方舟航海もあと二年。

今日は何気なく「乙女座」の話をしていたら、そう言えば昨日23日からは乙女座の時節なのか・・

私は月星座が乙女座で。そして乙女座には「研究・勉強好きな修道女」のイメージがある。男性であっても、分野が違っても・・たとえば「探求熱心な僧侶」でもいいと思う。つまり純粋性と、探究心、そして奉仕が一緒になっているイメージ。月の星座は過去生だとも言うけれど、確かにとてもそんな気はする。

ずっと以前、ネット上で知り合った占星術系の方が、「女性の場合は月との関係、陰のエネルギーの作用から、他者から見ると月の星座の印象で見られるのではないか」という仮説を聞いた・・そしてこれもきっとそうだ、と思っている。周囲の人、身内も含めて、少し距離のある「他者」から受ける印象は月の星座的な評価で、自分の自己イメージとのギャップがあるよう。

他者から見える、というだけでなく、やっぱり自分の中でも太陽、月、に限らず。さまざまな要素があると思う。それをいかに情報を収集しながら、統合していくか。今は特にそれが重要な時だと感じる。アルガンザのグループでは、アリス・ベイリー著書が伝える2025年、第四光線の顕現・・に、注目し、「時代の変わり目」という意味で意識を置いている。

けれども、私の感覚では、新しい時代=よりスピリチュアルが高まる ものだとずっと思って来たものの、なにかこう、まったりとした怠惰な空気感で、今まで立てることができていた知性のアンテナも、立てにくくなっているような空気感を感じる。街を覆うエネルギー、集合意識に漂う雰囲気も。

それで、今朝は一般の人々が、地球の変化や気候変動などにどれほど危機感や意識を向けているのか、を、人に聞いていたりした。私の周囲、日々顔を合わせる人々はもちろん一般の人々ではあるけれど、スピか、半スピ・・少なくとも私の話を聞き慣れていて普通に聞いてくれる人々だから。

それと、どうも気になっているのが、目が「どよん」とか「とろん」としている人が多い。今は夏の暑さもあるけど、それだけでではなく。ここ数年レベルで。

・・と、「第四光線」のイメージがどうもまだうまく掴めないので、改めて調べてみた。色は黄色だそうだ。なるほど。世界がなんとなく黄色に包まれている感じはしている。

そして日本は国単位の「パーソナリティ光線」が、第四光線・・なのかな? なるほど。日本は黄色だ、確かに。

テーマは、調和、統合・・・ けれども、その為に厳しめの修行や浄化が起きるというのを踏まえると、これまでのスピリチュアルな「常識」もちょっと脇において、感じて考えていかねばと今更に思う。

う〜ん。改めて調べた結果、やっぱりよく分からなくなってしまった。今漂っている雰囲気も含めて。

でも思うのは、自分自身は2018年になぜか「コロナ」的なテーマを超えていて、10年来風邪も引いていなかったのに、呼吸器系にこじらせる風邪を一年のうち3回も引いて長引き(その後、2019年以後は普段の自分通りまったく風邪も引いていない)、2019~2021年も「試練の時」というという感じだったけど、2022年から着々と、「なにか」から抜けつつある。石井ゆかりさんの本から「方舟の七年」の話を前に書いたけれど、


2018年5月から始まったというそのサイクル、(もしU字型の変容期をイメージするならば)真ん中の谷間を抜けるのは2022年の春、というイメージ。私自身の体感としては、確かにそこで「白い聖堂」が始まり、前半期(2018年明け早々からの混乱期)に比べれば、その頃(2022年春)に現象化していた問題たちは解決していって、確かに次の時代に向けてというテーマが自分の中に今は自然にある。

光線の到来、顕現といってもそれに対する反応は恐らくかなり個人差がある。社会全体などはきっと、顕現すると言われている25年以後、具体的な影響を受けていくのだろうけれども、私のような仕事をしていると恐らく「その後」の時代感覚のようなものが今、(変容期を経て)自分の中で動き出しているように感じる。統合、調和がやはり目下のテーマだ。

「黄色」という色で表現されたりイメージされてきた、(戦隊モノの黄色担当も・笑)「欲」「自我(エゴ」「怠惰」など、人類をダメにしてきたネガティブなほうの要素を、人類が克服していく時代、と、捉えたらいいのかな。ということは、黄色の良いイメージは、ポジティブさ、陽気さ、目標意識、という感じ。

もっと言えば、人類のエゴセルフそのものが、欲や利己を乗り越えていかなくてはいけない時代。そのテストがうまくいかなかったら、人類は滅びる。滅ぼされる、くらいの時代がこれから来るのだろう。「第四光線の顕現」はつまり、シャンバラからのテストだ。甘やかせるために光線を提供するわけではもちろんなく。

(2024年現在また少し違った見解ですが、折々で改めて書いていきます)

神智学の、「地球全体の歴史を見る、感じる」視点は、やはり必要だ。その層で考えていないと、人間とはなぜ存在するか、人の歴史や社会とはなにか、その中で「今」の位置付けなどは、到底、想像ができないだろう。その視点で物事を日常的に考えている、各分野のアカデミズムの先生方、などの考えや著作に触れているから、「こんな呑気な感じでいいの?」と、感じてしまう。(←けれどいつの世も多分、一般社会とはそんな風なのだろうとも思う。だから、突然「その時」が来てしまう。本当は全然、突然なんかではない。)それが(上に書いた)今朝の会話にも通じる。

とにかくは、発信しつづけることだ。そして、一緒に発信してくれる仲間たちを、作っていくこと。

Love and Grace

ロスト・エモーション

 

縄文土器と縄文の森

リドリー・スコット(監督)の名前につられるように、映画『ロストエモーション』を見た。核戦争で地球が壊滅状態になったあとの、生存者たちによるハイテク管理社会。遺伝子操作で感情を持たない新たな人類が生きていて、感情を「発症」すると病気として治療を受けるという。重症になれば隔離されて安楽死、という何とも悲しい設定。

リドリー・スコット監督は、以前日本の大林宣彦監督もそうであったように、監督その人の雰囲気や人柄が好きでファンになり、作品も見るというシリーズで。今回は制作総指揮で、プロデューサーになるのかな。監督は別の監督で、原作も手掛けているよう。独特の演出は未来のハイテク管理社会の機械的な雰囲気を出しているのだろうけど、青白く、影の多い暗い映像、静かすぎる、そしてどこか切なすぎる空気感に負けて、長時間見られず。

数回に分けてようやく見終えたところ。こういう見ていて切な苦しい映画はきっと、最後まで見ると救われるのかなという予感もしていた通り、まずまず爽やか。でもやっぱり切ない終盤。

日頃、神智学やヨーガ思想から、「感情を収めて」と繰り返し言っているので、常々、心配していることでもある。誤解されがちな事なので。

けれど結論として、この映画の予告編の「ユートピア?それともディストピア?」という問いかけは、当然、ディストピアでしょうと言いたい。もちろん・・

ヨーガの実践者、先生方なども、アリス・ベイリーの代弁者の方々もそうだろうと思う。感情を超えていくプロセスこそが、人間の成長、人類や社会の進化と平和に向かっていくために大事なことなので。感情をバッサリと切り落としたら、ヒトの中の本能のような部分が、支障を来たすに違いない。遺伝子操作、人間を作った「神々」がこれをいつか行ったとしても、人間それ自体が行うこと、引いてはそのようなテクノロジーの使い方をしてしまう事自体、きっと道を外れてしまうのだろうと・・個人的には思ふ。

若いころ、自分の中の苦しみや、収集のつかない部分の要因を探っていった結果として、「感情を超越できるなら生きているうちにそうなりたい」と呟いた私に、友人がやや怒りまじりに反論して来た。「感情が無かったら人間じゃないでしょう」と。

更には、同僚の女子たちとの恋愛観トークで「人間として、ではなく魂として自分を必要とする人」と答えると「人間としてではなくって何よ」と一人が怒りだした(笑)。

また、フランス人的な冷静な客観的語りで相手が傷つかないよう別れ話などしていると相手は「血は流れているのか、植物人間じゃないの?」みたいなことを言って来たっけ(笑)。

それらの全てが「誤解」なんだけど、伝わらないからいつも諦めてしまう。人間性として人以上に人情的だったりするところ、だからこその「感情を超えたい」という発言も、相手を極力傷つけないための客観的な態度も、それぞれ聞く人々のエゴセルフのフィルターを介すと、その人の思い通りにならなければ『冷たい人』になってしまう。

詳しくは、先日紹介したエイミー・アダムス関連の映画のメインブログの記事(「アライバル」で大泣きした、という部分)と繋げて読んでいただくと、ご理解いただけるかも?

そう、それから、スクールをやっていた時にも生徒さんたちの反応も時折、怒りのようなものが垣間見えるのが、やはり神智学の感情についての部分、それから闇、ダークサイドの話。なぜか怒りを感じて反発したくなる様子を何度か見かけた。人間って、というよりエゴセルフって、そういう風に出来ている。進化と逆行するエネルギー、プログラムが、仕掛けられているからだ。。

それを全て味わい尽くして、時に許して、解き放って、その仕組みに人生をコントロールされないように、カルマ(常に感情が関係)を乗り越えていく。感情についても、その他、エゴセルフの「魂の内部に統合されたりしたくない」という声についても同じ。

感情の揺らぎや反応は、そこ、その部分にこそ、自分のカルマや問題点の根っこがあるよと教えるサインでもある。だから急にブツっと消されたら、それこそ神智学的な神なる世界(人類の親)の進化プログラムは元もこもなくなってしまう。可愛い子には旅をさせよ、と、自由意志を許して見守っている視点、ガイアという魂たちの成長プロジェクトの計画が、為されなくなる。

この映画については、原作者でもある監督は、無神論者であるのかな? 人間の背後や周辺には、人間しか居ない、という思想でないと、こういうストーリーは生まれないかも。。

ネイティブアメリカン、ケルト、縄文・・つまり世界中の石器時代までの人々は、循環する生命の仕組みとその背後の力を知っていたし、そこと自分たちとの間にはしっかりと一体感があった。やはりその感覚を思い出していく他、ないのではないかと思う。「仏教では」「インド思想では」「神智学では」と切り出すと、宗教だと言われて(また誤解されて)しまいそうだから・・。

アニミズム(自然崇拝)と、仏教(インド思想・輪廻転生する宇宙観=これはきっと正しい)的感性を、ナチュラルに合わせ持っている日本人はやはり重要な立場にある。

今日もまたひとつ、あるいはそれ以上、地球の未来のためになることをしよう。毎日必ず、そのことを考えよう。そして何か行動しよう。小さなことでも。

Love and Grace

Amari

純粋な青と黄色の世界 –マティス、天空文明 —

先日、Instagram に書いた上野行きの日、私が「かはく」に行っている間、連れ合いは東京都美術館の「マティス展」へ。かなり行きたかったらしく、そして日本人はマティス好きそうと思っていたけど、やはり人気のよう。けっこう混雑していたし、もうすぐ終わりということで尚更混み合っている様子。
翌日また何気なく開いたNHKオンデで、サムネイルで特集を発見。NHKさんでも特番を放送していたから、尚更に混み合っていたのかな。
アンリ・マティスの晩年の最後の作品、南仏ヴァンセの「ロザリオ礼拝堂」の設計から壁画や備品すべての制作&プロデュース。(興味ある方はぜひNHK等でご覧ください)なぜかこれになった、と言ってお土産をもらったグッズ二つがその礼拝堂のモチーフだった。右の丸いマグネットは「聖母子」だそうで・・独特な表現だけど、番組を見たりすると、マティスの人生の流れや人柄も分かり、芸術表現の変遷からしてもなるほど、と思える。

私は美術館もよく行くけれどなぜ、今回はマティスを見なかったかというと、以前秘書を務めていた医学博士の先生が、若い頃に「画家になるか医者あるいは医学の研究者になるか」と迷ったくらいだったという方で、結果、医学の研究者になられたけれど当時もずっと絵を趣味とされていて、会を主催したりもしていて。マティスがお好きだった、確かに絵のタッチがよく似ている・・と過去にインプットしていて。
自分の人生がすっかり、スピリチュアルになってしまって以来、お便りを頂いてもお返し出来ずに日々が過ぎるまま他界されたことに、申し訳なさをまだ感じているのか、今回マティスの絵に囲まれることに少し躊躇った。そう、それだけではなく。そのボスの絵の関係で拾われて?来て私の仕事を手伝っていた、絵描きの女の子(私よりひとつ年下)が、当時24歳で亡くなったという悲しい記憶もあり。彼女の絵はマティスというよりゴッホのようなタッチだったけど。
もう、だいぶ前に癒せたはずの悲しみや申し訳無さも、まだこうして行動に影響することがあるのだな・・ と実感しながら、自分は家族連れのごった返す「かはく」へ足を向けたのだ。マティスに行ったほうが良かったかな。。と、翌日 NHKを見ながら思っていた。笑

(興味ある方は「ロザリオ礼拝堂」で検索してぜひ写真をご覧ください)
私はNHKの番組でその映像を見て、ステンドグラスに差す光に癒されながら、鮮やかな青とレモンイエローは(ジェネシスの)「天空文明だな」と思って。また、色々な絵でよく使われている独特の憂いのある水色は、ヒーリング中に時折見かける光で、ブルーレースアゲートのような色。いつだったか調べて敢えていうなら「スプリングブルー」だなと。
人が何となく、あるいは自分なりに研究分析して、好む色、好んで選ぶ、あるいは好んで表現に使用する色などは、魂の原郷の記憶、源の記憶、から来るのではないかなと改めて思う。

shop やtwitter でおしらせを出したように noteにもダイヤリーを書く場所を作りました。
https://note.com/office_arganza/

また覗いて下さい。
ではでは。今日はこのくらいで。
Love and Grace

融合の哲学 — M.ガブリエル・フェミニズム・神智学 —

相変わらず休「韓」期が続いているので、NHKオンデを開くと、放送されたばかりの『マルクス・ガブリエル日本を語る2023V』があり、早速視聴。このシリーズ、「欲望の時代の哲学」や「欲望の資本主義」は好きで全部見て来ている。

哲学者である氏の話は抽象的で捉え難いけれど、そのままフワっと受け止めるようにしていて、そのフワッとの中には自分なりにエッセンスとして理解できている感覚がある。「世界は存在しない」のフレーズで一躍、知られるようになったガブリエル氏だけど、そういえば、「一元的な世界は存在しない、それは分かるとして、その先どうしろという哲学理論なんだろう?」と、本を数冊買い集めているのによく分かっていない(丁寧に読了には至っていないゆえ)事ににふと気づいていて。

今さらだけど、人道、倫理、ヒューマニズム(人間愛)を、呼び戻そうということか・・と、今回の新しい番組を見ながらおさらいしていた。一見(特に自分にとってはずっとそういうものだと思って来たし発信してきたので)ごく普通、当然と感じるようなことだから、フワっとしている、という体感だったのかもしれない。識者の方々はどう評するのかなと検索をしてみると、こちらの記事が参考になった。

(集英社新書プラスHP 『新しい哲学の教科書』著者・岩内章太郎氏インタビュー)

あらゆる既存の概念を一度否定してみる「ニヒリズム」=ポストモダン主義哲学(少し前の時代の主流哲学)から、もう一度、人間をめぐる「実存」について考えてみようというのが新実存主義、ガブリエル氏の新実在論では、ヒューマニズムや倫理をその「実在」に据えている。世界という決まった枠組みが実在する訳ではない・・という感じかな。

そのせいか、どうも最初にこの方をNHKで見た時に、(ゲリーボーネルさんが言っていた、現代に再来しているという)キリストの生まれ変わりではないかという気がしてならなかった・・のは、はっきりと口にはしないものの、仰りたいことは実際に「愛」だと感じたからかもしれない。今はまた別の候補(キリストの・笑)が私の中でいらっしゃって・・ まあとにかく、人類の現状をどうにかしようと考え、あの手この手で奮闘している人たちは沢山いるものだと、この10年くらいは感じたり、そんな人々を発見したりしている。

上でリンクしたインタビュー記事で岩内先生は、「哲学とは困っている人のためにある」と考えるが、ガブリエル氏の哲学はあまりに「普通の人々が感じている普通の『大切なこと』を取り戻そう」という話で、本当に困っている人には役立たないかもしれない、と仰っている。

確かに・・ だから、ニヒリズムに染まって道が塞がっていたような哲学界にとっては、新風で、「天才だ!」という事になったのかもしれない。普通の人々は普通に生きる中で人間性の重要性を知っているところがある。特に女性は・・男性社会の、キリスト教的風潮をベースにした、かつ知の最先端をゆく哲学者の世界には、方向展開のために必要な風、新実在論、だったのだろう。

・・で、番組を見ていても、本を読んでも、そのそも西洋哲学それ自体が、女性性的なハートの感覚でいえば、「単純な話をあえて難しくして順番にひとつひとつ手順を踏まないといけない遠い道のり」という感じがしている。そうかと言ってここで道を分つのではなく、女性性的な感覚もまた(日本の一般人の集合意識は男性も含めこの感じなのかも。ハート的な直感や空気)怠惰や甘えを生んでしまうので、両者を統合していくしか無いと、やっぱり10年前くらいから考えている・・&私なりに少しずつその努力を、色々な意味で続けている。

もちろん単に哲学界の中だけでなく一般社会の気風や時代の世相、雰囲気というものとも確かに連動していることは間違いなく、ただそれが一般の人々には余り自覚化されない、というか、興味を持たれない。90年代以後の哲学的視点でいう特徴は「メランコリー世代」とも言えるそうで、その前のニヒリズム世代では「なにもしたくない。どうせ全て無駄」(おそらく私の世代や、付き合いの多い周囲の人々はここに当たる)という風潮だったものが、90年代以後の空気を感じて育っている人々は、恐らく社会が問題を抱えた側面を多く見聞きして育っているせいか、

「なにをしていいか分からない。でも、なにかしなくちゃいけないのでは?」と。それが最近の若い世代になると更に、「自分に何が出来るか」と悩み始めるくらいに、変遷して来ているという。その話も納得だ。けれど、国や集団によって、差はあると思う。我が子を通じて色々な土地の、普通の学校、オルタナティブ(シュタイナー)教育、新潟、奈良、横浜、東京・・と、子育てしながら経験して来て、それぞれの集団の感覚、空気というのはまた違っている。

「哲学というのは困った人のために」というお話も確かに分かる。けれども、一人ですべてのことに責任を持つのも不可能で、ガブリエル氏はまずは「哲学界」に新たな風を入れることを自身のテーマにしているのかも。知識人層から、実際に思考の波が降りていって、それを指標に経済や政治が変わっていき、一般の人々の暮らしに影響していくと思うし。

私が14歳で「地球の役に立てねば」と決意し、16歳で「日本を出て歴史(世界史)の専門家として世界を旅しながら、次の時代に向けての指標を残さねば」と何故か思い立ち、けれど全く現実は追いつかずに(そして恐らく持って生まれた学才の様なものも足りずに)そのうちに日本の神秘に20歳で目覚めて、ひとまず日本に居るか、という流れに(笑)。そして早々に?(思い立って10年後には)アカデミズムで生きる夢をあっさりと諦めたのは、また別の可能性、必要性のようなものを感じ始めたからだと、今では思う。

もう忘れてしまいそうなくらい、遠い過去の思考だけど、たどって考えていくと、結局は「フェミニズム」に行きつき、男社会の男性原理の男性的なアカデミズムの中では、16歳で思い立ったような成果は残せないと感じた。当時はそんな言語化は出来なかったけど、今の言葉で表現すると。19歳でオノヨーコさん、21歳で白洲正子さんというカッコいい女性たちを知り、私のベクトルはアカデミズムよりも、お二人のような「表現活動」に傾いたのだ。それでこそ、女性意識、女性原理で発する、次世代へのメッセージになろう、と。

その後、滅多に尊敬する人を持たない私にとっての希少なこのお二人の女性が「旧華族」出身であると知って、「そうだよなあ。この世代で自由に表現されている立場だし」と、肩を落とした辺りから個人的ニヒリズムの世界へ(笑)。暗闇への自主的な落下によって、冥界下りのような時期を経て、スピリチュアルに出会う。そうでなければ、出会う事も無かっただろうし、出会い方が違っていただろう。多くの人々がそうであるように片手間に、スピに興味を持ってちょっとかじって、様子を見る、ような付き合い方だったかもしれない。

困っている全ての人に有効なものを、すべて自分の関係の中で生み出せる、生み出したいとは思っていない。自分なりのターゲットや目標を定めることは大事だ。続きは次世代がやってくれるだろう、というような算段も、もう年齢的に計画の中に入れていかねばと思っている。

この「スピ」という分野で発信している限り、マルクスさんのように「天才」とか「ロックスター」とか渾名されることなど無いだろうけれど、私たちがしていることは、表でずっと日が当たっていた男性的な輝かしい分野ではなく、歴史の中で疎まれて虐げられながら細々と各国、各文化圏で続けられてきたメタフィジカルな癒しと知恵の分野なのだ。主に女性たちが担って来た。だからこそ、女性性が虐げられるのと一緒に、その分野も封殺されて来た。

男性・女性の問題ではなく、男性たちの、男性社会の中の女性性も封印され、愛や感性を否定された文明が特にこの数百年、加速して来た。だからこその、ここで改めての倫理や人道の見直しなのであり、それは男性的感性からの歩み寄りだと言える。

逆に、スピリチュアルのような女性的な立場からも、歩み寄り、説明や表現を続けなくてはいけないと思う。そう、そんなこともだいたい10年前には考え始めていた。それはヒーラーとして。けれど更に遡ると、『ハピの巫女姫』を書いた2002~2003年頃に、自分なりにはそれを感じて「立ち上がった」、それが執筆への原動力となっていた。けれどあの頃は無職で、離婚したばかりの子育てがこれから始まるという段階。作品を書いたはいいけれど、どうやって生きていく?が、先行していた。実際に、そこに奔走する20年が始まった。

20年を経て、状況はそんなに変わらない。相変わらず大した土台も影響力もない。でも、少なくともスピリチュアル、ヒーリングの分野を通して、人間の見えない領域の仕組みや法則はだいぶ学んだし、それに基づいて人や社会や世の中も見ている。「世界は存在しない」も直感的には理解出来る。けれど私はやはり東洋思想の下に生まれることを魂が選んでの日本人である気がしている。

日本は、中国的な二元性、善悪、白黒の理念や、変化や発展や強化も入っていて、その気になれば発揮できる土壌でもありつつ、

やはり中国思想だけではない要素、理論を抜け出してハートでキャッチするようなアニミズムと、三元論というか、インド的な宇宙観が仏教を通じて染み付いている。現代の日本人自身が考えている以上に、仏教、つまりインド哲学、宇宙論の影響は日本人の中に世代を重ねて浸透している。

この、何とも言えないフュージョン感を持つ日本人という存在が、今掛かっている病理から解放されれば、世界はまだ救いがあるのかもしれない。というくらいに、同番組を見ながら感じた。日本人にインド(仏教的宇宙観)や中国(儒教=武士道)の影響が根深いのと同じように、西洋の人々の二元の縛りはとても強い。その手に委ねていると(政治的にはアメリカの傘下に日本は存在している)最近多いディストピア近未来映画のようになるのが自然の流れのようにさえ感じる。

ただ、本当にありがたく素晴らしいと思うのは、19世紀末には神智学という試みで、既にその「東と西」の融合のプロジェクトは始まっている。今、脅威と言われている政治的な立場が中国とインドであるという点も本当に意味深い。ガブリエル氏も今回の番組で語っていた。中国とインドの世界史上の存在感の凄さについて。歴史が好きな人ならこれは本当に間違い無いと感じるし、ましてそこにイスラム世界が加われば、尚更である。

女性性とともに虐げられて来たもの=見えない世界の探求 を、既に西洋人、それも知識人層に向けて、東洋の古代からの叡智を通して語り、分散した世界の思想を統一できるのでは?という志を持って活動したのが神智学だ。けれど「神智学」と呼ばれるものが完成されると、今度はそれを維持し伝えるという使命を帯びる人々が必要になる。

一方で、その恩恵を学びの糧としながら、次なる時代の知恵を展開していく試みも必要で。小さくても、目立たなくてもいい。ソウルが何を目的に生まれて来たか・・ 「メランコリー世代」に、考え感じてもらうキッカケにでもなれれば、良いのかもしれない。

Love and Grace

Amari

想い出は魔法

ディズニー映画の中でもかなり好きな『魔法にかけられて』の続編の、ネット配信(劇場公開はしないよう?)の報せをツイッター等で見かけてから、半年以上。ようやく見ることが出来た。

主演のエイミー・アダムスについては、以前もブログで「魔法に〜」含めて三作品について語った記事あり。

それで、いつものようにネタバレ失礼しながら、メタフィジ目線で感想を。昨年11月の時点で予告編を見て、検索して口コミもザザっと見ていて、1が好きだからという以上に、2を見るのが楽しみになっていた。

初作の原題は Enchantedで、そのまま邦題は訳されている→「魔法にかけられて」(enchant 「呪文を掛ける」「魅了する」など)

で、今回の続編は日本では「魔法にかけられて-2」ということになっているけど、原題がまた面白くて『Disenchanted』。魔法に掛ける「enchant」の受身形だった前作に対して、それが外れた「dis-enchant-ed」で、普段この単語は日本語では「幻滅する」などの意味に訳される。

語源的には dis= 外れる、で、「呪いが解ける」という感じか。

初作ではまだ若いプリンセスであった主人公「ジゼル」が、二次元の世界から魔女に魔法を掛けられて三次元のマンハッタンに次元移動・・ニューヨークの弁護士という現実世界のエリート、それもシングルファザーの男性と恋に落ちる。そこに、ジゼルの婚約者である二次元世界(アニメ)のプリンス・エドワードが「助けに」やってきて、更にはその継母である邪悪な女王(笑)も追いかけて来て。

ある意味、ニューヨーク舞台のラブコメの形をとった、ディズニープリンセスの新たな境地で、セントラルパークや摩天楼など、ニューヨークの風景とともに進んでいく、けれどそのストーリー展開はとてもディズニーで、悪者を倒して(王子ではなくジゼルが倒す。。)、恋も成就。婚約者のプリンスではなく、弁護士のロバートと。

ロバートの恋人であるナンシーは、NYのキャリアウーマンという設定だけど実は乙女チック、ロマンチックな恋を求める女性で、登場するたびに笑えるほど「ディズニーの王子」を大げさにコメディタッチに表現しているエドワードに、意外にもときめく(笑)。そして二次元の花嫁になるという(!)。

このナンシー役が、歌うシーンすら無いのになんと、アナ雪で世界的に名が知られることになったイディナ・メンゼルが演じていて、当時は私も気づかなかったけど、後でブロードウェイの有名な女優さんだと知って、歌えば良かったのに〜勿体ない!と思っていたっけ。今回続編ではさすがに、たっぷりとイディナが歌うシーンがあって何より。満足。

(ちなみにアナ雪はご縁が無いのか、ビビっと来る事もこれまで無く、まだ見たことがない。笑)

メタフィジ視点で印象的だった箇所を幾つか。

まず、ディズニープリンセスの「型」をそのまま、アニメの二次元から、現実世界のニューヨークに移動させた、という点でまさにコメディ要素もある「ラブコメ」でもあり、プリンセスの様々な「型」をあちこちの場面やエピソードに散りばめた点が前作の魅力であり、多くの人に愛され支持された。

しかし乍ら・・私は「さすがディズニー、さすがアメリカ」と唸ったんだけど、恐らく続編にがっかり(disenchanted)された人々は、その「型」を崩されたことに「ルール違反!」のような気持ちになってしまったのかも。期待が大きい分だけ、そうなるのかも。

制作のブランクは15年だけど、設定は10年後らしく、当時7~8歳だった可愛いモーガン(ロバートの娘)は高校生のお姉さんに。思春期真っ最中らしく、おとぎの国?出身のジゼルにはそれが理解出来ない。何がいけないのかしら、今までは完璧だったのに。。と。加えて、ロバートとの実子の新たなベイビー(ソフィア)が生まれて、夫婦共働きのニューヨーカーとしての育児生活に疲れ果てたという事情もあったよう。。

そこに、「まさに現代のおとぎの国!」みたいな看板を見かけてその郊外の街へと引っ越すことに。続編はそんな風に始まる。

(詳細は、ぜひ、予告編を覗いて下さい。)

で、ヒーラーおよびジェネシス視点で深読み混じりに分析するに、

ジゼルがモーガンの思春期を理解できずに悩み始めた、という時点で、現実の周波数が下がる。そこに、見知らぬ街に引っ越し、家の修復が大変だったり、町内づきあいに戸惑ったり(強烈なおばさまがヌシとして君臨している・笑)そこで更にジゼルは悩む。

天真爛漫で、魔法の国出身なので、ある意味天性の魔法使い。ジゼルが歌うと動物が集まってくる、勝手に家が掃除される、みたいな。・・ところが、そんな彼女が更に悩み始める。こういう波動の高い人が悩みを抱えると、普通の人以上に、天性のマジカルな才能が、それなりの現実創造をし始める。(だからヒーラーさんはなおさら、日々の自分の心や意識に注意が必要なのダ)

「魔法の杖」を引っ越し祝いに故郷から貰ったジゼル、その杖で現実世界に「魔法の国になりますように」と願いごとをしてしまって・・続編の醍醐味はここで。三次元の「郊外の街」が、ディズニーで普段描かれる「魔法の存在する世界」にシフト。光と闇とがドタバタと・・そして魔法が自分に跳ね返った形で、ジゼルが何と(実際にモーガンの継母なので)「いじわるな継母」へと変容し始める。

気づいてもその変化を止められず、葛藤して分裂症のような状態になった彼女を、周囲の人々が助ける。特に決め手はモーガンとの10年間の愛の軌跡、絆という「想い出マジック」。

ジゼルの出身地(二次元)アンダレーシアでは、「想い出は最高の魔法」と言われているそうだ。

今回、配偶者との「真実の愛〜♪」ではなく、思春期を迎えて距離が開いたことに胸を痛めていた義理娘の、母への愛が、ジゼルと二つの世界(三次元も二次元も)を救ったという形に。

その時、すっかり良いナイスミドルというか、ちょっとまるで最近のハリソン・フォードを思い出させるような活躍を見せるロバート、新たなモーガンのボーイフレンド候補の少年、も、それを手伝っている所も良い感じ。

幻滅した、というタイトルは、ジゼルがこちらの世界の「そう甘くはない」現実に、10年過ぎてから体験した気持ちなのかな?と思いつつも、

「呪いが解けた」という意味での Disenchanted であるならば、ダークな継母に完全にシフトしてしまう直前になんとか、皆の助けでジゼルも世界も魔法から逃れたという部分もあるし、両方、掛けつつ、前作のタイトルを踏んだ絶妙なネーミングなのかもしれない。

そしてひとつ気づいたこと。「想い出は最高の魔法」

つまり、魂が呪われてしまった時。その人自身の愛や尊厳を思い出させることが大事であるという意味で、ヒーリング視点でも理にかなっている。ジェネシスヒーリング、レムリアントランスミッションほか、アルガンザワークもまさに魂レベルでそこ、その人の魂の本源を思い出してもらうような体験、光線、施術であると。

本日「ノストラム」の遠隔グループセッションを終えたところ。この映画を一昨日に見たのもまさに、天使の采配。

Love and Grace

Amari

始まりの奈良。

昨日の帰路の電車で、継体天皇についての書籍を読んでいて・・帰宅後、 前日まで見ていた韓国ドラマが終わってちょうど途切れ目だったので、そんな時に開くNHKオンデマンドですぐに目に入った(topにサムネイルが出ていた)26日に放送されたばかりの『歴史探偵』、「古墳最前線」を見始める。(2023年7月の日記)

日本全国、発見されているだけで16万の古墳があるそうで、コンビニの全店舗数の3倍にあたるとか。もちろん、多くは宅地開発やそれ以前の時代で既に破壊されたり埋もれたりしているだろうから、私たちの生活圏がそもそも古墳だらけ、だということだ。

「おすすめの古墳3選」の中に、出た!継体天皇の陵墓と推測されている大阪、高槻市の今城塚古墳が入っていた。近くの別の古墳が継体陵とされている(宮内庁)そうだけれど、多くの研究者が「こちら、」と言っているのが今城塚のほうらしく、NHKさんも「継体天皇陵と言われている」とナレーションしていた。

そのほか、最近大きなニュースにもなって個人的に注目してYoutubeで見ていたばかりの、富雄丸山古墳も取り上げられていて、いつもいつもそんな調子で、思考や直感と、連動して特に探さなくても入ってくる情報や動きや流れは、「図書館の天使」的なガイドたちの手配なのだろうとまた合掌して見終えると、「関連番組」としてサムネイルのトップに上がっていたのが、昔から割と好きな「新日本風土記」という番組。今年3月に放送された「はじまりの奈良」が目について。今朝はさっそくそれを見てみた。

「はじまりの奈良」その心は、奈良といってもヤマトの国の(とりあえず「正史」である記紀が伝えるに)始まりの舞台である、桜井市・天理市あたりを、山辺の道を軸に、取り上げていた。「正史」がその前提で色々と書き残しているので、「ヤマト王権の始まり」「仏教の伝来」「相撲」「みかん(柑橘類の伝来)」「能楽・芸能(番組では触れなかった)」などの「始まり」と言われている桜井、三輪周辺の色々を紹介していた。三輪そうめんも。

私も20歳の時に最初に奈良にはまった旅は、(何故かガイドブックから選んだ)山辺の道を歩くコース。次々と現れる古墳や、疲れ果てた頃にたどり着いた大神神社に感動して。

移住してから横浜に移るまでの4年の間、幼稚園〜小学校低学年だった娘の引率で歩いた三輪の麓の通学路、地元人しか知らないような田んぼの中の三輪の絶景ポイント、一人で早朝散歩したり、家族で出かけた山辺や桧原神社付近、自宅サロンに来てくれたお客さん達を駅まで送りがてら一緒に歩いた道、素麺屋さんや、みかん狩りに行った付近、娘の幼稚園がすぐそばで生活圏内だった箸墓古墳などなど、懐かしい風景が次々と。纏向遺跡も自転車で見に行ったっけ。奈良びとの絶妙なトークも懐かしい(笑)。

後半の2年、マンションの8階から眺めていた360度の奈良盆地のパノラマ。やはり特別な場所だったと想う。

春分と秋分に、三輪山から太陽が昇り、二上山のふたつの嶺の間に沈む。その観測ポイントが桧原神社。「元伊勢」と言われる。この場所を最初に見つけた人々は興奮しただろうな。縄文の人々か、または農耕のために暦の目安を必要とした弥生の人々か。

ヤマタイコクは何処か?と、相変わらずまだ、決着が付いていないらしい。ヤマタイではなくヤマトであると思うけど・・ただ、連合政権が出来るまでには下地としての王国が、三輪の麓にあっただろうし、葛城、熊野や、出雲はもちろん、丹波、東海〜東国、たくさんのクニグニは存在していた。だから「始まり」と言っていいのかどうかは、本当のところ微妙ではある。けれど一つの国としてまとまろうとした、そのセンターという意味で国史の「始まり」は確かにその通り。

初めて撮影を許可したという、石上神宮の「鎮魂祭」や、土中に刀剣が埋められているという禁足地の映像も興味深かった。宮司さん(森家)が物部氏の子孫ってさすが凄い歴史だなあ。以前飛鳥をひとりで回った時、お目当ての(ソガ系天皇家ゆかりの)遺跡を探していたら民家の庭先だったので、ピンポンしてご挨拶。表札を見ると苗字に「蘇我」が付いててびっくりした事を思い出す。

そしてこの番組のお影で気づいたのは、私はやはり「始まりの地」として、あの付近(磐余(いわれ)という言い方が割と好き)に惹かれたし、今でも凄みを感じるのだなあと。子供の頃から「始まり」を紹介するアニメ番組も好きだったし、ダーウインの進化論を知った時には本当にワクワクしたっけ。・・それが結局『ジェネシス』の仕事にも繋がっているのだ、と。「始まり」を「知りたがる」、あるいは「掘り下げたがる」。

正史にはならなかった、なれなかった沢山の「始まり」もまた日本全国にあるのだろう。そんな事にも思いを馳せながら。

Love and Grace

差別を無くすための差別?

多様性を実現するというのは、最近よくあるメッセージ。実際にそのための活動や発信は常々行われていて、法律の改正などにも反映されている。

私は決して「保守的」な人間のつもりは無い。物心ついた時から・・いや、思春期あたりから、多様性を許さない社会の風潮などに反感や嫌悪感を感じて、若い頃はマイノリティ的な立場の人々を取り上げるエピソードを、小説に書いたりもしていた。

けれど、ここ最近何か引っかかる、といつも感じるのが、ハリウッド映画やアメリカのドラマで実際のパーセンテージはそんなんじゃないでしょう!というくらいに、多様性を強調するような設定や展開を多く見かけて、何事も「やる時は徹底的に」という姿勢なのかな.. とまあ受け止めていた。

ディスニーの実写版「リトルマーメイド」のアリエルに、特に中国社会が反発を抱いたと報じられた件も記憶に新しく。個人的には人魚姫が黒い肌であっても違和感は無い… けれど、先日たまたま知った、ブロードウェイで歴史的終幕となった名作『オペラ座の怪人』(大好きでブロードウェイとロンドンで計3度観た)のクリスティーヌが、黒人の女優さんだった事には少し驚いてしまって、設定がそもそもフランス人では無かったか? 。。と。少し不自然さは感じてしまった。

本当の平等ってなんだろう。

ディズニー社は、「Reimagine Tomorrow」のスローガンのもと、「公平に代表されていない集団」から、全体の半数のキャストを選ぶと発表しているそうだ。それから最近ニュースで見かけたアメリカの最高裁判所が、大学におけるマイノリティーの学生優遇措置は「憲法違反」であると判決を下したという話。

1960年代から、黒人学生は入学選考において優遇されるという措置が取られて来たらしい。こういう件を「アファーマティブアクション(差別是正措置)」と呼ぶらしい。・・何というか、とても欧米的な方法だなと感じた。

同じ実力の人が差別されずに同じ扱いを受ける・・差別撤廃は、そのくらいでいいのではと考えてしまう。そういう意見も方々、あるらしい。けれどそんな生ぬるさでは、社会のバランスは変えられないのだ・・ということかもしれない。

ディズニーのアニメで好きなのは「ヘラクレス」や「ポカホンタス」「ノートルダムの鐘」など。ギリシャ人のヘラクレスをアジア人が、ネイティブアメリカンのポカホンタスを白人が、ジプシーであるノートルダムのヒロイン・エスメラルダをそうは見えない俳優さんが演じていたら、やはり気になってしまうだろう。芸術・娯楽作品にまで、「差別是正措置」を導入しなくてはならないのだろうか、と。原作の設定を変えるようだと寧ろ不自然さが生まれるし、

あまり行きすぎると、反発も出てくる。そういう時の反動って憎しみ、八つ当たりも混じってくるから、怖い気もする。

人魚姫、アリエルにもともとの人種的な設定は無いだろうから、黒人の女優さんでも全然良いと想う。今回、こういった問題に終始慣れている欧米ではなく、中国の人々が強く反発を表明したという点も、理解・想像出来る。

グローバリズムの時代。そのうちに人種などなくなるくらい、地球人はミックスされていくのだろうか。それはそれでいいとも想う。しかし、多様性が普及することで、結局、文化や民族という点では、多様性を失うのかもしれない。そんなパラドックスも感じる。差別はないけれど、それぞれが、変に力むこともなく、ごく普通に、自然に、共存している。・・それでいいと思う。

社会というのは、感情が常に伴うので、中々難しいものだ。誰かの「気持ち」を気に掛けるあまり、他の誰かが蔑ろになったり、バランスを取ろうと優遇することで別のどこかに歪みが出来たり。神智学が言うように、感情という問題をうまく統御出来るようになっていくことが、世界をよくしていく為の「まずは自分から」の第一歩だろう。

Love and Grace

学びは進化。澱まずに変化しつづけること。

久しぶりに小蛇(白小蛇、またはミニ白龍)が左に来ていた。いつからだろう?今朝か、昨晩からかな。

「イワナガ姫の遣い」というほど攻撃性はない。その場合だと右の内蔵系に来るけど、左。怒りではなく、ひたすら悲しそう。でも脾臓にしっかりと繋がれていたから、バンパイアの一種であることは確か・・
人間だって、悲観的な人が側にいたら、そしてずっと泣き言を言い続けていたら、自分の波動も下がるし不快なもの。避けられるならば避けたい。

それと同じで、ただペタっという感触がエーテル体にあるだけであっても、その悲しそうな、そして頼ってくるような響きには心地よく無さを感じるから、外さずにはいられない。ワークし始めると実際に、触手のようなものが脾臓にしっかり繋がっている。。右の一部もズキっとした。

悲しいのかもしれないけど、人を頼ってはダメ。人から吸い取ってはダメ。解放して貰いなさい、貴方を「飼っている」人の悲しみの感情から。・・瞑想の中、レコンその他で外す。

考えてみれば、澱んだ水からこういった小さな精霊のようなモノノケが生み出されて、それをマジカルに取り扱うタイプの三次元や四次元の存在が居て。水の澱み=「エヴォリューション」テキストに書いている「腐」にも通じる。セラフィムやアンドロ存在(自然界の精霊)たちが、ネガティブな物質界の場や術に取り込まれ、生まれたエネルギー。

そう考えると、イワナガヒメ、リリスなども「もともとはセラフやアンドロ(精霊)たち」とも言えるし、人間界においても、腐の感情や行動や現実もあれば、それらとは無縁の感情や行動や現実もある。

スピリチュアルも、それ以外の分野でも、「難しいことは考えず言われた通りにしていれば大丈夫」ということは無い。特にスピリチュアル。
唱えていれば大丈夫、救われますよ、というタイプの鎌倉仏教が誕生した時、日本は飢饉やら武士の台頭と貴族の没落、疫病や天災など、色々がことが起こり、この世の終わりの雰囲気だった。パニックになる民衆を落ち着かせるために、彼らには学が無いため、色々な周波の始祖たちが念仏や題目を「発明」して広めた。
それまでは、飛鳥時代に仏教が伝来して以来、いわゆるインド哲学のひとつとして、学問であり、お坊さんたちが研究し専門家として実践、国家に役立てるためのものだった。

けれど今の私たち、無学な訳ではない。これだけ情報も交錯し、複雑化した社会に生きる。
スピリチュアル、メタフィジカルに(鎌倉時代以後ずっと)定着していた「理論はいらない」「信じていれば大丈夫」という風潮が、ある意味、宗教界などに多くの問題を生じさせて、ニューエイジ系の「スピ」も同じくだ。
考えなくてもいい、という空気は、思考や疑問や変化という風を知らず、「腐」のエネルギーが温存されやすい。

日本は水の国であるがゆえの、ネガティブな側面、課題、とも言える。
やっぱり、勉強って大事。学ぶことは、変化を受け入れること。学んで成長することで、常に変化、進化していける。
何事も。つくづくそう思う。

Love and Grace

未来の思想と生殖

一昨日、19日の夕空。壮大な空模様の、ほんの一部。


2022年公開の映画『プロジェクト・ユリシーズ』を観た。制作がドイツ&スイスの合作という、ちょっと渋い背景。けれどハリウッド映画という感じの仕上がり。


近未来の地球、環境汚染等々で、ヒトが住めなくなる。富裕層など脱出可能な人々はケプラー209という惑星に移住。僅か二世代で生殖機能が働くなり、ヒト種族を守るために地球への「帰還」計画がスタート。選ばれた宇宙飛行士が派遣される。その頃地球は、一面の泥の海。そして時折水の満ち引きで洪水が起こる。地球には「生存者」たちがいて、泥に塗れながら命を繋いでいた。彼らは帰還計画の「ケプラー人」から「泥の民(the Muds)と呼ばれる。
そしてまあ色々なことが起こり、1時間半ちょっとの映画の中で、一応は決着、解決をみる。これからの未来・・ケプラー系地球人たちが帰還し、「泥の民」と共存していくのだろうか、という微かな希望が差したところで終わる。
 
深読み&ジェネシス神話と絡めて考える、シリーズ。
まずはタイトル。20世紀初めのアイルランドの作家ジョイスの名作小説「ユリシーズ」を連想させる(きっとそうなんだろう)。ユリシーズはギリシャの英雄叙事詩(ホメロス作と伝わる)『オデュッセイア』(オデュッセウスの歌という意味)のラテン発音が更に変化し英語化したもの、のよう。つまりオデュッセウスの長い放浪の旅からの故郷への帰還、を表現していると思われる。


幾つか印象的だった点。前に日記に書いた「インターステラー」という映画と似ている部分がある。特に、宇宙飛行士の父、と、その娘によって人類をめぐるプロジェクトがうまく運ぶという。どこか神話的な設定。息子ではなく娘である、という点が、時代を反映しているのかも。プラス、父と娘という設定に何か特別なロマンのようなものを、特に欧米の人々が(深層心理的に?)持っているのかもしれない。


どちらの映画も、あとあとの人類の歴史の中で、父と娘が英雄として名を刻まれるような功績。それが目立った形ではなく、純粋な父と娘が通い合わせる愛によって成り立っているという感じ。実際に、欧米のもろもろの著名人など、死後に娘や孫娘がその業績を残すことに貢献したり、確かにそのイメージはあるかも。欧米の娘たちは、立派な父を尊敬し、偉業を継ごうとするという何か原型的な感覚、感情のパターンがあるのかもしれない。
又は、映画の作者や監督などの男性陣?が、自分の仕事を「愛しい娘が理解し受け継いでくれたら」というある種の理想像があることの反映と、取れるかもしれない。
 
それと、ちょっと引っかかったこと。原作は読んでいないから分からないけど、明らかな悪役の男性たちや、エキストラレベルの人々以外に、目立ったそれも善良な人々の中で唯一の犠牲の死が、アジア系の女性で。物語の中でも大事な、また描かれていない未来においても重要な立ち位置となるだろう少年の母親だし、主人公の宇宙飛行士(娘)の父親が、現地で愛した「泥の民」の女性、だと思われる女性が、とてもあっさりとそれも気の毒な形で犠牲になっている。


見ていてその辺り、ミスサイゴンを思い出させた。仕方ないとも思うけど(ホントはそれじゃダメなんだろうけど)アジア人女性=現地の妻=(用が済んだ時点で)犠牲 をさらりと、やはり原型的なのか、深層心理なのか、描いている点に、アジア人女性としては引っかかるものを感じた。けど、仕方ない、と感じる自分も居てそれはそれで問題だとも。単なる人種差別的な無意識?の心理だとしても、やはりそうさせてしまう、エネルギーや意識のシステム的な問題を、アジアの、日本に居ると感じていることも確かだから・・
 
単純に劣っている、という意味ではない。それぞれ、優れている点、ダメな点あるわけで、人種に優劣があってはいけない。けれど、何というか・・「犠牲が似合ってしまう」という原型的な空気が、アジア人の、特に女性にはある。これが最近、アルガンザのジェネシス神話で分かって来たことと重なる。つまりそれなりの理由があると感じてしまう。だから仕方ないというのではなく、変わって行かなくては、と思う。


一昔前は「妻にするなら日本人、愛人はフランス人、家はイギリス、車はドイツ、シェフは中国、」みたいな偏見の譬え話があったけど、一昔前の男性陣が「妻にするなら」なぜ「日本女性」が「良い」と考えたのか・・・よくよく、感じてみたほうがいい。従順だということだよね・・・そして、いざとなったら、または用事がなくなったら、ミスサイゴン(日本ではないけど)のような犠牲で消えていく。悲しいネ、忘れないよ、ありがとう・・・みたいな原型ストーリーか。
 
そして、更に深読み。ケプラー209に移って僅か二世代で生殖できなくなるという部分。シュタイナーに学び、それをヒントにしてジェネシス神話に取り入れた「月」という存在の地球への影響から考えると、地球の生殖を支配しているのは月、なので、離れたら当然、機能しなくなると私は思った。けれどそこで頑張って、人類を生み出した神なる次元がヒト種族を見捨てていなければ、新しい生殖システムまたは手段が、生まれていくのではないかというのが、私の考え。テクノロジーで何とかするのかもしれない。それも含めて。


主人公の宇宙飛行士(娘のほう)が地球に来て、泥の世界で奮闘していると程なくして、月経が復旧したというシーンがあった。彼女の足に経血が流れてくる、という場面。・・・この映画の価値観においては、それは良いこと、未来への希望の証なのかもしれない・・・けれど、個人的にはこの生殖システムはそれほど(宇宙基準で)良いものとは思えないから、複雑に感じた。


聖書のイブへの呪いのように、月のサイクル28日でめぐる(そんなに子供を次々と産むわけではないのに)この忙しい生殖システム、男性側もだけど、かなり動物的、原始的なあり方で翻弄され、束縛され、体も気分もアップダウンし、そこにエネルギーを取られて、負担も多いから毎日3食食べなくてはならず、そのために日々働かなくてはならない、という、人類を束縛する最大の「呪い」のように思える。
 
これが、一年に一度、いや、数年に一度、「子供を持ちたい」と意図した夫婦が、「神」に申し出ると生殖機能が働き、子供を授かる・・みたいな仕組みであればどれほど、効率よく、合理的で、人類はもっと心穏やかに、思考を洗練させ、意味のある創造にエネルギーと時間を費やすことが出来るだろうか、、と、若い頃からずっと思って来た・・(笑)そのような星から私の魂は来たのかもしれない。地球上の生殖、性というものを理解するのにかなり混乱していた。


同時に、今この地球で生きていても、人類が月よりも太陽またはもっと別の力にエネルギー的に結ばれると、生殖システムは変わっていくだろうとも、思っている。


映画では、ケプラー人は「for the many」、己を捨てて、感情を抑えよ、という思想を持っている。字幕では for the many は「人類のため」と訳されていた。そこは、ある意味進化している姿であるが、もし原作が利己的(動物的)、感情的な部分も含めて「帰還」すべしという作者の意図が込められているのだとしたら、個人的には意見が合わないなあと思いながら見終わった。
 
for the many はもちろん、大事なことであるし、そのためには感情や利己を抑えるというのも自然のことわり。けれど、それにもっと早く気づいて、地球を捨てて去る前に、母なる星の環境破壊や人類の乱れを止めることが出来れば良かった・・・という、教訓として、見れたら良いのかもしれない。とにかく何しろ、自分たちのせいで壊れそうな地球を見捨てて生き延びることを考えるのではなく、何とかしようと奮闘すべきではないかと。女性性の中にあるハートの愛(自然界と通じる)のようなものは、きっとそう感じるものだろう。
 
Love and Grace

ちょうど良い真ん中を目指して

最近の Info記事で「南の海から(女性性的・リラ・プレアデス)」と、「北方から(男性性的・恐らくシリウス・ヴェガ)」的な要素が、人類学(遺伝子)レベル、文化人類学・宗教・民俗学レベル、そして更に下層にジェネシス原型レベルで、縦長の日本列島に流れ込んで来たのでは、という書き方をしていて、今回そのような表現に至ったけれど、考えてみれば人類学・民俗学的にはずっと分かっていたことで、それがジェネシス原型論の体感や瞑想ワークの中で、実感されたということだ。

更にこの点、なんとなくの考え事を繰り広げているうちに、あることに気づいた。

数年前にもうドラマは完結している『ゲームオブスローンズ』。私は(何度かSNS等でも触れていたけど)シーズン2〜3くらいの頃に存在に気づいて、まだネット配信で何かを見るという時期に入ってなかったので、その都度、DVDを買って観るようになった。まだ若大将は子供だったため(さすがにあれは見せられんでしょう・・)、DVDが届くと一人でこっそりと休みの日にドキドキしながら少しずつ見続けて、放送されるまで何年かブランクがあった最終シーズン(第8章)は待ち侘びた、という感じで。全シーズン、付録?付きのボックスが揃っていたりする(笑)。

私が映画やドラマについて書く時は基本的にネタバレなので、ご了承ください。一視聴者としてのワクワク感よりも、なぜか昔から制作者・原作者や監督などの目線で、何を伝えたいのか、ここに何を引っ掛けているのか、含めているのか・・という目で見てしまうので、自分自身がまったくネタバレを気にしない人間で、むしろ本などは最後の結論や後書きから読んだり、映画もメイキングを先に見たりするのでス。それと原作を読まずにドラマ版だけで書いているので、原作を知る方からするとずれている部分があるかも..この点もご了承ください。

そうそう。見た方ならご存知のとおり。このドラマの原作は「氷と炎の歌」というタイトルで、「七王国戦記」という副タイトルも付いている。架空の大陸に存在する7つの王国、それを束ねる宗主国の玉座を巡って争い合う、という。南部の国の「女王」と、北部の代表である「王」、それぞれが「炎」で「氷」であるわけだけど、この二人、最終段階でようやく実は親族であることが判明する(たしか叔母と甥になるのかな。年齢は多分同じくらい)。運命に引き寄せられるように、南から北上、北から南下しながら、それぞれの敵を倒して次第に自身に忠誠を誓う者たちが増えていく中で出会い、結ばれる。

なるほど氷と炎が出会って融合し、最後には王国に平和が戻るのだな〜・・と安心して見ていると、最終話でびっくりしてしまう。賛否両論、というか、ドラマが終わった頃はどちらかというと批判的な意見が多かったように見えた。けれども、ドラゴンや魔物、多少の魔術が出て来たりして「ファンタジー」のくくりに入りつつも、原作者が非常に歴史学に造詣深く、人間を人間臭く描ききっているという点で、「ファンタジー感」が無い、リアリズムの中で物語が進んでいく。それを考えると、あの結末は非常に、納得できる・・ドラマ、ではなく、実際の歴史の展開として自然、と言えるのかも。

炎の女王も、北部の王も、どちらも「犠牲」として大陸の表舞台から姿を消す。愛と人道で人々の崇敬を得ながら最終決戦まで来ていた女王は、七王国の統一を目の前にして、血筋が騒いだか残虐な支配者の顔を見せる。それを見た北部の王、彼女を人間としても同志としても愛していた者が、彼女を殺めるという決断を。そして彼は殺人罪で終身刑という。なんとも言えない結末。二人の人生を賭けた努力によって、専制的に玉座を死守していた一族は絶えて、大陸には平和が?訪れる。けれどその時、二人は居ない。

歴史の触媒のようになって、消えていく二人の英雄。氷と炎。作者はアメリカ人だそうだけど、北欧神話などの、英雄が最後には決して幸せにならない、むしろ貧乏くじを引くような犠牲で終わるというパターンに、影響を受けているように思う。歴史上たいていの英雄、カリスマは、確かにそのような定めを世に示して名前を刻んでいることも確かに多い。けれど全てでは無い・・「細く長く」じゃなくても、「太くても長く」健全に天寿と使命をまっとうした英雄、カリスマも居る。ゆえに、作者の思想的なものによるのかも。私はディスニー的なハッピーエンドもありだとも思う(現実としても。そういう現実創造力を発揮できる人間であれば)。

結末、は置いておいて。

言いたかったのは、日本列島でも、Game of Thrones (氷と炎の歌)であっても、もしかするとどの国でも、文明でも、「南・女性性・タマス」、「北・男性性・ラジャス」このセットが、法則として存在するのかもしれないという仮説。確かに、人間は南に居るとゆるんで、おおらか〜怠惰になり、女性的になる。北に暮らすと真面目〜神経質になり、男性的になる。その背後に、ガイアとヴァイアマスが南極と北極にそれぞれ座していたりしたらどうしよう。。地球上の海流やプレートの流れ、などすべて「ジェネシス原型」「ジェネシス神話」で説明できたりしたら。(広げ過ぎだけど「ニューエソテリシズム?新・神智学的にはその展開もライフワークとして良い)

旧石器時代人、もしくはもっと古い原人レベルかもしれないとも言われている、南から、北から、日本人の源流が入って来ていて、縄文人といっても、南方系と北方系で既に特徴づけされたいたはず。そこに到来した中国、朝鮮からの少なからずの「弥生人」=新説では、紀元前700年前から奈良時代(紀元後800ころ)までの、1500年という長期にわたって、渡来の波はずっとあったという。常に戦乱に悩まされていた中国や朝鮮では、その都度、亡命貴族・王族や、ボートピープルが日本を目指した。それらの渡来人たちは、またどのような中和作用、刺激をもたらしたのだろう。彼らが「中間」という訳ではなく、渡来人にも様々な文化・政治・宗教的背景があった。(帯びているジェネシス原型エネルギーも)

そんな「多様性」がミックスされて、天災の多いこの土地で、なんとか生きていく工夫を其々違う背景を持つ人たちが模索した。し続けた結果が、日本である。・・・という、新たな視点もあるかも。

よく言われている日本人の「動かない・空気を読む・人がしていることをしよう」という性質の原因は、稲作民であるため共同体意識が強い、とか、戦後のGHQの思惑、とか、徳川政権の支配体制が巧みだった(そこでの洗脳が抜けていない)などの理由が挙げられる。

けれど、もっと遡れば最初から、仕組まれて(用意されて)いたのかもしれない。上記の3つの要因・要素も含めて、プログラム、設定通りであったのかも。人類全体もそうだ・・眠ったように動かない、目覚めないように働くタマスの力と(その現象と)、争いばかりしているラジャスの力(とその現象)。南方的なエネルギーにおいては人々は欲深くなり、北方的なエネルギーに刺激され人々は争いを続ける。それすらも「歴史」あるいは「文明」というシナリオ通りの、現実、現象なのかもしれない。

その中から、中庸を見出し、抜け出す。何から抜け出すかって?

この「現象界」から。映画『マトリックス』と、同じみたいに聞こえるけど、もっと古く、仏教では・・引いてはその元であるインド哲学では、数千年前からそれを説いている。

両方あるし、二極だし、二限性だし、多様でフュージョンだけど、そんな中でも「善(愛)」とは何かを自分で見つけながら、「中間」という透明な場所を探している。それぞれ、何がどれくらい偏っているか、濁っているか、混乱しているか、そのバランスの悪さはみんな違う。二人として同じ人はいない。だからこそ、自分自身で自分のバランスの悪さに向き合いつづけ、(ひとつの生ではなく魂として)「ちょうどよい中間」つまり中庸を見出す。

『スローンズ』のジョン・スノウはその意味で魂の中庸、を達成したと言えるのかも。最愛の人を正義のために、状況判断して、大陸の平和のために手に掛けたのだから。

あ、そうだ。このドラマをジェネシス的に深読みしていて、もう一つ気づいたのが、南の女王の家系はドラゴンの末裔と言われていて、ドラゴンを飼い慣らし乗りこなす(炎を吹き空を飛ぶ西洋風ドラゴン)。ドラゴンは、東洋とは違って西洋では女性性と結びついていて、欲望、などのイメージもある。一方で北部には精霊たちの魔法の失敗のような形で生まれてしまった「魔王」が死者たちをゾンビにして軍隊を組織している、という。炎と氷、は、単に南と北だけではなく、人間の欲望とそれが齎す破壊力(南のドラゴン)、魔術・自然界が孕む危険と破壊力(北のダークネス)を表してもいそうだ。

話があちこち行くけれど。

ヨーガ哲学やヨーガの実践においては、菜食や禁欲が説かれている。けれどアーユルヴェーダは医療、健康術なので、禁止というのは無く「その人なりのバランス」をとることを考えていく。・・これもある意味、仏教でよくいう「方便」であると私は思う。バランスが取れていったら諸体が浄化されていって、禁欲も菜食も、難しいことではなくなる。むしろ自然にそれを指向するようになる。

人類全体では、行先は果てしない。けれど個人個人、「幸せになる」ための唯一の道は、「ちょうど良い真ん中」を見つけていくこと。これは間違いない。

きっと宇宙人たちも。宇宙文明もそんな振り子の揺らぎや、失敗や修正を繰り返し、同じように中庸を目指す途上にあるはずだ。

Love and Grace

Amari