「贖罪」— 二度目の『トッケビ』から。

韓国ドラマ『トッケビ(鬼怪)』のことを、いつか Face Book に書いたなあと探してみると、ちょうど一年前、去年の6月のことでした。少し前に、2サイクルめの同作を見終わって、前回とは違う部分にやはり意識が向いたり、改めて重ねて思うこともあり。そこに来て、現実で見聞きしたこと、アルガンザワークのプラクティショナーさんたちへの遠隔伝授セッションから垣間見たジェネシス物語の断片なども、同じテーマで歯車が合ったように感じたタイミングで、刻んでおこうと思います。

同ドラマは、韓国でヒットメーカーと呼ばれる人気脚本家であるキム・ウンスク氏(金銀淑・女性です)が手掛けて、以前の投稿で書いたように私の印象は「日本の古き良き少女漫画みたい」で、とても好印象でした。スタイリッシュな演出やキャスティングのセンス、役者さんたちの実力と魅力、音楽、ストーリーの流れもちょっとした会話や小さな枝葉的要素もよく出来ていて。

同氏の作品は他にもヒット作が多いそうで、最初は時代劇限定だった我が家も、『トッケビ』をキッカケに少しずつ現代ドラマも見るようになりました。てっきり、同じ作者だと思っていた『青い海の伝説』は、実はまた別の人気作家さんの作品だと知って驚きました。諸要素が、よく似ているので。それは韓国ドラマのパターンなのかな。

今挙げた二つの作品はどちらも、時代劇シーンもありつつ、輪廻転生した主人公たちがカルマの中であれこれと相互作用し始め、運命を乗り越え、受け入れる部分は受け入れ、飛び越えたり新たな自由意志を発揮したりしながら、最終的にはハッピーエンド。『青い海の〜』は人魚伝説、『トッケビ』は鬼伝説をベースにしている。『トッケビ』のほうがより、宗教的な奥深さや、スピリチュアルな重さが感じられる。そこが魅力でもある。

何を見ても、アルガンザでまとめてきた地球と人類の魂の歴史『ジェネシス』の世界観や原型に照らして、考察してしまうクセが付いていて・・そのあたりのお話を少し。

二度目の『トッケビ』。主人公であるトッケビとその花嫁の二人も、もちろん素晴らしい(役者さんも、描かれる人物像、設定も)のですが、今回はその脇で準主役の「死神」さんにやや注目気味で見ていました。このドラマでは、前世で自ら命を断った人々が「数百年の地獄」を体験した後に、人間界で死神の仕事をしている。いわば公務員のようなもので、神に仕えているという意識、神への畏怖心は安定している。黒いスーツ、黒い帽子。帽子を被ると人間からは見えなくなる。死にゆく事になっている人間のリストが、自分の受け持ち分だけ届く。記載された日時にその人間を迎えに行き、然るべき場所へと送り出す。

ポイントは、トッケビが前世のままの肉体と記憶で939年生きているのと対照的に、死神たちは地獄を経てもまだ罰として、生前の記憶を失っている。つまりなぜ自分が罪人なのかを知らされていない。任務を通じて、死を巡る人間たちの様々な態度や感情を目の当たりすることを続けて、命の大切さを知っていくと同時に、どこかで、自分の過去生に関わる人間と任務を通じて再会し、その時には関連する人間たちも神の差配で同時に生まれ変わっていたり、関わり合っていたりしている。結果、過去生の記憶を取り戻し、自らの罪を自分の体験を通して学び、昇華できれば、死神の任務を終えることが出来る。どうやらそのような仕組みのよう。

トッケビと何故か同居する事になった(もちろん神の采配で)死神は、前世でトッケビと深く関わっていたため、その時代に関係する魂たちがドラマ序盤で続々と出会い直す。トッケビも死神の顔を見ても関わっても、覚えていない・気づかない設定になっていて、ドラマの終盤まで二人の関係・カルマは明かされない。けれどお茶の間的にはけっこう早い時期に察知していましたが・・。

まあ、そうなんです。「罪人」なので、この死神さんが前世を思い出した時に、現世目の前で起きていることとも絡み合いながら、自分の罪の重さと、自分を愛する者たちを不幸にした罪に涙する様子は、初見よりも注目できたせいか今回とても響きました。前世の彼は、「自分の妻も、忠臣も、民も、誰も私を愛さなかった」と言って自らの命を断ってしまいますが、過去を知ったトッケビが彼にぶつけたのは、「お前は妻にも臣下にも民にも、愛されていた」そして、「お前は妻も国も、自分自身さえ守ることが出来なかった」という言葉。

こういった愛にまつわる倒錯は、「ジェネシス」世界観で言うと、闇に囚われたアンドロソウルや、ケルビムソウルにも見られる切ない特徴だなあと。実際には何も問題が起きていないにも拘らず、自分の中にある弱さと、何らかの闇の力(このドラマでは時代モノなのでいわゆる奸臣の黒い囁き)が繋がった時に、愛や光や希望がすべて見えなくなり、すべてを否定したくなり、自分を卑下して堕ちて行ってしまう。多くの人にちゃんと愛されていたのに。ただ自分が、その人々を信頼し続けることが出来ていれば、何も問題は起きなかったのに。というパターン。

けれどこういう弱さは、大なり小なり誰にでもあるだろうと。主人公たちはその点、光に強い魂なので不屈の信念、絶対的な愛を貫けるタイプ。韓国時代劇にもよくある心弱い疑心暗鬼で被害妄想、壊れてしまう王様たちは、見ていると本当に(ジェネシスで言う)アンドロソウルが、光を失って囚われている典型のように見えます。何を言っても光の言葉は耳に入らず、闇の言葉に引きずられどこまでも。『トッケビ』の描く死神務めのようなシステムがあれば確かに、時間は相当かかるけれど、ソウルはいつかクリアリングされることでしょう。

最近、見ていたアルガンザでの伝授セッションのシーンの中で、自ら堕ちていく天使たちの軍団の物語がありました。天使たちとして地球に来る前に別の星系で、ある集団と対峙し戦った過去があり、そちらの、闇に染まったソウルたちは地球に「落ちる」ことで、転生を通じて学ぶコースにあり、一方で、天使たちとして地球に来ている彼らは、何とそこでまた自己犠牲的に同じような力との戦いの中で、自らを敢えて捧げるということをしていた。。。その意味が、自分の思考では分からなくて、暫し考えてしまった私。

石たちが「ジェネシス」世界観を体現し鎮座している、アルガンザのワークルームでぼうっとしていたら、不意に「贖罪のために自ら身を堕とす」というフレーズが降って来ました。「天使たち」に一体、なぜ、贖罪が必要なのだろうか・・・・・そこは、地球でのシステムや制度を超えた部分なので、想像して実感することは出来ないけれど、過去生(宇宙時代)で正義の戦士だった者たちが地球に天使として生まれ直し、かつて戦った者たちと再会し、罰を与えるのではなく、再び自己犠牲を行って散ってしまう必要が、それでも有ったという。

少し日を置いて感じてみると、「天使たち」は自己犠牲を通じて、闇の力の作動から当時の地球を救った訳ですが、その時に味わった闇の不快感や、黒い力に意識をも蝕まれていく体験が魂に刻まれた結果、人間界の転生コースに入った後には、神や宇宙を信じられず、自分自身さえ信頼出来ず、物事は常に戦いを伴い、決して良い結果では終わらない・・というインプットが入ってしまったようです。その状態で、さあ、ハイ、人間としての転生スタート。・・・何という大変な道のりでしょう。神や正義を知っていて、そのために戦っていた彼らでも、「敵」「闇」「正義」「戦い」という二元性を超えていくためには、その刷り込みを昇華していくためには、かつて持っていた善なる記憶や意識さえ忘却して、人間界をスタートしている。

これは「天使」的な存在たちの一例であって、『ジェネシス』にはたくさんの、天使存在のグループが登場し、それぞれのカルマを持っています。

韓国はキリスト教徒が多いと聞きますが、キリスト教、聖書の世界観の「贖罪(あがない)」と「自己犠牲」が、このドラマにはちらほらとあり。同時に、仏教が伝える輪廻転生、カルマ、因果応報の法則をも描き、人間の肉体を持って登場する「神」には、どうやら男・女の二神が居るようで、キリスト教(一神教)の超越神というよりは、道教に影響を受けたような男女の、青と赤をまとった対の神々という設定があるのかな?と思って見ていました。人間を生み出し守る女神と、死や自由意志も含めて人間世界の秩序を整理する男神、というようなイメージ。

現実で目にする中でも、「敢えて堕ちる」人の姿を見ることがあります。私自身もヒーラーになる前、二十代半ばにそのような数年間がありました。その時の話を、かつてお世話になったヒーラーの先生に聞いて頂いた時、「自分から走って走って、崖に向かって落ちた、みたいな感じね」と。崖に落ちるべく疾走していた。まさにそのような時期でした。

贖罪というのは、そう簡単なものではないのだな。としみじみ、思います。何気なく生きて流れに乗っていても、さして「罪を犯した」自覚が無くても、きっと来世では今世のマイナス要素を拾わなくてはいけなくなる。もちろんその逆、プラスゆえの恩恵や幸運もありますが。

そう、崖に堕ちて、怪我をして、まずはその怪我を癒しつつ、落ちた分だけ戻らなくてはならないというマイナス要素から、歩みは始まる。人類の魂は、生まれ出されてからアトランティス人種を体験するまで、落ちて落ちて、落ち続けていた。周波数を下げつづけ、光だったのに闇と出会し、ついには闇に囚われ、自分の記憶を失った。ソウルとしては、自分が何者か分からない。「死神さん」と一緒なのです。

けれどどこかで、次元の裂け目が用意されていて、本来何者なのかを思い出す時が来る。その時こそ、悲しく苦しい涙に満ちた時間。けれどそれを、乗り越えなくてはならない。そこから先、真の「贖罪」が始まるために。

原罪意識のような話をしたいのではなく、本来、愛であったという自分の魂を、記憶喪失から抜け出し、解放してあげることが、水瓶座時代の癒しと進化のテーマなのです。

神智学では、人類の魂はアトランティスで二元性を極めて「堕ちきった」ところから、今は少しずつ、上がっても良いよ、上がらないと、そろそろね、という時代に入ったところであるという。けれどまだ過渡期の範疇だから、フタを開けると、ため込んできた恐れや不信や傷や不調和が騒ぎ出して、またフタを閉めてしまう。時代劇の「奸臣の囁き」のように、目に見えない精霊のようなモノ、モノノケ的な原型エネルギー、それが出入りする周囲の普通の人々の言葉などを通じて、前に進もうとしても再び、恐れや怠惰や不信を煽られてしまう。

そのうち、そういうモノたちは存在出来なくなる時代が来ると思うけれど、今はまだまだ。

長い長い贖罪の道。輪廻転生。

それは、人類が罪深いからではなく、自ら選んで一度堕ちて、すべて忘れて、けれど歩きつづけるうちに思い出し、取り戻し、落ちた分だけ上昇し、さらに上に抜けていくというコースを、歩いているから起きている。ソウルの選択、自由意志なのです。

だから騙されず、耳元のささやき、お腹の中でふと生じる不安に、惑わされず。ソウルを取り戻して行こう。

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが書いていました。恐れとは、神を信頼していないというある種の罪である、と。そのような「罪」の中で、ぐるぐると周りつづけ、転生しつづけるのを、本当は誰も望まない。

けれど、不安を煽る力が、人間世界のあちこちに存在し、常に人々はそれに心を向けてしまうし、社会構造がそもそも、それで出来ている。

『トッケビ』では、主人公キム・シンの妹、そしてトッケビの花嫁、この二人の女性たちはとても優秀で、メタフィジカル的に分析してもよく出来ている。キリスト教的自己犠牲をおこなう=天使、の姿を一人は演じていたし、もう一人は、過去生でも転生した現代でも真の愛が揺るぎなく、自分の感情に拘らず、神なる力の法則に乗っ取って決断、行動している、とてもシャンバラ、シリウスを感じさせる。つまり女神性と言っても良い。(←現世の外見やキャラの印象が全くそうではないトコロがまた面白い^^)

ヒットメーカーである作者さん、おそらく無意識ながら大いなるものからの受信、魂の高い層で筆を進めることが出来る方なのだろうと思った、二度目のトッケビ、でした。他のキム・ウンスク脚本作品を見ていても、男性主人公たちはセンシティブで気難しく、やや「病んでいる」キャラクターが多い一方で、女性陣は健康的でまっすぐ、頼もしく、愛にゆるぎないというパターンが多いかも。この『トッケビ』では、トッケビさん、および死神さんの、それぞれの「病み具合」が何とも愛らしく、良い味を出しています^^

Love and Grace,

Amari

奈良旅 2020年冬 シルフィードと大地の都、エソテリ旅。Vol. 1

テレビを見ない私でも、さすがにニュースがちらちらと目に入り、世相的には旅をするタイミングではないと感じつつ、冬の奈良へ。どうしても避けられない事務的な要件があり、最初は「代理人では?」とか「オンラインでは?」と尋ねてみたくらいだったけど、そうは行かないということで、ならば一年半振り、ご縁のある場所や以前から思い入れのある場所へ寄って来ようということに。

出発2日前に予約したホテルは平日ということもありガラガラで。去年利用した時とはまったく違う鎮まり感。さすがに観光地・奈良なので人が居ないという訳ではないけれど、いつもの外国人観光客のにぎわいが引いて、25年以上、奈良に通っている私の目には初めてというくらいに人出が無かった。無理もないけれど。私も本当は「自粛派」。

去年はやはり用事もあって二度、奈良に行っていて。確かSNS等では「ブログで旅日記を綴ります」と宣言していたけど、書けず仕舞い。もしかすると今回の記事を書きながら、話がつながって行ったりしたら、自然と去年の旅記録も載せられるかも?・・なんて淡く期待を抱きながら、今回は記憶が新しいうちに、書き始めてみよう。

ただいま、アルガンザでは今年リリースのプログレッシヴ版「エヴォリューション」の(プラクティショナー伝授は1年前に始まっていたものの)ようやく、クライアントの皆様にお届けする「ワークブック」の最初の2冊が配本できる状態になったところ。そこに至るまでの、いつもの高次が用意する試練のような流れを、執筆中の私も、ワークの現場を担っていくプラクティショナーさんたちも共有しながら、各自の修行、そして全体の潮流を体験し、関係する「サンダルフォンニュートリション」や、(来年改訂に着手する)「レムリアンセイクレッドレイキ」なども、同じ世界観の中つながり合うエネルギーゆえに動いていて、

新しい情報も多く集まり、それによって「ワークブック」の内容に手を加え、「天使」の一般概念をアルガンザ流でガラリと書き換えながらの「アルガンザ天使学」の展開(のまずは触りだけ。ライフワークくらいの難題でもあるから。)という動きも起きている。行く先々でエンジェリックな、天使の羽のような雲が、出発前の関東から、移動する先、する先に着いてくるように現れ、しばし感じ入って感謝していると、その地を去る頃には薄まって消えていく、を繰り返して。何かとても、意義深い時間なのだろうなと感じていた。

奈良に着いてすぐ、定番の奈良公園に。近鉄奈良駅から歩き出すとすぐに見えてくる興福寺で、お決まりの「最初の一枚」。さっそく、雲が凄かった。

先日インスタグラムに書いたようにトーハクの会員優待期限がなんとこの日、最終日。少しでも活用しなくては・・と、同じ国立博物館ならば使えるので、奈良公園内の奈良国立博物館へ。仏像館、ほとんど一人で見て回る(人が少なくて)ような状態で、とても贅沢。やっぱり、飛鳥・白鵬・奈良時代までの仏像が好き。せめて平安かな、けれど鎌倉期の運慶・快慶はやはり凄いと想う。

冷静に見ていると、どんな分野でもそうだけれど、上手い人の技術の高さは卓越して見えるものだ。とはいえ、素朴な市民が彫ったらしいというものでも、良い雰囲気で引き付けられるものもある。だからこそ、博物館で大事にされているのだろう。

雲が向かっているのか、そこから現れている(ように見える演出?)のか、大事な御蓋山(みかさやま)のフォーカスを予感させる。20歳の新人会社員時代に大和路ひとり旅を初めた時も、幾つかフォーカスしていたテーマのひとつが春日山付近の古代祭祀で、中途半端であまり深く掘り下げないまま年月が・・(27年も!)経っての今だけど、去年の奈良旅では、ここ10年くらい寧ろ避けていた春日について、「和解の旅」とか名付けて、興福寺の薪能と合わせて心をオープンにして臨んだ。ところが、ひとりよがりの「和解」設定はまあ、良かったものの、拮抗するエネルギーの厳しい逆流があり、やはりそう簡単な問題ではないのだなと痛感して帰って来ていた。

あれからそのテーマもすっかり忘れて、今回何も考えずに用事のために出向き、優待券を活用せねばという三次元思考で奈良国立博、に行ってみたらば、特別展示で「春日大社の祭祀」を取り上げていて、呼ばれた感じもし始めた。展示そのものはどう、ということでは無かったものの、「そう言えば主祭神はタケミカズチだなあ」「ヒタチの国から鹿に乗って御蓋山に降り立ったという伝承だったなあ」と考えていると、

昨年こころみた「和解」旅のカラクリ、個人的な魂の影響力などが解けていく予感がした。若い頃に春日山周辺に思い入れていた理由は、巫女らしい女性たちや女神系エネルギーの気配があり、恐らく縄文時代〜ヤマト国により再編成されるまでは、古来の神奈備だったに違いないし、なぜ神様が(栗本慎一郎氏が、縄文以来の本来の日本、ヒノモトの重要地だったと表現している)ヒタチ(茨城県)から、奈良に移動してしまったのだろうかという事を考えると、古代史に詳しい人々ならば言わずもがな、ご存知だろうけど・・藤原氏の台頭の影響によるもの。もっと言えば、藤原氏による、蘇我氏の権力・土地・神話・バックの神様 の乗っ取り・・というと言葉が悪いか・・・「成りすまし」・・もっと悪いか、まあ、そういう事なのです。(笑)

どこの国の歴史でも、いつの時代でもあることで。もちろん色々な考えの人がいるし、私は古代に興味を抱いた20歳ころから色々と読んで来た中で、エナジーワーカーとしての経験、体感や直感などもともに、ここ数年は、栗本氏の著書で展開されるソガ=イズモ(日本海側の広い範囲)、アズマ(東国・東北の広い範囲)の首長的な存在だったという説に、賛同している。もちろんルーツは、古来言われて来たように「渡来人」だとは思うけれど、早い時期にやってきて、ネイティブの縄文の部族社会と仲良くしていたのだろうと。

話が逸れたけど、

何か偶然ではない、博物館での「春日祭祀」に誘導されるように、翌日の午前中は春日大社の奥の方へ、行ってみようとふと思いつく。

そして明くる日。まずは、ホテルからバスで奈良公園エリアへ、「春日大社参道入り口」で降りる。本当はもっと大社に近いところまで、歩かずにバスで入りたいと思っていたところ(午後に大事な用事があったので体力温存のため)・・その路線が本数が少なく、「入り口」バス停を利用することに。けれどお陰で、昔は大好きでよく行っていた「飛火野」エリアを満喫できた。広大な芝、春日原始林から継続的に点在する森の巨木たち、鹿たちもここでは広々と群れで広がっていたり。そして、大事な神奈備も背後に見える。

2007年、家族がこの近くで大変な事になり、救急車を呼んだ。遡ればもっとずっと前、若い時分の旅でも、何度か「問題」が起きたり、ヒヤっとしたり、という経験が春日の森、春日野ではあり、2007年の一件から、以前の思い入れは引いて「近づきたくない」という気持ちが続いていた。去年の「和解」を経てもまだ、今思えば少しどこか、心を開けない感覚が残っていたのかもしれない。

今回、直前までのスケジュールが過酷だったので、一切計画を立てず。ただ博物館だけは行くというラフな予定から、結果的に誘導されてみると、この日は本当に世界が美しく違う次元に居るようで不思議。空気の粒子が違うというのだろうか。それでもヒーラーとしてこの数年、様々なエネルギーの拮抗を「研究」してきて、そうそう簡単に喜べない、簡単に解決するとは思えない、という構えが出来ていた。だからこそ全く期待をせずにふらりと向かう旅だったのが、良かったのかもしれない。

顕在意識ではよく分からないけど、何か過去生に関する記憶、更にその原型はアルガンザの「ジェネシス」概念で言う、「ジェネシス層」のいろいろに由来・起因している何かが、奥へ、奥へと登っていくにつれて解けていくようだった。春日のいわゆる「大社」は御蓋山の中腹にあたるそうで、今回インスピレーションを得た大社よりも奥のゾーンへ足を進めることにした。

飛火野で遭遇した、「鹿寄せ」という楽しいイベントは動画をフェイスブックに載せたので、良かったら覗いてください。

大社にももちろんご挨拶に立ち寄る。ちょうど御神事の最中で、琴と横笛、祝詞と巫女さん二人の舞の美しい場面にも遭遇。

御蓋山自体は神が降臨した聖地。ということで「禁足地」とされていて、一般ピープルはここから拝んでいいよ、という「遥拝」の場所が幾つかあり。その他、たくさんの摂社に出会いながら。

神社として、オヤシロを建てるようになったのは6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来して、お寺という立派な建築物に圧倒されたヤマトの人々が、祭祀にも建物が必要だと考えるようになったから、と言われている。それ以前の神祀りは、きっとこんな風↑だったのだろうな、と思う。木々や岩を神なる場所として区切って、祭祀を行う。

これまでは自分の中に色々な区別、識別が起きていたのだろうと思う。今回、この春日の山の中腹や、森の中を歩いていて、「三輪」を感じた。20歳の旅で「ひとめぼれ」して通い続け、10年以上過ぎてからその麓に移住し、四年間住んでいた、三輪。

一方で、何かこう、興味を持って通いつつも、自分との相性の悪さを感じていた春日。けれどその幻想がスルっと外れて、「ああ、同じものだ」と腑に落ちたような瞬間があった。相性が悪かったのは、その地ではなく、歴史の断片、一側面、確かにそこにあったマジカルな力と、それが自分の過去生や、持っているエネルギーと出会すと実際に作用していた拮抗するもの、それが顕現して現象化していたこと。

人の感情にヒーリングが起きるのと同じような体験を、その土地、歴史的なテーマにおいて、体感したようだった。ただ、あるのは祝福と、光、感謝だけ。間に分け入って邪魔をするエネルギーにより、仲違いさせられていたような・・・喩えて言うならば。

そんな訳で、今回は三輪には行かなかった。その必要が無かった・・・春日で、三輪と会っていたから。

そして!

面白い「落ち」もある。旅から帰って来て一晩過ぎて、翌朝気がついたのは、実は私、自宅のある神奈川県、サガミの国のアースワークのためにあれこれと調べたり、ソフィア他、クリスタルでワークしていた中で、つい最近「これは春日信仰について調べないとな」と思っていたのだった。信じられないことに、旅の道中、まったくその事を忘れていた。けれど春日信仰の中心地、春日大社と春日山には行っていたという。笑

昔から変わらないこの天然振り。ここが高次と仕事をする上ではきっと大事なのよ〜・・ある種の才能なのよ〜・・と、自分に言い聞かせてみたり。

そうそう。もちろん、春日信仰という言葉によって私がイメージしていたのは、縄文の石器時代の人々による太陽崇拝=春分の日、春の太陽(春の日・カスガ)、にまつわる信仰のことで。春日大社がタケミカズチ神を主祭している、というのとは内容が違う。ゆえに春日大社に行きたかった訳ではなくって、春日信仰がおそらく縄文の人々によって行われていた一つの拠点であった春日山、御蓋山に行き、その空気を体感することが、ポイントだったのだろうと後からしみじみと理解する。さらに、その地で「三輪を感じた」ことにも深く納得。三輪山も同じように、縄文の人々による太陽崇拝の拠点であったのだから。

時間がないのと体力的にもかなり問題がある中、ただ導かれるまま駆け抜けたような旅だったけれど、とても重要なエネルギーの動きがあったと感じている。

長くなりそうなので、幾つかに記事を分けることにします。

今日はこのくらいで。〜〜「つづく」〜〜

Love and Grace,

Amari

報われない偉業

大シフトの8月、も終盤のせいか、糸を手繰っているうちに自分でも深い、大きめのもの(消化・昇華するべきテーマ)が出て来た。

去年から少しずつ、奈良の家からオフィスへと、古い書類群を送っていた段ボール数箱。なかなか本腰を入れて整理できずに月日が過ぎていたところ、今週は助っ人の手もあり、作業を進めることが出来て・・

 アルガンザになる前の「ロザリア」「天と大地」時代のサロンの記録のボリュームと、当時の自分の集中したエネルギーの注ぎ方が書類群から激しく伝わって来て、古代史探求や、20代の仏教信仰、さらには受験勉強なども同じくだったが、いつも必ずタイムマシーンを開ける作業(記録の整理)は、決まって物悲しくなってしまう。
もう定番だったので、そういうものだと思って気にして来なかった・・・が、今回スタッフさんが手伝いに入っていたことで、客観的な視点が自分の中にも生まれて、「この悲しい感じ、変ではないか?」と、自覚するに至った。実際には過去の努力・奮闘は報われなかった訳ではなく、必ず良い結果を連れて来てくれた。パーソナリティの中心はその部分をちゃんと分かっていて、信念のようなポジティビティもある。けれど、そこから分離している「何か」が、悲哀に変換してしまうのだ。
冷静に堀り下げてみようと決意した瞬間に、整理している書類の中から、2007〜8年ころ、当時メル友のような関係だった東北に住む女性 — 同じ歳、同じ本名の、タロットや占星術やチャネリングアートをしていた女性が見てくれた、星読み&サイキックリーディングの鑑定結果の書類が、出て来た。
「秘教の研究においてトラウマがある」と書いてあった。当時は「秘教の研究」と言われても読み流していたようで印象に残っていない。けれど今ならば、「秘教徒を前世でもしていて、続きをしに来ている」と数年前から生徒さんたちにも話していたからよく分かる。加えて、何らかの研究者としての「トラウマ」については、ちょうど考えていた所でもあった。
石巫女クラスで取り上げたウェーゲナーの「大陸と海洋の起源」を、最近持ち歩いて電車で読んでいたりもしていた。私はこういう、「先駆的な研究を堂々とやってのけたけど、悲壮感の中で死んでいった」とか、「まだ時代に受け入れられず当人は絶望の中で早逝した」とか・・「研究者の悲哀」に妙に敏感なのだ。そしてこれは、最後に残った「理由のない感情パターン」でもある。
ヒーリングと出会ったころ、今世では身に覚えが無いにも拘らず自分の中に深く入っていて、ネガティブな感情反応を生み出しているパターンを多く抱えていた。私の場合、ネガティブの中身はほとんど「悲しみ」や「虚しさ」「恐怖」などだった。父権制への恐怖、十字架、ギロチン、高所恐怖症、閉所恐怖症、伴侶である男性の死と犠牲、そこへの罪の意識(「ハピの巫女姫」のリーヴ、「ガイアナ神謡集」のレオダイなどに反映)、などなど。それらが一つ一つ、セルフワークやセッションを通じて癒されていった。
自分になぜか入っている多くの原型的エネルギーからの感情パターンがクリアリングされると、本当に嘘のように「反応」も消えていき、そのような感情に理由もなく落ちるようなことは、無くなるもの。これは或る意味とても「科学的」だと言える。感情や思考が情報の注入、セッティングであり、的確な手順でそれを外したり中和できれば、翻弄される自分のメカニズムそのものが、無くなっていく。
この数年どうも、悲しい末路のエピソードがあったり、偉業の割にはパっとしない人生、みたいな先人たち(研究者・執筆家)にシンパシーを感じていた。かつて若いころは上記のほかに、「狂ってしまった人」や「自殺する芸術家」に同情するクセがあったが、これらもまた、過去生を癒すことであっさりと消えていた。この二つは、実際にそのような過去生が、比較的新しい時代にあった為に、影響が強く出ていたパターンだった。
「秘教研究や執筆の、(前世の)続きを、今世でやっている」と自覚している今、その仕事に直結する、打破しなくてはいけないトラウマがあるのだと、漸く気付く。これを綺麗にしなかったら、この先には進めないというくらいに自分の今世の「本題」であるがゆえに、むしろ子供の頃や若い頃は息を潜めていて、ここ数年で浮上して来ていたのだろうという事にも、やっと気付く。
過去の自分の「反応」パターンを振り返り、その本質を理解するのに時間は必要なかった。。過去生では、自分の弟子、または共同研究者のような立場の人々に裏切られてしまったのだろうと納得する。そして過去生のさらに深層にある原型パターンを既に「ジェネシス」で紐解いて、体験もしているから、断定しやすかった。
アトランティス文明期、叡智のマトリックス「ソフィア」から、情報だけ取り出してソフィアとその守り手のエルフ界を破壊した「革命派」の人々。数年前、このジェネシス情報が開示された時、私はソフィアの意識になって、ウオンウオンと大泣きしていた(笑)。
先にそれを体験していた(鋳型を癒していた)から、もっとも近い過去生だったゆえに生々しくお腹の中に沈んでいたとは言え、意識を向けただけでスルスルと解け始めた。過去に大きなテーマと向き合うには、かなり大掛かりな体勢が必要だったり、長期的に少しずつ分かっていったりしたものだけれど。鋳型に先に触れていたから残照のようなものだけが残っていたか、またはこれからの仕事に直接関わるからこそ今、ソウルのデーターバンクから改めて降りてきて、お腹に入ったとも言えるかもしれない。
悪気のないちょっとした不注意(利己の波動)、人がついついやってしまうというレベルの利己による他者の侵害に、過度に悲しくなる性癖も、ここに起因していそうだ。人魚姫に助けられた王子がそれに気づかず魔女が化けた女性が命の恩人だと勘違いするシーンに、子供のころに号泣した理由も(笑)
ウェーゲナーの大陸移動説は、すぐには理解・評価・賛同を得ることは難しかったけれど、当人の死後、価値に気づいて取り上げる学者が出て来て、評価されるに至る。さらに技術革新からデータによって彼の気づき、研究、主張が正しいと認定される時代が到来した。こういったタイムラグが生まれるのは、「天才と凡人が居るから」で片付けられる問題ではない。自身に感情的な違和感があったとしても、それは自分の中に在るものが反応しているのではないか?という謙虚さとともに、「普通ではない」ことを言い出す人々の声と真摯な態度に、ハートを開く感性が、人々にあれば解決すること。
ある程度のワンネス的叡智の周波数の共有は、やはりこれからは必要だと思う。そうでないと、自由になった人類は各自の利己で暴走する。地球は持続可能ではなくなる。
・・と、話が逸れたけど。私個人の記憶だけではなく、
アトランティスにおいて、自我の目覚めを体験しつつある人類の中から、神なる世界に手厚く保護され、闇に染まる、利己で暴走する、という状態にさえ未だなりようが無い仕組みの中に居たところから、「俺たちは結構賢いから、何でも自分たちでやってみようゼ」という「革命」が起こった時、彼らは宇宙的叡智のマトリックス「ソフィア」を電磁的に攻撃して破壊し、かつ、ソフィアに蓄えられていた情報だけは自分たちが活用するために吸い取った(アルガンザ「ジェネシス」でのストーリー)。・・ここで、ソフィア側だったソウルは人類の(愛を注いでいた存在たちの)仕打ちを深い傷として刻んでいる。
「愛しんでいたものたちに、情報だけ持っていかれ、自分は滅ぼされる」
このパターンを持っている人々は、少なからず居るはず。ソフィアを守っていた存在たち、その世界、人間界に居てソフィア側だった魂も多く居たのだから。・・そういえば日本人は「判官贔屓」で、民族のDNAとしてはやはり、自然界系、レムリア系、ソフィアの守り手たち・・の流れを濃く継いでいるのかもしれない。そのために「大人になれない(進化に乗れない)」人々が多いのだろうか?
タイムカプセル、自分の過去の「頑張った記録」を見るにつけ、悲壮感に包み込まれていたことも、過去に多くの「反応パターン」が嘘のように消えた、思い出せないくらいに関係なくなった事例と同じように・・過ぎ去っていくものなのだなあ。。。と、意外な、不意にやって来た新しい秋の風の到来を予感している。
ちなみに上記の、占星術とタロットで鑑定してくれた女性は、私がまだ奈良に居たころに急な発病を経てあっという間に天に還られた。亡くなる直前、彼女が好きだった「マグダレーナ」という洗礼名で洗礼を受けてクリスチャンになっていたということを思い出して、これは偶然ではなく、彼女のスピリットがくれたメッセージだったのでは?と思った。というのも、ちょうど執筆物のための文献として、マグダラ関連の本を4冊並べて、読んでいた最近だったから。
太古フェミニズムが、縁を繋いでくれたのだった。女性性や女神のテーマは、自分がずっと前に昇華したために、最近はほとんど頭を過ぎることもなく。『聖娼』のキーワードで私を検索で見つけたと言っていたっけ。。もう15、6年も前のこと。マグダラの読書をしていても、申し訳ないことに彼女を思い出さなかった。けれど、私は当時何を読んでどんなふうに感動し、母系社会や聖娼制度の国を舞台にした「ハピ」や「ガイアナ」を書いたのだっけ・・・と記憶を辿ってはいた。なぜか抜け落ちていたけど、書き上げたばかりの「ハピ」をメルマガで購読してくれ、まだ高揚感でワクワクしているような当時の私の世界観を、ひととき一緒に、喜びとともに感じてくれていた一人だったのだ。
「過去の努力を振り返ると押し寄せる悲壮感」のパターンは過去生ゆえだと気付いたことで、過去も現在も未来も、創造の1本の流れにあるという、何か、「魂の生み出す力」のようなものが戻って来た。
そう言えば、世界史の中でもっとも「報われない偉業」と呼ぶべきは、近年までのマグダラのマリアの立場、だったかもしれない。ここ30年くらいで、報われつつある。2000年越しの誤解と偏見を超えて。本来、イエスと対等に扱われるべき人物なのではないか・・とさえ、思っている(ジョン&ヨーコのように)。世が世なら。つまりちょうどあの頃に盛っていった父権制・男社会へのシフトの波の中で、情報を改竄されることが起きていなかったならば。
いろいろと話が枝葉を広げつつも。
まさしく、変容の夏。
読んでくれたみなさまにも、華麗なる変容を!
Love and Grace,
Amari

New エソテリ、或いはメタスピ。

 

こちらのブログは「スピリチュアル」が好きではない、どこか怪しいと思っている(笑)人々にも読んで欲しい、そしてその「すぴ」の括りの先入観を外して、メタフィジカルな探求者の中には、宇宙文明とか惑星の進化とか言いながらもそれを歴史として取り扱い、真剣に人類の過去と未来、そして現在を研究し模索する中に身をおいて、何とかプロ(専業)として目に見えないエネルギー、魂というものをケアし導くという仕事をしようとしている者たちが居るということを伝えたいと、スタートして2年半が過ぎた。

同時に、そのような在り方をする新しい時代の「すぴ」を超えた、バランスのとれたエナジーワーカーたちが次世代、次々世代に生まれて欲しい、という両方向からの目的で、以前の「いかにもエナジーヒーラー」のブログ群を閉じて、リニューアルするべく開設したもの。

今書いた「目的」はこのブログに限ったことではなく、数年前からの、そして今後の私の活動指針でもある。2016年で一般クライアントの受付を終了し、2017年にはスクールの縮小、小数精鋭を育てていくマスタークラス、伝授、勉強会に的を絞って来た。来年春にそれらも終えることになっていて、一部の例外的活動(既にアルガンザワークのプラクティショナーである人々だけを対象にする伝授が幾つか来年まで続く)を除き、「エナジーヒーラー」としての仕事を「引退」する。

現場に立つ専業者は、一つ一つの事例に集中し、クライアントのニーズを満たすことで、サービス業としてお客様に報いる必要がある。それと、研究や新たな道を切り拓くための模索、広角で広い視野を持ち、未来に焦点を当ててその分野ごと「進化させていく」ためのチャレンジを、同時に行うことは出来ないからだ。

上記の、「真剣に人類の過去と未来、そして現在を研究し模索する中に身をおいて、何とかプロ(専業)として目に見えないエネルギー、魂というものをケアし導くという仕事をしようとしている者たち」は、もちろん昔からずっと居た。それは「秘教」とか「オカルト」とか呼ばれて綿々と一部の知識人たちに受け継がれ、時にアブナイ集団や思想を生んだ事もあるだろうし、最近ならば140年前のブラヴァツキーを初代とし、シュタイナー、アリス・ベイリー、そしてクリシュナムルティを輩出した『神智学教会』が知られている。

現在、ニューエイジと呼ばれている(日本ではいわゆる「スピリチュアル」)ジャンルは、ここから派生している。多くのチャネリング情報、ヒーリング体系、出版、スクールがどんどん生まれ、特に日本では「江原さん効果」でスピに参入した人々も加わって、質や方向性が錯綜し、今はかなり混乱している。

メタフィジカルな分野は、神智学、があれば十分だと実は思っている。そもそもブラヴァツキー夫人、2代目のアニー・ベサントの試みは、古今東西の秘教的叡智からエッセンスを追いつつ、直観や東洋の聖人の教えも取り入れ、、リードビーターやアリス・ベイリーは更にインドのヨーガ思想や哲学、チャクラやオーラの概念、ソウルシステムまでを現在の表現でわかりやすく説明した。思想の違いで離脱したシュタイナーは、単に思想や癒しだけでなく医学・建築・農業・教育・美術などあらゆる分野に神智学と直観的世界を活用しメソッド化するという「人智学」を打ち立てた。

そして、神智学教会の幾らか犠牲のような側面もあったクリシュナムルティは、人生の後半、そんな彼だからこそ説得力のあった独特の思想哲学を、ボームなど科学者とコラボしながら紹介し続けた。これだけ、天才たちが集まり、完璧な役割分担を演じたのだから、もうこれ以上、何も必要ないというくらいに、「すべて」が詰まっている。私はそう感じている。

けれど・・・アリス・ベイリー著書の中で、情報源であるチベット僧のジュワルカルは言っている。時代に応じて、探求者たちは変化(進化)していく。地球の表面世界に届く高次元世界からの光線、意識やチャクラに刺激を与えるウェーブも、変わっていく。その時代時代に生きる人々や状況に合わせて、伝えるための表現も、変化していく必要がある。

今は過渡期だと信じたい・・情報だけではなく、メタフィジカルなエネルギーも錯綜し、混乱している。向かう方向、引っ張っていこうとするベクトルがバラバラで、このジャンル自体が、以前のような心地よさや輝きを感じさせない。

深淵な神智学の語りに触れ、または効果のあるヒーリングと出会い、歩み始めた人々がそんな混乱の中で道に迷い、中にはガッカリしてしまうケースも多々あるだろう。

2002年、このジャンル(ニューエイジ、癒し)に本腰を入れて付き合うことになった私のキッカケは1本のフラワーエッセンス(花のエネルギーを転写した波動水)。なぜか最初から体感もあり、起きるものごととエネルギーの仕組みもすんなりと、理解できるという今思えば不思議な「初心者」だった。エッセンスを一回飲んだだけで起こる自分と周囲と体の変化や浄化の強さに驚いて、2本目を試すと、エッセンスの中に入っている植物の意識のようなものをヴィジョンで見るという体験をした。

20代の10年間、仏教徒として真冬の水行や、白装束での未明の登山などの修行をしていたという下地?があったからかもしれない・・過去生でも繰り返し「秘教」に触れていたからかもしれない・・・ともあれ、あっという間に強い信念を気づけば抱くようにになり、半年後にはヒーリング雑貨や石を扱うウェブショップをオープンした。計画したわけではなく、娘を保育園に入れるために「仕事を作らねば」という状況にお尻を叩かれた故だったが(幼稚園ママは自分には無理だと悟っていたので・・)。

当時のスピの主流である、女性的なハートの勢いで、エナジーヒーラーとして一気に駆け抜けた。来年春、15周年での引退となるが・・実際には、密度としては、それ以上だったと思う。これもまた計画していたわけではなく、シングルマザーゆえに娘を育てるという大業を前に、休む間もなく構えているところへ、うちのサロンの見えないマネージャーたちは次々と仕事を運んで来た。ヒーリングをする立場でも、そのエネルギーに常に自分が癒され、いつでも元気、やる気満々で駆け抜けていた。最初の・・前半の8年くらいは。

9年目に入った頃、あるキッカケから「パチン」とエネルギーの膜が弾けて、「スピ」というグラマー的集合エネルギーから、数秒間の時空変動のような体感とともに、醒めてしまった。ヒーリングスクールである「カレッジ」3期の真ん中、中級と上級の間の夏休み、8月のことだった。

カレッジ3期は、急に起こった自分自身の変化を反映させた章がテキストに幾つか追加され、また、1期を行いながら構築していったフルで1時間の「虹と大地の瞑想」を、知人の作曲家に頼んでオリジナルで音源化し、CDの形で仕上げた。つまりカレッジとしてはここで完成を見ていた。今振り返ると、カレッジだけではなく「新たに作る」「広げる」というエネルギーはその夏までの、前半の8年に凝縮されていたのだと思う。今整理してリニューアルしているオリジナルワークも、その頃までに原型が出来ていたり、情報を既に受け取り終えていたものばかり。その後のマスタークラス、ジェネシス、プラクティショナー育成も然り。

山のピークを登り切り、ゆっくりと降りながらその山を去るために整理をしている。2015年の夏からはそんな歩みの中にあった(当時は自覚なく、自分もやや混乱していた)。このブログを作った頃は、最初に記事に書いたようにまだ名前もなく、この先の表現活動を何と呼ぶべきか分からなかった。が、最近ふと「メタスピ」(「スピリチュアル」を超えたもの)で良いんではないかと思いつく。

そして昨夜、自宅でのこと。

デスク脇の小さなアンティーク風の棚の石は、手にとるというよりは置いてあるだけで高周波を発する「装置」のような位置づけが多い。シュンガイトやヌーマイト、メテオライト、サルファーなど。そのコーナーから珍しくグリーンアパタイトに引きつけられ、何となく手にして階下での夕食に向かった。部屋に戻り、元の位置に戻した時に側にあるシチリア島のサルファーを落としてしまった。が、何とも思わずそのまま明かりをつけずに、薄暗い部屋で瞑想し、就寝。

今朝起きて、朝日を浴びているデスク上に、レモンイエローのキラキラしたものが散らばっているのに気づいて、状況を察した。そうだった、サルファーは脆い。忘れた訳ではないけれど、近距離でちょっとした高低差だったのに・・あたりどころが悪かったか。同時に悟ったのは、昨夜はアポフィライトに呼ばれていた訳ではなく、それを戻す時にサルファーを落として欠けさせるというセレモニーが、必要だったのである。昨日、一昨日と、シチリア島サルファーが2014〜15年に関わって起きた「ジェネシス世界観」にまつわる一部の情報について、プラクティショナーさんへのメールで触れていたところだった。

その関連は、こちらよりも右脳的なブログ「アルガンザ・アップデート」で後日、記事にしようかと思う。それは秘教的・神秘的な水面下の流れであるとして。以前同じサルファーが粉々になったという記事を書いたっけ、と自分の古い記事アーカイブ「パサージュ」を覗いた。こちらの記事:

これを読んで当時と今を同時に比べた時に、上に書いたように2015年8月に起こったキッカケから、既に山の頂上を去る歩みが始まっていたことに気づく。この記事は同年9月13日に書いたもの。丸々一つ、約3センチ四方のサルファーが割れてしまっていた。

今までも、ただならぬ変化は2017年から、も少し視点を変えると2016年から・・と書いて来たけど、確かにグラマーが醒めるという経験をしていたのが2015年8月であり、カレッジ体系の完成も同じくその頃だった。この、興味ない人々にはどうでも良さそうな話—私の仕事の背後にあった設計図が(笑)、私自身に思い出させられたことによって・・実はこちらのブログにとっても、小さからぬテーマであった「今後の新たな表現方法を何と呼んでいくべきか」の答えを見つけることに繋がった。

古い記事の粉々のサルファーの画像を眺めていたら、「新しいエソテリシズム(神智学)」=「水瓶座時代の New エソテリ」と、頭の中で響いた。「エソテリ」と外来語を途中で止めるといういい加減さ、ユルさが、新しい日本語っぽくて良いではないか?

皆で流行らせましょう。。。笑

天才たちが集った100年前のムーブメント「神智学」が、現代と調和しながら、「秘教」ではなく「常識」になっていく日を夢見て。それは世界平和、地球環境、人類の進化、全てにとって持続可能な流れに乗せていくための「必然」のように私には思われる。いやいや地球など、人類など壊して終わらせたいのだよ・・という意見の持ち主以外の、すべての人々にそれが伝わるように。怪しいものではない、秘められたものでもない、日本的に混乱した「すぴ」でもなく、怖いものでもない・・・ヒトという形をとって、魂がこの地上で生きていくための常識的な知恵であり、全ての人が健康と幸福のためにそれを知るべきであるし、その時代が来ているという事が、伝わるように。

「新エソテリ」「メタスピ」、どちらも使って行こうかな。

まずは、このブログのカテゴリーとして作ってみた今日。その記念を刻むべく記事を書いてみました。

Love and Grace,  Amari

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不可視の相互作用とヒトをめぐる外部の力

 

ウリエルとピュアレイのブレスたち。以前 ショップの Instagram に載せた画像ですが、なぜかウリエルの気分だったので、再び。

Face Book 7/27 に書いた文章、あまりに長いのでこちらの記事にすることにしました。前回と同じくですね(笑)、そのため文体がFaceBook仕様で「ですます」調に。場所が広くなると気持ちが大きくなって、編集・追記により文章さらに大分長くなっています。Face Bookで一読いただいた方も、ぜひお読み下さい。

・・・・・・

(Face Book に書いた「とある珍しい光景」に遭遇した後の、続きをこちらに書きます)

帰路の途中から、左半身の気配がおかしくて、帰路のなか色々ワークしましたが外れないうちに帰宅。何となく切り替えて過ごして普通に就寝したら、夜にうなされてしまいました。カルナのシンボルや、魔除けの究呪を唱えているうちにうつらうつら。すると、透明で黄色がかった人型のエーテルのようなものが、左側から私の体に入って来ようとするのを感じて、瞬間でセイキムのマントラを唱えると同時に、意識でそれを吹っ飛ばした・・

こういう体験、全く無い訳ではなかったのですが久しぶりだったので焦りました。少し違うけれど似た様な事は、まだヒーリング初心者だった頃にオーラソーマのボトルを初めて「体に塗って」みた夜、ゼリー様の弾力のあるエネルギーが入って来ようとするのを感じて(大天使ボトルだったのですが)怖くなり、それ以後、ボトルは観賞するのみで、体に塗らなくなりました。また、10年くらい前にモルダバイトの原石を2つ手にしたまま寝てみたら、同じような体感があって、やはり「怖い」と感じてしまった。

けれど、いずれもエネルギーの響きのようなものがオーラ層に作用して、さらに肉体に最も近いエーテル体に降りて来た時、人より少し敏感な私はそれを感知して飛び起きてしまったのだろうと、解釈しています。入って来ようとしたのはバイブレーション、振動のようなものだったので、今思えば。けれど今回のようなケースは、明らかにヒトの形をしていて、仰天しました。故に、ヒト、(のエネルギー)だったのだろうと思います。

アストラル体のフォースが強い人は、感情を強く出力した時に、敏感な相手だとズシっとその粒子の到来を感じ取りますし、感情エネルギーは肉体で影響される事が多い。重さを感じる、体調を崩す(来ている感情に攻撃性がある場合)、という形で。チャクラの体の裏側の力(回転)が弱いと人の感情を自分に入れてしまって、自分の感情と錯覚してしまったり。

この、アストラルにパワーが強めに入っている人は、本人が深く眠っている時にアストラル体が旅に出てしまい、執着している相手や、強い感情を持っていたり気にかかったりしている相手のところへ行ってしまう。そう、源氏の六条御息所です。私のような仕事人だと、相手の響きも感じるので包み込まれて不快さで目を覚ますと、「自分がまるごと相手の姿になっていた(起きた瞬間そのように見えた)」(!)という事もありました。恐る恐る、翌日ご本人にその時間帯に何してたかと聞いたところ、「気を失ったように寝ていた」という返事。やはり六条御息所です。

本当に旅をしてしまう人って居て、おそらく自分でも異変に気付いたりもすることと思います。人を念で動かしてしまう、というタイプの人は要注意。どうしたらいいのでしょう?赤い力が強い、という表現をアルガンザではします。青い力で中和、鎮める、メンタル体にエネルギーが移行していくように、瞑想などすると良いと思うのですが、こういうタイプの方々は瞑想が苦手で、波動が高まるとすぐに寝てしまうという特徴も共通してあります。この体質を努力して変えていった方が良いでしょう。アストラルがお散歩する可能性が高い体質です。

逆に、青い力、システム上方のパワーが強い人だと上のチャクラ、サードアイから思考波のようなものが相手のフィールドに電波的に性能良く飛んで行くので、相手が無意識に受信して人それぞれで何らかの反応をする(相手の体質、状態、組み合わせによって起きることは変わる)。浄化のされ具合と言ったらいいか、人間同士のアストラル(動物的)やメンタル(電気・電波的)物質のやりとりというのは、どれだけアストラル体やメンタル体(もちろんそれよりも下位にある肉体、エーテル体含めて)が浄化され、軽やかになっているかどうかで、起きることは変わってくる。

ただ、いずれにせよ、言葉や対面では現れないエネルギーとしての「やりとり」は常に、繰り広げられている訳なのです。

こういう仕事(エナジーワーカー)をしてくると、その時々で何が起きているかを分析しつつ直観しますが、間違いがあってはいけないので、最初は控えめに取り扱い、繰り返し、繰り返し、似たような事が起きると、腰を据えて分析して何らかの結論を出さなくては、という段階にギアチェンジします。

今回のことも、相当な複数回の体験を繰り返して来た後の、今の見解なのです・・・(と、何となく前置き、説明を加えた上で、当日の話に戻ります)

コレクションの中でも大きめのトパーズと一緒に寝ていたのも、良かったようです。侵入は防げたものの、翌日は終日、左半身の異変がつづき、また思考パターンのようなものが明らかにおかしい。これまでの経験で色々とわかっているので、エナジーワークで対処して1日で影響は外れましたが・・このように、エネルギーの不穏な事象が起きると、必ず、思考をハッキングされるような自覚がいつもあります。こういったこと、気付かずに影響されている人々が、きっと多いのではないかとも、思っています。

実際に起きたこととの関連性はわかりませんが、何かある時というのは、同時多発でネットワークを通じて、同じような響きを持つ人や事象を動かして来たりもします。全く自覚のない普通の人が、そのネットワークの一端になることもあります。

以前、電車で隣に来た人を「なんかイヤだな」と思ったら、その人が遠慮する様子もなく激しい咳を怪しい程していて、滅多に風邪など引かない私がひどい風邪をひいたことがありました。その頃サロンで起きていた事や不穏な事象が、呼吸器系に故障を起こす傾向のあるエネルギーであることが、今では分かる。例えばそんな具合に。

ネガティビティの系統はいくつかあり、日によって、同じ系統のものばかり見かけたり出くわしたり感じたりもします。

今回の、「人型をした透明な黄色いエネルギー体」は等身大のサイズだったので、アルガンザでいう「黄色系の宇宙エネルギー」の、大きなものと繋がって動かされてしまっているヒト・・の、アストラル体がやって来た、という解釈をしました。「大きなもの」とは、去年ようやく明確に知ったもので、本当にビルごと包まれるくらいに感じられる巨大なエネルギーです。ジェネシスヒーリングの概念に導入していますが、今は割愛します。。上記の人型エーテルが来るよりも少し前、その巨大なエネルギーも、やや久しぶりに降りて来た日がありました。明らかに違うものであることはもう既に、繰り返しの体験から分かっています。

稀ですが、神社に行くとその大きいエネルギーが祀られていることもあり、日本は縁が強いよう。ある意味で「愛」のように感じるのですが、(言いなりにならず)先方の目的から外れると、一転してネガティビティに変わる(ダークな力になる)ので、やはり繋がってしまっては、危険だなと思います。同じところをずっと、のどかに回っているようなあり方をしている間は、その力は母のように包み込んで、色々よくしてくれるのです。ただ本当に、ずっと同じところを回ります・・・サロンをやりながら見て来た多くの事例から、時間をかけて知った事でした。

「母」のフトコロで成長せずに「子供」のままで目覚めずに居ることを望む原型エネルギーで、人類の中にもそれは遺伝子として既に入っていて、人によって濃淡があり、濃い目の人はチャネルになってしまう傾向もある。包まれたままヒーリングその他の仕事をしている人々もいることでしょう。そこでは、「成長せずにグルグル回る」状況が続きます。

やはり「降臨」した後は、思考やエネルギーがおかしくなります。起きていることに気付いてエナジーワークで対処しようとしても、影響が完全に抜けるまで数日かかったりしますので、一般の人々が体調を崩したり、人間関係がこじれたり、わけもなくUpdownしたり、思考が自分らしく無い時期があったり、の背景には、様々なネガティブな力が働いている可能性があります。

また別の種類の、情報操作、思考操作を起こして人と人を争わせる系統もあります。驚いてしまいますが、瞑想でのヴィジョンや体感、インスピレーション、などの中にもその操作が入り込んで来て、情報、感情、思考を書き換えてしまうようです。それはかなり高度な場合ですし、私が関わって来たジャンルでは起こりやすい特殊な例と言えますが(集まっている人々がもともと直感的、ヴィジョンをよく見る、メッセージを受け取る、などの能力が拓けているから)。・・けれどやはり一般レベルで、大なり小なり、影響を受けていると思われます。

人間は、電波のようなものを常に持っていて、無意識に発していて、別次元の存在から見ると周波数の高低や種類などが、魂レベルでも人間レベルでも、その時だけの機嫌の良し悪しも含めて一目瞭然なのですよね。ゆえに、その時に「使えるものを使う」

逆に言えば、自分が良からぬ力に使われないためにも、常に良い響きを発していれば、ネガティブなチャネルにされることはない。悪意のない「ごく普通の喜怒哀楽」のつもりでも、怒りや妬みや執着などがよぎっていく時、貴方はネガティブな力のネットワークの一員になってしまうかもしれない。

サロンを長年やってくると、様々なエネルギーの動きを事象の中から感じ取ります。見えない次元が介在して、そういう事をぐるぐると繰り広げているのが、人が生きる世界。人間の遺伝子の中にもネガな周波数と響きあうタネが、誰にでも入っているので、それを浄化していくことなしには、世界は変わらないのです。

「人間らしくて良い」??

ネガティブな感情、思考、怠惰。 それは実は、人間自身のものではないものも、大いに混じっているかもしれない。

「今日だけは許して」「たまには良いじゃない」??

耳元で囁いたり、エーテル体やチャクラに侵入したり、ハッキングしてきた電波によって、他者を傷つけたり、人の何かを損なうことことの一端になっていたとしたら?

それでも、カルマとしてデータが残り、それを償却しなくてはいけないというマイナスの課題が自分に増えてしまうのです。

自由意志、自由だ、というつもりでも、実はそうではない。ただネガな見えない力、ネットワークに動かされているだけかもしれない。・・・という部分に、もっと人間社会が敏感になる時代が来ると良いなと思っています。そうしないと、利己的な社会で人間同士が幸せの邪魔をし合う連鎖が終わらない。

ある哲学者が言っていました。人間は生まれながらに自由である、と。それを意図的に(アメリカ的な)自由を行使してきた結果が、今の物質主義の極みであると。多分、ヒトは、自由すぎてはいけないのです。

道徳や善意の重要性を最近の世界をリードする思想家や歴史家・哲学者などが強調しているのは、とても重要なこと。見えないエネルギー次元にも大きく関わってくるから。

心が自由でありすぎると、そんなつもりなくてもエネルギー次元で人を攻撃していたり、人をコントロールしたり、人の足を引っ張ったりしているものなので。・・・・・自分を高めて涅槃に入っているような人の「心の自由」はまた別の話ですよ(笑)

それと、現実問題として自分を縛り付ける親や社会、というテーマがまだ自分の中に残っている人、インナーチャイルドがある人は、この「自由」という言葉には過剰の反応をします。自分を抑圧するネガティブな力と、重ねてしまうので、話が交わることがありません。「〜でなくては」「〜することも必要」などの大人としての話を全て、強要されるように感じて反発してしまうものですが、それでは上に書いたような話は耳に入らず、平行線となります。

自分が自分を運営しているという「大人」たちの、次のテーマ、「人間社会や世界をよくして未来を維持していくには?」という次元の話をしている、という大前提を、最後に付記しておきます。エナジーヒーラーとして来春で15年。人と魂と感情とエネルギーと、背後にある高次元と、横から入り込む別次元。その難しさを見せられた年月でしたが、

クリシュナムルティの言うように、全ては自分の内側にしか存在しない。それも事実ですし、マルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」もまた、真実であるように思います。ただ他者がいなければ経験することが出来ないので、他者という自分の断片をちりばめている。自作自演のような、魂の体験フィールド。その中で、全ての魂が目指していくものは一つに、決められていると思います。色々あって良い、という事ではないのだ、と。

その、ひとつの潮流、向かう先、流れの方向の話をしていて、ただそこに向かいましょうと言ったとしても、それぞれが立っている場所からは、色々な方向に道があるように見えてしまう。そのように人間を複雑にしているのは、辿ってきた歴史の中に理由がある。ちりばめたものを回収して、四方八方に見えている道がひとつひとつ、消えていった時に、ただひとつの潮の流れというものが、ようやく見えてくる。

そのためにヒトの魂は、どれくらい生まれ変わるのでしょう? 何百? 何千回・・かもしれない。

Love and Grace,

Amari

日本列島の誕生・秘教的考察

 

インド、ヒマラヤ、チベットのマスタークリスタルたち。(私物)

日本列島は、かつてはユーラシア大陸の一部であった・・古代史や考古学をやっていると自然と出会う情報ですが、頭に入れたのが20年前だったせいか、単に氷河期が終わって氷が溶けて、日本海が出来た・・とかつてはなんとなく思っていました。Amari’s 小説の『ハピの巫女姫』(2003年執筆)においては、1万1千年前の天変地変・大洪水にて、日本が大陸から切り離されたということにしていて・・

近年の研究から次々と色々なことが分かって来て、そういう面からも時代の変わり目を感じています。不思議なほど、各ジャンルで画期的な新発見と発表が相次いでいるこの数年。

2016年春、1期目の石巫女アースワーク専科でも取り上げていたのですが、日本列島というのは非常に特殊な、面白い経緯で出来上がっているのです・・今年もまた石巫女クラスが進行中・・ということで、再び新旧の文献やメディアの資料などを覗いていました。一度、整理のために書いておこうと思います。

今年は地震、天変地変という側面でも注意が必要な時だと思うので、少しでも意識を向ける人が増えればいい。去年放送されたNHKの『ジオジャパン・奇跡の島はこうして生まれた』がヴィジュアル的にもお薦めなので、ご紹介します。気になる方はぜひ、オンデマンド等で見てみて下さい。

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『ジオ・ジャパン』での表現や学者の方のインタビューなどをお借りして、書いてみることに。。。日本列島の誕生は、遡ること3000万年前に始まる。神戸大学の乙藤教授の研究で、火成岩に含まれる鉄が示す磁気の測定から、西日本と東日本に、それぞれ逆向きの回転する力が加わって、大陸から引き離されたことが推測された。さらに、岐阜県とハバロフスクでそっくり、ほぼ同じ地層が発見されたこともあり、ユーラシア大陸と一連の部分であった日本が、大陸から、なんらかの理由で逆回転、いわば観音開きのように西日本と東日本が引きちぎられた事が分かった。

そんなことは世界でも稀で、他に例を見ないらしい。全世界には十数枚のプレート地殻がある中で、太平洋プレートはもっとも広大、それゆえに流動する成分が溜まって境界付近では100kmもの厚さになるという。その巨大で重たい海洋プレートが大陸プレート(ユーラシアプレート)の下に沈み込みを続けているうち、力の負荷から逆向きのマントル対流が生まれ、ユーラリア大陸のヘリがどんどん地下の力で引き伸ばされて、薄くなっていく。そして、ついに大陸本体から剥がれてしまった。。

3000万年前に生まれたその剥離の動きから、2500万年前には観音開きで西日本が時計回り、東日本が反時計回りに大陸からちぎれた。双方の間は離れていて、別々の島を呈していた。1500万年前に、ほぼ今の位置に落ち着いたらしい。たまたま地球最大の太平洋プレートに接していたため、ユーラシア大陸のヘリが裂けた。・・地球史上でも稀な、類を見ないことが起きた。

太平洋プレートの南には別の海洋プレート、フィリピン海プレートがあり、それが上方での3000〜1500万年前に起きていた動きにも影響を受けていた。1500万年前に、大陸から引きちぎられた「日本列島の元」が今の位置に定まると、それまで西方向に沈み込みを続けていたフィリピン海プレートの向きも変わり、北へと方向を変え始めた。そこには、一列に並んでいる海底火山の列があり、方向転換したプレートに運ばれる形でその火山群は次々と、東西に分かれていた日本列島の間を偶然、埋めるようにして、連続衝突していった。

一列に並んだ火山島が次々と衝突し、島と島の間の海峡を埋めて地続きにするという、地球史上他にないことが起きた。1500〜500万年前の出来事。

それにより、中部の山々(櫛形山地、御坂山地、丹沢山地)と伊豆半島ができ、それらの衝突運動でたまったマグマが噴出する形で、後に富士山もできた。

時を同じくして・・1500〜1400万年前の西日本では、同じく海洋プレートの沈み込みにより地下にたまったマグマが原因で、世界でも最大規模の超巨大カルデラ噴火が起きていた。それにより世界の気温が10度も下がるという影響力を持つほどの地変である。冷えて固まったマグマは紀伊半島の地下で、神奈川県サイズの巨大花崗岩となって今でも存在しているのだとか。。その一部が地殻変動で地上に出ることもあり、熊野地方には巨石が多く(!)、火山もないのに温泉がカルデラの噴火口そのままの半円状に点在しているという。

紀伊半島だけではなく、同じ頃に西日本でカルデラ噴火が多発していた。マグマだまりに地表が陥没→火山灰・マグマが噴出→冷えて巨石・巨岩となる→ 海底の花崗岩が(マントルの中では軽い成分のため)浮力により上昇、地表を押し上げた結果、山地ができる・・これによって、もとは平原だった西日本に山々が形成されたのだとか。

なぜ、このような地殻変動、マグマの運動が起きたのか? それは、上記の大陸から観音開きで引き裂かれて今の位置に落ち着いた西日本が、たまたま、高温のマグマを抱えたフィリピン海プレートの上に乗り上げてしまったから。

このあたりは地質学者の三浦大助氏の研究チームの研究によるもの。

そうして、山々がそびえる西日本が先に出来上がった。まだ半分が海の中に沈んでいた東日本は、300万年前に突然の隆起が起きる。房総半島の側で沈み込みを続けるフィリピン海プレートが、太平洋プレートとぶつかった為に方向を北西に変えた。それにより大陸プレート(北米プレート)を圧縮する形になり、結果、東日本の山脈が生まれたという。この東西圧縮の動きの最後の最後、房総半島が海から顔を出し、今の日本が完成。50万年前のこと。

ちなみに、今でも圧縮による隆起は続いているという。プレートが他のプレートにぶつかって方向を変えるというのは、地球史上、滅多に起こらないと、番組の解説をされていた火山学者、神戸大学の巽好幸教授。

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こうして文章に書き起こそうとすると、文系頭では思わずスピードがいつもよりも落ちてしまうのだけれど・・CGというヴィジュアルで解説して頂ける今の時代は便利。

駿河湾と相模湾、そして熊野とその周辺の海底。房総、茨城沖など、ここ数年気になってきた場所には、プレートレベル、海底レベルで何かあるのだろうと思って来たけれど、熊野に実際に旅した時に感じた超古代・・を通り越した原古の地球の記憶のようなものをも、想起しながら番組を何度か繰り返し見ていた。

個人的には関東の地震よりも南海トラフがとても気になっている。

そして東北、北日本はかつて地震などの災禍を「引き受ける」ことがあると感じていたけれど、ジェネシス概念や、地球史に照らすと、北日本は高次自然界のエネルギーを強く残している、上空にもその繋がりが残っていると感じて来たことと無関係ではないのかも。純粋な自然界の王国の名残が、その世界の自己犠牲的な性質が、大地にも投影されているのかもしれない。

紀伊半島はこれから少し、キーになるかも(シャレではないけど)。地下にあるという神奈川県サイズの花崗岩も気になる存在。そう、3年前に出向いた熊野ではイザナミの墓所といわれる海岸近くの花の窟(いわや)神社に行っていた。火の神カグツチを産んだことで亡くなったと言われるエピソードと、この1400万年前のカルデラ大噴火は関係があるかも? ならば夫婦神での国生みは恐らく1500万年前ということになるだろうか。

そう。1500万年前、というのが秘教的観点からすると見過ごせないものがある。諸説ありつつ、アルガンザ・ジェネシスでは現在の地球の管制ロゴスたちの地球への到来を、1500万年前としている。そして、以前からガイアワークを考える際にいつも頭に置いているのが「地球雛形説」だ。今回、日本列島の成り立ちの全容を改めてNHKさんの『ジオジャパン』で眺めていると、ナレーションや解説の中の「たまたま」「偶然」の連呼が気になる。そして「1500万年前」がひとつのポイントになっているという点も。

現在のシリウス系の管制グループは、進化プロジェクトのある局面を担うために招かれた(あるいは配属された)エキスパートだと考えるが、その到来と日本列島の外枠の完成=1500万年前 が一致するのは興味ふかい。雛形の中に地球全体の様々な勢力やエネルギーやテーマをミニチュア状態で盛り込み、レイラインや高次世界との次元トンネルや、宇宙エネルギー同士のカルマなどを、日本列島やこのフィールドに「仕込み」地球プロジェクトを考えていく為の、進めていく為の小さな実験場。それを早急に作る必要があり、プレートの向きを変える、マグマ溜まりを動かす、などの手を加えたのかもしれない。。「神々」にとってそれは難しいことではないだろう。

花の窟神社で感じた、とろけるような女性的な空気は、アルガンザで扱っているリラ由来の創造の蜜色エネルギー「ディーザ(Devine Mother)」の空気感によく似ていた。伊勢神宮のような清々しい高周波はシリウス。明らかに違っていた。旧システムから新システムへの切り替えも、新勢力であるシリウス系マスターたちの到来後に起きている。母神イザナミの物語も、それを表現するものかもしれない。

それにしても、日本列島の成り立ちは本当にミラクルだ。番組のゲストの方が言っていた。「偶然といっても余りにも凄すぎて、最初から仕組まれていたのではと思っちゃいますよね」・・・

・・・『ふふふっ』と心で笑う私であった・・・(笑)

地球史・地質学方面だけではなく、人類史においても、この2〜3年で画期的な発見が相次いでいるようで、ちょっと目が離せない感じがしている。時代の変わり目には、生きる人々の意識や生活・概念や文化が変わるだけではなく、それらを固定していた人類全体のマインド、メンタルフィールドに変化が起きなくてはいけないということか。学者の人々がある意味、導かれ、インスピレーションで動いたり閃いたりして、これまでどうしたって見つからなかったものが急に見つかったり、新しい学説が生まれても、もみ消されずに育ったりして、メンタル界から変化が起きる。そうすると、

それを受け取り、生活レベルに落としていく民衆レベル、民衆のニーズに応えようと常にアンテナを立てている企業・産業レベルにも、否応無しに変化が起きていく。芸術文化面の人々も、連動する流れをキャッチして、作品を生み出していく。それがまた民衆の感性や行動に変化を起こしていく。

ああ、こうして本当に、世界が今、変わろうとしているのだ・・・と、噛み締めてしまった最近。石巫女でも二年前の時点で「もしや鉱物界というより、ワーク対象はプレートでしょうか?」と言っていた時もあったけれど、私たち、物質界の生命圏を載せているプレートは、何よりも我々の運命を握っていると言えるかもしれない。

地学方面からの列島史、人類の発祥や日本への流れについても色々と分かって来ると、それが神道や神話、古代史あたりまでと結びついて、我々のルーツがより明瞭になっていく。そのような思考的・思想的・実学的な形を通してでないと、実際の社会や人間の意識は変わっていかないのだ。私たち個々の癒しと成長においても、ただヒーリングのエネルギーが入ったり、ハイヤー層から降りて来たとしても、それだけでは定着していかず、本当の変化は起こらない。全レベルにおいて、同じトーンが響くからこそ、実際に変容が起きていく。それと同じだと感じた。

今日はこのくらいで。

Love and Grace

Amari

「前時代」としてのアトランティス

昨日の石巫女アースワーク専科クラスにて、鉱物の種類で取り上げたガーネット各種、ペリドット、ガブロ(ハンレイ岩の一種で石業界の流通名はミスティックメルリナイト)。インスタグラムにもサロン日記として綴りましたが、予想通り、肉体への癒しとチャージ効果が凄かった。それでいて、ライトボディの外側の層や、縦軸、アンタカラナにもエネルギーが通って行き、いつもながら色々なワークが各自に齎された気がする。。翌日の今日も、強めのエナジーワークを受けた後のような余波が続いている。

いつも二種類のワークをロフトで行っていて、こちらは2つ目の「土地グリッド」。地球上のどこかしらの土地にフォーカスし、当地の悠久の歴史を鉱物界を入り口にして体験しよう、というコーナー。今回は該当する石が少なく地味目な仕上がりだけれど「ギリシャとローマ」。2年前の1期目の石巫女でも取り上げたところ、その時はアトランティスの最末期と言える「ポセイディア」==いわゆるプラトンが書き残している、エーゲ界・地中海あたりにあったと思われる島、ないしは群島の「最後のアトランティス」==を体験していた。

今回、私の現在の個人的な探求がアトランティスに向かっている為、またサロンでもギリシャなどの話題が出ていたここ数日だったので、きっとまたポセイディア?それとも?・・と言いながらグリッドを組んでの瞑想に入ったところ、イタリアやギリシャの石を並べていることを瞑想の20分間、全く忘れてしまうほどに、ポセイディアでもアトランティスでもなかった。。。不思議なことに、別次元の天上界。どうやら、何となく中心点が欲しくて配置した、銀河系の創造の母なる源泉(アルガンザでいう「ディーザ」=Divine Mother)の象徴でもある、アンティークの真鍮の球体が、このグリッドの意味を表していたよう。

生徒さんたちとそれぞれが見た、体験した内容をシェアした結果、リラのディヴァインマザーのエネルギーを注入して、アンドロセラフによる光の幾何学が、アルクトゥルスのテクノロジーも導入して地球を創造している時・・創造の喜び、その世界の周波数の高さ・純粋さ、そして生まれた初期の地球の(物質体としてはドロドロの塊だったわけなので物質次元では勿論なく)「楽園」のような清々しさと優しい光に満ちた、どこまでも自由な世界。。。それを、体験していたような感じだった。

加えて、地球のロゴス意識の女性側面(これをアルガンザでは「白山姫」と呼んでいる)の、これまた現在のシリウスエネルギーではなく、前の地球(=リラのシステムで動いていた)の、ロゴス女神意識、つまりリラ系のそれ・・・が、切り替え後にもシリウスの女神意識ほどではなく圧倒的に少ないながらも、地球の各所に残り、特にレムリアや、アトランティスの途中までは、神殿や聖所のような形で守護されていた。そのエネルギーの脈の、様々な時代のあり方と、自分のソウルのご縁を、辿っているような体験もしていた。それを誘導する、シチリアのサルファー結晶たちの高い周波数がいつまでも余韻として、幸福感として、残るような体感だった。

地球儀も何気に配置して写真をとっていたのが、瞑想を終えて見ると、上記のように地球を創造しているセラフィムたちの目線の中に、リラのディヴァインマザーが、生徒さん曰く「太陽のように降りて来て地球に情報とエナジーを注いだ」ことを表していたのだろうと、後から気づいた。

地球のマントル層は、ペリドットの結晶から、ガーネットへと変わっていき、地球の中心部は白銀で虹色に輝く鉄の液体であるという。今回は(上写真)触れて体験する鉱物のコーナーではそのペリドットとガーネットを取り上げた訳だけれど、それぞれが地球の新しい層(シリウス)と、古層(リラ)を意味しているのではないか。。という仮説も、ジェネシスヒーリング伝授の場でも語っている。ガーネットがリラの時代を体現するというのはもう私の中では確信めいていて、一方で昨日の感触ではペリドットはシリウスというよりアンドロのセラフ層を感じさせた。どの地球、どの層の創造にもセラフたちの光は関わっている。

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さてさて、アトランティス。

アルガンザのジェネシス概念では、アトランティスの時代設定は、神智学に言う「人種期」による分類に拠っているので、100万年という時間軸になる。そしてつい最近の、1万年ちょっと前まで存続している。アトランティスという時代を知れば知るほど、現在の1万年ほどの「有史の」時代が、それをミニチュア化してこの1万年期を駆け抜けて来ていることを感じる。今の、神智学でいう「アーリア人種期」がいつまで続くのか分からないけど、少なくとも物質界を住処とする人類の時代はこれから終わっていくと想像される。

ここからの話は、神智学を信じるならば、の前提で。時間の区切りも単位も、世界の量子的なあり方、エネルギーの存在密度によって尺度は幾らでも変わるのだろうし、数字としての予測は難しい。けれど、1万年のアーリア期を経たから、これから99万年の時間が私たちにある、と考えるのは愚かだと言える。

それに、100万年のアトランティス人種期の中で、地球全体が壊滅状態になるようなキャタストロフィー、大災害は4度起きているという。4度目が、よく言われる大洪水で、その時点ではすでにアトランティスは全盛期に比べてほんの一地域を残すのみ(上記の「ポセイディア」)だったという。100万年というのは、現在の私たちの物質的な密度から数えるとそういう時間に換算される、くらいの受け止め方が賢明だと考える。アトランティス期の始まり、つまり100万年前はまだ、人類がおそらくレムリアからの流れで半物質であり、いわゆるシェイプシフト状態であったし、それを自覚していたらしい。

物質になってみたり、また非物質に戻って見たりと・・制御が自由自在で、非物質の領域に「本体」があることを、自らちゃんと自覚していた。というかそれが「常識」であったところから、いつしか物質の世界に耽ってしまった。そして五次元領域に戻れなくなった。聖書でいう「楽園追放」。

そんな時代を経て、人類は物質体として生きる今のスタイルになった。ということを、つまり神智学レベルの知識を、普通に学校で歴史の授業で学べるようになる時代がいつか来るかな?

人類は物質界で生きること、おそらく性の刺激などに耽溺し、周波数を下げていくことで、神・つまりたった一つの宇宙の法則で調和しながら世界が存在するという領域へ、戻れなくなった。本来は出入り自由で、体験しながら学ぶ筈だったのかも知れない。

人類のディセンション(アセンションの反対)という選択ゆえに、地球に存在する本来の魂の本拠地、5次元との間に壁が生まれ、物質界で誕生するならば、5次元の記憶を全て失って物質体として生きることを甘受しなくてはならなくなった。けれど、自分が肉体的個人ではなく、魂であるという真実を思い出せる人々も居る。

アトランティスは4度の大災害に見舞われた。その全てが、知識や知恵の「誤用」によるという。そしてその誤用がどこから発生するかというと、様々な問題を掘り下げていくと、全ては「権力」「利己」「欲望」に通じていく。現在の戦争の理由と同じ。いつだって同じなのだ。ある文献では、その「誤用」の奥にある「利己」の問題が、そうではなく神の(あるいは宇宙の)自然秩序のもとで調和をしようという意識のある人々との間で、残念ながら戦いへと発展していく。利己的な意識の人々が、そうなると本来は恵みである、自然由来のパワーを(アトランティスは自然界から抽出したエネルギーで運営されていたよう)利己的な思想を守るべく、そうでない人々との戦いに向けていく。滅亡ギリギリまで追い詰められる原因は、常に、それしかない。

今を生きる私たちの間でも、全く同じことが起きつつある。「魂が人間なのだ」ということを、どれほどの人々が認識し、そのように生きようとしているだろう?スピリチュアルと言われる分野に居る人たちでさえ、自分が魂で、5次元意識で日々の全てを考え、行動し、生きていると言える人は少ないのでは?

自分たちが渦中に居ると、世界の有り様は見えにくいものだけれど、アトランティスに置き換えれば、自分が魂であると思って(そのように生きて)いる人々と、そうではなくここに居る人格が自分である と主張する人々の分離は明白で・・・数で言えば圧倒的に後者が多いのではないかと。壊滅を生み出す潮流と、同じことが既に起きていると思える。三次元や物質界に固執するという「自由意志」の行使が、どこに向かう原動力になっているかが・・視点を持ち上げれば、見えて来る筈だ。

心ある(真に高次と通じ、その目的で動いている)ライトワーカーたちは、故に少し焦っている。エゴセルフである自分の立場や仕事を守るために発言・活動している人々は、その逆のことを発信している筈だ。そして多くの人が、それに騙されている。けれどライトワーカーという自覚さえなくても、必要な仕事を推進し、時代の変換点を呼び起こそうとしている人々は沢山いる。

アルガンザのジェネシス概念では、主に6〜7億年前の地球から、魂の旅が始まっている。その時間軸に最近は頭が慣れてしまい、アトランティス文明はもう、いまの有史時代と地続きの一つの流れのように見えている。ゆえに、教訓がとても生々しい・・・個人的には、キャタストロフィーは破壊からの再生だから、創造の原理、創造の喜びの観点から言うと「悲しい」と感じる。出来れば破壊のないシフトで人類が、アトランティス(第四)人種期で学んだことを生かし、この第五人種時代を生きて行って欲しいと思っている。

Love and Grace,

Amari