同ドラマは、韓国でヒットメーカーと呼ばれる人気脚本家であるキム・ウンスク氏(金銀淑・女性です)が手掛けて、以前の投稿で書いたように私の印象は「日本の古き良き少女漫画みたい」で、とても好印象でした。スタイリッシュな演出やキャスティングのセンス、役者さんたちの実力と魅力、音楽、ストーリーの流れもちょっとした会話や小さな枝葉的要素もよく出来ていて。
同氏の作品は他にもヒット作が多いそうで、最初は時代劇限定だった我が家も、『トッケビ』をキッカケに少しずつ現代ドラマも見るようになりました。てっきり、同じ作者だと思っていた『青い海の伝説』は、実はまた別の人気作家さんの作品だと知って驚きました。諸要素が、よく似ているので。それは韓国ドラマのパターンなのかな。
今挙げた二つの作品はどちらも、時代劇シーンもありつつ、輪廻転生した主人公たちがカルマの中であれこれと相互作用し始め、運命を乗り越え、受け入れる部分は受け入れ、飛び越えたり新たな自由意志を発揮したりしながら、最終的にはハッピーエンド。『青い海の〜』は人魚伝説、『トッケビ』は鬼伝説をベースにしている。『トッケビ』のほうがより、宗教的な奥深さや、スピリチュアルな重さが感じられる。そこが魅力でもある。
何を見ても、アルガンザでまとめてきた地球と人類の魂の歴史『ジェネシス』の世界観や原型に照らして、考察してしまうクセが付いていて・・そのあたりのお話を少し。
二度目の『トッケビ』。主人公であるトッケビとその花嫁の二人も、もちろん素晴らしい(役者さんも、描かれる人物像、設定も)のですが、今回はその脇で準主役の「死神」さんにやや注目気味で見ていました。このドラマでは、前世で自ら命を断った人々が「数百年の地獄」を体験した後に、人間界で死神の仕事をしている。いわば公務員のようなもので、神に仕えているという意識、神への畏怖心は安定している。黒いスーツ、黒い帽子。帽子を被ると人間からは見えなくなる。死にゆく事になっている人間のリストが、自分の受け持ち分だけ届く。記載された日時にその人間を迎えに行き、然るべき場所へと送り出す。
ポイントは、トッケビが前世のままの肉体と記憶で939年生きているのと対照的に、死神たちは地獄を経てもまだ罰として、生前の記憶を失っている。つまりなぜ自分が罪人なのかを知らされていない。任務を通じて、死を巡る人間たちの様々な態度や感情を目の当たりすることを続けて、命の大切さを知っていくと同時に、どこかで、自分の過去生に関わる人間と任務を通じて再会し、その時には関連する人間たちも神の差配で同時に生まれ変わっていたり、関わり合っていたりしている。結果、過去生の記憶を取り戻し、自らの罪を自分の体験を通して学び、昇華できれば、死神の任務を終えることが出来る。どうやらそのような仕組みのよう。
トッケビと何故か同居する事になった(もちろん神の采配で)死神は、前世でトッケビと深く関わっていたため、その時代に関係する魂たちがドラマ序盤で続々と出会い直す。トッケビも死神の顔を見ても関わっても、覚えていない・気づかない設定になっていて、ドラマの終盤まで二人の関係・カルマは明かされない。けれどお茶の間的にはけっこう早い時期に察知していましたが・・。
まあ、そうなんです。「罪人」なので、この死神さんが前世を思い出した時に、現世目の前で起きていることとも絡み合いながら、自分の罪の重さと、自分を愛する者たちを不幸にした罪に涙する様子は、初見よりも注目できたせいか今回とても響きました。前世の彼は、「自分の妻も、忠臣も、民も、誰も私を愛さなかった」と言って自らの命を断ってしまいますが、過去を知ったトッケビが彼にぶつけたのは、「お前は妻にも臣下にも民にも、愛されていた」そして、「お前は妻も国も、自分自身さえ守ることが出来なかった」という言葉。
こういった愛にまつわる倒錯は、「ジェネシス」世界観で言うと、闇に囚われたアンドロソウルや、ケルビムソウルにも見られる切ない特徴だなあと。実際には何も問題が起きていないにも拘らず、自分の中にある弱さと、何らかの闇の力(このドラマでは時代モノなのでいわゆる奸臣の黒い囁き)が繋がった時に、愛や光や希望がすべて見えなくなり、すべてを否定したくなり、自分を卑下して堕ちて行ってしまう。多くの人にちゃんと愛されていたのに。ただ自分が、その人々を信頼し続けることが出来ていれば、何も問題は起きなかったのに。というパターン。
けれどこういう弱さは、大なり小なり誰にでもあるだろうと。主人公たちはその点、光に強い魂なので不屈の信念、絶対的な愛を貫けるタイプ。韓国時代劇にもよくある心弱い疑心暗鬼で被害妄想、壊れてしまう王様たちは、見ていると本当に(ジェネシスで言う)アンドロソウルが、光を失って囚われている典型のように見えます。何を言っても光の言葉は耳に入らず、闇の言葉に引きずられどこまでも。『トッケビ』の描く死神務めのようなシステムがあれば確かに、時間は相当かかるけれど、ソウルはいつかクリアリングされることでしょう。
最近、見ていたアルガンザでの伝授セッションのシーンの中で、自ら堕ちていく天使たちの軍団の物語がありました。天使たちとして地球に来る前に別の星系で、ある集団と対峙し戦った過去があり、そちらの、闇に染まったソウルたちは地球に「落ちる」ことで、転生を通じて学ぶコースにあり、一方で、天使たちとして地球に来ている彼らは、何とそこでまた自己犠牲的に同じような力との戦いの中で、自らを敢えて捧げるということをしていた。。。その意味が、自分の思考では分からなくて、暫し考えてしまった私。
石たちが「ジェネシス」世界観を体現し鎮座している、アルガンザのワークルームでぼうっとしていたら、不意に「贖罪のために自ら身を堕とす」というフレーズが降って来ました。「天使たち」に一体、なぜ、贖罪が必要なのだろうか・・・・・そこは、地球でのシステムや制度を超えた部分なので、想像して実感することは出来ないけれど、過去生(宇宙時代)で正義の戦士だった者たちが地球に天使として生まれ直し、かつて戦った者たちと再会し、罰を与えるのではなく、再び自己犠牲を行って散ってしまう必要が、それでも有ったという。
少し日を置いて感じてみると、「天使たち」は自己犠牲を通じて、闇の力の作動から当時の地球を救った訳ですが、その時に味わった闇の不快感や、黒い力に意識をも蝕まれていく体験が魂に刻まれた結果、人間界の転生コースに入った後には、神や宇宙を信じられず、自分自身さえ信頼出来ず、物事は常に戦いを伴い、決して良い結果では終わらない・・というインプットが入ってしまったようです。その状態で、さあ、ハイ、人間としての転生スタート。・・・何という大変な道のりでしょう。神や正義を知っていて、そのために戦っていた彼らでも、「敵」「闇」「正義」「戦い」という二元性を超えていくためには、その刷り込みを昇華していくためには、かつて持っていた善なる記憶や意識さえ忘却して、人間界をスタートしている。
これは「天使」的な存在たちの一例であって、『ジェネシス』にはたくさんの、天使存在のグループが登場し、それぞれのカルマを持っています。
韓国はキリスト教徒が多いと聞きますが、キリスト教、聖書の世界観の「贖罪(あがない)」と「自己犠牲」が、このドラマにはちらほらとあり。同時に、仏教が伝える輪廻転生、カルマ、因果応報の法則をも描き、人間の肉体を持って登場する「神」には、どうやら男・女の二神が居るようで、キリスト教(一神教)の超越神というよりは、道教に影響を受けたような男女の、青と赤をまとった対の神々という設定があるのかな?と思って見ていました。人間を生み出し守る女神と、死や自由意志も含めて人間世界の秩序を整理する男神、というようなイメージ。
現実で目にする中でも、「敢えて堕ちる」人の姿を見ることがあります。私自身もヒーラーになる前、二十代半ばにそのような数年間がありました。その時の話を、かつてお世話になったヒーラーの先生に聞いて頂いた時、「自分から走って走って、崖に向かって落ちた、みたいな感じね」と。崖に落ちるべく疾走していた。まさにそのような時期でした。
贖罪というのは、そう簡単なものではないのだな。としみじみ、思います。何気なく生きて流れに乗っていても、さして「罪を犯した」自覚が無くても、きっと来世では今世のマイナス要素を拾わなくてはいけなくなる。もちろんその逆、プラスゆえの恩恵や幸運もありますが。
そう、崖に堕ちて、怪我をして、まずはその怪我を癒しつつ、落ちた分だけ戻らなくてはならないというマイナス要素から、歩みは始まる。人類の魂は、生まれ出されてからアトランティス人種を体験するまで、落ちて落ちて、落ち続けていた。周波数を下げつづけ、光だったのに闇と出会し、ついには闇に囚われ、自分の記憶を失った。ソウルとしては、自分が何者か分からない。「死神さん」と一緒なのです。
けれどどこかで、次元の裂け目が用意されていて、本来何者なのかを思い出す時が来る。その時こそ、悲しく苦しい涙に満ちた時間。けれどそれを、乗り越えなくてはならない。そこから先、真の「贖罪」が始まるために。
原罪意識のような話をしたいのではなく、本来、愛であったという自分の魂を、記憶喪失から抜け出し、解放してあげることが、水瓶座時代の癒しと進化のテーマなのです。
神智学では、人類の魂はアトランティスで二元性を極めて「堕ちきった」ところから、今は少しずつ、上がっても良いよ、上がらないと、そろそろね、という時代に入ったところであるという。けれどまだ過渡期の範疇だから、フタを開けると、ため込んできた恐れや不信や傷や不調和が騒ぎ出して、またフタを閉めてしまう。時代劇の「奸臣の囁き」のように、目に見えない精霊のようなモノ、モノノケ的な原型エネルギー、それが出入りする周囲の普通の人々の言葉などを通じて、前に進もうとしても再び、恐れや怠惰や不信を煽られてしまう。
そのうち、そういうモノたちは存在出来なくなる時代が来ると思うけれど、今はまだまだ。
長い長い贖罪の道。輪廻転生。
それは、人類が罪深いからではなく、自ら選んで一度堕ちて、すべて忘れて、けれど歩きつづけるうちに思い出し、取り戻し、落ちた分だけ上昇し、さらに上に抜けていくというコースを、歩いているから起きている。ソウルの選択、自由意志なのです。
だから騙されず、耳元のささやき、お腹の中でふと生じる不安に、惑わされず。ソウルを取り戻して行こう。
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが書いていました。恐れとは、神を信頼していないというある種の罪である、と。そのような「罪」の中で、ぐるぐると周りつづけ、転生しつづけるのを、本当は誰も望まない。
けれど、不安を煽る力が、人間世界のあちこちに存在し、常に人々はそれに心を向けてしまうし、社会構造がそもそも、それで出来ている。
『トッケビ』では、主人公キム・シンの妹、そしてトッケビの花嫁、この二人の女性たちはとても優秀で、メタフィジカル的に分析してもよく出来ている。キリスト教的自己犠牲をおこなう=天使、の姿を一人は演じていたし、もう一人は、過去生でも転生した現代でも真の愛が揺るぎなく、自分の感情に拘らず、神なる力の法則に乗っ取って決断、行動している、とてもシャンバラ、シリウスを感じさせる。つまり女神性と言っても良い。(←現世の外見やキャラの印象が全くそうではないトコロがまた面白い^^)
ヒットメーカーである作者さん、おそらく無意識ながら大いなるものからの受信、魂の高い層で筆を進めることが出来る方なのだろうと思った、二度目のトッケビ、でした。他のキム・ウンスク脚本作品を見ていても、男性主人公たちはセンシティブで気難しく、やや「病んでいる」キャラクターが多い一方で、女性陣は健康的でまっすぐ、頼もしく、愛にゆるぎないというパターンが多いかも。この『トッケビ』では、トッケビさん、および死神さんの、それぞれの「病み具合」が何とも愛らしく、良い味を出しています^^
Love and Grace,
Amari