家系にエレンディルが子孫としている、らしい。wiki参照)

色々と予定している執筆物の中に、「ジェネシス」をまとめながら見えてきたアトランティスの様々な時代を描く構想がある(すでに一部書き始めている)。そこで考えさせられたのが、それ以前のレムリアまでの5次元世界とは違う、3次元の出現(「神々」による創造)のしくみと、長い長〜いアトランティスにおいても、時代によってヒトの作りは変わっていて、初期の頃にはきっと半分、5次元的だったのではないかと。そして終わる頃は、僅か今から13000年前だから、完全に物質界を生きている。(追記:そうとも限らないとその後、考えている。「the Genesis」三版では、別々の(パラレル)地球を統合して現在の文明期に入ったとしている)

けれど、必要に迫られた時には五次元の神々の世界を、物質的に「訪ねていく」事もできたのではないか・・とも思うし、アトランティス後、我々の文明期に入ってからも、聖職者のような人ならば次元の扉を時折抜けて、また戻って来る、というような事もあっただろうと考えている。それらの、多次元にまたがる舞台設定を、物質的なリアルな描写で描くべきかどうか、という迷いがあった。またその手法は中々、難しいものだ。

原作の「指輪物語」は北欧神話をベースにしているから、他の神話も同じくだけど、5次元と3次元がまだ、共立していて、往来が頻繁にあったし、全ての人の目に見える形でそのための「扉」があったのだろうと。「力の指輪」や映画の本編から察するに、その世界観は神々(恐らく非物質)の住む世界と、その膝もとで暮らす物質体を持ったエルフたちが在り、エルフたちは次元の扉を超えて人間その他の種族が住む世界へ出て来る事が出来る。その逆は難しいらしいけど、「力の指輪」でも「西に行った」者の話がチラチラ出てくる。(エレンディルの下の息子、かな?)エルフと一緒ならば、扉を超えられるのではないか? 人間ではないけどフロドの例もそうだ。

物質体を持つ、と言ってもエルフたちは不老不死で、何でも有能にやってのける。戦で深傷を受けるとセルフヒーリング機能が効かなくなるせいか?亡くなってしまうこともあるそうだが・・闇に囚われる事も稀にある。

アルガンザの「the Genesis」においては、2017年の冬以後、アトランティスにおける大戦争と、そこに出陣するエルフ軍、ケルビム軍のストーリーが出て来る事が続いた。一番、私たちがフタを開けたくなかった記憶だと言えるかもしれない。この路線もだいぶまとまって来て、神々の世界に住まい半ば神でありながら、レムリア期には自然界(が当時は人間の魂の生き場所)の秩序を守るために高次自然界に在り、アトランティス期には、大戦の援軍や、人間たちの要請があった時にワームホールを超えて現れてくれる助け手として、活躍していたのだろうと思う。

そんなエルフ(エロヒム、エロス)たちが地上で犠牲になってしまったり、完全体のまま「故郷」に帰れなかった場合に、地上のシステムに情報的に囚われてしまい、そのカルマゆえ、人間界に生まれ輪廻転生しなくてはならなくなった。ジェネシスにおけるエルたちの物語は、そのまま今を生きる私たちに繋がっている。原作者のトールキン博士も、無意識でアカシックを受信し、描かれたのだろうと思う。

アトランティスに関する神智学の文献の中に、「人間がマヌたちのアドバイスをちゃんと守っていれば、肉食動物は生まれなかった」という一文がある。マヌ、というのは、アルガンザの観点ではちょうどまさにエルたち=エルフたちを中心とした、「5次元の神の世界と人間の文明を繋ぎ、導くグループソウル」である。アトランティス期、人類が神々の教えを守らなかった事で、肉食する動物が誕生したそうだ。そして人間たちも争い合うようになったのかもしれない。

「力の指輪」を見ていると、誇り高き、神々の子であるエルフたちは、正義感が強くいつも正論で、人情や感情などはあまり重視しない。何でも出来る多彩な才能と、キリリっとした容姿と周波数。けれど、言葉は丁寧なのに率直すぎて、人間やドワーフの感情を損ねるらしい。。。無意識なる失言、それでも特に悪いという反省もなさそう。笑 そんな、相違をどれも偏りない愛を込めて描いているような眼差しは、原作から踏襲されているのだろうと想像される。

ホビットの祖先であるという「小さい人たち」ハーフットは、移動する行列で、「誰も列を逸れない!」「いつも仲間と一緒!」と唱えて進む・・・という、すごい同調圧力で(笑)体が小さいから無理もない防衛本能、外の世界に興味を持ってはダメ、勝手な行動をとってはダメ、冒険も空想もダメ、収穫や仲間のことに集中していなさい、という。それが少し洗練されて、後のホビットになるのかもしれないけど、日本人を見るような気がするのであ〜る。

クリスタルもちょいちょい出て来て、やはりスピの人々はこの作品、みんな好きなのかもしれない。・・でも「光と闇の闘い」がテーマであるから、どこまで見続けられるか、Prime 特典の1stシーズンを過ぎたら、見続けるかどうか、まだ分からない。ただ、ヴァラール、ヴァリノールには興味津々。どんな風に描かれるだろうか? 時折記憶に残る、シャンバラのある五次元インナーアースの世界と、やはりきっと、似ているのかな。

Love and Grace

マヌのお仕事

先週、水曜日の途中から何か集合場での重たい空気を感じていて.. 今朝は少し抜けたような気がする週末の朝。

神智学が伝える「マヌ」とは、文明の管理者のような立場。文明といっても、インダス文明、黄河文明、のような地域ごとに発生する小さい規模だけではなく(それも含めて)、人種期の準備をし、その中で生まれる各文明を概観し、歴史の流れを見守りつつ必要な修正を加えたり刺激を与えたりしながら、ひとつの人種期の「終わり」を見定め、そこで得られたデータや記録を保管しつつ、実際の「終わり」を演出。そして次の人種期へと引き継ぐ・・というような、壮大なプロジェクトの管理者のような人々。人というより、ソウルたち、と言った方が良いかも。シャンバラの一部門に属する。

この説明は神智学の本からの内容に、私のフィルターも入っているので、「本に書いてあるのと違う」と思う方も居るかもしれない(?)。やはり体験重視、体感重視なので、尊敬する先人たちの記述や教えがすべて、というよりは、自分の感性や体験をまずは中心に据えて、それを理解・整理するための手がかりとして、偉大な先人たちの著書を紐解く。そう、神智学に出会う前に、既に『ハピの巫女姫』において、何気に「マヌ」として地上で生きる人々を書いていた・・彼らに付けた、インスピレーションからの名称は「ヤ・ヌー」・・(笑)ダジャレのようだけど。。

「人種期」とは、レムリア人種、アトランティス人種、現在の「アーリア人種」のような大きい「型」という意味での人種。ひとつの人種は恐らくエネルギーシステムやソウルシステム、カルマシステムなどのレベルでその都度、デザインされ、実験のような段階を繰り返して「完成」され、リリースされる。iPhone のモデルみたいなものなのかもしれない。。時代、世代によってアプリケーションやOSも変わっていく。

今の我々の「アーリア人種期」は、『ジェネシス』では12000年前から始まっている。けれどちょっと気になるのが私たち日本人含むモンゴロイドはアトランティス人種だとどこかに書かれていたっけ。旧モデルらしい。ガラケーのような立場?(笑)

・・これは書かれた当時の時代意識によるものかもしれないとも思う。神智学の先人たちは霊能力と、研究者としての頭脳と態度を持ち合わせていた天才たちばかりではあるけれど、やはり生身の人間である限り、生きている時代の意識から完全に抜けて中立的かどうかはまた別で。人種的な、偏見・・というほどではなくとも「先入観」くらいは、あるのかもしれない。時々、読んでいて感じたりもする。

だからこそ、定期的に?人間界にやって来て、情報をアップデートしなくてはいけない。そんな役目もやはり、多く地上に転生しているマヌ部門のソウルたちの仕事なのかもしれない。と思ったりする。

私の中に在る、最初から在った、気づいたら創作物の中で物語の主軸に据えていた「ヤ・ヌー」という名の「マヌ」のソウルたちは、今後も恐らくすべての小説の中で主軸として描くのだろうと思う。最初に書いた歴史もの、文明ものである『ハピの巫女姫』はまさに、主人公の巫女姫を含めて、ヤ・ヌーたちのやっている仕事が「マヌ」そのものだ。これは後々から、神智学での「マヌ」の記述と出会って、『ハピ』を書いてから15年以上過ぎた時点で気づいた。ほんの数年前に。

ひとつの文明期の終わりに立ち会い、そこでの人々の動きを、「神々」のニーズに合わせて導き、自らもそのニーズに沿った役目を引き受ける。そして、次の新しい文明の始まり、デザインに関わる。時に神の化身のようになって、チャネルとして高次のエネルギーを地上世界のグリッドや地上の人々の生活の中に刻みつける。

人として生きながら、自分個人の人生の大きな流れは、選択の余地は無いのかもしれない。けれど、それは既に選択している結果なのだろうと。何をしに生まれて来るのか? 忘れているゆとりは無い。魂の選択により、人間世界に来ているのだから・・「思い込み」を逆転させれば、それが見えてくる。

マヌ、に限らず・・魂はもれなく、選択によってこの世界に来ている。けれど、地上での仮の「人格」が主導権を握ってしまうと、自分(人格)の良いように振る舞うことが「選択」であると逆転する。そうそう、「自由意志」としてそれが許されている上に、それを見破り、乗り越えて(という言葉に抵抗がある場合は「統合して」)、本来、ここに来た理由に気づき(思い出し)、それをどこまで実践出来るかに、残った時間を使う。転生は、その繰り返し。

経験の深さは人によって違うので、気づき(目覚め)が早い人は子供のうちから自分の道を見つけたりする。し、カルマ的な課題をすでに終えていれば、邪魔立てすることなくその使命を手助けしてくれる環境の中に生まれる。天才児が、その才能を見出し見守れるような両親のもとに生まれる、例えばそんな風に。

またまた話が逸れてしまった。

デザインしたものを種として物質化させて(種とはまさに情報を詰め込んだ奇跡のような仕組み)、それが育つための土壌を整え、種を播き、芽吹いて育つのを見守り、見届けて、・・・最終的にはまた種として保存・保管して、次に受け継ぐ。そんなマヌのお仕事を、地上で体現して生きる「ヤ・ヌー」たちの人生はきっと、作って、育てて、広げては畳み、を繰り返しながら、静かに洗練させたエッセンスを、また次の創造に使う。そんな事の繰り返しのように(他者からは)見えるかもしれない。

自分自身も、魂よりも人格の響きが大きいうちは、そんな現象に悲しんだり、虚しさを刻んだりするのかもしれない。それを、人間界レベルの「パターン」や「人間関係の問題」だと、思ってしまうのかもしれない。当人がそう思い込んでいるうちは、実際にそうなのだ。それは全てのカルマにおいて、言えること。

当人が、悲壮感や虚しさという幻想のトリックを抜ける、超えることが出来れば、ただただ、魂の仕事に打ち込めるのだけど。それが中々、難しい。だって私たち、生身の人間だもの。このトリックゆえに、「目的」のコースを出入りするソウルも多かろう。けれど迷うことは、操作できないのに無理をして壊れてしまうよりは良い。分からない時は、立ち止まったほうがいい。自分だけでなく、周りをも壊してしまったら大変だ。そういう人も見て来たから・・無理は禁物。

更に話が逸れてしまった。。

難しい話はさておいて。人はそれぞれの人生を見つけて、それぞれの人生を生きる。見つかっていない人は探せば良いし、偏見や思い込みを外して心を澄ませれば、すぐに見つかる。どんな人生でも良い。けれど、全てに共通してどうしても破れないルールは、「愛」と「清浄さ」に向けて生きるという方向性だ。これを破ってしまったら、何度でも逆戻りして、やり直しを繰り返す。毎日、「愛」と「清浄さ」に向けて生きているかを自分に問う。そうすれば、魂と人格は自然と統合されていく。

Love and Grace