星々の導き。プレアデス信仰は火星から(?)

またまた「古代の宇宙人」から。シーズン9、102回。前にも見たけど改めて見ていて、最近考えていたことと繋がったのでメモ。

火星について。現在進んでいる移住計画と、過去、火星が地球のような星であった可能性、核兵器を使った宇宙戦争の名残り、それによる絶滅、一部の火星人種が落ち延びて地球へ・・そして地球に生命が生まれた、といういわば「火星が人類の故郷」という見解。その根拠として様々な学説や研究が紹介されていた。

ユダヤ教の聖書研究の分野では、古来、エノク書で描かれる「堕天使」とは、火星から来た火星人ではないかとする見解があるらしい。「堕天使」たちは身長が3メートル以上ある巨人で、翼などは無く、目が大きい、と伝承されているらしい。宇宙生物学的にも、重力が弱いため火星で人類が生まれて数世代経ったらば、そのような長身で細身、目がキョロっとしてくる事が分かっているとか・・ エノク書の堕天使というと、(ジェネシスのバイブルをまとめる際にも資料にしていた)「見張りの天使たち」(Watchers)であり、地球の女性たちとの間に子供を作って、そこから巨人たちが生まれた。そして「神」が怒り、大洪水を起こしたという物語。

火星から人類が来ているというのは、個人的には一部は、そうだと思っている。けれど、どちらかというとそれは主流ではなく、こっそりやって来た、あるいは核戦争が本当にあったのならばその時に、落ち延びて来た火星人たちが居たのではないかと。または、侵略者グループかもしれない。

火星にはかつて、地球と同じようにプレートの動き、火山活動があったとされている。けれど、アメリカ大陸を横断するくらいの大きな亀裂(「マリネリス峡谷」)の様子は、川の流れや火山活動によるとは思えない様相で、強力な宇宙雷による放電の痕、と考えられるとか。・・・どことなく、インドのインドラ神(バジュラ=雷を武器として持っている)や、ゼウス、オーディンなど、最高神たちが雷神であることを思い出させる。そして、それらは(根拠はなく、あくまでも感覚的に)シリウスっぽい神々でもある。

また、火星の大気には核爆発によって生まれる成分があり、放射性濃度が濃く検出される地域が二箇所あるという。その二箇所は地形にも、核爆発の名残りと思われる特徴が見られ、また爆発の高熱で溶けて出来るようなガラス質の地層であるという共通点もあるそうだ。

火星の地表を、撮影された画像を解析することで調べていくと、ピラミッド様の建物や、彫刻を施した像や建物の残骸なども見られる・・という話は割と有名かもしれない。地球上の古代遺跡でもたびたびあるように、建造物の配置が、プレアデス星団を象っている場所も見つかっているとか・・・。

そこで、「お!」と反応したのは、数日前に見ていた別のシーズンの同番組で(いつもランダムにチョイスして見ている)、地球上の古代遺跡のあちこちが、プレアデス星団の星の配置を象っているという内容を見ていて、「この番組が始まった頃は、ドゴン族やアボリジニ、エジプトなどの神話や遺物から、『人類の祖先はシリウスから来た』という話を比較的多く取り上げていた気がするのに、最近、「プレアデス寄り」に変わっているではないか」と、ハっと気づいた所だった。

アルガンザの「ジェネシス」世界観では、シリウスとプレアデス(という名のリラ文明)は相入れない、思想や未来の進路などにおいて対極に位置するため、とても大事なポイントであり、番組のファンとしては、この制作サイドの空気感、話の持っていき方の変化というのは、考えなくてはならないポイントだ・・と、考え事をしていた。そこで、開き直るように「理解した」のは、この番組の制作現場でエネルギー的な変化が起きている訳ではなく、最近どんどん新しい遺跡の発掘や、既存の遺跡を最新のテクノロジーで解析した結果の発見が相次いでいる訳だから、

「アトランティスにおける信仰が変化していった」、つまり、この番組で「古代に地球にやって来ていた宇宙人たち」が関係していた超古代の遺物としての遺跡群は、神殿などの重要な巨大建造物の名残な訳で、星の配置に合わせているというならば尚更に、神殿や、公共機関のような場所だったに違いない。それが、プレアデス星団を重要視するような信仰に、アトランティスの終盤には変遷していったのだろうと。

変遷、というのは、地球を導いている5次元的な中枢、ロゴスはシリウスである訳なので、当初、レムリアもアトランティスも、人心、人の意識はシリウスを向いていただろうけれど、

アトランティス終盤に起きた、「人類の堕落」と、現在も物理的に残っている、古代遺跡と呼ばれているけど実際には古代よりもっと古い遺跡たち・・が、プレアデスを崇めていることとは、関係があるのだろうと、「ジェネシス」の視点からも、考えていたところだった。

10年以上続いている番組なので、毎回、様々な話題を繰り出している中で、「古代に地球に来ていた宇宙人たち」は「ロボットである可能性がある」という回もあれば、「未来の地球人かもしれない」という視点を紹介する時もあるし・・ 何かの主張で色付けするような雰囲気は感じられないから、スピリチュアルな業界で起きているような、プレアデス方面への見えない思想およびエネルギー的誘導・・が、この番組をも包み込んでしまったか!?という、一瞬だけ感じた危惧は、余計な心配だっただろうと思い直す。

そこに、今夜たまたま流し見していて、火星の失われた文明(?があったとして)の「遺跡」が、アトランティス終盤と同じ様に、プレアデス星団を象っているというならば、何か、歴史の流れがひとつになって見えてくるような気がした。「ジェネシス」で想定している10億年前の最初の「文明」(天空文明)を襲った火星人ではなく、アトランティス終盤に今一度、火星が地球人類の文明に介入し働きかけるようなことがあったのではないか。

ヴェーダ神話や、北欧神話が伝える壮絶なる神々同士の空中戦、インドラやシヴァが繰り出す強烈な大量破壊兵器の威力などは、火星に残っている文明崩壊の痕跡と、関係しているのかもしれない。けれど、アトランティスの終盤の「歴史」が、現存する神話に語り継がれていると考えることは自然だけど、その頃(12000年前)まで、それでは火星に文明が反映していたのか?となると、現在の火星の環境などからその説が成り立つか、まったく有り得ない事なのか、素人には検討もつかない。今後の研究から、発表される情報などにより、分かって来るだろうか。

アトランティスとは関係なく、天空都市が壊滅された10億年前の出来事、と想定してみると・・その時、太陽系の警察的な立場をとっていたシリウスは、侵略をしかけた火星の勢力を罰するためにやって来たと「ジェネシス」では考えて(受け取って)いる。その時、シリウスが火星を攻撃して滅ぼしてしまったのだろうか?

それとも・・・ 次の文明(約4億年前、「アルカテラス」と呼ぶ)を滅ぼした勢力がシリウスと対立していた、と、やはり「ジェネシス」では書いている。火星を本拠地にしていた、シリウスと対立する勢力との間に、その時点で大戦争が起きたのだろうか?

まだ分からない事が多い。神智学の先人たちの研究書を読むと、これまで、クライアントセッションで見て来た風景と結びついて、また新たなジェネシスの歴史が整理されていくのかもしれない。それと関係があるような気もする、最近出て来ている「セラフィム」たちの悲劇、これまで出て来てなかった新たな原型物語。先日記事にして長文を書いていたら消えてしまった件。・・なのでまだ詳細は書かないけれど、ひとつの星、少なくとも巨大な都市文明が崩壊するような場面に、関わったセラフたちの記憶。もう少し資料が集まれば、まとまって来るのであらう。

難しいのは、地球には「神」が大きく言えば2通り、2方向、存在する。「光」と「闇」のように単純ではなく、それぞれが創造や育み、それぞれの「調和」の波長で働く。創造と破壊ではない。2通りの神というライン、それぞれに反応、呼応し、その声を聞いて、エネルギーを受け入れて、メッセージを(無意識も含めて)伝える人々がいる。芸術家や経営者、政治家も含めて。責任ある立場に居て「使命感」で動く人々は、導いている星系が違うと、表現しようとする言葉も導く方向も違ってくる。

それは善・悪で言い切れるものでもなく、ただ、向いているベクトルが違う。ゆえに、どうしても相入れない。そこに、破壊だとか、支配だとか、寄生して奪うようなエネルギーが混ざって来て、進化を担う神なる力(つまり「善」そして「愛」)の推進力を阻む。

スピリチュアルな人々は、みな「進化」「アセンション」するものだと自分たちでは思っている。けれど、多くは進化しない、させないベクトルの導きを受け取り、それに従っている。巧みなので、非常にわかりづらい。プレアデス信仰は、火星から来た?という可能性。そしてその文明が宇宙戦争で滅びた?という歴史。・・この発見(情報)は、なかなか影響力が大きいだろう。

そして今、人類の一部は火星への道を目指しているようだ。肉体や感情という仕組みに固執する文明か、肉体に縛られている現在の人間システムを超えて進化(これがいわゆる「アセンション」)する文明か・・二手に分かれていくことは避けられない、各ソウルの選択に委ねられるということか。本来、「スピリチュアル」は後者を扱う分野であるところ、「感情は大切」「貴方はそのままで完璧」は、前者のメッセージである・・つまり「スピリチュアル」ではない。物質主義・感情主義、ということだ。

ちなみに、後者の考え方は肉体や感情をおろそかにするという意味ではなく、ヨーガやインド的思想で示されるように、肉体ほか人間の重たい部分をうまく統御し、苦しみや病いなどの問題を起こすメカニズムを克服して、魂とフィジカル、物質と非物質をひとつに調和させていくという方法論だ。更にその先は悟りや解脱であり、物質界での輪廻転生という束縛から、ソウルが解き放たれるという地点を、一旦のゴールとしている。つまりそれがアセンションであり、進化の道なのだ。

Love and Grace

「人間はAI」かもしれない、説

ヒストリーチャンネルを朝から何気なくBGMで流していたら、以前も見た「AI」についての回が。そして確か以前もそのことをチラリとこの日記か、Twitter かで呟いた気がするけど、二度目になると以前よりも気付く、感じることもあって、備忘録も兼ねてもう一度。

たびたび、同チャンネルの複数の番組でお見かけする、私も本を持っている日系人物理学者のカク・ミチオ博士のコメントから。

今世紀のうちに、人間の意識をすべてデジタル化する(データに置き換える)技術が可能になるだろう。それによって、別の惑星などに「自分の意識」を転送し、その地で肉体を用意して、その中に意識データーを入れることで、別の星で「自分が生きる」という体験が可能になる。つまり、本体である自己はこの場に居ても、自分の分身が別の星に存在する、という。まさにアバターであり、作られた肉体の中に宿ったその存在は AIだということになる。

また、制作側のコメントとして、古代地球にやってきた「神々」(として神話に語られている存在たち)はロボットであり、既にそのような技術を使って地球で人類を「作った」=創造した・・・ゆえに、既に地球人である私たちは「AIである」。という。今出来つつある技術でも、AIは自己再生により増殖が可能だそうで。人間=有機的な肉体を含めて自己再生できるAIであるという説明には、個人的にはとても納得できる。

最新の科学的知見を絡めて言い直した、つまり表現が違うだけで、私たちの本質や、ここでやるべきこと(輪廻転生からの解脱)のテーマは何も変わらない。

これを突き詰めていくと、神=宇宙の最高存在 とはでは何なのかということにもなるし、神の創造物という意味では、あらゆる世界、存在、生命が、同じ表現にあてはめてしまえば「AIである」となってしまうかも。そうなると、反感を抱く人も居るだろうし、誤解も発生しそうだ。けれどこの番組の良いところは、最新の研究成果と最先端の情報を、科学者や物理学者のコメンテーターを通して伝えつつ、古代の宇宙人という「神々」の奇跡を極めて真面目に探究しているところ。ただ不思議なミステリーを、何となく追いかけて不思議がっている、という姿勢ではない。

古代に地球を訪れて、人類を創造、文明を導いた「神々」がなぜ、ロボット(AI)だったかもしれないか・・というと、現代の地球で宇宙探索をしている立場や視点になって考えると(実際にその立ち位置に居る研究者・科学者がコメント)、生身の人間にとって人生の長い時間を費やして遠い宇宙に行くリスク、危険を考えると、人間なみ、あるいはそれ以上の人工知能を搭載した存在、ないし宇宙船そのものを派遣したほうが、賢明だという考え。これも尤も。実際にそんなプロジェクトは既に始まり、動き出している。

日本や東洋の人々は特に、とても情緒的な部分を重視するので尚更に、「人間は機械とも言える」なんて言い出すと嫌がる人々も多い。私自身は、逆に今、人類が生み出している機械、ロボットなどに、人間が支配されていくような風潮のほうが怖く感じるし、抵抗がある。

遠い昔(時間軸は直線ではないという話は置いておいて)にこの地球を整えて人類を作り出し、どこかに存在する宇宙的意識のデーターを人間というシステムの中に搭載して、この三次元をバーチャル体験するという仕組みを作り出した高次の意図や計画は、それが神秘な神話的ファンタジーであっても良いし、言い換えれば極めて科学的で、ある意味、「神々」である彼らによる「人工物」であると人類を表現することには、まったく違和感は無い。

サナトクマラ、白山姫、という「地球を運営するシャンバラの中枢の意図」(ロゴス)が、左右に配置された巨大なメカ(パイプオルガン)の様に見えることが何度かあったが、そこに投影された大いなる高貴な「意識」あるいは「プログラム(地球に関する計画)」の本体は、シリウスや太陽などのより高次元に「実在」するのだろうと思っている。

そして、今話しているようなことも含めて、私たちが肉体を伴うシステムを卒業する、いわゆるアセンションの段階に至った時には、アリス・ベイリーの言う「イリュージョン」として、一つの小説の冊子がここに置かれている、というくらいに客観視するのだろうと思っている。

19世紀末〜20世紀前半、神智学が生まれた時にはまだ、時代的に存在し得なかったそんな科学的、テクロノジーに根ざした視点や説明を、「変わらない真理」「守べき知恵の流れ」を軸として、時代に合ったものに置き換えて、または仲介の言葉を添えて、さらに次世代に残す。今を生きる私たちの、メタフィジカル探究者としての使命はそこにあるのだろうと思っている。

Love and Grace,

Amari

潜在意識と自由意志

今朝、またまた!書いていた長〜い日記が、うちの天使たちの検閲?に引っ掛かったようで、アップロードの瞬間に消えてしまった。ジェネシス情報だったので、取り扱い方を間違えたようで。出す時期というのがある事はよく分かっていて、いつも注意している筈なんだけど、、先日のInfo記事、からのエネルギーで少し感覚がゆるんでいたかもしれぬ。・・というか、ここまで来ると単に私がドジだという事かもしれない。

そんな訳で、どっちを書こうかなと迷ったもうひとつの話題で、気を取り直して書いておく。

最新の脳科学の研究では、人間の「自由意志」は存在しない、ことが分かりつつあるという。衝撃?でもあるけど、なかなか奥深く、哲学な発見だと思う。どういう事かと言うと、潜在意識にすべてプログラムされていて、自由意志で決めている、動いている、感じたり考えたり選択・行動したりしている、と思っているのは顕在意識の錯覚で、最初から決まった通りにそれらが顕現するのだ、ということらしい。

逆に考えてみると、映画「インセプション」のように(前に記事を書いています:「潜在意識と始まり」)特殊なスキルがある人が、潜在意識に手を加えることで、他人の人生を操ることが出来てしまうということだ。洗脳やコントロールよりも、もっと密やかにさり気なく、当人に「なぜかそうなってしまう」「そんな気がしてくる」という部分まで埋め込んでしまうことが出来るということか?!

私の最近の感覚だと、これをもう機械仕掛けで、AIなどにセットしてしまうような可能性もあるのではないかと思っている。エネルギーワークだって、決して悪用しないでね、という説明とともに、「潜在意識にアクセスする」という手法も紹介されている。この地球上のカルマの法則、因果応報を知っている(正常な畏怖心、正しい怖れを知っている)人は決してそんな事はしないだろうけど・・

前のインセプションの記事の時に書いたように、映画でターゲットになっていた御曹司が「潜在意識をいじられないように幼い頃から訓練を受けている」というセリフがあったけど、ライトワーカーの人々も、その訓練は必要ではないかと本当に思う。

潜在意識に組み込まれているものは何かと考えると、遺伝などの生物学的な情報、生きている社会その他からの情報、そして魂からの転生の記録はオーラ体を降りて来て脳にプログラムしていると思われる。自由意志があるようで無い、となると、私たちは何を目的として生まれて来るのだろうかという、フィロソフィーの世界になっていく。

何かというと、やはりそれでも「意志」を持って、潜在意識にプログラムされている自分の役作りのシナリオを、清めて洗練させていく為、なのだろうと思った。自我(エゴセルフ)にとっての「自由」が、有るようで無い、自由なようで自由ではないというセッティングの中で、ただのロボットではなく、意志をもっていることで、そのプログラミングとの摩擦に泣いたり笑ったりしながら、カルマや時代的な縛り、家系的な縛りではなく、自分自身の高い意識による運営を、潜在意識の中に存在する魂とともに実現させていく・・ために、ここに居るのだろうと思う。

赤いタイプの人、つまり念力が強い出力型の人は、「念力で」というよりもその人の想念波で、周囲の人々の気持ちや行動、だけではなく、潜在意識に影響を与えて状況まで、変えてしまう可能性がある(ぜひポジティブな出力をして欲しい)。そして青いタイプの、入力型、受信のほうが強めの人は、本当に注意しないと、自己評価や気持ち、気分だけでなく行動・選択までも、知らずのうちに潜在意識から他者の出力を受け取って、現実創造をしてしまう可能性もある。どちらも、注意が必要だ。

そして第三、第四、のタイプと居るように思う。周囲をジンワリと自分のイメージのように染めていってしまう、自分の中にある世界観を周囲を通じて現実化させてしまう魔法使いタイプの人(実際過去生で身につけた魔術的な手法を無意識に使う、作動してしまうのだろう)は、オーラの大きな広がりの中に他者を巻き込まないよう注意していないと、自分の考える世界のシナリオで周囲の現実が作られてしまう。それはその人の顕在意識とは関係なく働く(もちろん染められない、巻き込まれないタイプの人々も沢山いる)。

いずれにせよ、人間はそのような相互作用を通じて世界を共同創造している。ゆえに一人一人の中に、ポジティブな意識やエネルギーや感情・思考だけがあれば、世界は良い状態になる。

アリス・ベイリー著書における大師ジュワルカルの言葉で、意志ではなく意図を重視せよ、という教えがある。それと関係がありそうだ。最新研究によると、本来、意志は機能したくても出来ないということだから・・・ 意図というのは、もっと高度な、ソウルと連携した人生の創造性と、関係しているのだろう。ソウルとともに描いていく、人生の方向性、アウトラインのようなものなのかな。意図を大切に。

Love and Grace

Amari

偉業と偏見の狭間で

2017年3月、当時まだ正式な名前が決まったばかりの「アルガンザ・ジェネシスヒーリング™️」の、最初の世代の伝授最終段階のセミナーを前にして、バイブルとなる「the Genesis」のまとめに入ろうとした時、直感的に導かれて、結果、ジェネシス神話、特に、太陽系における魂の進化スキームについての教書となったのが、イギリス出身のチャールズ・リードビーターの概念。神智学協会2代目会長アニー・ベサントの右腕、とも呼ばれた方。

私はこの方の肖像をネットの画像検索で見た時(ぜひ見てみて)「一目惚れ」してしまい、その純粋さ、優しさを窺わせる深い瞳の光に、写真と見合うだけで包まれるようで、以後、こっそり印刷してブロマイドのようにして大切にしている。ジェネシスの伝授の際には、皆さんにもお見せしているし、アルガンザの内輪では「校長先生」と呼ばれている・・。この「一目惚れ」とはもちろん、師匠として、ということ。。

何故だか日本語に訳された書籍が、実際の業績の割には少なく、その背景なのか、様々な「問題点」を指摘されたり批判されたりしてきた当時の空気感が、何となく今でも、後世の私たちの時代でも、出版関係者等を迷わせるのかもしれない、と思ったりする。チャクラの概念を、インドのヨーガに学びながら西洋に分かりやすく説明し、オーラの層やチャクラが7つあり、こんな色をしているとか、それぞれの性質とか・・を、最初に整理し、提示し、紹介したのがこの方なのだ。

エーテル体、というのはインド思想にも示されていないものを、この方が、肉体の一部でありながら物質ではない層として、概念化した。

アリス・ベイリーの素晴らしい仕事も、土台としてはこの、リードビーターの偉業の上に積み重ねられたものだ。

数少ない邦訳書の中で、有名な『チャクラ』の巻末、訳者の先生方による「解説」に、非常に詳しい経歴や神智学のあゆみ、業績や人生について記されている。以前読んだ時に、協会内でも批判や嫌疑が浮上して、それも長期的に・・ 人望がある一方で、どうも叩かれてしまう方であったよう。

60代で、支持者からも「はっきりさせて欲しい」という声が上がり、法廷で争われた結果、無罪となり、疑いは晴れたそうだけど、最近読んだ現代のイギリス人の女性が書いたヨーガ系の情報本で、「リードビーターは小児性愛者」と書かれていて(!)、その他の情報ソースでも、彼が見出したクリシュナムルティや、その他の才能ある少年たちに対して、良からぬ事をしたという記述を以前、見た事があるのを思い出した。

以前、「チャクラ」の解説で裁判の話を読んだ時には、以下のような文章が添えられていた。

「この間(裁判沙汰の当時)彼のとった態度は、リードビーターの人柄をよく示している。彼は非難に対して一言も弁明せず、攻撃する人たちを怨むような態度も全くなかった。彼をよく知る人たちは、彼のその態度は忍耐の結果ではなくて、率直で純粋な性格によるものだと言っている。殉教者ぶる気持ちは全くなく、協会の大きな目的だけを考えていた」(「神智学協会小史」から)

私はこの一文を素直に読んで、マイケル・ジャクソンと同じ様に、何らかの理由で「小児性愛者」に仕立て上げられてしまったのだろうと、思ってきた。

けれど、書籍として販売されている情報源や、ネットで出てくる目立つ記述の中で、決め付けられているかのように書かれているのを見かけると、改めてショックを受け、フレームの中に入っている「校長先生」に、このところ心で語り掛けていた。。

情報というのは本当に曲者で、聞いた人には真偽を確かめる前に偏見を植え付けてしまい、そして何故かそれを完全にぬぐい去る事は難しい。イメージを残してしまうのだ。

まして、この、神秘の追求という世界に潜むよからぬエネルギーのこと、ネットワークについて、また、不意に誰か隙のある人の中にそれらが「舞い降りて」来て、仲間だと思っていたような身近な範囲の人が、攻撃要員に変わってしまう事が起こりうる、という事が、端くれながら私も体験や見聞から分かっている。スピだけではなく例えば韓流時代劇でもよくあるでしょ・・・相手を落としたい時、仕事の邪魔をしたい時、非常によくある手口でもある。

そして、あまり深く考えない大衆的な層には、真偽はどうであれ、偏見を植え付けてしまう。

私の主観として、「師匠」を信じることにしたい。生涯独身だったようだから、同性愛者であった可能性は(純粋な瞳の輝きからしても)察せられる。そんな彼が、インドで少年たちを次々と見出して、イギリスにおいて高等教育を受けさせるというプロジェクトを行っていて、指導していた神智学協会の青年たちによからぬ事を教えた(これはクンダリーニの暴走にまつわる性エネルギーの問題に関する情報を教えた、という事だと思ってもいる)などの、状況が起きていたために、

何らかの理由で彼を陥れたい、という人物や集団、あるいは「チャクラ」「オーラ」などの人類が賢くなる知恵を西洋社会に広めるという彼の偉業を邪魔するために働いた見えないエネルギーが、闇が光を潰そうとする時に行う方法論で、地上に居る人間たちを動かし、彼の仕事を封じようとしたのかもしれない。

そして、100年近く経過した今でも「小児性愛者」なんて書かれてしまうような、流れが生まれてしまったのかも。ブラバツキーやアニー・ベサント、後のアリス・ベイリーには起こらなかった?そのようなスキャンダル戦法?が、彼に起きたのは、同性愛者?、あるいはそう思われる空気や状況があった事が、隙になってしまったのかもしれない。

当時(欧米の一部の国では)同性愛者というだけで「罪人」として投獄されたという状況は、悲劇の天才アラン・チューリングに関してもよく語られる。(後述)

いや、真相は分からない。同性愛はその人の自由であるし、ある種、魂のカルマであることを神智学も伝えているから、問題視すべきではもちろん無いけれど、「小児・・」はマズい。どうしても、晩年の肖像からしてそれは結びつかない。幼い弟を、暴徒に襲われるという悲劇で亡くしていて、自身もオクスフォード進学の予定を、父親の経済的破綻ゆえに断念して、聖職者の道へ。

そのような経緯があったために、縁が出来たインドで、才能があっても貧しい少年たちに、教育を受けさせたいと願って、実行したのではないかと、思いたい。インド滞在中の使用人の少年を、進学させるために自身もわざわざイギリスに帰国して、出版社で勤務してお金を稼ぐ様な事をしている。幼い子に強要するような自分勝手な人が、そのような事をわざわざするだろうか??

クリシュナムルティとのすれ違いなどが、リードビーターの印象を悪くしているのは恐らくあるだろう。

読書から、こんなことを考えていた最近。それがまたいつものようにシンクロニシティで、たまたまNHKオンデマンドを覗いて、何となく見始めた『ヒューマニエンス–40億年のたくらみ』の「数字」の回の後半、リードビーターが亡くなる1930年代に、イギリスのアラン・チューリングという数学者が、今のコンピューターの元になっている二進法によるデジタル概念を発明し、後にナチスの暗号を解読するという活躍をしながらも、

同性愛者であったために「有罪」となり、ホルモン治療などを強要され、41歳で自死したというエピソードを知った。マイケル・ジャクソンも同じくだけど、この世に生まれ落ちてくれ、偉業を成し遂げてくれている天才たちを、なぜそんな形で早死にさせてしまうのだろうか・・・と。これこそが人間社会に発生する闇の力であるし、多くの人間がその恩恵を受けていながらも、そんな天才たちを守り救うことが出来ずに悲劇に追いやってしまう。

死後、認められる才能と偉業。・・そして無罪であったこと、純粋で優しい魂にひどい扱いをした人間社会の実態に、人々は後で気づく。

チューリングは、今現在のイギリスの新50ポンド(2021年〜)紙幣になっているようで。

師匠、リードビーターの「汚名」は晴れるだろうか。それとも・・? 当時裁判所は「詳しく調査」した結果、無罪判決を下したらしい。けれど、そうとは思えない「伝承」が今でも平然と見受けられる。チャクラについての見解も、インドの専門家によって誤りがある、と判定されている部分はあるそうで、それは仕方ないと思うけど、、、どこかで読んだ情報では「チャネリング情報が間違っている」と批判されていた。

・・・けれど、著名な作家でも研究者でも、その当時の見解で記録するだろうし誤りが見つかることだってあるだろう。増してチャネリングや透視が「間違っている」との批判を受けるという神秘家も、珍しいのではないかと思う。冷静に考えるとやはり、とても、何か不当な扱いを受けてしまっている「師匠」の事情が見えてくるばかり。何かあるのだろう、あったのだろう、きっと。(もちろん欠点や落ち度も、人間だからあったのだろうけれど・・)

そして何故に私はこんなにも、心を向けているのだろう。と、考えながら今日も「校長」の肖像写真を見つめる。

チューリングの映画「イミテーションゲーム」を見てみようかな。

Love and Grace

参考文献:

『The Chakras チャクラ』C. リードビーター(本山博 湯浅泰雄/平河出版社)

「ミカエル時代」を生きるとは

エルフ界の癒しが起こりやすいと毎年繰り返し言っているこの時期。エルフ=エルと呼ばれるものたち(男性集合意識:エロス/女性集合意識:エロヒム)とは、言い換えれば、文明の主「マヌ」たちとほぼ同じ立場で、人類と関わって来ている。ロゴスとそのもとで働く「神なる世界」と、魂たちつまり今は人間として生きている生命圏の間に在って、進化の全体的プログラムのために「神々」とともに働く者たち、であるゆえに。

エルフ界=自然界 と限定せずに、マヌの視点での考え事も、この時期増えてくる。そんな折、たまたま手にとったシュタイナー本(シュタイナーは著書というより講演録が多い)に、訳者(シュタイナー研究第一人者でもある)高橋巌先生が、2020年の12月に京都で行った講演録が添えられていて、それが興味深く、メモしておきたいと思う。

20世紀は決定的な歴史的変換点だった。シュタイナーの観点でそれは「時代霊」という、その時代を特徴づける聖なる象徴的存在が変わるということ。以後、私たちは「ミカエルの時代」に生きている。ミカエル文化とも呼ぶべき、その時代の人間たちが目指す、心がける意識の在り方とは、日常の中の物質的、現実的現象の中に常に霊の世界、「神」の法則のようなものを感じる、という境地や態度とのこと。

この時代霊というものは、「対象化して考えてもどこにも見当たらず」、「関わって、結びついて、それを自分の問題として受け入れた時に初めて、向こうから与えられる何か」だとのこと。

例として挙げられていた三島由紀夫。ほか、思想家と呼ばれる人たちや、識者の著書などにもよくあるように、その時代の特性、風潮、向かおうとしている先を、憂いたり批判したり、時に三島のように嘆いたりしながら『関わる』そして『結びつき』、『自分の問題として受け入れる』ことが叶った時、その「時代」という霊的なエネルギーが、自分が何をすべきか、もしかすると自分が何者か、も含めて、答えをくれるというのだ。

このお話に深く納得出来た。ここを卒業できないと、同じ時代霊の時代、つまり「ミカエル時代」の課題を消化することが出来ず、何度も生まれ変わるのかもしれない。それでも卒業できなかった魂は、またいつか巡ってくるミカエル時代に宿題を持ち越すのかもしれない。。

思想家でも無いけれど、この時代と関わり、結びつき、自分の問題として・・ということを、今世ではなぜか若い頃からやって来ているかもしれない。同時に、20歳頃からは三島由紀夫に傾倒した時期もあり、ちょっと危ない程だった。高橋先生は三島と少し交流があったそうで、話の中では、「時代と関わり、結びつき、自分の問題として」受け入れる事が出来なかった為に、あのような方法(最期の選択)を取らざるをえなかったという例として語られている。

確かに確かに。私は若い頃にはそういう人々に妙に惹かれたのだ。違う時代であっても、たとえば殉教者や、近代近世の夭折する芸術家など。

時代霊の課題を、自分のこととして「関わり」「結びつき」、挫折した人々に惹かれた(同情した)、と言い換えることも出来ると今回思った。恐らくそんな過去生が多かったのだろう。

多くの魂たちが、大衆的な精神状態から目覚めた後に、これらのステップを踏むところまでは比較的、簡単なのかもしれない。知性と勇気が少しあれば。

けれどその先、時代の様相を「自分の問題として受け入れる」という段階が、大きな壁なのか。課題はそれだけではなく、なおかつ、時代のニーズによって答えをもらった「自分という魂」の活かし方を、実際に生きるべしという。

ミカエルというと「正義」の象徴のようなイメージもある。けれどシュタイナーは、ミカエルからルシファーが別れたと考えているし、ミカエル文化の精神というのも、決して二元論とは違い、「すべての人が日常の中で」目覚め、霊的な意識を磨いていく時代であると特徴付けられているよう。そして、地上にあるものに全体性を見出していく・・と、スピリチュアルでもよく言われているような時代、つまりは「ニューエイジ」の特徴を先にシュタイナーも語っている。

そこで思い出したのが、確か「星巫女プロ専科」のテキストに書いたように思うけど(違っていたらゴメンナサイ、、)物事の中に「奥行き」を感じられるかどうか、それはつまり、多次元性と言い換えることも出来るが、私たちという存在の仕組みが多次元的であり、この小さな自我をいかに超えていくか、この世界や、自分の思考活動(感情はもちろんのこと)という幻想を超えていくか、が大事であって、

三次元の世界の広がりの中で、何が、誰が、正しいとか、正義だとか、と言っているうちは決してここから抜けられないということ。

もしかしから誤解されているかもしれないと、よく思っているのが、アルガンザの『ジェネシス』世界観。そしてヒーリング体系もそうだけど、私自身はなぜかベースに仏教またはその基盤であるインド思想の宇宙観に近いものが元々あって、ヒーリングを始めた時から、「ヒーリングやエネルギーの世界の法則は素晴らしく人間を救い、また変容させてくれる。」その事を追求していく・・・一方で、これは今の私たちに有効なだけであって、「地球の物質的人間」という体験が終われば、必要なくなると思っている。

宇宙的な絶対真理という意味ではなく、私たちのソウルシステムの中に埋め込まれた情報(カルマ・ネガティブなエネルギーブロック・制限・抑圧など)を解いて昇華していくために、必要な「物語」であるという意味で、ジェネシスも最近はよく「神話」と表現している。

高橋先生も講演の中で、シュタイナーのいう「ミカエル」などの言葉も、ある種の物語、あるいは象徴であると自分は考えると仰っているところ、とても頷けた。

そして、このような話というか感性、感覚が、なかなか伝えるのが難しいということも、長年サロン、スクールをしてきてよく分かっている。が、肉体や自我というものと、スピリチュアルの世界に橋をかけるのがこの「ミカエル時代」の主題であるというのだから、まさにその難しさに取り組むということは、必要な学びをしているのだと、しみじみ思った。

時代の課題を自分のこととして、悪戦苦闘する・・・(自分の生き場所で自分なりに、で良いのだと思います)それによって、この時代に生まれて自分が何をするべきか、つまりは魂の使命のようなものが、自ずとやってくる。とのこと。

まずは、世界で起きていること、自分が生きている時代に対して、意識をオープンにするところから。ある意味で、パンデミックによって強制的にそのフタを開けられているのが、今、なのだろうと思う。

Love and Grace

Amari

Message

というタイトル(原題は「Arrival」)の映画が好き。以前書いたことが。

『Arrival』『Big Eyes』から考える「孤独」と「共依存」

本当は、前投稿のつづきで、以前FaceBookで触れた事のある韓国時代劇の『守百香』(スベクヒャン)に見る、ジェネシス神話のアルビレオ恒星をめぐる原型ストーリー分析、を、書こうと考えて既に下書きしてある。けれど、皆さんもお聴き及びと思います、30日の韓国での事故を受けて、ドラマの話と関係ないと言えばそうなのですが、やはり、自嘲しようかと思い。自分もそのような気分にはなれなくて。

30日前後、世界では「大きな事故」が相次いだよう。今朝の日本のダイジェストニュースでは、韓国の事故と、ソマリアの爆弾テロ、インドの吊り橋崩落、と、珍しく海外のニュースが続いて。どれも100人以上の方が亡くなっている大惨事。ソマリアは事故では無いものの、ほぼ同時に起きているという所で、感じる、考えるものがあった。

日本で天災が起きた時も、いつもこういう事を書くことに気を遣いつつ・・ある意味で、まあでもそういう仕事、立場なのではと思う所もあって、いつも書いている。犠牲になった方々に落ち度があるという意味では、決して無い。

カナリア(最初に変事を察知し騒ぐという意味での)族の杞憂であって欲しい、と思いつつも、パンデミック以来、やはり人間社会このままで良いのだろうかという思いが強い。いや、多くの人に意識変化が起きて、働き方や社会のあり方も良いほうへ動いているという事は確かに、あると思う。けれど、逆の力も強く働いて、変化を自然な形で自分に取り入れる用意が出来ている、既に歩き出している人々が、それほど多数ではないのかな、と。

歴史上常に、事前に察知してあれこれと声を上げる知識人の方々、学者の方々などがいらっしゃる。パンデミックが始まるよりも前に、好きで見ているNHKのドキュメンタリーなどで、特に経済学などの一流の方々が、人間社会の崩壊の危険性を既に専門家ならではの分析力で語っていたし、科学者の方々も、地球上の生命が絶える大量絶滅の可能性、強い危機感を訴えていたりする(やはりそういう立場を表明するのは海外の学者が多い気がする)。

同日に世界で起きた3つの事象の重なりに「これでいいのだろうか」という、毎日感じている想いがまた、高まった。

ミャンマーの内戦はどうなっている? ウクライナ戦線はいつ終わるのだろう? シリアや、アフガニスタンは? 気候変動を毎日、普通のニュースでレポートし、一般の人々の意識に情報を注いで欲しい。全ては繋がっていて、自分たちは安全だから大丈夫、という事など無い。

邦題「メッセージ」と名付けられた映画『Arrival(原題)』は、宇宙人たちが地球に、このままだと危ないよという警鐘を鳴らしにやって来るという内容だった。

人々、群衆、転倒、崩落、爆弾テロ・・・この重なって報じられた事象に、私はとても「メッセージ」を感じてしまった。

私たちはパンデミックで「目を覚まし」たらば、これまでと同じように「楽しむ」「食べる」「遊ぶ」=欲を満たす のではなく、楽しむ、遊ぶ、食べる、にしても、これをキッカケに考えを深めて、変化を受け入れる必要が、ある。あった、のではないかと思っている。禁欲すべしという意味ではなく、生活や意識の質を変えていく、結果として、ライフスタイルも変わっていく。そんな人間社会のシフトが、必要だと言われているのだろうと。

・・と、相変わらずいつも同じようなことばかり。多分この15年以上ずっと、同じようなことを言い続けていると思ふ。(笑)

Man in the Mirror ということで、自分の生活や思考の中で、サットヴァを高めていこう。

P.S.

そうそう、先日の記事をUPして読み直している時に気づいたのですが、前々記事「ネガティブな執着」が、いつの間にか消えていました。メインブログに移動したその後の記事の削除作業をしたのは確かですが、その時に一緒に消してしまったのか? チェックボックスにチェックを入れなければ消えることなんて無い筈なのに、消えてしまいました。怪奇現象ですが・・・検閲(5次元からの・笑)が入ったのかもしれません。

いつも時間を掛けて書いた記事が、UP前に消える事で「ああ、この内容はダメなのね」と悟るものですが、今回はUPして暫く、読んでいただきつつも、「そろそろ下げよう」という事だったのかもしれません。

アリストテレスより「嫉妬とは、他者に起きる善なることを悲しむ行為である」というお話、他者に善が起きるのが「悲しい」だなんて、人間の心とはなかなか病み(闇)が深いのだな、というのが概要でした。

Love and Grace

ヤマトの彦姫

今日書く内容については、前回の日記後から暫く、次はこの話題・・と思いつつ何故かいまいち気が向かずに。そして今日はいよいよどうしても書かなくては、という空気が来ている(この関連のエネルギーが流れて来ている)ので、区切るためにも向き合ってみる。

古代日本人から現代まで続く原型エネルギーの継承について、思うことを書いておこう。

「彦姫」とは、何が言いたいのかというと、人は国にかかわらず永遠の少年、少女であることは否めないし、純粋さと素直さという意味での少年・少女性はむしろ、私はとても良いこと、好ましいことだと思っているし、世の中に擦れたりこなれたりして「おじさん・おばさん」化するよりは、そういう方々が個人的にも好き。それとは別に、「依存心」という意味で、年を重ねても「男子」「女子」のままである、という性質が日本人にはありがちなのではないかと、常々思っている。

(他国の人々もそれぞれ課題は色々あるだろうと思う。が、日本の人々の癒しに関わる仕事をしているので、他国の人との比較が目的ではないことをご理解頂きたく)

最近は、SNS特にツイッターで女性たちの、家事と育児と外での仕事の両立における苦労を誰かが呟き、多くの人が賛同して盛り上がっているツイートを見かけたりもする。・・けれど、自分が女性として女性の中で生きてきて(友人関係)、ヒーラー仕事で出会うクライアントさんの多くも女性であるし、結果、思うのは、日本の女性たちはやはり「家父長制のもとで撫子」あるいは親指姫として大切に守られ育てられて来ているという事。結果として、ずっと「女子」であるし、結婚しても旦那さんが「一家のあるじ」つまり、父親の役目を担う事をよしとしている。

つまりは、日本は男尊女卑だというけれど、女性たちが、いつまでも「娘」=「姫」として守られているという風土がまだある。持ちつ持たれつの、「男子と女子」「姫と彦」の国、ある意味、文化・・と言えるだろう。

いざ、という時にはやはり、旦那様の後ろに隠れるだろうし、それが良しとされている空気もまだある。その分、母親としての仕事、子育てや家事のフィールドで自分が責任を引き受ける。結果として、夫の面倒も母親のように見ることとなり、その点で、夫はいつまでも「息子」であり、妻がある意味で「母代わり」であるという構図になる。もちろん例外的な人々は沢山いるし、昔よりは構図は変わって来ているのは間違いないけれど、夫であり妻である、反面、双方、相手が担当している分野について自分はタッチしない、とか、よく分からない、苦手なままであったりする。

以前、金融関係の方に聞いた話。日本の妻たちはご主人が先に亡くなった時、お金のことは特にどうしていいか分からず慌てる事が多いという。私のママ友たちは、プリンターのインクが無いとか、電球が切れたというだけで、それをご主人に頼むとかいう会話を前にしていたっけ。。これが更に、未婚の女性だとずっと「娘」のまま実家に居て、家のことは年老いていても両親が担っている、なんていうケースもある。男性側も同じくで、それは男の仕事じゃない、みたいな意識はきっとありそうだ。

シングルマザーたちも、うちは娘だから二人だけでの生活が始まる時に「あなたが手伝わないとママは自営業だからうちは破綻する」という現実を(笑)よく言ってきかせ、もちろん簡単な道のりでは無かったけれど、本人もちゃんと分かっていて葛藤しながらも、高校生くらいになると一通りなんでも出来るような状態になっていた(もちろん今でも私のほうが家の事をしているけど・まだ学生だから)。これが、お子さんが息子さんだと、シングル母たちは自分で家事を全てしてしまっているケースが多いようだ。

私は「ハピの巫女姫」の執筆に至ったキッカケがやはり、フェミニズム、それもユング派心理学のフェミニズム系の視点をもった研究者の著作に出会った事がキッカケ。とはいえ、それは29歳の時で、その10年前、19歳の短大生の頃にオノヨーコさんで、今思えば同じ「女神的」「太母神」的なエネルギーによる開眼のような事が起きていた。ヨーコさんのあり方を見ていれば分かるが、女性が女神である=大人である という事は、人として(母としてではなく)自立した責任意識を搭載しているという事だ。

社会が敷いたレールの上を歩き、そこからはみ出さず、「人がしていることをしなさい」と教育されている日本の人々。ゆえに言葉遣いや表現なども複製して使ってしまう・・安心感があるからだろう。けれど本当は、人のマネをするのはまだ「未熟で経験の浅い」見習い・若者だからこそ、であり、大人としてそれをやっているのは寧ろ恥ずかしい事、であるはず。けれど日本社会ではそれがゆるりと受容・黙認される空気がある。

この、男女ともに互いに、家族的原型エネルギーの縛りから抜けられない、永遠に彦(息子)であり姫(娘)である、という風土的な課題を、ジェネシス層、宇宙のより大きな原型エネルギーのモデルタイプが地上に降りたもの、として、考える試みをしている。

〜〜つづく〜〜 (笑)

Love and Grace

始まりと原郷、そして未来。

イギリスの新首相が立候補1名で即決された。報道では、日本でも「イギリス初のアジア系首相」とか言われている・・海外メディアの表現を邦訳したのだろうけど、実際に「アジア系」という印象は少なく、スラリとした長身、長い手足、話すそぶりや顔立ちも・・イギリス人だなあと見る。白人の血が入っていると思いきや、ご両親ともインド系とのことで・・ アーリア人種、印欧語族とはこういうことか、と朝から考えゴトが壮大に広がる。

共通の言語を話すひとつの集団が、東〜中央ヨーロッパの辺りに居て、それらがロシアなどの東欧、西ヨーロッパ、インド・ペルシャ(イラン)さらには南ヨーロッパのギリシャ、イタリアまで、分布したという。共通のひとつの文明を呈していたという話を、シュタイナーなど神秘学方面の人々は「統一時代」と言う。これに基づくと、少なくとも南インド以外のインド人は「アーリア系」インド人であり、インドに住む事で肌の色や多少顔立ちが変化した白人種、という事になる。
けれど考古学や言語学においては更に複雑で諸説あるよう。

この「印欧」アーリア系に含まれる人々は、手足が長くてすらりとして肌が白く彫が深い顔立ち、という事になっている。神智学も、その手の分野が流行した?19世紀に生まれていて、人種や文明に関する神秘的な視点が文献に伝えられる。けれども・・当時の時代の風潮や、空気感の中で編まれたものだから、幾らか修正が必要なのだろうと個人的には思っている。それにしても、石器時代から、青銅器、鉄器時代への移行期の中で、人間の質や文化がどう変遷していったか、これは若い頃からの個人的な強い関心テーマなのだ。

「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」もその興味関心の土台の上で書いていて、舞台設定は今から11000年前(ハピ)〜ガイアナのシリーズ(?!)の最後は、9000年前ころ(紀元前7000年)を想定している。「統一時代」と言われるものは、その数千年後になる訳だけど、それらの、「物証があって今の私たちの歴史観において「先史時代」と呼んでいるもの」の「更に前」の、「失われた時代」を描くことが、自分のコンセプトでもある。
つまり、神話の様な「統一時代」を更にさかのぼり、アトランティス終焉後の「リセット」から、現在存在が知られている原郷的な文明に至るまでの空白の時代。

『なぜ今こうなっているのか』・・が、いつも知りたくて仕方ない。

空白・・と言っても、現時点で世界最古と言われているメソポタミアはだいたい7000年前、か。日本の縄文だって立派な文明、という説もあるけれど、そこは「文明」の定義とは何かということなってくる。

話が逸れてしまったけど、新首相のスナク氏については分からない、御先祖に白人系の方が居るからなのか、アーリア系インド人の方がイギリスの知的・上流層で磨かれているとあの様なイギリス紳士風になるのか、、ともあれ、「アーリア系」にはどうもコンプレックスを(そうでない)民族は無意識に持っているだろうし、「アーリア系」に該当する方々もおそらくは無意識レベルで、差別ではなくとも区別する感覚はあるのだろうと思う。

日本人は、自覚している以上に実は、差別主義者だと外国の方々には思われている。差別するつもりはなく、どちらかというと「島国根性」なのだと思うけど・・外からやって来たものは、崇めるか、近づかない様にするかのどちらかだ。そこに悪気は無かったりする訳だけど、そのどちらもが、された側は「人間扱いされていない」と受け止めるよう。

地理的に、古代中国の戦国時代や、朝鮮で内乱が起きた時などに常に、新しい色々な物を携えた人々が流れついて、牧歌的に暮らしていたホビットのような縄文の人々はその都度、びっくりしながら、受け入れて、融合してきた筈だ。そうしていつしか出来上がった「日本」という文化。鎖国をしてアイデンティティを深めて行った先の、近代化、敗戦、復興。そして平和ぼけという幸せな境遇を経て、
私の密かな危惧は、数十年後、いや数百年後、日本列島の人々は果たして日本語を話しているだろうかという。出来れば残したいと、誰もが思うはず。

興味深い、と言ったら今の時世的に語弊があるかもしれないが、ウクライナ・ロシア国境付近というのは、上記の「統一時代」(つまりヨーローッパと中東・インドを含めた全域)の文明の原郷(ルーツ)、と考えられている場所でもあるよう(これについても違う学説もある)。その地から拡散した現文明期の何らかのカルマの昇華が今、始まったのだと考えられなくもない。
そのルーツに属さない東アジア人やアフリカの立場、役目、演じるべきキャストは何だろうか? 世界地図がこれから変わっていくのだろうか。平和ボケや島国根性では、本当に私たち日本人は固有の文化や言語を、失ってしまうかもしれない。

どのように始まって、どうして今こうなっているのか・・を、実学ではなくメタフィジカル、秘教的な立ち位置から考え、パラレルな「歴史」を描いていく。。自分に出来ることはそれで精一杯かもしれず。

Arganza のHP内の日記「A Diary」に徒然の雑記として書いていたものを、長くなったのでこちらに掲載。そのため、内容まとまらず中途半端ですが、お許し下さい。

Love and Grace

– A Diary – : Office Arganza HP

 

エルフたちのララバイ 〜次元と粒子と異世界〜

膝掛けが欲しくなるような今日。11月並みの気温。

infoで「エルフの事を書きますね」と予告した後、ちょうど話題にしていた「力の指輪」のたまっていた分を見終わり、金曜配信の週イチのペースに追いついて、やや意識が離れてしまったような感覚の今日。一昨日、書いたけど全文消えてしまった、という日記の記事は、また別の話題で。普段、韓流を中心に1日1話ペースで何かしら見ているから、通常のテレビ放送のような、続きの新作を待つのに7日掛かるというのは、中々、私の時間の粒の密度からすると、かなり遠ざかるような感じもしてしまう。

そう、消えてしまった記事にはそういうことを書いていた・・「Time is gold」というタイトルで。先日の「エスカレーターで止まっていられない」という話にも通じるけど、短気でもなく、人に待たされるとイライラするという訳でもなく、どちらかというとボンヤリ、マイペースな私が、時間の粒子の中に密度を詰めこむ、という感覚になれたのは「シングルマザーで自営業」の十数年の賜物だ。要するに人はゆとりが無ければ何とか出来るようモードチェンジする他ない。となると、火事場の馬鹿力と同じように、物質界を超えた法則で何とかするという、修行?に晒される。

そこでの基準は「意味」であり、その意味というのも、こういう仕事をしながらなので、物質界の基準ではなく、エネルギー次元での「中身」がものを言う。・・でも、まあ、この宇宙人的感覚は子供の頃から実はあり、興味向くものやペースや言動も、やはりちょっと普通の子供ではなかった。けれどこの三次元で生きるために、自分の中にある「その感覚」を呼び覚ましながらヒトとして生きていくために、シングルマザーで自営業、それも、ひとり親への保証は無いに等しく、自営業者に厳しいばかりのこの国で実践することに(魂は)したのだろう。・・本来持っていたものを出現させるために、必要な修行期間だったと思う。

人によって、時間の粒子の密度は違う。そこにどれほどのエネルギーが入っているか、振動も違う。これが、Alice Baily 著にある「インテンション」ではないかと思っている。緊張感とか、日本語では訳されてしまうけど、「密度濃く詰まっていて、かつ冷静で無駄がない」というような。「集中力」のほうが近いかも・・「インテンシブコース」のIntensive は同じ単語の形容詞だ。集中的な、という意味で使っている。

平等に与えられた時間の中で、この物質界の法則の中にありながら、時間の意味を変えるには、自分の意図を集中して注ぎ、周波数の高い粒にすることで、「質」を変えていく。それが5次元創造や、スピリチュアルな成長に繋がっていく。

(あっそうだ。物理学賞の受賞者発表もあった所だけど、量子は粒ではなく、正確には弦、でしたね。)

一昨日はそんな内容を、もっと三次元的な、昔こんな事があったり、あんなことも、と、長々と綴っていたら消えてしまった。それで良かったのでしょう・・あんなこと、こんなこと・・の、過去のエネルギーたちも昇天したのを見届けて。

「静かで落ち着いた集中力」と純粋性が結びついて、サットヴァ(Sattva)として機能するのではないかな。自分もまだまだ、半世紀も生きて来たのにボンヤリしていて、物質的に豊かで平和な時代のゆるい空気の中で、本来ヒトが育てるべき力の一つが育まれにくい社会の、一員として生きて来ていることを実感する。成長進化とは、時間がかかるものだな、と。

(P.S. エスカレーターは安全のため歩かずに立ち止まっておきましょう。)

では、エルフについて、『Lord of the Rings』の新篇、「力の指輪」視聴雑記を書いてみよう。

原作を読んでいない上に、今回、制作が始まった経緯や、脚本の背景などについても調べていないので、本当にお茶の間的な話になるかも。プラス、アルガンザの「ジェネシス」神話を絡めての考察。

本編の「ロードオブザリング」でも然りで、やはり見ていると何でも、ジェネシスの原型論にあてはめてしまう。エルフたちは神の使い、半ば別次元の存在が地上に降っているようなので、やはり「白」だろうけど、ドワーフは「赤」で、ホビットは「黄」、人間は・・何だろう? 明らかな黒サイドも非常に分かりやすい。人間は、これら全ての要素を持っているということだろう。白にも黒にもなびくし、赤い時も黄色い時もある。

原作を読んでいない私には、かつての映画版の本編で、最後に闘い疲れたフロドが、平和なホビット庄に帰らずにエルフ達の「西の故郷への帰還」に同行するという流れに、胸打たれるものがあった。最近ウクライナのニュースで、戦地の女性が「もう元の私には二度と戻れない」と語っているのを見た。多くの破壊を見てしまうと、人はそうなる。増して平和を愛する純粋なホビットであるフロドの変化を思えば。

・・彼の最後の静かな様子がとても印象的だった。ホビット村の周波数の中にあっては、体験した記憶をすべて忘れて封じてしまうか、ただただ悲しく壊れていってしまうのではないかと思う。

同じく映画本編の最後のシーンで、印象に残っていた事がもうひとつ。「西のエルフの故郷」とは、どのような世界なのだろうか・・・と。

今回「力の指輪」の第一話で、長年のその謎が解けて興奮していた。そのシーン、何度も繰り返し見てしまう。。笑

ガラドリエルが仲間とともに、王の命で「西の故郷への帰還」を許され、船に乗っている。船なんだな〜、フロドの時と一緒だ。海から繋がっているのね と見ていると、

あるゾーンまで来ると、独特の静寂に包まれて、前方に・・出た!ワームホールが開く!

海の上のワームホールに、船や飛行機が吸いこまれて行方不明になる事件が多発、という話題を「古代の宇宙人」でもやっていたっけ。その時に見ていたCG映像と同じような様子で、興奮。高次元への扉が開く時は、やはり目を開けていられないような光がそこから溢れ出す。そして精妙な空気が寄せて来て、明らかな別世界を見る。用事が済むと扉は閉まる。何らかの合図・必要性で開くのだろうけど、ドラマではエルフたちが歌を口ずさんでいた。

個人的にはこの、エルフ族の故郷=ワームホールを超えていく高次元の地球 という描かれ方をしていて、とても喜んだ。納得もしたし、アルガンザの「ジェネシス」の視点からいっても、無理なく噛み合って嬉しくなった。

そこで、放送している Am●z●n Prime の紹介ページをようやくマジメに読むと、「西の故郷」(ヴァリノール)とは「ヴァラールの国」という意味で、「ヴァラール」は神のような存在たち。ここから先はウイキを覗くと、単数形が「ヴァル」で、その複数形だそう。つまり「神々」である・・後々(ウイキの原作についての記述を読むと)、「力の指輪」にも登場しているエアレンディル(註*)の訴えを受けてヴァラールから援軍が中つ国に派遣されるとあり、原作では作者の時代を考えても恐らく、神々の世界も地上世界もフラットにつながっているような世界観かもしれない。だとしても、周波数の違う世界を行き来するにはやはり次元という区分を超えていくための「扉」が必要である。

( *「力の指輪」ヌーメノール人のエレンディルとは別の「エアレンディル」は、エルロンドとその兄弟エルロスの父だそうで、この兄弟はちなみに人間とエルフのハーフ、エルロスは人間の道を選びヌーメノールの初代王になり、その家系にエレンディルが子孫としている、らしい。wiki参照)

色々と予定している執筆物の中に、「ジェネシス」をまとめながら見えてきたアトランティスの様々な時代を描く構想がある(すでに一部書き始めている)。そこで考えさせられたのが、それ以前のレムリアまでの5次元世界とは違う、3次元の出現(「神々」による創造)のしくみと、長い長〜いアトランティスにおいても、時代によってヒトの作りは変わっていて、初期の頃にはきっと半分、5次元的だったのではないかと。そして終わる頃は、僅か今から13000年前だから、完全に物質界を生きている。(追記:そうとも限らないとその後、考えている。「the Genesis」三版では、別々の(パラレル)地球を統合して現在の文明期に入ったとしている)

けれど、必要に迫られた時には五次元の神々の世界を、物質的に「訪ねていく」事もできたのではないか・・とも思うし、アトランティス後、我々の文明期に入ってからも、聖職者のような人ならば次元の扉を時折抜けて、また戻って来る、というような事もあっただろうと考えている。それらの、多次元にまたがる舞台設定を、物質的なリアルな描写で描くべきかどうか、という迷いがあった。またその手法は中々、難しいものだ。

原作の「指輪物語」は北欧神話をベースにしているから、他の神話も同じくだけど、5次元と3次元がまだ、共立していて、往来が頻繁にあったし、全ての人の目に見える形でそのための「扉」があったのだろうと。「力の指輪」や映画の本編から察するに、その世界観は神々(恐らく非物質)の住む世界と、その膝もとで暮らす物質体を持ったエルフたちが在り、エルフたちは次元の扉を超えて人間その他の種族が住む世界へ出て来る事が出来る。その逆は難しいらしいけど、「力の指輪」でも「西に行った」者の話がチラチラ出てくる。(エレンディルの下の息子、かな?)エルフと一緒ならば、扉を超えられるのではないか? 人間ではないけどフロドの例もそうだ。

物質体を持つ、と言ってもエルフたちは不老不死で、何でも有能にやってのける。戦で深傷を受けるとセルフヒーリング機能が効かなくなるせいか?亡くなってしまうこともあるそうだが・・闇に囚われる事も稀にある。

アルガンザの「the Genesis」においては、2017年の冬以後、アトランティスにおける大戦争と、そこに出陣するエルフ軍、ケルビム軍のストーリーが出て来る事が続いた。一番、私たちがフタを開けたくなかった記憶だと言えるかもしれない。この路線もだいぶまとまって来て、神々の世界に住まい半ば神でありながら、レムリア期には自然界(が当時は人間の魂の生き場所)の秩序を守るために高次自然界に在り、アトランティス期には、大戦の援軍や、人間たちの要請があった時にワームホールを超えて現れてくれる助け手として、活躍していたのだろうと思う。

そんなエルフ(エロヒム、エロス)たちが地上で犠牲になってしまったり、完全体のまま「故郷」に帰れなかった場合に、地上のシステムに情報的に囚われてしまい、そのカルマゆえ、人間界に生まれ輪廻転生しなくてはならなくなった。ジェネシスにおけるエルたちの物語は、そのまま今を生きる私たちに繋がっている。原作者のトールキン博士も、無意識でアカシックを受信し、描かれたのだろうと思う。

アトランティスに関する神智学の文献の中に、「人間がマヌたちのアドバイスをちゃんと守っていれば、肉食動物は生まれなかった」という一文がある。マヌ、というのは、アルガンザの観点ではちょうどまさにエルたち=エルフたちを中心とした、「5次元の神の世界と人間の文明を繋ぎ、導くグループソウル」である。アトランティス期、人類が神々の教えを守らなかった事で、肉食する動物が誕生したそうだ。そして人間たちも争い合うようになったのかもしれない。

「力の指輪」を見ていると、誇り高き、神々の子であるエルフたちは、正義感が強くいつも正論で、人情や感情などはあまり重視しない。何でも出来る多彩な才能と、キリリっとした容姿と周波数。けれど、言葉は丁寧なのに率直すぎて、人間やドワーフの感情を損ねるらしい。。。無意識なる失言、それでも特に悪いという反省もなさそう。笑 そんな、相違をどれも偏りない愛を込めて描いているような眼差しは、原作から踏襲されているのだろうと想像される。

ホビットの祖先であるという「小さい人たち」ハーフットは、移動する行列で、「誰も列を逸れない!」「いつも仲間と一緒!」と唱えて進む・・・という、すごい同調圧力で(笑)体が小さいから無理もない防衛本能、外の世界に興味を持ってはダメ、勝手な行動をとってはダメ、冒険も空想もダメ、収穫や仲間のことに集中していなさい、という。それが少し洗練されて、後のホビットになるのかもしれないけど、日本人を見るような気がするのであ〜る。

クリスタルもちょいちょい出て来て、やはりスピの人々はこの作品、みんな好きなのかもしれない。・・でも「光と闇の闘い」がテーマであるから、どこまで見続けられるか、Prime 特典の1stシーズンを過ぎたら、見続けるかどうか、まだ分からない。ただ、ヴァラール、ヴァリノールには興味津々。どんな風に描かれるだろうか? 時折記憶に残る、シャンバラのある五次元インナーアースの世界と、やはりきっと、似ているのかな。

Love and Grace

物質ではなく情報 〜ヒトも宇宙も〜

NHK コズミックフロントで、以前から興味を持つ「ホログラフィック宇宙論」を扱っていて、とても面白かったので記録のために。

アルガンザでは、カレッジのマスタークラスである「意識の学校」で少しだけ、量子物理学を取り入れていて・・もちろん名前の通り「意識」という問題を突き詰めていくのが目的で。インド思想、ヨーガ哲学などを紹介する傍ら、それと関わりを持つ内容を脳科学や量子論などの最新研究や、音の周波数やクリシュナムルティの思想なども紹介していた。

その路線で言えば、量子物理学界で最新の理論として熱く注目されているホログラフィック宇宙論は、かなりメタフィジカル、スピリチュアル、特にインド思想、インド哲学の宇宙論に馴染み安い。というか、そのものだとも言える。つまり、数千年前にインドで既に、宇宙の真実は記されているし、西洋や中東の古代文明とは違って焚書に遭うこともなく、温存されて残っている。一部の仏教がそれを踏襲しているし、お陰様で現代欧米で起こったニューエイジの潮流で、インド以外にも紹介されたという訳で。

物理学者の先生方はそれを、数学を使って証明しなくてはならないというハードルを、幾重にも、多くの学者たちの努力と直感・情熱によって乗り越えて、古代から伝わっている宇宙の仕組みと、人間が積み重ねて来た学問の世界が、ようやく、統合されようという時代になっている。(まだそう簡単には行かないとは思うけれども)

興味があって物理学の本はけっこう並んでいるものの、ちゃんと一冊読了した試しがなく(笑・本のコレクターなのです)、この番組でようやく理解出来たことも多かった。アインシュタイン、ホーキング、で知られる相対性理論では、宇宙の全体像、成り立ち、仕組みそのものを数学的に取り扱うのだそうで、一方で、量子物理学では、物質の本質である量子によって、宇宙や現象の様々を説明しようという。

そこに、20世紀末のあるセミナーでホーキング博士が爆弾発言。ブラックホールの中に吸い込まれた物質は、ブラックホールが熱を発して蒸発を起こす(「ホーキング放射」)中で、すべての情報が完全に消滅する、という説を発表。「ホーキングの情報パラドックス」と呼ばれるようになる。これに衝撃を受けたのは、量子論の研究者たちで、いくらブラックホールでも、存在の全てを完全に無に帰するなどあり得ないと強く反感を抱いた。

その中心が、スタンフォード大で現在も(80代ながらに)教授を務めるトスキンド博士。「全て消え去る、何も残らない」に本能的な強い反発を抱いたようだ。失われたら、その後の、その物質を作っていた要素の手がかりが何も無くなる。そんな筈は無い、と。(この気持ち、個人的にはとてもよく分かる。それこそ本能的に)

10年かけてこの問題を考え続け、理論武装し、「相補論」を提唱。地球の重力内から見ると、ブラックホールに引き寄せられたものはブラックホールの質量の強さゆえに止まった様に見える。一方で、物体と観測者が一緒に居る場合は、ブラックホールに落ちていく様に見える。そのどちらもが、相反する二つの現象でありつつも、観測の視点により同時に起きている、補い合っている。観測者の視点により、どちらも正しい。それが「相補論」。

これを、オランダのユトレヒト大学のトホーフト教授がさらに整理し、ホログラフィック宇宙論とした。ブラックホールの密度の上で停止した「情報」が、ブラックホールの起こす「ホーキング放射」により、映し出される。それが物質宇宙の実際であり、二次元の平面(ブラックホールの表面「事象の地平線」)にある情報がホログラフィーとして投射されている世界である、という。世界中で、相対論と量子論という物理学の二大理論を統合しようという動きで盛り上がったそうだ。

「サンダバーバラの闘い」と呼ばれている、半年に渉る(!!)物理学会での白熱した様子、面白かった。。「量子はブラックホールに飲み込まれる一方で、その物質を構成している情報は保存される」と説いても、当時はまだ多くの学者たちは、ホーキング博士が正しいという姿勢であり、反応は鈍かったという。時空の研究をしている相対論者たちにとっては、その説を理解する事が(フィルター的に)出来なかったという。

サスキンド博士は、彼らが何故、これを理解出来ないのか、理解出来なかったと当時を語る。(そうそう、そうですよね!フィルターが掛かっていると情報は人の耳や意識に入っていかない)

この論争を最終的に決着させたのが、マルダセナ博士による今では有名な「超弦理論」で、量子を粒子としてではなく、震える弦として考えることで、その震えや動きによって表現される様々な情報が、宇宙を作り上げているという。素粒子の震えの情報のひとつとして重力も存在する、ということで、「重力を含まない量子論」により相対論を説明するという偉業。これにより、量子物理学界の方向性は統合されつつあるようだ。

サンタバーバラの学会でサスキンド博士が発表する際には、「あのホーキングが負けを認めるかも?」ということで大いに盛り上がったのだとか。。ご本人は即時には認めなかった様だけど、サスキンド博士曰く、この場に居た多くのホーキング支持者たちには「意識のシフトが起きた」のを目撃した、とのこと。最初の「爆弾」と反論から、30年。そうそう・・研究史が好きなんだけど、重要で真理に触れる学説ほど最初は反発を受け、数十年掛かってようやく受容されるという事がよくある。

そして、メタフィジスト、エナジーワーカーとしての考察。

情報が、「完全に消え去る」ことは、無いと思う。そしてこの宇宙そのものや、マクロ、ミクロ、ブラックホールからの情報の投射と同じ仕組みが、私たち自身でもある。消えたように見えて、システムの光の中で燃えたように見えて、情報は残り、次の創造の素になる。輪廻転生はそうして、情報が持ち越される。それが時に混ざったり、関係し合ったり、変容したりはするけど、消える、ということは無い。

映画のように投射、投影されている情報は、数値化、コード化されることで個人の、ソウルグループの、家系の、人類の、時代ごとの、性別ごとの、輪廻からの、情報を積み上げてミックスし、並べて、私たちという存在を作り出している。

エナジーヒーリングで起きることも結局、その「情報」に変化を加えることだ。マイナスの、ネガティブな、良からぬ感情や性質、運などを含んだ情報を、素粒子の震えの性質から解毒・解消・変容させられる波動を送り反応させることで、弦の震え方、量子の振る舞いを変えていく。

ヴェーダ、サーンキヤ哲学でも宇宙の始まりは創造主の「視点」と、素粒子の集まりという「具材」=プラクリティ。視点が具材を見つめることで震えが起こり、ビッグバンへと進展する。つまり、ひとつのブラックホールの「事象の地平線」という映写機から、ホール内部の具材が爆発するように映し出される仕組みは、宇宙の始まりと言われるビッグバンと同じなのだろうか?・・(素人の呟き、全然違っているかもしれない)

宇宙が無数にあると言われるのも、私たち物質界の人間が考えるブラックホールという存在の、ひとつひとつが小宇宙で、またこの外側にも別の宇宙が映写機からの投射を行っていると思えば理解できる。そして、私たち人間というシステムも、ひとつひとつがブラックホールを備えた宇宙、のようなもので、どこに書いてあった訳でもないけれど自分の感覚からして、チャクラが並ぶ体の中心のエネルギー軸「スシュムナー」は、ある意味、ブラックホールなのではないかという気がしている。チャクラというセンターから、情報が投射されているのだ。チャクラは、内分泌腺に情報を送り、現実を作るものだと神智学では言う。

少なくとも7つの階層の情報域があり、その情報をプラーナが運び、スシュムナーとチャクラを通じて肉体という現象に働きかけ、現実を生み出している。それが人間。7つの階層には、魂、霊、モナド、といった違う周波数域の波動で震える「弦」が情報を蓄えている。そのすべてが、システムにより三次元に映し出しているのが我々、この瞬間。この肉体。この想い、この思考、この現象。

メタフィジカルの分野で、何もしなくても、物理学が自ずとスピリチュアルな領域へ、近づいて来ていつか統合されるだろう。けれどそれまで、ただ待っているには人間社会がまだ想いや感情に支配され過ぎていて、こちらからも、近づいて行くことで、統合の時間は早められるのだろう。

Love and Grace