エルフたちのララバイ 〜次元と粒子と異世界〜

膝掛けが欲しくなるような今日。11月並みの気温。

infoで「エルフの事を書きますね」と予告した後、ちょうど話題にしていた「力の指輪」のたまっていた分を見終わり、金曜配信の週イチのペースに追いついて、やや意識が離れてしまったような感覚の今日。一昨日、書いたけど全文消えてしまった、という日記の記事は、また別の話題で。普段、韓流を中心に1日1話ペースで何かしら見ているから、通常のテレビ放送のような、続きの新作を待つのに7日掛かるというのは、中々、私の時間の粒の密度からすると、かなり遠ざかるような感じもしてしまう。

そう、消えてしまった記事にはそういうことを書いていた・・「Time is gold」というタイトルで。先日の「エスカレーターで止まっていられない」という話にも通じるけど、短気でもなく、人に待たされるとイライラするという訳でもなく、どちらかというとボンヤリ、マイペースな私が、時間の粒子の中に密度を詰めこむ、という感覚になれたのは「シングルマザーで自営業」の十数年の賜物だ。要するに人はゆとりが無ければ何とか出来るようモードチェンジする他ない。となると、火事場の馬鹿力と同じように、物質界を超えた法則で何とかするという、修行?に晒される。

そこでの基準は「意味」であり、その意味というのも、こういう仕事をしながらなので、物質界の基準ではなく、エネルギー次元での「中身」がものを言う。・・でも、まあ、この宇宙人的感覚は子供の頃から実はあり、興味向くものやペースや言動も、やはりちょっと普通の子供ではなかった。けれどこの三次元で生きるために、自分の中にある「その感覚」を呼び覚ましながらヒトとして生きていくために、シングルマザーで自営業、それも、ひとり親への保証は無いに等しく、自営業者に厳しいばかりのこの国で実践することに(魂は)したのだろう。・・本来持っていたものを出現させるために、必要な修行期間だったと思う。

人によって、時間の粒子の密度は違う。そこにどれほどのエネルギーが入っているか、振動も違う。これが、Alice Baily 著にある「インテンション」ではないかと思っている。緊張感とか、日本語では訳されてしまうけど、「密度濃く詰まっていて、かつ冷静で無駄がない」というような。「集中力」のほうが近いかも・・「インテンシブコース」のIntensive は同じ単語の形容詞だ。集中的な、という意味で使っている。

平等に与えられた時間の中で、この物質界の法則の中にありながら、時間の意味を変えるには、自分の意図を集中して注ぎ、周波数の高い粒にすることで、「質」を変えていく。それが5次元創造や、スピリチュアルな成長に繋がっていく。

(あっそうだ。物理学賞の受賞者発表もあった所だけど、量子は粒ではなく、正確には弦、でしたね。)

一昨日はそんな内容を、もっと三次元的な、昔こんな事があったり、あんなことも、と、長々と綴っていたら消えてしまった。それで良かったのでしょう・・あんなこと、こんなこと・・の、過去のエネルギーたちも昇天したのを見届けて。

「静かで落ち着いた集中力」と純粋性が結びついて、サットヴァ(Sattva)として機能するのではないかな。自分もまだまだ、半世紀も生きて来たのにボンヤリしていて、物質的に豊かで平和な時代のゆるい空気の中で、本来ヒトが育てるべき力の一つが育まれにくい社会の、一員として生きて来ていることを実感する。成長進化とは、時間がかかるものだな、と。

(P.S. エスカレーターは安全のため歩かずに立ち止まっておきましょう。)

では、エルフについて、『Lord of the Rings』の新篇、「力の指輪」視聴雑記を書いてみよう。

原作を読んでいない上に、今回、制作が始まった経緯や、脚本の背景などについても調べていないので、本当にお茶の間的な話になるかも。プラス、アルガンザの「ジェネシス」神話を絡めての考察。

本編の「ロードオブザリング」でも然りで、やはり見ていると何でも、ジェネシスの原型論にあてはめてしまう。エルフたちは神の使い、半ば別次元の存在が地上に降っているようなので、やはり「白」だろうけど、ドワーフは「赤」で、ホビットは「黄」、人間は・・何だろう? 明らかな黒サイドも非常に分かりやすい。人間は、これら全ての要素を持っているということだろう。白にも黒にもなびくし、赤い時も黄色い時もある。

原作を読んでいない私には、かつての映画版の本編で、最後に闘い疲れたフロドが、平和なホビット庄に帰らずにエルフ達の「西の故郷への帰還」に同行するという流れに、胸打たれるものがあった。最近ウクライナのニュースで、戦地の女性が「もう元の私には二度と戻れない」と語っているのを見た。多くの破壊を見てしまうと、人はそうなる。増して平和を愛する純粋なホビットであるフロドの変化を思えば。

・・彼の最後の静かな様子がとても印象的だった。ホビット村の周波数の中にあっては、体験した記憶をすべて忘れて封じてしまうか、ただただ悲しく壊れていってしまうのではないかと思う。

同じく映画本編の最後のシーンで、印象に残っていた事がもうひとつ。「西のエルフの故郷」とは、どのような世界なのだろうか・・・と。

今回「力の指輪」の第一話で、長年のその謎が解けて興奮していた。そのシーン、何度も繰り返し見てしまう。。笑

ガラドリエルが仲間とともに、王の命で「西の故郷への帰還」を許され、船に乗っている。船なんだな〜、フロドの時と一緒だ。海から繋がっているのね と見ていると、

あるゾーンまで来ると、独特の静寂に包まれて、前方に・・出た!ワームホールが開く!

海の上のワームホールに、船や飛行機が吸いこまれて行方不明になる事件が多発、という話題を「古代の宇宙人」でもやっていたっけ。その時に見ていたCG映像と同じような様子で、興奮。高次元への扉が開く時は、やはり目を開けていられないような光がそこから溢れ出す。そして精妙な空気が寄せて来て、明らかな別世界を見る。用事が済むと扉は閉まる。何らかの合図・必要性で開くのだろうけど、ドラマではエルフたちが歌を口ずさんでいた。

個人的にはこの、エルフ族の故郷=ワームホールを超えていく高次元の地球 という描かれ方をしていて、とても喜んだ。納得もしたし、アルガンザの「ジェネシス」の視点からいっても、無理なく噛み合って嬉しくなった。

そこで、放送している Am●z●n Prime の紹介ページをようやくマジメに読むと、「西の故郷」(ヴァリノール)とは「ヴァラールの国」という意味で、「ヴァラール」は神のような存在たち。ここから先はウイキを覗くと、単数形が「ヴァル」で、その複数形だそう。つまり「神々」である・・後々(ウイキの原作についての記述を読むと)、「力の指輪」にも登場しているエアレンディル(註*)の訴えを受けてヴァラールから援軍が中つ国に派遣されるとあり、原作では作者の時代を考えても恐らく、神々の世界も地上世界もフラットにつながっているような世界観かもしれない。だとしても、周波数の違う世界を行き来するにはやはり次元という区分を超えていくための「扉」が必要である。

( *「力の指輪」ヌーメノール人のエレンディルとは別の「エアレンディル」は、エルロンドとその兄弟エルロスの父だそうで、この兄弟はちなみに人間とエルフのハーフ、エルロスは人間の道を選びヌーメノールの初代王になり、その家系にエレンディルが子孫としている、らしい。wiki参照)

色々と予定している執筆物の中に、「ジェネシス」をまとめながら見えてきたアトランティスの様々な時代を描く構想がある(すでに一部書き始めている)。そこで考えさせられたのが、それ以前のレムリアまでの5次元世界とは違う、3次元の出現(「神々」による創造)のしくみと、長い長〜いアトランティスにおいても、時代によってヒトの作りは変わっていて、初期の頃にはきっと半分、5次元的だったのではないかと。そして終わる頃は、僅か今から13000年前だから、完全に物質界を生きている。(追記:そうとも限らないとその後、考えている。「the Genesis」三版では、別々の(パラレル)地球を統合して現在の文明期に入ったとしている)

けれど、必要に迫られた時には五次元の神々の世界を、物質的に「訪ねていく」事もできたのではないか・・とも思うし、アトランティス後、我々の文明期に入ってからも、聖職者のような人ならば次元の扉を時折抜けて、また戻って来る、というような事もあっただろうと考えている。それらの、多次元にまたがる舞台設定を、物質的なリアルな描写で描くべきかどうか、という迷いがあった。またその手法は中々、難しいものだ。

原作の「指輪物語」は北欧神話をベースにしているから、他の神話も同じくだけど、5次元と3次元がまだ、共立していて、往来が頻繁にあったし、全ての人の目に見える形でそのための「扉」があったのだろうと。「力の指輪」や映画の本編から察するに、その世界観は神々(恐らく非物質)の住む世界と、その膝もとで暮らす物質体を持ったエルフたちが在り、エルフたちは次元の扉を超えて人間その他の種族が住む世界へ出て来る事が出来る。その逆は難しいらしいけど、「力の指輪」でも「西に行った」者の話がチラチラ出てくる。(エレンディルの下の息子、かな?)エルフと一緒ならば、扉を超えられるのではないか? 人間ではないけどフロドの例もそうだ。

物質体を持つ、と言ってもエルフたちは不老不死で、何でも有能にやってのける。戦で深傷を受けるとセルフヒーリング機能が効かなくなるせいか?亡くなってしまうこともあるそうだが・・闇に囚われる事も稀にある。

アルガンザの「the Genesis」においては、2017年の冬以後、アトランティスにおける大戦争と、そこに出陣するエルフ軍、ケルビム軍のストーリーが出て来る事が続いた。一番、私たちがフタを開けたくなかった記憶だと言えるかもしれない。この路線もだいぶまとまって来て、神々の世界に住まい半ば神でありながら、レムリア期には自然界(が当時は人間の魂の生き場所)の秩序を守るために高次自然界に在り、アトランティス期には、大戦の援軍や、人間たちの要請があった時にワームホールを超えて現れてくれる助け手として、活躍していたのだろうと思う。

そんなエルフ(エロヒム、エロス)たちが地上で犠牲になってしまったり、完全体のまま「故郷」に帰れなかった場合に、地上のシステムに情報的に囚われてしまい、そのカルマゆえ、人間界に生まれ輪廻転生しなくてはならなくなった。ジェネシスにおけるエルたちの物語は、そのまま今を生きる私たちに繋がっている。原作者のトールキン博士も、無意識でアカシックを受信し、描かれたのだろうと思う。

アトランティスに関する神智学の文献の中に、「人間がマヌたちのアドバイスをちゃんと守っていれば、肉食動物は生まれなかった」という一文がある。マヌ、というのは、アルガンザの観点ではちょうどまさにエルたち=エルフたちを中心とした、「5次元の神の世界と人間の文明を繋ぎ、導くグループソウル」である。アトランティス期、人類が神々の教えを守らなかった事で、肉食する動物が誕生したそうだ。そして人間たちも争い合うようになったのかもしれない。

「力の指輪」を見ていると、誇り高き、神々の子であるエルフたちは、正義感が強くいつも正論で、人情や感情などはあまり重視しない。何でも出来る多彩な才能と、キリリっとした容姿と周波数。けれど、言葉は丁寧なのに率直すぎて、人間やドワーフの感情を損ねるらしい。。。無意識なる失言、それでも特に悪いという反省もなさそう。笑 そんな、相違をどれも偏りない愛を込めて描いているような眼差しは、原作から踏襲されているのだろうと想像される。

ホビットの祖先であるという「小さい人たち」ハーフットは、移動する行列で、「誰も列を逸れない!」「いつも仲間と一緒!」と唱えて進む・・・という、すごい同調圧力で(笑)体が小さいから無理もない防衛本能、外の世界に興味を持ってはダメ、勝手な行動をとってはダメ、冒険も空想もダメ、収穫や仲間のことに集中していなさい、という。それが少し洗練されて、後のホビットになるのかもしれないけど、日本人を見るような気がするのであ〜る。

クリスタルもちょいちょい出て来て、やはりスピの人々はこの作品、みんな好きなのかもしれない。・・でも「光と闇の闘い」がテーマであるから、どこまで見続けられるか、Prime 特典の1stシーズンを過ぎたら、見続けるかどうか、まだ分からない。ただ、ヴァラール、ヴァリノールには興味津々。どんな風に描かれるだろうか? 時折記憶に残る、シャンバラのある五次元インナーアースの世界と、やはりきっと、似ているのかな。

Love and Grace

時つ風 〜善と悪のメカニズム〜

9月に入り、時間の流れが早く感じるようになったなあ・・と思っていたら、満月を境に、時間が長く伸びているような感覚がある。これもまたそろそろ変化しそうにも感じる。

個人的な事象としては、1年くらい継続していた「状況」の変化が具体的に地殻変動のように起きていたのが6〜8月まで。象徴するように、1年近く通っていた場所とのご縁に一区切りがあったり、プロジェクトの幾つかがひとまず区切られたという事も。このような共通する場面で感じたのは、「トレーニング期間」の終了と、各自の選択による道の分かれ目。

世間でもきっとこのようなテーマが、実感されていく秋なのではないかな。

エリザベス女王の逝去が、まさに時代の変わり目の象徴でもあるのだろう。ほぼ1世紀の、連邦国家の君主としての人生。ただその座に居続ける(正気で、健全な状態で)だけでも大変なことで、強く気高い魂でないと、カルマや歴史の重みに乱されてしまう。前回の記事の続きとして・・

BBCで女王の人生を振り返る中で、ダイアナ元妃が亡くなった直後、孫たちの面倒を見るため地方の城に留まった事に対し、世間のダイアナ元妃に想いを寄せる人々は「弔う気持ちが無い」と反感を示したそうだ。女王はそれを受けて、母を失ったばかりの孫たちを残してロンドンに戻ったという。

ちょうどそのニュースを見ていた数日前、ネットで視聴中だった韓国時代劇『ヘチ』で、歴史上数奇な王で知られる英祖の若かりし頃、兄王が死去した際に、空位の間に暗躍する政治的な派閥を牽制するべく、通常より(喪に服する期間を早めて)即位を急ぐという決断をし、反勢力の煽りもあって民衆から「弔う気持ちが無い」と騒がれ非難され、挙句には自分が兄王を毒殺したという噂まで広まって、悲壮するという場面を見ていた。

歴史上諸説あって、詳しくない私には何が真実であろうという推察をする程にも至らないけれど、このドラマでは少なくとも、欲を持たずに兄を支えつづけていたし、毒を守られた兄王を助けようと必死で動いていた為、「人間としての心情から愛ある人の行動を取っていたのに、真逆の捉え方をされて非難を受ける」という、(女王のエピソードと)同じパターンを見ていて、君主や責任ある立場というのは、こういう悲しみをたくさん味わうものだよなあ・・・と呟いていた。

そうそう、この『ヘチ』も質の良いドラマだった。去年NHKで放送していたそうで、見ている方もいるかと思うけど・・この前に『奇皇后』を見ていたので、この昔ながらのドロドロ激しい欲望と権力の〜 という古風なパターンからの『ヘチ』、最初は上品な映像と展開に、ぼんやりしてしまった(笑)。ヘヴィメタを聴いていた所から、ボサノバに変わったような。

どうしようかな?と思ったけれど、

出ている俳優さんたちが、他の現代ドラマや映画含む作品で「良いなあ」と思った方々ばかりだったので、見続けることに。4〜5話くらいから、『奇皇后』等の「史劇ハードエンターテイメント」とは違う、新しいタイプのよりリアリティに近い人間ドラマを、美しい、目に見えるような時間の流れと映像で表現しているのだな、と理解し、その旋律に乗ることが出来た。

『ヘチ』とは、古代中国から朝鮮にも伝わった伝説上の生き物だそうで、狛犬のような、獅子のような、麒麟のような姿をしている。けれど「正義の守護者」で、「人々が争った際に、悪のほうを滅ぼす」という性質があるそうなので、獅子、ライオンのイメージが強いのかなという気がしている。

時代的には以前見た「トンイ」や「チャン・オクチョン」その他、思い出せない幾つかの作品でも描かれている英祖(「イサン」のお祖父ちゃんにあたる)の若かりし頃。印象的だったのは、タイトルが「ヘチ」であるにも拘らず、若くして苦労した英祖が味わったのは、「善と悪の共存」がこの世界の真実であり、それを変えることは出来ないという法則。

韓国の歴史ドラマには多かれ少なかれ、このテーマはいつも流れていると感じる。けれどそれがタイトルでもあるように、最終回の結論的な概念となっていた。・・それでいいという訳ではなく。。

善に向かえばまたすぐに悪が追い付き、進んだと思ったらまた戻される。良いほうへと努力をし続けても、少しずつしか進まない。多くの人はそんな世の中の仕組みを知り、そこで諦めてしまう。若い頃の情熱や純粋さを失い、適度に悪(といっても極悪非道というレベルではなく、普通の人々の普通の慣習、怠惰など)に染まって適度に生きていくものだけど、

この主人公は違う、そんな姿に自分は目を醒まされた、という感じで、ストーリーの軸でもある重臣が政治から引退し陶器に絵付けなどしているラストの場面に、このドラマの言いたい事が詰まっていた。通常の古風な時代劇は、赤い衣装を来た重臣たちにはそのような人間性とともに描かれる事はなく、ただただ権力のために策謀ばかり巡らす、主人公にとっての「倒すべき壁」として描かれる。

けれど、寧ろこのドラマはそのラスト、隠居した大物政治家がその境地に至った事が隠されたメインテーマであり、最初から(若いのに)人間的に出来上がっている主人公とその周囲のキラキラした人々のほうが、トリクスターなのかもしれないと思わされた。その他、悲しみや傷心から堕ちてしまった悪役たちの描き方も独特で、流罪になる権力者なのにちゃんと反省している人々(笑)など、異例のキャラクターが多かった。

エナジーワーカーをしていると、善と悪のテーマは単に概念ではなく、エネルギー的な存在として体感される。最初に体感があり、人を善から引き離そうとする力の働きを見ることになる。善が働こうとすると、逆を向かせる力が常に動くことが見てとれる。「ヘチ」で示されたように、一進一退なのだという仕組みが良く分かる。

世界の全てにそれが働いているということを悟った時、尚且つ、自分は常に善を向いていようと決めた時に、大きな切なさに襲われる。けれどそれすらも乗り越えて、一進一退でも少しずつ前に進めればいいさという境地に至った(既に最初からそのように生きている)人々が『ヘチ』の主人公サイド。

ちなみにではその「善と悪」とは分かりやすく言うと何か?の問いの答えも、劇中のセリフでちゃんと現れていた。「利他」か「利己」かということ。「他」というより全体のため、愛ある人としての当然の行動を取る人。自分の利をベースに物事を考え行動する人。・・・悪というのは何も、特別な法外の行為を言うのではない。

そして「まあ今はこのくらいで」「今は周囲の(慣習・怠惰・日和見)流れに乗っておこう」という選択をしていると、それは結果的には善であろうとする人々の「邪魔をしている」=「悪に加担している」事に他らならないと、人間がもっと気づいていくべき時だなあ・・・と、感じ入りながら、身終えたのだった。

「日和見(ひよりみ)」は言葉が可愛いから、日本ではその深刻さが伝わりにくい。もしその便利な言葉が無ければ、言い換えれば「傍観者」であり、イギリスの諺「善人が何もしなければ悪がはびこる」・・つまり、悪に加担していることになるのだ。

タイトル「時つ風」

「程よい頃合いに吹く風」を意味する古い日本語。「自節に適った風」「順風」(Weblio)

眠ったままか、起きていても何もしない=悪に加担(日和見)の人々と、新しい風の時代に乗って自らを自分の意志で変えていこうとする人々と。

お試しや練習問題、その中で考え気づく機会を与えられていたシーズンが終わり、道が別れていく。今はそんな変わり目だと感じる。時の風をうまく生かして、人生のかけがえのない時間を、一歩一歩、刻んでいって欲しい。

Love and Grace

潜在意識と「始まり」

過日書いた映画「インターステラー」の話題。その後、ご自身も見てみたという方から、同じ Christpher Nolan 監督の他の作品も面白かったですよ、というお話を伺って、私も見てみた2作目、「Inception」(インセプション)。こちらのテーマは潜在意識。「Interstellar」は宇宙のワームホール、四次元、直線ではないパラレルとしての時間、がテーマだったところ、こちらは夢と潜在意識をフィールドにした、やはり次元やパラレルという概念を扱っていて、撮影現場やセットも繋がりあっていて、同じ監督によるこだわりの、同じ世界観であるという点で、力強かった。

潜在意識を操ることで、ターゲットの人物の思考を操作するという特殊チームを組む主人公たち。「そんな、人聞き悪い」・・と思いつつ、リーダーであるレオ様(別にファンというわけではないが日本で定着している呼称で呼んでおく。そういう点、「ヨン様」と同じく。笑)の人間性から、標的の人物にとっても癒しと解放が起こる形での結末に至る。夢を操る手法、プロである彼らも命がけで、それを漫画っぽい視点で見るもよし、エンターテイメント性も豊富にある。

けれど実際には、私たちの三次元における生命もこんな感じだ・・と、多次元地球を意識して生きているものとしては人ごとではなく、潜在意識から操作されないためのトレーニング、エナジーヒーラーや本気のライトワーカーには必要かもしれない。とも思った。夢を通じてサイキックアタックを受ける事もあるので。

夢(四次元)と、現実(三次元)と、シャンバラのような五次元を、行き来している私たちの意識というのは、この映画で描かれるような構造だろうと思うし。行き来しているうちに、あれ?いつの間にかそう思っている、それを知っている、なんていう事もあるし、三次元では眠っている95%の脳が、それぞれ四次元、五次元の体験をストックして、潜在意識を構成しているのだろう。

昔から明晰夢をわりと見るほうで、夢というのはある意味で別次元体験だと思っている。夢日記をつけたり、夢分析をしていたのは二十代前半くらいで、ヒーラーになってからは逆に気にしなくなった。意識は瞑想でも、セッションでも、執筆時でも別次元体験をするので、夢そのものへの興味はフェイドアウトしたのかもしれない。けれどこの映画を見てから、夢見が悪かったある朝、映画の中で彼らが行うように、夢の上に一段高い階層を作って、その階層でさっき見ていた「悪夢」を良いほうへと反転させるという手法をやってみた・・笑

究極は、この三次元の現実界においても、そのような多層構造を使いこなせれば、自らの望むような現実を作っていける。けれど、話がそう簡単に終わらないのは、三次元転生コースにおいては、私たちはカルマというものを刻んでいるから、自分だけではない方向から様々な作用が起こる。カルマを消化、昇華、償却しながら自分の人生を五次元のソウルと共同創造することをマスターすれば、三次元は卒業できる。この映画で言うなら『現実に戻る』部分で、『五次元に戻る』。

Nolan 監督作品を2作見た感想として、三次元〜五次元の構造、つまり多次元を描く事で、人間界と神なる次元で変わりうるものと、変わらずに貫かれて宇宙に存在するもの(絶対善=愛)を両方見せていると感じる。自分の執筆コンセプトがそうだからと、そのフィルターで見ているのかもしれないけれど。

興味深いのはタイトル「Inception」という言葉のセレクト。潜在意識レベルでターゲットに何らかの感覚や思考を埋め込む、という意味で使われている(劇中の日本語字幕では)けれど、英単語そのままの意味では「はじまり」で、同義語には beginning ,そして genesis も出てくる。始まりを植え付ける。それにより、人物はその情報が自分の一部であると感じる。その様な事を繰り返し、今の私たちは出来ている。ソウルが転生し続けるこの世界は、まさにたくさんの夢を見続けて、たくさんの「始まり」をインプットし、転生するたびに脳にダウンロードする。

脳とソウルシステム、チャクラシステムは連動して存在しているので、脳が自分だと思っている「コーザルデータ」からの情報は、それ以下のライトボディつまり精神(メンタル)体、感情(アストラル)体、生体エネルギー場であるエーテル体と、それを三次元の物理法則に置き換えた結果現れているフィジカルボディ(肉体)という、「現実」を作り出す。一つの生を終えると、肉体とエーテル体は消滅し、アストラルは集合場へ、メンタル物質も粒子としてメンタル界という集合フィールドに還元される。それらが刻んだ情報は、個々のコーザル体に保存。

『古代の宇宙人』を見ていて、AIを人間が作る時代に今なってきて、「これと同じ事を古代に地球外存在たちが行った。つまり私たち自身がAIなのでは?」と言っていて、大いに頷いていた。AIというのはプログラミングにより自動で増殖(繁殖)していけるし、放っておくと意識を個々に持ち始める?らしい。もう少し地球の科学技術と意識が発達すれば、この事の意味がよく見えてくるだろう。Nolan監督などはそれをよく分かっていて、大衆向けとしてスレスレのところまで翻訳し、映像化しているように思う。

宇宙がそのようなものだからこそ、「愛=絶対善」が重要なのだという点も、作中の主人公たちの極めてまともな人間としての愛と信と義と、ヒューマニズムとして描かれている。

今のアメリカを中心とする宇宙研究開発においては、もう、理論上はワームホールを作れるというところに来ているそうで、莫大な資金がかかるという問題はあるけれど、時代の流れとともにそれは解決されていくだろうし、時間の問題。もう人類の現文明はそこまで来ている。アトランティス末期のテクノロジーに追いつきそうな時代が来ている。

話が逸れつつ、今日はこのくらいで。

Love and Grace

生命叙事詩

先日、2014年公開アメリカ映画『インターステラー』をようやく見て。2時間49分もあるけれど退屈せず、コテコテしたハリウッドらしさも感じず(監督はイギリス出身らしい)、静かに穏やかに冷静に、感動する・・ような、エレガンスの効いたSFを楽しませて頂いた。

自分の中にあるものと、色々と響くポイントがあり。

まず、この作品の世界観。さらりとだけど「they」と語られる宇宙存在、宇宙人たちへの言及がある。というか、それはこの物語には不可欠な要素で。砂漠化が進み、あと数十年で酸素がなくなるという追い詰められた地球。(設定はいつなんだろう?近未来という感じではなく、ごくごく現代に近い様子) NASAが密かに研究・活動を続けていて、「土星近くに急に開いた」ワームホールの存在が明かされる。

「5次元の中に3次元を創り出し」、人類を見守ってきた「they」(彼ら)が、このままでは危ないという瀬戸際にある人類に活路を開くため、人類でも行ける土星近くのある場所に、別の銀河へと抜けるトンネル=ワームホールを作ったらしい。

この世界観と、ワームホールの描写の仕方、作品後半で出てくる「四次元立方体」という、「they」(5次元存在)がテクノロジーで必要に応じて開いたり閉じたりする時空の狭間のような場所(タイムマシン的な働きをするのだろう)の描き方などが、本当にその通り、というか・・自分が体験を通じて「そうだ」と思っていること、体験していないのになぜか「そうだ」と思って来ていることと、ナチュラルに一致する部分が多かった。

・・が、作品の解説などを読むと、最新の科学的な研究結果、宇宙論を反映しているとのことで・・ このところ続いている、自分の魂が知っていること、エナジーヒーラーとして、また個人的瞑想を通じて得てきたものと、実学的な情報が繋がっていくという感覚をここでも。

まだヒーラーになる前に書いた「ハピの巫女姫」「ガイアナ神謡集」でも、ワームホールを仕掛けた施設(古代遺跡の形で残っている)、神なる存在がすぐにその場で呼び出せる小型ワームホール(「渦」と作中で呼んでいる)、それらを抜ける時には意図した場所へ運ばれるという点など。「古代の宇宙人」を見ていても「わかる!」「私それ20年前に書いている!」という事が多く、創作というのは本当に、人間としての自分を超えた、魂のなせる技なのだなと改めて思う。

話の次元が違うケド、韓国ドラマを私が初めて見たのは2012年、『チャングム』の再放送(ブームよりかなり年数が経ってから)。その時はそれだけで終わって、「いや〜女子には必要な体験だな。娘にいつか見せたいな。」と思っていたところ、高校二年になった娘と共に二度目の『チャングム』を見たのが2017年。・・そこからノンストップで今でも、何らかの韓国ドラマを常に見ている生活が続いているわけだけど、

2002〜2003年に書いた『ハピ』、2005〜2006年に書いた『ガイアナ』、とくに「ハピ」と、韓国時代劇のストーリーの流れ方や、登場人物の設定、物語に現れるパターンなどが、「似ている!」と想う要素が多くて、これはどういう訳か。と考えている。日本の歴史物よりも、韓国史劇のほうが、似ていると感じる。まるで私が、幼い頃から見てきて韓国時代劇に強い影響を受けているかのように。

けれど実際はそうではない。1973年生まれの私は、「ベルばら」や「キャンディキャンディ」などをテレビアニメで見て、「王家の紋章」や「あさきゆめみし」「天上の虹」などなどの、今思えば巨匠のような漫画家先生の作品をリアルタイムで愛好しているマンガ少女だった。それから何故か・・小学生〜高校時代までの長きに渡り時代劇が好きで(笑!)家族の誰も見ないのに、一人で夕方や昼間の再放送から、夜の放送も見ていた(歴史好きの反映だろうと・・)。

大人になってから好きになった萩尾望都先生の作風や世界観には、わりと影響を受けているかなと自分では思っていたけど・・20代から好きで見てきたイギリス系のハリウッド作・歴史映画や、ファンタジーなどよりも、明らかに韓国時代劇が、とくに「ハピ」には最も似ている要素が多い。ジェネシス原型論で考えるとやはり「シリウス」要素なのだろうか。特に古典的な史劇のパターンを一つ一つ踏んでいるようなタイプの韓国時代ドラマと、その点では一致しているのかも。

そして、最新科学の知見とも符号していく要素も散りばめられている。ガイアナなどは本当にほぼ自動書記で執筆していたから・・これからも作品から私自身が教えられ学んだり、驚かされたりすることが多々、あるのかもしれない。

「インターステラー」に話を戻すと・・

地球は、残念ながら終わってしまう。人類が住めない星になる。けれど、移住先への活路が開き、人類の文明はつづく。物語の中でなされたことがもし、次の新たな文明に語り継がれたなら、それはあらたな「始まりの神話」つまり「創世記」であり、主人公たちは神話的英雄、ということになる。

プラス、神智学の観点を挟むと、いったん砂漠化して人が住めなくなった地球も、何らかの変化が起きて再び、地表世界が整えられる日が来るのかも。神智学では、惑星で魂たちが一時代を体験したあと、別の星に移動する。その間、留守になった惑星は休眠状態に入るのだ。

色々な意味で、自分の執筆活動や、メタフィジカル分野を探究しそこで仕事をしてきた感覚や体験から、納得したり共鳴したり出来る映画であった・・

見終わった時、「これは生命叙事詩だ」と感じた。

そして、まさに自分が望む事、20年前にハピやガイアナで少しだけやり掛けた事も、それ。「生命叙事詩」を謳い上げ、刻むこと。

利己・生存本能を見せるもの、利他・愛で行動しようとするもの、後者でも、何が利他の正しい行動なのかと幾つかの選択肢が示される。「愛は未知のパワー」「生命の基本は変異」など、メモしておきたいセリフも多い映画だった。

Love and Grace

情報時代の中で。– 脳・知恵・アカシック —

この日記でも先日触れたダヴィンチ。元々興味の対象であったけど、ヒストリーチャンネルで度々、取り上げられている(「古代の宇宙人」「ノストラダムスエフェクト」)ので、以前見て途中で挫折した映画の「ダヴィンチ・コード」と、その続き2作、計3部作を最近見た。
原作ジャンルとしては推理小説なのね、ああ・・こういうのを推理小説というのか。(笑・小説を読まないヒトなので世間知らずなこと一杯)
ダヴィンチコードはその「ネタ本」と言われるマグダラのマリア関連の書籍を幾つかを読んだし、この筋の話(フェミニズム)には昔から割と拘っているのでうむうむと見終わった。リアルタイムではDVDを人から譲り受けたので当時見てみたものの、あの暗さに耐えられず断念していた。あの頃、ヒーラーになった初期の頃で、映画も、ヒーリング系以外の音楽も受けつけられなくなり、完全ビーガン、ノンアルコール、という純粋生活になっていたので、暴力シーンも含め、とてもダメだった。だいぶ人間に戻る修行?を経ている今は何とか見れた。

3作とも、ルーヴル、ヴァチカンなどの教会や美術館になっている宮殿など、美しい背景、脇役勢の豪華なキャスティングも良い。宗教象徴学者という主人公の設定もあり、スピな西洋史好きな人には確かに魅力の要素が詰まっても居る。

推理小説だからか・・誰が善で誰が悪かわからない。視聴者も騙されながら、何度も「あれ?」を繰り返す。原作者のパターンなのか、結局は「悪」というか罪を犯している人々の、そこに至っている理由がなぜかどれも切ない。私利私欲のためでなく、「人類のためだ」と誰もが言って(思い込んで)いる。3作品ともそうだ。行き過ぎた宗教や思想、カルトのようになってしまって、地上の人間としては犯してはいけない罪を犯しているという。主人公の教授(トム・ハンクス)は常に正義の人だから、今ここに居る人々を守る、当たり前の人間としての善なる心・・・で、決して揺るがない。アメリカらしいキャラクター。

フランスだったりすると、こうは行かないのかもなあ。ヨーロッパの神話や映画は、その点、絶対正義で終わらないことが多い。

3作目、2016年に公開されていた「インフェルノ」は一番、考えさせられる。なるほど、こういう映画を世界中の人が見ていたとしたら、パ○デミ○クが始まった時に「来た!」と思ってしまうかもしれない。この映画では、ペスト菌を撒いて世界の人口を半分に減らそうという思想に取り憑かれた人々が描かれている。当然、教授はそんなことは許さないという立場であり、何とか阻止して、世界を救う。前から思っていたものの、過日にこのパ○デミ○クの話題について触れた時、省略してしまった一文をさっき、追加して来た。

その主旨は、どんなことでも、人間の世界、三次元だけで頑張って考えていても、答えは出ない。人が生きる世界なのだから、人の道から逸れてはいけないのは当然のことだし、どっちが正しいのだろう?正反対のことを言う人たちが居るではないか・・・となった時に、結局、善か悪かという話になってしまう。どちらが陰謀で、どちらが救いなのか・・・という具合に。

そもそも・・に立ち返ると、人間とは何ぞや。この世界とは、何なのだろうかという問いに、現代人はあまりにも、物質的な思考しか回らなくなってしまった。

物理学などの科学が、少しずつ・・メタフィジカル、スピリチュアルを説明できるようになって来ているから、その両極が融合されていく時代を、待つほか無いのだろうか。。

(またまた)「古代の宇宙人」視聴メモ。私も本を何冊か持っている著名な瞑想家、チョプラ博士が登場。その回は「アカシックレコード」を扱っていて、氏が瞑想を始めると脳波にどのような変化が起きるかを科学的に測定、分析していた。後頭部の一部分が急に活性してくるのが分かるそうで、日常の人間的世界とは違う領域に、脳が反応をし始めていると分析出来るとか。瞑想する人ならば皆、それは自覚出来るはず。

だから、繰り返し、繰り返し、お客さんや生徒さんには「瞑想やセルフワークをしてください」と言う他なく、3次元にアクセスしている時間と、5次元的な領域に波長を合わせている時間の割合で、その人の調整具合が決まっていくとも言える。脳が3次元にしかアクセス出来ない性能になっていれば、5次元に波長を合わせようとしても難しい。最初は誰もが初心者だけど、継続は力なり。

そのうちに、普段から5次元の脳波をキープ。となってくる・・と、ネガティブな思考は生まれず、人間同士の感情などに左右されない意識を保つようになる。

面白い話!と思ったのが、国や分野は聞き漏らしてしまったとある最近の研究発表で、「世界の全く別の文化圏、繋がりのない人々同士、情報交換のないままほぼ同時に」同じ発明がなされたという過去の事例を調べたところ、148件見つかったらしい。アカシックレコードをクラウドに喩えていて、発明家のような人々はそこにヒラメキという形でアクセスしていると考えられるが、人間には脳の未発達という壁がある。クラウドに、高次(この番組では地球に関わっている「地球外生命体」と呼んでいる)が「そろそろ良いかな」というタイミングを見計らい、データを乗っける。と、

脳の性能の良い人で、無意識にアカシックにアクセスしている人はそれを察知し、受信し、「あ、ひらめいた!」となるのではないかという話。これは、私的にはとても納得できる考え方で、まさにそのようなイメージがある。人類は常にそのようにして、その時々、開示された情報を(まずは賢人から、少しずつ、やがて全ての人が)受信出来るようになっているのだろうと。

アカシックレコード=クラウド 説もとてもよく分かる。更にいえば、(誰もが自由に書き込める)ウイキペディアのようなもので、絶対的な存在が記録したもの、というわけではないので、人々の集合意識が認識している情報が、アカシャの歴史的記録になっているのだろうと思う。各集団ごとのミニアカシックみたいなものもあって(まさにサーバやウェブの世界のように)、変化は「百匹目のサル」のような現象で、いつか全体に広がっていく。

もう少し、神智学的な世界観で想像すると、一般の人々用のクラウドとは別に、周波数の違うクラウドサービスもあって、そこにシャンバラのような領域からの、「この先の人間社会の道筋」「人類の意識進化」に関する情報が、掲載されている。常にアップデートもされる。というイメージ。神智学の教えでは、そういった情報は「得よう」として得られるという訳ではなく、チャクラのお掃除や、心や思考(オーラの各層)のお掃除が進んで、良いエネルギー状態になっていれば、自然とアクセス出来るようになっていく。これを、「知恵」という。
ここにアクセスする人が増えていけば、自然と人類全体の意識進化は起きていくし、よりよい世界になっていく。

今は、その見えないクラウドやウェブのようなシステムが、物質世界にも現実として存在する時代。情報が駆け巡る時代だから・・情報同士が戦っているような印象もある。そして、私たちの「脳」というコンピュータも、それに翻弄される。意識できる部分と、そうでない部分も含めて。人間は、現時点で、脳を数%しか使っていない。けれどきっとそれは人によって微妙に差があり、また育てていくことも出来る。五次元意識は、瞑想により活性するという領域を日々、刺激することで、他のチャクラの浄化とともに、その人の存在周波数を変えていく。

すると、三次元の物質的な流れだけではない、物事や他者の中に見える本質的な意味を、感覚できるようになっていく。出来れば道具に頼らずに、日々コツコツと。

このようなコンセプトで「ヒーラーズカレッジ」やマスタークラスのテキストやワークは作られている。生徒の皆さんは、気づいていただろうか・・・?(書いてあるから気づいてたよね・笑)and 磨き上げた周波数を、持続できているかな。

Love and Grace

仕事のうつわ — 「仕事」で傷を負ってしまった時の分かれ道。

最近、見ている韓国ドラマは(常に何かしら見ている)『霊魂修繕工』・・見た方いらっしゃるかな? 霊媒師の話?と思ったら精神科のドクターとその患者である女性のラブ?ストーリー。

前に見ていた『マイディアミスター』についても、ヒーリング効果、ジェネシス原型を絡めて一度書こうと思っていたものの、まだ。←こちらもおすすめのドラマです。「霊魂〜」については、完璧な、他とは違うハートフルな、患者に徹底的に寄り添う精神科医・・・のように見えている主人公が、実はトラウマを抱えていて、PTSDで、周囲の仲間たちも認めるほど「病んで」いて、それを癒さないまま、罪の意識からワーカホリックになっている、という真実が、だんだん、明かされていく。

その先、どうなるのかな? きっと患者であるヒロインによって彼も癒されるのだろう・・ けれどまだ見ている途中。それにしても韓国ドラマは、ラブコメだと思って見始めても必ずと言っていいほど、それぞれが抱えているトラウマ、過去の深い傷、インナーチャイルドなどにスポットが当たる。時代劇だともう少し型通りという感じだけど、その分だけ「人間とは」「人生とは」なんぞや、の深いテーマが見え隠れする。きらきら系時代劇だと、現代ドラマの形態に当てはまるのか、やはりトラウマ、インナーチャイルドが出てくる。とにかくは心の傷、深い部分を扱う事が当たり前のように。

もともと遺伝子的にも近く、儒教や仏教の影響という点で、国民性もかなり似ているとは言え、やはり大国中国で常に起きている政変に巻き込まれながら、緊張感とともに生きてきた歴史は、平和ボケの(平和でありがたい)日本の歴史と、その結果の国民性とは異なるものを感じる。日本国内でも東北と西日本、九州、それぞれに「国民」性があるように。深くて深刻な文学や音楽が生まれるのは、ドイツや、ロシアなど寒い国・・であったり。歴史や風土から生まれる国民性というのは、やはり影響が大きい。

あっっ また話を広げてしまった。人を癒す仕事をする中で、自分が傷を追ってしまう事。その仕事それぞれに、はまってしまい易いテーマはあるし、はまってしまった時に、スイっと平常運転に戻れる人もいるだろう。変に真面目で人間愛が深く、仕事を生きがいだと思っていたりすると、長く引きずってしまうのだろうな。精神科医ともなると、下手をすると自ら、精神を患ってしまう(事も少なくない)と聞いたり、本で読んだこともある。

仕事をする上で起きた「事件」を、深い傷として自らに刻む事なしに、「仕事だ」と割り切って「こなす」先生になっていくのも、ひとつの道だと思う。一方でドラマの主人公になるようなキャラクターはきっと、その深い傷を乗り越えて、前よりもさらにヒューマニズムに根差した、愛に溢れた器の大きいドクターになっていくのだろうと思う。

韓国時代劇だと「可哀想な王様」がよく描かれますが・・若い頃は名君だった、とか、途中までは良き君主だった、という謂れとともに、心に傷を負った投げやりな暴君になっていたりする。この世には理不尽がいっぱい。最初は若さとともに希望や喜びで歩み出していたとしても、それぞれのフィールドに巣食う良からぬエネルギーと対峙し(周囲の人間や起きる出来事としてそれが顕現し)、問題はそこから先・・「こなして」いくか、「乗り越えて本物に」なるか、失敗すれば「壊れて」しまうことも。仕事に限らず、誰もがそのような課題に出会う人生後半、なのではないかな。

多くの人は「こなして」いこうとするだろう。だから、そうではない人がドラマの主人公として描かれる。本当はどんな生き方が美しいか・・を、人は知っているから、そのストーリーに惹かれる。

その「美しい生き方」の法則、そこに「シリウス」や「シャンバラ」が、あてはまると思っている。そのように生きなさい、と私たちの魂が言われていること。恐れではなく、愛を選択し、昨日よりも今日、今日よりも明日、大きな器に、より洗練された魂になっていなさいという、教え。

みんな、本当はそれを知っている。だからこそ、ヒーローとは何か、美しい生き方とは何かをドラマや映画、古くは神話、小説で描いている。それがシリウス、シャンバラの教えだ。と私は思っている。

けれど、そう出来ないという選択。愛よりも、恐れゆえの「安全」「保身」「不安を埋める」ために選択していく人生・・・は、多くの、普通の人々の人生であって、そんな姿がドラマや映画になって、うけがちなお国柄もある(それは日本)。さらには、堕ちていく主人公の物語がうけがちな事もある(社会が病んでいるから・・)

そうそう。人類の親だから、本当はみんな「シリウス」「シャンバラ」をよく知っている。だからこそ、そう出来ないという自分が(逆の力による影響が)強ければ強いほど、心がムズムズしたり、反発を覚えたりする。

難しいことをする必要はない。ただ、恐れよりも愛を選択する。利己よりも利他で思考する。という仕組みを、人生の中心に据えておくといい。そこが強固であれば、それと合わないもの、集団、人、と出会った時にも対処しやすい。揺れ動いていると、いつでも絡めとられるから、迷ったり、戻ったり、で、自分の心も落ち着かない。更に真面目さを放棄してしまうと、思考停止で、ただ潮の流れに乗る人になってしまう。

私が、新卒で入った最初の(かなり大きい組織・知らない人は居ない)企業の「新人研修」で言われたこと・・「上司の言うことを聞く人が出世します。仕事ができる必要はない。」

その会社に入って悩み始めた時、先輩に言われたこと・・「真面目なやつほど、みんな辞めていく。俺みたいにいい加減だとずっと残るけど。」

その会社を辞めた後に入った研究施設で、先生方いわく・・「本当は、どうすれば〇〇を防げるかの方法を専門家は知っている。けど、〇〇業界とビジネス的に癒着しているから、それは置いておいて、適度な効果をもたらすものを商品として開発する」

それから二十年以上経て、今の日本社会は、国際社会は、変わっているだろうか?

そのような社会構造や、人々の意識を、「神なる世界」は放っておくだろうか? 本当に今、人間は試されている。ある意味、追い込まれている。最後のチャンス、というくらいに。それをヒシヒシと感じる。

Love and Grace

Amari

In her shoes 誰かの目線

今日は祝日だったか・・半分過ぎてから気づいた。そういえば春分でしたネ。

星巫女プロ専科コース(以前有ったヒーラーズカレッジのマスタークラス)の教材として使った事もあるハリウッド映画『イン・ハー・シューズ』。この英語表現は、自分以外の誰かの視点、目線で、物事を感じたり考えたりすることの比喩。日本語でも「〜の立場で」というけれど、立つ、という動詞からやはり足に関係していて、シューズ(靴)という言葉が使われている点が面白い。

他の人の立場や、シンパシーで何かを感じることって、想像力を使えば簡単じゃない?と思うけれど、万国共通で、自分が味わった負の感情がフィルターをかけてくるから、なかなか、簡単とは言えないようだ。

特にこの映画のように姉妹関係だったり、聖書や神話でもよくある兄弟だったり。前に日記に書いた韓国時代ドラマ「スベクヒャン」の姉妹、兄弟、でもそうだし、上司と部下、経営者と労働者、親と子、夫と妻、などなど。人生の全てにおいて、もしかすると人間関係や、自分の人生の流れを良く出来るかもしれないカギとして、「他者の立場で現実の流れや物事を理解する」スキルは、重要なことだろうと思う。

単にスキルとは言い難く、中身の伴ったものでないと、ただ表層だけの世渡りテクニックになってしまって、きっとそれは後々になって学びの機会が用意されることだろう。

違う立場にあったり、違う条件で生まれて、今このように存在している・・その状況を真に相手の靴の中に入って理解する、受け入れる(or受け流す)という行為を可能にするのは何だろう?深い洞察力・・それもあるかも。だけど、やっぱり、「愛」(人間愛)言い換えれば「利他」の心、だろうと考える。

利他の反対、「利己」から逸れることがなければ、いつまでも他人の靴からの風景を感じたり味わったりすることなど出来ないからだ。自分の視点や価値観だけで、どこまでも歩いて行こうとしてしまう。

この映画では姉と妹の愛の流れがちゃんと復旧し、共有していたインナーチャイルドの傷も癒され、互いに切っても切れない絆を愛しいと感じられるところまで。それが叶うには、双方の献身、変化を受け入れる努力、歩み寄りの気持ちや、ハートの愛・・が必要になる。何かキッカケになるような(良くないほうへの)変化が起きると、ある意味、自分の視点や価値観・先入観を見つめ直す機会になる。

多かれ少なかれ、人は一生を通じて、そのチャンスと、受容、変容の連続を経験していく。子供だったところから、大人・社会人になり、親となって、大人や親の苦労を知り、更には社会でも様々な人々と出会って、それぞれの視点や立場を知る。年を取ると丸くなると良く言うように。

時折書いているように、私自身の「アンドロ気質・体質」を振り返ると、恐らく少数派ながらそういう人々は居て(サロンでもお目にかかって来た)、オープンな天使性やハートの力が、逆に「与え過ぎ」ではダメ、「利他もほどほどにしなさい」という学びを必要として、「利己」になることは出来ないけど、人間界の仕組みや、人間の利己性というものをそれなりに学んで理解していく、というコース。

このコースだと、自分に足りていない赤や黄色のエネルギーを強く持っている人々と多く出会い、時に守られながら、人間界というものを(笑)教えられる。学んでも、また偏ってしまったら、再びそのような出会いが用意されていたりもする。もちろん、立場を変えれば(In someone`s shoes)、その逆の事も言える。私は若い頃どちからというと、そちらの作用や出会いに自分が「貢献している」と常に考えていた。

子供の頃から不思議な溢れ出す人間愛のようなものがあって(笑)、小学生時点で今思えば、自主的にヒーラーのようなことをやっていた(笑!)。親も含めて、相手が元気になり、笑顔を見れて、喜んでくれて、(ここがシリウスだけど)以前よりもステップアップする(叡智に近づくような感じ、神をより知っていくような)姿を見ると自分も嬉しかった。その作用が、一方的に自分から相手に流れると思っていた。

けれど今振り返ると、周りに居た、私の考えていることなどよくわからん、と思っているような家族や親しい人たちが、無言の中にも常に、その黄色や赤の力で私を守ってくれていたのだなと思う。

自分自身で縁や現実を完全にコントロール出来るようになるまで・・つまりクリアリングが進んで、ソウルシステムがエネルギーの偏りを示して来なくなるまで。そんな出会いと、必要に応じて起きる「摩擦」と、結果としての「化学反応」=変容、成長、はつづく。

「菩薩道」を生きていきたいと考えたのが二十歳前後。ニューエイジな言葉で言うと菩薩は進化した魂で、それでも地上の人間たちが最後の一人まで覚醒し宇宙を思い出すまで、延々と、転生したり化身したりを繰り返しながら、地球の進化プロジェクトに献身し続けるという。

実はかなり多くのソウルたちがこの「菩薩道」を生きているのかもしれない。様々な靴を履いて、立場や役割を交換しながら。

Love and Grace

Amari

「贖罪」— 二度目の『トッケビ』から。

韓国ドラマ『トッケビ(鬼怪)』のことを、いつか Face Book に書いたなあと探してみると、ちょうど一年前、去年の6月のことでした。少し前に、2サイクルめの同作を見終わって、前回とは違う部分にやはり意識が向いたり、改めて重ねて思うこともあり。そこに来て、現実で見聞きしたこと、アルガンザワークのプラクティショナーさんたちへの遠隔伝授セッションから垣間見たジェネシス物語の断片なども、同じテーマで歯車が合ったように感じたタイミングで、刻んでおこうと思います。

同ドラマは、韓国でヒットメーカーと呼ばれる人気脚本家であるキム・ウンスク氏(金銀淑・女性です)が手掛けて、以前の投稿で書いたように私の印象は「日本の古き良き少女漫画みたい」で、とても好印象でした。スタイリッシュな演出やキャスティングのセンス、役者さんたちの実力と魅力、音楽、ストーリーの流れもちょっとした会話や小さな枝葉的要素もよく出来ていて。

同氏の作品は他にもヒット作が多いそうで、最初は時代劇限定だった我が家も、『トッケビ』をキッカケに少しずつ現代ドラマも見るようになりました。てっきり、同じ作者だと思っていた『青い海の伝説』は、実はまた別の人気作家さんの作品だと知って驚きました。諸要素が、よく似ているので。それは韓国ドラマのパターンなのかな。

今挙げた二つの作品はどちらも、時代劇シーンもありつつ、輪廻転生した主人公たちがカルマの中であれこれと相互作用し始め、運命を乗り越え、受け入れる部分は受け入れ、飛び越えたり新たな自由意志を発揮したりしながら、最終的にはハッピーエンド。『青い海の〜』は人魚伝説、『トッケビ』は鬼伝説をベースにしている。『トッケビ』のほうがより、宗教的な奥深さや、スピリチュアルな重さが感じられる。そこが魅力でもある。

何を見ても、アルガンザでまとめてきた地球と人類の魂の歴史『ジェネシス』の世界観や原型に照らして、考察してしまうクセが付いていて・・そのあたりのお話を少し。

二度目の『トッケビ』。主人公であるトッケビとその花嫁の二人も、もちろん素晴らしい(役者さんも、描かれる人物像、設定も)のですが、今回はその脇で準主役の「死神」さんにやや注目気味で見ていました。このドラマでは、前世で自ら命を断った人々が「数百年の地獄」を体験した後に、人間界で死神の仕事をしている。いわば公務員のようなもので、神に仕えているという意識、神への畏怖心は安定している。黒いスーツ、黒い帽子。帽子を被ると人間からは見えなくなる。死にゆく事になっている人間のリストが、自分の受け持ち分だけ届く。記載された日時にその人間を迎えに行き、然るべき場所へと送り出す。

ポイントは、トッケビが前世のままの肉体と記憶で939年生きているのと対照的に、死神たちは地獄を経てもまだ罰として、生前の記憶を失っている。つまりなぜ自分が罪人なのかを知らされていない。任務を通じて、死を巡る人間たちの様々な態度や感情を目の当たりすることを続けて、命の大切さを知っていくと同時に、どこかで、自分の過去生に関わる人間と任務を通じて再会し、その時には関連する人間たちも神の差配で同時に生まれ変わっていたり、関わり合っていたりしている。結果、過去生の記憶を取り戻し、自らの罪を自分の体験を通して学び、昇華できれば、死神の任務を終えることが出来る。どうやらそのような仕組みのよう。

トッケビと何故か同居する事になった(もちろん神の采配で)死神は、前世でトッケビと深く関わっていたため、その時代に関係する魂たちがドラマ序盤で続々と出会い直す。トッケビも死神の顔を見ても関わっても、覚えていない・気づかない設定になっていて、ドラマの終盤まで二人の関係・カルマは明かされない。けれどお茶の間的にはけっこう早い時期に察知していましたが・・。

まあ、そうなんです。「罪人」なので、この死神さんが前世を思い出した時に、現世目の前で起きていることとも絡み合いながら、自分の罪の重さと、自分を愛する者たちを不幸にした罪に涙する様子は、初見よりも注目できたせいか今回とても響きました。前世の彼は、「自分の妻も、忠臣も、民も、誰も私を愛さなかった」と言って自らの命を断ってしまいますが、過去を知ったトッケビが彼にぶつけたのは、「お前は妻にも臣下にも民にも、愛されていた」そして、「お前は妻も国も、自分自身さえ守ることが出来なかった」という言葉。

こういった愛にまつわる倒錯は、「ジェネシス」世界観で言うと、闇に囚われたアンドロソウルや、ケルビムソウルにも見られる切ない特徴だなあと。実際には何も問題が起きていないにも拘らず、自分の中にある弱さと、何らかの闇の力(このドラマでは時代モノなのでいわゆる奸臣の黒い囁き)が繋がった時に、愛や光や希望がすべて見えなくなり、すべてを否定したくなり、自分を卑下して堕ちて行ってしまう。多くの人にちゃんと愛されていたのに。ただ自分が、その人々を信頼し続けることが出来ていれば、何も問題は起きなかったのに。というパターン。

けれどこういう弱さは、大なり小なり誰にでもあるだろうと。主人公たちはその点、光に強い魂なので不屈の信念、絶対的な愛を貫けるタイプ。韓国時代劇にもよくある心弱い疑心暗鬼で被害妄想、壊れてしまう王様たちは、見ていると本当に(ジェネシスで言う)アンドロソウルが、光を失って囚われている典型のように見えます。何を言っても光の言葉は耳に入らず、闇の言葉に引きずられどこまでも。『トッケビ』の描く死神務めのようなシステムがあれば確かに、時間は相当かかるけれど、ソウルはいつかクリアリングされることでしょう。

最近、見ていたアルガンザでの伝授セッションのシーンの中で、自ら堕ちていく天使たちの軍団の物語がありました。天使たちとして地球に来る前に別の星系で、ある集団と対峙し戦った過去があり、そちらの、闇に染まったソウルたちは地球に「落ちる」ことで、転生を通じて学ぶコースにあり、一方で、天使たちとして地球に来ている彼らは、何とそこでまた自己犠牲的に同じような力との戦いの中で、自らを敢えて捧げるということをしていた。。。その意味が、自分の思考では分からなくて、暫し考えてしまった私。

石たちが「ジェネシス」世界観を体現し鎮座している、アルガンザのワークルームでぼうっとしていたら、不意に「贖罪のために自ら身を堕とす」というフレーズが降って来ました。「天使たち」に一体、なぜ、贖罪が必要なのだろうか・・・・・そこは、地球でのシステムや制度を超えた部分なので、想像して実感することは出来ないけれど、過去生(宇宙時代)で正義の戦士だった者たちが地球に天使として生まれ直し、かつて戦った者たちと再会し、罰を与えるのではなく、再び自己犠牲を行って散ってしまう必要が、それでも有ったという。

少し日を置いて感じてみると、「天使たち」は自己犠牲を通じて、闇の力の作動から当時の地球を救った訳ですが、その時に味わった闇の不快感や、黒い力に意識をも蝕まれていく体験が魂に刻まれた結果、人間界の転生コースに入った後には、神や宇宙を信じられず、自分自身さえ信頼出来ず、物事は常に戦いを伴い、決して良い結果では終わらない・・というインプットが入ってしまったようです。その状態で、さあ、ハイ、人間としての転生スタート。・・・何という大変な道のりでしょう。神や正義を知っていて、そのために戦っていた彼らでも、「敵」「闇」「正義」「戦い」という二元性を超えていくためには、その刷り込みを昇華していくためには、かつて持っていた善なる記憶や意識さえ忘却して、人間界をスタートしている。

これは「天使」的な存在たちの一例であって、『ジェネシス』にはたくさんの、天使存在のグループが登場し、それぞれのカルマを持っています。

韓国はキリスト教徒が多いと聞きますが、キリスト教、聖書の世界観の「贖罪(あがない)」と「自己犠牲」が、このドラマにはちらほらとあり。同時に、仏教が伝える輪廻転生、カルマ、因果応報の法則をも描き、人間の肉体を持って登場する「神」には、どうやら男・女の二神が居るようで、キリスト教(一神教)の超越神というよりは、道教に影響を受けたような男女の、青と赤をまとった対の神々という設定があるのかな?と思って見ていました。人間を生み出し守る女神と、死や自由意志も含めて人間世界の秩序を整理する男神、というようなイメージ。

現実で目にする中でも、「敢えて堕ちる」人の姿を見ることがあります。私自身もヒーラーになる前、二十代半ばにそのような数年間がありました。その時の話を、かつてお世話になったヒーラーの先生に聞いて頂いた時、「自分から走って走って、崖に向かって落ちた、みたいな感じね」と。崖に落ちるべく疾走していた。まさにそのような時期でした。

贖罪というのは、そう簡単なものではないのだな。としみじみ、思います。何気なく生きて流れに乗っていても、さして「罪を犯した」自覚が無くても、きっと来世では今世のマイナス要素を拾わなくてはいけなくなる。もちろんその逆、プラスゆえの恩恵や幸運もありますが。

そう、崖に堕ちて、怪我をして、まずはその怪我を癒しつつ、落ちた分だけ戻らなくてはならないというマイナス要素から、歩みは始まる。人類の魂は、生まれ出されてからアトランティス人種を体験するまで、落ちて落ちて、落ち続けていた。周波数を下げつづけ、光だったのに闇と出会し、ついには闇に囚われ、自分の記憶を失った。ソウルとしては、自分が何者か分からない。「死神さん」と一緒なのです。

けれどどこかで、次元の裂け目が用意されていて、本来何者なのかを思い出す時が来る。その時こそ、悲しく苦しい涙に満ちた時間。けれどそれを、乗り越えなくてはならない。そこから先、真の「贖罪」が始まるために。

原罪意識のような話をしたいのではなく、本来、愛であったという自分の魂を、記憶喪失から抜け出し、解放してあげることが、水瓶座時代の癒しと進化のテーマなのです。

神智学では、人類の魂はアトランティスで二元性を極めて「堕ちきった」ところから、今は少しずつ、上がっても良いよ、上がらないと、そろそろね、という時代に入ったところであるという。けれどまだ過渡期の範疇だから、フタを開けると、ため込んできた恐れや不信や傷や不調和が騒ぎ出して、またフタを閉めてしまう。時代劇の「奸臣の囁き」のように、目に見えない精霊のようなモノ、モノノケ的な原型エネルギー、それが出入りする周囲の普通の人々の言葉などを通じて、前に進もうとしても再び、恐れや怠惰や不信を煽られてしまう。

そのうち、そういうモノたちは存在出来なくなる時代が来ると思うけれど、今はまだまだ。

長い長い贖罪の道。輪廻転生。

それは、人類が罪深いからではなく、自ら選んで一度堕ちて、すべて忘れて、けれど歩きつづけるうちに思い出し、取り戻し、落ちた分だけ上昇し、さらに上に抜けていくというコースを、歩いているから起きている。ソウルの選択、自由意志なのです。

だから騙されず、耳元のささやき、お腹の中でふと生じる不安に、惑わされず。ソウルを取り戻して行こう。

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが書いていました。恐れとは、神を信頼していないというある種の罪である、と。そのような「罪」の中で、ぐるぐると周りつづけ、転生しつづけるのを、本当は誰も望まない。

けれど、不安を煽る力が、人間世界のあちこちに存在し、常に人々はそれに心を向けてしまうし、社会構造がそもそも、それで出来ている。

『トッケビ』では、主人公キム・シンの妹、そしてトッケビの花嫁、この二人の女性たちはとても優秀で、メタフィジカル的に分析してもよく出来ている。キリスト教的自己犠牲をおこなう=天使、の姿を一人は演じていたし、もう一人は、過去生でも転生した現代でも真の愛が揺るぎなく、自分の感情に拘らず、神なる力の法則に乗っ取って決断、行動している、とてもシャンバラ、シリウスを感じさせる。つまり女神性と言っても良い。(←現世の外見やキャラの印象が全くそうではないトコロがまた面白い^^)

ヒットメーカーである作者さん、おそらく無意識ながら大いなるものからの受信、魂の高い層で筆を進めることが出来る方なのだろうと思った、二度目のトッケビ、でした。他のキム・ウンスク脚本作品を見ていても、男性主人公たちはセンシティブで気難しく、やや「病んでいる」キャラクターが多い一方で、女性陣は健康的でまっすぐ、頼もしく、愛にゆるぎないというパターンが多いかも。この『トッケビ』では、トッケビさん、および死神さんの、それぞれの「病み具合」が何とも愛らしく、良い味を出しています^^

Love and Grace,

Amari

「持たざる者たち」のララバイ

 

おはようございます。霧雨が新緑を潤す、静かな朝。2月に引っ越した家は「昭和レトロ」なのですが、私の部屋は「大正モダン」?です。サロンのお下がりのアンティーク家具たちゆえに。障子を少しだけ開いて仕事をしていますが、木々の緑が迫って来て、それだけでもハートが癒される感じがします。あえて緑を見ていただくために影になるよう撮ってみました。
最近思ったことの徒然メモとしてフェイスブックに書いていたのですが、余りに長くなってしまったので、こちらに載せることにします。その為、いつものこちらのブログの口調と違って「ですます」調ですが、直すのも何なのでそのままに。笑
批判目的ではないので、ジャンルは明かさずにおきますが、10年以上前に好きで買い物をしていたショップがありました。そのお店をキッカケにその道に目覚めた、という感じで。オーナーさんはメディアの取材も受けていたり、メルマガなどを綴っていたりして、買い物する立場としては何となくごく自然に、お名前やお顔も印象に入ってくるという感じ。
優しさや真面目な職人気質が伝わってくる、お人柄が見えてくるサイトやラインナップや文章、そして商品に、その世界全体に素直に引き寄せられていくような気持ちでした。・・が、1〜2年くらい経つと、似たようなお仕事を、さらに勢いをもって展開する同業のショップが私の目についてしまい、
一見すると華やかで、ヴァリエーションの広がりに魅了されるように、今度はそちらのお店を利用するようになっていました。それから数年が経ち、先にあげたお店を探したところ、活動をすべてクローズしていて・・勝手な、本当に勝手な推測なのですが、業界の中で成功された後の、裏の反面を体験されて、真面目で優しい気質の方の心が折れてしまった?体調を崩してしまった?のではと、頭をよぎった私でした。
あまりにも思い切った、幾つかの実店舗やウェブすべてのクローズ、だったので、ヒーラー思考でついついそんな風に考え、他の店に気を移した自分のようなファンも、多くいたのかもしれない・・ことに、胸を痛めました。
おそらく先駆者としてのその方の背中を見て、取れるところを取りつつも、その方の生真面目さ、人の良さから展開している丁寧な活動の中には広がりにくいような部分で消費者のニーズを捉え、そこを満たして、バババっと勢いよく事業展開した二つめのお店。気づけばメディアにもそちらのお店のほうが取り上げられるように、確かに途中からなっていたよう。
様々な個性が存在する中で、(私含め)消費者はそのように反応するので致し方ないこと・・・とは思っていましたが、気を移したほうのお店で買い物を数年してくる中で、「あれ?」と想うことがあり、それでも「まあいいか」と、利用を続けていました。それが、今年の4月にちょっとした体験をしたのです。
すべてをクローズしたお店のオーナーさんが、形を変えてご自身の活動を再開されていたことに偶然気づいたのは去年。まったくの直感で、気づけばかつてのお店の名前を検索してみたその日。数年の間に同じようにしてみても「閉店しました」という画面が出るだけだったのが、新たな情報発信のページが表示されて、本当に嬉しく思いました。
去年のその再開から、何度かお買い物させていただいて。うちの娘でも、「商品から伝わってくるまごころみたいなエネルギーが全然他とは違う」と言うくらいの、良いお仕事を相変わらず、なさっています。
一方で、数年間、そのジャンルはそこでしか買わないというくらいに利用していたもう一方のショップさんを4月に利用した際に、手違いがあり、顧客としては1万円弱損をしてしまう状況だったので、問合せをしました。何度か・・けれど、お返事が無かった。この時にふと、霧が醒めるような体験をしました。グラマーが晴れるというか。
確かに、同じような職人仕事をアピールしている。お持ちのバックの力をうまく活用し、スピーディに魅力的なものを生み出している。から、消費者の目には華やかに映る。けれど、そう言えば、「顔が見える」わけではなかった。ブログやメルマガはすべて、どなたが書いているかわからないし、10年くらい買い物をしているのにオーナーさんの名前が表に出ることもなく、ましてお人柄などは全くわからず。
ただ、メーカーとしてのこだわりや取り組みについてはかなり力を入れて発信されていた。ようやく気づいたのですが、ほとんどをネットで買い物をしてきた私が個人的に気に入るお店や会社では、家具屋さんでも、雑貨屋さんでも、洋服屋さんでも、ワイン屋さんでも・・代表の方が表に出て、商品に込めている思いを伝えている。いわゆる「顔が見える」ところばかりでした。
すでに大きく、組織化しているというだけなのかもしれないけれど、同じジャンルで、同じようなものを販売されていても、見えてくるのが「組織」「技術」しかなかった。その時、4月に買い物をしたアイテムも気には入っていましたが、試しに、前者のお店を覗いてみると、同じような素材・色のアイテムが出ていたので、儀式的な意味で、そちらも買うことにしました。
私はよくそういう「儀式」をするのです・・今書いてきたことが、まったくの勘違いで、前者のショップの閉店の理由も状況も違っていて、後者のお店がブラックかもしれない?!という疑惑(笑)が何かの行き違いだったかもしれないとしても、深いところでコンセプトなどに共鳴し応援していた顧客だったのが、見た目の華やかさ(仕事はしっかりしていた)で他に気移りしていたことは確か。それが消費者としては普通のことであったとしても、結果としてまっとうに自分の道を正しく行っていた人を追い落とすような流れに自分も加担していたかもしれない?という可能性に、お詫びも込めて。
損をしそうな件はもう諦めて、代わりに後者のお店とは、サヨナラすることに決めて。気づけば、もう十分足りているではないか・・ついなんと無く、その華やかな発信力に、コレクター気質の私は随分とコレクションしてしまったのだ、もう、終わりでいいということだ、とも。
そしてこんな個人的な現実体験を、ここで語るつもりは無かったのだけど、ずっと前に見ていた「チャングムの誓い」の中の一場面がどうしても、この一件について考えていると頭にちらつく最近なので、同じくショップオーナーとしての自分への教訓としても、ここに刻んでおこうと思いました。「チャングム」の一場面とともに・笑。
宮廷で王の食事をつくる料理担当女官になるべく、修行中のチャングムに、師匠の貧民出身の上級女官である「ハン尚宮(さんぐん)」様は、山に行って数種類の湧水をとって味を覚えろとか、100種類の薬草をとって来て研究しなさい、などの体を使った学びをさせて、素直に励むチャングムは味を体感しイマジンできる料理人として、才能を発揮していきます。
そのライバルの「クミョン」は、それに気づいていて、自分もそのようにして学びたいという気持ちを抱いていると、叔母である(一族代々、最高尚宮を務めてその座を狙っている)チェ尚宮により、諭される。「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。我らには代々に伝わる知恵がある」と、数代にわたって料理女官のトップを務めてきた一族秘伝の書物に、頼ろうとします。
ドラマとしては政治的にはチェ一族が暗躍して一時的に勝ってしまうのですが(最後には滅びます)、職人としては無論、チャングムが・・というか師匠であったハン尚宮様の教えが勝利するわけです。色々な神話や物語でもすべてそうですが、所有しているものの上にあぐらをかいて、そのテクノロジー的な勝利でしか物事を見れなくなっていたら、その時点で真実の世界ではすでに負けてしまうということ。
様々な物語の主人公たちが、最初は「持たざるもの」であり、這い上がるように体験するトライ&エラーの中で培った実力こそが、本物であり、紛れもない愛を宿した何かがその仕事や人生に実るのだということ。
チャングムを見た時からこのチェ尚宮の「あんな修行をするのは、『持たざるもの』たちだからだ。」のセリフにはとても反応していました。ハン尚宮様のほっそりとした優し気なたたずまいと貧しかった料理上手な少女がそこまで登りつめた、けれどいつまでも、悲しいくらいに優しすぎる姿に共感していた一人として。放送時はチャングム人気とともに、ハン尚宮ママニームのファンクラブも出来るほどだったそうです。
話が逸れましたが・・同時にこれは人類全体の行く末にも関わるテーマだ、と。歴史学では、物質的に豊かで戦争がない平和な時代がつづくと、人間は精神の上で腐敗していき、その文明は滅びると言われている。
個人の人生においても、同じことです。むしろいつでも自分自身を「持たざるもの」と心得ておくのがよろし、と想う私です。
Love and Grace,
Amari
 

 

『Arrival』『Big Eyes』から考える「孤独」と「共依存」

以前から憧れていた「男気のある」「東洋好きなイギリス人の」??書斎風の仕事部屋を目指している(笑)、移転後のアルガンザの八王子オフィス。理想に近づくにはまだまだ重厚感が足りないけれど、この冬は本棚を増やして、さらに書斎らしさを出したいところ。以前のオフィス「ブルーム」からのイギリス製のブックケース(写真)は、神智学系の書籍と、これまでのアルガンザの記録、歴代カレッジのテキストなどを収めて。

 

7月に、リリースされたDVDで映画『ARRIVAL』(邦題は『メッセージ』)を見て、すぐにここで記事を書こうかなと思ったまま、なんと5ヶ月。7年弱営んだ横浜のサロンを閉めるにあたってのキッカケの波が、ちょうど7月には来始めていて、淡々と、ではあったけれどそういえば、思想的に何かを噛みしめるゆとりの無い、この5ヶ月だったのかもしれない。現実世界とエネルギー次元とで、日々を創造したり、波乗りしたり、切り抜けたり、考えて行動して、終えて、また次・・という具合に。ただ、思えば「時間」をテーマにしているこの映画を鑑賞して後味が強く残った7月からの日々は、自分自身の「時間」のテーマに向かっていたのかもしれず、なにか連動するものも感じられる。

さて、この作品は「時間」と「意識」を主題にしている。アカデミー賞の作品賞・監督賞などを取っているそうなので、見た人も多いと思うが・・自分なりに紹介したいと思う。フランス系カナダ人のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品。巨大な卵型の岩の塊のような宇宙船が世界各地に飛来。その主である知的生命体を研究チームは「ヘプタポッド」(7本指)と名付けた。ヒトデのような巨大な触手に7本の指、壁のように立ちはだかる数メートルサイズ、つるんと頭だけがあるような姿をしたエイリアン。足や、首や、顔のパーツなどはなさそうで、ヒューマノイドと言えるのかどうか。。

世界12箇所のうち、アメリカは長閑なモンタナ州にUFOが来ていた。軍事基地さながらの現地のキャンプには、CIAや軍の男性たちが行き交う。そんな「現場」に呼び出されたのが、女性言語学者のルイーズ。エイミー・アダムズが演じている女性博士ルイーズは、学者らしく理性的でクールな大学教師という風情で登場する。ニュースを聞いて大学のキャンパスが若干パニックになっていても、ひとりでかなり落ち着いている。翌日も、普通に大学に出勤しているというマイペースな様子に、凡人とは違う突き抜けた知識人としての人間性を、映画の冒頭で示される。

結論に先に飛ぶと・・・宇宙人たちは地球人に対して、「武器を与えにやってきた」。その武器とは、「人類を助けるため」の武器であり、「未来を開く」もの。何かというと、このヘプタポッドたちの「言語」がその武器であり、与えられたものは彼らと同じように時間を直線的なものではないように考え、感じるという「高い意識」を得られるという。それが、宇宙人たちからの「メッセージ」であり、地球に到来した理由だった。

さらに奥にある背景として、彼らの言語を解読しコミュニケーションがとれるようになったルイーズにエイリアンの一人は「3000年後に人類の助けが必要」だから・・(人類を助けておくのだ)と、伝えて来た。ということは、彼らが与える「武器」=多次元的にものを見れる意識 がなければ、人類は分裂して争い、3000年後に存在していないという未来を、彼らの非直線的な時間感覚が捉えているから、という事なのだろう。

言語コミュニケーションがとれない宇宙人を相手に、ルイーズは言語学者として、彼らに自分たちの言葉を教えることから始める、という手法を取った。それが功を奏した訳だが、彼らから戻って来るのは巨大なヒトデのような触手の中心から吐き出されるスミ?が空間に繰り出す、筆で描いたような表意文字(ロゴグラム)で、言葉を話すことでのコミュニケーションは成立しない。

けれど、例えば日本人と中国人が漢字の筆談でコミュニケート出来るのと似ているが、彼らの表意文字がパーツごとに何を意味しているかを解析・解読し、各国が連携しながら研究を進めるうちに「会話」が成り立つようになっていく。

この、中国風?の書で描いたマルをモチーフにしたような独特のロゴグラムこそが、彼らの言語が直線的、つまり時系列に左から右へ、上から下へ読むのではないという、多次元意識の表れと言えるだろう。映画の中でも触れられていたが「サピア=ウオーフ仮説」という学説(「言語相対性仮説」)があり、人間の思考(脳)は話す言語によって形成される、という。・・これは体感として理解できる。英語圏に行って英語で話すことに慣れて来ると、明らかに日本に居る自分とは人格が変わるものだ。エイリアンの多次元的な言語を授けられれば、人類の意識が多次元性を搭載するようになる、ということ。

ルイーズは最前線で、彼らと交流していることから、文字だけではなく時にテレパシーや、エネルギーの波長のようなものも受け取っている。ゆえに映画が進行していくにつれて、過去のフラッシュバックを見るように、切れ切れに未来を見るようになっていく。その現場で同じく解読にあたっている数学者のイアンと結婚し娘をもうけ、しかし恐らく二人とも宇宙船内部で防護服を脱いで宇宙人に向かっていたせいだろう、生まれた娘は十代で(恐らく被曝による)癌で夭折しているという未来。そのプロセスで夫は娘の病気が原因で去っていくという未来も。

混乱しながらも、なんとか彼らと人類の間を取り継ごうとするが、「武器を与える」という地球に来た目的を誤解した地球人たちは、地球人同士を分裂させて争わせ、地球を征服しようとしていると判断。各国でUFOへの武力行使を宣言する動きへ。

具体的な方法は割愛するけれど、ルイーズが、自らに起こり始めていたその「未来を覗く」という方法で、他国の武力行使を止め、世界をひとつにすることに成功する。

一年半後の近い未来に、『ユニバーサル(宇宙的)言語』という研究書を出版し、解読したヘプタポッドのロゴグラムについての研究を発表するらしい。本の冒頭には、その時すでに生まれているのか、更に未来に生まれる事がわかっているからか、「ハンナ(娘の名前)に捧ぐ」と書かれている。人類の意識を拓くために、言語を与えに来たエイリアンたちは、世界12箇所は何か理由があってチョイスしたに違いないが、人類の中で一人でも、彼らの意図を誤解せずに受け止め、更にそれを読み解き、人類に伝える者を探していたのだろうと思う。

映画の途中では、軍人たちやマスコミ、世間が騒ぎ出し、恐れをなした若い軍人が単独でUFOに攻撃したり、中国の首席は彼らを征服者とみなしいち早く軍事行動に出ようとする。男性研究者でも現場での仕事に耐えきれず倒れたり、世界中の人間たちが「恐れ」からの思い込み・誤解で高次からの彼らのメッセージを無駄にしようとする中で、なぜ、ルイーズは彼らに対応できたのか。なぜ、ルイーズなら大丈夫だったのだろう・・という点を、考えながら見ていた。

女性だったから・・とも言えるかもしれない。ただ、普通の女性ではもちろんダメだ。並の男性たちよりも精神が強く落ち着いていて、理性的で、知性が深く・・・それでいて、女性的な感性と母性を使い、未知の宇宙人であっても、言語学者として未開の民族に対峙してきた時と同じように、相手に近づこうとハートで動いた。宇宙船の中で防護服を脱ぐという行為も、駆られるようにやっていて、後のこと、自らの身の安全のことなど考えていない。徹底した研究者・専門家意識と、男性性の美点、女性性の美点を兼ね備えた人であると言える。

この映画の最後の10分は、理由も分からず嗚咽するほど泣き通して見ていた私だったが、その理由についてもしばらく考えさせられた。

ルイーズの手腕で、中国軍のUFOへの攻撃をなんとか止める事が出来たが、UFOも地球から一斉に離陸し始め、地上でも、現場の基地を撤収するため全員が引き揚げるという流れの中で、ルイーズはますます鮮明に、これから生まれる愛くるしい娘の姿、成長していく中でのたくさんの思い出、そして別れ・・・の場面を見ている。

そこに、娘の父親となるイアンが横から言葉をかける。

「(学者として)ずっと宇宙に憧れて来たけど、ここでの一番の出会いは彼らじゃない。君だよ。」「子供を作ろうか。」

つまりプロポーズする訳だけど、そこでまたルイーズの頭の中では、娘ハンナの生い立ちが早まわしで流れる。たくさんの、喜びに溢れた親子・家族の場面だった。そこでルイーズは答える。「Yes」

映画の冒頭も、最後も、ルイーズの、娘ハンナにあてた言葉で始まり、終わる。この映画自体が、時間軸を超えたような作りにもなっている。最後まで見るとやっと、冒頭でのナレーションの意味が理解できる。

なぜ、初めてこの映画を見た時に、あれほど泣けたのだろう?

自己分析して思ったのは、ルイーズはやはり並みの人ではなく、それゆえに体験した彼らとのコミュニケーションを通じて、さらに一人、神のような視点を持つという孤独に立った。知性と母性で、娘に語りかける言葉は人を超えた領域からの呟きのようにも聞こえる。夫イアンは、恐らく未来のどこかで、娘が病気になるという話をルイーズから聞かされて、耐えきれずに離婚をする。・・ルイーズは、「基地」ですでに全てを見ていながら、イアンと結婚し娘をもうけ、成長を見つめ、そして見送るという覚悟を決めて、プロポーズを受けている。

そんな、ルイーズの非凡な心の強さが、私は哀しかったのだろうと、気づいた。

どこまで行っても孤独。

そして時に、非難される。夫イアンはきっと、彼女の強さに反発を覚えたのだろう。こんな悲しい事、自分は耐えられない。そう思って、ルイーズと娘との家庭から逃げたのだろうし、ルイーズを「こうと分かっていながら子供を作るなんて」と責めたのだろうと想像される。その辺りは映画では描かれないが、きっとそうなのだろう。

揺らぐこの世界では、常に感情の誘惑がやってくる。最初にUFOが来たとニュースで聞いてパニックになる人、学者として基地に向かいながらも仕事できずに倒れていく人、宇宙人を前にして怯んでしまう軍人、心配する妻のために基地から逃げ出したい人、そして征服されるのを恐れて攻撃しようと決める国家元首。・・そんな人々の「恐れる姿」が横行する中、ルイーズは淡々と仕事を続ける。この任務においてはルイーズのよき相棒、理解者であったイアンも、彼女が成し遂げた更なる女性としての強さ(死すべき命だと知りながら子供を産んだこと)には、同調できずに脱落していった。

そして「残る」のは、いつも、どこまでも強いルイーズ一人だった。夭折する娘を一人、病院で見送る彼女。知っていたとは言え、哀しくない訳ではない。それを一人で受け止めていく。感情が無いわけではない。ただ、そこに落ちないでい続けることが出来る人の強さは、時に、多くの感情に揺らぐ人々の目には、冷たい人や理解できない人として映るものだ。しかし真実はそうではない。誰よりも愛、本物の愛が深いからこそ、感情に動かされない善なる選択をしていく。流されずに壁を乗り越えたというのに、むしろ非難され誤解される。・・・そんな事も承知、そこで傷つくこともない高い知性と理性、母性。

そんな彼女の姿に、淡々とした映画の語りに、泣けたのだと分かった。非凡な心の強さ、善の強さを持つ人々の人生に、よく現れるモチーフであるし、英雄的な人々の意識であり、時にそれは人間社会において犠牲となり得る。それでもこういう人々は、何度生まれ変わっても同じようにするのだということも感じる。それは菩薩道であり、完全に感情的な幻想世界を超えている精神だと言える。

もうひとつ・・映画の後味として考えたことは、

そんなルイーズだったからこそ、彼らの「言語」を受け取り、変容が起こるもそれを自らの中に統合できたのであって、もし、そんな風に未来が切れ切れに見えるという変化が、他の人々に起きたとしても、ただ混乱してむしろ、壊れていくのではないだろうか。彼女が出版した本が、それゆえに最後に少し気になった。。特定の周波数を持つ人じゃないと、変化変容が起きない、という仕組みがあの言語にコード化されているほうが、安全だろうな、と。

映像も非常に美しいので、予告編も宜しければぜひ見てみて・・但し、やはりよくあるように、予告編の作り方がちょっと・・本来の作品の持つ味やテーマから外れている気はする。邦題の「メッセージ」も同じく残念な感じがする。

今回もエイミー・アダムスの演技力に深く引き込まれた訳だけれど、我が家には彼女の主演作・助演作がいくつかある。

左から、彼女の出世作と言えるディズニーの半実写半アニメ作品『魔法にかけられて』、実話の映画化・メリル・ストリープと見事に演じ合った『ジュリー&ジュリア』、同じくメリル・ストリープ他演技派4名の密室劇の一役を担った『ダウト』。

このうち、『魔法にかけられて』と『ジュリー&ジュリア』は過去にもブログで取り上げたことがある。『ダウト』はアルガンザのマスタークラス「星巫女プロ専科」の映画分析で題材にしたことも。他にも話題作に続々と出演しているエイミー。最初に彼女を見た『魔法にかけられて』のプリンセス役は本当に素敵だった・・まさにディズニー・プリンセス、の風情を楽しく可愛く演じていて。。ディズニーの中では最高レベルの映画ではないかと個人的には評価。二次元と三次元を足して五次元、みたいな奥深さも感じる。意識の持ちようでどんな世界でもファンタジー・・という、ディズニーの精神が教科書のように分かりやすい。

エイミーの演じる女性は心の清らかさ、純粋さが際立つものが多い。そこに『Arrival』では徹底した知性・理性が加わっている感じ。制作側にとってルイーズ役の第一候補はダメ元でエイミーだったとか。本人は育児に専念しようと思っていたところにオファーが来て、脚本を読んで了解したと語っている。これまで見た彼女の主演作品の中で一番、英雄的なキャラクターと思う。『ジュリー&ジュリア』はメリル・ストリープのいつもながらの存在感、演技力も素晴らしく、おすすめの作品だ。

これを機に・・と、さらにもうひとつ彼女の主演映画を見てみた先日。

『ビッグアイズ』。60年代アメリカでブームになったという「ビッグアイズ」と呼ばれた絵画。その作者であるウオルター・キーンは人気を博す、が、実はその絵を描いていたのは妻だったという実話に基づく映画。営業力と口のうまさで絵を売り込み出世していく夫は享楽的な生活をし、妻は我が子にすら秘密で部屋に閉じこもり絵を描き続ける。そんないびつな生活が10年続くうちに、すっかり「もうかって」豪邸に住むほどになっていた。

内気で夫の言いなりに、日陰の存在として描きつづける妻マーガレット。連れ子だった娘とともにハワイへ逃亡し、そこで(きっと実話なのでしょう)「エホバの証人」の信仰者たちに出会い、夫に奪われていた自分の力と尊厳を取り戻していく。カルト教団に洗脳された人々が、キリスト教の聖職者の方のサポートを受けてリハビリしていくという話がよくあるが、それと似ているなと思った。実際、夫による人権侵害を許していたのだから、洗脳と同じような仕組みが起きていたのだろう。

ネットで見たレビューの中に、「監督はマーガレットよりも、人としてどうしようもないダメな夫であるウオルターに愛の眼差しを持っているのでは」と言っている人もいたが、私はそうは感じなかった。が、ティム・バートン監督なので、真意は読みにくいが。。。

きっとこういう話って、女性の権利が弱かった時代にはたくさんあっただろう。これからは男女関係なくなるかもしれないが。おかしいな、と相手のやり方に本能的に不信感を抱くことがあっても、特に夫婦であると、生理学的にも女性にとっては、男性のアストラルエネルギーには負かされてしまうことも多い。出力の強さから言って、アストラル体の力はやはり、女性よりは男性、そして感情的な人ほど強いものだ。社会的に女性が弱い立場であればなおさらに。

とは言え、「Arrival」のルイーズのように、アストラルよりもメンタルフォースで生きているような女性ならば、搾取されるようなことにはならない訳だけれど、この大きな瞳のこどもたちは、マーガレット自身のインナーチャイルドなのだろうなと思われるから、恐らく、「強い力によって抑圧される自分」という型を持っていたための、共依存的な夫婦関係だったのだろうと思う。

最後、連れ子である娘が年頃になり、大人の女性二人として手をとりあい、夫から逃げてハワイへ。そして法廷で勝利するという流れに、マーガレットに感情移入する人々はホっとするし、爽やかに見終えることが出来るだろう。他者から見れば、なぜ10年も夫のいいなりになっていたのか?と思ってしまうけれど、人間同士の関係はほとんど全てが共依存であり、自分の中の弱さの投影に、強者としてそれを支配する人を必要としたりする。自分なんて価値がないと思い込んでしまうと、何か少しでも自分をとりたててくれる人の存在を、(実は搾取されているにも拘らず)ありがたく思ってしまったり・・・人間模様は様々だ。

誰もがルイーズのように自己完結していない。

が、自己完結するということは、共依存の投影が要らないのだから、神のような永遠の孤独の中に座することになる。

しかし、孤独 aloneness と寂しさ lonlyness は違う。aloneness は独尊に通じる。他者によって自分を満たす必要が無いという状態からしか、ワンネスや覚醒やニルヴァーナは生まれない。そこに近道はなく、創造主のような孤独の疑似体験に身を浸すからこそ、多次元意識が拓けていく。そうなると、世界の主としてたった一人で現実界を創造している自分の中に、すでに全ての生命や現象があり、その中の全てに同じ意識が宿ることが、体験として理解される。「孤独」の意味もなくなる。

最後に、

『Arrival』に関してもうひとつだけ。

未来を見る・・と言っても、固定された未来は無いと個人的には考える。ゆえに、未来の様々な可能性が見える、という解釈で映画を見ていればいいのかな。様々な可能性の未来が生まれては消えていくのは、今この場で、何を選択するかで未来が変わり続けるからだ。そうなると、やはり、未来から現在を見るのではなく、現在から未来を作る、という感覚のほうが自分の中では自然だ。もしかするとそこは、監督ないし原作者と、思想的に違っているのかもしれないと感じた。

決まっている未来は無い。

だからこそ、常に、出会いたい未来に向けて「今」の生き様、「今」のエネルギーを作っていよう・・というほうが、自分としてはより重要な「メッセージ」だと考える。

Love and Grace,

良いお年を。